著者 米崎 清実
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 64
ページ 1‑19
発行年 2005‑09‑30
URL http://doi.org/10.15002/00011514
国訴やその基盤となった郡中議定の研究は、一九八○年(1)代に民衆運動の視点から見直しが図られ、近年では、公共(2)性、公仕〈圏をめぐる視点へと展開している。公共性や公辻〈圏といったキイワードを使うことは、畿内のような自主的な地域管理制と関東に代表される幕府や藩による地域国家(3)化という一一者択一的な地域社会のとらえ方を止揚し、幕府や領主権力と地域社会とが相互反復的に絡み合いながら近代国家の形成に向かっていった過程を明らかにする試みと(4)い匿えよう。そこでは民衆運動という運動形態から地域構造へという視点の変化を伴っている。しかし、地域社会の動向とそれに対する公儀権力による
村の定杭(米崎)
村の定杭
はじめに l近世後期の公共圏の境界I
調整機能が、畿内の国訴や出羽の郡中議定、相州浦賀の干鯛流通などで析出されており、地域国家化の指針とされている関東における改革組合村の設置をめぐり検討の余地が(5)残されている。また、近世の公壯〈圏はいかなる特徴をもっていたのか、地域構造という観点からも検討の余地が残されている。この点は、近世から近代への質的な転換を問題とするためにも重要だろう。本論では、近年の研究動向をふまえつつ、武蔵国を素材として、従来その存在がほとんど明らかにされてこなかった村々に設けられた定杭の実態を明らかにすることを通じ(6)て、近世後期の公壮〈圏の性質について検討する。そのために、まずは村社会と村の外部の人々や社会集団との関係を確認し、次に定杭の実態を明らかにしたい。さらに、定杭
米 崎
主日、vI
実
近世後期の関東では各地で組合村(村連合)が結成された。村々は議定を結ぶことで組合村を結成した。文政四(一八二一)年八月、武蔵国多摩郡において、二(7)一の村々が組△Ⅱ村議定を結んだ。この組△口村議定は、関東における代表的な内容を持っている。内容は次の七点に要約できる。①浪人体の者の止宿を禁止すること。②浪人体の者への合力銭は鑑四文とすること。③浪人体の者が狼籍を働いた場合、近辺の者が駆けつけ、捕らえること。また、幕府へ訴え出る事態に至った場合は、諸費川の負担は組合村の惣高割とすること。④御免勧化、定例の檀那廻りの御師以外の継ぎ送りを禁止すること。また、寄進については、帳面のみの記入も行わないこと。⑤生国の確かな者が病気を起こした際、国元への継ぎ送りには協力すること。⑥この議定書の有効期限は当年から一○年間とすること。⑦組合村の中から選ばれた二ヶ村が年行事になり組合 をめぐる村々と幕府の関係を明らかにすることにより、近世後期の地域社会に対して幕府はいかなる国家的な機能を発揮したのか検討する。そして、改革組合村設置の歴史的意義についても言及したい。 法政史学第六十四号
村議定・組合村議定の意義 村の世話にあたること。地域社会に共通する諸問題に対して、近隣の村々が連合することによって、共同対応を図ったのである。ところで、地域社会にとって議定とは、それに参加する地域や集団と参加しない地域や集団とを分ける意味をも持っていた。村議定は、村の取り決めに参加した村人と参加しない(できない)村人とを明確に分けたものであった。組合村議定についても、組合村の内と外とを分けたものであつ(8)た。一一一一口うまでもなく内とは、議定内容に同意のうえ参加した村の構成員として村社会に生活していた人々である。外とは、それ以外の人々で、参加しなかった村や参加村の構成員以外の人々や社会集間などである。詳しくは後述することになるが、前述した文政四年の武蔵国多摩郡の組合村結成に際して、組合村議定の締結とともに、議定の趣旨を知らせるための定杭を組今村の境に設けることが話し合われている。村議定や組合村議定の締結は、外部の人々や社会集団に対していわば法的な境界Ⅱ結界を設けたことを意味するのである。定杭の考察に移る前に、まずは、近世後期の社会状況を、村及び組合村と外部の人々や社会集団の関係の問題としてとらえ、それらの問(9)の交流、交渉のあり方について整理しておこう。 一一
近世後期の村社会と外部の人々や社会集団との関係は、契約関係の有無により次の二つに分けることができる□①家あるいは村社会と外部の社会集団とが契約関係をもっている場合である。これには、家や村においてなされる普請などの際の村人と諸職人との関係、個別の家からの初穂提供と伊勢社・秋葉社などからの大麻の提供、雨乞いや疫病流行の際の村社会からの祈祷依頼と修験などの対応が含まれる。②家や村社会と外部の人々や集団とがなんらの契約関係をもたない場合である。これは村社会内部の意志に関わらず、村社会に来訪(進入)してくる座頭や冑女、浪人者、旅人といった人々や社会集団が含まれる。近世後期の組合村議定の対象となるのは②であった。本節では、村社会と②の人々や社会集団がどのような関係にあったのか、改めて確認することにしたい。組合村議定によって取り締まりの対象となる以前には、村社会とそれら人々や社会集団との間には、本来的な交渉があったはずで(Ⅲ)ある。以下、武蔵国多摩郡上長淵村の『村鏡』を事例に見ていくことにしよう。
村の定杭(米崎) 二村社会と来訪する人々 (u)[史料一]一正月者座頭共年礼として農家江参入候二付、銘々祝儀として志二而弐銭・三銭銘々応分限差遣候(皿)[史料一一]|農家二而祝儀事有之節者、座頭・盲女共祝として参入候二付、志銭応分限遣し候、尤盲人共多人数込合、祝儀当人難儀之節者分限二而包銭等仕、最寄之座頭江相渡候、然上者祝儀当日盲人参入不申候但し、葬礼道具栫候家、又者石切杯江者座頭・盲女等参入不申候(皿)[史料一二]|盲女之門附正月より三月節句迄二而、右者一一一四五人シ、組合寿之寄をうたへ軒別いたし候間、応分限志差遣候、且上巳以後門附致候分ハ、時二寄差留候但、盲人継送宿等之分入用者、村中高割合二而、村入用帳江差出候[史料一]から[史料三]には、座頭、盲女と村社会との関わりが記されている。座頭や盲女が年礼、祝儀などの時に来村した際は、各家の分限に応じて合力銭が提供されている。なお、盲人が多数俳個し、祝儀当人の難儀が予想される場合には、あらかじめ最寄りの座頭へ包銭を渡すこ
一一一
とにより、祝儀の当日の盲人の参入を防いでいる。これは、後述するように最寄り出生の盲女などと地域社会が共生関係にあったことと関連している。継ぎ送りに関わる費用については、村内から高割で徴収する村入用で賄うこととされている。原則として、座頭や盲女は、個別の百姓家との関わりを持っているが、各家に共通する経費については村という枠組みが利用されている。近世後期の村入用帳の中には盲女などに対して合力銭を提供した記録を見いだすことができるが、そこに記載される事項がすべての入用ではない。村入用帳に記されるようになったのは、本来的には、[史料一]から[史料三]に見たように、各家と座頭、盲女という関係であったものが、各家の共通経費を村で負担するようになった結果であると考えることができ
る。各家から村への負担の変化については、虚無僧への対応についても確認することができる。(u)[史料四]一取締虚無僧之儀者、武蔵野鈴法寺見廻り之僧修行二而家々志差出候、若虚無僧之儀、村内二おゐて法外之行有之ハ、捕押、右鈴法寺へ相渡可申、若右寺二而不引請候ハ、、其筋江差出、右寺見廻り之僧不埒 法政史学第六十四号
有之ハ、右村名主方江申談、弥埒明不申候ハ、、其筋江差出候、尤右之僧見廻り之節責抜ヶ道等勝手次第被致候、乍併耕作へ差障候仕方有之候ハ、、其段申聞候但シ、右寺見廻り之僧江志銭留銭二仕置之儀も有之候、其節者右銭村方割合者家別虚無僧への合力銭は、鈴法寺見廻りの僧に対して各家から支払うことになっている。しかし、虚無僧が村内で法外の所業に及んだ場合は、捕らえて鈴法寺へ渡すことになっている。鈴法寺が引き受けない場合や見廻りの僧に不埒な振る舞いがあった場合には、「其筋江差出」あるいは「石村名主方江申談」とされている。それらの費用は村入用で処理されたと見ることができよう。さらに、但し書きに記されているように、留場とする際の費用は、村入用で賄うが、村内では家別に徴収されている。村内でまとめる際にも家ごとの対応という原則が守られていることがわかる。勧化については、次のように対応している。(胆)[史料五]|所々より勧化等申来候共、先方任頼、せ話致候義不仕、尤無拠分ハ村方江申進候、尤右体之儀者、役人者勿論、小前之もの一一而も信心にてせ話候者ハ格
四
別、其時宜弁利次第遣候但、村方難儀之節、申断、勧化差出不申候(応)[史料六]|御免勧化之儀者、相拒不申、村方自カニ叶候程者出し、御法度之趣相守可申候、則村方高割二仕候(Ⅳ)[史料七]一同(年中)諸山勧化泊り同断(村高割)()内は筆
者註
(ママ|但し、是ハ御免勧化丼〈口対勧化等名主方一一而取計、村力軒別不為致候分差出候相対勧化については、[史料五]に見えるように、むやみに対応せず、やむを得ない場合は村内に連絡することとなっている。しかし、各家の信仰に基づく対応までは規制していない。また[史料六]に見えるように、御免勧化については「村方自力」の範囲内で対応し、村内から高割で徴収する村入用で処理されている。[史料七]から、諸勧化の宿泊費についても高割で徴収する村入用で賄うこととされている。これは名主による処理に任されている分である。各家の信仰に関わる問題は家の対応、各家の共通経費については村入用という原則を確認できる。村内部で共通対応を図るという方針は「難儀」の際に勧化を断ることに
村の定杭(米崎) も現れている。(咽)[史料八]一村々より若道橋普請其外共勧化頼来候節老、村方難儀無之様取計、尤先村江対不実無之様村力志出銭者当人之志一一まかせ候、右諸セ話之儀者、役人者勿論、外一一而も頓来候方誰一一よらすせ話可致候、乍併不正之勧化者差出不申向申断候、困窮年若出し不申候、時二寄諸勧化断之札立候節も有之候右の史料は、近隣村々の勧化への対応である。ここでも、目村が困窮しない対応をとることが原則となっているものの、他村にも配慮して「当人之志」という各家の対応も認められている。なお、ここでも困窮の年は、合力銭を拠出しないという共通の対応が図られている。その際には、勧化を断る札を建てることになっている。浪人者や旅行者については次のように記載されている。(⑬)[史料九]一惣而もの貰江合力之儀者、百姓難儀無之様銘々志二而差遣、且又浪士衆二而も民家江合力被相頼候ハ、、もの貰も同体二取計候、州家・社人等二而も民家門付合力致候ものハ、非人之並合二取計候儀有之候共、用捨可有之候
五
但し、右体之者法外有之、入目相懸り候節者、村高割、右極悪者取扱ハ非人番致候
[史料一生
一親類縁者一一而も諸浪人を抱置候儀不相成、若不遁者一一候ハ、、名主・組頭・組合江申談、其上御上江御訴、御下知之上者差置可申、尤身元不慥之者二候ハ、、不差置候、正路之ものにて差置候節者、証文を取、差置可申候但、右浪人二付、諸入目相懸り候儀出来候節者、差置候ものより差出候、浪人差置之儀者何様慥成者二候共、無届二而差置之儀不相成候浪人者を含めた物貰いについては、各家が過重な負担にならない程度に対応することが原則とされている。それらの者が不法な振る舞いをするなど不測の事態が生じた際には、高割での経費負担が図られている。浪人者などを村内に留め置くことは禁止しているが、幕府の認めた場合には許されている。しかし、問題が生じた場合の出費は、留め置いた家が負担する。(皿)[史料一一]一遠方之者、村内二而急病二相成、出生慥二而も金銀手当無之、難儀之者者、郷送り致、出生村江送り遣 法政史学第六十四号候、籠代等之儀者、村入用仕候、郷送継出之儀者、一札相認メ相添差出申候、尤右体他村より継来候分、先村江継立候、若不正之者候ハ、、継戻ニ相成候間、継出村送戻候、若村内二而死去仕候ハ、、其段御訴可申上候問、御検使之上取置可申候(犯)[史料一一三一村役人差図無之旅人止宿致間敷候、右差図致遣候旅人入用者村高割一一候、好身無之者止宿為致間敷候、若好身之者行暮、宿頼候ハ、、組合・村役人江申断、宿可致、尤翌早朝出立致させへく候但し、役人差図無之者好身を以宿致、入用掛り候儀出来候ハ、、宿致候者之掛り二候急病など遠方の者に不慮の事態が生じた場合には、介抱を施し、文書を添えて郷送りにより人別の村方へ送り返すとされている。その際の費用は、村入用で賄うこととされている。また、旅人を村内に留め置くことは禁止しているが、村役人が認めた場合はその限りではない。留め置く場合の出費は高割で負担することとされている。以上見てきたように、村社会と勧化や浪人者など村の外部の人々や社会集団との関係は、本来的には村内の各家の対応が原則であった。しかし、虚無僧の留場銭や諸勧化の
六
近世後期になると、とりわけ関東では、凶作や農村荒廃などを契機とする浪人者などの増加や村内部における各家の疲弊から、村社会と外部の人々や社会集団との関係は変化する。村社会は、従来の慣行では対応できない状況となってくるのである。「村鏡」には、凶作時、村に来訪する人々への対応は次のように記きれている。(麹)[史料一一二]|違作之節者、物貰等村内江立入候共、志二計ひ合力遣し候儀難及候節者、村内入口江もの貰留之札を立候而、銘々志差遣し不申儀二も仕候、尤百姓方之内身元宜敷、志も厚有之、合力差出し候もの有之候 対応、浪人者などへの合力銭など、各家の共通経費は村入用で支出された。村入用の徴収方法は、家別と高割と二つの方法がとられていた。これは各家と村社会外部の人々や社会集団との間の互酬関係の問題として考えることができよう。つまり、各家の対応原則に近い虚無僧の留場銭については家別、名家との互酬関係が疎遠な浪人者や旅人に対しては、高割で処理されたのである。
村の定杭(米崎) 三村の定杭 共、役人より差綺不申、右体志之ものハ、外貧民救方江者勿論、志有之儀一一候上者、猶差綺不申、尤自分勝手之計而已有之候ハ、、急度取計候、且右様違作之節者、先例仕置之社人・神主・御師江差出候作り初穂之儀も手薄二相成候儀も有之候得共、先例出し来候方江ハ断等不仕候、乍併農家難儀二面寄附減少およひ候分ハ、枇柄立直次第先規二立戻り候二付、先方二而も勘弁可被致儀二候不作などにより百姓経営が苦しい時には、前節で指摘した人々に対して合力銭を提供しないことが申し合われている。しかし、村内すべての家に禁止しているわけではない。合力銭を提供できる「身元宜敷」家は、「貧民救方」を行うからである。しかし、「n分勝手」の行為は厳しく取り締まっている。いずれにしろ、このような村内の状況は組合村議定を結ぶ前段階の社会状況といえよう。そして、ここで注目されるのは、村社会の人々が外部の人々や社会集団に対して村内入口に「もの貰留之札」を建てて意思表示をしていることである。なお、改革組合村の拝島村組合では、嘉永元(一八四八)年に最寄り出生の盲女のみに合力を提供する申し合わ(型)せをしている。地域社〈言では外部の社会集団に対して一律
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に合力の提供を禁止していたわけではなく、地域社会を旦那場としているか、していないかによって対応は異なっていた。地域社会で出生し、暮らしている座頭や官女とは共生関係にあったといえよう。さて、村社会が外部の人々や社会集団に対して建てた「札」については各地で確認できる。武蔵国秩父郡上名栗村では文政三(一八二○)年に次のような「定柱」を建てている。(妬)[史料一W]相対もの取計定柱一檜角長サ五尺七寸五厘外根入之所ハ丸木之儘五尺三寸角面三寸五分笠厚サ壱寸弐分出壱寸弐分文言御高札前口とり無之馬二乗へからす勧化奉加巡行僧侶丼諸浪人其外之もの御免之外合力銭且者休泊れかひのともから髪許江立入へからす但当村二おゐてハ年番役之掛也 法政史学第六十四号
武州秩父郡上名栗村文政三辰年四月七日建この記述によると、笠(屋根)が付けられた高札のようなものであったことがわかる。しかし、「定性」とされていることから、高札とは別のものとして意識されていた。また、建てられた場所は明らかではないが、高札場に建てられたとは考えにくい。同様の意思表示は組合村においても決められている。文化一三(一八一六)年一一一川、武蔵国入間郡の一一九ヶ付が諸勧化への合力を制限する申し合わせをした組合村議定には、次のような記載がある。(蛎)[史料一五]村々入uへ定杭書方左の通浪人体井諸勧化え合力不致宿賃不申候弐拾九ヶ付組合何村右の通□帳面二相認メ、御郡代所・御代官所両御役所へ差上申候村々の入口に建てる「定杭」の内容が決められ、川越藩郡代所と代官所に組合村議定とともに提出されている。さらに、文化一四二八一七)年、武蔵国埼玉郡八条領
八
三五ヶ村でも浪人者を取り締まる「傍示札」を「入口有之(”)村々」に建てることが〈口意されている。ここでは「傍示札」が組合村の領域の入口に建てられている。(犯)[史料一六]来ル廿六日寄合調印致し、其節村々定杭之文言一様二取建候(中略)関戸村江罷越、浪人もの勧進留之文言之内御触之通と申字相除可申趣二致し相帰り申候この史料は、前述した文政四(一八二二年八月、武蔵国多摩郡の二一ヶ村で組合村議定を締結する際の村役人たちの動向や評議した内容である。組合村議定の調印とともに、村々で「定杭」を建てること、またそこに記される文一一一一口について話し合われている。「定杭」に記された文一一一一口は明らかではないが、注目されるのは、御触という文言を削除する申し合わせをしていることである。後述するように、幕府の意図を越えた組合村独自の対応があったことをうかがわせる。以上のように、村々では浪人者や諸勧化などに合力銭を提供できない場合、村議定や組合村議定を取り決めるとともに、「定柱」、「定杭」、「傍示札」などと称する杭や札を
村の定杭(米崎) 建てていたことがわかる(以下本論では、それらを定杭と〈羽)する)。では、定杭はどのような場所に建てられたのであろうか。『村鏡』には次のように記されている。(釦)[史料一七]一高札場之外制書机立候所は、坂之上り口辻、六屋敷、神送り場、ニッ塚、西ノ人丼戸川、外二前書大荷田但し、制札建方之儀者、村人足二而仕候上長淵村は、五つの集落(村組)から構成されていた。上長淵村で定杭の建てられた場所は六ヶ所書き上げられているが、いずれも村を横断する道筋におけるそれぞれの集落の入川とみられるロ当然、それらの内のいくつかは村境にもなっていた。なかでも「神送り場」に建てられたことは注目される。「神送り場」とは、上長洲村で疫病などが流行した際、村内を清めた後に疫病神を送り出す場所で、この場所では、「ふせぎ」という民俗儀礼が近年まで行わ(、)れていた。「ふせぎ」とは、六月のはじめに集落の入口に注連竹を立て、草畦を吊し、集落内に疫病などの流行を防(犯)ぐための行事である。同様の儀礼は、災いがムーフに侵入することを防ぐために、注連や藁で作った草畦や人形などを
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ムラ境などに掲げる「道切り」の習俗として他地域でも知(羽)られている。定杭を建てる場所が、このような民俗儀礼を執り行う場所と一致しているのである。このことは、定杭が、村内部の災いを外へと送り出し、外部の災いが村に侵入することを防ぐ村人の精神的な境に建てられたことを意味する。近世後期の村社会の人々にとって、浪人者などの外部の人々や社会集団は、精神世界のレベルで対時する存在であった。まさに、定杭は村人の精神世界と外部の人々や社会集団を隔てる結界だったのである。さらに、定杭は村人足で建てることとされており、「制書立場江不祥物捨(型)申間敷」とあるように、村人の精神的な境界は特別な場所と認識されていた。以上のように、近世後期の社会状況を背景とした村議定や組合村議定の取り決めは、定杭という外部の人々や社会集団に対する意志表示を伴っていた。公共圏の境界には定杭という村社会の人々にとっての精神的な象徴があったの(銅)である。
定杭に対して幕府はどのような対応をとっていたのであ
ろうか。 法政史学第六十四号
四定杭をめぐる幕府と地域社会 ’○
(妬)[史料一八]近年浪人杯と申、村々百姓家え参、合力を乞、少分之合力銭杯遣候得は致悪口或ハ一宿を乞泊り、病気杯と申、四五日も致逗留候内二は、品々難題を由‐かけ、合力銭餘慶二ねたり取候段、粗相聞、不届之至候、以来右体之者罷越候ハ、、其辺之ゑた・非人二為召捕、早々公事方御勘定奉行え可致注進、勿論何様二申候共、決て止宿なと不為致、苗字帯刀いたし候ものえは、壱銭之合力も致ましく候、若相背候ハ、、可為曲事もの也右之趣相守、触書写取、村はつれ井村役人共之居宅前杯二張置可申候右之通、関八州井伊豆国、甲斐国村々え可被相触候、私領之村方えは、其最寄御代官より不洩様通候様可被致候右に掲げた史料は明和六(一七六九)年六月、幕府が関八州及び伊豆・甲斐国村々に通達したもので、合力を乞う浪人者を取り締まる触書である。難題を申しかけ、合力銭をねだり取る浪人と自称する者を穣多、非人に捕らえさせ、幕府へ注進すること。苗字帯刀をする者に対して止宿や合力銭の提供を禁止することを通達している。この後、
同様の触書は度々出されているが、ここで注目したい点は、村では触書を写し取り、「村はつれ井村役人居宅前杯二張置」と記されていることである。幕府がこの触書の内容を周知するために、村はずれまたは村役人宅前に掲示することを命じている。安永三(一七七四)年一○月の触書では、村々で写し取り、「村々入口・高札場或は村役人之(幻)宅前杯え為張置」という文一一一一口になっている。実際、関東の事例ではなく時代は下るが、弘化三(一八四六)年には、(犯)触奎曰をそのまま写した高札が残存している。この高札は横長で、中央の上がとがった五角形で、屋根は付けられていない。その形態から高札場に掲げられたものと推測できる。ここからは、幕府が定杭の設置を奨励したと見ることができる。一方、次に掲げる史料からうかがえるように、いままで見てきた定杭とは性格を異にするものもあった。(羽)[史料一九]其村々高札井村境傍示杭等御代官御名前之分ハ認置之儀可及申差図候之間、早々可申出候、此廻状村下江令受印早々順達、留り村より相返者也酉七月晦日館林
村の定杭(米崎) 江戸御役所秩父郡南村(以下六ヶ村連名略)この史料からは、「傍示杭」には村を支配する代官名が記されていたことがうかがえる。江戸周辺地域においても代官の支配替えとともに、「傍示杭」に記された代官名を(㈹)書き改める指示がなされている。また、鷹場の領域を示すために「御定杭」と称される杭が設置されていた。尾州家鷹場には八三本の杭が境界線上に打たれており、近世中期(似)にはそのほとんどが石杭に立て替わった。このように「傍示杭」には支配の領域を示す役割を果たすものもあった。このような役割は、古くは荘園の境界を明確にするための四至膀示に通じるものといえよう。しかし、村や組合村に建てられた定杭は、地域社会における諸身分間の秩序に混乱をもたらした。(“)[史料一一○]武蔵国比企郡、高麗郡、足立郡、入間郡、多摩郡村々、前々神子・修験無滞往来候処、近キ頃右郡々村々境禁制之札相建、穣多・非人共番二附置、神子・修験村内出入不為致、修行計一一も無之、一派仲間・親
類縁者有之候もの通路不相成由相聞候、神子・修験とも二触頭より銘々修行札渡置、紛敷儀無之条、前々之通往来可為致候、若又修行二事寄、悪事いたし候ハ、可訴出候事右之趣、御料・私領共、向寄御代官より通達可有之候卯七月この史料は、文政二(一八一九)年七月、幕府が武蔵国比企・高麗・足立・入間・多摩の各郡村々に宛てた触書である。村々が村境に禁制の札を建て、穣多・非人に番をさせ、幕府の認めた神子・修験の通行を妨害しているため、幕府は従来通りの通行を命じたものである。禁制の札とは前節で見たような村や組合村が建てた定杭に違いない。村独自で建てた定杭と幕府の指示によって建てられた代官名を記したり鷹場の境界を示した「傍示杭」とは性質が異なるものであったと考えざるを得ない。また、ここに掲げる史料は、一見すると、[史料一八]で見た浪人者などへの合力銭の提供を禁止した触書と矛盾する。しかし、[史料一八]における取り締まりの対象は、浪人などと偽って合力を乞い歩く、幕府にとって認知できない非合法的な存在、一方、[史料二○]における村々を通行する神子や修験たちは幕府が認知し、合力を乞うことを保障した社会集 法政史学第六十四号
団と考えると整合性がつく。村社会と外部の人々や社会集団とを隔てる結界として位置づいていた定杭は、村の武力を背景に、幕府の意図を超えて、地域社会において幕府が認知していたさまざまな社会集団の活動を制限する存在になっていたのである。言い換えるならば、村や組合村が設けた定杭は、幕府の認めた地域社会における秩序を混乱させる存在になっていたのである。同様の触は、既に寛保三(一七四一一一)年四月に触れられ(⑬)ており、天明四(一七八四)年一一月には、次に掲げるように、伊奈役所から江戸周辺地域の触次に宛てて出されている。(“)[史料一一一]覚去子年以来、宿村共困窮之上、去卯年大凶作二而、米穀高直二相成り、水呑無田地者ハ勿論、百性共悉及難義候二付、宿村共二諸勧進不呵入と申杭を建、又ハ村境二小屋相懸、非人之類を番人二罷置、|向通路不為致候二付、左同心之孤独之者、野非人等抱体ハ勿論、通路も差支致難義候趣二付、宿村共一月之内六七度宛も袖乞物貰之者差支無之様、宿村々江可申渡置旨、従御勘定所達一一付、得御意、触下村々江不洩様可申通 ’’一
候、此触書披見之上、村下二令請印、早々順達、留りより可相返者也半左衛門辰二月十日役所中野上仙川右触次中前書之通被仰付候之間、御承知可被成候、村下二刻附之下ケ札を以御受印被成、早々御順達、留りより御返シ可被成候、以上辰二月十七日中野村名主卯右衛門右の史料は、関東郡代伊奈半左衛門役所から領々触次を通じて村々に通達されたものである。凶作を契機とする諸物価高騰により村々の百姓が困窮したため、諸勧進の侵入を拒む村々に対して、従来通りの通行と合力を命じている。村社会では、諸勧進の侵入を拒むために定杭による表示を行うとともに、村境において非人などの小屋を設けている。このように幕府は地域の秩序に混乱をもたらす定杭を建てる村々を取り締まったが、結局はそれを止揚することは
村の定杭(米崎) できなかった。幕府が地域社会の秩序を調停するためには、新たな地域の枠組みを提示するしかなかったのである。改革組合村はそのための地域的な枠組みだったといえよう。周知のように、文政一○(一八二七)年、幕府は関東に改革組合村を設置する。では、その中で定杭はどのように位置づいていったのであろうか。(頓)[史料一一一一]正面関東向御取締御改革二十六箇村組合何村
(ママ||右御覧之外諸勧化継送人足差出不申候左浪人体之もの止宿合力相断申候裏文政十二丑年四月右の史料は、関東取締出役から村々に「村境辻々江御立可被成」と通達されたものである。史料に記されている文政一二(一八二九)年は改革組合村が実質的に設定された(妬)年である。杭の設置主体が改革組合村一一六ヶ村であることを除けば、従来の定杭と内容に変化は見られない。関東取締出役は定杭を否定しなかったのである。(灯)[史料一一一二]御取締向御改革御趣意之趣堅可相守候間、相認村々二建有之杭之義、年来相立朽腐打倒、其儘二相成居、又
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者文字不相分向茂有之哉二相見、山中附ハ別而有之候、右者文政度御改革被仰出候儀ハ、品々厚キ御趣意二面譽者在中村々江長脇差を帯候悪党共、其外浪人、無宿、無頼之もの共、不時二罷越、強勢二申威候様之ものも、右杭建有之場所江ハ先ツハ不立入訳、若右様之もの立廻りあはれ候節、搦押方且若者共心得方都而御趣意向下々江しめしのため建置候義二候得者、村々ニおゐても大切二心得、高札場脇其外目立候場所江可建置品々有之候、右ハ今般改而申達候儀二無之候得共、御改革以後年数相立、御趣意向不弁村役人も有之哉二付、寄場、大小惣代役人共より組合村々江申触、杭随分大木一一いたし、文字是迄其所認振も可有之筆太一一相認、有来之場所等江杭建直し方早々可取計候嘉永四(一八五二年の右の史料からも、村の定杭は存続していたことがうかがえる。むしろ、関東取締出役は浪人や無宿、無頼の者の村内への侵入を防ぐために、定杭を「太木(中略)筆太」にして、目立つ場所へ建てるように指示している。一方、改革組合村の設置以降、名称に変化が見られる。(蛆)村々では、それらの杭のことを「御改革傍示杭」あるいは(鯛)「御取締杭」と記している。定杭が幕府から認められたも 法政史学第六十四号
のと見ているのである。しかし、杭の設置や記される文言は、村々での相談に基づき決めたようである。幕末期に支配替えとなり、改革組合村から外れた村々では、新たな領主のもとへ杭の設置や村内の取り締まりなどについて伺いを立てたうえで、改革組合村の設置の際に建てた杭を改め(釦)て建てるよう通達を受けている。つまり、杭を建てることを村々から申請し、領主が追認する形をとっているのである。また、「小間物其外あめ菓子等」や「酒類醤油小売丼青物士物取替もの等」の「せり売人」が組合村内へ立ち入(皿)ることを禁止する文一一一一口が記された杭もある。この杭の内容は、「寄場役人・大小惣代一同申合」により決めたものと見られる。また、依然として、村で建てた定杭は、幕府の意図に抵触した。嘉永元(一八四八)年、関東取締出役は改革組合村に対して、虚無僧などが不法行為をした場合、村々に捕らえておくよう命じている。その中で、「所一一寄留場杯与認候棒杭、宿村外れ傍示杭一同建有之も相見へ、何等之子細二而建置候哉、今般御書付之表二而ハ、右様之儀有之間敷儀二候、何れ一一も御書付二不振様宿村々役人厚ク相心(宛)得、流弊泥へミ候取計いたす問敷」として、村々では独自の意志により幕府が認知しない「棒杭」や「傍示杭」を建て
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本論では、村社会が諸勧化や浪人者など外部の人々や社会集団にどのように対応したのかを見てきた。その結果、本来的には村社会における各家対応であったが、共通経費は村入用で賄っていたことを確認した。さらに、百姓の疲弊、諸勧化や浪人者などの増大に対して、村社会では村議定や組合村議定を取り決めるとともに、村や組合村の境に定杭を設置し、外部の人々や社会集団に侵入されないよう ていたことがわかる。幕府は浪人者などを取り締まる表示を高札場や村境などに設けるように指示したが、村々で建てた定杭は、地域社会の秩序に混乱をもたらした。そこで、幕府は地域社会の秩序を回復するためにも、定杭によって仕切られた地域を相対化する新たな地域的な枠組みを必要とした。その枠組みが改革組合村と考えることができた。改革組合村が設潰された後も定杭は存続していく。関東取締出役は定杭を建てるよう奨励し、村々では幕府の認めた公的な権威が付与されたものと認識していた。しかし、依然として、定杭の設置や文言は地域主導で決められ、幕府の意図と抵触する性格を失うことはなかった。
村の定杭(米崎) おわりに 意思表示を行っていたことが確認できた。近世後期の地域社会では、公共圏の形成に伴い、定杭という結界を設けたのである。また、定杭の設置された場所は、村社会の人々の精神的な境界であった。すなわち、近世後期の公共圏の境界は、定杭の建つ村社会の人々の精神的な境界でもあった。一方、このような定杭は幕府の認めた修験などの往来を妨げたり、諸勧化を拒絶するというように、地域社会における諸身分間の秩序を乱す原因にもなった。幕府は村社会に対して、幕府の認めた勧化などを支障なく通行させるよう通達していた。しかし、通達のみでは地域の秩序を回復することはできず、幕府は新たな地域の枠組みとして改革組合村を設置する必要があった。改革組合村の設置以降、無宿、浪人者などを取り締まった関東取締出役は定杭を建てることを奨励した。幕府は定杭の存在を否定することなく継承していったのである。そして、定杭は村社会にとって、公的な権威が付与された「御取締杭」へと名称を変化させていった。しかし、依然として、定杭に対する地域社会の自律的な性格は払拭されることはなかった。定杭という公共圏の境界の特徴については、儀礼研究をふまえた空間構造の視点からもまとめることができる。べ(鍋)、不ツプは『通過儀礼」において、儀礼とはある段階から次
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の段階へ移行するために必要不可欠な儀式であると定義し、さまざまな儀礼を分類、整理している。その一つに、ある空間から別の空間に移動する時の空間儀礼を指摘している。定杭の建てられた場が「神送り場」という儀礼の場であったことをふまえる時、定杭によって仕切られた村や組合村と外部の人々や社会集団が生活していた空間は、別の空間であったと考えることができよう。つまり、身分制社会である近世社会は、無前提なあるがままの均質な空間ではなく、それぞれの身分の生きていた空間が異なっていく別)たのである。もちろん、実態のう違えからは、さまざまな社会集団は同じ地域の中で生活していたが、意識のうえでは地域社会には時として越えることのできない身分固有の空間が顕在化した。近世後期の公共圏は、村社会の人々の精神的な象徴である定杭によって仕切られた身分固有の空間だった。この象徴的な定杭が解体し、空間構造が変容していく過程が近代国家形成の歩みであると考えることができ
よう。註(1)薮田貫『国訴と百姓一摸の研究」(校倉書房、一九九二年)、谷山正道『近世民衆運動の展開』(高科書店、’九九 法政史学第六十四号
四年)。(2)平川新「紛争と世論l近世民衆の政治参加‐」(東京大学出版会、一九九六年)、同ヨ郡中』公共圏の形成I郡中議定と権力I」(『日本史研究」第五一一号、二○○五年三月)。(3)註(1)藪田前掲書。(4)地域構造は空間構造と換言することができる。近世における地域社会の空間を扱った研究は、木村礎氏らによる景観論をあげることができる(木村礎編著『村落景観の史的研究』八木書店、’九八八年)。そこでの研究は、絵図をはじめとする近世史料から近世の村の空間を復原したり、人々の営みを読みとろうとするもので、実態的な生活空間としての村落を復原することが目的とされている。|方、吉田伸之氏らによる江戸をはじめとする近世都市論の中で、さまざまな社会集団が取り結ぶ社会関係から都市空間を明らかにする研究が進められている(吉田仲之『巨大城下町江戸の分節構造」山川出版社、二○○○年)□そこでは、都市空間を析出する方法として「重層と複合」という視点が重要であることが指摘されている(塚田孝「社会集団をめぐって」「歴史学研究」第五四八号、一九八五年一一月、後に「近世日本身分制の研究」兵庫部落問題研究所、一九八七年に所収)。さらに、歴史地理学の立場から境界に関する研究(垂水稔「結界の構造」名著出版、一九九○年)や人々の空間認識を探ろうとする研究(小野寺淳 一一ハ
「近世河川絵図の研究」占今書院、一九九一年)がある。近年の近世都市論や歴史地理学の研究は、実態的な生活空間を明らかにすることよりも、さまざまな社会関係や社会意識をふまえた空間構造を析出していこうとする点で本論の視点と同じくする。(5)関東における文政改革や改革組合村設置の歴史的意義をめぐって、最近の三人の研究成果を紹介したい。吉岡孝氏は政策論的視点と地域論的視点とを分けることを提咄し、改革組今村の設置意図は寛政期から文政期までの幕府の身分統制にある一方、地域社会にとって改革組合村は「地域平和」を実現できる「n治・自律」的組織であったと指摘する。しかし、改革組今村の設置については、幕府が地域を管理するためには「惣代庄屋」的秩序をもつ民衆の主体的な秩序を容認し、それを通じること以外の術がなかったと指摘する(吉岡孝「近世後期関東における長脇差禁令と文政改革l改革組合村は治安警察機構に非ずl」S史潮新」第四三号、一九九八年五月)。また、従来の研究史を整理しつつ、文政改革の基調が風俗取り締まりと教諭にあったとする桜井昭男氏は、改革組合村の設憤は個別村落では対応できなくなった状況を克服するためであったと指摘する(桜井昭男「関東取締出役と改革組合村l文政改革の基調l」藤川覚編「幕藩制改革の展開」山川出版社、二○○|年)。両者の説明ではなぜ改革組合村という地域的(空間的)枠組みが必要だったか十分とは言い難い。なお、
村の定杭(米崎) 筆者は、改革組合村設置の幕府の政策基調が身分秩序の維持にあり、それを実現するために、治安警察機能、教諭機能、商業管理機能などさまざまな機能があったと考えている。また、改革組合村は地域社会の自治的な運営に委ねられていた。(6)この定杭の存在は、摂津国の事例として註(1)藪田前掲書一円四頁、一五八頁、武蔵国、相模Nの事例として註(5)桜井論文において指摘されている』(7)武蔵国多摩郡連光寺村富沢家文書Ⅲ五六五(国文学研究資料館所蔵)。なお、ここで取り決めた組合村の結成過程については、拙稿「浪人もの取締組合の結成と展開l武蔵凶多摩郡関戸村外---ヶ村組合の場合l」(「法政史論」第一一号、’九八囚年三月)を参照のこと。(8)「ひとつの結合関係の成立は、その外側に結合関係から排除された異質な社会的存在を不可避的に創川せしめる」ものである(註(2)平川新「紛争と世論」一七○頁)。(9)鈴木良明「近世仏教と勧化」(岩田書院、一九九六年)や澤博勝「近肚一民間宗教組織と地域社会l内国三-一一一度巡礼行者組織を素材にI」(塚田孝・古川伸之・脇田修編「身分的周縁』部落問題研究所出版部、一九九四年)は、勧化など村外部の立場から村との交渉について論及した数少ない論考といえる。また、村の側から近世後期の社会状況に対応した研究として川田純之「下野における排桐する浪人と村の契約」急地方史研究」第二四八号、一九九四年
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四月)、堀亮一「改革組合村と村外宗教者l武州多摩郡の虚無僧の事例を中心にl」s関東近世史研究」第四四号、一九九九年三月)がある。川田氏は村が浪人者と契約を結び、諸勧化などに対応した事実を発見し、堀氏は村と村外宗教者との関係が改革組合村の関係に変化したことを指摘する。(皿)天保一二(一八三二)年一一一月、武蔵国多摩郡上長洲村組頭半助によって作成された記録で、村役人の役割や村落生活が詳細に記されている(青梅市史史料集第一・二号「村鏡」青梅市教育委員会、一九八○年)。(Ⅱ)註(u二五頁。(u)何右。(旧)同右。(u)註(Ⅲ)三一一~一一一一一一頁。(囮)註(、)八一頁。(M)同右。(Ⅳ)註(皿)九八頁。(型註(Ⅲ)八七頁。(四)註(Ⅵ)九○頁。(別)註(Ⅷ)九二~九三頁。(Ⅲ)註(Ⅲ)三九~四○頁。(皿)註(四六○頁。(空註(皿)二四頁。(型「福生市史」資料編近世1(福生市、一九八九年)一 法政史学第六十四号
九五頁。(妬)町田家文書御用留恥一九(学習院大学史料館所蔵)。(別)「三芳町史」史料編I(一一一芳町、一九八六年)一二○九頁。(〃)「越谷市史」続史料編第二集(越谷市教育委員会、一九八二年)一四一頁。(別)武蔵国多摩郡連光寺付富沢家文書Ⅲ一五○囚(国文学研究資料館所蔵)。(別)定杭の仕様は一定していない。一一一寸角から五寸角の角材を立てたものが多いが、註(空のように笠の付いたものもある。管見の限り、地中からの高さは四尺程度である。(型註(Ⅵ)七六頁。(皿)青梅市長淵在住中村保男氏のご教示による。(翌「青梅市史」下巻(青梅市、’九九五年)八七七頁。(泌)「日本民俗大辞典」下(吉川弘文館、二○○○年)六一○~六二頁。(別)註(Ⅷ)七六頁。(妬)定杭は、御用を受ける村の象徴だった高札(久留島浩「近世の村の高札」(水原慶二編「大名領国を歩く」吉川弘文館、一九九三年)とは対照的な存在といえよう。(妬)高柳眞三・石井良助編「御触書天明集成」(岩波書店、一九五八年)三○九七号。(〃)高柳眞三・石井良助編『御触書天明集成」(岩波書店、一九五八年)三一○五号。(冊)大阪人権博物館特別展図録『高札」二九九八年)。
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(妬)拙稿「改革組谷村の心としてl」(村卜直弘文館、一九八六年)。 (妬)高柳眞三・石井良助編一九五八年)’二二一号。(“)註(側)三七四~三七一(妬)『国分寺市史料集」(I (型町田家文書御用留恥二○(学習院大学史料館所蔵)。(側)「武蔵国豊島郡角筈村名主渡辺家文書』第一巻(新宿区教育委員会、一九九二年)二二一~一一一一二頁。(虹)槇本晶子「尾州藩の鷹場について」、蛭田廣|「小平市小川家文書「尾州様御鷹場御定杭場所書上帳」と尾州鷹場」二多摩のあゆみ」第五○号、一九八八年二月)。(妃)高柳眞三・石井良助編「御触書天保集成」(岩波書店、一九五八年)六二九五号。なお、文中の欠字は、「東京都古文書集」第三巻Ⅲ多摩郡新町村名主吉野家文書(三)(東京都教育委員会、一九八五年)二○頁で補った。(妬)高柳眞三・石井良助編「御触書寛保集成」(岩波書店、
(側)『所沢市史」近世史料Ⅱ(所沢市、一九八一一一年)六一三 (〃)「東京都古文書集」第Ⅲ巻川多摩郡新町村名主吉野家文書(川)(東京都教育委員会、一九八六年)’三頁。(蛆)『里服日誌」第七巻(東大和市郷士博物館、一九九五年)
村の定杭(米崎)
頁○ 六○頁、註(〃) 『里服日誌」鼈 八頁。 『国分寺市史料集」(1)(国分寺市、 証(側)三七四~三七五頁。
「改革組谷村の榊造l武州多摩郡日野宿組合村を巾Ll」(村卜直編「幕藩制社会の展開と関東」吉川
’四頁□ 一九八一年)二二 (型『里正日誌」第七巻(東大和市郷士博物館、’九九五年)’’四五~二四六頁、二五一頁。なお、ここでは「傍示杭」と表示されている。(Ⅲ)『一一一郷市史』第二巻近世史料編I(三郷市、一九九○年)八二頁。(皿)「東京都古文書集」第三巻Ⅲ多摩郡新町村名主吉野家文書(三)(東京都教育委員会、一九八五年)八六頁。(閲)A,V・ベネップ(綾部恒雄・綾部裕子訳)「通過儀礼」(弘文堂、一九九五年)。(別)市川浩「〈身〉の構造l身体論を超えてl」(青土社、一九八四年)。
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