永 観 堂 ホ ー ム ペ ー ジ
みかえり法話集 第1部
浄 土 宗 西 山 禅 林 寺 派 総 本 山 永 観 堂 禅 林 寺 目 次 永 観 堂 禅 林 寺 ご 本 尊 み か え り 阿 弥 陀 如 来 さ ま ... 5 * * * み か え り 法 話 集 * * * ... 5 佛 さ ま と は 2003/07 ... 5 い の ち の 尊 厳 2003/10... 5 人 の 心 に 宿 る 佛 さ ま の 慈 愛 2003/11 ... 6 尽 き ぬ 煩 悩 2003/12 ... 6 お 念 佛 の 生 活 2004/01... 6 「 自 浄 其 意 」( じ じ ょ う ご い )2004/02 ... 7 心 を 浄 め る ( 自 浄 其 意 そ の 2 )2004/03 ... 7 触 光 柔 軟 ( そ っ こ う に ゅ う な ん )2004/04 ... 8 法 爾 道 理 ( ほ う に ど う り )2004/05 ... 9 不 能 遠 観 ( ふ の う お ん か ん )2004/06 ... 9 悲 智 雙 行 ( ひ ち そ う ぎ ょ う )2004/08 ... 10 三 学 と お 念 佛 2004/09 ... 11 無 量 寿 佛 の 名 を た も て 2004/10 ... 12 阿 弥 陀 さ ま の こ と を ご 存 じ で し ょ う か ( そ の 一 ) 2004/11 ... 12 阿 弥 陀 さ ま の こ と を ご 存 じ で し ょ う か ( そ の 二 ) 2004/12... 13 阿 弥 陀 さ ま の こ と を ご 存 じ で し ょ う か ( そ の 三 ) 2005/01... 14 阿 弥 陀 さ ま の こ と を ご 存 じ で し ょ う か ( そ の 四 ) 2005/02... 14 往 生 に つ い て ( そ の 1 )2005/03 ... 15 往 生 に つ い て ( そ の 2 )2005/04 ... 16 往 生 に つ い て ( そ の 3 )2005/05 ... 17往 生 に つ い て ( そ の 4 )2005/06 ... 18 往 生 に つ い て ( そ の 5 )2005/07 ... 19 あ ら た め て お 念 佛 と は 2005/08 ... 20 佛 教 に お け る 罪 ・ 悪 ・ 善 と は 2005/09 ... 21 佛 教 に お け る 罪 ・ 悪 ・ 善 、 そ し て 懺 悔 と は 2005/10 ... 22 私 は い つ も 正 し い ? 2005/11 ... 22 私 は い つ も 正 し い ? ( そ の 2 ) 2005/12 ... 23 生 か さ れ て 生 き て い る 歓 び の 念 佛 2006/01 ... 24 法 然 上 人 と 今 、 す べ て の い の ち ( そ の 1 )2006/02 ... 25 も の か ら こ こ ろ の 世 界 へ 2006/03 ... 26 他 力 に 目 覚 め る 2006/04 ... 27 願 い に 生 き る 2006/05 ... 28 今 の 私 た ち に 求 め ら れ る こ と 2006/06 ... 29 念 佛 は “ い の ち ” 2006/07 ... 30 こ の 世 に 生 き る 2006/08 ... 31 自 然 そ の も の の 中 に 2006/09 ... 32 欲 望 と 幸 福 2006/10 ... 33 い じ め に つ い て 2006/11 ... 34 父 母 孝 養 に つ い て 2006/12 ... 35 法 然 上 人 と 今 、 す べ て の い の ち ( そ の 2 ) 2007/01 ... 36 お 葬 式 に 考 え る こ と (2007/02) ... 36 “ 安 心 ( あ ん じ ん )” を 得 る (2007/03) ... 37 病 は 善 智 識 (2007/04) ... 38 競 争 意 識 (2007/05) ... 39 い の ち を 全 う す る (2007/06) ... 40 佛 法 は 人 に よ り 伝 わ る (2007/07) ... 41 人 間 救 済 の 意 味 (2007/08) ... 42 和 顔 愛 語 (2007/09) ... 43 念 佛 の 信 心 (2007/10) ... 43 慈 悲 (2007/11) ... 44
佛 さ ま に 全 て を ま か せ る (2007/12) ... 45 お 念 佛 に つ い て (2008/01) ... 46 法 然 上 人 と お 念 佛 (2008/02) ... 47 お 彼 岸 に よ せ て (2008/03) ... 48 往 生 と 親 縁 (2008/04) ... 49 佛 の 働 き (2008/05) ... 49 法 に 依 り て 、 人 に 依 ら ず (2008/06) ... 50 お 念 佛 の 信 (2008/07) ... 51 生 と 死 (2008/08) ... 52 凡 夫 (2008/09) ... 53 縁 と 無 我 (2008/10) ... 53 苦 悩 の 克 服 (2008/11) ... 54 真 理 は 一 つ 、 教 え は 無 数 (2008/12) ... 55 浄 土 に 居 ( き ょ ) す (2009/01) ... 56 法 悦 ( 安 心 + 起 行 ) (2009/02) ... 57 現 代 の 社 会 (2009/03) ... 57 許 す こ と (2009/04) ... 58 お 念 佛 の こ こ ろ (2009/05) ... 59 浄 土 (2009/06) ... 60 慈 悲 と 智 慧 (2009/12) ... 60 い の ち の 流 れ (2010/04) ... 61 無 分 別 の 世 界 (2010/05) ... 62 し あ わ せ (2010/06) ... 63 佛 さ ま の は た ら き の 中 に 生 き る (2010/07) ... 64 お 念 佛 は 感 応 道 交 (2010/08) ... 65 今 思 う こ と (2010/09) ... 65 願 行 具 足 (2010/10) ... 66 懺 悔 ( さ ん げ )(2010/11) ... 67 佛 眼 と 成 佛 ( そ の 1 ) (2010/12) ... 67 佛 眼 と 成 佛 ( そ の 2 ) (2011/01) ... 68
六 神 通 (2011/02) ... 68 衆 縁 所 生 (2011/03) ... 69 今 思 う こ と(2011/04)... 70 人 生 の 終 盤 に 臨 ん で (2011/05) ... 71 心 に 戴 く 宝 (2011/06) ... 71 精 進 努 力 (2011/07) ... 72 往 生 人 (2011/08)... 73 縁 (2011/09) ... 73 こ こ ろ (2011/10)... 74 こ こ ろ と 信 仰 (2011/11) ... 75 信 仰 の 姿 (2011/12) ... 76 妄 念 と お 念 佛 (2012/1) ... 76 歌 会 始 の お 歌 に 思 う (2012/2) ... 77 戒 と 信 ( そ の 1 ) (2012/3) ... 78 戒 と 信 ( そ の 2 ) (2012/4) ... 79 戒 と 信 (そ の 3 ) (2012/5) ... 79 世 情 と 宗 教 (2012/6)... 80 法 話 と は (2012/7) ... 81
永 観堂 禅 林寺 ご 本尊
みかえり阿弥陀如来さま
自分 よ りおく れ る者たち を待つ 姿勢
自分 自 身の位 置 をかえり みる姿 勢
愛や 情 けをか け る姿勢
思い や り深く 周 囲をみつ める姿 勢
衆生 と ともに 正 しく前へ 進む ためのリー ダーの 把握
のふ り むき
真 正 面 からお び ただし い人々の心 を濃く 受けと め
ても、なお正面にまわれない人びとのことを案じて、
横を み かえら ず にはいら れない 阿弥陀仏の み心
* ** みかえり法話 集 * **
佛 さま と は 2003/07
南 無 阿 弥 陀 佛 一 切 の人 々や物 事 に別 け距 (へだ)てなく、平 等 に注 がれる大 慈 悲 心 は、抑 (そもそも)私 たち只 (ただ)の人の持 ち合 わせていないものです。 佛 さまとは、この万 人 を摂 (おさ)めとってやまない暖 かい心 の働 きのことです。この暖 かい心 の働 きに触 れて心 の健 康 を恢 復 (かいふく)した人 は、この働 きかけを薬 師 如 来 とか医 王 如 来 と呼 び、こ の働 きに触 れて心 が安 まり、物 事 の本 質 を見 抜 く澄 んだ心 (智 慧 (ちえ))を授 かった人 は、その働 きを文 殊 菩 薩 とか勢 至 菩 薩 などという名 で呼 んだのです。 佛 さまとは、私 たちにとって、向 こう側 にある対 象 でなく、この私 に働 きかけて救 いとってくださる大 慈 悲 心 の働 きなのです。 合 掌い のち の 尊厳 2003/10
南 無 阿 弥 陀 佛 いのちの尊 厳 について、いのちの大 切 さについて、常 に教 え続 けられているはずです。しかし、い のちの軽 視 の傾 向 は、いささかも改まりそうにありません。 私 のいのちはいつ生 まれたのでしょう?もしこの世 に生 命 が誕 生 していなかったならば、私 のいの ちもまたないわけですから、地 球 上 の生 命 の誕 生 が即 ちわがいのちの誕 生 と考 えられるのです。阿 弥 陀 さまの久 遠 成 佛 以 来 の、生 きとし生 けるもののいのちの流 れ、その滔 々たる悠 久 の流 れの中で、自 己 のいのちは微 小 な点 にすぎませんが、この大 河 の流 れの中 に私 のいのちも合 流 させて頂 いているのです。 あらゆるいのちは、阿 弥 陀 さまのみ光 の中 です。その光 を受 けて、少 なくとも光 ることができるはず です。自 分 が光 らないのは、光 りの働 きにめざめていないからです。よびさまされると、み光 りの中 で 光 っているこの身 だと知 らされます。また他 のいのちもそれぞれに光 っているのだと気 づかされます。 なんの功 績 もない、とりえもないと卑 屈 になることはありません。自 らは光 れないのですが、阿 弥 陀 さ まのみ光 を受 けて、この身 ながら輝 いているのですから。 今 、生 きているいのちをよびさます、久 遠 のいのちにめざめなければなりません。他 人 のいのち、 自 分 のいのちに、静 かに合 掌 することが教 えられねば、いのちの尊 厳 を伝 えることはできないので す。 合 掌
人 の心 に 宿る佛さ ま の慈愛 2003/11
南 無 阿 弥 陀 佛 私 たちは苦 悩 と悲 しみの中 で日 々暮 らしています。阿 弥 陀 さまはどんなことがあろうとも私 たちを 決 して見 放 されず、苦 悩 のまま限 りない悲 しみのままに私 たちを抱 擁 してくださっています。佛 さま の大 慈 悲 心 は人 の行 動 や言 葉 を通 して人 に伝 わるのです。人 の心 に宿 って、大 慈 は人 から人 へ 伝 わります。 消 えることのない幸 せと喜 びは、全 て思 いやりから生 まれます。思 いやりがあればこそ良 心 が生 ま れます。良 心 があればこそ他 の人 を助 けたいという気 持 ちで行 動 できます。このように大 慈 は、人 の 心 に宿 る佛 さまの慈 愛 なのです。人 は佛 さまではないのですが、佛 さまの智 慧 ・慈 悲 を運 ぶ器 にな れるのです。 合 掌尽 きぬ 煩 悩 2003/12
南 無 阿 弥 陀 佛 私 たちは他 の人 を省 みず、自 分 だけが可 愛 い念 があり、自 分 勝 手 で利 己 主 義 で我 儘 いっぱいで す。そして、我 儘 が強 いから苦 しみや悩 みが出 てくるのです。いけないことだとわかっていても止 め ることができないし、わかっていても正 しいことができなかったり、正 しくないことをやってしまっている のです。全 てが自 分 のために存 在 しているのではないのだから、当 然 のことのはずなのに自 分 の思 い通 りにしたいと思 ってしまうのです。 「欲 深 くて、怠 け者 」の自 分 を常 に戒 めても、「掃 けば散 り 払 えばまたも塵 つもる 人 の心 も 庭 の落 ち葉 も」というように、煩 悩 からはなかなか離れられないのです。 煩 悩 は生 きている限 りなくならないものと諦 め、自 分 自 身 を甘 やかさないで、「いのち」の不 思 議 さ、 尊 さ、そしてはかなさを知 り、今 日 一 日 を大 切 に生 きていただきたいと願 うのです。 合 掌お 念佛 の 生活 2004/01
南 無 阿 弥 陀 佛お念 佛 の生 活 というのは何 か特 別 なことをするのではないので す。今 日 一 日 、自 分 がこうして仕 事 をしているということは、多 くの人 に助 けられ、自 分 が仕 事 をさせて頂 いていることの確 認 なので す。 自 分 の周 囲 の人 々や自 然 との命 の触 れ合 い、共 に生 き生 かされる世 界 の中 で、自 分 に目 を向 け るだけでなく、他 の人 々にも目 を向 けていく気 持 ちを持 って、あらゆる面 に私 たちは合 掌 し、感 謝 の 念 を持 ち続 けていかなければならないのです。一 生 涯 お念 佛 の生 活 なのです。 人 生 には余 生 と引 退 はないのです。 合 掌
「自浄其意」(じじょうごい) 2004/02
南 無 阿 弥 陀 佛 「自 浄 其 意 」の「其 」は、良 し悪 しにこだわる心 です。私 たちは、日 常 物 事 を二 つに分 けて、都 合 の良 いほうを採 って、都 合 の悪 いほうを退 けて生 活 しています。自 分 の好 き嫌 いを中 心 にして生 活 しているのです。(自 分 中 心 の生 活 )そういう善 悪 にとらわれている「意 」を自 発 的 に浄 める。「その 意 を浄 める」の「その意 」とは、人 の心 に宿 る良 し悪 しを分 別 して都 合 の良 いほうを採 り、都 合 の悪 いほうを斥 けるという二 元 分 別 の意のことです。「浄 める」とは、これを浄 化 することです。 自 分 の嫌 いなものは退 けようとしますが、人 生 には自 分 が嫌 いな人 に助 けられて、いま現 に自 分 が生 きているということがあります。嫌 いなものを切 り捨 てたら、より自 分 が楽 になるかというと、結 果 的 には自 分 を不 幸 にすることになりがちです。良 し悪 しでのみ生 きていると、肝 心 なものを消 してし まうことになるのです。 佛 教 が佛 教 であるゆえんは、倫 理 ・道 徳 を超 える道 が重 要 だと指 摘 されたことなのです。私 たち の日 常 生 活 において、心 が占 める位 置 をはっきりと指 摘 したのは佛 教 です。佛 教 はこの教 えに集 中 されていて、どの宗 教 の教 えでも良 く味 わってみますと、ここに帰 着 するのです。自 分 で自 発 的 に、自 分 の善 悪 に執 われ、敵 味 方 に執 われ、損 得 に執 われ ている心 を浄 める。浄 めるとは「超 え る」ということです。それが佛 教 なのです。超 えるということはどういうことか。これは良 いことか悪 いこと か、敵 とか味 方 とか、都 合 が良 いとか悪 いとか、得 とか損 とかいうことにこだわらないことです。世 界 と一 体になった心 で生 きる、それを教 えるのが佛 教 なのです。 合 掌心 を浄 め る(自浄 其 意 その 2)2004/03
南 無 阿 弥 陀 佛 私 たちは日 々の生 活 において、物 事 を二 つに分 けて都 合 のよいほうを取 って悪 い方 を退 けて生 きがちです。自 分 の好 き嫌 いを中 心 にして生 活 しているのです。自 分 の嫌 いなものは避 けようとしま すが、人 生 では自 分 が嫌 いな人 に助 けられて、今 の自 分 が生 きているということがあります。自 分 の 嫌 いな人 が、自 分 の生 きることを助 けてくださっているという側 面 があるのです。これは人 生 の大 き な、そして冷 厳 な事 実 です。 嫌 いなものを切 り捨 てたらより自 分 が楽 になるかというと、結 果 的 には自 分 を不 幸 にすることになり がちです。好 き嫌 い、良 し悪 しでのみで生 きていると、肝 心 なものを消 し去 ってしまうことになるので す。 私 たちの日 常 生 活 で、心 の占 める位 置 をはっきりと指 摘 したのは佛 教 です。佛 教 はこの教 えに集中 されていて、どの宗 派 の教 えでもよく味 わってみますと、この教 えに帰 着 するのです。自 分 の好 き 嫌 いにとらわれ、善 悪 にとらわれ、敵 味 方 にとらわれ、損 得 にとらわれている心 を、自 分 で自 発 的 に 浄 める。浄 めるとは「超 える」ということです。それが佛 教 の教 えなのです。 超 えるとはどういうことか?これは良 いことか悪 いことか、敵 とか味 方 とか、都 合 が良 いとか悪 いとか、 得 とか損 とかいうことにこだわる心 を脱 却 することです。世 界 と一 体 になった心 で生 きる、それを教 え るのが佛 教 なのです。 合 掌
触 光柔 軟 (そっこ う にゅう な ん)2004/04
佛 さまを拝 みますと、その智 慧の光 によって自 然 と顔がほころび、頭 の天 辺 から足 の先 まで柔 らか くなります。これを「触 光 柔 軟 」といいます。 人 の思 いはどこへでも行 くことができますが、どこへ赴 こうとも自 分 より愛 しいものを見 いだすことは できません。また、他 の人 々も自 分 はこの上 なく愛 しいのです。自 分 の愛 しいことを知 る人 は、他 の 人 々を害 してはいけないのです。しかし、頭が固 いとこのことに気 付 かないのです。 頭 が柔 らかくなると、相 手 の立 場 を理 解 して受 け入 れる広 くて、柔 らかくて謙 虚 な心 が生 まれるの です。顔 が固 いと人 に不 安 感 を与 えますし、口 にする言 葉 も厳 しくなりがちです。しかし、顔 が柔 ら かいと人 に安 心 感 を与 え、出 てくる言 葉 も優 しくなるのです。心 が固 いと他 に冷 たく、柔 らかいと他 に温 かいのです。 三 垢 とは三 つの垢 、貪 欲 、瞋 恚 (しんい)、愚 痴 の煩 悩 のことです。佛 さまの智 慧 の光 に包 まれま すと、私 たちの煩 悩 は転 じて喜 びの心 に生 まれ変 わってくるのです。そして自 然 に心 身 共 に柔 軟 になるのです。「柔 軟 」とは我 執 を離 れること、執 着 しないという意 味 で、相 対 する二 つのもののどち らにも執 らわれず、常 に支 え合 って溶 け合 って一 つのもののように受 け 取 ることをいいます。日 々、 生 き生 きと流 れることによって、物 事 に固 執 したりとどまったりしなくなるのです。 自 分 の生 き方 を見 つめ、その愚 かしさや欲 望 の深 さを認 めて、自 分 の対 極 にあるものの尊 さに気 付 く時 、真 の命 の喜 びを頂 くのです。みずみずしい生 命 (いのち)を生 きることができるのです。佛 さ まの智 慧 を頂 くことができれば、柔 軟 なものの考 え方 をすることができ、この煩 悩 の世 の中 にあって も明るく生 きることができるのです。 『無 量 寿 経 』から 「設 我 得 佛 十 方 無 量 不 可 思 議 、諸 佛 世 界 衆 生 之 類 、蒙 我 光 明 、触 其 身 者 、心 身 柔 軟 、超 過 人 天 。若 不 爾 者 、不 取 正 覚 。」 (たとい、我 佛 となるを得 んとき、十 方 の無 量 ・不 可 思 議 の諸 佛 世 界 の衆 生 の類 、わが光 明 をこう むりて、その 身 に 触 れなば、心 身 柔 軟 して、人 ・ 天 に 超 過 せん。も し、しからず んば 、正 覚 を取 ら じ。) 「其 有 衆 生 、愚 斯 光 者 、三 垢 消 滅 、身 意 柔 軟 、歓 喜 踊 躍 、善 心 生 焉 。 若 在 三 塗 勤 苦 之 処 、見 此 光 明 、皆 得 休 息 、無 復 苦 悩 、寿 終 之 後 、皆 蒙 解 脱 」 (それ衆 生 有 りて、この光 に遭 うもの、三 垢 、消 滅 し、身 意 、柔 軟 にして、歓 喜 踊 躍 し善 心 生 ず。も し三 塗 の勤 苦 の処 に在 りて、この光 明 を見 たてまつれば、みな、休 息 を得 て、 また苦 悩 なく、寿 終わりて後 、みな、解 脱 を蒙 る。)
法 爾道 理 (ほうに ど うり)2004/05
人 生 の中 で常 日 頃 本 当 の眼 を開 いてゆくためには、この娑 婆 世 界 に生 き、苦 しみ、そして悩 む多 くの人 々とのご縁 と人 生 の善 智 識 が必 要 です。自 分 の足 元 を着 実 に見 つめて、これで良 いのか、 間 違 いはないのか、大 丈 夫 なのかと、自 分 の日 暮 を点 検 しなければいけないのです。そういう生 き 方 が佛 道 (菩 薩 の心 )なのですが、私 たち凡 夫 には難 しいのです。そこで、お念 佛 の教 えがあるので す。思 い煩 いの日 常 生 活 の中 で、私 たちがお念 佛 をどのように受 け取 って いくべきかを示 されたも のの一 つが、「法 爾 道 理 」なのです。お念 佛 の教 えでは、人 間 の浅 はかな計 らい ―自 己 中 心 的 、 自 己 保 全 的 な自 分 を中 心 とした行 動 ―を捨 てて、大 いなるお慈 悲 に、お任 せする自 然 な気 持 ちを 「自 然 法 爾 」と云 うのです。 お 釈 迦 様 以 来 、佛 教 を伝 え てきた 人 は佛 教 信 仰 に 生 き た 無 数 の 、しかも 名 も 知 れ ない 多 く の 人 々なのです。佛 教 を学 ぶと云 うことは、佛 教 の理 論 を学 ぶことではなく、「佛 智 の世 界 」を我 が身 の上 にしっかりと戴 き、安 心 を得 る術 (すべ)を学 ぶと云 うことに尽 きるのです。佛 様 の心 が持 てれば それに越 したことはないのですが、持 っている力 が限 られた凡 夫 にはとても出 来 ないことと自 覚 し、 佛 様 のお慈 悲 に自 他 共 に頼 ることを勧 めるのがお念 佛 の教 えで、浄 土 門 というのです。 法 然 上 人 は、自 力 の信 と云 うものは流 転 し永 続 する保 証 はないことから、自 力 の菩 提 心 を否 定 さ れたのです。拝 むこと、合 掌 すること、頭 が下 がること、口 からお念 佛 が出 ることは、人 の上 に現 れた 佛 様 のお働 きで、「他 力 」なのです。そうしたこと全 てが「自 然 」だと云 われるのです。法 然 上 人 は、 本 当 にそのお慈 悲 がお解 かりになり、阿 弥 陀 様 に救 われたと云 う実 感 をお持 ちなってから、そのお 慈 悲 について説 いてみようとなさったのですが、 『まこと大 悲 誓 願 の深 広 なること、たやすく詞 をもてのぶべからず。心 をとどめて思 うべきなり。』 阿 弥 陀 様 の私 達 全 てを救 おうというお誓 いとお慈 悲 のみ心 の深 く広 いことは、たやすく口 では言 えない。だからじっと心 の中 で味 わってみるべきである、と仰 せになりました。阿 弥 陀 佛 の大 悲 誓 願 の深 さ広 さは、各 自 がじっと心の中 で味 わい噛 み締 めるより外 ないと思われたお言 葉 なのでしょう。 私 達 が一 生 涯 お任 せして間 違 いないもの、自 分 が忘 れている時 にも私 を支 えていて下 さる力 、そ れは自 分 で掴 み取 るものではなく賜 るものなのです。私 達 は自 分 らしく、堂 々と人 生 を実 りあるもの にする力 と情 を佛 様 より賜 っているのです。 「法 爾 道 理 」と云 う事 有 り。炎 は空 に昇 り、水 は下 りさまに流 る。菓 子 の中 に酸 き物 有 り、甘 きもの有 り、これらは、みな法 爾 道 理 也 。阿 弥 陀 、ほとけの本 願 は、名 号 を以 て、罪 悪 の衆 生 を導 かんと誓 い給 たれば、只 一 向 に念 佛 だにも申 せば、佛 の来 迎 は法 爾 道 理 にて、備 わるべき也 。『百 四 十 五 ヶ条 問 答 』(法 然 上 人 )不 能遠 観 (ふのう お んかん )2004/06
人 間 が人 間 として、協 力 して生 活 していくには、共 通 の価 値 観 やルールが必 要 です。自 分 さえよ ければ他 人 のことは関 係 ないという自 己 中 心 的 な生 活 は、何 にも束 縛 されず自 由 で素 晴 らしいように見 えますが、実 は孤 独 で、窮 屈 で、不 自 由 な生 活 を送 らなければならないのです。 生 きている間 だけがすべてで、死 んでしまえば何 もかも無 くなってしまう、それで終 わりという風 潮 が蔓 延 しています。寿 命 が終 わってからも、生 前 の原 因 に起 因 する結 果 を受 け取 らなければならな いことがあることを、今 の人 は意 識 していないように見 えます。自 分 がつくった原 因 は、その結 果 を 自 分 で受 け取 らなくてはなりません。誰 も代 わってくれないのです。しかもあなたのために苦 しまなけ ればならない人が居 るのです。 私 たち凡 夫 は、自 分 だけは大 丈 夫 、自 分 だけは間 違 いない、間 違 っているのは世 間 であり、あの 人 なのだ、この人 は困 りものだと人 を非 難 し、自 分 自 身 の本 当 の姿 を観 る目 が無 いのです。だから、 実 はつらい苦 しい人 生 を歩 んでいることすら気 付 かないのです。 凡 夫 の自 覚 を持 つことによって、ハンドルをしっかりと握 り、ブレーキをかけ、ミラーを確 認 し、前 方 を見 つめて安 心 生 活 を送 ることが出 来 るのです。 「不 能 遠 観 」の意 味 するところは、次のように言 えるでしょう。 ただの人 は肉 眼 で遠 近 をよく観 ることすらできないのです。自 分 のつくった原 因 で起 きる結 果 など わかる道 理 がありません。まして、大 いなるもの即 ち阿 弥 陀 さまの浄 土 は遙 か彼 方 です。どうして観 ることなど出 来 るでしょうか。浄 土 は、自 分 は愚 かでただの凡 夫 であるという自 覚 が出 来 たとき、佛 力によって観 ることが出 来 るのです。 如 是 凡 夫 心 想 羸 劣 未 得 天 眼 不 能 遠 観 (汝 これ凡 夫 なり。心 想 るい劣 にして、未 だ天 眼 を得 ざれば、遠 く見 ることあたわず) 『観 無 量 寿 経 』
悲 智雙 行 (ひちそ う ぎょう )2004/08
佛 教 では、私 たちの心 を真 理 に目 覚 めさせる働 きを「智 慧 」と云 います。また「慈 悲 」は苦 を抜 き 楽 を与 える心 の働 きのことをいいます。 お釈 迦 様 は、徹 底 した現 状 認 識 から問 いを発 し、悟 りを得 る道 に出 発 されたのです。お釈 迦 様 は、人 間 は矛 盾 した仕 組 みの中 でしか生 きることができないと いう事 実 を認 識 され、この娑 婆 世 界 全 体 を掌 握 する洞 察 力 即 ち人 間 の心 を真 理 に目 覚 めさせる 働 きを「智 慧 」と呼 ばれたのです。また娑 婆 世 界 に生 きる人 間 の心 の煩 いを除 き安 心 を与 える佛 さ まの働きを「慈 悲 」と呼 ばれました。 では、私 たち人 間 はどのようにして「智 慧 」を授 かるのでしょうか。もともと智 慧 は、すべての人 の心 の中 に生 まれながらにして備 わっているのですが、人 間 の心 の煩 いのためその働 きが弱 いのです。 佛 さまの「慈 悲 」に出 会 い、触 れることによって私 たち人 間 の心 が静 かになり、智 慧 が強 く働 くように なるのです。私 たちの智 慧 の原 動 力 は佛 さまの「慈 悲 」なのです。 私 たちの智 慧 が強 く働 きますと、 私 たちの心 に優 しさと哀 れみが生 まれます。これが私 たち人 間 の慈 悲 で、良 心 や思 いやりの心 なの です。智 慧 が強 く働 きかけていると、その分 慈 悲 も深 まります。慈 悲 は智 慧 の深 まりと連 動 している のです。 いろいろの煩 悩 のため自 分 を縛 り、迷 いの世 界 に入 り、自 己 破 綻 に陥 っていた身 が、「慈 悲 」に 触 れ智 慧 を授 かることで解 放 されるのです。また、自 分 を善 とし、自 分 のみを頼 りにして、周 囲 の 人 々の善 意 を知 らず不 足 にばかり思 っていることを「我 執 」といいますが、智 慧 によりこの我 執 からも 離 れることが出 来 るのです。佛 さまの「慈 悲 」に触 れ、人 間 の智 慧 の働 きが強 まることで我 執 が解 消し、心 が純 化 して、慈 悲 の心が自 由 に活 動 し、これらが相 互 に働 きかけ深 まっていくのです。 お念 佛 の道 も、念 佛 三 昧 というように、念 佛 生 活 の間 に、いつでも・どこでも・だれでも、心 の波 立 ちがだんだんと修 まるようになっているのです。念 佛 には、絶 えず動 揺 し散 乱 して落 ち着 かない心 で過 ごしている我 々を、すばやく三 昧 の境 地 に導 く仕 掛 け、即 ち「智 慧 」を授 かる道 がちゃんと備 わ っているのです。
三 学と お 念佛 2004/09
智 慧 第 一 と称 せられた宗 祖 法 然 上 人 は、ご自 分 のことを「戒 」・「定 」・「慧 」の三 学 全 く備 わらず、 愚 痴 の法 然 房 と仰 せられました。 佛 教 では「正 しく知 る」という智 慧 が強 調 されます。法 然 上 人 のように心 の定 まった人 はこの三 学 を学 び、修 行 することができるでしょう。しかし、上 人 ご自 身 は「全 く備 わらず」と言 われ、ましてや心 の散 じている我 々凡 夫 には難 しいのです。そこで、只 の人 である我 々が三 学 を備 えうる道 として、お 念 佛 の教 えがあるのです。 戒 :どうかすると乱 れやすい生 活 を整 え、積 極 的 に念 佛 生 活 の中 で生 きていく上 で、自 ら立 てる 生 活 規 範 が「戒 」なのです。否 応 なしに守 らねばならない規 律 ではありません。 定 :お念 佛 を続 けるうちに自 然 と「戒 」が整 い、心 が散 じて瞑 想 のできない凡 夫 も自 分 自 身 を静 か に見 つめることができるようになります。これが「定 」なのです。 慧 :お念 佛 を申 すことによって自 然 と「定 」が整 い、ありのままの自 分 の姿 、自 分 の都 合 で見 てい た世の中の姿 が次 第 に明 らかになってきます。これが「慧 」なのです。 お念 佛 の教 えは、阿 弥 陀 佛 の「慈 悲 」・「智 慧 」を離 れて語 ることはできません。お念 佛 を申 し続 け ると、自 分 の分 に応 じて生 活 の加 減 を知 り、「優 しい心 」、「慈 しみの心 」が自 然 と起 きてきます。自 分 の力 によらず正 しく世 の中 を歩 み続 けるための「慈 悲 」と「智 慧 」を自 然 と授 かるのです。欲 に引 かれ好 みに捕 らわれている人 は、執 着 したもののために悲 しみ、苦 しみ続 け、どうしても自 分 の偏 見 を超 えることはできません。 皆 様 もお念 佛 を申 すことによって、三 学 を修 め自 然 のはからいをそのまま知 り共 に生 きていく願 いに目 覚 めて頂きたいのです。 参 考 【三 学 】:佛 道 を修 行 する者 に必 修 とされる最 も基 本 的 な修 行 をいい、戒 学 、定 学 、慧 学 の三 つを さす。 戒 :悪 をとどめ、善 を修 すること。 定 :心 身 を静 かにして心 身 統 一 を行 い、雑 念 を払 い思いが乱 れないようにすること。 慧 :静 かになった心で正 しく真 実の姿 を見 極 めること。 この不 即 不 離 な三 学 の兼 修 が佛 道 の完 成 をもたらすとされる。規 律 ある生 活 を営 み、そして心 が 落 ち着 いて、そこで正 しい世 界 観 が持 てるようになる。 中 村 元 著 『佛 教 語 辞 典 』より。無 量寿 佛 の名をた も て 2004/10
お経 には、私 たちにこの世 を生 きる意 味 と生 きるための力 を与 えてくれる深 遠 な教 えがあります。 この世 を生 きると簡 単 にいうものの、実 際 は一 筋 縄 ではいきません。老 いること、病 むこと、死 ぬこと。 誰 も避 けることのできない事 柄 を、どう受 け止 めるかが肝 要 なのです。み佛 の教 えに、生 きてきたな ら簡 単 に生 きてよし死 してよし、などといいます。生 死 一 如 というものの、信 仰 があるから生 きられる し死にたくないけれども死 んでいける、果 たしてそれほど簡 単 なことでしょうか。 多 くの人 々は、自 分 の思 惑 や考 え方 、好 みに合 わせて佛 教 を取 り入 れ、自 分 の都 合 のいいよう にみ佛 の教 えを解 釈 しています。自 分 にとって嫌 なこと、起 こって欲 しくないことは避 けて、み佛 に 家 内 安 全 、商 売 繁 盛 、延 命 息 災 、学 業 成 就 など現 世 にとらわれた一 時 しのぎの願 い事 をし、自 分 の幸 せを約 束 してくれるものだけを受 け入 れようとする生き方 、まさにこれにあたります。 念 佛 はこの凡 夫 である私 たちが阿 弥 陀 佛 に抱 かれる唯 一 の方 法 です。み佛 の教 えによって、幾 多 の先 人 が人 生 を歩 む道 を作 っていて下 さいます。日 々に唱 える念 佛 は阿 弥 陀 佛 の「大 悲 」に至 る道 標 であり、人 にこの道 を歩 み出 させ、目 的 に向 かって一 歩 一 歩 と歩 ませる力 なのです。私 たち には苦 しい、悲 しい、つらい現 実 があり、日 常 の生 活 に追 われて目 先 のことに心 を奪 われがちです。 しかし、阿 弥 陀 佛 の「大 悲 」とは「なるほどそういうことか」と気 づいた時 から、この厳 しい現 実 を生 き ていく力 を得 て、預 かったわが命 一 杯 に生 きようという新 たな人 生 が始まるのです。 阿 弥 陀 佛 の根 本 の「願 い」に出 会 って、私 の心 のあり方 、私 自 身 の姿 、そして人 生 というものの 事 実 をありのままに知 り「なるほど」とうなずく時 、私 たちは念 佛 と共 に人 生 の道 を歩 むことができる のです。そもそも「お念 佛 の生 活 」とは「大 悲 」にであい「佛 智 」を戴 いて、私 の我 執 に気 づくことから 始 まります。そして日 々の生 活 の中 でお念 佛 を唱 え阿 弥 陀 佛 の御 名 をたもつことによって、そのよう な私 を見 守 り続 けて下 さるみ佛 の「願 い」を喜 び、自 分 のすべてを任 せても間 違 いないものがあるこ とを有 り難 いと思 いつつ寿 命 一 杯 に生 きることができるのです。 【参 考 】 如 好 持 是 語 持 是 語 者 即 是 持 無 量 寿 佛 名 『観 無 量 寿 経 』 (汝 よ、好 くこの語 をたもて。この語 をたもてとは、即 ちこれ、無 量 寿 佛 の名 をたもてとなり) なお、無 量 寿 佛 は阿 弥 陀 如 来 のことで、無 量 光 佛 とも呼 ばれます。阿 弥陀 さ まのこ と をご 存じ でし ょ う か ( その一) 2004/11
私 たちは心 を煩 わし身 を苦 しめる煩 悩 にとりつかれ、それらから逃 れられない日 々を送 っていま す。人 々が自 分 自 身 の内 には様 々な煩 悩 を持 ち、外 には風 雨 寒 暑 のある中 で生 活 している処 を 娑 婆 といいます。娑 婆 世 界 では人 々の数 だけの思 いがぶつかり合 い、それぞれが四 苦 八 苦 してい ます。人 々はそれぞれの思 いと判 断 で善 し悪 しを決 め、自 我 意 識 に生 きています。その姿 を見 かね て大 いなる慈 悲 の働 きかけで特 別 の願 を発 されたのが阿 弥 陀 さまなのです。私 たちの煩 悩 の苦 し みはとりもなおさず阿 弥 陀 さまの苦 しみであり、私 たちが苦 しむ姿 はそのまま阿 弥 陀 さまが佛 となら れる道のりなのです。 欲 深 く怒 りにとらわれる愚 かな私 たちを救 うために、阿 弥 陀 さまは「五 劫 思 惟 」(特 別 の願のために 考 えも及 ばないほどの長 時 間 を要 する修 行 )され、四 十 八 の特 別 の願 (四 十 八 願 )をおこされました。わが宗 派 では、その中 の第 十 八 願 「たとい、われ佛 となるをえんとき、十 方 の衆 生 、至 心 に信 楽 (しんぎょう)して、わが国 に生 まれんと欲 して、乃 至 十 念 せん。もし、生 まれずんば、正 覚 (しょうが く)を取 らじ。ただ、五 逆 (の罪 を犯 すもの)と正 法 (しょうぼう)を誹 謗 するものを除 かん」を、王 本 願 (おうほんがん)と名 づけて根 本 の別 願 として戴 いています。私 たちに自 力 修 行 を求 めず、阿 弥 陀 さ まによる徹 底 した他 力 救 済 の別 願 なのです。煩 悩 に深 く覆 われて、未 だ悟 り得 ない私 達 がただ「南 無 阿 弥 陀 佛 」と名 号 を称 える念 佛 による救 済 なのです。 阿 弥 陀 さまは煩 悩 に苦 しむ私 達 をただ単 に哀 れんで願 を発 されたものではありません。真 如 の法 (宇 宙 すべてに備 わる永 久 不 変 の真 理 )を自 らの修 行 で悟 ることのできない私 達 すべてになりかわ って、やむにやまれず願 を発 されたのです。 阿 弥 陀 佛 無 量 なる佛 という意 。いのちと光 きわみなき佛 。西 方 浄 土 、極 楽 世 界 にあって今 現 在 法 を説 いてい る佛 。永 遠 に救 いを与 える佛 。 中 村 元 著 『佛 教 語 大 辞 典 』より
阿 弥陀 さ まのこと を ご存じ で しょう か (その 二 ) 2004/12
阿 弥 陀 さまとは具 体 的 にはどのような性 格 や特 色 を持 った佛 さまなのでしょうか。 この宇 宙 が現 出 して人 がこの世 に存 在 しはじめた時 から、私 たち人 間 が必 ず煩 い苦 しむことにな るのは必 至 でした。たとえば、人 が困 難 に直 面 したときによく使 われる「四 苦 八 苦 」という言 葉 があり ます。これは、「人 生 は苦 である」という仏 教 の基 本 認 識 を表 す言 葉 です。四 苦 とは、生 老 病 死 (し ょうろうびょうし)の四 つの苦 のことです。八 苦 は先 の四 苦 と、愛 別 離 苦 (あいべつりく)、怨 憎 会 苦 (おんぞうえく)、求 不 得 苦 (ぐふとくく)、五 蘊 盛 苦 (ごうんじょうく)の四 苦 を合 わせたものです。これ らは私 達 にとって不 可 避 なものであり、意 識 の上 において矛 盾 対 立 し思 い煩 うが故 に「苦 」なので す。しかし、私 たちが生 きるとはそういう苦 悩 の中 で生 きることなのです。その為 に、そして原 初 から、 佛 さまのはからいで我 々の苦 悩 を解 決 する理 (ことわり)があるのです。その理 の徳 と性 格 を持 った 佛 さまを阿 弥 陀 さまと名 付 けて呼 ぶのです。 本 来 、阿 弥 陀 さまは宇 宙 に存 在 する一 切 のもの、すなわち凡 人 も聖 人 もわけ隔 てなく人 の五 官 で感 じられるものすべてに遍 在 しています。しかし、煩 悩 に深 く覆 われた私 達 には、せっかく佛 とな る性 (たね)として宿 っていても見 ることも知 ることもできないのです。ただ私 達 にわかる阿 弥 陀 さまと は四 十 八 の本 願 を成 就 され、私 達 を間 違 いなく西 方 浄 土 へ迎 え入 れる働 きをされる方 なのです。 では、阿 弥 陀 さまと他 の佛 さまの違 いは何 でしょうか。諸 佛 はそれぞれ総 願 を発 こして自 ら佛 とな るために修 行 をされたのですが、阿 弥 陀 さまは私 達 に成 り代 わって修 行 されたのです。したがって、 阿 弥 陀 さまの本 願 が成 就 しているということは、私 達 が西 方 浄 土 に間 違 いなく往 生 できるということ なのです。 「佛 さまは一 切 の衆 生 の心 相 に入 りたまう」とあります。私 達 が佛 さまを憶 いますと心 の中 に姿 を 現 されます(影 現 )。それが心 の中 にはっきりと刻 み込 まれます(想 念 )。自 分 の力 の限 界 を知 った 時 、私 達 は阿 弥 陀 さまの方 から私 達 を見 放 されず追 いかけて下 さっていたこと、そしてその時 まで それに気 づかず彷 徨 い続 けていた自 分に気 付 くのです。 阿 弥 陀 さまが本 願 を発 こして佛 さまになられ、極 楽 浄 土 を建 立 された謂 われを思 わず肯 き理 解(領 解 :りょうげ)することが、わが宗 派 のお念 佛 の信 仰 なのです。
阿 弥陀 さ まのこと を ご存 じ でしょ う か ( その三) 2005/01
今 回 は阿 弥 陀 さまの救 済 の姿 をどのようにとらえるか、また南 無 阿 弥 陀 佛 という名 号 をどのように 受 け止 めればよいかについてお話 しします。これは、いわゆる十 悪 の私 たちの西 方 極 楽 浄 土 に往 生 したいという一 心 の想 い(帰 命 の心 )をおさめ取 って正 覚 (願 を成 就 し悟 りにいたる)した阿 弥 陀 さ まの功 徳の顕 れをどのような姿 として受 け取 るかなのです。 一 般 に、佛 教 で説 く佛 さまの相 (すがた:佛 身 、佛 体 )には法 身 、報 身 、応 身 の三 身 があります。 法 身 は真 理 そのもので理 性 です。このため、すべてに平 等 で差 別 がなく、 具 象 的 な相 があるもので もありません。従 って私 たちには覚 知 することのできない相 なのです。報 身 は、自 ら佛 となるために 修 行 して真 理 を悟 った佛 の功 徳 を象 徴 した相 です。応 身 は法 を求 める私 たちに応 じて具 体 的 な姿 を持 って説 法 する佛 さまの相 (具 体 的 にはお釈 迦 さま)です。私 たちの目 は応 身 の佛 さましか見 る ことができません。 では、阿 弥 陀 さまの相 はなんでしょうか? じつは阿 弥 陀 さまの相 は報 身 なのです。しかし、単 な る報 身 ではありません。阿 弥 陀 さまの佛 体 は、私 たち衆 生 が西 方 浄 土 に往 生 する道 理 を成 就 され すべての衆 生 を受 け入 れ、救 い、絶 対 に捨 てることのない(摂 取 不 捨 )大 いなる慈 悲 心 の象 徴 なの です。ところが私 たちはこのことを頭 で理 解 できても目 に見 えないため、どこか捉 えどこがなく安 心 で きません。このため報 身 の阿 弥 陀 さまを人 格 化 して、だれにも解 りやすい絵 像 や木 像 とし、なおか つ安 堵 できるような微 笑 みをたたえた慈 悲 心 あふれるお姿 で表 現 しているのです。 また、阿 弥 陀 さまは自 らの正 覚の功 徳 の相 を「南 無 阿 弥 陀 佛 」の六 字 の名 号 として表 されました。 したがって、名 号 と佛 体 は同 じもので二 つのものではないのです(名 体 不 二 )。「南 無 」の心 をおこ すとは、一 生 涯 かけて自 らの全 生 命 をもって阿 弥 陀 仏 の佛 体 に帰 命 することなのです。私 たちは 欲 ・怒 り・愚 かさのためこの命 を惜 しんでいますが、阿 弥 陀 さまは真 実 に信 心 をおこさない低 下 の私 たちになり代 わり行 をまっとうされ正 覚 されています。この阿 弥 陀 さまの行 と私 たちの往 生 を願 う心 が一 つになることを「願 行 具 足 」といいます。私 たちは念 佛 をとおして阿 弥 陀 さまの徳 を知 ったとき、 浄 土 往 生 の願 いが自 然 とおこり自 らの命 を任 せきった心 となり、阿 弥 陀 さまの相 を感 じ取 り、そして 佛 心 と一 つになることができるのです。弥 陀 超 世 の願 のほかに私 たちが救 済 される法 はないと知 る こと、これこそ帰 命 の極 致 で歓 喜のお念 佛 なのです。 *『西 山 のおしえ』より* 【十 悪 】 殺 生 (せっしょう) 偸 盗 ( ちゅうとう) 邪 婬 (じゃいん) 妄 語 (もうご) 綺 語 (きご) 悪 口 (あっく) 両 舌 (りょうぜつ) 貧 欲 (とんよく) 瞋 恚 (しんに) 愚 痴 (ぐち)阿 弥陀 さ まのこと を ご存じ で しょう か ( その四) 2005/02
今 回 は私 たちが、阿 弥 陀 さまが本 願 をおこして佛 さまになられ極 楽 浄 土 を建 立 されたいわれを 戴 くことができたときに、何 をなすべきかについてお話 しします。 まず、私 たちは寿 命 一 杯 生 きたならばこの世 で何 をなしたかは一 切 関 係 なく、すべて浄 土 に生 まれることができます。だからといって生 きている間 は何 をしてもいいということではありません。浄 土三 部 経 の一 つ『観 無 量 寿 経 』には、私 たちが浄 土 に生まれるには九 段 階 (九 品 :上 品 、中 品 、下 品 と上 生 、中 生 、下 生 の組 合 せ)の区 分 があると説 かれています。これは人 間 に九 種 類 の区 分 がある という意 味 にとるべきではありません。相 対 的 とか絶 対 的 なものでなく、自 分 自 身 の中 に九 つの願 望があるとみるべきなのです。 法 然 上 人 には、源 平 の戦 で平 家 の少 年 武 将 、平 敦 盛 を切 らざるを得 なかった熊 谷 直 実 というお 弟 子 があ りま した 。法 名 を蓮 生 (れんせ い)と 言 います。誰 が みても 下 下 ( 下 品 下 生 )の 蓮 生 が 、 人 々を救 うために再 びこの世 に生 まれるには上 品 上 生 の往 生 しかない、と誓 いを立 てたのです。一 人 残 さず、一 人 も漏 らさず浄 土 に迎 え入 れるには、上 品 上 生 の往 生 を願 うしかないという蓮 生 の決 意 は身 のほど知 らずの誓 いかもしれません。しかし、このことは蓮 生 自 身 が救 われたことを実 感 して いたからできた誓 いなのです。自 分 と同 じように迷 っている現 世 の人 々に是 非 とも法 然 上 人 のお念 佛 の教 えを伝 え、極 楽 浄 土 に往 生 させたいがために、もう一 度 この世 に生 まれかわりたいと願 った のです。私 たちは、九 つの願 望 の中 で一 番 佛 さまに近い願 いに向 かって自 分 自 身 を高 め向 上 して いかなければなりません。 もし私 たちが人 や人の心 を傷 つけたり、共 同 生 活 を損 なったりするようなことをしたならば、その罪 科 を悔 い改 め反 省 をしなければなりません。人 は罪 業 を犯 せば畜 生 に生 まれか わったり、地 獄 に 堕 ちたりするという「六 道 輪 廻 」という言 葉 があります。六 道 (地 獄 、餓 鬼 、畜 生 、修 羅 、人 間 、天 上 ) も実 は自 分 自 身 の中 にあるもので、決 して他 人 が作 るものではないのです。自 分 自 身 の三 業 (身 、 口 、意 )の行 いが常 に心 を揺 れ動 かし、地 獄 を生 み出 し、そして餓 鬼 や畜 生 の苦 しみを生 んで、自 分 自 身 で六 道 を輪 廻 しているのです。 人 間 らしく生 きるということは、上 品 上 生 や天 上 界 を目 指 しつつも三 業 に振 り回 され、喜 怒 哀 楽 を素 直 に表 し、いつも通 りになっていて少 しも進 歩 していない自 分 に気 づくことにあります。そして、 三 業 を慎 み、阿 弥 陀 さまの大 きな計 らいの中 に生 きていることに気 づき、感 謝 し、喜 びに満 たされ た日 々を送 ることにあります。現 実 の生 活 の中 では理 屈 はどこまで言 っても理 屈 にすぎません。信 心に裏 付 けられた行 動 を伴 うことができてこそ、その理 屈 が尊 いのです。 【参 考 】三 業 (身 、口 、意 ) 身 に行 うこと、口 に言 うこと、心 に思 うこと。この三 つで一 切 の生 活 活 動 が尽 くされる。すなわち、 あることをしようと意 志 するのが意 業 、それが身 体 的 行 動 に現 れるのが身 業 、言 語 表 現 に現 れるの が口 業 。 『佛 教 語 辞 典 』(中 村 元 )
往 生に つ いて(そ の 1)2005/03
これまで四 回 にわたって阿 弥 陀 さまについて述 べてきました。今 回 からは「往 生 」についてお話 し します。 往 生 という言 葉 は、今 では単 に死 の意 味 で用 いられており、さらに転 じてじたばたしないこと、処 置 に困 ること、閉 口 することなどに用 いています。もともと往 生 という言 葉 は輪 廻 (りんね)すること、 生 まれ変 わることを云 い、極 楽 のみならず地 獄 に行 くことも意 味 します。しかし、浄 土 の教 えが広 ま ってからは阿 弥 陀 佛 の西 方 浄 土 に往 き生 まれることを指 し、これが一 般 的 になっています。 輪 廻 は佛 教 が興 る以 前 からインドに伝 わるバラモン教 (ヒンズー教 )の死 生 観 です。一 切 の人 は その生 を終 えると、他 の世 界 に行 き次 の生 を受 けると考 えられていました。それはあたかも車 輪 が 果 てしなく回 るように、様 々な世 界 を生 まれ変 わり死 に変 わって際 限 なく続 く(輪 廻 転 生 、流 転 )といいます。当 時 の人 々はこの死 生 観 に大 変 な不 安 と恐 れを抱 いていて、自 分 は死 後 どのような世 界 へ往 って何 に生 まれ変 わるのか、またその生 においてどのような苦 しみや悩 みを受 けるのかと思 い悩みました。 佛 教 にも輪 廻 の思 想 がありますが、佛 教 の輪 廻 は迷 いの世 界 をいい三 界 六 道 (三 界 :欲 界 ・色 界 ・無 色 界 、六 道 :地 獄 ・餓 鬼 ・畜 生 ・修 羅 ・人 間 ・天 上 )に生 死 を繰 り返 すことを云 います。佛 教 で は、あらゆる人 々の存 在 の有 様 を「惑 」(煩 悩 、迷 い)、「業 」(身 、口 、意 のなす一 切 の行 為 )、「苦 」 ( 思 い 通 りに ならない こと )の連 鎖 とみます。「 惑 」 が「業 」を起 こし、その「 業 」が「 苦 」 を生 み 、この 「苦 」が新 たな「惑 」となり、別 の「業 」を起 こして「苦 」を生 むというように、絶 えず繰 り返 し、いつまで たっても迷 いの世 界 につなぎ止 められ、苦 悩 から解 放 されることがないと見 るのです。佛 教 はこれら の煩 悩 を断 ち切 ることによって、この連 鎖 を脱 し絶 対 安 住 の境 地 を得 ることを教 えるのです。 その一 つが浄 土 の教 えです。衆 生 を平 等 に一 人 も洩 らさず救 済 することを自 身 の本 願 とし、そ れを成 し遂 げるべく修 行 をされた阿 弥 陀 佛 によって衆 生 は浄 土 に往 生 できるという教 えです。 一 般 に「往 生 」は「死 」と関 連 づけて話 されますが、本 来 の迷 いの世 界 という観 点 から見 るとその 意 味 するところは大 変 奥 深 いものがあります。次 回 からその意 味 するところを少 し掘 り下 げてお話 し します。 【参 考 】 往 生 :生 まれ変 わること。他の世 界 に生 まれること。輪 廻 すること。死 後 に地 獄に生 まれること。 輪 廻 :サンスクリット語 「サンサーラ(流 れる)」の訳 。流 転 ともいう。インド古 来 の考 え方 で、生 死 を繰 り返 すことを云 う。佛 教 では迷 いの世 界 で三 界 六 道に生 死 を繰 り返 すこと。 衆 生 :この世 に生 をうけたもの。生 きとし生 けるもの。 『佛 教 語 大 辞 典 』(中 村 元 著 )参 照
往 生に つい て(そ の 2 )2005/04
前 回 、往 生 とは「輪 廻 すること、生 まれ変 わること」が元 々の意 味 であることを述 べました。これが 人 々の死 と深 く関 連 づけられて説 かれるのはなぜでしょうか。私 どもの宗 派 でも人 の臨 終 と関 連 づ けられた往 生 として「当 得 往 生 」が説 かれています。 私 たちが住 むこの世 は時 代 や場 所 がいかに変 わっても、私 たちが持 っている「自 分 の思 うように なればよい」という欲 望 は絶 対 に捨 てきれないのです。前 回 お話 をしましたように 人 々は〈惑 〉〈業 〉 〈苦 〉の繰 り返 しの中 でその日 その日 を送 る生 活 から抜 け出 せず、濁 りに満 ちた世 に過 ごしていま す(五 濁 :ごじょく)。私 たちはこの世 を生 きる限 り欲 望 を根 本 とする煩 悩 から派 生 する苦 悩 から逃 れ ることが出 来 ません。このためこの世 を穢 (けが)れた世 界 として遠 ざけ、二 度 と希 求 しないところと するのです(厭 離 穢 土 :おんりえど)。そして、その苦 悩 が二 度 と起 こらない、清 らかな世 界 即 ち西 方 極 楽 浄 土 へ往 生 をすることを願 うのです(欣 求 浄 土 :ごんぐじょうど)。しかし、今 現 在 を生 きてい る私 たちの多 くはその生 涯 において、修 行 をして正 覚 に達 することはまず不 可 能 でしょう。阿 弥 陀 佛 は、そのような私 たちを来 世 において西 方 極 楽 浄 土 に生 まれさせ佛 にならせるのです。「往 生 」と いうことが阿 弥 陀 佛 の願 われる行 為 として意 義 を持 つようになったのです。その行 き先 も本 願 成 就 の浄 土 と定 まり、往 生 の時 期 も、今 生 ではなく来 世に於 いてであると定まったのです阿 弥 陀 佛 の西 方 極 楽 浄 土 への往 生 については、私 たちには何 の条 件 もありません。しかし、私 たちが阿 弥 陀 佛 の計 らいで必 ず浄 土 へ往 生 できることを領 なずくことが出 来 たなら、煩 悩 を持 った ままこの世 をいかに生きるかを考 えなくてはなりません。私 たち浄 土 宗 のお念 佛 では、「三 心 」を発 こ しなさいと教 えるのです。「三 心 」とは至 誠 心 (しじょうしん:嘘 偽 りがなくあるがままの飾 ることのない 真 実 の心 )、深 心 (じんしん:深 く信 ずる心 )、回 向 発 願 心 (えこうほつがんしん:阿 弥 陀 佛 の本 願 力 に乗 じて往 生 できることを常に願 うこと)をいいます。 では、深 心 とは何 を深 く信 ずるのでしょうか。一 つは自 分 の日 々を顧 みて、罪 や悪 事 を重 ねなが ら迷 いの日 暮 をしその中 に埋 没 し流 されて、一 度 として迷 いの生 活 から抜 け出 る機 会 にめぐり合 う ことがなかったと深 く信 ずること。そしてもう一 つは、阿 弥 陀 さまが、ただ単 に煩 悩 に苦 しむ私 たちを 単 に哀 れんで願 を発 されたものではなく、真 如 の法 (宇 宙 全 てに備 わる永 久 不 変 の真 理 )を自 らの 修 行 で悟 り得 ない私 たち全 てになり代 わって止 むに止 まれず願 を発 された、その本 願 力 に乗 じて 往 生 できるのだと深く信 ずること。 こうしてみると仏 教 でいう「往 生 」は、来 世 のことでなく私 たちが生 きている今 の生 活 における心 の 持 ち方 、信 心 のあり方 を教 えているとも言 えるのです。 参 考 :【五 濁 】 劫 濁 (こうじょく)戦 争 ・疫 病 ・飢 饉 などが起 こり、世 の中 が乱れる時 代 の濁 り。 煩 悩 濁 (ぼんのうじょく)貪 ・瞋 ・癡の煩 悩 による心 身 の濁 り。 衆 生 濁 (しゅじょうじょく)煩 悩 におかされた人 間 の集 まり、すなわち社 会 全 体の濁 り。 見 濁 (けんじょく)人々がよこしまな考 えや誤 った思 想 を持 つようになる思 想 の濁 り。 命 濁 (みょうじょく)煩 悩 濁 や見 濁 が原 因 となって起 こる衆 生 の生 命 の濁 り。
往 生に つ いて(そ の 3)2005/05
前 回 に引 き続 き「当 得 往 生 」についてお話 しします。 すべての人 々を救 いとることを誓 われ、佛 になられた阿 弥 陀 佛 の弘 願 (ぐがん)(第 十 八 願 )によ って、すべての人 が迎 える命 終 のとき、穢れた世 界 を離 れ阿 弥 陀 佛 の清 らかな世 界 に佛 として生 ま れ変 わるということをお話 ししました。現 世 での人 々は、寿 命 の長 短 や行 業 の違 いや様 相 の違 いな ど、その生 きざまは様 々ですが、来 世 (当 来 )では浄 土 に往 生 することを得 ることから「当 得 往 生 」と 言 われます。 山 の彼 方 に沈 む夕 日 、大 海 原 や広 大 な砂 漠 のはるか彼 方 の水 平 線 、地 平 線 に落 ちる日 輪 に 浄 土 のイメージを託 して、先 だった肉 親 や知 人 に思 いを馳 せるとき、 私 たちは自 分 の人 生 の最 後 の落 ち着 き場 所 、すなわちこの世 に現 れ出 でたものが帰 るべき所 に思 い至 ります。流 転 に流 転 を 重 ねた娑 婆 での生 活 にようやく幕 を引 き、長 い年 月 の疲 れが癒 される安 養 の場 所 、浄 土 が人 々の 心に開 けるのです。 法 然 上 人 はご自 身 が著 された『選 択 集 』に、自 分 の真 の姿 をさらけ出 して次 のように述 べられて います。 無 量 寿 経 に説 かれる念 佛 往 生 の願 とは、佛 像 を造 ったり、堂 塔 を建 てたり、多 くの寄 進 をしたり、 供 養 をしたり、学 問 や知 識 を習 得 したり、戒 律 を守 ったりすることが条 件 であれば、金 持 ちや知 識 人 そして戒 律 を守 る僧 だけが往 生 でき、貧 しい人 、愚 かな人 、魚 肉 を食 する人 は往 生 が叶 わないことになってしまう。自 分 自 身 は学 問 が進 むにしたがって知 識 の世 界 が広 まり深 まりもしたが、学 問 だけでは往 生 はもちろん魂の救 済 など得 られず、かえって空 しさを感 じるだけである、と。 このことを会 得 (領 解 )することができたなら、南 無 阿 弥 陀 佛 と称 えることによって阿 弥 陀 佛 の働 き を感 ずることができるのです。この法 話 を担 当 する私 も、いろいろな場 面 に遭 遇 し、これも佛 さまの 計 らいかなあと思 うことが多 々あります。そんな時 に、生 きていてよかった、有 り難 いことだと身 に染 みて感 じると同 時 に、人 に対 して、もっと優 しく慈 しみを持 って接 していかなければと思 うのです。現 代 は忙 しくゆっくりできない時 代 です。でも、そんな中 でふっと立 ち止 まり、振 り返 って、たくさんの人 にお世 話 になったり、佛 さまの加 護 にあずかっているなと感 じる心 のゆとりを持 つことが大 切 なので す。そうすれば次 の世 、浄 土 でも周 りの人 と一 緒 できればという心 境 に不 思 議 となってくるのです。
往 生に つ いて(そ の 4)2005/06
いままで当 得 往 生 について話 してきました。今 回 は“即 便 往 生 ”についてお話 しします。 前 回 に弘 願 (ぐがん)という言 葉 を阿 弥 陀 佛 の第 十 八 願 として述 べましたが、弘 願 にはもう少 し 広 い意 味 合 いが込 められています。無 量 寿 経 に説 かれている法 蔵 菩 薩 (阿 弥 陀 佛 が佛 となられる 前 の名 )がたてられた四 十 八 の願 い(本 願 )のうち、我 が西 山 派 では第 十 八 願 を最 も重 要 な本 願 と し“王 本 願 ”といいます。この王 本 願 を我 々凡 夫 に領 解 (理 屈 を超 え、自 然 と肯 き理 解 すること)さ せるためのお釈 迦 さまの教 えが『観 無 量 寿 経 』に日 想 観 、水 想 観 などの十 六 の観 法 として説 かれ ています。この観 法 は我 々が修 行 するものではありません。阿 弥 陀 佛 の本 願 を凡 庸 な私 たちにも解 らせるための観 法 なのです。 我 々凡 夫 が今 生 において、この観 を通 して王 本 願 を会 得 して阿 弥 陀 佛 と一 体 となって当 得 往 生 できるということを覚 り、揺 るぎない信 心 を持 つに至 ることを“即 便 往 生 ”といいます。(その1)で往 生 の本 来 の意 味 は生 まれ変 わること、煩 悩 を断 ち切 り迷 いから解 放 されることと述 べました。即 便 往 生 とは今 生 において迷 いと決 別 し、新 たな自 分 に生 まれ変 わることともいえるのです。このように 私 たちには今 生 と死 後 の二 つの往 生 があるのです。そして、弘 願 とはただ単 に佛になる願 いだけで なく、我 々凡 夫 の即 便 往 生 も含 めたより深 い願 いなのです。 即 便 往 生 のためには、阿 弥 陀 佛 と一 体 であるという信 を打 ち立 てて、阿 弥 陀 佛 の弘 願 の中 に生 かされていることの自 覚 を持 って日 々を送 ること、すなわち“三 心 ”を持 った日 々を送 ることが大 切 で す。このことを法 然 上 人 は次 のように述 べられています。「うけがたき人 身 を受 けて、あいがたき本 願 にあいて、おこしがたき道 心 を発 して、はなれがたき輪 廻 の里 をはなれて、生 まれがたき浄 土 に往 生 せんこと、悦 びの中の悦 びなり」と。すなわち、法 然 上 人 はこう述 べられたときに即 便 往 生 をとげら れているのです。 人 間 がこの世 に生 を受 けることはむずかしく、寿 命 をまっとうすることもむずかしいことです。しかし、 さらにむずかしいことは、正 法 である正 しい真 理 の教 えを聞 くことです。このいたらぬ私 がもったいな くも阿 弥 陀 佛 に救 いとらんと願 われていること、そして阿 弥 陀 佛 のみ教 えに出 会 えた悦 びを知 った なら、迷 いを離 れて不 安 だらけのこの世 界 を生 きる勇 気 と安 心 を得 られるのです。人 間 に生 まれて よかったと喜 び、生 きていることに感 謝 し、周 りの人 々に目 を向 け、思 いやりを持 って接 することがで きるのです。 【参 考 】第 十 八 願 :もし、われ佛 をえたらんに、十 方 の衆 生 至 心 (ししん)に信 楽 (しんぎょう)して、わが国に生 まれんと欲 して、乃 至 十 念 せん。もし生 ぜずんば正 覚 を取 らじ。ただし、五 逆 と正 法 を非 謗 するを除 かん。(『無 量 寿 経 』第 十 八 願 ) 十 六 観 法 :日 想 観 、水 想 観 、地 想 観 、宝 樹 観 、宝 池 観 、宝 楼 観 、華 座 観 、像 想 観 、真 身 観 、観 音 観 、勢 至 観 、普 観 想 観 、雑 想 観 、上 輩 観 、中 輩 観 、下 輩 観 三 心 :至 誠 心 、深 心 、回 向 発 願 心 (往 生 について(その2)を参 照 のこと)