市民的抵抗の哲学 : 久野収の思想から
その他のタイトル A Philosophy of Civil Resistance : The Case of Kuno Osamu
著者 寺島 俊穂
雑誌名 關西大學法學論集
巻 63
号 5
ページ 1662‑1597
発行年 2014‑01‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/8351
市民的抵抗の哲学
市民は不正に対してどのように抵抗できるのか︒とくに日本のように集団主義的圧力の強い社会では︑異端の意見 を表明することすら困難を伴う︒社会の同調化圧力と戦い︑場合によっては︑孤立無援の立場を固持しなければなら ないからである︒民主主義においては︑間違っていると思うことに対しては︑
は じ め に
ー久野収の思想からーー
市 民 的 抵 抗 の 哲 学
目 次
一
は じ め に 二 市 民 的 抵 抗 の 軌 跡
三市民的抵抗の思想的基盤
四 市 民
王義の思想的展開
五 お わ り に
寺
︵一 六六
二︶ 一人ででも反対する精神が重要であり︑
島
俊
穂
少数者の意見や立場が尊重されねばならないのだが︑少数者の自由を尊重する文化は︑抵抗の実践をとおして築き上 げられていくものであろう︒市民的抵抗を実践していくには横につながっていく連帯が必要だが︑基点になるのは
一
人ひとりの人間である︒本稿は︑久野収という戦前から一貫して不正や圧政に対して抵抗して生き抜いた市民哲学者 を取り上げて︑久野の思想から市民的抵抗の基盤を抽出しようというものである
︒
久野収(‑九︱
o l
九九
︶ は︑﹁今日︑私たちが何げなく使っている
(1)
しい意味を与えた思想家・哲学者﹂と紹介されているように︑市民哲学者︑市民運動家と知られ︑市民ということば
︵久野自身は﹁コトバ﹂とカタカナ表記する場合が多い︶を新しい意味で使っただけでなく︑実践した思想家・評論 家である︒久野は︑市民︑抵抗者︑哲学者︑評論家︑大学講師︑市民運動家︑対話の名手︑著作家︑翻訳家︑編集者 であり︑さまざまな仕事をこなした多面的な人間である
︒さらに付け加えるなら︑﹁好奇心の塊﹂のような人であり︑
その関心は︑政治社会の諸問題だけではなく︑野球や広告にまで及んでいた︒
口
私が重視するのは︑久野が﹁下からの学問﹂を構築しようとした市民哲学者であったことである︒久野収は︑市民 哲学の︱つのかたちを示した思想家であり︑その核心には市民的抵抗の哲学があった︑と考えている︒ここで市民哲 学というのは︑﹁市民についての哲学﹂︵市民とは何かについての哲学︶という意味だけではなく︑﹁市民として生き ていくための哲学﹂︵市民的実践の理論的基盤を提供する哲学︶
市民ということばをいち早く使い︑このことばの意味を深めた思想家であった︒今日︑﹁自立した個人﹂としての積 極的な意味を与え︑市民概念の転換をなした思想家として久野は記憶されるべきである︒久野の市民哲学は自らの市 民的実践から紡ぎ出されたものであり︑彼の生きた歴史的文脈のなかで捉えなおさなければならない︒後者について
関 法 第 六 一 = 巻 五 号
という意味も込めている︒前者について︑久野は︑
︿市民
﹀
というコトバに︑世界ではじめて新
︵ 一
六 六
一 ︶
る内容ともなっている︒
は︑久野がどのような思想を学び︑摂取して自己形成したかという思想形成の側面から明らかにしなければならない︒
市民哲学の形成にとって重要だと思われるのは︑プラグマティズム︑とくにジョン・デューイの思想から何を摂取し︑
自らの思想の拠り所としていったかということである︒もちろん︑
プラグラティズムだけに寄りかかっていたわけではない
︒
しかし︑実践のなかで考えるということをラデイカルに追 求した点でプラグマティズムを自分なりに消化して︑自己の思想的基軸としていったことは揺るぎないところだが︑
デューイの思想とも違いがあるので︑
ほかの思想からもポジテイヴな要素を採り入れ︑
ほかの思想的源泉にも注目していかねばならない
︒
︵一
六六
0 )
そのような市民哲学者である久野の思想をとおして市民的抵抗の哲学を構築するさい︑久野がどのような問題と格 闘し︑どのような思想や信条に到達したか︑またそれがわれわれにとっても意味あるものであるということが前提に
なっていると思われる︒
久野は市井の哲学者であり︑市民運動家であり︑書斎の人ではなかった
︒久野には主著がな
いと言われるが︑時事的な論文にとどまらず︑時代のなかで思索を深めていき︑新しい認識の地平を開いていった論
考を書き残した思想家である︒
それらは︑久野という人間をとおして︱つの思想に再構成することができる内容を具 えていると言えよう︒久野には時代を超えて読み継がれるべき著作もあり︑それらは来るべき市民の時代を先取りす したがって︑本稿では久野の代表的論考や対談に注目して︑久野の思想から市民的抵抗の思想的基盤を明らかにし
ていきたい︒久野を取り上げるのは︑戦前から一
貰して反ファシズム︑平和主義を貫き︑時代の潮流におもねること なく︑思想形成していった久野の生き方に共鳴したからであるが︑久野の民主主義思想や平和主義についてはすでに
(2 )
論じたことがあるので︑ここでは市民哲学者としての久野の思想的核心がどこにあるのかという問題関心の下で︑市
市民的抵抗の哲学
三
民的実践をとおして形成されていった久野の思想について論じていきたい︒したがって︑久野の生き方を決定づけた 出来事に注目し︑市民的抵抗の実践を跡づけたあとで︑どのような思想を摂取しながら市民的抵抗を基軸にした︑独
市民的抵抗の軌跡
久野の人生を決定づけた出来事をあらかじめ示すとしたら︑①一九︱︱︱
三
年の瀧川事件︑②
一九四五年の日本の敗
戦︑③
一九六
0
年の安保闘争︑という三つの出来事があげられる
︒① の瀧川事件は︑久野は学生として関わり︑民 主主義と大学自治を体験するとともに︑支援運動に参加している学生と同志的なつながりを形成し︑そのような連帯 のなかから反ファシズム文化運動へと展開していった点で︑久野の思想形成の重要な契機であった︒②の敗戦は︑市
民的自由を日本社会に根づかせ︑
ファシズム戦争体制を再現させないという決意での再出発という意味で︑重要な時 点であった︒③の安保闘争は︑久野は指導者としてではなく︑個人として︑市民として政治に関わり︑市民主義とい う立場を明確化する契機になる出来事であった︒久野の人生と思想は
一貫 しているが︑これらの出来事が結節点と なっていると思われるので︑市民的抵抗の哲学の形成という視点から市民的実践の軌跡を追ってみたい
︒
ゆきとき
一九三三年︑久野は︑京都大学哲学科一二年在学中に﹁瀧川事件﹂に際し︑自発的に関わり︑瀧川幸辰教授の処分撤 回を求める反対運動を組織した︒もっとも︑久野は最初から積極的に関わっていたわけではなかった︒瀧川事件︵別
瀧川事件に関わる
自の市民哲学を形成したのかを分析していくことにする︒
関 法 第 六 三 巻 五 号
三四
︵一 六
五九
︶
なっ
た︒
るなど抵抗し︑全学的に抵抗運動が組織された事件である︒久野は︑文学部哲学科におり︑卒業直前の三回生で卒論 に忙しかったので︑﹁法学部の学生運動を支持はするけれども︑中心の一人になって退学をかけてまでたたかう意志
(3)
はなかった﹂が︑同日午後に開かれた法学部学生大会を傍聴し︑教授団と学生が団結して瀧川教授を守ろうとしてい る姿に感激し︑﹁これは卒業論文どころの話ではない
︒
ここにはマスプロ化した大学でもうなくなってしまったかに 見えた教えるものと教えられるものとのほんとうの対話︑
ほんとうの学びあいが復活しているではないか
︒この精神
(4)
をよみがえらせるためには京大学生として引きこんでいるべきではない﹂と思って︑積極的に運動に参加することに
(5)
久野が戦後︑述懐するところによれば︑瀧川事件は大学自治を求める運動であり︑﹁徹底的民主主義﹂の実践で
(6) あった︒
ここで﹁徹底的民主主義﹂というのは︑直接民主主義による自治の実践である
︒下から上へという討議の過
程を重視したということである︒久野は︑ドイツのワイマール時代のレーテ
(7) ﹁大学生レーテ﹂だと思ったという︒代表者の会議は五︑六
0
人ぐらいから成り︑
間以上も続けるから進行と調整にはねばり強い努力が必要だったが︑執行部はそうした労をいとわなか
った
らか
(8) ︑
﹁出席者はみんな充分議論したという実感をもち︑各高校別グループの会議に熱のこもった報告をすることになる﹂︒
久野は︑このような︑時間をかけた討論のなかで参加者が納得する結論に到達することに民主主義の核心があると理
解したのである︒
市民的抵抗の哲学 したが︑拒否されたため︑
三五
︵ 一
六五
八︶
名︑京大事件︶とは︑思想弾圧事件であり︑刑法学者瀧川幸辰をその思想内容のため文部省が京都大学に罷免を要求
一九
三三
年五月二
六日に瀧川を休職処分にしたのに対し︑法学部の全教員が辞表を提出す
みな発言し︑白熱した討論を六時
︵労農評議会︶を聞き知っていたから︑
一方で︑久野は︑﹃美・批評﹄という雑
久野は︑積極的に動き回って教授や大学院生の運動への支持を取り付けようとした︒久野の指導教授田辺元は運動 を支持し︑大学院生の中井正一は︑最初は尻込みしていたが︑高代大会を傍聴してから決意を固め︑大学院生の運動 を組織した︒この件を契機として︑久野は中井と同志的連帯の関係をもつことになる︒六月末に法学部教授会が分裂
し︑多くが辞表を撤回し︑七月には京大の日本共産青年同盟︵共青︶の活動家のほとんど全員が検挙され︑投獄され︑
瀧川教授罷免要求に始まる京大闘争は壊滅した
︒
こうして京大闘争は敗北するのだが︑それでも久野は運動を続ける
( 9 )
意思をもち︑﹁もう敗北したのだから帰郷せよという田辺さんとにらみあう喧嘩までした﹂が︑結局︑特高警察に脅 され︑京都から追い出されたのである
︒
久野は︑現実に妥協したり沈黙したりする教授陣の不甲斐なさと学部や大学 の壁を越えた連帯を組めなかった市民的自由の欠如を痛いほど感じ取るとともに︑このような自治による抵抗の経験 久野は︑京大闘争の敗北でガ
ックリしていたところ︑毎日新聞の資金援助で始まっていた京大文学部とドイツのラ イプチッヒとの交換学生制度の第
二回交換学生としてライプチッヒ大学に行くことに決まったが︑
あったため断念した︒朝日新聞の入社試験を受け︑落ちたので︑行きどころがなくなり大学院に進んだ︒
︵昭
和
一
0
)
年に昭和高等商業学校︵以下︑昭和高商と略記︶
反ファシズム文化運動
が久野のその後の人生を決定づけることになった︒
関 法 第 六
三巻
五 号
ヒトラー政権下で
一九三五
の専任講師になり︑翌一九三六年に教授になった ︒
一九三四年から反ファシズムの文化運動に参加した
︒中井らが出していた
誌を︑﹃世界文化﹄という名前にすることを提案し︑毎月一回の研究会とともに︑﹁新しい反ファシズム運動の情報と 三六
︵ 一
六五
七︶
0
月︶三七
︵ 一
六五
六
︶ (
) J O
理論を紹介する抵抗誌﹂を誕生させ︑その中心的役割を担った
︒す
なわ
ち︑
﹃世界文化
﹄(
‑
九三
五年
二月ー三七年一
の発刊・編集に関わり︑校正︑印刷︑広告取りなどもほとんど
一人で引き受けた
︒ ﹃
土曜
日﹄
ー三
七年
︱
一月︑四四号刊行された隔週発行のタブロイド版の新聞︶
集にはタッチしていない︒
の発刊に関わり︑執筆者としても関わるが︑絹
(1 2
)
いずれも反ファシズム文化運動の
一翼を担ったが︑
﹃世界文化﹄
は︑﹁世界文化の大通り﹂を歩むことを目指して創 刊され︑瀧川事件で目指した学問・思想の自由を守ろうした雑誌であり︑反ファシズムの文化運動の
一環
とし
て︑
ラン
ス︑
フ
スペイン︑その他の人民戦線運動を紹介︑解説していた
︒
久野は﹁松浦良太郎﹂という箪名で﹁海外に於け る 移 民 学 者 団 の 活 動 社 会 研 究 学 校 を 中 心 と し て
﹂ ( ‑ 九 ︱ ︱
︱六年
二 ︱
月号︶という論考を書き︑ナチスに追わ
(1 3
)
れた
学
者︑友人への連帯の意志を表明している
︒また︑続いて﹁移民作家と国外出版所書店を中心とするドイツ
移 民 作 家 団 の 活 動
﹂ (
‑ 九 三 七 年
一
0
月号︶を執筆し︑移民︵亡命︶作家たちの生活を支える出版社を紹介し︑
(1 4
) その活動に光を当てている︒
久野によれば︑
﹃土曜日﹄のほうが最大で八
0
0
自部に及んだ発行部数からも︑大衆
0
(1 5
)
身の創造的文化を打ち建てようとしたその性格からも︑はるかに影響力が大きかった
︒久野自身︑あとから考えれば︑
﹁市民運動﹂と言えるものだった︑と述懐しているように︑共産主義運動とは
一線を画す抵抗運動であった︒
﹁未
熟
さをぬけ出すか抜け出さないかの青年であった私にとって︑ファシズムも京大事件も︑客観的対象認識の問題などと︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ヽ(
1 6 )
いう余裕のある問題ではなかった
︒
どう闘い︑どう敗けを少なくするかの問題以外の何ものでもなかった﹂
︒
﹃世界文化﹄
は ︑ フランスにおける人民戦線運動に刺激を受けて発刊されたものだが︑世界的な人民戦線をつくる
というようなはっきりした目的意識をもったものではなかったという︒なかにはそういった目的意識をもった人もい
市民的抵抗の哲学 ︵一九三六年七月
こうして久野は︑
とした日本共産党の幹部との関係性で罪に問われたからである
︒
たが︑そのような目的意識は隠れていたし︑連帯をするにも充分な交流があったわけではない︒ヨーロッパでの反
ファシズムの運動を紹介することを主たる目標としていたが︑精神的な連帯を求めていたとも言えよう︒
ンテルンが一九三
五年の第七回大会で︑それまでのように社会民主主義勢力をファシズムの﹁友軍視﹂する見方から 人民戦線を戦術として用いる立場に方向転換したことから︑逆に︑治安維持法の下で 迫ってきた
︒
﹃世
界文
化
﹄
は共産主義運動とは一線を画しており︑久野が考えていたのは︑党や幹部からの上からの 指令を守り︑教条主義を生み出す﹁上からの哲学﹂ではなく︑下からのグループ活動︑サークル活動に支えられた
(1 8
) ﹁下からの哲学﹂を打ち建てていく必要があるということである︒久野は︑こうした文化活動をとおして︑市民的自
由の実践なしには︑政治社会の動きに影響を与えることはできないという信念を固めていったのである
︒
﹃世
界文
化﹄
﹃世
界文
化﹄
た容
疑︶
の同人の多くが一斉検挙されたのは︑治安維持法によってであり︑
真下信
一︑中井正
一が検挙され︑そのあと久野収︑禰津正志︑翌一九
三
八年には和田洋
一や
武谷
︱︱
︱男が検挙され︑
や﹃
土曜
日﹄
一九 ︱ ︱
︱
二年以来天皇制打倒を目標
の主要メンバーは一
網打尽にされたわけである
︒それは内通者がいたためだが︑共産党と
関係する者ならすべて検挙しうるという治安維持法の性格によるものである
︒
で︑警察の留置場と未決囚として京都山科の刑務所︵京都刑務所︶
一九三
七年
︱
一月
から
︱︱
︱九年秋ごろまで治安維持法違反の嫌疑︵﹁京都人民戦線事件﹂に関わっ
(1 9
)
で獄中生活を送った
︒
久野が関わった
消極的抵抗のかたち
関 法 第 六
三巻
五
号
一九三七年
︱ 一
月八日に始まる一斉検挙で新村猛︑ ﹃世界文化﹄には危険が押し 三八
︵ 一
六五
五︶
一方 ︑
コミ
あった︒しかし一四年︹一
九三
九年
︺
﹃世
界文
化
﹄
や﹁
土曜
﹄日
一方
で︑
きなかった︒
久野の述懐によれば︑﹁一回だけでしたが︑中井さん
維持法違反で﹁懲役二
年︑執行猶予五年﹂
三九︵
一六
五四
︶
は発禁にもされず︑合法的に刊行されていたから︑久野は︑この逮捕自体が不当なものだ できるだけはやく起訴されたいという思いがあったが︑友人知人を苦境に追いやることはで
︹中井正一︺とぼくはかなりきつい拷問を加えら
(2 0
) れました︒
殴るのではなく︑股から下を何回も踏みつけ︑立って歩けなくするような拷問﹂であった
︒それは︑消費
組合運動の活動家を介して共産党活動家との関係を疑われたためで︑中井と久野は︑実際に共産党幹部職員と連絡が
(2 1
)
あったが︑﹁もちろん︑中井さんもぼくもシラを切り通しました﹂という
︒
久野
は︑
二年にわたって獄中生活を送り︑皮膚病にさいなまれ︑何もかもが馬鹿馬鹿しくなって転向声明を出し︑
(2 2
)︵
2 3 )
獄を出ることができるのだが︑思想的に転向したわけではなかった
︒
一 九
三
九年八月八日に京都地方裁判所で︑治安
( 2 4 )
の判決を受け︑敗戦の日まで﹁思想犯保護観察﹂に処せられる
︒昭和高商
で休止中の経済研究所の無給職員兼留守番として研究所で寝泊まりをして糊口をしのいだ︒出獄後はおとなしくして いるのだが︑戦争体制への非協力を貰いた︒思想犯保護観察所には行かず︑自分で引いた一線を越えないことによっ て精神の独立性を保とうとした
︒
共産党のように天皇制打倒という﹁玉砕﹂戦術に出るのではなく︑ナショナルエゴ イズムの強さが天皇制として内側から縛っているのであり︑天皇制を外側の存在ではなく日本社会の内側の問題とし て見なければならいと自覚しなければならないと考えていく
︒
というのも︑久野が獄中から出てきたときには捕まっ たときとは大きな落差があり︑
市民的抵抗の哲学 と考えていた︒
ナショナリズムが日本社会を捕えていたことにショックを受けたからである
︒久野に
よれば︑﹁昭和
︱
二年︹一九三年七
︺ には︑まだいろいろな仕方で戦争に抵抗したり批判したりする勢力が各所に の暮れには︑権力者があらゆる仕方で抑圧したという面ももとより大きくある
けれども︑大部分は自発的に転向し︑自分の体質へ先祖返りしていた︒従来彼らが拠っていたリベラリズムとか︑
(2 5
) ルクス主義の思想原理はただ上半身をまとう洋服に過ぎなかったという感じを受けた﹂︒
このような認識から久野の独自の転向論が出て来るのだが︑その要点は︑民族や国家が危機に陥った場合に強く意
識される自然村的イデオロギーが根底にあるので︑自由主義者や共産主義者やマルクス主義者になるのが転向であり︑
左翼が右翼ナショナリストになるのは逆転向だという認識である︒その点について久野は︑﹁この日本への帰属意識︑
忠誠心に較べると︑従来自分の信じていたと思いこんでいた自由主義の世界意識やマルクス主義のインターナショナ
( 2 6 )
リズムは底の浅い︑着たり脱いだりできる洋服にすぎなかったと自覚したのではないか﹂と表現している︒したがっ て︑思想の摂取がどれだけ自分の生活のなかで︑自分の生活を律するかたちで行なわれたかが重要であり︑日本人の
体質に潜むナショナリズムを克服しない限り︑簡単に﹁先祖返り﹂してしまうということである︒つまり︑左翼から
右翼への﹁転向﹂は﹁先祖返り﹂にすぎないのであって︑思想が身についていなかったということである︒重要なの は︑日本人の上下︑内外︑中央地方の差別の構造を内側から克服していくこと︑その差別の構造のうえに天皇への忠 誠が成り立っているのだから︑﹁そのようなとらえ方をすれば︑天皇制に正面衝突して玉砕せずとも︑この差別を少 しでも少なくし︑平等化する運動は過激なナショナリズムの集団エゴを解消させる方向に役立つし︑この差別原理は
(2 7
) めいめいの内側にあるんだという自覚もともなったと思うんです﹂という︒
したがって︑このようなナショナリズムを克服し︑自由主義やマルクス主義というような思想を自分のものとして いくには︑社会的に形成された自我を問いなおし︑自己を鍛えていく必要があり︑生きる場で刻々と闘っていかねば ならない︒﹁思想は自分の生活︑自分たちの仲間の生活︑家族の生活を律する日常の原理として立てられなければい
関 法 第 六 三巻 五 号
四〇
︵ 一
六五
三︶
マ
向する︶ことはあっても︑思想的には同調︵転向︶
しない
︒
ここで同調しても︑
四
︵ 一 六
五二︶ (
2 8 )
けない﹂ということであり︑自分なりのタクティクスを立てて抵抗していくことである
︒表面的に同調する
ほかのところでは不服従するという
ことである︒
久野によれば︑思想犯保護観察所へは一回も行かない︑天皇陛下万歳とか戦争万歳という表現は絶対に 書かないということは︑最後の一線として守るが︑﹁実際の生活の上では隣組に放りこまれ︑警防団に引き出された りする︒しかし自分が知識人の端くれである以上︑公の場所で戦争をたたえるようなことは絶対書かない
︒もちろん
ぼくらも予備兵点呼に引き出されたりするから︑
︿
軍人に賜りたる勅語﹀を暗誦せよと言われれば︑うろ覚えでも言
わざるを得ない︒
その点では同調させられているが︑その同調のたびごとに︑ここで同調するかわりに︑自分の思想
( 2 9
)
を守って︑何に同調しないかの精神のポリティックを立てて実行しなければならない﹂ということであり︑これが久 野の場合の消極的抵抗のかたちである
︒
久野は︑このように同調と不服従を繰り返しながら︑譲れない一線を守って いくことによって︑思想的な非転向を貰くだけではなく︑新たな思想形成に向かうことができたのである
︒
戦後の再出発
久野は戦後︑
三
つの柱を立てて︑実践活動に取り組んだという
︒﹁︱
つは︑私権を守る運動を自分はしようという こと︑もう︱つは︑自主的組織というのをいろいろなところでつくらねばならんということ︑⁝⁝それからもう一っ
( 3 0 )
は平和の問題︑この三つだね﹂という
︒
ここで久野が私権というのは︑個人の人権であり︑思想︑言論︑学問など市 民社会を支える権利︵市民的権利︶
市民的抵抗の哲学
で あ る
﹁
﹁ 私
﹂ の権利というものがあって︑そこから団結権とか組織権に攻 めのぼっていかないかぎりは︑またその団結権︑組織権自身によって︑政党とか組合とかによって私権をまるがかえ
︵表 面転
久野
は︑
要だと述べている︒
︵ 隣
一匹
狼
︑ 離 れ 猿 の 立 場 は 文 化 を 体 質
( 3 1 )
にされてしまう︑という可能性が非常にある﹂︒もっとも︑組合自体が企業内組合として体制内組合化していく傾向 も出ていくのであるから︑組織の中にあっても個人の立場から抵抗し︑参加することが重要であり︑そのような民主 的な主体をどのように形成していくか︑すなわち市民教育︵市民になるための教育︶が︑久野が戦後取り組む最初の 課題になる︒久野が自己形成した市民哲学と同じく︑上から引き上げる﹁教育﹂ではなく︑この場合でも市民大衆の なかに学びの場をつくり︑共に学び合うことをとおしての相互学習としての市民教育である︒
個人の立場に立つということに関して︑久野の場合は︑戦争中﹁国家と民族から疎外されて︑個人の立場に立たな
(3 2
)
いわけにはいかなかったから︑少しはましだっただけですよ﹂と語っているように︑体制内にいる人間は国家主義や 集団主義に絡め取られやすいので︑どのようにして社会的圧力に屈しない自己を形成していくという問題を考えると ころから出発したと言えよう︒久野は︑﹁個の独り立ち動物で言えば︑
に持つ人間においては︑とりわけ弱い存在にしかすぎないですから︑個は任意団体︑自発結社︑契約組織という相互 連帯の集団︑ボランタリー・オーガニゼーションをつくつて︑仲間の結合と環境のコントロールに力を入れなければ ならない︒もう一っ︑任意団体における相互の部分的接触ではなく︑相互が全面的に接触しあうネイバーフッド 近所づきあい︶関係が上からの隣組組織ではなく︑下からの平等的つきあい組織として強固に成立していなければな らない︒イギリスのバローやアメリカのタウンミーティングです︒でなければ︑個はタテ型の社会集団の上下の秩序
(3 3
)
の中に呑み込まれてしまい︑自由を喪失する結果になるのです﹂と︑自発的組織と居住地域での対等な近隣関係が重
一九四六年に京都に︑﹁再出発を確かなものにする﹂という考えから新村猛︑青山秀夫︑住谷悦治と協力
関 法 第 六 三 巻 五 号
四
︵ 一
六五
一︶
四
︵一 六五
0 )
(3 4 )
して﹁市民による︑市民のための︑市民の学校﹂として︑﹁人文学園﹂をつくった
︒
これは︑民間教育運動の一っで︑
三年制の学生数一五
0
名ぐらいの学校であった︒久野は︑戦時中庇護してくれた昭和高商の後身の女子経済専門学校 を一九四七年四月に辞め︑京都に移り﹁人文学園﹂の講師となる
︒
﹁人文学園﹂では︑ほとんど無給で︑﹁教師と学生
(3 5
)
がともに学び合うという学校の特色を生かして﹂力を尽くしたという
︒
人文学園時代に︑久野は占領軍の労働課の京 都方面主任に組合や政党から独立した﹁労働学校﹂をつくることを提案し︑認められ︑労働学校ができ︑自治体や組 合の後援を得て︑﹁進歩的学者﹂の協力を得て運営されていった︒学制が復活し︑人文学園は各種学校扱いとされ︑
を目指す運動であり︑久野は組織者︑講師としてこの運動に深く関わった
︒
久野
は︑
あり
︑
一九五
0
年に大阪労働学校と合併になったが︑これらは︑教育を通じての民主化 日本が降伏した八月一五日に﹁肉体的にも精神的にも極度に疲れてい
ましたが︑もう戦争は終わったんだ
という解放感は︑たまらなかった
︒
ただその後︑戦争遂行に︑どうしてもっと賢く抵抗し続けなかったか︑という悔 恨があとからあとから噴き出してきて︑ぼくは心の痛みに悩
まされました︒
抵抗の足りなかった自分の中の
︿日本人(
﹀的同調性 3 6 )
への悔恨が深くあとを引いていました﹂と述べているように︑この悔恨の思いが平和運動に久野を駆り立
パ シ フ ィ ス
ト
てた︒久野は︑自分が青年期以来平和主義者でありたいと願い続けてきたが︑それは戦争が根本的に矛盾したもので
( 3 7 )
みずからその矛盾に充分な答えが出せなかったからだと述べている
︒
しかし︑重要なのは︑具体的な状況のな かで現に起こっている︑あるいは起ころうとしている戦争を阻止することであり︑阻止できなかったことへの悔恨の 念を持ち続けていったことである︒もちろん︑戦争は一人の人間で阻止できるものではないので︑協カ・連帯して阻 止し︑防止していかねばならない︒久野が徹底的平和主義者︵ラデイカル・パシフィスト︶になったのは︑このよう
市民的抵抗の哲学
資格取得や学割証明などができず︑
︵一九四八年七月︶を受けて ﹁鉄のカーテン﹂演説を行ない︑ いうことを知っていた︒武谷とは
一九四九年初頭に東京に東京平 一
九四六年にチャーチルが
久野は︑物理学者の武谷三男と親しい付き合いがあり︑広島に新型爆弾が投下されたあとすぐに︑それが原爆だと
かかっていなかったので︑月に一︑二
度久野のところへ訪ねて来て︑久野もたまに武谷の研究室を訪ねるなど︑親密 に交際したが︑ある日︑原子核のサイクロトロン室に案内され︑そこの責任者である菊池正士から詳しい説明を受け
(3 8
)
ていた︒武谷は︑調書を書きに東京地方裁判所に通わされていたが︑広島への原爆投下が知らされた日に︑判事や検
事ら
一
0
0
人ほどが武谷の話しを聞きに集まり︑武谷が﹁これは原爆だ﹂と断言し︑その説明をし︑すぐにも降伏す(3 9
) みな動揺したという︒べきだと結論づけたとき︑
久野が平和の問題を軸に市民としての実践活動を始めていくのは︑戦争中の抵抗が不十分だったことへの悔恨にも
よるが︑技術の発達によって戦争阻止が人類史的課題になってきたという認識にもよる︒
危機となって現れてくる時代に入っていった︒国内的には︑﹁逆コース﹂と言われるように︑反共的な政策が採られ ていった︒こういった状況のなかで日本の左翼のなかでは社会主義信奉派が多かったが︑久野の立場は︑﹁平和﹂を
(4 0
) ﹁革命﹂から切り離し︑平和を最優先することであった︒
﹁戦争は人の心の中で生まれるものであるから︑人の心の中に平和の砦を築かねばならい﹂というユネスコの声明
﹁ 世
界 ﹄
討議してまとめた﹁戦争と平和に関する日本の科学者の声明﹂がきっかけになって︑ な理由による︒
関 法 第 六 三 巻 五 号
﹃世
界文
化﹄
の研究会以来の付き合いで︑武谷は二度検挙されたが︑保護観察には
一九四八年にベルリン封鎖が行なわれ︑東西冷戦が始まり︑米ソの対立が核戦争の
の編集長吉野源︱︱一郎が一九四八年
︱ 二 月に安倍能成︑大内兵衛︑仁科芳雄らが
四四
︵一 六四 九︶
和問題談話会︑京都に京都平和問題談話会が結成された︒久野は︑
議﹂総会で書記役を務め︑
ときにのみ実現できる﹂となっていたが︑平和問題談話会で一年間の討論の末︑
︵ ﹃ 界 世
﹄ 一九四九年︱一月号︶
四五
︵一 六
四八
︶
四九年には東京に移って﹁平和問題談話会﹂での活動を開始した
︒
久野は︑そこで革命の論理と平和の論理を分け︑米ソの
二
つの陣営を共存させるための論理を構築しようとした
︒
﹁戦争と平和に関する日 本の科学者の声明﹂では﹁平和は社会組織及び思惟様式の根本的変化を通じて︑人間による人間の搾取が廃止された 表した声明では︑自由主義陣営諸国との単独講和は冷戦を激化させる片面講和として批判し︑
ソ連・中国をふくめた 全面講和を結ぶべきだと主張し︑独立後の日本が軍事基地を撤廃して中立政策をとることによって国連加盟が可能に
なると主張した
︒
久野によると︑清水幾太郎︑丸山慎男︑都留重人が中心になって︑
久野は︑革命と平和の問題を切り離すことをはじめて主張した一人であり︑﹁平和の論理と戦争の論理﹂という論文
でその立場を表明している
︒
久野は︑その論文のなかで﹁次の世界戦争は︑
ほとんど
の人類をこの地球から絶滅させる可能性をはらむような新しい条件を加えつつある︒われわれのこの地球上での存続 が︑今や新しい戦争を避けうるわれわれの能力如何に絶対的に依存するような新しい状況が生まれつつある
︒
⁝⁝われわれ人類が︑この地球上で今後も生き残ってゆくために︑現在必要とされる条件を充実する課題と︑人間の現在の ありのままの条件との間のへだたりは︑
ほとんど絶望的であるほど大きいと感ぜられている
︒
しかも︑もしこのへだたりをうずめる能力と決断が︑われわれ人間に欠けているとすれば︑原子力時代の誕生は︑われわれ人間の絶滅の瞬
(4 2
)
間の予告そのものとなるであろう﹂と述べ︑原子力の誕生によって人類の絶滅の危機に瀕する以上︑暴力によらない 平和的手段で平和を実現していく平和の論理を構築していく必要を説いている
︒
久野は平和問題談話会で重要な存在
市民的抵抗の哲学
このような立場に至ったのだが︑
一九
五
0
年一月に五六名の連名で発
一九四八年﹁ユネスコ声明に応える科学者の会
市民と知識人のあいだ
となるのだが︑久野が平和問題談話会に入った直接の動機は︑久野が﹁尊敬し︑戦争直前に文通のあったマックス・
ユネスコ声明を出した八人科学者の一
ホルクハイマーーーーフランクフルト社会研究所の責任者だった哲学者が︑
(4 3
)
人として名を連ねていた﹂ことにあるという︒久野は︑東京と京都双方の平和問題談話会のメンバーとつながりが
(4 4
) あったので︑﹁調整役のような仕事を引き受けていた﹂のである︒
平和問題談話会は数回にわたって声明を出し︑国民世論も全面講和を支持するほうが多かったにもかかわらず︑日
本は一九五二
年に自由主義陣営とのみ講和条約を結ぶことになった
︒
同時に日米安保条約も締結し︑占領期からの米 国の反共軍事体制と世界戦略のなかに組み込まれた状態が続くことになる︒平和問題談話会に加わった知識人はそれ
ぞれ自らの職場に戻っていくが︑久野は市民運動家として民衆のなかに入って反戦平和の平和運動をする道を選んだ︒
一九五五年には︑砂川基地闘争の支援をし︑党派を超えた運動にする︒﹁この運動は︑最後までデモ︑座り込み︑大
(4 5
)
衆アピールという非暴力的直接行動の市民運動として闘いぬかれた﹂︒破壊活動防止法︵破防法︶に対する反対運動
︵一九五二年︶︑内灘基地反対闘争(‑九五︱︱︱年︶︑﹃改造﹄廃刊反対運動(‑九五五年︶︑警察官職務執行法︵警職法︶
改 定 反 対 運 動
(‑
九五八年︶などさまざまな運動に関わった︒当時はまだ﹁市民運動﹂ということばは使っていな
かったが︑これらは︑政党や労働組合から自立し︑自立した市民意識に支えられた市民運動であった︒
一九六
0
年は戦後日本の分岐点であった︒それは︑日本を冷戦の
一方の側に付けるか中立日本として平和共存のた めに力を尽くすかの選択を迫られたからであるが︑安保条約批准に対する衆議院での強行採決︑参議院での議論を経
関 法 第 六
三
巻 五 号
四六
︵ 一 六
四 七
︶
帯を地域からつくつていこうとする試みであった︒ フェアな選択をすべきであったが︑日本は︑
四七
の精神を踏みにじるような政治に対する抵抗運動として︑安保闘争が組まれたのである
︒
一 ︵ 六
六 四
︶
ずに一ヵ月後の自然成立という︑強引な政治手法が︑十分な議論を尽くして決めるという議会制民主主義の理念を否 定するものだったからである︒民主主義の原理から言えば︑安保改定を主要な争点にして解散総選挙をするなど︑
アジア太平洋戦争後の占領期以来︑反共軍事体制のなかに置かれていた し︑自由主義陣営のなかに固定化することは︑政権党の対米従属の姿勢から見て︑﹁はじめに結論ありき﹂
ではあっ た︒しかし︑戦後民主主義の教育を受けて育った世代にとっては︑このような手続きに対する反発は強く︑民主主義 安保反対の動きは︑労働組合や社会党主導の﹁安保改定阻止国民会議﹂や学者や文化人の﹁安保問題研究会﹂や
( 4 6
)
﹁安保批判の会﹂があったが︑久野はそれらの団体は﹁上からの﹂の感じがあり︑あまり肩入れしなかったという
︒
( 4 7 )
一九六
0
年には﹁自覚的な形で市民運動を展開していこうという意思が固まって﹂いたから﹁声なき声の 会﹂のような下からのイニシアテイヴによる市民運動に肩入れし︑市民として毎日のようにさまざまな学生団体主催
のデモに加わっていた︒
久野は︑大組織の運動の中心からは遠ざけられていたという
︒
久野が﹁遠ざけられたのは︑
何を言いだすかわからんという側面もあったでしょうし︑組織と共闘するインテリの側に︑
個人本位のぼくに対(
4 8 )
する違和感が大きくあったからでしょう﹂という
︒
久野自身︑下からの運動を組んでしていこうと考えていた
︒久野
は︑当時住んでいた東京都練馬区で下から行動を起こし︑﹁武蔵野沿線市民会議﹂︵武蔵野沿線は現在では西武池袋沿 線︶を結成し︑街頭ア︒ヒール行動をしたり︑市民大集会を開いたりした
︒
これは︑市民主義の実践であり︑市民的連
知識人として︑久野は﹁思想の科学研究会﹂をとおして安保問題に関わるわけであり︑久野が会長を務めていた 久
野は
︑
市民的抵抗の哲学
の声明が発表された ﹁思想の科学研究会﹂では︑新安保条約の強行採決が﹁討議のルールを破り︑かつ︑国民の請願権を無視した不当なも
の﹂
であり︑国会承認以前に﹁現在の国会が解散されて衆議院における採決を無効にし︑国民に対してと同時に自
(4 9
) 己の行為とその結果に対して責任をもつ新らしい政府が生れることを要求する﹂という声明を発表している︒この声
者が公に示したこと﹂に対してである︒したがって︑﹁現在国会を解散することは︑政治権力の自律的統制を確立し
てゆくための唯一
の方
法﹂
であり︑﹁このような事態を黙過することは︑さまざまな思想の多元的交流の中からみの
(5 0
) りある成果をえようというわれわれの会の運動精神と原理的に矛盾し︑会の存立意義を失なわせるもの﹂である︒こ
﹃思想の科学﹄にこの声明文案が決定に至るまでの議事録の要旨も載せられているのは︑抵抗す
る側も民主的なプロセスを示さねばならないという意思からであろう︒
久野によれば︑思想の科学研究会の内部は﹁安保反対派﹂が多数だったが︑少数の腰の強い﹁安保賛成派﹂がいた︒
しかし︑久野が密かに誇りにしていたのは︑﹁内輪もめや脱退騒ぎなど起こさず︑何回もの会議をもって安保賛成派
( 5 2
)
を主役に声明書を起草し︑強行採決に反対する方向の一致を声明できたことです﹂という︒これは︑民主主義の実践実現しようとして共通の立場が出てきて︑ であり︑﹁何らかの意味で自分の生活に内在する伝統や慣習や制度の支配にもかかわらず︑ある新しい共通目標を
(5 3
) はじめて
新しい人間I I
I I
が誕生し︑活動する﹂というように︑職能的団体
から
一歩踏み出して政治的意思表明をすることによってそれに関わっている人間自身も変わっていくという市民的実
践の試みでもあった︒
このように久野は市民と知識人のあいだを行き来しながら︑市民としても知識人としても安保闘争に加わったわけ 明が抗議しているのは︑﹁理性的討議をつくすことを拒否し︑
関 法 第 六
三巻
五 号
一部の力によって決着をつけようとする態度を︑為政
四八
︵ 一
六四
五︶
会がなければ︑市民政治は実現できないという信念の実践でもある︒
四九
一︵ 六四 四︶
いずれの場合も︑小集団を基盤として政治に関わっていくという点で一貰していた︒これらは︑久野が戦 後の再出発に対して重視した自主的な集団づくりであった︒別の言い方をするなら︑自発的結社に支えられた市民社 その場合︑市民団体を基盤にして大状況の政治に働きかけていくという側面もあるが︑団体内での意思決定におい
て民主主義をいかに根づかせていくかという側面もあった︒この点で久野に反省が残ったのは︑﹃思想の科学﹄事件
︵一九六一ー六二年︶に対する団体内意思形成の仕方であった︒久野は︑当時﹁思想の科学研究会﹂の会長だったが︑
研究会内部の強硬派は中央公論社を断罪しろと主張し︑さまざまな意見が対立するなかで︑難しい運営を迫られるこ と疲労困懲のせいとはいえ︑
思想の科学社﹂を設立して初代の社長になり︑自主刊行する ことになった︒久野は︑高畠通敏に対して﹁いま考えてみると︑あなたの言われた通り︑評議員会だけで済ますので はなく︑総会を開きカンカンガクガクの議論をした上で﹁中公﹂側と決着をつけるべきだった︒﹁安保声明﹂の経験
( 5 5 )
ぼくの失策でした﹂と︑反省しているが︑思想︑言論︑出版の市民的自由を守るために 尽力し︑﹁市民的自由を守り︑実行する運動の
一コマとして︑どのケースも同じですが︑持続的エネルギーの要る仕
( 5 6 )
事を何とか果たしたわけ﹂である︑と締めくくっている︒
九一 六
0
年代の高度成長のなかで中産階級が増大し︑久野が﹁チョウチン型社会﹂と名づけたように︑最上層も最( 5 7
)
下層も少数化し︑﹁中流意識を持った中間大衆が大きく膨れあがる﹂大衆社会状況が生まれ︑人びとの意識は脱政治 化し︑私生活やレジャーに関心が向いていくようになった
︒
このような状況のなかで︑革命運動も市民運動も労働運
動も運動の見直しを迫られていく︒
久野は︑﹁声なき声の会﹂に関わり続け︑あくまでも個人ベースの小集団の大切
市民的抵抗の哲学
とになる︒結局は︑中央公論社と訣別し︑﹁有限会社 で
ある
が︑
代や職業を超えて集いえたのである
︒ 解するところでは︑
の実践運動が拡大したかたちだが︑久野は﹁表立っては動かず︑裏方
( 5 8
)
に徹しよう︑ただしデモや集会には必ず参加しようと決意して﹂いたからである
︒
実際に久野は︑街頭デモに中・後 衛の位置で参加した
︒
久野
は︑
かの選択を迫られる緊張状況におちいっても
︵笑︶︑普通は初対面のいろいろな人々と顔を合わせて知り合いになれ
なっちゃ
うんですね
る︒
大道のまん中をデモで歩くと︑脇の歩道を歩く場合と全く違った感覚になり︑大道が自分たちデモ隊のものに
︵笑︶﹂と︑回想している︒
久野は︑非暴力直接行動にも参加しながら︑新しい市民運動のかた ちを模索していた
︒べ平
連は
︑
久野自身も︑
チ・イン︶
久野は︑参加する各政党や知識人の人選を任されたのだが︑政党人やべ平連の中心的活動家︑知識人のほか︑太平洋 戦争を遂行した旧軍人や外交官で﹁ベトナム戦争反対﹂
英機体制を支え︑戦後
A
級戦犯として終身刑となり五六年に釈放された佐藤賢了・元陸軍中将が出席を承諾し︑戦争体験者として自民党政府の民族解放運動抑圧のベトナム政策支持について﹁さきの戦争体験から何らの教訓も学んで
(6 0
)
いない﹂と問いただしたのに対し︑宮沢喜
一や中曽根康弘という自民党の出席者から苦渋の回答を引き出した
︒討論
久野
は︑
一九六五年四月に始まるべ平連の運動に最初から加わったが︑中心的な存在にはならなかった
︒
久野が理
ベ平
連は﹁声なき
声
の会
﹂
さを自
覚していった
︒
関 法 第 六三 巻 五 号
のちに﹁ぼくにとってデモは実に楽しか
ったのです
︵笑︶︑ときどき捕まるか逃げる
ベトナム戦争反対という
一点でまとまった運動だったからこそ︑さまざまな個人が世
一九六五年八月一
四日から一五日にかけて東京
1 2
チャンネル︵東京
放送
︶ での徹夜の討論会︵ティー の企画・司会を務めるなど︑節々で重要や役割を果たした
︒
ベトナム戦争をテーマにしたものだ
った
が︑
の意
見の持ち主を出そうと企画し︑陸軍軍務局長として東条
五〇
︵
一六四
三 ︶
の結
果︑
五
︵一 六
四二︶
アメリカ批判の論調が強まったこの討論会が敗戦記念日の翌朝七時半ごろ終わったときには︑﹁疲労感の中
(6 1
)
にもさわやかな爽快感があった﹂という
︒
ベ平連の運動のなかで久野が特筆するのは︑
年五月
二
日 四
︶︑
ベ平連の国際主義である︒
つま
り︑
ベ平連が日米共同デモ
日 米 市 民 会 議
(‑九六六年八月
︱‑
│︱四日︶などさまざま企画を打ち出し︑実行したことである︒
これらは︑小田実や鶴見俊輔ら国際感覚豊かな活動家がいたからなしえたことである
︒脱走米兵を匿い︑外国に送り
出す脱走米兵援助運動など︑違法にならないスレスレのことをしながら︑米国や日本のベトナム政策︑国際世論に影 響を与える市民的連帯のための行動は︑かつてなかったことである︒久野は︑それまでの国際主義は︑﹁一方は︑冷
戦の東側陣営をまるごと
正I I
とし︑西側のアメリカ帝国主義陣営をまるごと
否I I
I I
とする
一方的国際主義にしI I
かすぎなかった︒
他方は︑共産主義をまるごと敵視し︑反共主義であれば︑
ファシズム的全体主義でも仲間にしかね ない
二
陣営的
I I
国際主義にしかすぎなかった︒べ平連的国際主義は︑西側と東側の敵対的国境を超える
市民主権I I
(6 2
)
者
I I
の国際的連帯によってベトナムに平和を実現しようとした︒これは全く新しい運動様式でした﹂と述べている
︒
党派性を抜きにして︑個人原理の上に立って運動を進め︑そのことによって国籍︑民族︑宗教︑信条の違いを超えて 団結する市民的連帯が生まれる︑ということを示した点でべ平連の運動は画期的なものであった
︒
一九六
0
年代末には新左翼の運動が︑それまでの﹁経済的窮乏化﹂に代わって﹁精神的窮乏化﹂が革命の バネになるという立場から大学における不正や腐敗を衝いて︑過激な変革運動を展開するようになった
︒個人原理で
構成されたべ平連のなかにもセクトの学生が混じって来て︑非政治的市民から始まった運動も政治的市民に左右され
るようになっていった︒
久野
は︑
市民的抵抗の哲学
しか
し︑
ベ平連の歴史を振り返って﹁べ平連はずっと︑多くの自主的小集団の全国的連合体
︵一 九六 五
民運動を後押しする雑誌であり︑久野が名づけ親であった
︒
﹁口笛を吹きながら泥沼を突っ切っていくようなスタイ
(6 7
)
ル﹂を生み出していきたいという発刊の趣旨は︑暗い時代をそのような思いで生き抜いた久野の原点回帰でもあ
った︒
久野は︑ず
っと時局についても発言し続け︑市民と知識人のあいだを行き来しながら︑市民的抵抗者として
一貫
した た︒
久野
は︑
久野が市民運動の原点とみなすのは︑﹁声なき声の会﹂
の実践であった
︒
こうして︑久野は︑前衛が歴史を動かすのではなく︑﹁大衆の実感の中に宿り︑実感を変革する運
(6 6
)
動が歴史を動かす﹂という青年期以来の信念を想起しているのである
︒
由主義
の時代のなかで︑拝金主義のような資本主義の歪みを批判しつつ︑
めている︒
一九
九︱
︱ 一 年から
一九九九年に死ぬまで
でありつづけてきた
︒しかしはじめの予想に反し︑
非政治
I I
的小集団の怒りにみちた
政治行動の連合ではなく︑
(6 3
) 政治
I I
的小集団の怒りにみちた
政治1 1
1 1 行動の連合へとだんだん自分を片よせていかないわけにいかなか
った﹂と
述べている
︒﹁自
立的小集団が
政治
I I
集団として成立していけば︑各セクトのセクトとしての加入を拒む理由はな いから︑各べ平連はセクトの加入や退出によって︑さまざまな影響を受け︑
さかれる上に︑商業ジャーナリズムから反代々木的
新左翼
の一派という
光栄I I
ぁるレッテルをはりつけられる
(6 4
)
結果になった﹂ということである
︒
また︑久野は︑﹁べ平連はそのすばらしい運動様式︑だれでもが設計し︑参加の 主体となる様式を或る程度︑深め︑ひろめたにもかかわらず︑呼びかける人間と呼びかけられる人間との大きな落差
(6 5
)
をついに埋めることができなか
った﹂と︑べ平連の組織が大きくなるにつれ︑上からの指導が生じていった
事
実を認
関 法 第 六
三
巻 五
号
﹃週
刊 金 曜 日
﹄ の編集委員を務めた
︒ ﹃ 週 刊 金 曜 日 ﹄ は︑市
ベ平連はその調整に大きなエネルギーを のような非政治的市民の小集団であり︑下からの民主主義
ナショナリズムや戦争を批判し続けてい
っ 一九九
0
年代には︑久野は冷戦終結後の新
自
五
︵ 一 六四 一 ︶
市民的抵抗の思想的碁盤 的自由のうえに連帯していく市民のあり方を構想し︑実践した思想家であった
︒
五
︵ 一 六四
0 )
久野の思想は︑時代状況のなかで格闘しながら形成されたのであり︑特定の思想に規定されているわけではない
︒
久野は︑プラグマティストと自称しており︑プラグマティズム︑とくにジョン・デューイの思想から大きな影響を受
けたことは事実である︒
また︑青年期からマルクス主義やフランクフルト
学派の影響を受け︑哲学の社会的機能を探
り︑社会哲学の視点から現実社会を批判してきた︒
久野の取り上げたテーマは多岐にわたるが︑民主主義や平和主義 をいかに生活に根づかせるかという問題意識に貰かれていた
︒
久野は︑市民主義ということばを積極的に用い︑市民
久野は︑民主主義
を民衆︑あるいは市民大衆の側から捉えようとした点で
一貰
しており︑下から民主主義を理解し
ていた︒
これは︑民主主義が古代ギリシアに歴史的淵源をもつので当然といえば当然なのだが︑瀧川事件での
自
治活 動︑抵抗運動という徹底的民主主義の実践から来ている側面も大きい
︒
議会制民主主義を論じる場合でも非政治的な 市民の政治参加を基底に置いていた︒民衆の実感に基づき︑民衆に届くことばで語ろうとした姿勢を貫いたのだが︑
思想的にはプラグマティズムから学び︑摂取し︑実践していったこととも関係がある
︒
方法としてのプラグマティズム
久野は︑戦争中ジョン・デューイの著書を読み︑翻訳し︑思索を深めた
︒
久野がプラグマティズムに接近するのは︑
市民的抵抗の哲
学
生き方をした点で︑稀有な存在であった
︒
取っていった思想的核心である
︒ 題は
戦後すぐに久野は︑清水幾太郎と共著で
19 42
) ︑
( 6 8
)
ある
︒
は︑﹃自由と文化﹄ 指導教授であった田辺元から︑彼自身の実践のなかで思考していくという姿勢と合っているので︑められたことによる︒久野は未決刑務所から出てきてから︑ジョン・デューイのT
he
T h
e o
r y
of
ln
q u i
g
19 38 )
を翻訳するためにアメリカの哲学を本気になって読んだという︒久野があげているの ( F r e e d o m n a d
C u
l t
u r
e
,
19 39
)︑﹃ドイツの哲学と政治﹄
﹃哲
学と 文明
﹄
﹃社
会倫
理学
﹄︶
( P h i l o s o p h y
an
d C
i v i l
i z a t
i o n
,
19 31 )︑
﹃江
初旧
個人
主義
﹄
﹃プラグマティズム
I
概論・論理学﹄ている︒久野はプラグマテイズムの紹介と翻訳を手がけたが︑翻訳出版したのは︑
︵白
日書
院︑
一九四七年︶を著し
﹃論
理 学 探 求 の 論 理
﹄
︹改
訂版
︺
ではな く︑パースの﹁われわれの観念を明晰にする方法﹂やデューイとタフツの共著﹃倫理学
﹄
(6 9
)
である︒清水幾太郎や鶴見俊輔との交友もプラグマティズムを共通項にしている︒思想は試さ れることによって真であることを証明される︑現実は可変なものである︑人類は倫理的に進展していくことができる︑
実 践 の な か か ら 教 訓 を つ か み と っ て い く こ と が で き る と い う こ と
︑ こ れ ら が
︑ 久 野 が プ ラ グ マ テ ィ ズ ム か ら つ か み 久野が戦争中ナショナリズムから距離を置き︑時局を正当化せずに思想的に抵抗できたのは︑
アメリカ哲学のおか げ だ と い う
︒
とくに重要だと思われるのは︑英米の個人主義の意味を理解できたことである︒﹁実は︑個人主義の本 当の姿は︑他人の身になって考え︑他人を理解し︑他人と共同の行動を考え出す態度によって自分の個性を深め︑
ひ ろめるスタイル⁝⁝他者への理解と寛容を示すスタイル
︒
落ちこぼれの個人主義ではなく︑社会をつねに新しく形成
( E t h
i c s
,
19
32邦.
( I n d i v i d u a l i s m
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﹃ 論 理 学
! 探 求 の 論 理
﹄
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関 法 第 六 三巻 五 号
五四
デューイ研究を勧
︵一 六三 九︶
くり変えていくという生き方である︒
五五
一︵ 六三 八︶
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(7 0 )
し直すのが個人主義であること﹂をデューイらから教えられたという
︒
また︑意見を独断的なものと考えず︑
吟味していく点もプラグマティズムから学んだ重要な点である
︒
それは︑たんに他者と対話するだけではなく︑自分 つまり︑﹁ある意見を決定する場合に︑個人個人の魂の内部に少数派 の意見と多数派の意見とが対立して対話が行なわれているわけですね
︒
その対話を個人個人が自分の今とろうとする 態度決定の中で生かしているかどうか︑という問題になり︑自分の内心に少数派の批判的意見をもつことが非常に大 切だということがプラグマティズムの出した
︱つの功績ではないかと思うのです
︒はっきりいえば︑意見を独断的信
念としていだくのではなしに︑たえず仮説として︑自分で修正する大きな可能性のあるものとしているだけ︑それが 社会についても個人についても大切なんだ︑という主張が私がプラグマティズムにひかれる︱つの理由なんですが︑
( 7 1 )
多数派と少数派の問題といえば︑個人の内部にある真剣な対話や葛藤の問題なんです﹂ということである︒プラグマ ティズムは︑科学的探究と相通ずる態度だが︑社会哲学にした場合︑良心の自由や学問の自由など市民的自由の実践 なしには自由な社会は構築できず︑絶対的な基準に依りかかるのではなく︑思考し︑行為するなかで絶えず自分をつ 久野の民主主義思想を形づくるうえで最も重要なのは︑
公﹁
﹂と
﹁私
﹂
市民的抵抗の哲学
自身の内面でも対話を続けていく態度である︒
﹃公衆とその諸問題﹄
から学んだことである︒
政治を市民のあいだの相互行為として規定する見方は久野の市民哲学の基点に据えられるが︑
プラグマティズムからの影響を抜きにしては考えられない︒公衆が相互行為や討論をとおして公共性をつくり出して いくという論理は久野の市民哲学に影響を与えたと思われるが︑久野がデューイに全面的に満足していないことは︑
2 ) ( 7
の問題は戦争中デューイを読んでいて何回も考えていたが︑﹁デュウイも解いていないね﹂と語って
つねに
久野によれば︑恐慌と戦争に抵抗する志をもった︑
を克服する道筋を示していたのは︑
久野が天皇制や国家主義を
一貰して批判するとともに︑知識人ですら呑み込まれた戦争熱やナショナリズムから距
離を置くことができたのは︑社会を総体として捉え︑歴史のなかから学ぽうとしたからである︒哲学を内面の意識の 学としてしまうのではなく︑社会のなかで生きる人間の学として位置づけようとした久野にとって︑大学における哲 学研究は教養にしかならないのであり︑社会変革の精神を欠いたものであった︒当時︑資本主義の矛盾を衝き︑それ の若者をとらえ︑久野も︑若い時代に社会変革の思想としてマルクス主義に期待した一人である︒
理論をとおしてマルクス主義に接近していった︒彼らが深い影響を受けたのは︑哲学では三木清︑芸術および宗教理 論では林達夫︑歴史学および神話学では羽仁五郎︑科学論では戸坂澗︑現象学では本多謙三︑美学および論理学では
中井正一
であり︑それぞれ独自の思想を形成しつつあった知識人である︒正統派マルクス主義の影響を強く受けた人
マルクス主義と批判理論
いくことであった
︒
いるところからも窺える︒久野が問題にしていたのは︑日本では﹁官﹂と﹁公﹂が一緒になっているから︑どうすれ ば﹁官﹂から﹁公﹂を取り戻せるかということであり︑私権の擁護だけでは﹁官﹂に抱え込
まれない﹁公
﹂が出てこ
( 7 3
)
ないという問題である
︒
日本の文脈のなかでデューイを発展させていく必要に迫られたのである︒したがって︑久野 にとっての課題は︑プラグマティズムから学びつつ︑日本の歴史的・文化的条件のなかで市民哲学を独自に構想して
関 法 第 六 三 巻 五 号
マルクス主義であった︒貧窮化という現実のなかでマルクス主義社会科学は多く
一九 ︱ ︱
1 0
年代の若者たちは︑ラデイカル・リベラルの立場から
五六
︵ 一 六三
七︶