「目的の大なる人物を」にふれて : 現代学生との 振幅で : 第三十七回Neesima Room企画展公開講演 会
著者 眞銅 正宏
雑誌名 同志社談叢
号 31
ページ 248‑266
発行年 2011‑03‑01
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013063
「目的の大なる人物を」にふれて二四八 第三十七回Neesima Room 企画展公開講演会 二〇一〇年六月一二日 於 同志社大学寧静館五階会議室
「目的の大なる人物を」にふれて ─現代学生との振幅で─
学生支援センター所長
真 銅 正 宏
はじめに
現在、Neesima Room で開催中の企画展「目的の大なる人物を」には、同志社創設期の学生たちの興味深い姿が、生き生きと映し出されています。
彼らの日記やノートなどからは、いつも、当時の学生は、よく勉強したんだなあ、という感想を持ちます。また、あちらこちらにふんだんに用いられる英語に、改めて、同志社が英学校から出発したのだということを再認識させられます。例えば岸本能武太(明治一七年六月普通科卒業、同二〇年六月神学科卒業)の回想には、次のように書かれています。
同志社は当時、普通科が五年で、其上に三年の神学科があったが、普通科の稽古すらも、教科書は無論の事総て英語のを用ゐたのであるが、教場の用語は教師も生徒も総て英語であった。一年の始まりから訳読を
「目的の大なる人物を」にふれて二四九 除くの外は、数学も歴史も地理も総て英語でやったものである。暗算すらも英語でやった。当時、教師は西洋人と日本人と殆ど半して居ったが、日本人も皆英語で教へたのである。 これは、当時の学生たちが優れていたから英語ができた、というように考えるだけでは不十分なほど、特異な教育環境と考えられます。なぜなら、考えてみれば、当時まだ日本は、明治維新から一五年ほどしか経っていないからです。まだ江戸時代の空気があたりに漂っていたはずです。食生活を始め、家も服も皆、いわゆる和式でした。 現代こそ、街のあちらこちらには英語があふれ、家にも和室が減り、多くがベッドに眠り、着物などめったに着ないようになりましたが、しかし、英語で教育し、英語で学ぶなどということは、とても考えられません。同志社大学も、当時から一三五年も経った今頃になって、ようやく英語だけで卒業できるコースを整備し、国際化を実質化しようとしています。このような現代の我々にとっては、教育の国際化の後れについては、忸怩たるものがあります。 しかしながら、当時の学生やそれを取り巻く環境と、現代とを単純に比較しても、あまりに時代が隔たりすぎていることと、其の中身についても、現代の側が気恥ずかしくなるような愚痴ばかりになりそうですので、今回私は、当時の学生たちの姿から、何が学べるのか、という角度で、当時を眺め返すことにしました。 一つの論争に、光を当ててみたいと思います。それは、いわゆる「智徳」論争です。新島のあの有名な、「自責の杖」事件の背景にあったとされる論争です。これは、同志社という学校が何を目指すべきか、という、現在にも通じる、高等教育の根本に位置する問題です。この論争を一つの典型的事例として、現代の学生たちと当時の学生たちとの相違点および共通点について、お話ししてみたいと思っています。
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創設期の同志社の学生と現代学生との相違点と共通点
「智徳」論争に入る前に、まず、当時の学生たちの生活を、ざっと素描しておきたいと思います。資料として、同志社社史資料室編『創設期の同志社──卒業生たちの回想録──』(同志社社史資料室、一九八六年)を用います。回想録ですので、若干、記憶違いなどを含みますが、基本的には、この書に収められた学生たちの証言は、当時の姿をよく伝えているものと判断されます。
まず、露無文治(明治二一年六月普通科卒業、同二四年六月神学科卒業)の回想に、次のような言葉が見られます。
同志社の教授法について、今に難有味を感ずる一点は、受持教師の親切と同情と、一般教授法のドコまでも啓発自習主義で、教師が教へるといふよりも、寧ろ生徒が自ら学ぶといふこと、即ち生徒自らが指定せられた学課を準備して教室に出で、教師の前に其準備した学課を復習することであった。之によりて自勉自修の良習慣を養はれ、卒業後に於てもなお其習慣を持続することが出来たことである ((
(。
これは、現代においても、語学の授業などでよく見られるものですが、他の授業にも及んでいたようです。このことについては他の卒業生の回顧録にも多く語られるところです。この学習方法は、最近、徹底化が図られている、成績評価の厳密化、具体的には、単位認定の根拠を示すことが求められている現場の状況と、強く響き合います。二〇一〇年度から同志社大学でも、1セメスター一五週(試験日程を含まない)の授業時間の確保が制度的に行われるようになりました。先生方からも研究時間に割く時間が確保できない、という声を聞
「目的の大なる人物を」にふれて二五一 くことはもちろん、私が五月に行った学生たちへのパブリック・ヒアリングにおいても、なぜこうなったのか、と経緯の説明を求められました。この背景には、単位の計算方法の根拠が関わっています。厳密な計算式はともかく、その発想の根源には、単位とは、教室の授業以上に、予習及び復習の時間を加えたものに対して、与えられることが前提となっています。復習はともかく、予習は単位の必須条件のようです。このことを、はるか昔、明治期の同志社大学の教授法が実現していたというわけです。先に見た岸本能武太は次のように書いています。毎日の稽古は多くて三時間で、土曜日曜が休みであったから、一週間の合計が十二時間乃至十五時間と云ふ位であった。稽古は少なかったが、一時間の時業に対して、少なくとも二時間、普通は三時間の準備が入 ママると云ふ訳であったから、随分勉強する必要があった。地理でも歴史でも数学でも、始めから皆英語で問答するのであるから、其準備には大変な時間が懸った。 これを現代の学生と比較してみますと、やはり絶望的な格差が感じられます。 ここに、二〇〇九年一〇月に実施された、「第
mixi 読やコのへ人ので等グンロ「ブる」す信発をとこメ他トがは、生学をえ答とい多たとのどなむ」込き書こ mixiを「ブログや等自利用して分のする」に上す。七・八パーセントにり気ま傾向に常を話電帯「携て、しと の平均読書時間は二七・四分で、二〇〇四年以降最低とのことです。一週間にまったく本を読まない人も、三 りいたします」という注記がありますので、転載はできませんが、中身を紹介しますと、現代の大学生の一日 活協同組合連合会、二〇一〇年)という報告書も出されています。巻末に「本報告書の内容の無断転載はお断 CAMPUS LIFE 2009DATA 」(全国大学生ます。全国七三大学約一九〇〇〇人の協力で集約されたもので、「 45りる学生の消費生活に関す実あ態調査」というデータが回
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書時間が短いという傾向が出ています。この他、データからは、サークル活動やアルバイトの時間が多いと、読書時間も短くなるという、ごく当たり前のことも窺えます。そういえば私の学生たちも、口癖のように忙しい忙しいと言っています。それで私は、昔は風呂一つ入るにしても、水を汲み、薪を割り、沸かしてしか入れなかったのに、今はボタン一つで入ることができる。これだけ見ても、現代の方が忙しいはずがない、と言って、何か、歴史上の人物を眺めるような視線を投げかけられました。
ただ、一つ救いになるデータは、逆に、「塾講師」や「家庭教師」をアルバイトにしている場合には、読書時間も長いという傾向が出ていることです。必要に迫られての読書かもしれませんが、やはり、このような分野では、教養が求められることも事実です。
さて、では、我が同志社大学ではどのような傾向が出ているのでしょうか。二〇〇七年度に、教育開発センターが三年次生(つまり二〇〇五年度入学生、有効回答数三二七七人、五七・七パーセント)を対象に行った、「キャンパスライフに関するアンケート調査」によりますと、「あなたは、授業期間中、通常一週間に何時間、授業中以外に学習活動(勉強、文章作成、読書、実験、リハーサル)を行いましたか。」という質問に対し、「5時間以下」と回答した学生が最も多く、六二・九パーセントを占めています。
トいて、少し安心します。 全国平均と比較すれば半分ほどですが、それにしても多い。ただし、5冊以上読んだ学生も二四・〇パーセン 対く全を書読は、てしにな問質ういと」か。たしっかンす。まいてめ占をトセまーパ七六・一が生学たししを 最たな「あた、また。しでントセーパ一三・一は、生は、近たと書読いなの係関は業3授いらぐ冊何で月ヶ学 ((時間以上学習したと答え 同じ岸本によると、当時の学生の勉強ぶりは、次のようなものでした。
「目的の大なる人物を」にふれて二五三 当時は殆どすべての稽古が斯う云ふ風で、失敗すれば直ぐに席が下り、成功すれば席が上ると云ふ様であったから、学生の間には随分競争心が強くて、皆負けぬ気になって先きを争ふたものである。 これは、一見すると、高等学校や予備校においてお馴染みの、いわゆる受験戦争における席次争いと同じようにも見えますが、GPA制度の導入により、同志社大学でも点数の上下を気にするようになり、大学においても今後ますます一般化していく制度の先取りとも考えることができます。 これに関して、これはあくまで一面的な観察かもしれませんが、私が二〇〇七年の春に、アメリカ合衆国のアーモスト大学に、Faculty Exchangeの制度で二週間滞在した際に体験した、やや行きすぎの事象を思い起こさせます。GPA制度が早くから採り入れられているアメリカ合衆国では、その点数次第で、成績はもちろん、奨学金や卒業後の進路にまで大きな影響が出ます。そこで、私が見学した授業でも、多くの学生たちは、みんなで議論している、というより、とにかく教員に向かって、自らの意見をアピールしているように見えます。念のために、Langage Tableというランチタイムの簡単な集まりで、日本人の留学生たちにこのことを尋ねてみると、その通りだ、という答が返ってきました。良くも悪くも、彼らは、GPAを上げるために、学習し、発言します。このことに、私などはやはりまだ、強い違和感を覚えます。 同志社大学は、全国に先駆けて、本格的にGPAを導入したことで知られていますが、未だに、奨学金の採否の直接的根拠や、就職先に直結するまで、GPAの制度が広く用いられてはいませんので、そこまではっきりと、GPAを上げるためにがんばる、という風潮が出来上がっているわけではありません。しかしながら、そのうち、GPAによって決定する事項が増えるにしたがって、授業態度にも変化が現れてくるかも知れません。
「目的の大なる人物を」にふれて二五四 当時の学生たちに戻りましょう。彼らは席次のためかどうかは不明ながら、とにかく勉強には熱心でした。吉田清太郎(明治二〇年代前半に普通科中退)は次のように回想しています。
学生は皆な勉強したものであった。九時半が来ると皆な灯を消して終ふから、勉強しようとすると外ニ出たのである。会堂の入口ニ来てlampをつけて勉強して居た事など幾度かある。生徒同志では、寮内では勉強時間中には物言はぬ様ニ静かニして、御互ニ他人の妨げとならぬ事をつとめたものである。
本当に、理想的な勉学意欲です。しかしながら、これら創設期の学生たちが、教師に常に従順であり、時に媚を売っていたのかというと、これは全く当たりません。回想録には、以下のとおり、寧ろ教師に対して、実に自由で対等な、むしろ無礼千万なる生意気さでもって接しています。
例えばこれも岸本能武太ですが、次のように証言しています。
森田〔久万人〕先生には随分長く御世話になったが、私共の級全体もさうであったと思ふ、私自身はかつて此人の時業に感服した事が無い。授業法が下手であるのみならず、頭脳が透明でないらしく、説明の曖昧なのは常に我等に満腹の不満足を与へた。
このとおり、かなり痛烈に非難しています。岸本は、市原盛宏先生についての評のところで、我が校祖新島襄についてまで、次のように書いている。
(市原先生は
─
引用者注)頭が明晰であり、又教へる事も上手であって、スゥイントンの万国史を習って居る際に、何か差支へて暫時新島先生が代りをせられた事があったが、種々質問をして見ても明白な満足な答を得ないで、新島先生よりも市原先生の方が偉い、新島先生に問ふても駄目だから、いまに市原先生の来校を待って問はうと思った事がある位である。「目的の大なる人物を」にふれて二五五 此経験は市原先生の人望を増したので幸な様であるが、其後は新島先生に対して自然に信用の幾分を減じて、今日迄そんな感じの続いて居るのは甚だ不幸な事と思ふが、是も事実であるからしかたが無い。要するに新島先生は頭脳明晰と云ふ方の人ではなかったと、私は今も信じて居る。 まあ、何とも生意気な言ではありますが、このような判断の背景には、あの新島襄にも盲従しない、確固たる自立心があったことも窺えます。ついでながら、岸本は、新島より偉いとした市原先生についても、この後市原に伝道師になることを勧められて、次のように書いています。
市原先生は多少政略の人である、才が勝ち過ぎて居ると云ふ事を感じて居たので、多少先生のシンセリチーを疑がはざるを得なかった。それならば先生は何故に先生自身教師を止めて、直接伝道に従事しないのであらうかと思うたし、又、先生は場合に依ると、風雲に乗じて今の主張をも放棄する様な人ではあるまいかと思うた。果せるかな先生は、其後教育界を去って実業界に入り、堕落せられた。
誤解のないように急いで付け加えますが、当時の学生たちは、教師をただ評価するだけではありませんでした。積極的に挑戦するために、努力も惜しまなかったようです。山本徳尚(明治二五年六月普通学校卒業、同二八年六月神学校卒業)の回想には次のような思い出が語られています。
先生を困らす為めに図書館で非常に皆勉強した。教科書に無い事を勉強して、教場へ出てむづかしい質問を提出しては先生を凹ました。今考へても気の毒な事が一つあった。藤田〔愛二〕先生と云ふ矢張り同志社出身の人で、余り体も丈夫では無かった温順しい先生があった。教授法が下手だったので、クラスの人達皆なライブラリーで大に勉強して、ひどく先生を困らした。(略)先生は苦しんだ上句到到病気になって、明治廿三年に死んだので、我々は後になって気の毒な事をしたと思った。我々が先生を殺したと云ふ訳でも無
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いが、確に先生の病勢を重らせたのは私共の罪にもあった。(略)
先生も質問で非常に弱はらされたが、生徒が真面目に勉強したので、殊に英文学等は難問題を提出したかはりによく出来た生徒もあったから、張合があった事と思ふ。教育の為方は斯う云ふ様にして生徒の智能を開いて、すべて開発的にしたものだ。教室では先生から習ふと云ふよりも、課程 ママを与へられて、各自研究したものを発表して先生から注意を与へられ、且つ導かれたのである (2
(。
こうなると、教師も命がけです。もっとひどい場合には、口での議論のみならず、暴力沙汰も頻繁に起こっていたようです。蔵原惟郭(明治一六年に普通科中退)の回想には次のように書かれています。
私共が授業を受けた先生には、金森氏、海老名氏、和田〔正脩〕氏、不破〔唯次郎〕氏、市原氏、山崎〔為徳〕氏、広田氏、下村氏等であった。不破氏は英語の教師で、又友人であったが、非常に喧嘩好きの先生で、生徒を圧制的にした。教場では先生の方から喧嘩をしかける事もあるし、生徒の方から先生に喧嘩を始める事もあった。
一度生徒の音が悪るかったとか間違って居ったとかで、不破先生と生徒で、教室で掴み合ったり組打ちをやったりした事があったが、斯う云ふ事は私が居った間には、一期の中に必らず二三回はあった。始めは議論を戦はせて居るが、其中にそれでは間に合はなくなって掴み合ひを始めるのである。
ただし、これらは、学生と教師との折り合いの悪さや、教師側の素養や教授法への不満の問題に止まらず、学生たちの教育に対する強い期待がその背景にあることも事実です。蔵原は次のように続けています。
生徒の中には突飛に出来る者もあったので、先生も閉口したらしい時もあった。解釈の間違ひ、咎め合ひで、自由の意気が教室内を極度迄に発展させて実に愉快であった。不秩序の所もあったが、此潑溂たる気分
「目的の大なる人物を」にふれて二五七 は、精神修養、学術研究の良い指導者であったから、学課も進み、勉強も出来た。 このような学生たちの気風のもと、ここに見られる、「精神修養、学術研究」が、やがて一つの論争を呼ぶことになります。生徒たちは、熱心に同志社の教育を受けるのみならず、その教育のあり方自体についても、熱心に考えていたようなのです。ここに、現代の学生たちにあまり見られない熱意を感じてしまいます。
いわゆる「智徳」論争について
たとえば村上小源太(明治一四年六月普通科卒業)の回想に次のような記述が見られます。
これは私が同志社を卒業して京都を去ってからの事であるが、智が尊いか徳が尊いかと云ふ議論が起って、両派共非常に戦ったと云ふ事である。徳富〔猪一郎〕君と同級であった大久保真次郎氏は、一方の旗頭であったと云ふ。此激論の末、新島先生が、斯う云ふ争ひを引き起すのはつまり自分の不徳の致すところであると云って、生徒に謝し、柳の棒を以て自身の腕を肉が裂ける程打たれたと云ふ。そして智徳論は車の両輪の様のものであって、何れを重くし何れを軽くする事も出来ないものであると云ふ決論をつけられたさうである。(略)
浮田君等は同志社に居る頃から宗教家ではなかったが、金森君は非常に熱心の基督教信者であった。徳富蘇峰君は禄に課業等は受けないで、ライブラリーに這入り込んで無暗に読書して居った。演説も今やる様な調子で、此頃から上手にして居った。大久保真二 ママ郎氏は智徳論で騒ぎ立った総大将であるが、学問はよく出来た人であった。
「目的の大なる人物を」にふれて二五八 これが新島のいわゆる「自責の杖」事件と「智徳」論争との関係の概略ですが、その背景には、「智」を優先すべきとする派と、「徳」を大切とする派との、いわば権力闘争があったわけです。
智徳の別とはややずれる見方ではありますが、小野英二郎(明治一七年普通科中退、二三年一一月~二九年五月政法学校教授)は次のように書いています。
同志社の内部には二派あった。一つは所謂神学専門と云はふか、宗教を専門にして伝道を以て国を救はふと云ふ気が盛であった。熊本から来た連中、横井〔時雄〕、海老名〔弾正〕、小崎〔弘道〕の連中であった。
他の一つは政治文学と云ふ趣味派の別派が起って、これが世俗派とでも云はふか、宗教許りではいけない、身を治めると同時に、大ニ政治文学の方面ニ傑い人を生ぜしむる必要があると云ふた。此等の主張をした人ハ、思ふに、徳富猪一郎、大久保信 ママ次郎、家永豊吉等の人々であらうと考へる。私の時代、明治十五六年頃ニなると、其の世俗派の空気が益々盛ニなって来た。
これらの対立構造の詳細については、私より詳しい先生方がおられると思います。ここでは、この「智徳」論争または宗教対学問の対立が、同志社内に止まるような論争では無かったことについて、触れておきたいと思います。
福沢諭吉の、有名な『文明論之概略』六冊(明治八年、著者蔵版)は、奇しくも同志社英学校が開校した年の刊行ですが、日本における西洋文明紹介の書です。が、その目次は、以下のようなものでした。
文明論之概略緒言 巻之一 第一章 議論の本位を定る事 第二章 西洋の文明を目的とする事
「目的の大なる人物を」にふれて二五九 第三章 文明の本旨を論ず 巻之二 第四章 一国人民の智徳を論ず 第五章 前論の続 巻之三 第六章 智徳の弁 巻之四 第七章 智徳の行はる可き時代と場所とを論ず 第八章 西洋文明の由来 巻之五 第九章 日本文明の由来 巻之六 第十章 自国の独立を論ず この目次を見るだけで、福沢の意図は明らかです。まず日本という新しい国が真の独立国となるためには、西洋の文明をモデルとしつつ、日本国民が「一国人民」としての自覚を持たねばならない、というものです。ここでは、「智徳」の言葉が、鍵語の一つとして重要な役割を果たしています。巻之三第六章の「智徳の弁」に、この語の意味は詳細に述べられています。先ずこの章は、次のような言葉から始められます。
前章までの議論には、智徳の二字を熟語に用ひ、文明の進歩は世人一般の智徳の発生に関するものなりとの次第を述たれども、今此一章に於ては、智と徳とを区別して、其趣の異なる所を示す可し。続いて、智と徳との定義が述べられます。
徳とは徳義と云ふことにて、西洋の語にて「モラル」と云ふ。「モラル」とは心の行儀と云ふことなり。一人の心の内に慊 こころよくして屋漏に愧ざるものなり。智とは智恵と云ふことにて、西洋の語にて「インテレクト」と云ふ。事物を考へ事物を解し事物を合点する働なり。又此徳義にも智恵にも各二様の別ありて、第一
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貞実、潔白、謙遜、律儀等の如き一心の内に属するものを私徳と云ひ、第二廉恥、公平、正中、勇強等の如き外物に接して人間の交際上に見はるゝ所の働を公徳と名く。又第三に物の理を究めて之に応ずるの働を私智と名け、第四に人事の軽重大小を分別し軽小を後にして重大を先にし其時節と場所とを察するの働を公智と云ふ。
このような定義の後、福沢は、文明が進歩すべきであるというこの書の戦略に基づき、徳は進歩しないが、智は進歩を支えるという根拠から、智を称揚します。
右に論ずる所を約して云へば、徳義は一人の行状にて其功能の及ぶ所狭く、智恵は人に伝ること速にして其及ぶ所広し、徳義の事は開闢の初より既に定て進歩す可らず、智恵の働は日に進て際限あることなし、徳義は有形の術を以て人に教ゆ可らず、之を得ると否とは人々の工夫に在り、智恵は之に反して人の智恵を糺すに試験の法あり、徳義は頓に進退することあり、智恵は一度び之を得て失ふことなし、智徳は互に依頼して其功能を顕はすものなり、善人も悪を為すことあり悪人も善を行ふことありとのことを説き示したるものなり。
こうして、徳の側であるキリスト教の教えなども、非難の対象となります。典型的な、西洋ロゴス中心主義、科学主義の考え方といえます。
例えば同志社の智徳論争における「智」の側の代表的存在である徳富蘇峰もまた、あたかもこの福沢の議論に同調するかのように、同じ「智徳の弁」について、次のように書いています ((
(。愚存ニヨレハ、人間万事総テ智徳ノ二者ニヨルハ固ヨリ当然ノコトナレトモ、其ノ初歩ハ智慧ニアルト思フ、第一ニハ知識ハ徳行ヲタモツコト、第二ニハ智識ハ徳行ヲ弘ムルコト、第三独リノ徳ハ独リノ知恵ヨリモ悪
「目的の大なる人物を」にふれて二六一 事多キコト、第四遊年トシテ今日ニ於テ吾輩ハ智徳誰レヲ先ニス可キヤ しかし、残念ながらこれらは同志社の内部においては、純粋なる議論でもありませんでした。この論争の背景には、熊本バンドからやってきたメンバーの多くが徳派であり、これと他との勢力争いがあったようです。例えば蔵原惟郭の回想に次のように書かれています。
一時此智徳論が同志社全体の空気を作り、思潮を作り、各方面に影響した。両論は相対立して、智徳共勝敗は無かったのであるが、此の論の結果、智論の徳富君及び其領袖の大久保君は一時退校すると云ふ様になったので、次第に旗色は徳論に自然傾いて来て、同志社の空気は徳を本とする様になった。
後にこの大久保が再び同志社に戻ったことからも類推されるように、これらは、どちらが大切であるか、という問題より、前提として、何れも必要ながら、という条件が付くという点にあります。論争の勝敗ではなく、論争の存在自体に、我々はまずもって意義を見出すべきと思われます。
また、先に見た福沢の論にも明らかなように、智徳の優劣論は、新しい近代国家日本が選ぶべき方向性に関わる、時代的な問題でもありました。
先に見た小野英二郎が次のような実に興味深い言葉を残しています。
其の時分、福沢〔諭吉〕先生は仏教を保護する傾向があった。それニ対する為め、同志社が中心ニなって、宣教師、又上級生が一所ニなって、盛ニ演説会を開いてやった。これが非常ニ当時の書生の気風を刺戟した。
智徳の問題は、要するに、新島の「自責の杖」に繋がる、同志社固有の問題ではなく、明治という、日本の国家がまだ未成熟の時代に、真の文明が根付くために、広く国民全般が当面した、いわば国造りの理念に関わる問題だったわけです。
「目的の大なる人物を」にふれて二六二 先に見た、「キャンパスライフに関するアンケート調査」の二〇〇六年度生の三年次における「大学入学後に獲得した知識・技能」の質問で、概ね、「異文化の人びとに関する知識」「異文化の人びとと協力する能力」「外国語の能力」「キリスト教精神」について、「身につかなかった」「あまり身につかなかった」と回答する学生が合わせて四〇パーセントを超えています。特に「キリスト教精神」は、五〇パーセントを超えています。「愛校精神」については、「やや身についた」「身についた」と答えた学生が、六五パーセントほどいることに好対照です。「外国後の能力」はともかく、「異文化」に関わる項目については、大学のカリキュラムの中ではなかなか身につくことが困難であることが窺えます。ここには、課外も含めた、学生の居場所としての大学のあり方が問われていることが示されていると考えられます。これらを見ても、今後の同志社教育が、ここに見られる国際化、またはグローバル化の問題をどう捉えるのか、また、キリスト教主義教育についてどのような展開を示すのかが課題であることがはっきりと窺えます。この意味合いで、実に羨ましいことに、創設期当時の学生たちこそは、これら議論がむしろ中心であるかのような生活をしていたというわけです。
おわりに──同志社教育が目指すべきもの
ところで、当時の学生たちも、勉学一辺倒で、遊びをしないわけではありませんでした。いわゆる「コンパ」についても、以下のような記述があります。先に見た山本徳尚の回想です。
土曜日にもよく遊んだが、多く金曜日の夜になると、明日は学校が休みだからと云って、処々でコンパニーをやった。一人が一銭乃至二銭位出して焼芋やラッカセイ等を買って頬張り乍ら、口角泡を飛ばして宗教
「目的の大なる人物を」にふれて二六三 談、政治談に花を咲かせた。 現在のコンパとは、かなり色合いの違うものですが、特に注目すべきは、最後の「宗教談、政治談に花を咲かせた」という一節です。おそらくそこでは、自らの将来像についての議論が含まれていたものと思われます。 当時の彼らには、大いなる目的がありました。それは、日本という国を作ることに、自らも参加するということです。現に、当時の日本は未だ、未完成の国家でした。森鷗外が「普請中」(『三田文学』)という作品を発表したのは、これからさらに一五年以上後の明治四三年六月のことなのです。この、強烈なる国家意識、誤解のないようにいいますと、国家への帰属意識ではなく、その帰属すべき国家の建設の意志があったということなのです。このような思いは、現在の、市民社会が良くも悪くも極度に成熟した日本という国では、学生たちに求めることは困難なことはよくわかっています。しかしながら、では、今の日本という国がこのままでいいとは、誰も考えていないのではないでしょうか。 国を思うという言葉は、国家主義と結びつきやすいので、忌避されることが多いのですが、新島の考えにも根本に、国の意識があったようです。先に見た小野英二郎は、次のように回想しています。
其の時分の学風ニ就ての見方はいろ〳〵あるだらうが、私の見たのは、新島先生は国家思想が強い人で、日本と云ふ事ニ就て重く感じて居た人である。国民を救ふ、日本国民の品位を高めると云ふ考へが余程あった様ニ思ふ。
矢張り明治の初め国を脱走した様な人丈けに、国志 ママの風のあった人である。精神的教育をして国民の品位を高めようと云ふ考へが強い。毎朝礼拝堂に集って話を聞くと云ふ事があるが、其の話のうちで特に感じたのである。
「目的の大なる人物を」にふれて二六四 それニ先生の経歴が、非常ニ困難を嘗めて外国へ渡ったと云ふ様な事であるからして、其の気風が同志社全体ニ及ぼして、つまり小新島が幾多出来ると云ふ空気であった。
このとおり、国を作るということが、その思想の中心にあるようなのです。
我々は、何のために、大学にまで来て、智にしろ、徳にしろ、体にしろ、自らを成長させようとしているのでしょうか。例えば、ただ有利な就職先を得るためだけなのでしょうか。金もうけが究極の目的なのでしょうか。
創設期の学生たちの残した回想記を読み進めるにつれて、そのことを、個々の学生たちにもう一度、大きな視点から考えて欲しいという思いを、強く持つようになりました。最後に、深井英五(明治二四年六月普通科卒業)の新島襄についての言葉を紹介して、あるべき同志社大学の教育の姿とし、本日の話のまとめとしたいと思います。
先生に一度逢って、別に著るしい言葉をかけられ、著るしい事が無くとも、何だか自分に一種の高尚な気分と、揮って出来るだけの努力をして見たいと云ふ元気が移された様な感をもった。
始めに先生の言はれた事がある。学校を卒業して、如何にして就職しやうかと云ふ事を考へるのは、抑々末である。人間は自分を修養して置きさへすれバ、為す可き仕事は何処に行ってもある。自分を修養して、世間の為めに何うしたらよいかと云ふ事を考へさへして居たらよい。就職等と云ふ事に齷齪する様な考へで勉強してはいけ無いと云はれた。
今日と時勢が異って居るから、先生の言はれた事を其儘適用する事は出来無いが、教育の最も深い意義は茲にあると思ふ。
「目的の大なる人物を」にふれて二六五 本日はご清聴ありがとうございました。注(1)
同志社教育の開発主義については、この他にも、例えば三宅驥一(明治二六年六月普通学校卒業、二九年六月ハリス理科学校大学部卒業)が次のように書いている。
勉強は同志社の特徴で開発主義である。授業時数は今日と異って精々一日に三四時間であるが、各学科目総て英語で最初からやるのであるが、全部下調べが入るのである。二ページなら二頁、先生が次の時間迄に調べて来いと云ふ。それを調べて教場へ出るのであるから、先生は教へると云ふのは極めて僅で、却って生徒に尋ねるのであるから、其出来、不出来に依って点数をつけられるのである。
代数等も始めから英語で、然も此やり方であるから実に苦しかったが、学問の力がつく点に於ては非常なもので、教育の方法としては有効であるから、今日でも全体の学校が斯云ふ方針の教育法を取ったならば宜しからうと思ふ。
成績は平常点を三倍して、試験点数を加へて四で割ったものであったから、殆ど平常点が主になるのであるから、自然学生は勉強したものである。斯う云ふ点の割出し方であるから、平常点が八十点あるとすれば試験点数は0でもよかった位であるが、後に未だ私共が在校の頃から、平常点と試験点を合せて二で割る様に方針をかへたが、以前の方が教育上有効である様に思はれる。(2) 学生が教師と激論したことについては、他にも、小崎弘道に次のような記事がある。
熊本より同志社ニ来た青年の一団は、恰も猪武者か鼻切れ牛の如きもので、頗る乱暴なものであった。教場にて教を受くるにも中々音なしく受くる事がなく、少しく教師の教へ方ニ不審があるか欠点があるを見出さば、忽ちこれを咎め、遂究して止まなかったのである。
当時、新島先生より福音書の調和ニ就て教授になって居たが、元来福音書は頗る面倒なものであって、大学者でも到底満足ニ教授する事が困難な問題も多く、面倒な議論が沢山ニあるが、先生も頗る当惑して居られた。先生は当時、アルフォードの註釈を一つの楯として教場ニ臨まれて居たが、生徒がそれを知って忽ち其の本を読み、且つ他の註釈書を読んで、いろ〳〵の議論をもちかけなかった事はない。
「目的の大なる人物を」にふれて二六六 時にはヂレンマにかけて、一つの問題を提げ来って、其の事の当然であると云ふ事を主張し、先生の賛成を得て、いよ〳〵賛成せられると、反対の方面から反証を挙げて先生をいぢめた事がある。
然し一同が感服した事は、それは斯の如き手段をもっていぢめたのに、先生は忍耐を以てこれニ激動せらるゝ事なく、益々勉強して教授ニ勉められた事は大ニ感ずべきである。(3) 徳富のノートである「心乃塩梅思乃鏡」の中の一項。表紙に「(878」と書かれている。引用は『同志社大江義塾徳富蘇峰資料集』(三一書房、一九七八年)に拠った。なお、第四の文章は、本文に乱れがあるものと思われるので、欄外の書き込みの文を採った。