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野上弥生子の子ども観・教育観

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野上弥生子の子ども観・教育観

一たとひどんな渦の中に落ち込まうとも,強くあれ,賢   くあれ,正直であれ,愛と真理を常に思うてあれ,少   くともおん身を生みたる者よりも優れたる善き人間で   あれ.(『小さい兄弟』より)

山 住 正 己

1,作家と子ども

 文学作品に登場する人物が子どもをどう見ているか,

また子どもにどう働きかけているか.そこには,それぞ れの時代の子ども観や教育観が何らかのかたちで反映し ており,またその作品がそれを読む親や教師をはじめ大 人たちの子ども観や教育的働きかけの仕方に影響をあた える.なかでも,子どもの生活や発達に関心をよせ,そ の様子をきめ細かに見つめ,書いてきた作家の作品は検 討にあたいする.そしてそういう作家は多くの場合,小 説以外に随想や,ときには論文をも書いている.これ

らは,教育研究に重要な素材や課題を提供してくれる.

 このような作家の一人に野上弥生子がいる.弥生子は 子どもの生活と教育にどれほどの関心をよせていたか.

それは,たとえぽ『サソデー毎日』編集部から「夏休み を迎へてどう暮らさせますか?」と問われたときの回答

(1933年5月23日号)に,よくあらわれている.これ は,作家本人の夏休みのことではなく,子どもの夏休み についての問いである.

 弥生子はこの問いに対して,「何ですか大変子供のこ とに注意してゐるように思つていらっしゃる方が多いの ですが,何しろ主人が頭をつかふ仕事なので,そのほう にかXりつきりで,大人本位の生活ばかりしてゐます」

(『安心な場所で自由に』全集23巻)と答えている.弥生 子の子育てぶりを知る人は,その教育熱心ぶり一今日 風にいえば「教育ママ」ということになるか一を語

り,それが彼女の耳にも入っていたのであろうか,彼女 は,それに反擾するような口ぶりで,いやそんなことは ない,自分は子どものことにまで手がまわらない,とい

う.

 たしかに子どもの入学願書の提出をうっかり忘れたり することもあって悲しい気持になり,日記には「子供の ことよりもつい私たち自分自身の成長のことの方へ気を 使ひすぎてゐるのだとおもつて」(1925年1月15日付の

日記.以下,日記の引用は『野上弥生子日記』1984年,

岩波書店,による)とか,「自分の王国は矢張り書斎で ある.そこで一人暮す時のみ一番自由でのん気で生きて いるといふ気がする」(1924年3月25日)と書いている.

しかし,こういう生活態度や考えだけをつらぬいていた のだろうか.とても,そうとは思えない.

 『サンデー毎日』の問いにこたえたころ,三人の息子 のうち二人はすでに大学生,一人は中学生に成長してい たが,この息子たちが幼かったころには,夏休みになる と,毎年のようにかならずどこかへ出かけており,その ときには,弥生子夫人がかかりっきりになっていたとい う当の夫の豊一郎が下検分をし,子どもたちにとって,

いろいろな意味で危険のない場所を選んでいた.そこで 右の答の結びは,「そんなわけで参ります場所は丁寧に 調査してから選択しますが,いつてからの生活はいつも 子供の自由にさせてをります」となっていた.大人本位 とはいいながらも,やはり大変子どものことで注意して きた親なのである.

 細心の注意をはらうだけでなく自信ももっていた.た とえぽ1924年3月19日の日記には,来客の内田さん(百 聞か)が成城学園について「あすごは自由をハキちがへ てたS うつちやつてある」といったことを記した後,

「耀三(注・弥生子の三男)は箇性のはつきりした強い 子供である.彼は大抵のかたの中でも容易にのびく育 ち得る,うちの家庭は学校の型なんぞは大抵うちにはせ る感化力を有つてゐるとおもふ」と書いている.なかな かここまで自信をもっていい切れる親はないのではない

か.

 自分の子どものことになると 何はともあれ,いたれ りつくせりの配慮をする親の場合,ともすると,そのこ とに夢中になって,子どもたちをとりまく社会の動向に 無関心になりがちである.弥生子の場合はどうか.rサ ソデー毎日』への回答の前年4月に書かれた『一つの希 望』(全集23巻)は,「人間は現金なもので,直接的に関 係のないものにはどんな重大なことでも冷淡になる」に 始まっている.これは,自分の子どもが小学生であった

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ころには,小学校教育のあり方のあれこれをたえず問題 にしていたというのに,子どもが卒業してしまうと,教 科書の変化や指導方針の傾向についてもよく知らず,そ れらがどうなろうと無関心にすごす,という生き方をし ていることを問題にした一節である.弥生子は,つづけ てつぎのように書いている.

 「しかし伝へ聞くところによれば,近時の日本に生じ たさまざまの変化はその教育の苗圃にも種々な影響が生 じていると云ふことである.知人のある夫人はお子さん のあがつている小学校の校長さんのお話と云ふものの中 で鼓吹されるあまりに驕慢な国家意識に深い憂灌を洩ら してゐた.今度改訂された教科書がどんなに見てくれよ く綺麗になつたとしても,もし心ある母親に心配される やうなものが入りこんで来たとすれば困りものである.

どうかそんなことのないのを念じてゐる」.

 この文章がr日本読書新聞』にのってから3ヵ月後の 7月7日に藍溝橋事件が起こり,日本の中国侵略は本格 化する.ところが,ここに書かれていることは,ほとん

どそのまま今日の状況に通ずるのではないか.そのこと に気づくと背筋が寒くなるのをおぼえる.と同時に,こ の作家がひろく社会の動向に目を向け,教育政策への鋭 い批評を行なっていることに気づく,しかし,野上弥生 子は作家生活の最初からこういう問題に注目し発言しつ づけていたのかというと,そうだとは思えないのであ

る.

2. 1910年代と30年代

 子どもを大事に育てようとしていた一人の母親として 作品を書きはじめたころ,子どもをどうとらえ,どう描 いていたか.これを,まず見ておこう.実は初期の作品 には今日からみて,ちょっと鼻もちならぬ言葉づかいが 目につく.たとえば,『お守の記』( 11年,全集18巻)

は,「子供の足がだんだん達者に運べるようになつたと き,私は彼の為めに,赤い緒の小い草履と小い羅紗の靴 を買ひました,そしてふくよかな初心な足が,はじめて 土一彼の生涯を拓きはじめた此地球の土と云ふものの 上に印する最初の歩みを可愛く,もの珍らしく待つてを りました」に始まっている.子どものために下履を買う 人たちであれぽ,きっと,こういう気持になるだろう.

ここには歩き始めた我が子を心から可愛いいと思う気持 や成長への期待がよく書かれており,たいていの親は,

この文章に共感するであろう.ここまではよい.

 ところが,この子どもには「下碑」がついている.長 雨のつづく季節に,子どもは,いつものように戸外へ連 れていってほしいと彼女にせがむ.困った「下碑」は子

どもを背におぶり,玄関のところで降る雨を子どもに見 せながら,

 「雨が上りましたらおんもにお連れいたしませうね,

 新しいお靴をお穿きになって,それからお一一人でおあ  んよで,ね,ようございますことねえ.」

と話しかける.わずか60字余りの子どもへの語りかけの なかに,「お」がなんと6回も出てくる.今目からみて 鼻もちならぬと書いたが,1910年代,明治末期にも,こ のような「お」の氾濫は,労働者・農民の家庭では聞か れなかった.

 こういう例もある.重病の少女が,高熱の中で,きれ いな花の咲き乱れる野原の向うに見える大門へ向かって 歩いて行く,母親もついて行きたいというのだが,少女 は自分一人で行くのだといい張る.それを聞いた看護婦 さんは,「あらお嬢様,それじやお母様がお可哀相ぢや ございませんか.一お嬢様だつてそんなとこへお一人 でいらしちやお淋しうございますでせう」と語りかける

(『ある少女の不思議な死』 20年,全集4巻).

 またしても「お」の数をかぞえたくなり,今日の標準 的な看護婦さんだったら,どう話しかけるだろうと考え た.まず「お嬢様」ではなく,その子の名前で「○○ち ゃん」と呼びかけるであろうし,だいたい,「お母様」

という言い方がほとんど姿を消してしまった.さらに

「お一人でいらしちや」とか「お淋しうございましょ う」などとは,とても口から出ない.

 渡辺澄子も,弥生子の家の「善きことぽ」にひっかか るといい( 16年,全集3巻.はじめ『2人の小さいヴァ ガボンド』という標題で発表)に登場する6歳の友一に 向かっての母親の言葉一「友さん.あなたこれからお んもへ遊びに出てもよう御座んすからね.その代り行ら つしやる時と帰つた時,お母様に御挨拶するのを忘れな いでね,ようござんすか,……」「何故そんな事をお聞き になるの」「友さんは何故お着にならないの.お母様の 申してる事が分りませんか」などを引き,この敬語の連 発について,つぎのように書いている.一「きわめて 礼儀正しく躾けるための敬語の使用であったとしても,

相手の人格を尊重して一対一の関係において,たとえ年 少者であっても敬語を用いる場合は多々あるが,そのこ ととはまったく事情の異なっていることは明らかであ る」(r野上弥生子の研究』1969年,八木書店,94頁).

 これにはほぼ同感である.また助川徳是はおなじく 1910年代のいくつかの作品をあげながら,「これらのど こにも知性的な作家がない」(『野上弥生子と大正期教養 派』 84年,桜楓社,髪50頁)といい,そこに描かれている 家庭について,「優しい妻と知的な会話を交す学問のあ

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る夫と上品に育った子供たちを有し,良い趣味の横盗す る家庭一もし,漱石文学との比較というならばr行 人』も『こころ』も『道草』も『明暗』も,このような 家庭と正に正対する家庭であった.このような近代への 懐疑を知らぬ自己実現の場としての家庭と漱石は全く無 縁であった」(同52〜3頁)と痛烈に評している.これ

も,的を射ていると思う.

 しかし,弥生子は「下碑」や看護婦のあのような言葉 づかいや,自分の家庭のあり方,とくに家庭教育を全面 的によしとしていたのであろうか.このことについて弥 生子は,いまあげた『小さい兄弟』のなかで,「良人や 自分の思想生活の上にはデモクラチヅクな傾向を多分に        やや持たされているに拘わらず,子供達の教育にのみは動も すると貴族的になり易い」とか家庭教育の実際と「思想 上の平民主義との矛盾」といっており,問題は,かなり はっきり自覚されていた.

 貴族主義とはやや異なることだが,弥生子は小学校高 学年の息子茂吉郎について「モキの机のひきだしの整理 をしてやった.あの子はよく出来る」(『日記』1924年3 月26日)と書きとめている.ふつうは,つまり平民主義 で育った子どもであれぽ,このくらいの年齢に達したと き,親が引きだしの中をいじるのに耐えられないし,そ もそも親は子どもの引きだしの中まで面倒を見ている余 裕はない.茂吉郎少年も,この親の行為を苦々しく思 い,非難の眼を向けたかもしれない.弥生子はr小さい 兄弟』では「その貴族主義の非難者は屹度当の子供であ りました」といっている.これは,平民主義に反する行 動をとっていても,子どもの言動を日頃よく見,その意 味を考えつづけていた人でなけれぽ,できない発言であ

る.

 そこまでは,はっきりいえる.しかし,1910年代に見 られる,子どもへの敬語や馬鹿丁寧な言いまわしの連発 や,教育の貴族主義と,先にあげた1930年代の発言との あいだには,かなりの距離があるのではないか,弥生子 には,変わらぬ子ども観・教育観があったのか,それと も大きな変化があったのか.これらの問題を検討するた めにも,一度,この作家の受けてきた教育をふり返って おく必要がある.

3. 漱石の影響と出産の体験

 1885年(明治18)5月6日,大分県臼杵町の酒杵町の 酒造業者の長女として生まれた弥生子は,1900年に上 市,明治女学校に入学する.弥生子は自分の受けた教育 のなかでも明治女学校の教育が印象深かったとみえて,

何度かこれについて語っている.とくにその学校で非常

に自由な教育が行なわれていたことを重視し,訪ねてぎ た婦人たちに向かって「国の祝祭日も関係なく,国定教 科書も使っていませんでしたから,えらい人という基準 がはじめからちがっていました」と語っていた(「野上 弥生子先生をたずねて」r草の実』 67年1月,全集別巻 2).長いあいだ国定教科書が使われていたのは小学校 だけであり,小学校の場合でも国定制度が発足したのは 弥生子が小学校を卒業した後のことであるから,これは 明らかに思いちがいだが,奥野健男の「一番いい教育を お受けになったわけですね」に対し,「文部省というも のの存在は,ほとんど知らなかった」とか,「教育勅語 なんて聞いたこともない」と答えており(対談「緑蔭閑 話」 71年,全集別巻2),自由な教育を受けたことはた しかであり,明治女学校の教育は「根本的な影響力」を もっていたと語っている(谷川俊太郎との対談『昔の話 今の話』全集別巻2).

 このような教育を受けたことは,文学者として生きて いくうえで重要な意味をもっていたにちがいない.弥生 子の場合,青年期に第一級の人物,とくに夏目漱石に出 会えたという幸運もあった.明治女学校に入学の2年 後,同郷の野上豊一郎が上京,一高に入学する.英文学 を専攻する彼は,イギリス留学から帰国した漱石の門に 入る.1906年,豊一郎と結婚した弥生子も,豊一郎を通        えにし

じて漱石を知り,彼の推薦により小説r縁』がrホトト ギス』( 07年)に掲載される.実はこのr縁』の前に

『明暗』という作があり(今日不明),それについて漱 石は巻紙で5メートルにも達する手紙を書き,きわめて 具体的な批評を加えたうえ,「明暗のごとき詩的な作物 を書くべし,そうして自己の特徴が十分発揮せられるよ うなすべし,人情ものを書くだけの手腕はなきなり,非 人情のものを書く力量は十分あるなり」というように,

若い作者の長所を発見し,それをのぼすよう,はげまし

ている.

 弥生子は,この手紙について,「年をとるとともに,

なんていうご親切な,ありがたいことだろうと思って,

いまさらに感謝の念を深くいたしております.」と語っ ている(r夏目先生の思い出』 66年,全集22巻).こう いう手紙を読むと,気むずかしい作家であると思われが ちな漱石が,意外にも教師として若い人たちに語りかけ ていたことが分る.

 作家志望の人とくに青年は多く,弥生子のところに も,「書いたものを見てくれないか」と頼みにくる人が あったが,人に教える自信がないので,手助けをしたこ とはない.しかしそういう態度は師の漱石のそれからは 遠く,人が来訪するたびに漱石のことを思い出し,「先

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生のこの手紙を見ると,ほんとにすまないことだ,自分 もだれかに対してできるだけのことはしなけれぽいけな かったかと後悔しております」という.日本文化史にお いて漱石の存在が大きいことは,こういうところにもあ

らわれている.

 つづく転機は,なんといっても自分の子どもが生まれ たことである.同じ漱石門下の鈴木三重吉(1882〜1932)

が弥生子が習作の段階から抜け出し,作家として独自の 道を歩み始めたと見る作品は,『父親と三人の娘』(1911 年)である.事業に失敗した父は寒村に住むが,東京に いる長女,横浜の次女,それにミッションスクールの給 費生の三女という三人の娘が父を呼び,長女の家でしば らく暮らし,また三人がそれぞれの道を歩むという話で ある.塩田良平は,「老父を中心としての女の世界が,

実に細かい筆使ひで描写されている」とし,この作品に よって「小品的味から小説的風格を帯び出した」と評し ていた(『明日香』 43年3月号,全集月報2,に再録).

また,瀬沼茂樹は,こういう作品が書かれたことについ て,弥生子は,前年1910年1月に長男素一(後にイタリ ア文学者)を生んだことにふれながら,「女として,妻 としての生活の上に,新たに母としての生活が加り,そ の学識や素養から或る決意が行れたのに,関係があると 思う」といい,1913年に次男茂吉郎(後に物理学者),

18年に三男耀三(同じく物理学者)を生むと,「この決 意はいよいよ明確に作品の上に現れてくる」とみていた

(『野上弥生子の世界』岩波書店)。この時期以後の子ど もの登場する作品を読むと,弥生子が漱石の手紙を読み ながら,「だれかに対してできるだけのことは……」の

「だれか」は,誰よりも自分の子どもたちであったとい う見方にたどりつく.子育ての体験一つ一つを大事にす るとともに,そのなかで自分自身の幼少期の体験を思い 出し,自分の子ども観・教育観を正そうと努めていたの ではないかと思う,

 子育てにおける最初の大事な体験は,妊娠につづく出 産である.弥生子は,陣痛の苦しみのなかで思い考えた ことを小説の形を借りて,つぎのように書きとどめてい

る.

 「私は今大事なことをしようとしているのだ.人間と  して,女性として,この地球上に生きている以上,種  族として人間の生存,保存の方法が今在る組織以上に  改善されない間は,これより意義の深い仕事はない筈  である」(『新しき命』 14年,全集2巻).

 弥生子は,妊娠中に読み翻訳をつづけていたギリシヤ 神話などに登場する妖怪変怪,とりわけ蛇を思い出して は,背筋が寒くなるような思いをして,これらが生まれ

てくる子どもに悪影響をあたえるのではないかとい う,いやな妄想にとりつかれていた.そのなかで,この ような考え方をしたことについて,自らは痺我慢も手伝 っていたと言いながら,「感傷的な卑怯者になり勝ちな 彼女に,時々強い力と決心を与えました」と内心を吐露

していた.

 弥生子の子育ては,このように胎内で育つ子どもに対 し母親の精神状態が悪影響をあたえてはならないという 配慮から始まっている.このようなきめ細かな配慮がで

きるのは,それまでの生活で身辺に赤ん坊がいて接する 機会が多かったからだと思われがちだが,彼女にはそう いう機会はほとんどなかったのである,そのため,後年 子育てをふりかえり,「旅行者が知らない土地に上陸し て眼をきようきようさせるやうに,子供の生活が,なに もかも珍しく,不思議で,びつくりすることぼかりでし た」と語っている(r我子を語る』 33年,全集23巻).

 近年,核家族が増え,若い母親の多くは乳幼児に接す る機会がなく,しかも自分の親が子育ての経験から得た 豊富な知恵をもっているにもかかわらず,これを受けつ ぐ機会を持たず,したがって子どもが生まれて未知の土 地に上陸する,あるいは羅針盤のないまま大海にのりだ すといった不安におちいっている者が多い.

4.子どもの関心と子育て

 弥生子の場合に注目すべきは,いたずらに不安定で確 信のない姿勢をもって子どもに接したのではなかったこ とである.彼女は自分が子どものことをいろいろと考 え,書いてきたことについて,「なれたものなら目も呉 れないものを珍しさうにとりあげて見た初心な旅行者の 印象記に過ぎない」と書いている.子どもにたえず接し ている者,たとえぽ教師や保母,あるいは多くの子ども を持つ母親は,ともすると新鮮な気持で子どもに接する ことができなくなる.弥生子はそうではなかった.一 方,彼女は未知の土地でおろおろと戸惑うのではなく,

旺盛心を発揮して子育てに取りくんだのである.やはり 大事なのは,ここでいう初心を忘れなかったことであろ

う.

 この初心を忘れなけれぽ,子どもたちのちょっとした 動き,変化も見逃さないものである.弥生子の場合,そ のことをよく示している例として,10歳と7歳の兄弟の 話がある.兄の方はお人よしで,ちょっとぼんやりした ところがあり,同じ年ごろの子どもと比較すると,いく らか赤ん坊じみている.これは弟以外には年齢の近い友 人がいないからであり,二人は兄弟であると同時に親友 である.起きてから寝るまで,一人が仮りに二人になっ

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て行動しているようなものであり,「従って其処には自 然の興味ある模倣が現われます.弟が兄の真似をする.

同時に,兄が弟の真似をします」という(『母親の通信』

19年,全集4巻),こうなると,兄弟それぞれにどんな 傾向があらわれるか.作者は「弟が幾らかませて行くと 反対に,兄は逆に子供じみて行きます」と見ている.

 また幼稚園の卒業式で見た子どもたちのダンスがふだ んより強さが感じられないとし,「ものを見せるという ことはこれに依って見てもそのピューリティをいかに損 うかをおもった」(『日記』 24年3月24日)と書いてい る.こういう例は多いが,初心を忘れた,あるいはそも そも弥生子のような初心を持たぬ親は,子どもたちのち

ょっとした動きの変化を見逃してしまうことが多い.

 では,弥生子は幼い子をどう育てていたのか.子ども にとって特別な出来事のあった日のことを例にとると,

かえって特色がはっきりする.『五つになる児』( 14年,

全集第2巻)には,数えで5歳になる男の子が,ある朝 目ざめたところいつも横にいる母だけでなく,父親もい ないことに気づいてお手伝いさんに,どうしたのかとた ずねるという場面が出てくる.彼女は,「どうしたのつ てお坊つちやま,昨夜赤ちやまが……」につづけて,事 実をつたえようとして「生れました」と言おうとするの だが,この子の母である真子がいつも注意していたつぎ のようなことを思い出す.一「真子は人間の性とか繁 殖とかの問題に関しては可なりidealisticに傾いていた ので,この方面の事で,この一人子の耳目に入るべき言 動には細心な注意を怠りませんでした.子供が書物とか 又は年長老の善きsuggestionとかに依つて,自分で自 然に会得し啓発するまでは,出来得るかぎり神秘なまX に保たせて置き度いと願つてゐるのでありました」.

 子育てにあたり,ごく標準的な母親からみて,とても できそうもないほどの細心な注意がはらわれていたこと が,ここによくあらわれている.しかし,弥生子も母親 として,子どものすべての言動にこのような対応ができ るものではなかった,いまあげた場面でも,子どもは

「なぜ父母がいないのか」というように「なぜ」と問う ている.成長中の子どもの質問はしつこく,根掘り葉掘

り問うてくるものである.これには弥生子も応じきれな い.では,どう対応したか.この問題については,つぎ のように書いている一「私は一言に,r何もかも世界 ぢゆうのものは神様がお拒へなすつたのです』と自信を もつて云ひきる程の,強い宗教的信仰も持つてゐない,

同時に自分にも推論し,人にも満足させられる丈けの科 学上の智識を持つてゐない母親を自分から憐むものであ

ります」(『私信』 12年,全集18巻).

 母親が,子どものすべての問いに対し,子どもが納得 いくように答えることは,とてもできるものではない.

重要なのは誠実な対応であり,これを弥生子はつづけて きたが,やがて子どもは親の予想をこえて自主的な行動 を始める.

 『小さい兄弟』( 16年,全集3巻)には,小学校入学 を一年後にひかえた長男が,近隣の子どもたちとの交際 から,大いに好奇心を発揮して方々ヘー人で出かけた り,友人たちの野卑な口ぶりをまね,あるいは小遣銭を ほしがったりするようになる場面が描かれている.その

とき母親は,子どもが生まれたときから細心な注意をは らって実行してきた「一種の教育としての隔離法」を放 棄しなけれぽならぬときが来たのだと感ずる.これの放 棄は母親にとって不安,憂慮であり,一種の悲しみでさ えあったというが,では,なぜこんな方法をとったのか というと,一「善良な話の外は聞かせまい,美しいも のX外は見せまい,正しい言葉の外は覚えさせまいとし ての極端な隔離法が,実際子供に取つてよい事か悪い事 かは,彼女自身にすら突き詰めた所は分からなかつた が,若い母親の用心と無経験から来た過大の恐怖が,そ の場合否応なしに彼女にその決心を起さしたのでありま

した」というのである.

 しかし,一人で出歩き始めた子どもを,いつまでも不 安な目で見ていたのではない.庭つづきになっている隣 の家にさえ一人で行けなかった前年の様子を思い出し,

これと比較しながら,「外界に対する好奇心と一種の自 由を愛する心持ちから生ずる,幼年時代の放浪性が現は れかけたのだろうと思つて,よく注意し観察していま す.Little vagabondという仇名まで出来てしまひまし た」(前掲r私信』)と書いている.子どもの行動をよく 見つめることにより,「過大な恐怖」をいつまでも持ち つづける必要はないとの判断に達したのであろう.そこ から子どもの可能性の大きさに確信をもつようになる.

 弥生子は三人の男の子を育てたが,女の子の育て方に も関心をよせており,「女の子といふものはほんとうに よわくはかない気がする.それは一つは親たちのとり あつかひのせゐではなからうか.もつと元気に活濃にそ だてられないものでもなさXうにおもふが」(『日記』

24年4月21日)と書いている.これも,子どもには大き な可能性があるのだとの確信に立った記述だといってよ いだろう.そのことは,作家として子ども向の作品を書 き,世に送り出すときの態度にもあらわれるようにな

る.

 「小さき人たちへ」という副題のついた『お話』( 40 年12月)の序には,「そばに寄ってくる可愛い子供たち

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に,お菓子戸棚からなにか取り出してあげるやうな気持 で,私はこれらの話をひとまとめにした」とある.この 一節を読むと,子どもの好む甘い菓子を好きなだけ出し てあたえようとしており,これは子どもを甘やかす態度 に他ならないと思う人もいるだろうが,作者のねらいは そのような態度からは遠いところにある.この作品集に のせられた作品は多種多様であり,低学年向ゆとか高学 年向きなどと読者対象を規定して書き,あるいは編集す

るという方式はとられていない.

5. 学校教育への要望

 柳田国男のいうように,前代には子どものために文化 をつくってあたえるということはなかった(『桃太郎の 誕生』 33年).ましてや,このように読者対象を想定す

るという方式は,かつてはなかったことである.弥生子 は子どもと親にとって親切なこの新しいやり方に頭から 反対しているのではない.rしかし」といって,つぎの ように書く.一「この際忘れてはならないのは,児童 の享受力は,大人が想像する以上のものをしぼしば示す ことである.いつまでもおんぶしたり手を引かれたりす る子供が,容易に歩きだせない例に見られるやうな,あ だな親切はどこまでも警戒しなけれぽならない」と.

 その後,幼い孫たちが近所で暮らすようになり,それ によってまた子どもの世界に強い関心をよせるようにな る.ちょうどそのころ出版社が子どもたちのために新し い企画をたてた.それを知らされた弥生子は,子どもと いう存在のすぽらしさについて「ばちばち火花の遜りそ うなほどつねに生命に充ち温れ,駈けだし,叫び,躍り まわっているまるで最新式のロケットのような彼等の行 動は,対周囲,対社会,また対読書への知識の示し方に もそのまま通じている」と書く(rr中央公論社の少年少 女』推薦文」 49年,全集第21巻).こういう子どもたち の特性をとらえているのは,どんな読みものかという と,「ロケットの噴射的なはつらつたる生気はそのまま 保たせつつ,程よい調節と,正しい情操と知能のコース を与えてくれるのがもっともよい読みものであり,こう いうものでなけれぽ子どもにとって面白くない」という のである.

 このような考えから,学校の教師たちに対する注文も 出てくる.弥生子は,有名小学校や幼稚園の教師と座談 会を行なったとき,彼らの話を聞いて,一つの疑惑を抱 く.それは,「それらの教師たちが教育なるものにあま りに自信をもち過ぎてゐる」ということである(『小学 生の母へ』 34年,全集第18巻)教師が教育に自信をもっ ている様子を見れば,ふつう親は安心するものだが,弥

生子はここに問題を投げかけているのである.つづけて つぎのようにいうのを聞けば,その疑惑が,たんにそれ ら有名学校だけでなく,日本の教育にとって重要な意味 をもっていることが明らかになる.一「云ひ直せば,

教育をそれだけ手軽にとり扱ひすぎてゐる,一もう一 度云ひ直せば,ひとりの子供,あらゆる血と伝統を異に した一箇の生命に対して,あまりにも粗朴に画一的な指 導精神をしかもたないらしいことでした.」

 画一的となれば日本の教育で何より問題になるのは,

やはり教科書である.弥生子は,その教科書をどんな書 物と見ていたのだろうか.その作晶のなかでは,意外な ところに「教科書」という文字がとび出してきて,びっ くりさせられる.

 たとえば1939年,ベルリソを訪ねた野上さんは,案内 役の人から印象をたずねられて,「まるで教科書の文章 みたいな町ね」と答えたという.どうしてそんな印象を もったか.この町について,「つるつると研きあげたよ うな道路,五階の高さで揃った防壁のような家,どこま で行ってもそれであった.でこぼしたり,曲ったり,歪 んだりしたものや,乃至,小汚いものは眼を皿にして歩 いても見つからない.整然として,清潔で,立派で,そ れで詩味を欠いているところ,教科書の文章が,文句に も文法にも間違いはないが,そのために却っておもしろ くないのによく似ていた」(『欧米の旅』下, 43年,全集 第17巻)と書いていた.

 なかなかこまかいところまで目を向け,面白い連想を 行なったものである.いわゆる「教育的配慮」によっ て,間違いではないとしても詩味を欠いた文章を並べて いるのが教科書であるということが多い。

 そういう書物を学びつづけてきた者は,どんな感想を もっているか.r俊平さんの話』( 12年,全集第23巻)と          ふたつきいう作品では,「この二月あまりの暑中休暇を思ふさま

自由に遊び暮らし度い.そして頭の隅々に徽くさくなっ てこびり附いている無益な教科書の屑をすつかり払ひ落 した上で,せいせいした軽い悩髄になつて大学の新たな 専門科目に進み度い」と語らせている.高校生にとって 教科書に書かれていることは,「無益な屑」としか思え なかったのであろう.

 目の前にあるこれまで使ってきた教科書には「無益の 屑」が多い.しかしそれらは子どもの学力や思想に影響 をあたえるのであり,野上さんもこのままでいいとは考 えていない.野上さんは,先にあげた『一つの希望』

で,「私の望ましいのはいかに簡単な知識でも,教えら れたことが後日修正されないで,否定されないでその上 にそのまX積みあげられるような教へ方で根本なものを

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教へて貰ひ度いと云ふことである」と書いている.

 後になって否定されるような「知識」を教科書にのせ ないという方針は,当然守られてきたと思われることが 多い.しかし学校教科書には,後日の生活になんの役に も立たない教材ばかりでなく,修正を要する「知識」が 多い.第二次大戦前の日本史教科書はそのもっともひど い例であった.教科書検定訴訟を起こした家永三郎氏 は,ある書物を青年期に読んで,小学校で教わった歴史 が真実から遠いことを知り,歴史研究にすすんでからの ごとを治癒過程であるといわれたことがある(『一歴史 学者の歩み』三省堂)同じような経験をもつ人は多いだ ろう.弥生子もこれと直結するようなことを教師に向か って,「どうか成るたけほんとうのことを教へて貰ひた いと云ふことです。はっきり云へば,修身や歴史も算術 や理科や地理のやうに教へてほしいのです」(r若い女教 師へ』 34年,全集18巻)といっている.

 野上さんは,つづけて,二たす二は四というような後 になっても決して否定されない知識が大事だといい,

「小学校で教へられた学課の一つをいつか専攻学科とし て研究しようとする場合に,基礎から掘返さなければな らないと云ふような手落ちを生じないようにして貰ひた い.いい換えればセメントでがつちり固めておけぽ一生 役立つところへ,ごまかしの御都合主義の泥やぼろきれ を押しこんで貰ひたくはない」(前掲『一つの希望』)と 書いている.これは重要な提言である.そして野上さん のこの発言を知らなくても,同じような基礎づくりの教 育に努力をはらってきた人も多い.

 とくにこの30年余り,学習指導要領とそれに準拠して つくられた教科書を批判し,また批判にとどまらず,教 育内容の自主編成をすすめてきた者は,いずれも泥やぼ ろきれのようながらくた教材を排除し,しっかり基礎が ためをするような教科書をつくることに努力してきた.

 しかしPTA会員,とくに一般の父母会員が教科書づ くりに直接参加する機会は皆無に等しい.手をこまねい ている他はないのだろうか.野上さんのばあいは,長男 が小学校入学を目の前にしたとき,母として,その子に はさまざまな良い芽が吹き出そうとしていることを信じ ているといった後,つぎのように書いていた.

 「けれども教師には,小学校教育には,一本々々の樹 を尊重し,その芽に従ってそれぞれ特殊な手当をして呉 れる程の親切があるでせうか? 仏蘭西式の庭園におけ る樹木のやうに,彼は他の稚い立樹と並んで一様式の型

      ピラミツ ト

を保たせられるために,金字塔形,或は円柱形に,又は 正方形の棚のやうに,異様な刈りこみをされるでありま せう.母親はそれを思ふと怖ろしくなりました.」(『小

さい兄弟』 16年,全集第3巻)

 これは60年以上も前の文章だが,これまた今日の問題 をついているように聞こえる.ここに見られるような子 どもの就学に対する不安,学校の現状への疑問をもつ人 はどれだけいるだろうか.これは,教育はすべて学校に お任せするという態度や,上級学校進学に有利な学力を つけてくれることだけを期待するという態度とはちがっ ている.ここで強く訴えているのは,そのような態度か らは遠いものであり,なにより画一的な教育への批判で ある.目先のことにとらわれず,子どもの長い将来を考 えさえすれぽ,学校に対してはこのような批判にもとつ く要求をよせることがもっとも大切であることがすぐに 分るのではないか.

 画一化を排し,一人一人の子どもの個性的な発達のた めの教育や文化を用意することが大事だと考える弥生子 は,外国へ出かけても,どこでも子どもの動きに関心を よせている.たとえば入口にダーウイソとハックスリの 大きな彫像が置かれたロソドンの自然科学博物館の1室 で見かけた子どもについて書いている.小学3年生にも ならないと思われる子どもが,標本の入っている抽斗を 引いて中をのぞいたり,その標本の写生に夢中になって いたのである.よごれた襟の服を着た子どもについて,

「あまり大事には育てられてゐないらしい子供」と見て おり,そこへ制服の番人も近づいてくる.しかし,それ は,とがめるためではなく,にこにこしながらである.

この様子をみて,弥生子は「叱られる代りに優しく許さ れて,自由にいぢらせて貰える彼らはなんと幸福か」と 感想を記している(r欧米の旅』下,43年,全集第17巻).

また恐龍の骨のあつめられた室では,子どもたちがかけ まわっているのに,誰もとがめていないことに注目す る.そして,こわしたりしなけれぽいいではないかと思 う.それどころか,弥生子は子どもたちにさらに大きな 期待を抱いており,「さうしてもし腕白どもの一人でも,

そのでっかい骨をもっていた動物が,いつどんな時にこ の地球に住んだかを考えたりしだすなら,自然科学博物 館のもつ重要な使命の一つが達しられるわけだから」と

いう.

 子どもの人間としての発達をうながすには,それにふ さわしい諸条件の整備が必要であり,この問題にも,弥 生子は関心をもっていた.国防費が日本だけでなく,欧 米諸国でも増え始め,日本ではそのための献金がさかん になっていた1934年,弥生子は子どもたちのためにいく つもの提案していた.それは,欠食児童のための暖い弁 当,才能がありながら家庭の経済的事情のため進学でき ない子どものための学費を出して援助し,学校には,り 7

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っぱな施設や設備,教師にはいい報酬を提供し,さらに は「戦場で倒れた兵士のように教室で倒れた教師が兵士 の赤十字病院におけるやうな立派な病院」をっくるよう に,等々といった,さまざまな提案であり,ここからす すんで,「どうかわたしのこの夢を笑はないで下さいま し.決してそれが不可能なことではないということをわ たしはかたく信じてゐるものです.軍艦をつくるのをた   いつそうへ     まうい

った一艘減らすことでも容易に出来ることだと思ひま す」と訴えていたのである(前掲r小学生の母へ』).

 この問題は戦後に持ち越しとなる.半世紀をへて同じ 思いから同じ提言をしたい母親は何万といるであろう.

弥生子も,「家庭は学校に対してどんなことを望むか」

と問われたとき,「学校は家庭の要望を充たすことが可 能かどうか」をまず考えさせられるという(『学校は家 庭の要望を充たしうるか』 49年,全集第21巻).しかし,

かんたんに「すべてが可能だ」といえないことは,国民の 教育権がうたわれている憲法をもつ今日も変わらない.

 家庭の要望にこたえるには,学校の機構や財政につい ても変えなければならないことが多い.弥生子はさら に,「日本の現在の政治形態の中で,その複雑なモザイ ックの一片としてある場所に厳しく嵌めこまれている事 情」を見て,あれこれ注文を出しても,それらは夢に近 いと考える.これが書かれたのは,第二次大戦後の教育 改革期であり,学校教育もまた改められようとしていた 時期だが,それでも政治との関係により,思いきった改 革は困難であると見ていたのだろう.

 そのなかで,ただ一つあげているのは,一学級の生徒 数を減らすことであった.何十人もの子どもを受けも ち,彼らの心の窓を開いて知能や情操を育てるのは,不 可能に近いとみる弥生子は,ロンドン滞在中の光景を思 い出す.それは,住宅街にある芝生の前庭で,7,8人 の子どもが遊んでいる光景である.同年齢の子がこんな に大勢いることが注意を呼んだが,そこが学校であるこ とを知ってびっくりしたというのである.弥生子は,自 分はこれが日本ですぐ実現できると思うほどの夢想家で はないといいながら,「しかし学校というともとの兵隊 屋敷をおもわせるたうな大きな広い建物と,つねにがや がやしている子供の集団を聯想する考え方は,修正され てよいのではなかろうか」という.私もこの意見に同感 である.活気のある集団と,騒然とした集団とは区別す る必要があると思う.

 学級規模を小さくしようという弥生子のささやかな提 案は,今日ようやく40人学級の実現を目標とするところ

まできたが,それとても,なかなか実現しそうにない,

しかし日々育つ子どもは,条件の整備される日を待って

いない.条件改善のための運動をすすめるとともに,同 時に条件如何にかかわらず,親や教師は子どもたちに働 きかけなければならない.その基礎には,しっかりした 子ども観が求められる.この点で弥生子の著作から多く のことを学ぶことができる.

6.子どもを見っめ,若者に語りかける

 1965年,網野菊との対談r女流文学と作家生活』(別 巻2)で,網野が三人の子を育てながら作品を書くのは 大変であろうと問うたのに対し,3人の息子について,

「男の子というものは全然話相手にならないと皆さんが おっしゃるけれども,私は息子と友達みたいにいまだに 話しています」と語っている.その息子は3人とも大学 教授になった.これについて弥生子は別に大学教授にな れなくてもいいといったうえで,「ただこの社会に主体 的に生きるということ.つまり自分をつねにまげて生き てゆかなくちゃならないという約束から脱するには,何 か一つの研究対象をもって知識的に生きるということの ほかに方法がないのではないかという信念をもっていま す」と,明快に言い切っている.(「妻と母と作家の統一 に生きた人生」r婦人公論』 67年1月,記述・竹西寛 子,別巻二)このような信念が3人の子どもに共通に伝 わり,学究への道を選ぽせたのであろう.

 重要なのは,親が一方的に子どもを導こうとするので はなく,子どもに接しながら,子どもから学んでいるこ とである.このことについて弥生子は,三男が生まれた 直後に,「全く子供を愛さないでものを愛すると云ふ事 は決して出来ません.同時にまた愛すると云ふ事は真に どう云ふものかを教える最もよい教師は,子供以外には 存在しないもののやうに思はれます」(r母親の通信』

19年,全集第4巻)と書いている.

 子どもと共に行動し,子どもの様子を見ながら,自分 の考えを変えていった例は,たとえぽ『小動物』(1912 年,全集第18巻)という小品に出てくる.それは毛虫の 話である.自分は動物の話を聞いたり読んだりするのは 好きだが,誰にも,一つ二つの嫌いな小動物はいるので はないか,自分は毛虫と聞いただけで2,3間くらい駈 け出してしまうほど毛虫が嫌いだったという.ところ が,毛虫がそれほど厭なものではなくなったという.な ぜか.「それは毛虫をよく見たからだろうと思われます」

というのである,これは,親としてみごとな行動であ り,変化ではないか.

 前年,庭の木にいる毛虫を竹竿で落として焼き,これ を子どもは不思議そうな顔をして,じっと見つめていた が,今年になると子どもは自分で叩き落とし,女中さん 8

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が焼くのを見て,「可愛想ねえ,毛虫ちやん,焼けちや つたわ」とつぶやいた.それを弥生子は耳にして,子ど もにそんなことを思わせるのはよくないと心配し,今度 は焼かずにまとめて捨てさせることにしたという.この ように子どもといっしょに毛虫を見,また子どもの言葉 から毛虫の扱いを変えることによって毛虫を平気で見る ことができるようになる。そして「のみならず毛虫もな かなか美しい凝った色彩をもったものだと感心しながら 眺めてゐられるほどになりました.(中略)私は嫌ひな ものを一つなくして或美しいものを一つ見出したわけに なりました」という.この変化をもたらしたのは,子ど

もである.

 『新しき命』( 16年)について『新思潮』( 17年3月,

月報3に再録)には,「自分の子供を独立した人間存在 として充分に尊敬して見て居る所が非常に嬉しい」とい う評がよせられていたが,このことはr小動物』につい ても言えるであろう.子どもたちを独立した人間にして 見るのは,彼らには,自分を乗り越えていく可能性が潜 んでいると見ているからであろう.

 r小動物』を書いたころ,ようやく一人歩きを始めた 子どもを見ながら,弥生子は,「子供の眼前には日に日 に多種多様な世界が拓けて行く事と思はれます.そして 凡てが珍らしく,新らしく,喜ぽしく,楽しいことと思 はれます.r幼児のごとくならざれぽ』と云ふ意味を私 はよく考えます.そして朝夕彼の小い後景を追うて歩き ます」(前掲『お守の記』)と書いている.

 このように子どもの活動をよく見つめ,その成長・発 達に働きかけてきた弥生子は,その豊富な体験を生かす のにふさわしい,多くの若者たちに向かって直接語りか ける立場におかれる.それは,因縁浅からぬ法政大学の 付属女子中・高等学校の名誉校長として,すくなくとも 入学式や卒業式には生徒の前に立つようになったことで ある.そこでは,たとえぽ,高校に進学した者に向かっ て,若いとは可能性をたくさんもっていることであり,

「こういうことをしたいと思うことがなんでもできると いうこと,そういう可能性が年をとった老なんかより

も,たくさん.その人に豊かに恵まれている」一とい うことであると語りかけている(r新入生へ』 61年,全 集第22巻).幼児は多くの可能性をもっており,この点 で大人もまた幼児のようでなければならないと書き,若 者に向かってはその可能性を開花させるように呼びかけ

ていた.

 さらに1968年の卒業式で,生徒たちに,こう語りかけ ている.一「……どういう複雑な困難の多い職場にお いても,自分の力限りの努力を払うということを,それ

が結局,自分自身というものの力をためす実践の場とし て精神的に意義あるものであり,又自分自身というもの を成長させる上において,大きな生き方であろうかと思 います」(r−一一生を通ずる研究を』全集第23巻).

 この小論は,60年前にさかのぼり,1924年の1月6 日,つまり関東大震災の翌年正月に書かれた日記の一一節 を引いて結びとしたい.それは,いまあげた名誉校長と して多数の人に向かって語りかけたことを,自分自身に 言い聞かせている言葉に他ならない.一「自分の生活 をよりよくすること.たX それのみを専一にしなければ ならぬ.うんとうんと勉強しよう.今年よりも来年だ.

来年よりも来々年だ.うぬぼれてはならぬ.いぢけては ならぬ.一しつかり自分の路を踏んで行くのみだ.」

〈追記〉

 私どもの教育学研究室に関係のある話題を一つ一.

 『野上弥生子全集月報』16(全集21巻)の「編集室だ より」に,本巻所収資料の蒐集協力者の一人として私の 名がのっている.しかし,本来ここには私の名ではな

く,大蔵隆雄氏の名が入るべきだったのである.

 数年前,岩波書店編集部から,r近代教育』という雑 誌に「学校は家庭の要望を充たしうるか」と題する短文 が掲載されているとの記録はあるが,現物はなく,出版 社も不明である,心あたりはないか,と問われた.

 岩波はいつものように主な図書館はあたっており,私 は「探してみましょう」とこたえたものの,手がかりは なく,ある日,研究室で,rr近代教育』っていう雑誌を 誰か知らないか」とつぶやいたら,大蔵さんが,「う一 ん,聞いたことがある」といって数分後,「まちがいなく 成城だ」というや,ただちに成城大学へ電話をし,いつ ものように丁重に問い合わせると,先方も親切な人で,

たちまち現物を探してくれた.

 私が吉報を岩波へ伝えるや,編集部は成城へとんで現 物を手にして写しをとった.これが事実経過なのだが,

私の名だけが協力者として月報にのってしまったので,

いつか,このいきさつと感謝の気持を書きたいと思って いたのである.

 野上さんの文章は本論文でも紹介したように,学級の 生徒数を減らすべしという,四十人学級実現の要望が強 い今日から見て先駆的提言であり,全集に入れることが できて,ほんとによかったと思う.

 大蔵さん,有難うございます.

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