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― ― 呪われた恋人たちの共同体

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(1)

多くの恋に生き,多くの恋愛を小説に描いたマルグリット・デュラスが

「最後の愛人」と呼んだヤン・アンドレアに出会ったのは,

1980

年,作家

66

歳の夏のことだ.アンドレアは当時

28

歳.だが,両者の年齢差以上に 劇的だったのは,アンドレアが同性愛者という事実だったろう.ふたりの 出会いについては,同年に執筆された『

80

年夏』のそこかしこで隠喩的 に言及されてはいるが,その衝撃をもっとも露わに伝えているのは,プル ーストの『失われた時を求めて』を通しての次の仄めかしである.

 最後の残照まで引き延ばされた,緩慢で無為なあの夏の夜会,すすり泣きや 涙による愛の眩暈にまで発展したあの夜会は一体どうなったのだろう.書き留 められた夜会,書物の中で永遠となったあの夜会は,いまや終わりも際限もな い読書の時間へと引き継がれる.アルベルチーヌ,そしてアンドレが彼女たち の名前だった.死に冒された彼が凝視するその眼前で,ふたりは踊っていた.

苦悩に引き裂かれ,苦しみでぐったりとした彼は,そこ,彼女たちの前にいな がらにして,すでに彼女たちの過去,ふたりの出会いや,溺れて何も見えなく なったふたりの眼差し,もはや言葉を発することのない開いた唇,そして欲望 に燃えさかるふたりの身体についての物語を書いていたのだ.あの晩カブール で,あの愛の書物を

1)

『失われた時を求めて』の『ソドムとゴモラ』に登場する,アルベルチ ーヌとアンドレが乳房を寄せ合いながら踊るこの有名な場面―バルベッ クのカジノでふたりの女友達がダンスする様子を語り手と医師コタールが 眺めるこの場面では,同性愛者たちが互いの乳房を合わせて欲情するとい う事実をコタールから聞かされた語り手が,ついにアルベルチーヌの正体 を知る―を想起することによって,デュラスはまだ4 4語り得ない(語るに は生々しすぎる)自分とアンドレアの関係を『失われた時を求めて』の一

呪われた恋人たちの共同体

̶̶ デュラスの中のジェイムズとプルースト ̶̶

小 川 美 登 里

(2)

場面に透かし見ていたに違いない.それと同時に,語り手の苦悩をすでに4 4 4 書物に書き終えた作者プルーストに対するデュラスの感嘆の念も引用から 読み取ることができる.事実,アンドレアとの出会いは,デュラスに人生 の転機をもたらしただけではなく,エクリチュールにおける転回をもうな がす出来事だった.本来は成立しえない(異性愛者と同性愛者とのあいだ の)愛情を築くことと,その関係を維持し,理解するために,彼ら呪われ たカップルの物語をエクリチュールへと昇華させることは,そのときデュ ラスの中でたったひとつのなすべき行為となっていただろう

2)

.こうし て,ヤン・アンドレア(・シュタイナー)の名の下に,デュラス晩年の作 品群が生み出されたのである.

とはいえ,デュラスとアンドレアの関係はあまりにも不安定であったた めに,それを十分楽しんだのちに記録する余裕などなかった.その一方 で,常識を逸した関係を生きるために,想像力とエクリチュールのフィル ターを通して自問する必要にせまられていた作家にとっては,生きること も書くことも容易ではなかったはずである.試行錯誤を繰り返した作家 が,やっとふたりの関係を肯定的に描くことができたのは,『エミリー・

L

1987

)においてであった.ノルマンディーの小さな港町のキルブフを舞 台にしたこの物語では,冒頭,作家自身と思われる語り手とその愛人が,

老齢のイギリス人カップルをカフェで見かける.そして,語り手と愛人が もうひとつのカップルへとみずからを重ね合せることができた瞬間,ロマ ネスクな物語世界が堰を切ったように滔々と流れ始める.

 そして私たちの物語は彼らの物語へと接木され,私たちは『エミリー・

L

』 の物語の中になにものかを認識することができた

3)

ここで言及されているのは接木の技法,みずからの物語を想像上のカッ プルの物語へと接続し,虚構のイメージとして固定すること,つまりロマ ネスク化の作用を通して語るという手段である.『エミリー・

L

』におい ては,デュラス/アンドレアのカップルは,まずはイギリス人の老カップ ル(エミリー・

L

/船長)へと重ね合わせられ,ついでエミリーと,彼女 を愛した若い番人との絶対的で不可能な愛へと導かれるのである.

実人生での定義不可能な愛を理解し,それを書き留めるために,架空の 物語を経由するというこの手法は,実は『エミリー・

L

』だけに用いられ ているわけではない.それ以前にすでに,呪われた恋人たちの系譜をなす

(3)

ともいえるジェイムズとプルーストの作品を素型として,デュラスは接木 の技法を実践していた.ジェイムズとプルーストの影響は,デュラスとア ンドレアの出会いから『エミリー・

L

』上梓までの間に発表された『死の 病い』(

1982

)と『青い目黒い髪』(

1986

)にもっとも明瞭にあらわれて はいるが,少なくとも

1960

年代以降つねにデュラス作品の内部に存在し ていたと考えられる

4)

.本論では,ジェイムズとプルーストがデュラス作 品にとっての秘められた水脈であったことを確認したうえで,

1980

年以 降,デュラスがアンドレアとの関係を作品へと結実させるに当たって,ど のように両作家の作品を模範としたかを明らかにする.

1 . プルーストとデュラス―『失われた時を求めて』と「インドの連作」

デュラスの伝記において,プルーストの名と交差する日付があきらかに 存在する.それは,『失われた時を求めて』において,ノルマンディー地 方の避暑地バルベックの「グランドテル」の名で登場した,ロッシュ・ノ ワールと呼ばれる高級アパートの一室をデュラスが

1963

年に購入したと きだ.すでにヌーヴォー・ロマンの騎手として注目されていたデュラス は,プルースト的なゲニウス・ロキに満たされたこのアパートに居を構え る.そして,後に「インドの連作」という呼称で呼ばれる『ロル・

V

・シ ュタインの歓喜』(

1964

),『ラホールの副領事』(

1965

),『愛』(

1971

),『イ ンディア・ソング』(

1973

),『ガンジスの女』(

1973

)を次々と書き上げた.

ノルマンディーを介してふたりの作家を結びつけたとき,まるで「インド の連作」が『失われた時を求めて』の一変奏であるように思われてくる.

たとえば,『ロル・

V

・シュタインの歓喜』冒頭の忘れがたい場面,ロル が正気を失う

T.

ビーチのカジノでの舞踏会は,先に挙げた『ソドムとゴ モラ』での,踊る二人の少女とそれを見守る語り手による三角関係の引き 写しといったように.同じく,ジャック・ホールドとタチアナ・カルルの 森ホテルでの密会を麦畑から窃視するロルの姿は,モンジューヴァンでヴ ァントゥイユ嬢と友人が背徳に耽るのを語り手が発見する場面の想起であ り,ジャック・ホールドとロルが電車で

S.

タラから

T.

ビーチまで旅する くだりは,語り手がアルベルチーヌから衝撃的な告白を受けた,あのバル ベックの軽便での情景の想起である.そう考えると,『ロル・

V

・シュタ インの歓喜』は,プルーストの物語世界が刻印されたノルマンディーの土 地から直接霊感を得て書かれた作品であり,『失われた時を求めて』の物 語さながらに,その後,徐々に開かれ,連作として展開していったといえ

(4)

る.事実,カルカッタを舞台とする『ラホールの副領事』とその続編『イ ンディア・ソング』では,大使夫人アンヌ=マリー・ストレッテルがカル カッタに留め置かれたヨーロッパ人たちに向けて開く舞踏会の場面のうち に,プルーストへの目配せを見出すことができる.ただし,パリの社交界 の花であったゲルマント夫人による夜会の洗練に,デュラスは倦怠と退廃 を対置させる.そして,プルーストの機知に飛んだ社交界の会話の数々を 換骨奪胎し,無意味な言葉の断片として再処理するのである.こうして,

記憶の(再)構築を目論んだ『失われた時を求めて』とは対照的に,デュ ラスの連作は,狂気と忘却がもたらす暴力的で不可逆的な記憶の破壊を描 きだす.連作が進むにつれて,ノルマンディーのイメージは薄らいでゆ く.だが,プルーストの記憶は残響を残し続けるように感じられる.名も 理性も失った登場人物が海辺をただ彷徨う『愛』と『ガンジスの女』では,

S.

タラの町全体が火に包まれる終末論的なイメージが登場するが,そこ に落日のバルベックの海辺に佇むアルベルチーヌの姿,まるで燃えさかる ソドムの街を背に,女優のように勝ち誇った表情を見せるアルベルチーヌ を重ね合わせることも十分可能なのだ.

以上のように,

60

年代以降のデュラスにとって,プルーストとはノル マンディーの風景を介して通じあう存在だったといえる.ところが,後者 がデュラスの人生に再浮上する第二の転機が訪れる.『

80

年夏』で先述の 引用がなされた時だ.このときデュラスは,同性愛をテーマとする作品と して『失われた時を求めて』を再認識したに違いない.すでに見たよう に,愛する人が同性愛者であることを知った語り手の苦しみに共感しなが ら,『ソドムとゴモラ』の一場面をデュラスが引用していた事実からも,

それは明らかであろう.そして,それ以降,プルーストへの暗示は同性愛 と切り離せないものになっていく.正確に言えば,自分の身に降りかかっ た異常事態ともいえる出来事を,デュラスはプルーストの作品を頼りに理 解しようと試みたとすら考えられるのである.ノルマンディーをふたたび 舞台とした『ノルマンディー海岸の売春婦』(

1986

)では,獲物を物色し ながら街を彷徨うシャルリュスやゴモラたちから神秘のオーラを剥ぎ取っ たかのような同性愛者たちが登場する.さらに,同性愛のテーマが前景化 された『死の病い』(

1982

)においては,プルーストへの暗示がテクスト 全体を覆うほどの重要性をもつにいたる.草稿の段階では容赦なき同性愛 弾劾の書であったとされるこの『死の病い』は,重なる推敲によって洗練 されたフィクションへと変化を遂げたが,その過程でプルーストという第

(5)

三者の介入があったことは間違いないだろう.夜の海を背景とした浜辺の 一室での,眠り続ける囚われの女と同性愛者の男を描いた本作は,性的嗜 好を反転させた形でのプルーストの本歌取りである.この反転現象に意味 を見出すことが許されるなら,同性愛への嫌悪を超え,ジェンダーの規範 そのものがあいまいとなる境界線まで物語を運んでいくことによって,同 性愛/異性愛の範疇の先にある「愛すること」の可能性を問おうとした作 家の意図を,なによりもそこに読み取るべきであろう.

2 . ジェイムズとデュラス―二つの短編と三つのアダプテーション 5)

ところで,デュラスの『死の病い』をめぐっては,もうひとりの偉大な 作家,ヘンリー・ジェイムズの存在を無視することはできない.デュラス とジェイムズの明らかな接点は,『ヒロシマ・モナムール』(

1958

)の成功 によって脚本家としての注目を浴びていたデュラスに,ジェイムズの短編

『アスパンの恋文』脚色の依頼が舞い込んだ

1960

年に遡る.だが,これ は劇場用に脚色され,すでにイギリスで大成功を収めていた英語版の脚本 を,当時の夫ロベール・アンテルムとともに翻訳したにすぎず,こうした 作業がどの程度デュラスに影響を与えたかは定かではない.だが,重なる 偶然によって,二年後の

1962

年,今度は『密林の野獣』の翻案がデュラ スに依頼される.依頼主のジェイムズ・ロードによってすでに短編は英語 に脚色されていたものの,フランス語の翻案を任されたデュラスにはある 程度の自由が保証されたらしい.戯曲『密林の野獣』がロードとデュラス の連名によって上演された事実からも,それがうかがえる.そして,さら にその二十年後,同じ『密林の野獣』に再演の話が持ち上がる.これをき っかけにデュラスは過去の脚色を見直すのであるが,その際,テクストを

「デュラス風」に完全に書き換え,ジェイムズ・ロードの名を作者から抹 消してしまったのである.

1984

年に『戯曲集

III

』の一編として出版され た『密林の野獣』には,もちろんロードの署名はなく,

1962

年版のテク ストも収められていない.

このように,ジェイムズの名はデュラスの伝記において,

60

年代と

80

年代に二度登場するだけである.たとえそうであっても,その間ジェイム ズの影が消え去ったわけではなく,それどころか,デュラスが独自の物語 世界を確立するに至った重要な時期に,プルーストと並ぶ密かな着想源で あったと考える方が自然ですらある.『密林の野獣』の最初の上演から二 年後,デュラスは『ロル・

V

・シュタインの歓喜』を執筆するが,到達不

(6)

可能な不在の中心へと収斂していくその物語構造は,ジェイムズの多くの 作品を彷彿とさせる.また,ヨーロッパに生まれながらもインドで生きる 決心をした『ラホールの副領事』の女主人公アンヌ=マリー・ストレッテ ルは,旧大陸と新大陸の間で引き裂かれるジェイムズの長編小説『大使た ち』の主人公ストレザーを連想させる(実際,アルファベットの綴りでは,

Stretter

Strecher

はたった二字違いなのだ)

6)

.さらに,『ラホールの副 領事』の草稿に目を向けると,初稿段階では重要な舞台とされていたヴェ ネチアが完成稿では姿を消し,唯一,アンヌ=マリー・ストレッテルが青 春を過ごした場所としてその名が言及されるのみとなったことがわかる

7)

. ヴェネチアといえば,デュラスが最初に翻案した『アスパンの恋文』の舞 台でもあり,『双翼の鳩』など,ジェイムズの他の小説の舞台でもある場 所だ.さらには,後に触れる『失われた時を求めて』の『囚われの女』で,

語り手のアパルトマンに囲われの身となったアルベルチーヌのフォルトゥ ニーの外套,失踪する前に彼女が身に纏っていた,青と金の糸で織りあげ られたその外套もまた,同じようにヴェネチアの面影を放っていた.おそ らく,ヴェネチアという名は,プルーストを経由してデュラスからジェイ ムズへと繋がれる,秘められた符牒なのである.

ところで,再上演のために『密林の野獣』を書き直した

1980

年代初頭 に先んじる

70

年代後半,デュラスはもっぱら映画製作に取り組んでい た.言い換えるなら,デュラス曰く「暇つぶしでしかない」映画しか作れ ないほど,小説家としてはスランプだったと言っても過言ではないだろ う.こうした背景を考慮すると,『密林の野獣』の書き換え作業が,単な る脚色以上の特別な意味を帯びてくる.先に触れたロードの名の抹消も,

女性主人公の名をメイ・バートラムからキャサリン・バートラムに変更し たのもすべて,ジェイムズのテクストを自分自身の作品としてみなそうと していた事実を推測させる.むろん,それは原作者ジェイムズを否定する わけではなく,あくまでもジェイムズの物語をとおしてエクリチュールの 世界へと戻ろうと試みたデュラスの切実な思いの表れであろう.事実,ジ ェイムズの短編とデュラスの翻案を読み比べると,後者が驚くほど原作に 不実であることに気づく.戯曲では,核心へと向かって行きつ戻りつを繰 り返し,蛇行しながら進んでいく,心の微妙な揺れを再現したような息の 長いジェイムズの文章は影を潜め,テクスト自身の響きを優先した,短く リズミカルな文章が連なり,言葉の隠喩性よりも声の流れに重点が置かれ ている.また,原文にはない「わたしたち」という代名詞を重ね合わせて

(7)

いくことで,主人公のジョン・マーチャーとキャサリン・バートラムの共 犯関係が強調される.これは,対話を重視する演劇に固有な制約上の成り 行きというよりもむしろ,デュラスによるジェイムズ作品の過剰解釈の結 果と解するべきである.なぜなら,初演時(

1962

年)のプログラムに寄 せた序文にも明示されているように,この共犯関係が作者の意図によるも のであることは間違いないからだ.「彼らのあいだの忠誠は感嘆すべきも の,模範となるでしょう.そしてそれは死がやってくるまで続くのです.

死だけが,彼らが共有するものに名前を与えるでしょう

8)

.」この引用を 読む限り,デュラスが『密林の野獣』を『モデラート・カンタービレ』の ように読み,解釈していたことが分かる.しかし,ジェイムズの小説は

『モデラート・カンタービレ』以上に苦々しく,救いがない.メイ・バー トラムはジョン・マーチャーの強迫観念に寄り添い

9)

,彼の運命を見届け ることに同意しながらも,病に罹って死んでしまう.メイが無言で与え続 けてくれていた「愛するチャンス」を棒に振ったことにジョンが気づくの は,彼女が死んだ後である.こうして,男のエゴイズムの犠牲となった女 の物語は,しかしながらジェイムズの小説ではより微妙な駆け引きを含ん でいる.行為上メイはジョンの犠牲者といえるものの,真実を知りつつ死 んでいくという点で,メイは優位に立っているといえるからだ.物語中盤 にいたって,ジョンのいう稀有な運命とは,他者を愛することのできない 孤独な自己愛にほかならないことをメイは確信するが,ジョンにそれを明 かすことはなく,あくまでも彼の理解者であり続けようとする.メイが真 実を掌握していると直感したジョンは,病床のメイにつめよる.この瞬間

(それと気づかぬままにジョンがみずからの運命,すなわち彼のいう野獣 に遭遇した瞬間),ジョンはメイから差し伸べられた最後の救いの手を受 け取るどころか,それを拒否するのである.この決定的な瞬間のあと,瀕 死のメイにはもはやジョンを救う手立てはなく,真実を知りながらも沈黙 を守る「スフィンクス」のような存在として死んでいく.

3 . 接木される物語 ―『密林の野獣』から『死の病い』へ

見てきたように,デュラスの戯曲『密林の野獣』は原作からはほど遠 い.しかし,ここで問題としたいのは,デュラスによる書き換えの良し悪 しではなく,この書き換え行為がそののち次々と作品を生み出す原動力と なった点である.プレイアッド版の編者のひとりであるジル・フィリップ もまた,次のように指摘している.「『密林の野獣』はデュラスによる脚色

(8)

作品の中でももっとも重要で,作品全体との親和性も高いが,とりわけデ ュラスが著作活動に回帰した

1980

年以降の,作家の再出発に書かれた作 品と密接な関係をもっている.それはまた,愛することの不可能性に冒さ れた男のテーマがデュラスの心を占めていた時期にも当たる.そのテーマ は

1982

年にヤン・アンドレアに口述筆記させ,

1983

年に出版された『死 の病い』に結実する

10)

.」要するに,『密林の野獣』の書き換えが『死の 病い』という新たな作品を生み出したことが重要なのだ.デュラス自身 も,『密林の野獣』にふたたび取り組んだ際,次のような感想を漏らして いる.「作業の最中,わたしは幾度となくジョン・マーチャーの恐るべき 無邪気さ,病気的なまでの想像力の欠如に結びついた無邪気さ,こう言っ てよければ,魂の愚かさを糾弾したくなりました

11)

.」このデュラスの思 いは,『死の病い』の結びの文章,「こうして,しかしながらあなたは,あ なたにとって唯一可能なやりかたで,この愛を生きることができたので す.つまりはそれが起こる前に失うという方法で

12)

」に直結するのを,

私たちは知るだろう.

ところで,引用での「あなた」という呼びかけは,『死の病い』のテク ストを口述筆記し,虚構の物語が紡がれるその場所に居合わせたヤン・ア ンドレアへと送り返される.「『死の病い』の執筆当時,ヤンについてわた しは書くことができなかった

13)

.」という作家の告白からもわかるとお り,デュラスは虚構化を媒介として―現実のヤン・アンドレアをフィク ションの中の「あなた」と呼ばれる同性愛者へと移し替えることで―初 めて,当時彼女の精神を占めていた問題,フィリップの表現によれば「愛 することの不可能性に冒された男のテーマ」に向かい合うことができた.

つまり,『密林の野獣』のメイとジョンの物語の鋳型に自分たちの姿を流 し込み,そこを端緒として彼ら自身の物語を語るという試みの結果,デュ ラスの『死の病い』が生まれたのだ.

以上の観点に立つと,『死の病い』を特徴付ける奇妙な語りのステータ スも腑に落ちる.虚構性という物語の前提を括弧に括ることによって,本 当らしさを自明のものとして提示することを常とする語りの手法を否定 し,条件法の動詞を多用するその独特な語りは,虚構作品(ジェイムズの 鋳型)の上にさらに接木された物語(『死の病い』)であるがゆえの脆さを 主張する.冒頭の「あなたは彼女にお金を差し出したはずだ.あなたはこ う言ったであろう.「数日のあいだ,毎晩,来なくてはならない」と

14)

.」

という一節からも明らかなように,これから紡がれる物語がその前提から

(9)

してたんなる仮定にすぎず,その内容もまた,虚構を出発点として想豫さ れる「ありうるかもしれない帰結」のひとつにすぎない.物語のいびつな 構造―語り手の「私」と,「あなた」と呼ばれる同性愛者の男,そして「あ なた」によって買われ,毎晩部屋にやってくる「彼女」が構成する三角形

―についても,前提となるジェイムズの物語の「彼」の地位を「あなた」

が侵食し,彼と彼女の物語が「あなた」と彼女の物語への変容を被るその 一方で,ジェイムズの話者とは別の語り手(「私」)がそれを語る,という 変則的な構造を露呈させている.先に,私たちは『死の病い』の女性像を プルーストに関連づけた.確かに,毎夜,男のアパートの部屋で眠り続け る女の姿は,『失われた時を求めて』の『囚われの女』におけるアルベル チーヌに瓜二つだ.だが,『死の病い』の女のイメージはむしろ,デュラ スによる『密林の野獣』から直接借用されたといえる.戯曲の第六場,す なわち,ヒロインが死んでゆく最終場のト書きで,デュラスは次のように 記している.「あるいは逆に彼女は舞台中央にいる.横たわり,顔面蒼白 で,ほとんど死んだような姿で.まるで彼女自身が「野獣であったかのよ うに」,そして殺されてしまったかのように.ジョン・マーチャーの自己 愛によって

15)

.」ある意味,『死の病い』は,ジェイムズの物語中で瀕死 の状態となったヒロイン,メイ・バートラムのイメージを別の物語空間に 移植することによって誕生したといえる.だが,死に冒されるジェイムズ のメイに対して,次の引用が示すように,『死の病い』において死は男の 側にある.

 まだ眠りの中にいるような,ほとんど消え入りそうな声で彼女は答える.

「だって,あなたが私に話しかけたときから,あなたが死の病に冒されている ことがわかったわ.数日の間,私はその病を名付けることができなかったけれ ど.でも,その後,それができたの.」

16)

死の病という名を男の自己愛に与えることによって,デュラスは男女の 関係を幸福な共犯関係として描いたみずからの脚色から距離を置き,原作 が暗示するにとどめていたメイの死の原因―他者を愛することのできな い男のエゴイズムの犠牲による死―を言語化した(それはとりもなおさ ず,男の死刑宣告を意味するだろう).そうすることで,『死の病い』の女 は,メイが体現していた沈黙のスフィンクスから,語る法の体現者へと変 化する.いまや女は男に真実を告げる存在となるのだ.

(10)

 あなたは彼女に尋ねる.「どんな理由で死の病が命取りなんだい?」彼女は 答える.「その病に冒された者自身が,その病,つまり死に冒されていること を知らないという理由によって,よ.」

17)

ジェイムズの物語に接木された『死の病い』は,たしかに小説『密林の 野獣』をめぐるメタテクスト的な側面をもつ.だが,デュラスは『死の病 い』を単なる自己愛(同類にしか関心を寄せることのできない同性愛も含 めて)糾弾の書とはしなかった.デュラスの関心はむしろ,ジェンダーの 規範を尊重しながらも,そこからこぼれ落ちる現実を描くことにあったの ではないだろうか.その証拠に,『語る女たち』でデュラスは次のように 述べている.「自然の所与としての同性愛など存在しないと,もちろん私 は信じています.私にとっては,それは別次元での侵犯行為なのです

18)

.」

この引用を踏まえるなら,死の病とは男による侵犯,つまり彼自身もまた 過剰の犠牲者にすぎないことになる.同性愛者の男による,物語冒頭での 無為な射精(思いがけない勃起によって溢れ落ちる精液が,虚空に向かっ て放たれる)や,男の流す無意味な涙こそ,まさに制御することのできな い過剰さに押しつぶされた情念の犠牲者を示しているのではないだろう か.だとすれば,死の病とは,(他者にではなく)自分自身に差し向けら れた過剰な熱情のもたらした結果であり,愛の奇形にすぎないことにな る.事実,『死の病い』は,男女の関係を善悪や規範によって判断しよう とはしない.死の病は他ならぬ女から生じるとも書かれているからだ.

 そこ,彼女の内部で死の病が熟成されること,あなたの目の前に広がるこの 姿かたちこそが死の病を作り出していることを,いまやあなたは発見するだろ う

19)

法の体現者のごとくに死の病いを男に宣告する女もまた,非知や虚無は おろか,死の病を生み出す穴をもみずから宿している.こうして,『死の 病い』は,同性愛から性差の物語へと軸足を移す.互いの差異,各自がそ の内部に宿した死のイメージを相手に送り返すことでしか愛を試みること のできないような極限状態,もはや偶然の誤りからしか愛の到来を期待で きないようなむなしき待機こそ,ジェイムズの『密林の野獣』を迂回して デュラスが描くにいたった,偽らざるアンドレアとの現実であったともい えるだろう.それでも,『死の病い』はまったく救いのない物語ではない

(11)

はずだ.物語の終盤,男は自分だけに注がれた関心をほんの一瞬,外へと 向ける.その一瞬の他者(他所)への眼差しの中にこそ,無限への可能性 が秘められているとでもいうように.

 愛するという感情はどうやって起こりえるのか,とあなたは尋ねる.彼女は あなたに答える.おそらくは世界の論理の中に突然できた裂け目からよ.彼女 は言う.たとえば,ひとつの過ちから.彼女は言う.決して意志からではない わ.あなたは尋ねる.愛の感情は他のものからも生まれうるのかい?あなたは 彼女に答えるよう哀願する.彼女は言う.すべてからよ.夜鳥の羽ばたき,眠 り,眠りがもたらす夢,死の接近,ある言葉,犯罪,自分,自分自身から,と つぜん,理由もなくはじまるの

20)

4 . 『青い目黒い髪』― ふたたびプルーストへ

『青い目黒い髪』出版直後の

1986

年,ジル・コスタスとの対談の中で,

作品から「ホモセクシュアル」という言葉が消えた理由について,デュラ スは次のように答えている

21)

 いいえ,わたしはもうほとんどその言葉を使っていません.この作品以前に は,始終使っていましたけれど.今はもう,特別な意味を込めた場合にしか使 いません.この作品以降,それは偽りの言葉,流行りの言葉になってしまった のです

22)

ジェンダーの規範を超えるエクリチュールの萌芽は,『死の病い』にお いても感知されるとはいえ,それに続く『青い目黒い髪』ではより明確な 形で,既成の言葉で規定された社会的な規範やイデオロギーの外へと超え 出る手段として,エクリチュールが用いられている.エクリチュールによ って紡がれる物語世界は,フーコーがサドの小説について評した「不規則 の概念

la notion d’irrégularité

」の空間

23)

,すなわち規範や思想の外にあ る可能性の場として立ちあらわれる.デュラス自身,『青い目黒い髪』の 物語を次のように分析している.

 人は神の観点からほとんどすべての事物の合目的性を説明することができま す.けれども,ここは別です.ここでは,ホモセクシュアリティの目的性を説

(12)

明することは不可能なのです.それは人が死を説明できないのとまったく同じ ことです.神はこれらふたつの領域については関与しませんでした.みずから の創造行為における説明不可能な部分を,神はそのふたつの領域,すなわち死 とホモセクシュアリティとすることに決めたのです.このふたつは精神分析が 生んだのではありません.神に由来するのです

24)

この「説明不可能な部分」こそ,『青い目黒い髪』が扱うべきテーマと なるだろう.『死の病い』は「世界の論理の中に突然できた裂け目」に愛 の可能性を見出しながらも,その先は宙吊りとなっていた.そして,解説 者ベルナール・アラゼも指摘するように,『青い目黒い髪』はまさにそこ,

「世界の論理の裂け目」を出発点とするのである

25)

.だが,『青い目黒い 髪』は『死の病い』のたんなる続編ではなく,両者には形式的かつ内容的 な断絶がある.『ノルマンディー海岸の売春婦』には,『青い目黒い髪』成 立までの詳しい経緯が描かれている.『死の病い』を劇作品として上演し たいというベルリンからの依頼を受けたデュラスは,早速テクストを戯曲 に書き換える作業に取りかかるが,うまくいかない.その理由をデュラス は次のように分析している.

 私は『死の病い』,言い換えるなら三声という『死の病い』の原理そのもの,

統一的で固定されたその形式に立ち戻ってしまっていました.私は自分自身の 中に沈んでいき,作家とは対極の存在になってしまっていました.形式的な必 然の犠牲となっていたのです.私はそこから逃れようとしましたが,うまくい きませんでした

26)

不可能な愛の物語を先に進めるためには,『死の病い』の語りの構造で は立ち行かないことを理解したデュラスは,ラディカルな変更をせまられ ることになる.『死の病い』の背景はそのままに,『青い目黒い髪』の語り の空間は,小説と戯曲の中間形態,フレキシブルであると同時にアンビヴ ァレントな空間,実体験と虚構がないまぜに語られる実験的な可能性の場 へと変更される

27)

.同時に,「彼」(死の病に冒された者),「女」(宣告者),

「私」(作家)という固定された三声の枠組みを放棄し,同性愛者の「彼」

に対しては,彼からその肉体を嫌悪され,拒絶される「彼女」が対置され る.『青い目黒い髪』の舞台は,登場人物の男女にとって耐え難い苦しみ の場,まさに生の極限状態なのだ.そこで死(物理的あるいは観念的な死)

(13)

が選択されるか,あるいはそうしたおぞましくも悲劇的な状況から愛が生 まれるのかは,もはや世界の論理によらない.「ありうるかもしれない」

偶然や過ちによって生じた出来事が,『青い目黒い髪』が語る「ありえた かもしれない」物語となるのだ.

『青い目黒い髪』の物語は,一見『死の病い』を引き継いでいる.ひと りの女が同性愛の男と契約を交わし,毎晩部屋にやってくるという同じ筋 書きが反復されるかのようにみえるからだ.だが,タイトルが示すよう に,『青い目黒い髪』の物語空間には色やイメージ,匂いが存在し,生身 の肉体が確かにそこにあると思わせるような感覚的世界が構成されてい る.たとえば,舞台となる男のアパルトマンの部屋にうっすらと残された 薔薇の残り香が物語冒頭に登場するように(「少しずつ,ある匂いが広が ってゆくだろう.元をたどればここに書かれたもの,つまり香と薔薇の香 りだっただろうが,いまはもう無臭の砂の屑の香りとなったにちがいない ものだ」)

28)

.そう,『青い目黒い髪』は喪失/痕跡のテーマで幕を明け る.主人公たちは毎夜男の部屋で顔を合わせるが,ふたりとも愛する人を 失った(女は情事を交わした男の出立によって,男はホテルで一瞬目が合 った男の姿を見失ったことで)絶望感に打ちひしがれている.各々が消え 去った愛人の「青い目」の記憶を胸に抱いて,毎夜,愛のない空間で無為 の時間を過ごすのである.

こうしたロマネスクな仕掛けは,『死の病い』にも,その母胎である『密 林の野獣』にも見られない.むしろ,プルーストの世界を引き継いでいる といえるだろう.『死の病い』の眠る女の姿が,アルベルチーヌを彷彿と させながらも,デュラスによって再創造されたキャサリン・バートラムか ら直接派生していたその一方で,『青い目黒い髪』の女はあきらかにアル ベルチーヌに近い

29)

.『失われた時を求めて』の読者なら,アルベルチー ヌこそが「青い目黒い髪」の持ち主であると主張するだろう.そして何よ りも,『青い目黒い髪』の始まりが,『囚われの女

II

』の終わりにそのまま 接木されているかのような印象を抱くにちがいない.『囚われの女

II

』の 終わりで,アルベルチーヌは語り手のアパルトマンを去るわけだが,その 前に語り手はアルベルチーヌにフォルトゥニーのマントを買い与え,ふた りは一緒に散歩をする.目も覚めるような青のマント(アルベルチーヌの 瞳と同じ色だ)は語り手にヴェネチアを想起させ,愛してもいない女のた めに自分の欲望を犠牲としなければならない境遇を苦々しく思う(事実,

相互に与えあう苦痛が愛であると,語り手は考えている)

30)

.だが,苦痛

(14)

の源でもある愛の対象が目の前から消えた瞬間,今度は愛の喪失に打ちひ しがれるのである.こうして見ると,『囚われの女

II

』で最後にアルベル チーヌに関連づけられた「青」が,『青い目黒い髪』の物語の引き金とな っていることがわかる.少なくとも,「青」への憧憬をとおして,プルー ストとデュラスをふたたび結びつけることができるのである.

プルーストの『囚われの女』では,アルベルチーヌがゴモラであること を確信した語り手が,彼女の背徳的な交友関係を断ち,その悪癖を矯正す るためにパリのアパルトマンへと連れ帰るところから物語が始まる.だ が,四六時中彼女を監視することは不可能だ.従順なふりをしながらも,

監視の目をかいくぐるアルベルチーヌの態度に語り手は疑念を抱き,苦悶 する.一方,『青い目黒い髪』では,自分を死から遠ざけてくれる女を毎 晩部屋に呼び寄せるために,男は女を金で雇う

31)

.女はといえば,みず からの不運を嘆き,女を欲することすらない男との「清らかで絶望的な結 合」(

« cette union blanche et désespérée »

)に興味を惹かれて,男から の提案を受ける

32)

.デュラスの男女は,半ば彼らの欲望に反して共生す ることを余儀なくされる.同性愛という境遇に同情しない女に男は反感を 抱き,女もまた,彼女の身体を忌諱し,それに触れようとすらしない男の 眼差しをとおして,自分自身が内含する「おぞましいもの」へと目を向け ざるをえなくなる.

 彼女にとって本当の意味で夏の経験,自分の性や肉体,生を嫌悪するという 経験がなされたのはここ,この部屋においてである

33)

 彼女は言う.「あなたについて言っているわけではないの,あなたの前で私 について話しているだけ.問題は私にある.あなたの私に対する憎悪は,私の せいではない.それは神がもたらしたものなのだから,あるがままに受け入れ る必要がある.自然や海と同じように尊重しなくてはならないのだわ.」

34)

いまや女は,同性愛を死の病として糾弾するどころか,「あるがままに 受け入れる」必要があると言う.そして,男女の差異が根源的なものとし てもっとも露わになるその場所―みずからの他性でもある性差の場所,

あるいは「世界の論理の裂け目」―へと男を誘う.同一性の中で閉じら れた自己を解放するために,死の状態から回帰して愛することを学ぶため には,その場所に来なくてはいけない,と男に呼びかけるのである.「そ

(15)

れを知るために一度は来なくては,と彼女は繰り返す.それが今であれ先 であれ,どのみち彼はそれを避けて通ることはできない.

35)

」『青い目黒 い髪』の男女は,ふたりが出会うべき場所はもはやそこしかないことを知 っている.嫌悪と不安に縁取られた場所でなど,何も生まれるべくもない だろう.だが,もしかしたら何かが起こるかもしれず,それを愛と名付け ることができるかもしれないのだ.「女は言う.もしかして愛とはこんな ふうにして,おぞましい形で生きられるのかもしれないわ.

36)

」女が愛の 可能性に言及したのは,愛が「あらゆるもの」から生まれることを知って いるからだ.正確に言うなら,愛とはまさしく世界の論理の裂け目からし か生まれ得ない.すべてを侵犯しながら他者へと向かう運動が愛なのだか ら.「女は言う.私はあなたのことを知らない.誰もあなたを知ることはで きないし,あなたの立場に身を置くことはできない,そもそもあなたの場 所などなければ,あなた自身ですら自分の身の置き場を知らない.私があ なたを愛するのはそのせいだし,そのせいであなたは万事休すなのよ.

37)

『青い目黒い髪』の男女の物語が,限りなく不完全な状態でしか語り得な いのは,それが単に世界に存在するあらゆる言葉の定義の此岸で生じた出 来事を伝えようとするからだけではない

38)

.彼らのやりとりや動作,彼ら が交わす言葉が,彼ら自身のコントロールを超えた,意識と無意識の間で なされるからである.この間は眠りのモチーフによって示される.デュラ スはこの眠りのテーマをプルーストから受け継いだに違いない.事実,『囚 われの女』では,眠るアルベルチーヌが幾度となく描かれる.眠っている アルベルチーヌの描写に対して,覚醒時の彼女の描写が反比例していると 言うべきか.皮肉なことに,語り手がアルベルチーヌと完全に一緒にいら れるのは,彼女が眠っている間だけなのだ

39)

.こうして,眠るアルベルチ ーヌをそばに置くことによって,語り手はその瞬間だけ彼女を完全に支配 したという満足と安堵感を得ることができる.

『青い目黒い髪』の空間でも,眠りは重要な部分を占めている.だが,

デュラスはそこに異なる意味合いを含ませる,眠りのモチーフをとおし て,男と女の差異を浮き彫りにするのである.「常に自分の場に居つづけ る」男は睡眠を知らず,たとえ眠ることがあっても,無意識の欲求によっ て女性を夢みることすらない人物として描かれる

40)

.その一方で,女は 常に眠りの淵にいる.『死の病い』の女のように,自分自身しか愛せない 男と毎晩同じ時空間を共有することから生じる耐え難い疲労感のせいで

(さらに,そこに昼間の別の男との情事よる疲労感も加わって),男の部屋

(16)

に来るなり,女は眠り始める.彼女が語り,彼女が動くのはしばしば半意 識の中である.『青い目黒い髪』において愛が生じるのは,そうした無意 志的空間なのだ.

 ときおり,不注意からふたりの身体が近づき,触れ合い,それによってかす かな目覚めが生じるものの,またすぐに眠りに包まれる.ふたりが触れたとた ん,身体は動かなくなる.ふたりのどちらかが身体をそらし,離れるまで,そ の状態は続く.だが,はっきりしたことは何も起こらない.それを見届ける眼 差しもない.語ることばもない

41)

『死の病い』の語り手のような,出来事を担保する証人はここにはおら ず,起こったかもしれない何かをめぐるかすかな痕跡が,ふたりが目覚め た後にわずかに残っているだけだ.こうした不確かな場所から,欲望もま た生まれる.

 彼女は言う.「私の開いた目があなたの顔に向けられた時に,あなたが恐れ ているように,私はあなたを見るわけではないの.それをするのは私が眠って いるときよ.」(中略)彼は言う.「夜,夢の中で彼を見ているのではないのか い?」(中略)彼女は言う.「たしかに,まだ彼ではないわ.まだはっきりした 誰でもないの.大切なことが夢の中にあらわれるには時間がかかるのよ.」

42)

あるインタビューで,デュラスは「この本を書くことを妨げたものを私 は長い間乗り越えることができませんでした.しかし,『青い目黒い髪』

にはもはや男もいなければ女もいないのです」と発言しているが

43)

,た しかに引用に見るとおり,『青い目黒い髪』における愛は,ジェンダーや 性別,そして同一性を超えた場所で生じている.異性愛と同性愛,ソド ム,ゴモラなどといった範疇がもはや消失した「世界の論理の裂け目」が,

眠りによって支配されたこの半意識的な場所という表象を介して立ち現れ ているのだ.

『青い目黒い髪』の物語には始まりも終わりもない.不確かで非断定的 で,断続的な時間の層があるのみだ.「芝居は暗がりで進行するだろう,

と俳優は言う.芝居は常に始まり続ける.文章ごとに.言葉ごとに.

44)

『青い目黒い髪』の時間構造を特徴づけるこの断続的な時間の連なりは,

全体の非連続性がゆえに,ロマネスクの世界そのものへと送り返されるよ

(17)

うに感じられる.偶然によって繋がれ,明日などないかのようにして共存 することを毎夜強いられる男女と,それを物語る『青い目黒い髪』は,ま るで現代の『千夜一夜物語』のようだ.物語中盤以降,昼夜の区別がなく なり,「最後の夜」が幾晩にも渡って引き伸ばされるにしたがって,時間 の推移が曖昧になっていく.生まれたばかりの愛に捕らわれた呪われた恋 人たちは,最後の夜を際限なく生き続ける.最後の夜を生き延びたという 事実だけが,あたかも彼らの不確かな生と,名指すことのできない愛の存 在をその都度証明してくれる,唯一の証であるかのように.

***

互いに惹かれながらも,それぞれが不在の愛の対象への追憶を胸に秘め たまま,物語は終盤を迎える.そのとき,海岸を横切る一艘の帆船が,不 眠の男の目の前をゆっくりと通り過ぎてゆく.この船の横断は,愛の対象 がいまや完全に失われたことを男に直感させる.青い目への追慕が消える 瞬間だ.『青い目黒い髪』の最終場に出現するこの帆船は,続く『エミリ ー・

L

』を強く予感させる.この帆船のイメージとともに『エミリー・

L

』 が生まれ出たと言っても過言ではないのだ

45)

.ところで,デュラス/ア ンドレアが完全にロマネスクな世界へと融合したのは,『エミリー・

L

』 においてであったことにはすでに触れた.そこで彼らは,作家が創り出し たほかの想像上の人物たちとならんで,伝説の恋人たちとして永遠の存在 を得るのである.そうしてみると,『青い目黒い髪』の最後でなされた青 のイメージと帆船との交代劇は,デュラスのエクリチュールがプルースト をふたたび離れ,自分自身の想像世界を再び見出したことの合図なのかも しれない.『エミリー・

L

』は,いうまでもなくデュラスの小説世界への 完全なる回帰を示す晩年の傑作である.だが,そこに至るまでの作家の暗 くて長く,苦悩に満ちた道のりに寄り添ったのは,ほかならぬプルースト とジェイムズであったことを,私たちは記憶にとどめるべきであろう

46)

1) Marguerite Duras, L’Été 80, in Œuvres complètes, coll. « La Pléiade », tome III, 2014 , p. 813 .

本稿におけるデュラスの引用はすべて拙訳による.

2)

自伝小説とされる『愛人』(

1984

)ですら例外ではないだろう.『愛人』の

「私」もまた,『青い目黒い髪』における女と同じく,アンドレアとの愛を虚構 を介して実現するために

18

歳に戻る必要を感じていた作家デュラスによる,

想像上のシナリオのひとつにすぎないといえるからだ.

3) Marguerite Duras, Emily L., in Œuvres complètes, tome IV, 2014 ,

(18)

p. 477 .

4)

それゆえ,本稿においては,ムジールの『特性のない男』のウルリヒとその 妹アガタの物語に接木されたデュラスの『アガタ』(

1981

年)は分析対象とは しない.

5)

デュラスによる『アスパンの恋文』と『密林の野獣』脚色についての詳しい 分析は,

2017

7

月に刊行予定の拙論(

« Quelque part entre la jungle et la mer : Henry James et Marguerite Duras », in Mireille Calle-Gruber, Jonathan Degenève, Midori Ogawa. dir., Mélanges à Bernard Alazet,

Hermann

)ですでに行なっているので,ここでは概観するにとどめる.

6)

エッセー『緑の目』(

1980

)では,アンヌ=マリー・ストレッテルのモデル となった人物の縁者がデュラスに送った手紙が掲載され,彼女の名がエリザベ ット・ストリター(

Elisabeth Striedter

)であったことが明かされている.

Cf. Les Yeux verts, Marguerite Duras, in Œuvres complètes, tome III, p.

659 .

7)

そして,映画『インディア・ソング』の未使用フィルムと映画のサントラを もとに作られた『ヴェネチア時代の彼女の名前』(

1976

)のタイトルにおいて,

ヴェネチアの名が回帰する.

8) Marguerite Duras, « Programme du théâtre de l’Athénée », in Œuvres complètes, tome III, p. 1450 .

9)

ジョンの強迫観念とは,密林で野獣と対峙するような英雄的な人生こそ,み ずからに与えられた人生であるという直感である.ジョンはかつて旅先で知り 合ったメイにこの直感について告白し,数奇な運命を定められたジョンの人生 を見守ることを,メイもまた約束する.

10) Cf. «Notice pour Théâtre III », Marguerite Duras, in Œuvres complètes, tome III, p. 1842 .

11) Marguerite Duras, « Le Château de Weatherend », Le Monde extérieur, in Œuvres complètes, tome IV, p. 1008 .

「魂の愚かさ(

bêtise du coeur

)」と いうデュラスの表現から,彼女自身,「密林の野獣

bête dans la jungle

」をこ の「魂の愚かさ」と結びつけていた事実がうかがえる.

12) Marguerite Duras, La Maladie de la mort, in Œuvres complètes, tome III, p. 1270 .

13) Marguerite Duras, La Pute de la côte normande, in Œuvres complètes, tome IV, p. 303 .

14) Marguerite Duras, La Maladie de la mort, in Œuvres complètes, tome III, p. 1255 .

15) Marguerite Duras, La Bête dans la jungle, in Œuvres complètes, tome

III, p. 1313 .

プルーストにおいても,アルベルチーヌの姿は瀕死の獣に比せら

(19)

れる.「ところが彼女はまたも私に接吻を返そうとはせず,ふたたび身体を引 き離したが,その一種本能的で不吉なかたくなさは,まるで死を感じている獣 のようだった.」マルセル・プルースト,鈴木道彦訳,『失われた時を求めて』,

『囚われの女Ⅱ』,集英社文庫,ヘリテージシリーズ,

2014

年,

375

頁.

16) Marguerite Duras, La Maladie de la mort, in Œuvres complètes, tome III, p. 1260 .

17) Marguerite Duras, La Maladie de la mort, in Œuvres complètes, tome III, p. 1260 .

18) Marguerite Duras, Les Parleuses, in Œuvres complètes, tome III, p. 19 . 19) Marguerite Duras, La Maladie de la mort, in Œuvres complètes, tome

III, p. 1264 .

20) Marguerite Duras, La Maladie de la mort, in Œuvres complètes, tome III, p. 1268 .

21)

『青い目黒い髪』はヤン・アンドレアに捧げられていることを注記しておく.

22) Marguerite Duras, « Extrait d’un entretien avec Gilles Costaz », in Œuvres complètes, tome IV, p. 291 .

23) Cf.

フーコーは次のように述べている.「悔いが存在せず,自らが犯した犯

罪を埋め合わせることが不可能であるのなら,(中略)そのとき,犯罪そのも のが消滅し,犯罪を犯した個人は,法を侵犯した犯罪者としてではなく,ただ 単に完全に特異な人間,他人との関係をもたない唯一の者として,彼の目にも 他人の目にも現れるだろう.そして,サドの中枢にあるあの概念,つまり不規 則の概念によって,犯罪は消滅するのである.」

Cf. Michel Foucault, La grande étrangère–à propos de littérature–, coll. « Autobiographie », Éditions de l’École des hautes études en sciences sociales, 2013 , p. 169 . 24) Marguerite Duras, « Extrait d’un entretien avec Gilles Costaz », in

Œuvres complètes, tome IV, p. 292 .

25) Cf. « Notice des Yeux bleus cheveux noirs », in Marguerite Duras, Œuvres complètes, tome IV, p. 1366 .

26) Marguerite Duras, La Pute de la côte normande, in Œuvres complètes, tome IV, p. 229 .

27)

テクストに風穴をあける「

12

の演劇的パッセージ」によって仕切られた物 語空間には,時間の流れもなく,「もしこれが戯曲であるなら,そうであるよ うなもの」という指示が意味するように,演劇的な枠組みを介することによっ てのみ虚構として立ち現れてくるような,絶対的に仮定でしかない物語空間が 構成されている.

28) Marguerite Duras, Les Yeux bleus cheveux noirs, in Œuvres complètes,

tome IV, p. 221 .

(20)

29)

『青い目黒い髪』で明確にジェイムズを想起させるのは,主人公たちがオペ ラについて語る場面のみだと言えるだろう.

30)

「ここにいう愛とは相互に与える苦痛のことなのだ.」マルセル・プルース ト,鈴木道彦訳,『失われた時を求めて』,『囚われの女Ⅰ』,集英社文庫,ヘリ テージシリーズ,

2014

年,

209

頁.あるいは,アルベルチーヌの嘘が暴かれ,

過去の出来事に別の光が当てられるたびに語り手は新たな苦痛に苛まれる.そ の苦痛が彼をそのたびにアルベルチーヌに結びつけ,彼女と一心同体にさせる のである.「突然私を彼女に近づけ,いやそればかりか彼女のうちにとけこま せたもの,それは快楽―いや,快楽とは言い過すぎで,むしろ軽い楽しみ

―の期待ではなく,私の胸を締めつける一つの苦痛だったのである.」マル セル・プルースト,鈴木道彦訳,『失われた時を求めて』,『囚われの女Ⅱ』,集 英社文庫,ヘリテージシリーズ,

2014

年,

254

頁.

31)

「この女に金を払うというのは彼のアイデアだ.男たちが死ぬか気狂いにな るのを防いでくれる女たちにたいしては,金を払う必要があるのだから」

Cf.

Marguerite Duras, Les Yeux bleus cheveux noirs, in Œuvres complètes, tome IV, p. 223 .

32) Cf. Ibid., p. 226 .

33) Marguerite Duras, Les Yeux bleus cheveux noirs, in Œuvres complètes, tome IV, p. 235 .

34) Ibid.

35) Marguerite Duras, Les Yeux bleus cheveux noirs, in Œuvres complètes, tome IV, p. 239 .

36) Ibid.

37) Marguerite Duras, Les Yeux bleus cheveux noirs, in Œuvres complètes, tome IV, p. 252 .

38)

「この本のなかで起こった事柄を語るために私が必要としたのは,こうした 成熟していない言葉なのです.」

Cf. Marguerite Duras, « Entretien avec Gilles Costaz », in Œuvres complètes, tome IV, p. 294 .

39)

眠っているアルベルチーヌの姿は,たとえばこんなふうに描写されている.

「もはや彼女は草や木や無意識の生命,私の生命とはいっそうかけ離れた,異 様な,にもかかわらずいっそう私のものとなった生命によって生きているにす ぎない.彼女の自我は,二人がしゃべっているときのように,内心で考えてい ることや眼差しを通ってたえずにじみ出てくることもない.彼女は外部にある すべての自分を呼びもどし,その肉体のなかに逃避し,閉じこもり,凝縮され てしまった.その肉体を視線や両手でとらえつつ,私は彼女の目覚めていると きには感じられない印象,彼女を完全に所有しているという印象をもつのだっ た.」マルセル・プルースト,鈴木道彦訳,『失われた時を求めて』,『囚われの

(21)

女Ⅰ』,集英社文庫,ヘリテージシリーズ,

2014

年,

136

頁.

40)

「朝になると,彼は自分の眠りについて語る.彼女の夢を見たいのに,女の 夢などかつて一度も見たことがない,女がそこに紛れ込んだ夢など,たとえ無 味乾燥で貧相なものですら,一度も見たことがない.」

Cf. Marguerite Duras, Les Yeux bleus cheveux noirs, in Œuvres complètes, tome IV, p. 260 . 41) Marguerite Duras, Les Yeux bleus cheveux noirs, in Œuvres complètes,

tome IV, p. 242 .

42) Marguerite Duras, Les Yeux bleus cheveux noirs, in Œuvres complètes, tome IV, p. 266 .

43) Marguerite Duras, « Entretien avec Gilles Costaz », in Œuvres complètes, tome IV, p. 293 .

44) Marguerite Duras, Les Yeux bleus cheveux noirs, in Œuvres complètes, tome IV, p. 236 .

45)

詳しくは『ノルマンディー海岸の娼婦』を参照のこと.

46)

『エミリー・

L

』では,「ヘンリー・ジェイムズの主人公たちのようにして,

あなたは物語についての知識を得るだろう.つまり,その物語が終わってしま ったときに」という,ジェイムズへの言及が唯一みられるのみである.

Cf.

Marguerite Duras, Emily L., in Œuvres complètes, tome IV, p. 460 .

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