Impersonal theory再考 : 二つの精神をめぐって
著者 中井 晨
雑誌名 主流
号 35
ページ 67‑85
発行年 1973‑09‑30
権利 同志社大学英文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014901
67
I m p e r s o n a l T h e o r y再考
一一一二つの精神をめぐって一一
中 井
長
1
Impersonal th巴oryが具体的に,詩人と時代,詩人と創作活動の二面に展開され るとき,前者は,詩人は伝統という高次の価値を意識することによって成熟を果さ ねばならぬという, いわゆる伝統論 (Part1), 後者は,詩人が創作時に自己をな るべく隠すべきだという,創作論あるいは詩論(PartII)となる.ここで扱うのは,
詩と詩人の関係における Impersonaltheoryである.
Part IIを扱うにあたって,伝統論のなかですでに示されている三つの視点なり 前提を確認しておこう.ひとつは Everynation,巴very rac巴has not only its own creative, but its own critical turn of mind" (13)に見られる,創造的精神 傾向と批評的精神傾向の分割. これらはおそらくひとつのものの二面なのだが,
Eliotは理論の展開上この分割を用いている.第二は,やや唐突に示される And 1 do not mean the impressionable period of adolescence, but the period of full maturity" (14)という語り口の背後にある,成熟に対するオブセッションである.
成熟への志向はより高次の価値への志向である,これは,作品を過去の作品の基準 と照し合わせるときの,評価における比較の方法と無縁ではない.すなわち第三は 方法としての比較である. 一一一 Itis a judgement, a comparison, in which two things are measured by each other." (15)これら三点は,詩と詩人の関係を考え
由
るときにも顧みられねばならぬだろう.
Impersonal theoryへのアプローチは, 最近では Bradley哲学との関連におし、
てなされる傾向にある.ちょうどこのとき,哲学者として RichardW ollheim氏が
68 Impersonal Theory再考
行なった EliotのBradley論文批判と, 研究者が Bradley哲学からのアプローチ をしようとするときに保留すべき条件の提示は見のがすことはできない.さて,氏 は哲学者 EIiotと文学者 Eliotを同一視することの危険性を示しながら, な お IEliotの書きもの特に批評に見い出され,かづ Bradleyに も あ り9 そ れ ゆ え Bradleyから Eliotに与えられたとは言えずとも, Bradleyを読むことによって Eliotの復で強固にされたであろう」ような考え方の傾向のひとつとして, a pe‑ C1Iliady emptyor hollow wayof conceiving the minda という精神 mindの性 格を指摘している.氏のいう空ろな精神が的を得ているとするならば,その精神の 中に入るべき感情feelingや情緒 emotionは何か,と間われねばならない. すな わち, Imp巴rsonaltheory解明のために従来とられた感情・情緒論は, ζの「空ろ」
な精神との関連において再考されなければなるまい.ただし,あらかじめ結論的に 言えば, Richard W ollheim氏の精神の構造についての指摘は正確ではあるが,
Impersonal theoryにとっては必ずしもすべてではない.まず EIiotの言うところ をしっかり聴きとることから始めよう.
2
Eliot は詩人の精神を化学変化における触媒, プラチナの断片に見たてて,詩人 と詩の関りあいを説く.
(A) The mind of the poet is the shred of platinum. It may partly or ex‑ clusively opeliate upon the experience of the man himself; but, the more peJプectthe aftist, the more completeらIseparate in him wiZZ be the man who suffers arui the mirui which creates .,the more 1うrefectlywill the mirui digest arui transmute the pωsions which are its material.
(18. Italics mine) イタリック体の部分に Impersonal theoryの主張の一本の柱があることは間違い がない.だが,それを考える前に,まず少なくともこの個処全体を眺めることから 始めるべきである.すると主張が「比較」の方法ないし論法によっているのが注目 される. (何)と比較して moreperfectであり completely,perfectlyなのか.こ
Impersona1 Theo1"y再考 69 れを考えるには,さらにこれに先行する見解を頭にとどめていなくてはならない.
そこには, Impersonal theoryのもう一本の柱があると思えるのだが, まず「比 較jされるものを見ておこう.
(B) And I hinted, by an analogy, that the mind of the mature poet di妊ers from that of the immature one not precisely in any valuation of ' personal圃 ity', not being necessaril'y more interesting, 01" having 'more to say', but rather by being a more finely perfected medium in which special, or very varied, feelings are at liberty to enter into new combinations. (18) 明らかなのは, i比較」は未熟な詩人immaturepoetと成熟した詩人maturepoet の精神mindの間になさわしていることである.したがって CA)の主張は,両者の 精神の比較に立つてなされているのであり,さらにイタワック体での主張点は,成 熟した詩人に期待されるものである,すなわち,期待されるものは詩人の成熟した 精神つまり完壁な精神 perfectmindであり,触媒のアナロジーによって示される のは iかくあるべき」詩人の精神のすがたなのである.
比較の論法を確認したうえで , (A)はつぎのように理解できる.未熟な詩人の ばあい,彼の精神は人間としての詩人自身 theman himselfの経験という素材に,
部分的あるいはそれのみに, プラチナのように働きかける. このとき素材は the experience of the man himselfであるから3 詩人の精神によって化合された「作 品」は,その精神が触媒として完壁であろうとなかろうと,素材自体の性格から,
人間としての詩人の経験の化合物以外ではあり得ない.すなわち,このような素材 としての経験を扱うかぎり i作品」は詩人の人間としての痕跡を残し,依然とし て彼の「個性」や「言うべきこと」にたよっていることになる.一方,成熟した詩
争
人のばあい,彼の裡 (inhim)では苦しむ自己 theman who su妊ersと創造する 精神 themind which createsが完全に分離するようになり,この自己から分離し てそれ自身となった創造する精神が,その素材たる情念 passionsをより完全に消 化し変換する.この過程から生れる化合物としての作品は,自己と触媒としての創 造する精神とが分離されるために,素材としての詩人の自己ないし情念と別のもの,
ちがった組み合わぜとなる,すなわち元来の自己とは異質なものが出現するはずだ,
70 Imp巴rsonalTheory再考 と期待されるのである.
成熟した詩人の精神からあらためて未熟な詩人のばあいを考えてみれば, Eliot の言おうとするところはより明快になるだろう.詩人が未熟なのは,まず彼の経験 が,部分的あるいはそれのみで素材となるため,つぎに,その素材に関わる精神が,
いまだ苦しむ自己,あるいは経験する自己と分離していないためである.この精神 が明確に意識され自律性をもつようになれば,苦しむ自己や人間としての経験が,
創造する精神によってチエヅクされることによって,部分的あるいはそれのみで素 材となることはなくなるであろう.素材と創造する精神は,このように相互関係に あり,これらが明確に意識されるとき詩人は成熟する,未熟な詩人のばあい,これ は意識されない,つまり手短かに言えば,詩は作るものという認識が欠けているの である.
CA)の部分の Impersonaltheoryの主張は, つぎ、のように要約できる.成熟し た詩人であろうと望むならば,自分の経験や苦しみを,いわばカッコに入れておい て,創造する精神をより完全に意識しより完全に発揮しなければならぬ.このよう にして果されるべき創作過程を説く Impersonaltheoryは,自己と創造する精神の 分離という成熟の過程によって果されるのであるから,非個性論とは正確ではなし
自己・個性を超えるという意味で,没脳性論あるいは脱個性論と解されるべきであ る.個性 personalityとはいかなる意味で考えられているか, これはのちに明らか にすべき事柄である.
創造する精神 tbemind wbicb createsとは何なのか,あらかじめ疑問を出して おこう.それの実体は必ずしも明確ではない,むしろ詩人が詩人として成熟するた めの目標,彼の意識の志向する対象と考えられる.それはちょうど伝統論での歴史 的感覚 theh istorical s巴nseや主流 themain Cl紅 白ntがそうであったように,現 在の「わたし」より高次のものへの志向の対象ではあるまいか. Tradition and the Individual Talent"の構成から眺めるとき,歴史的感覚と主流への意識は,
Eliotの言う「批評的精神傾向」すなわち批評する精神の発揮の重要性の主張の上 に立ち,この創造する精神は,一方の「創造的精神傾向」の意識的な主張と解され る.しかしながら,上に見たようにこの創造する精神は,作品を作ることに参加す るというだけのことではなく,詩人の裡で自己との分離を起すものでもあり得るの
Impersonal Theory再考 71 であるから,これは同時に批評する精神でもあり得る.あるいは別の角度からは,
詩人の裡での自己と創造する精神の分離は成熟という高次の価値を目ざす視点に支 えられているのであるから Iわたし」を超えるという意味での歴史的感覚によっ て創造する精神は自律性を帯びる,とも言えるのである.すなわち創造する精神と は伝統論と別個に考えられてはならないものである.創作論と伝統論はエヅセイの 構成から二つの精神傾向の上にそれぞれ展開されたかに見える.しかしこつは元来 ひとつのものであり,それぞれを Eliotが読者に意識させるための便宜上の分割で あることを確認しておくといい.構成から来る明快さと触媒のアナロジーの明快さ と相倹って,創造する精神のあるべき姿は明快である,しかしその実体を理解する 段になると疑問が生ずるのも,また同じ理由によるのである.
(A)の主張は,その比較の論法,成熟への関心に注目し,さらに化学変化のア ナロジーに忠実に従えば,論理的に納得できうるものであり,さらに Eliotの二つ の精神傾向についての前提をあわせて考えてみれば,その発想もかなり透明である.
この個処に関しては化学変化のアナロジーは的を得ている.問題なのは,プラチナ の断片としてのこの創造する精神のアナロジーが,その前後で破綻を起してはいな いか3 ということである. (B)の引用部分をつぎに考えてみよう.
3
Eliotはすでに引用した (B)で,詩人の精神が amore五回lyperfected me‑
dium in which sp巴cial,or very varied, f巴elingsare a t li b巴rtyto enter into new combinations" (イタリック体引用者〉であるか否かに成熟の度がかかっていると 主張している.だが,ここで精神は,先に見た詩人の裡で創作活動をうけもつ精神 としてではなしむしろ容器のように考えられているフシがある.もし Eliotの言う 触媒の作用をそのまま素直に考えるなら, Whenthe two gasses
…
are mixed in the presence of a五lamentof platinum, they form sulphurous acid" (18.イタリック体引用者〕と記されるとおり,触媒としての精神は素材をその中にとり込む ことはないはずである.このアナロジーを徹底させるならば inwhich は,たとえ ば inthe presence of whichであるべきだろう.しかし,これはどうも筆がすべ
ったというのではなさそうである.
72 Impersonal Theory再考
CA)のあとの論旨を眺めてみよう.上述のように創造する精神に注意を惹いた のち,これが働きかけるもの,素材としての経験が説明される. Theex阿 ience, you will notice, the elements which enter the trese舵 e of the transforming catalyst, are of two kinds." (18.イタリック体引用者)一一プナロジーに破綻は ない.二種の経験とは感情と情緒である.これらと創造する精神との関りの実例が Brunetto Lattiniのエピソードで示される. ところがその纏めとしてEliotは詩人 の精神を先ほどまでは断片であったが,それをいま容器として諮るのである.
CC) The poet's mind is in fact a receptacle for seizing and storing up num‑
ber1ess feelings, phrases, images, which remain there until all the particles which can unit巴toform a new compound are present together. (19) 詩人の精神が a receptacleであるとする記述,むろんメタファーであることを考 慮してみても3 これが 裡にとり込む"という属性をもっ storeということばと 結びついているだけに,化学変化のアナロジーとはしっくり行かなくなるのである.
はっきり言えば,その裡に素材をとり込む場所としての容器は,触媒の理論では理 解できない.創造する精神は断片であり働きかける役割をもつものであったからだ.
Eliot は同じエッセイの中で, 詩人の精神について,経験に働きかける精神と経験 を容れる精神という二つの精神をあてているのである.
Richard W ollheim氏の指摘する Eliotの思考の傾向のひとつは, apecu1iar1y empty or hollow way of conceiving the mind"である.これはEliotのBradley 哲学の研究に対する批判を通じて慎重に,彼の Impersonaltheoryにも関係がある のではないかと指摘されたものである.したがって,わたしたちはこの容器として の精神がそれだと安易に結びつけてしまうことは慎まねばならない.まずその考え 方を確認しておこう.氏によれば,これは「ふつうなら精神の要素ないし内容を形 成すると考えられるようなあらゆるものが,対象へ向かうかあるいは対象それ自体 となる傾向にある」そのような構造を精神について考える傾向である.したがって,
対象は9 ひとつの視点からは主観に属し,またJJ1Jの視点からは主観のiJ¥ltから容易に
自
外側の世界に定着されることになる.このように視点によって対象が移行可能な構 造をもっ精神は空ろなものと見倣されるのである.だとすれば,精神は内容として
Impersona:l Theory再考 73 の経験の実体であると言うより,むしろ経験に場所を貸す容器のようなものに近い と考えることが可能だ.
哲学的背景への立ち入りは慎重に行われねばならないが9 このような精神の構造 についての発想のひとつは, Richard W oUheim氏が Bradley哲学と哲学者 Eliot の交渉を示すところに従えば 1914年 Josiah Royceのセミナーでの Eliotのぺ イパーにあると言えるのではないか.
1
精神の内容はせいぜいのところ一時的な現。
象にすぎない mentalcontents are at best a transient phenomenonJこの観点は,
たとえば精神の内容としての経験を考えれば,経験は一時的な現象と理解できるか ら 1わたしの経験と,よほど暫定的でないかぎり,言う権利はない,なぜならわ
方
たしとはある経験から組み立てられたもの,抽象であるからだ」というKnoω'ledge and Experienceでの主張に敷街できょう.この主張は直接経験 immediate expe‑ rienc巴を想、定するところから生じているわけであるが,このように経験があくまで も精神の裡での現象にすぎぬとすれば,それを組み立て抽象して,わたしという存 在を言いうるようにさせるものがなければなるまい.視点、 pointof viewがこれに
自
あたろう.しかし,いま Impersonaltheoryを詩と詩人の関係に限って考えている わたしたちに可能なことは,それはあるいは創造する精神ではないか,と想像して みることである.
さて,テキストに即して,容器としての精神が詩人のなかでp どのような内容を もっているのか,すなわち,その中に含まれ貯え込まれる経験とはどのようなあり 方をしているのか,考えてみよう.
ひとつの握りをもったパラグラフを二つにわけて引用する.
(D‑I) The point of view which 1 am struggling to attack is perhaps re・
lated to the metaphysical theory of the substantial unity of the soul; for my meaning is, that the poet has, not a personality' to express, but a particular medium, which is only a medium and not a personality, in which impressions and exp巴riencescombine in peculiar and unexpected ways.
(19‑20) Imp巴rsonaltheoryが対立するのは 1魂が本質的な統ーをもっという形而上学理
74 Impersonal Theory再考
論におそらく関係」がある personaltheoryである.何とも素気ないが,わたした ちにはこれを理解する準備がすでに出来ている.すなわち,魂あるいは精神がもし 完結した経験の纏りをもつならば,この精神の構造からして,これをわたしあるい は自己あるいは個性と呼びうるであろう.逆に個性が存在すると言いうるためには,
精神はそのまま実体でなければならない.しかし Eliotによれば,詩人のもつのは 特殊な媒介物としての精神であって,その裡で多数の印象と経験が奇妙な思いもか けぬ有援で備わっているにすぎない.すなわち媒介物とは,構造の不安定なままの 伍験に場所を貸す精神に他ならず,その裡に印象や経験が統ーをもたぬまま入り込 んでいるにすぎない.したがって,構造上,このように精神の構造が一時的な現象 でしかないとすれば,精神とはわたしではあり得ない.すなわち自己ないし個性と いう実体はあり得ないか,あるいは別のところに想定する他はない.この意味で,
詩人が表現すべき個性をもたぬ,とは,容器としての精神と統ーをもたね内容とし ての経験という考え方から,理論的に実に明快に規定されるのである.つけ加えれ ば, I人間は精神である.しかし,精神とは何であるか? 精神とは自己である.
しかし,自己とは何であるか?Jという Kierkegaardの前提と問いかけに対比し てみれば, Eliotの考える精神のありょうはさらに明らかであろう.
しかし問題はこれにとどまらない.上の引用に続いて,詩の問題にこの精神が敷 宿されるとき,個性は,精神の構造上否定されるものとしてではなく,むしろ創作 過程においては二義的なもの,カッコに入れられるべきもの,すなわち個性は存在 するゆえに一応無視されるべきものとしての局面を帯びてくるのである.
(D‑II) Impressions and exp己rienceswhich are important for the man may tak巴noplace in the poetry
,
and those which become important in the poetry may play quite a negligible part in the man, the personality.(20) ここで個性 persona1ityは,詩人としての存在あるいは生活者としての詩人 the manと同格に考えられている. これに注目すれば, この部分は触媒のアナロジー によって説明された事柄であることが明らかである.人間としての詩人には重要で あるとしても,印象や経験は詩に参与しないかも知れない,なぜなら, (アナロジ
ImpersonaI Theory再考 75 ーを想い出せば〉それらは創造する精神によって素材であるか否かを定められ,新 らしい組み合わせへと変換させられるべきであるからだ.さらにいまあらたに,容 器としての精神の構造から考えてみれば,印象や経験は元来統ーをもっていないの であるから,それらをそのまま詩に移しても(可能性についてはいまは問わない),
詩という化合物は新らしい組み合わせにはなり得ない.組み合わせには統ーがある はずであるから,統一のない精神を投影することによって作品は成り立たない.こ のとき精神の内容を組み立て統一を与える触媒としての精神が必要となるはずだ.
したがって,ここでは精神の構造から,いわば哲学的な観点から否定される個性と はi/Uに,創作過程で消化され変換されるべき個性は,生活者として,素材として認 められているのである.このとき個性は二義的である.
(DJを要約すれば,個性をめぐって,個性は存在しないしたがって表現すべき 個性はない,という考えと,個性は表現されるべきでない,という考えがある.こ れらは二つの精神についての Eliotの見方から生じているのである.個性はいずれ に解されるべきであろうか.しかし Eliotの書き方に注意してみれば,彼の斥けよ うとする見解は,おそらく形而上学理論に関係あるものであり,さらに詩人にとっ て重要な印象や経験は,詩に参与しないかも知れないのであった.この用心深さに 気をとられれば,慎重な読者は途方に暮れるであろう. Richard W ollheim氏のい
らだちも察するにあまりある.
個性をめぐる二つの見方は精神の二つの考え方に根ざしている.個性はいずれか という問いかけはおそらく無駄なので,二つの精神がどのように交錯しているかを さらに考えることによって,個性のありょうは明確になるであろう.わたしたちは この交錯する暖昧さの領域に踏み込まねばならない.ここではっきり言えば,従来 のImpersonaltheoryの読み方が明快であったのは,二つの精神という点に注意が 向けられなかった,あるいは,一方の創造する精神のみがアナロジーの明快さによ って理解され易かったり、うことにあろう.そして,あたらしく RichardW ollheim 氏の空ろな精神の考え方の傾向についての指摘が,このエッセイに関して衝撃的で あり明快なのは,実は創造する精神への配慮に欠けるという事情にあると考えられ る.氏は空ろな精神に関連して Eliotの哲学上のキイ・ワード,視点 pointof view を採りあげているが,これは哲学的議論としては正当であるにせよ, E1iotの文学
76 Impersonal Theory再考
批評としての書きものに関しては,視点、は創造する精神というレグェルに一応還元 して,二種の精神を衝突させてみる必要があるのではないか.
二つの精神の交錯の様相を見るために,創造する精神が働きかける経験を,また 精神の裡に場所を占める経験を, Eliotの論法のなかから確認しなければならぬ.
すなわち,感
1
育feelingと情緒 emotionはどのように考えられているか. これら について眺めながら Wordsworthに向けられた Eliotの批難の真意を考察して みよう.4
Eliotの Wordsworth批難は感清的であるという感想もある, しかし果してそ うなのか. わたしたちは Iffi4J巴rsona:ltheoryのコンテクストの中で理解してみた い,そのとき同時に彼の理論の整理も果すことができるだろう.それにすすむ前に,
二つの精神に関して残された,感情と情緒の問題を見ておこう.
Wordsworth批難に先だって, Eliotは詩作についての一般的な間違った考え方 を指摘すると同時にあるべき詩人の仕事を主張する.まず、誤謬はつぎの点である.
CE‑IJ One error, in fact, of eccentricity in poetry is to se己k for new human emotions to express; and in thissearch for novelty in the wrong place it discovers th巴perverse. (21) 新らしい人間としての情緒 humanemotionsを表現しようとするところに間違い がある,これを詩の中でやろうとするために詩はやっかいな変てこりんなものにな る.すなわち,人間としての情緒が創造する精神によってチェックされないためで ある.言いかえれば,このような情緒は,本当に新らしいものかどうかを検討する 歴史的感覚にも似た創造する精神のチェックを受けないので,人間的になり得るし,
個性的にもなり得るし,さらには新らしい情緒の詩ともなり得るわけである.した がって,詩の中に新らしい人間的な情緒を求めるということは,素材としての人間 としての情緒を無批判に用いることに通ずる.すなわち,誤謬は人間としての情緒 と作品の中での
1
育緒が別のものであるという点への配慮に欠けることである. It is not in his p己r‑sonal巴motions,the emotions provoked by particular ev己ntsinImpersonal Theory再考 77 his Ii f,ethat the poet is in any way remarkable or interesting." (20)とEliot は前段に述べている.誤りは,詩人が生きているときに出会った特殊な出来ごとに よって惹き起こされた情絡を,自分独自の情緒 personalemotionsだと考え込んで しまうことにある.Human emotionsとpersonalemotionsは同義である.しかし Eliotによれば情緒とはこのように特殊な体験から起こるものとは限らない. 情事苦
というものの解し方によって,詩人の仕事は当然、変わって来るのである.
(E‑II) The business of the poet is not to fInd new emotions, but to use th巴ordinaryones and, in working th巴m up into poetry, to巴xpressfeelings which 'are not in actuaI emotions at al .lAnd巴motionswhich h巴hasnever exp巴riencedwil1 serve his turn as well as those familiar to him. (21)
詩人は他人とちがった特殊な新らしい情緒を見つける必要はない,手のうちにある 普通の情緒でいいし,経験(体験〕したことのない情箔でさえ素材とすることが可 能である. これら素材としての情緒を詩として纏めあげること (workingup)に よって,感情feelingsを表現することが詩人の仕事である. ここには例の触媒の 理論が背景にある.しかし,体験されたことのない情緒とはどのようなものか,ま た現実の情緒には存在しない詩の中での感情とはどのようなものか,この疑問は当 然生じて来る.また, E1i併はすでに触媒が出会う経験は,情緒と感情の二種であ ると言っていた,ではこの素材としての惑情は,作品が表現ずる惑情とどのような 関係にあるだろうか.これらの点について, Brunetto Lattiniのエピソードと Re‑ venge
〆
sTragedyの一節について E1iotの説明するところを聴いてみよう.素材としての経験が情緒と感情であるとして, E1iotはそれらが作品として, す なわち詩の経験として左のように変換されるか説明する.
CF) The effect of a work of art upon the pεrson whoenjoys it is an ex‑ p巴riencedj;fferent in kirrd from any experience not of art. It may be formed 011t of on巴 巴motion,or may be a combination of s巴veral;and var‑ ious feelings, inhering for the writ巴rin particular words or phrases or images, may be added to compose the iinal result. Or great poetry may
78 Impersonal Theory再考
be made without the dir巴ctuseof any emotion whatever: composed out of feelings solely. (18)
感情が詩人にとって特殊な「ことば・フレーズ・イメーク」に内在する,という規 定に注意せねばならぬ.このような感情が創作時に情緒に加わって,仕上げの成果 を生む,と E1iotは言う.ただしこの組み合わせの事情は詩によって異なることが 明らかである. これら抽象的議論は BrunettoLattiniのL ピソードで具体的に示 される.
地獄篇第15歌には, E1iotによれば,その状況にあきらかな様々の細部によって 組み立てられた情緒がある. 地獄から戻る人はないはずであるから Danteはそれ を体験したのではない,しかしその情緒すら,細部の描写から表現できたのである.
ついでこのエピソードの最後の4行のありょうが指摘される. Eliotはこの4行が イメージをもっていると言う,すなわちイメージに内在する感情があるということ である.このイメージはのちの「ダンテ論」を見れば,死者の群へ追いっこうとし てDanteのもとを走り去る,競走者としての師それも勝利者 Br羽 田tωLattiniの イメージであることに間違いはない.Simi1eに注意してみよう.
Then he turned back, and seemed like one of those who run for the green cloth at Verona through the open五eld;and of them he seem巳dlike t11m w110wins
,
and not like him who loses‑bEliotによれば, イメージ,すなわち感情は前段から展開して出て来たものではな い,これは詩人の精神の裡でどこにも属さずに宙ぶらりんの状態 insuspension in the poet's mind (18)にあったが,とうとう他の部分と結びつくことによって詩と
してふさわしい組み立てを完成させたのである.つまりこのように,イメージはや って来た came(18)のである.
イメージすなわちそれに内在する感情が詩にやって来ることを可能にさせるのは,
恐らく創造する精神である. しかし,それが宙ぶらりんの状態で他との関係を見い 出されぬままにあった,と Eliotが言うとき,彼はそれらを容れるべき,容器とし ての構造をもたぬ精神を説かざるを得なかった.引用 (B)は,まさにこの最後の
Impersonal Theory再考 79 4行でのイメージの結び、つきを説いたのちに語られたのである.
つぎに Revenge
〆
sTragedy' についての情緒と感情の関係を眺めてみよう.殺さ れた恋人の骸骨に化粧し衣を着せて Dukeに復讐すべく待ちうける Vendiceの セリフ (20)には, Eliotの説明によれば, 恋人のかつての美しさに惹かれる情緒 と,死の醜さに魅了される情緒との二つがあり,対立するこの情緒はパランスを保 っている.この相反する情緒の均衡は,それが置かれた劇的状況のなかで果されて いる.したがってこの情緒は劇によって与えられた,構造的な情緒 the structural emotionと言える.しかし,と Eliotは言う.cG) But the whol巴 巴ffect,the dominant tone, is due to the fact that a num.
ber・of丑oatingfeelings
,
having an affinity to this emotion by no means super五ciallyevident, have combined with it to give us a new art emotion. (20) Vendiceのセリフ全体が与える効果すなわち聴き手へ伝えられる経験札この構造 的な情緒とは表面上は決して明らかではないが,それと類似性をもった多くの浮遊 する感情宜oatingfeelingsがこの情緒に結びついて新らしい芸術上の情緒を与えることにある.この浮遊する感情とは,容器としての精神のなかにあって情緒に定着 するまで,宙ぶらりんの状態にあったものに違いない.情緒へ感情が結合して出て 来るもの,その経験を E1iotは新らしい芸術の情緒と呼んでいる.
感情の情緒との結びつきはどのようなものか考えてみよう.Vendiceのセリフの 中で,蚕 silkwormということばp あるいはイメージ,あるいは Doesthe silk. worm exp巴ndher yellow labours / For thee?"とL、うフレーズが,なぜ、この状況 での情緒と必然的な関係をもつのであろうか.一見したところ,これらに含まれた 感情は,復讐すべく人を待ちうけるときに,頭に浮ぶものとは考えられない,たと え恋人の骸骨にまとわせた衣裳からの連想としても,劇的な状況からは,やや突飛 である.しかしこれらに含まれた感情は,たとえば9 恋人のむなしい死をいたずら に美しく飾るにすぎぬ衣をつむぐべ〈蚕よお前は死を賭したのか,という(唆味な 表現が許されるなら〉死についての深い洞察が根ざしており,表面下ではVendice の情緒との類似性があると言える.一方作者も,劇としての情緒へと,自己の感情
80 Impersonal Theory再考
を投入し得たと言えよう. つまり, ここでの感情と情緒の結びつきゐるいは融合 は, Danteのばあいと│司じしこのようにしてやって来たので、ある.
この種の感情とはおそらくメタファーと呼ばれ得るものである.そして情緒と感 情がこのように必然的に融合しているとき Danteのばあいも Vendiceのセリフ にも,感受性の崩壊はまだ起つてはいないのである.このとき,芸術の情緒とは,
日常の情緒から離れた情緒であり,日常の情緒から離れた感情であり,さらに単独 の感情〔ことば・プレーズ・イメージ〉から離れた感情であり情緒である.すなわ ち,素材としての詩人の裡の情緒と感情は,創造する精神によって組み立てられ融 合することによって,変質した情緒と感情の融合体となる.作品が与える怒験とは,
この融合体であることから,情緒であり感情である E1iotはあるときは,それを 感情であるとし,あるときは情緒であると言う,実は同じことを言っていたのだ.
両者が単独では詩という新らしい経後体系をつくれないのがふつうだからだ.
Wordsworth批難について,以上様々の角度から眺めてきた問題点を整理しなが ら,考察をすすめてみよう.Eliotは引用 (E‑lI)につづいてつぎ、のように言う.
(H‑l) Consequ己ntly,we must believe that
、
motion recollected in tran‑quillity' is an inexact formula. (21) E1iotがWordsworthの表現を歪めたことはしばしば指摘されている. 正 確 に は
it (poetry) takes its origin from emotion recol1ected in tranquillity"でなけ
l事
ればならぬ:‑静かに回想された情緒」とは詩そのものではなし詩の発端なので るあ.したがって,創作過程を重視する Eliotとしては,この発端からどのように 詩がつくられるかについての VVordsworthの説明に対して批判を向けることこそ 公平というものである.しかし,その発端ずら Eliotの精神についての理解から疑 問視され得るかも知れない.ではなぜこのWordsworthの考え方が不正確なのか,
彼はつぎのように説明する.
(H‑IIJ For it is neither emotion, nor recol1ection, nor, without distortion af meaning, tranquillity. It is a concentration, and a new thing r巴sulting from the concentration, of a very gre在tnumber of experiences which to
Irnpersonal Th巴ory再考 81 the practical and active person would not seem to be巴xperiencesaιall ; it is a concentration which ιoes not happen consciously or of deliberation. These experiences are not recol1ected " and they五nallyunite in an atmos‑ phere which is 'tranquil' only in that it is a passive attending upon the
event. (21)
詩は情緒でもなければ回想 recollectionでもな<,またそのままの意味では静寂 tranqui1Iityでもないからだ, これ程粗っぽい説明はない. しかしおそらく批難の 理由はここに全て示されているわけで,創造する精神,容器としての精神,さらに これらによって規定される情緒と感情,これらの交錯について配慮しながら,この 周辺を確認してみなければならない.
詩とは concentrationである,と Eliotは言う.すなわち,詩とは,実際的活動 的な人には役に立つとは思えぬようなものまで含めで,多数の経験を集中し結合す る こ と ∞nC白 trationによって生ずる,新らしい経験のことである.このことは触 媒のアナロジーによって理解できる.ところで,彼が,この集中・結合が, 意識 したり考えたりすること"では起こり得ないものである,とつけ加えている点に注 目したい.それは一見,彼が創作の自発性を説いているかに見えるが,そうではな い.例を振りかえってみよう,競走者のイメージは創作過程において,やって来て 他の情矯と結びついたのであった.したがって,もし白発性ということばが用いら れるとするならば,それは情緒と感?青の結びつきの必然性のことに他ならず¥創造 する精神のもつこの必然性をもたらす自発性のことでなければならない.
結合される素材としての「これらの経験は回想されるのではない」と Eliotは言 う.すなわち,もし精神が本来的に統ーをもち,したがって自己あるいは個性があ るとするならば,詩とはそのような統ーをもった構造をそのままことばに移し変え ることで成り立つはずである.精神に秩序があれば詩はその秩序の反映である.そ うならば,たとえば「精神を見よ,そしてそれを書け」という言い方は可能である.
またさらに,この筑ーをもった精神を認めるならば,その構成要素である情緒を,
回想とL、う手段によって纏めあげ,それを作品に及ぼすことも可能である.だが,
まず第一に, Eliotの言う精神の構造からは回想というものは起こり得ないはずで
82 Impersonal Theory再考
ある.なぜなら,情緒を回想し』纏めることは,容器としての精神自体不可能であり,
それは何者かの働き,少なくとも創造する側の精神の役割であるはずである.第二 に,もっとも初歩的な疑問がある.精神を作品に移しかえるとしても,それはこと ばによらなければならない. ことばは, Eliotによれば作家特有の感情が内在して いるものであった.したがって,もし回想を認めるとすれば,それは創作以前の発 端にあるのではなし創作過程での情緒と感情の結びつきのことでなければならな い.このことは必ずしも初歩的な事柄ではない Eliotにあっては詩はことばで作 られるもの,という第一義的な主張がここに隠されていると考えられるからである.
これらの考え方は, W ordsworthの回想とは全く次元が異るものである.Eliotに とって concentrationが起る過程,そこでの素材の変化,それを起こす創造する精 神が重大なのである.
創造する精神の重要性は, Eliotが tranquillityへ鋒先を向けるとき, より明白 である. 経験は「最終的に統一される」のであるが,これは'vVordsworth的,お そらく内省的な静寂において起るのではなし「出来事に受身的に参加する戸田ive attendingという意味での静寂」においてである. 触媒のアナ戸ジーがこのことを 説明してくれる.経験が受身的に参加する出来事とは創作過程のことであり,逆に 能動的に参加するのは創造する精神である.創造する精神に経験が,自己が任され るという意味で静寂である.そしてその静寂のうちに,回想ならぬ,情緒と感情の ダイナミッグなconcentrationが起っていることをつけ加えておこう.一一itis not the greatn巴ss',the intensity, of the emotions, the components, but the intensity of the arti8tic process, the pre8sure, 80 to sp巴ak,unおrwhich the fusion takes place, that counts. (19)
5
Shelley and Keats"のなかで Keatsの手紙を引用し,彼の若さを考えるとこ れは天才の発言だ,と Eliotは讃辞を送る.
In passing, however, 1 must say one thing that has pressed upon me lat巴ly,and increased my Humility and capability of suhmission‑and that
Impersonal Theory再考 83 is this truth‑Men of Genius are as certain ethereal chemicals operating on the M旦ssof neutral intellect‑but they have not any individuality, apy determined charact巴r‑Iwould call the top and head of those who have a
1事
proper self Men of Power.
この Keatsの考え方と Eliotの Impersonaltheoryとの類似はしばしば指摘され ている.Herbert Readは,この手紙の部分と Eliotの 詩人は表現すべき個性を もたぬ,ただ印象や経験が特殊な患いもかけぬ様子で一緒になっている媒介物にす ぎぬ"は│用D‑I)という意見とを比較している.共通して,行動する人 manof actionに対して personalityをもたね詩人の主張があると見る態度は正しい.ただ
しHarbertReadは personality及びcharacterについて必ずしも彼らの意図を正
1$
確にとらえたとは言いがたい.
Ill!personaltheoryにいわゆる negativecapabilityの状能と近いものがあるとす れば,それは確かに個性あるいは精神の統ーを認めないところにある.しかし Keats のばあい生活者としては不利な,言ってみれば negativeな局面である個性の不在 が, そのまま詩人としての有能さ capabilityへ逆転するのである. 個性をもたね 詩人こそ aproper selfをもっている,彼は生活者,行動する人に対時する aman of powerになり得る,というパラドックスが成立する. Eliot は個性について,
Keats以上に理論的で,その背景に「魂が本来的に統ーをもっという形而上学に おそらく関係」ある立場への反援がある Richard W ollheim氏によればそれは Bradl巴y哲学の研究の過程で得られた立場でもあった.このようにして否定される 個性とはべつに,カッコに入れられるべき個性も主張された.すなわち Eliotのぼ あい個性が存在するか否かという問題と共に, K巴atsのことばを借りればaproper selfが詩の中で果されるか否か,すなわちあたらしい自己である作品の紐験にそれ が果されるか否かに力点がかかっているのである.このような立場から,詩人がa
ll!an of powerに対l時できうるような Keatsの認識は, Eliotには, 創作過程す なわち詩の認識の伝達過程への配慮、に欠ける若さと映ったのかも知れない.
E1iotの用いる精神ということばの二面に注目してその様相を見て来た. 二つの 精神は触媒のアナロジーの破綻から認められるように矛盾している,ひとつは断片
Impersonal Theory再 考 84
しかし彼が主張する情緒と感情のあり方を眺めると 了であちひとつは容器であった.
しかしな この二つの精神がたえず背後にあって理解を助げてくれたのである.
き,
がら予 Ke旦tsの認識と比べて鮮明になるのは 個性を認めないあるいは個性を保留 するという立場以上に,創作するという詩人の仕事への意識が強力であることだ.
詩をど書かない詩人というものも想定できるので たとえば Keatsの認識で行けば,
あるa この意味から,創造する精神が Eliotの Impersonaltheoryでの, 理論上 もさることながら意識上の柱でもあると言うことができる巴
問題ばこの創造する精神の具体的な姿である.わたしたちはその働きこそ聴かさ しかしそのものを理解するカギばラ おそらく Danteのばあいにやって れている.
j
主主イメージすなわちち惑清の結びつきの有様3 さらにR目。!ger'sTrι,gedyでの 宙ぶらりんの状態にあった感情が劇的清箔へと浩びっくその有様にある.つまりこ の実体はのちの「夕、、ンテ論」で,また感受性三コ明壊を説く「形市上詩人たち」のな かで,具体的に展開されると考えられる。それは BrunettoLattIniのエピソ 最後に容器としての精神について触れれば,
この部分はうっかりするとアナロ ードの分析の締めくくりとして提示されていた.
Aristotle この説得力から,
ジーの破綻を惑じさせない程自然に述べられている。
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の「詩学」が「コ「イデブス王」に負うているようにヲ もDant巴の実(J1j:こ負うところが大であるとも言えるだろう.
はあぐまでも実伊:J:こ立脚した詩論であって,哲学者Eliotの組性論であると断言で ぎない函を示しているのである.
i主
B
The other aspect of this Impersonal theoryγof poetry is the relation of the poem to its author." (17‑18)テキストば T. S. EliotラSelected Essays (London: Faber1963)による.以下本書への言及はく 〉の中に頁を示す.2
拙 稿 「 伝 統 と 個 人 の 才 能 ー エJ::T'ットの伝統と成熟! J(広島経済大学研究論 集 第5号〉での伝統論の考察n土木清と対をなすものである.3
) Richard
v ¥
アoilh巴1m,Eliotancl F. R Bracll巴y:an account," Eliot in Per‑ spective: A SymtosiuJnラ ecl.Graham Martin (Lonclon: YIacmillan,
1970),
p. 186.
Impersonal Theory再考 85 4) Su紅白の本来の意味r!午用をうける」から,文脈上「経験する自己」と読み
とることも可能だが,理論の大筋においては大差がないと思われるので従来通り
「苦しむ自己」とする.
5) Richard W ollheim, p. 186.
6) Quoted in Richard Wollheim, p. 176.
の
W ehave no right except in the most provisional way, to speak of nザ 巴xp巴rience,since the 1 is a construction out of an experience, an abstraction from it." (T. S. Eliot, Knowledge and Experience. CLondon: Faber, 1964), p. 19. AIso quoted in Richard 羽Tollheim,pp. 174‑175.)8 i
Richard W ollheim氏は空ろな精神と関連して Eliotの哲学上のキイ・ワード として pointof viewをあげている.(p. 187)
9
例田啓三郎訳, キルケゴール「死にいたる病」世界の名著 vol.40 (寸J央公論 社)p. 435.さらにつけ加えれば, Eliotが「精神とは何か.精神とは…'"I'Vasist Geist? Geist ist…」とさけんだ哲学者にやLからかい気味であることを怨 い起してもいい. (The Perfect Critic," The Sacred I'Vood CLondon: Me・ thuen, 1966), p. 9.)
10) Richard W ollheim, pp. 186‑187.
11) のちの「ダンテ論」を見れば,細部とはたとえば, likean old tailor p巴er幽 ing at the eye of his needle"という表現によって描かれる地獄の住人の姿で
もありうる. (Dante," Selected Essays, p. 244.) 1Z> Dante," Selected Essays, p. 247.
13) 安田章一郎訳注,
r
伝統と個人の才能J(研究社)p. 38に詳しい.14) Quoted in The Use of Poetrツandthe Use of Criticism (London: Faber, 1964), p. 101.
15) May we not perhaps explain the dreary quarrel of romantic and cIassic as an opposition betwe巴ntwo kinds of art springing respectively from personality and from character?" (Herbert Read, Form in 1¥1odern Poetry CLondon:
Vission Press, 1953), p. 38.)このとき characterの意味はcIassicismに関係づ けられてしまって a'proper self"のニュアンスを帯びている,それは Keats やEliotの意味からすり変えられていることは明白すぎる.またpersonalityに ついても説明の要は沿いだろう固