一「道徳教育の研究」における私の試み一
細川 たかみ
はじめに
1.授業の内容と試み 1.「道徳教育の研究」の概要 2.導入、本論、まとめ
ll.r道徳」のイメージとその実態 1.「道徳」のイメージ
2.イメージの変化とその意義 lli.まとめ:「道徳」と「道徳教育」
おわりに
はじめに
フランス教育思想史を研究する上で、道徳の 問題は避けて通れない。多くの先人たちの人間 研究の書には、多かれ少なかれ、人間形成にお
ける徳の問題が主要なテーマの一つとして取り 上げられているからである。
1994年後期から、急遽、「道徳教育の研究」担 当の重責を引き受けたとき、私は自分の研究関 心領域であるフランス教育思想史研究から見た
「道徳教育の研究」の視点で、思想家の教育論を 道徳教育論として読み解くことを試みてみよう
と思った。
一般に教職科目として設置されている「道徳 教育の研究」においては、本来、「道徳教育」の 諸問題に焦点があてられるべきなのかもしれな
い。しかし、それでは道徳と道徳教育とはどの ような関係にあるのだろうか。「人間とは何か」
「人間はどう生きるのか」という人間のあり方 や生き方の探求の上にたってなされる「道徳と は何か」という問いなしに、「道徳教育」は存在
しないだろうし、教育そのものへの本質的な問 いかけなしに、「道徳教育の研究」は意味を持た ないであろう1)。
以下は、その授業内容の大まかな記録と試み の報告である。
1.授業の内容と試み
1.「道徳教育の研究」の概要
私が担当したのは、1994年度後期10月4日 から1995年2月7日までと1995年度前期4月 12日から7月26日までの計二回、・東京都立大 学人文学部教職科目、授業名「道徳教育の研究」
である2)。
科目登録者は、理・工・法・経・人文の全5 学部からA類B類の1年〜5年生(学年延長者 を含む)までと科目等履修生(現職教員を含 む)、計208名であり、そのうち、後期試験受験 者は31名、前期受験者は82名であった。
1995年度前期の講義要項は次のように記し
た。
道徳教育の研究 細川 たかみ 道徳教育のあり方が実践的に問われている現状 に対して、主体的に道徳教育のあり方を各自が考 えることを目指す。フランスの5人の思想家(ラ ブレL−一一からルソーまで)を中心に、それぞれの著
作に表われた人間像を手がかりとして、人間の道 徳的な生き方、あり方について一緒に考えてゆき たい。教材は抜粋テキストのコピーを使用する。
2.導入、本論、まとめ
初回授業に「道徳」のイメージについて、無 記名のアンケート(後述)を行った後、以下の ような半年間の授業計画案を配布した3)。
テーマ:道徳教育の研究 一フランスの 道徳教育の先達者たちを手がかりに一 一半年間の授業計画案一
導入:第一回「学校における道徳教育」:『学習指 導要領』の存在
その1日本の学校における道徳教育と 『学習指導要領』
その2フランスの『学習指導要領』
本論:「道徳教育の先達者たち」:ルネッサンスの ヒューマニスト、モラリスト、啓蒙期の思 想家
その1ラブレー(1494?−1553):自由と規律 (『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』)
資料 A;パンタグリュエルへの手紙 B;ガルガンチュワの勉強 C;テレームの僧院
その2モンテーニュ(1533−1592):判断力の 形成(『随想録』)
資料 A;ペダンチスムについて B;子どもの教育
C;道徳哲学
その3フェヌロン(1651−1715):権威と共感 (『女子教育論』、『テレマックの冒険』)
資料 A;間接教育
B;人間性における平等
その4ディドロ(1713−1784):知識と実践 (『百科全書S、『エルヴェシウス反駁』)
資料 A:人間の弁護論 B;人類の進歩と幸福 その5ルソー(1712−1778):内面の声 (『エミール』)
資料 A;人間をつくる技術 B;良心
C;15才のエミール像
まとめ:「道徳的教育関係と場」:学校、家族、社 会における道徳的教育関係としての教 師/生徒、親/子、大人/子どもの関係 その1:学校と親
資料 A;小沢有作「楽しくなければ学校 じゃない」(『世界』5月号、岩波書店、
1992年)
資料 B:原聡介「現代における親の教育責
任とは何か」(『児童心理』第35巻第 6号、金子書房、1981年5月)
その2:わが子愛から人類愛へ
資料C;ジョルジュ・スニデルス「補遺:ヒ トラー・ユーゲント」(『わが子を愛す るのはたやすいことではない』、法政 大学出版局、1985年)
導入では、「学校における道徳教育」の視点か ら『学習指導要領』の存在について触れ、日本 の戦前の修身科と戦後の教育改革、1958年『学 習指導要領』の改訂と「道徳」の時間の特設開 始のいきさつについて延べ、小学校と中学校の
『学習指導要領』の道徳の項を読んだ。次に、フ ランスの『学習指導要領』での公民教育の指針 を日本との違いの点から取り上げ、学校におけ る宗教道徳から世俗道徳への教育の観点の歴史 的な変遷を概説した。
次回からの本論の授業の内容では、こうした 学校教育の枠組みをひとたび離れ、封建社会か ら近代の社会へと移り変わる時代の状況下で、
社会の支配的規範やルールや因習に反して、ま た、当時の利己的な人間のありさまに対して、
自らの理想や人間の生き方を問い表した、5人 の思想家を紹介しながら、そのテキストを読ん
だ。
近代のさまざまな社会、教育、道徳問題を抱 える私たちにとって、先達者たちの歴史の彼方 からのメッセージをどのような警告、示唆とし て読み取ることができるか。道徳のもつ二側面 性、つまり、社会規範的側面と、場所や時代を 超えて過去から訴えかけられるもの、個人的内 的側面との闘いを通して、そのエネルギーから 何を学ぶことができるか、人間研究の思想家の 主張から道徳的生き方の内実を探って行こうと いう試みである。
初回の授業のあと、「(この授業に登録したら)
教職を取らないといけないのですか」という質 問があった。上述のような根源的な問にたった 道徳教育を考えるという観点からいえば、この 授業は「一般教養として、聞いてもらって十分 かまいません」ということになる。子どもの教
育の目的についてモンテーニュは「大人になっ てもなおなさなければならないこと」と述べた が、「道徳教育の研究」で自ら学ぶことは、大学 をでてからもなお考えてゆかなければならない ことだからである。
本論10回の授業では、一人の思想家に授業2 回をあてた。それぞれ一回目の最初には人物や 時代背景の説明をし、そして道徳の内実として ピック・アップした、自由と規律、判断力の形 成、権威と共感、人類の進歩と幸福、内面の声、
といったそれぞれの主要テーマを抜粋テキスト から読み解くことを目標に、少しずつ読んで設 問に答える形式をとった。各授業の最後10〜15 分くらいは、カードにまとめを書いてもらっ
た。
それらのテーマに関わるテキストの設問内容 に対して、次第に、賛成意見、反対意見、オ リジナルな視点等が具体的に書かれるように なってきた。このカードのコピーを10〜15入 分くらい取り上げ、B4版一枚にまとめ、次回 に配る。この資料を見ながら、それぞれの意見 に簡単なコメントをしたり、思想家の主張を補 足したりしてから、その回の授業内容に入った
4)。
まとめでは、グループ学習の試みをした。
1994年度後期には出席者が25〜26名程度だっ たので、まず、毎回授業のはじめに机をロの字 型に並べ替えた。まとめでは、授業の2回を用 いて、5〜6人のグループを5〜6個つくり、資 料A、Bを読んだ。各グループでテキストに書 かれたことを議論しながら内容を要約し、一人 に発表者になってもらった。発表者を決めるに あたって、グループ内でそれぞれ自己紹介など をやっているところもあり、グループ学習は活 発な様子であった。その場でのまとめを板書
し、内容についての共通認識をはかり、論者の 意見に対する賛成、批判意見は個々人のカード 方式で提出した。
1995年度前期は、毎回70名前後の出席者数 で、椅子・机固定式の教室のため、三人がけベ ンチ式椅子の二列で一グループとし、教室全体 4縦列を半分に分けて、資料AとBを別々に分
担発表した。ここにあてた授業回数は一度だっ たため、Bの資料はまえもって渡し、目を通し てきてもらった。受講者同士、十分議論をする 時間的余裕がなかったため、「もうすこし少人 数だったらグループ学習がもっとできたのに」
という感想が後に寄せられた。
授業最後のテキストは現代フランスの教育学 者、ジョルジュ・スニデルス著『わが子を愛す るのはたやすいことではない』の本文最後の文 章と補遺からの抜粋である。今まで見てきたフ ランスの5人の思想家の道徳教育論と現代日本 の教育学者の学校・親の道徳的教育関係論との すべてにつながり、人間研究の基盤に立った、
道徳・教育・道徳教育を包括的に捉えた、私の
「道徳教育の研究」の総まとめとしての意味を もっている。
中扉のことばを引用しよう。
「われわれの子どもたちのために本書は問う。
このくわれわれの〉という言葉がここで意味する ところは何であるのか。この言葉を使う権利を与 えるものは何であるのか。このくわれわれの〉と いう言葉と子どもたち自身の言うくわれわれ、子 どもたち〉とは、いかなる状況において同じもの となりうるのか。」
ここで問われている二つの「われわれ」を表 す、所有格と主語が一致するのはどのようなと きであるのか。今回、授業では本書の子ども愛 の思想史的な検証部分を取り扱うことはできな かったが、この間は、わが子愛から人類愛への 展開のプロセスの解明を示唆している。それ は、「補遺:ヒトラー・ユーゲント」への内容に 収敏し、主体的に意志決定しうる人間のあり方 を指し示す補遺の最後のことば「民主主義に対 する情熱」に呼応する。
半期授業期間最終回には教場レポートを実施 した。準備期間=二週間をみてテーマを発表し、
受講者は各自当日までにレポートを用意し、資 料その他持ち込み自由の教室で時間内に、準備 したレポートを再考しつつ、試験用紙に書き写 すという形式をとった。さらに、教場レポート
の最後に、初回アンケートでたずねた「道徳」
のイメージが半期の授業に参加して変わったか どうかを書き加えるように指示した。
テーマは以下である。
これまでの授業で取り上げた5人の思想家のう ち一人を対象にし、そのテキスト(プリント抜 粋、他の著作参照)を手がかりに受講者各自の道 徳および道徳教育についての考えを述べる。な お、論述の焦点をしぼるために、副題をっけるこ と。(例:ラブレーの._を手がかりに)
1塵.「道徳」のイメージとその実態
1.「道徳」のイメージ
さて、「道徳教育の研究」を担当するにあたっ て、まず、受講者が道徳に対して一般的に抱い ているイメージを知っておく必要があると思 い、初回授業で話しを始める前に無記名のアン ケートをとったことはすでに述べた。
「道徳」というと、あなたはどのようなことを 思い浮かべますか?
といった形になっていたけれど(小学校のとき は。)実際には教師に考え方を押しつけられてし まっているのではないか、というイメージもあ り、固定化した考え方を身につけさせようとする もののように思える。」
「教育番組。授業に取り入れて教育されるもので はない。道徳の授業はあまり意味がなかったよう
に思う。」
「道徳は小・中学校の授業にあった。道徳という と、「人に対する思いやり」、「親切心」、「礼儀」と いったようなものを教えるための授業で、自分は この授業が好きではなかった。教科書の本文を読 んで、その内容のことや、そのときの主人公の心 などをつかむ。形式としては国語となんら変わり ないと思っていたからである。」
「小学校の時、教科書やテレビを見て、その感想 を書かされたこと。「こんなことをやってもしょ うがないんじゃないかなあ」とぼんやり思ってい ました。というのは感想ではもっともなことを書 いていても、行動がともなわない子が多かったの で。イメージとしては偽善的な感じもする。」
アンケートの結果は、いくつかの類型に分け
られる。
大多数は、a)小・中学校で受けた「道徳の授 業」についてであり、次に、b)ルールとして強 要される道徳の社会規範的側面について触れて いる。a)、 b)からは、「道徳」に対して受動的 でマイナスな受けとめ方が感じらる。若干が、
c)個人の成熟や人格の完成について述べてお り、「道徳」を肯定的に捉える視点が感じられ る。アンケートから、いくつか代表的なものを
以下、a)、 b)、 c)の順にあげる。
a)
「小中学校のときに、「道徳」という時間があっ て、何かいろいろな教材をつかってやった授業の こと。とりあえず読んで感想とかをかかなくては いけなかったが、何となく「いい答え」をかいて しまう自分がいやだったのを覚えている。」
「さわやか3組。結論(結果)のないドラマ物語。
どことなく考えさせる。意図がわからない。」
「道徳の教科書などでは、「結末は自分で考える」
b)
「儒教(支配者側からの教育)、お題目、二元論の
「正義」・「善」、「自ら考えるもの」ではなく、「教 えられるもの」。」
「人間が、社会の中で生きていく上で、前提と なっているきまりや考え方。小学校の時、学校の 授業であったのを覚えているが、当時は、先生が 何を言いたいのか、あまり理解していなかった。」
「「道徳」と言うことばで連想されるのは古いこと ばだが「修身」というもう一つの言葉であり、い ずれにしても大人としての先生なり親が、子供に 押しつけ、強制的に身につけさせるもの、という 印象がっきまとう。もちろんその時、子供は「未 熟者」として、大人は「成熟した」社会人として 見なされることはもちろんである。したがって子 供にとってはそれなしでは一人前の社会人になる ことが困難なものなのだが、その実、子供の側で は、建て前だと気ずいているので、「道徳」とは 退屈なものになる。」
「人間があみだした、人間本意の尺度。集団生活
を円滑におくるためのきまりごと。」
「古い儒教思想というイメージ。社会の規則を作 り社会の共同体という中で人々が守らなければな らない社会生活の決まりとなっている。...毎日の 生活上、人々は道徳という枠の中で規範を得て生 活している。」
「多くの人が集まった所で必要となる守るべき ルール、守るべきこと。ただし、一定の形式を 持っているわけではないので(時、場所で変わっ てしまうので)つかみ所がない。」
c)
「人権教育を中心として、各年齢の発達段階に応 じた教育を施すことにより、人間としての人格形 成の基礎を作り上げるもの。戦前の教育の反省か
ら、自己としての、基本的人権の把握を行い、そ の自己の確立が、個人以外の人あるいは社会へ貢 献する、行動をその中に含むであろう。j
「残念ながら、私は「道徳の授業」をうけたこと がない。弟(小学生)の教科書を見たが、当たり 前のことばかりが書かれていて、面白いものでは なかった。_私にとって、道徳とかモラルといっ たものは、社会から与えられる形式的だが、実体 のないものに思われる。それに対して、各個人の
「良心」という言葉の方が自然な響きを持ってい るように思う。」
「道徳とは、一言で言うと入間があるべきという 姿だと思う。しかし何が道徳的で何がそうでない かということは、例えば多くの社会の間で一夫一 婦制が正とされ邪とされているのと同様に、また 個人の間でも大きなひらきのあることと思う。だ から道徳は他者によって学ぶのでなく、個人の経 験によって身につけていくべきものだろう。一定 の方向づけられてしまったものは規範であって、
形式であって、死んだ姿である。道徳は、内なる ものに耳をかたむけて人間が人間として生きてい く姿である。」
2.イメージの変化とその意義
こうした最初の「道徳」のイメージが授業に 参加することで、どのように変化してゆくの か、もしくは補強されるのか。それは、いかに
自分なりに道徳と道徳教育について考えること ができたかということの結果であり、半期の授 業の到達目標となるだろう。
受講生にとって、この「道徳教育の研究」の 授業を受けたことの意味は、まず、第一に思想 家の主張を道徳的な生き方の内実として把握す ることができたかどうか。そしてそれによっ て、今まで自分のもっていた、道徳に関する常 識的な思い込みや理解を変えることができたか どうか(確認や追認の場合もあるが)というこ とである。第二に、道徳と教育が重なる視点が 得られたかどうか。道徳がたんなる外から与え られた知識(しつけ、ルール)ではなく、人間 形成にとって、人格を形作る上で重要な基盤で あるということの認識ができたかどうかであ る。その上に第三に、人類の一員としての自分 自身が人間として、よく生きる上で必要なもの であるととらえられたかどうか。したがって、
何らかのかたちで、受講者の自己変革のきっか けとなり得るものであるかどうかが、かかって
いる。
このような目的から、大学における「道徳教 育の研究」の意義を考える上で、受講生の「道 徳」のイメージの変化を見てみると、次のよう な3点にしぼってまとめることができる。
①小・中学校で受けた「道徳の授業」を振り 返って、当時、自分の感じた疑問などの回想を 通して、学校教育における「道徳」や学校教育 そのものへの批判的な見方ができるようになっ た。カードから次のような例をあげる。
「 道徳 のそのことばのもつ響き、私の小、中学 校の頃のイメージは、「まじめ人間」「思いやり」
とかで、ものすごくかた苦しくて、退屈なもので あった。教室の中で、リーダーシップを発揮し、
誰からでも信頼される人間になるためには、とい うイメージだった。 私が、どんな小、中学校時 代を過ごしたのか、ということに規定された「き れいごと」で、「疲れろ」みたいに、今振り返る と歪んだ認識しかなかったと思う。」(理・1年・
男)
「私はこの授業をうけて道徳のイメージが広がっ
た。道徳といえば、教育テレビや道徳の教科書の ような説教くさいイメージが以前はあった。だが 道徳教育とはもっと広くて奥の深いもので、例え ば人との対話とかの中から学びとっていくように
「こうあるべき」と押しつけられるものではなく、
子供自ら考えることを促していくようなものだと 思うようになった。」(人文・2年・女)
「道徳教育の研究という授業をはじめて聞いた時 は、小学校の頃に週1回あった道徳の時間を思い 浮かべました。「のびゆくこころ」の教科書を読 んで「太郎くんはこの時、こういう行動をするべ きだったのでしょうか」といった授業です。道徳 というと、いい子ぶった発言や、先生があるべき 姿を押しつけるといったイメージをもっていまし た。この授業では5人の教育観について学びまし たが、あるべき姿というのは人から教わるのでは なく、自分でつくり上げ、教える側はその手助け をするのだという印象をもちました。道徳はすで にある概念ではないのではないでしょうか。」(人 文・1年・女)
「今まで受けていた道徳教育というものは、こう いうものではなかったが、先生たちが理想として いた道徳教育とはこういうものであったのだろ う。」(理・2年・男)
次に、「道徳」のイメージがわからなくなっ た、変わらないが、広がった、強化されたとい
う例をあげる。
「 道徳 というものの意味的なもの、本質自体の 考えは変わっていないが、 道徳 というものの 幅の広さを知ったような気がする。 道徳 とい うものは表現することのできない自己の中にある 良心 (またそれも人それぞれでちがうものだと 思うが)のようなものだと今では思っている。」
(理・1年・男)
「道徳とは、_本来人が守るべき、つまりそれが 正しいことだとする、社会的な最も基本的なルー ルを意味すると思っていた。道徳というものは、
そういうものだと思っていた。が、授業をうけて いくうちに徐々に考えが変わっていった。という よりも、むしろポヤけて、ついには見えなくなっ てしまった。今までは、いかに未熟な、偏見めい
たイメージで あろうとも、ある程度はわかって いるつもりだった道徳、ひいては人の良心という ものは、一体何であろうかと考えるようになって しまった。」(理・1年・男)
「道徳に対する私の考え一それは一人一人のなか にしかないものであって、めいめいが自己の内に 求めていかなければならない一は基本的に変わっ ていない。むしろ強化されたくらいである。道徳 とは、自己・他者を理解するための何かではない かと思う。」(人文・2年・男)
「 道徳 についてのイメージは、基本的に変わら なかったが、深みを増したように感じる。ルソー の良心にっいては、強い衝撃を感じた。」(理・3 年・男)
②これから教職につくという仮定、自覚にもと ついて、教育に関わる道徳について考える時間 的、精神的な余裕が見られるようになった。(教 育実習中で、興味や理解が現実的になること
も、また、反対に実習に追われて考える余裕が なくなる場合もある)。例を以下にあげる。
「道徳とは哲学的ではあるが、教育の根底をなす ものだ、と感じるようになった。以前は道徳の授 業に対して(小学・中学の頃の)疑問を抱いてい たが、この授業で5人の思想家の文書を読むうち に、人間が人間らしく生きていくための必要不可 欠な要素だと感じるようになった。」(人文・2 年・女)
「私は道徳についてあまり深く考えたことはな かったけれど、もともと「いびつで邪悪である人 間」が社会を作ってゆく上で必然的に必要にな り、絶対的に正しいことであるものが道徳なのだ なあと感じた。また、教育にっいて考えたことも なかったのだが、子どもにとって必要なのは、た だの知識ではなく、現象を知って、理解し、その 中に含まれる困難を消化して正しい判断力を形成 してゆくことなのだと思った。」(理・1年・女)
「授業を通して自分の中で構成された道徳という ものの像は子供が人間の生き方を考えるまでの精 神の成長過程そのものだ。それゆえ、道徳にしつ けや判断力の形成が含まれるものだと考える。」
(理・1年・男)
「道徳というと、今までは礼儀や思いやりなどの ようなものとしか考えていなかったが授業を受け て、もっと奥深く、人間形成全体に関することの ように感じた。そして、その人間形成について も、教育の過程の方法によって、変化していくの だと思った。」(理・1年・男)
「以前はつめこみ式、一方的というイメージが あったのでルソーの消極教育は意外で新鮮だっ た。以前よりも道徳というのは宗教的な意味あい を含んでいると思う。紙の上だけではない、道徳 はおもしろいとも思った。」(理・1年・女)
「自分が受けてきた道徳教育は単なる教訓の押し っけにすぎないことを感じた。授業の展開を今後 いかに改善していくかが道徳教育の課題であろ う。」(人文・2年・女)
とくに、教師・生徒関係への関心が高まった ことがあげられる。
「最初は道徳教育というのは単なる押しつけだと しか思えなかったが、そのようなことはない、と 思うようになった。学校での道徳教育について は、「しかし、けっきょく、こどもたちにたいし ては、厳しい権威よりも信頼と真摯さとのほう が、有用なのです」といっているように、教師が 生徒を信頼することにより、自然に判断力を身に つけていくように手伝っていくのが、良い方法な のではないだろうか、と思う。」(理・1年・女)
「「道徳教育の研究」という、考えてみると物凄い 講義名の授業をとってしまった。何故物凄いか、
というと、今日、「道徳」という言葉程、陳腐に きこえるものはないし、ましてや今日の様々な事 件を考え合わせると、教育現場における「道徳」
のあり方を考えることはとてつもなく虚しいこと に思われてしまうからである。しかし、教師が生 徒に「教育」をするとき、教師は道徳観というも のをある程度備えているはずであり、その道徳観 の中身が今、問われるべきものとなっているので はないかと思う。」(人文・2年・女)
「_最後に、道徳に対するイメージがかわったか どうにかについて述べたい。授業前は、道徳とは 人間のもつ良心を働かせること、善を行うことと いうイメージを持っていた。これらは変わらな
かったが、更に、教師と生徒の関係を考えること によって、教育にたずさわる人が絶対欠いてはな らないものというイメージも加わった。」(人文・
2年・女)
「道徳の授業を思い出すと「これはいけない。こ うしなさい。これが悪いこと。これが良いこと」
このような内容の授業だった気がするが、道徳を 教えることは、その人の人格にさえ影響を及ぼす
ことのように思える。先生といえども普通の一般 人が、道徳というものを人に教えることの大変 さ、困難さがわかったような思いです。この授業 を受けて、道徳の役割が、自分の中で大きく重要 な物に変わったような気がします。」(理・3年・
男)
「_道徳とは人の自然な生き方であり、道徳教育 とはそれを押しつけず、抽き出すことのように思 われた。このような私の立場に立てば、指導要領 は子供に教えるべき項を列挙したものではなく、
教師が自分の道徳を自己採点する指標として利用 されるだろう。そして、それを消極教育的に、「道 徳の時間」以外でも生徒に伝えられないようなら ば、それは子供を知らぬ教師の側の問題であると 考える。」(理・1年・男)
「半期間この講義をきいて私自身暖かみのある人 間性が備わったような気がします。教師になって も、生徒の立場をわかれる人間になりたいです。」
(科履・男)
③教職科目の限定をはなれて、一般教養講座と しても受講することができた。積極的な授業参 加によって、人間として生きるために必要なこ
とや自分のこれからの人生を切り開いてゆく上 で考えるヒントを得ることができる。自分が人 の親となったときに再び考えたいこととして、
また、道徳の授業を受けたことがなかったの で、道徳教育の授業そのものへの興味と関心か
ら受講するという例もある。
「道徳と聞くと何か人を縛りつけておくものだと か感じていたのであまりそれに関する本とかも読 んでいなかったし、この授業にも期待していな かったのだけれど、一回二回と授業を聞いている と、さすがに小学校の時の道徳の授業とは全然違
い、人を教育する時の考え方としての道徳という ものに新鮮さを感じた。僕は教職を取るつもりは ないけれど、授業を聞きたかったのでこの授業に は出てました。将来自分が父親になった時、この 授業で学んだことを何かの指標にしたいと思いま す。」(人文・1年・男)
「やはり、自分自身を知らなくてはならない。そ して今、自分がこのような立場にあるということ に気付きました。人生の目的は何なのかがわから ないまま今日に至ったような気がしました。だか ら、これからの夏休みを有効につかって考える か、または遊んで過ごすかは、これからの先の自 分の人生に大きな影響を与えるだろうし、それに 今の自分という人間の内面を捨てることだってで
きるだろう。そう考えると今年の夏休みの重大さ がわかってきたような気がしました。やはり自分 を見つめるなんてことは今までなかったことであ るし_今まで本を読みたいなんて思うことは めったになかったです。」(理・1年・男)
「 道徳 に対するイメージについては、...もう少 し深く、人間の形成期において様々な考えなけれ ばいけない点があることに気づいた。自由にっい て、権利について。ルソーの言葉の中で最も印象 に残っている言葉は 社会の渦の中にまきこまれ ていても、情念にも、人々の意見にも引きずりま わされなければ、それでよいのだ。自分の目でも のを見、自分の心でものを感じればよい 。人に 左右されず、左右せず、その信じ、感じる所を大 事にする人間に憧れた。」(人文・3年・男)
「この授業全体を通じて、「道徳教育」というもの の捉え方が今までいかに狭かったかということを 感じました。また、フランスの思想家が現在の教 育の在り方を問う上で、どう関わってくるのか今 ひとつ理解したようには自分では思えない。ただ 人間がいて、その中での関係性や、人間の持つ 様々な能力という大きなスケールと併せて教育だ けでなく人間、社会のことも考えるきっかけをこ の授業で得られた。このきっかけから、自分の考 えたいことも考えていきたいし、日本においてど のような変化が可能性としてやっていけるかも考 えたい。」(人文・3年・女)
lll.まとめ:「道徳」と「道徳教育」
フランス教育思想史研究の視点から、5人の 思想家たちによって描きだされた様々な人間像 を通して、それぞれ、自由と規律、判断力の形 成、権威と共感、人類の進歩と幸福、内面の声 といったテーマの設定のもとに、道徳の内実を 読み解いていった。もちろん、それらを覚える べきこれこれしかじかの不変の知識や徳目とし てではなく、人間とは何かという原点にたち 返って、一人の人間が生きていく上での思考と 行動の指針として、生きるための自己への愛 や、社会と個の問題や人間と自然の関係、そし て既成の宗教と内的心情・信仰の問題の題材を 扱ったテキストをとおして、思想家の直接の
(原語ではないが)文章から読み取ることを目 的とした。それらを手がかりにして、ほとんど の受講生が授業前に抱いていた道徳のイメージ を変化させていった。
受講生のこうした道徳イメージの変化の原因 について考えてみたい。それらのテキストに は、思想家自身が自らよく生きるために命がけ で闘いとられ、表裏一体となった「自由への希 求」と「権威あるとされるものへの抵抗」への ダイナミズムが貫かれている。そこから学ばれ 得たことは、人間の生き方、あり方の探求の上 にたった道徳のグローバルな観点であり、自由 で主体的な人間の形成の重要性であった。その ような著者たちの人間研究の書から学んだ人間 研究によって、受講生は自らの人間形成を振り 返って教育への新たな問いかけをうながされ、
道徳と道徳教育について自ら考え、その結果、
当初の道徳のイメージを変化させたと把握する ことができよう。
もちろん、全く別の視点からアプローチされ る「道徳教育の研究」も参考にして、今後、私 自身の道徳教育論をいかに展開してゆくかが、
これからの課題である。
本報告の最後として、「道徳教育」の二つの両 極的な結果である、限界と成果について具体的
に触れておこう。
前者の例として、小学校時代にいじめで友人
をなくした受講者の次のような意見をあげる。
「「人間1人の命は地球より重い」なんて言うけ ど、ただの粗大ゴミのような命もあるのではない のか?そんなゴミを宝石に変える方法を考えるよ り、どうやって棄てようかを考えたほうが、正し い「良心」を持った人間の身の安全の為に役立つ のではないか_」。(理・4年・男)
この14−15回の授業では変えようもないほ ど、受講者の心の傷の深いことを感じた。しか し、「もっと全体のことを考えた教育にすべき」
と書き添えられたことばには、教育への期待が こめられていることをも読み取れないわけでは
ない。
後者の例からは、道徳そのものが大学教育と も不可分であるということが指摘できる。本授 業の実践的成果を次のように取り上げた受講生 がいる。
「そう、この授業をうけて思ったのですが、授業 中に数学の問題を解いている悪友は先生から名前 を呼ばれて喜んでいたし、このレポートもがん ばって書いていた。こういったことから彼は、自 分を知り、成長したのではないか。このような成 長こそ、道徳教育の成果である。やはり、道徳は 人と人の交わりで重要なものという考えは変わっ ていないはずだ。しかし、人間の成長にもろにか かわることを考えたのはこの授業をうけたからか もしれない。」(理・1年・男)
おわりに
教師の状況として、最初に担当する年度の授 業より、あとの授業の方がよいものになるとす るならば、fどんな権利があって最初の教育を 引き受けるのか」と糾弾するルソーの声が聞こ えてこよう。たしかに、毎年度、授業はその年 ごとの真剣勝負の気構えがなければならないと 思う。しかし、私としては、やはり、今後の授 業の改善のために、よりよい授業の準備のため に、この授業報告を書いているのではないだろ うか。書くことによって、グローバルな一人の 人間としての私と授業担当者としての私とが一 致するように努めていきたいと願いつつ。
注
(1)実際、道徳教育がきわめて限られた意味でとらえ ており、次のような質問がある受講生からあっ た。「道徳教育なのに、どうして人間を知る必要 があるのですか?」 この質問からは、道徳教育 を何らかの覚えるべき知識とみなしていることや 人間を様々な有機的関連の中でグローバルに見る 視点に欠けることがうかがえよう。質問に私は 「誰のための道徳ですか?」と聞き返したように 思う。
(2)1994年度後期は火曜第6限7:40−9:10p.m.、
1995年度前期は水曜第4 限4:20−5:50p.ln.の 授業時間割であった。「道徳教育の研究」は教職 共通科目で、中学校課程免許取得希望者必修科目 である。
(3)授業準備の段階で、日本の道徳教育の歴史的経緯 については、藤田昌士著『道徳教育』(エイデル 研究所、1992年)、学校における道徳教育につい ては、勝田守一著『勝田守一全集第4巻教育と教 育学』(岩波書店、s.45)、倉沢剛著『道徳教育』
(誠文堂新光社、s.26)、道徳教育の先達者たちに ついては、梅根悟監修『世界教育史体系38道徳 教育史1』(講談社、1976年)、リチャード・ノー マン著、塚崎智訳『道徳の哲学者たち一倫理学入 門』(昭和堂、1998年)等を参照した。
(4)授業担当中に行ったコミュニケーション・カード のことについてもつけ加えておきたい。
これは、私自身の大学時代に受けた一般教養科 目での、大人数の一方向的な受け身の講義形式授 業と大学を出てからも必要な書くこと・自分の意 見を述べることの5の力不足の認識からきてい る。そして、あらゆる場面での人と人との関係、
とりわけ教育におけるコミュニケーションの重要 さを感じていたことから始めた。
こうした経緯から、授業理解度の確認と積極的 な授業参加、集団授業の欠点の補足、一対一対応 のコミュニケーション効果を得るために、最初は 出席力L−一一ドの裏に書いてもらっていたが、やがて 自家製のカードに拡張した。前期になって、ある 受講生から「スペースが小さくて書ききれない」
とのメモがあったからである。カードはハガキ大 ,で上半分は出席カード部分、下半分が意見欄であ る。場合によっては裏まで書く受講生もおり、コ メントのスペースの確保が厳しくなる。コメント を書くのは遠距離通勤の列車の中で揺れることも
あり、その上、悪筆なため書かれたことを確認に くる受講生もいる。それはそれで、顔と名前を覚 えるよい機会にもなる。このカードの添削は、私 にとっても帰りの楽しみになった。
コメントを書き入れた返却用のカードは、学部 別と科目履修生別の6ケースに入れ分け、授業の 始まりとともに、各自引きとりにきてもらう。恥 を隠さずにいえば、現実のコミュニケーション・
カードには、また、授業中の担当者の説明の間違 いをただすという効用もある。文献で誤りを確認 後、受講生の心くばりに感謝しつっ、さっそく授 業中に訂正をした。これはまた、その時の授業の テーマで、権威について読んでいたテキストの
「(養育者)自らの間違いを自らただす」間接教育 の期せずした実例となった。
カー一・:ドは授業の導入にやくだつばかりでなく、
受講者同士の意見の一覧ができるので、互いに刺 激にもなっていた様子である。カードの実施につ いて、コミュニケーション・カードに書かれた感
想は次のようなものである。
「コミュニケーション・カードを書くと、毎回 先生の返事をいただけるのが良かった。大学 では書いたものを提出したらそれっきりのこ とが多いだけに、カードに書かれた先生のコ メントが小学校の頃の作文の先生のコメント のようでなつかしさを感じた。」(法・3年・男)
なお、同様のカード(コミュニケーション・メ モやレビュー・シート等と名付けられている)は 他大学の授業でもなされ、その試みが紹介されて いる。浅野誠著『大学の授業を変える16章』(大 月書店、1994年)、『早稲田フォーラム』(「特集 授業評価の試み」NO.71、1995年)参照。
〈付記〉
前々年度授業担当の林康廣氏が1995年4月18 日病没された。謹んで氏の霊に哀悼の意を表した い。