国 府 所 在 地 一 覧 表 の 作 成 に つ い て 木 下
良 じ
A E F
国府は律令国家体制
K
ないては行政はもとより軍事・交通・経 め
済・宗教・文化左ど︑
あらゆる面での地方中心地としての役割りを はたしていたから︑律令国家の地方制度を理解するために︑
また各
地方になげる地域構造を解明するためにも︑それぞれの国府の所在 位置を知るととが︑まず第一に必要とされる︒
そ ζ で︑古くは辻善之助が国府と国分寺との関係位置を考察(よす
一覧表立を作製し︑また坂 るために︑自ら﹁国府及国今寺の位置﹂
本太郎が国府と駅肱
3 ) h u
よぴ駅家
( 4 ) との関係について論じ︑あるい は深谷正秋が条里遺構の介布
( 5 ) を論ずるにあたって︑国府・国分寺 の付近に条里施行が見られることを指摘し︑さらに浅香幸雄が各圏
内
k ける国府の位置を検討しているす)が︑これらの場合も既成︒ b 国府所在地一覧表に従って論をすすめている︒
きて︑諸国国府の所在は︑
江戸時代後期頃から各地になける地誌 編纂陀も関係して検討がすすめられるようになったが︑
とれらの成
果は﹃日本国郡沿革考﹄
見るととができよう︒
﹃大日本史・国郡士こなどに集約されると 明治の中頃から盛んになった歴史地理学は︑
明治三二年の日本歴
史地理学会の創立となり︑
また吉田東伍﹁大日本地名辞書﹄の刊行
をみちびいたが︑
これらの研究活動によって園毎陀国府所在地のよ り詳細な検討がすすめられるよう陀なった︒
昭和八年陀刊行された三坂圭治﹁周防国府の研究﹄は︑方八町よ りなる国府域の四至︑府域内
k b ける国府の位置︑駅路の通過状況︑
水運との関係︑国
A 江主寸・総社との関係位置などを明らかにしたとと
で︑菌府研究の一画期と左り︑特に地理学の側からの国府研究陀大
き左刺戟をあたえた︒すなわち︑
既に条里研究陀よって律令国家体 制︒究明陀貢献してきた実績をもっ地理学では︑
条里研究と同様の 方法によって国府研究が進められること
K なり
周防を参考にして 諸国府の立地と形態が論じられるようになった︒
ここにいたって︑
従来の漠然とした国府所在地比定から︑確然とした府域比定へとす すみ︑国府の中心機関であ
J
る国庁の位置までが考定できるようにな ( 7 ) ( 8 ) っ た も の で
︑ 米 倉 二 郎
・ 藤 岡 謙 二 郎 な ど に よ る 一 連 の 研 究 が 行
わ れ 売 ︒
藤岡は伊勢に司会いて︑
( 9 ) ま た 鏡 山 猛 は 筑 後 に な い て
︑
府跡の一部発掘を試みたが︑
それぞれ国 国庁の建物配置の基本裂を明確陀した
( 辺 昭和三八
t 四 O
年 の 近 江 田 府 の 発 掘 調 査 は き わ め て 重 要 在意義がるる︒都城の朝堂院や大宰府庁を小規模簡単陀したような と
と で
︑
陸奥国府でもある多賀城のそれともよ︿類
( 込 似し︑多賀城が本質的
K は 行 政 官 庁 で あ ろ う と す る 見 解 を 醸 成 し
︑ 出雲国府の発掘調査
にも近江田庁を基範として適用する念ど.大 2 )
その国庁の建物配置は
きな影響を示している︒
それまではなな疑問が抱かれていた︑
ま た
︑ 国庁に b
ける瓦の使用も確定し︑以来瓦の出土を考虚しながら国府
の調査が進められるよう陀なったととも重視される︒
との他︑問妨
3
・ 上
野 3
・ 肥
後 ・伊豆孟・和泉 3 3
・ 護
摩 3
・ 佐
(
@ ( 忽 ( 忽 ( 忽 ( 匁 ) (
﹂ ( 答 ( 答 渡
・ 常 陸
・ 下 野
・ 美 作
・ 国 犠
・ 伯 脅
・ 河 内
・ 肥 前 国府跡︒発掘調査が実施され︑その一部は継続中であるが︑
な ど
で ︑
とれらの調査によって律令盛行期の国府跡が明確に一なればなるほど︑
律令衰退潮乃至崩壊期になける国府の状態が問題となってくる︒白
日 ( 忽 本 史 学 の 側 か ら は 吉 村 茂 樹 の 国 号 希 度 の 崩 壊 に つ い て の 研 究 を 始 国府機能の変遷が論じられているが︑とれに対応する国
め と し て ︑
府の形態的な変化ゃ︑所在地移転についてはまだ十分に明らかには
されていないので︑
これらが今後の主要な課題となってくるであろ ぅ︒例えば発掘調査された近江・肥後・下野の国庁は地震・洪水な
ど K
よって潰滅した後︑他地陀移されたことが明らかとなっている からである︒筆者自身は研究の主点をこの函
k いて苧り︑若干 b
θ
論を宰展開してきた︒
各国府の移転鶏係が明らかにされなければ︑奈良時代
K かける国
府と国分寺︑ 一 O
世紀初頭になける﹃延喜式﹄駅路と国府との関係 など︑時期を限定しての論考は無意味陀なる
ζ
とになるが︑従来の 国府所在地一覧表はこの点にかいてはたして十分であろうか︒
既 往 の 国 府 所 在 地 覧 表 全六六国二島の国府所在地を一覧表に示したものはとれまで陀数
多く作製され︑
表示し念いまでも全国府の所在を論じた研究書もあ る が ことではたまたま筆者が入手した左記の諸表について惹干の
論評を加えてみたい︒ 辻善之助﹁菌府及国分寺の位置﹂
一 一
一 年
︒ 事
﹃ 歴
史 地
理 ﹂
明治
A 本表は﹁国府及国分寺の位置﹂を示す︑六
OO
万分の一地図と表 裏をなすもので︑とれ
K 基ずいて﹁圏
A M 土寸の位置について﹂と題す
る論考がなされている︒辻は本表︒末尾に︑ ﹁以上国府及圏分二寺
の位置場日拠る所あり考証する所ありと残も︑ 一々しるすに遣あらず︑
凡て之を絡す︑ 国府爵 A A
二寺共にそ︒位置疑はしきもの及来詳なる
妥一教を苔むな︿ もの甚多し︑大方の諸賢殊陀はその各国博雅の士︑
ば︑えだに余輩︒幸のみにるらざるなり﹂と結んでいるが
﹁国八万
土 寸 の 位 置 に つ い て ﹂
︒論文では︑国分寺と国府との世置関係は深く
究むべき︑必要があるとして︑
ひろく各国々志をあさって
ζ
れらの泊
‑ 3 ‑ 国分寺との位置関係を中心に考える 表であるから︑奈良時代にがける国府所在地が問題陀されるのであ
るが︑山崎明・摂津については移転関係を示して h
る ︒
設を求めたことを記している︒
国府と国分荷寺との調係位置陀ついては︑ 国府を中央に僧土寸と尼
寺とは互いに反対方向に置かれたものであろうとする︑
江戸時代以 来の考え托従っているのは︑事実としては現在では全く認められな
い乙とであるが︑ 当時は僧寺はともかくとして︑
国府と尼寺の具体
的な所在が不明の・まま︑令の規定などから想像されたものであろう︒
国府の所在地で︑
現在の比定地と特に異なるところは︑遠江・上 総・若狭・能登・丹後・筑後・肥後など︑多くは府中と称する地で 国府と府中とを同義語と考えていたことにもとずく結果であるが︑
府中を中世的政治都市として規定する考え方重の深まった現在では︑
とれらを後世にたける国府の移転地として検討する余地を一示すもの
で︑爾余の表にかけるように一概
K 捨て去るべきでは左いであろう︒
た だ
し ︑
出羽の比定地は現在ではその根拠は認め難く︑出雲につい ても別地 K
古代から中世にかけての遺構が検出されたので論外であ る 。
B 八代国治・早川純三郎・井野辺茂雄編﹁国史大辞典﹄吉川弘
文館﹁国府﹂項︑ 明治四一年︒
本表は A
表とは伊賀・上総・飛弾・丹波・淡路・肥後の諸国
K つ
いて国府所在比定地を異にしているが︑基本的には
A
衰を基準にし て ︑
ζ
れを敷街し︑若干の新見解を加えたものと見られる︒すなわ ち︑摂津・遠江・駿河・常盤・播磨・対馬については﹁府中﹂など の国府関係旧称地名を︑また常陸・出羽については郡名が変遷して いるため旧郡名を︑それぞれ括弧で︿くって付記する左どの配慮を
し︑山城・陸奥では国府の移転関係を追加している︒ ﹃ 園 史 大 辞 典 ﹄
は︑大正四年 K
増訂︑大正一四年陀再度の大増訂をほどとし︑永︿
利用されたので︑本表もあまねく知られたととと思われる︒
角田文偏向﹁国分寺の設置﹂所収﹁国府・国分寺位置表﹂
分寺の研究﹄上︑考古学研究会︑昭和二二年︒
A 本表は C
表と同様に︑国府と国分両寺との関係位置を検討する立 場から︑奈良時代と平安時代の国府所在地を区分できるものは明確
陀 区
分 し
︑
ζ
れらの位置もできるだけ詳細に記している︒また︑多
︿の研究者逮のそれぞれ現地陀則しての研究・調査による新知見を 採用しているため陀︑きわめて斬新念ものと念っている︒特に山城 '相撲・信濃・上野・下野・出羽・能登・紀伊・筑前・筑後・肥後 向・壱岐左ど ‑ a
K ついては全く新らしい見解を一ホし︑ また従来特 にとりあげられる ζ
とのなかった多織の国府(島府)と島分寺の所 在を検討しているととも注目される︒これらの中でも︑下野・出羽
︒壱岐については︑現在の時点から見ても
とれに従わ念 h 後続の
諸表より優れた見解を一示すものとして高く評価したい︒
ただ︑本書が五 OO 部限定出版の高価本であったためか︑ ζ の表 もあまり知られないまま︑後々まで旧態然とした表が一般に使用さ
れていたととはまこと陀残念であった︒
D 上回三平﹁国府﹂ ﹃国史辞典﹄富山房︑昭和一八年︒
本表は C 表より後に作製されたが︑ C
表︒成果はまったく利用さ
れ ず
︑ その内容はほぼ
B 表に従がって︑遠江・淡路・日向を異にし︑
出羽の移転関係を付加したものの
B
表にみられた山城・摂津・陸
奥などの国府移転を記すことなく︑
また菌府所在も大部分は市町村
名を記すにすぎ念い︒ ﹃延喜式﹄の﹁行程・大小・遠近・管郡数﹂︑
﹃和名抄﹄の﹁国府所在郡名﹂を付記しているが︑特に国府所在を
ー 『
国
これらと対応させるものでは左い︒
既に大正初年以来︑相撲宰・信濃寧・丹後宰などの国府移転陀つ
い て
︑ かなりの論議が行左われ︑史料的にも山城︒摂津・出羽・但
馬陀ついては国府移転の事実が知られていたにもかかわらず︑
と れ
らの国府移転に何程の一言及も左いととはものたり念い︒
B
地方廻研究協議会編﹃地方史研究必携﹄
昭和二七年︒ ﹁地方行政制度(園
郡呈及国街﹀﹂岩波書底︑
F
大塚史学会編﹃郷土史辞典﹄ ﹁国府一覧﹂朝倉書底︑昭和三
︒ 年 ︒
G
門脇禎二﹁国府﹂ 昭和三一年︒ ﹃日本歴史大辞典﹄河出書房︑
以上の三麦はいずれもその内容はまったく
D
表陀従ってがり︑格 別の新味は認められないが︑それぞれ普及して広く利用された︒
日 吉 川 弘 文 館 編 集 部
﹃ 歴 史 手 帳
﹄
﹁ 国 府
・ 国 分 寺
・ 一 宮
・ 総 社 一覧﹂士口川弘文館︑第七 t 一八版︑昭和三六 t
四 七
年 ︒
﹃歴史手帳﹄は昭和三 O
年末に第一版二九五六年版)を発行し︑
本表はその第一八版空で付録として収められたものでるるが︑
と の
間にはかなりの改訂のあとがうかがわれる︒
本表の特色は︑
総社・一宮の社名を併記して︑国
国今寺所在地︑
府ととれら社寺との関係を見る
ζ
とができるようにしている︒国府
移転については︑ 山城・相摸・信濃・出羽陀ついてとりあげるが︑
恒摂津・但馬・肥後についてはふれていない︒
国府所在地の表記陀つ 小字地名古でを記すものと市町村名にとどまるものなどの 精粗がある︒当初の作裂に当つては︑各都府県教育委員会左どの教 い
て も
︑
一 不 を 得 た と の こ と で ︑
とれら各地の当事者の国府跡に対する認識の
差から生じたものであろうか︒
﹃歴史手帳﹄は日本史研究者間には広く利用されるので︑利用者 からの新事実の指摘などもうけて
をた町村合併による所在地表記 の変更なども丹念に改訂され︑特に甲斐・近江・下野・丹波・出雲
‑長門などは新らしい調査・研究の結果がとりいれられてなり︑良 心的左編集と言うことができる︒それだけに一九七四年度版以降陀
その収録をとりやめているのは残念なととである︒
本表の欠点は所在地名の改訂に際して︑ 現地を知ら左いまま︑
村合併の結果を机上で処理したために︑必らずしも適切念表記とは 左っていないものがあることである︒例えば
土佐の国府と国分寺
はいずれもその所在地を南国市後免町としているが︑実際には国府 は同市比江
国外寺は同市国八?にあって︑後免ではない︒
そらく h s
国府・国分寺のある旧国分村が後免町に合併したので︑後免町比江
さら陀後免町を中心に南国市が成立してから
‑後免町国分とされ︑
は南国市後免町として︑以下の地名を省略した結果であろう︒他に
も改訂陀際して︑
旧版には記されていた小字地名左どの小地名を削 除したため陀︑所在地が不明確陀なったものがある︒
I
坂本太郎監修﹃臼本史小辞典﹄ ﹁国府・圏分(尼)寺一覧﹂
山川出版社︑ 昭和三二年︒
本表はその﹁備考﹂陀よれば︑ C ・
D‑H
などの諸表を参考陀し て︑適宜取捨し︑新知見を加味して作製したとされて卦り︑
C
表 の
成果をとりいれた数少ない表の一である︒国府の所在地は多くは
C
5 一 表に従がい︑移転については
H 表と同様である︒
J 藤岡謙二郎編﹁日本歴史地理ハンドプァク﹄
昭和田一年︒ ﹁国府・国分寺
の所在地﹂大明堂︑
本表は地理学の側から国府研究を大きく進展させた藤岡の編書陀
収録されているものであるが︑
その国府所在地比定はほぼ
H 表 K 従
っ て
か り
︑ あ空り独自性は認められない︒部分的には︑大和・摂津
‑備後・安芸について国府の移転関係が追加され︑丹波については
( 滋 筆 者 が 昭 和 三 九 年 陀 発 表 し た 新 説 を 採 用 す る 左 ど の 変 化 が み ら れ 町
一方では長門について既に昭和三一年に藤岡を代表として実
施された﹁薗府の歴史地理学的研究﹂(与に長門を分担した小野忠熊
る が の見解と異左り︑立た三河については既に発表されている藤岡自身
宗 主 と 異 な る こ と な ど は
︑ 藤 岡 の 編 書 と し て は 理 解 し 告
︒
結
局︑本表には藤間を中心とする国府研究の成果は十分にはもりこま れてい左い︒従って︑後の藤岡の著書﹃国府﹄章とはか左りの差異
が認められる︒
木下良﹁国府所在比定地一覧﹂福山敏男﹁地方の官街﹂付載︑
﹃日本の考古学﹄買歴史時代・下)河出書一汚一︑昭和四二年︒
本表は福山 K
θ 依頼によって︑筆者が作製したもので
﹃ 和
名 抄
﹄
﹃伊呂波字類抄﹄
﹃拾芥抄﹄その他の文献に示される冒府所在との
対応を中心に.
諸比定地をできるだけ多く列挙した︒従って︑
国府
の移転関係も一八国
K ついてとりあげている c
その後の研究によっ て
﹃拾芥抄﹄の国府所在は河内一国を除いて︑他は﹁和名抄﹄
伊呂波字類抄﹄を踏襲した陀すぎないことが判明し︑
また各地の謂
査の進展によって︑ 所在比定地を改める必要がある︒
L
斎藤忠﹁国府一覧﹂
B s
芳 日
﹃総合一国史研究委覧﹂歴史図書社
四 五
年 ︒
本麦は考古学の側から国府跡の謂査・研究に携わった斎藤の作製
になるだけに︑ 和泉・常瞳・近江・上野・陸奥・佐渡・出場一一周防
‑護摩については発掘調査の成果もとり入れてかり︑所在地も詳細 でるる︒本麦も﹃延喜式﹄の
﹁ 犬 小 ・ 管 部 数 ﹂ ﹃和名抄﹄の
在郡名﹂を記しているが︑
比定地との対応関係は明確ではない︒本 車伐の特色は参考となる国府閣係の現存地名を付記していることであ
る が
︑
その時代認定が明確ではなく︑
また備考として移転説のるる
ことをあげる直もあるが
相撲・信濃・出羽・肥後以外陀ついては
移転調係は明確にしていない︒しかし︑本表は藤岡の著書﹁圏内吋﹂
の研究成果なども参考にして︑作製者自身の実地調査による知見が
豊富陀もられてかり︑
独自性のあるきわめて価値の高い一表と左つ
て い
る ︒
M 鈴木雅史﹁国府・国分寺・彊分尼寺麦﹂遠藤一冗男監修﹃日本 古代史事典﹄朝倉書庖
昭和四九年︒
本表は現在陀ないては最も新しく作られた表であるが
これも作 制百者に特別の万針はなく︑従来の諸表を適宜取捨して作製したもの でるるから格別の新味を克ることはできない︒
H
表を基本にしてい
る が
︑
国府と国八万両土守とを対比する麦でるるだけに︑
︒表の成果を
部分的にとり入れている︒
自 『