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村上春樹 vs . グローバ リゼーシ ョン

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村上春樹 vs . グローバ リゼーシ ョン

木 村

韓 国で村上春樹 を翻訳 してい る金春美 によれ ば、 「春樹 に よって 日本 文学 は初 めて国籍 と関 係 ない、文学それ 自体 と して韓 国の読者 に受 け 入れ られ るよ うになった」 (31) そ うで あ る。

村上 を翻訳で読んだ外 国の読者 がそれ を 自分 の 国の作家が 自分 の国の言葉で書いた ものだ と思 い込み、あ とでそれ が翻訳 で、 しか も作者 が 日 本人であると知って驚いた とい う話 をよく聞 く。

誇張 も含 まれてい るのか も しれ ないが、 こ うい う言い方 は今や一種 の伝説 の よ うに流布 してい て、た とえば四方 田犬彦 が次の よ うに書 くの も またそ の一端 で あ る。「[村 上文学 は]どこの社 会で も、 自分たちの政治 的挫折や恋愛観 、孤独 と虚無 を癒 して くれ るテ クス トとしてまず受 け 入れ られ、読者 はそのあ とで著者 が 日本生 まれ であ り、手 に していた書物 が実 は翻訳書であっ た こ とに改 めて気 付 く とい った按 配 で あ る」

(四方田10)0

四方 田は 『世界 は村上春樹 を ど う読むか』 に 収 め られた 「グローバ リゼー シ ョンのなかで」

と題 され た ワー クシ ョップ (2006年3月 開催 ) の中で、 この よ うに村上 を海外 の読者 に受 け入 れやす くしてい る理 由を、 グローバ リゼー シ ョ

ンの進行す る世界 にお ける村上の 「無臭性で ある と言 ってい る。 「村 上春樹 の読者 は伝統 的 と考 えてい る 日本文学や 日本イ メー ジ とは関係 な く、単に一人の作家 を体験 しそれ に満足 して い るのです。つ ま り、彼 の 『無臭性』 が現代 の グローバ リズムにおいて、世界の人 々に大 き く ア ピール した とい う事 実 が あ るわ けです 」 (柴

田、 沼野 、藤 井 、 四方 田198)。 もっ ともこの

「無臭性 」 とは村 上が まった く 日本 的でない、

日本臭 さをもっていない とい う意 味ではない。

四方 田は続 けて次の よ うに言 う。

ここで無臭性 とい うときに、何 も私 は春樹 が 日本 を体現 していない作家 なのだ と言いたい のではあ りませ ん。彼 はあ くまで も 日本語 で 書 き、 日本 に生 き、そ して 日本人 としての無 意識 のなかに生 きてい る人間であるわけです か ら。 そ うではな くて、私が無臭性 とい う言 葉 で強調 したいのは、村 上春樹 が他 の国の人 が 日本 に対 して抱いてい るステ レオ タイプを 体現 していない、あるいはそ うい うステ レオ タイプを作品のなかに見出す ことがで きない とい うことなのです。谷崎や三 島、川端 はあ る意味では意 図的にそ うい った 日本 の匂い ・ 香 りとい うもの を演 出 して、 「美 しい 日本 の 私」 として国際舞台に出ていった と言 えます。

逆 に、春樹 はそ うい う日本 の伝 統的な もの‑

のまった くの無 関心か ら出発 して、そ して世 界 に受 け入れ られていったわけです。(198)

村上が 「日本 の伝統的な もの‑ のまった くの 無 関心か ら出発」 した とい う四方 田の指摘 は、

村上の戦略 を言い 当ててい る点で重要である。

四方 田の言 うよ うに、村上は 「あ くまで 日本語 で書 き、 日本 に生 き、そ して 日本人 としての無 意識 のなかに生 きてい る人間で」あ り、村上 自 身それ を十分 に意識 して書いてい る。 日本人で あることを十分 に意識 してい るか らこそ、村上 は 「日本 の伝統的な もの‑のまった くの無 関心

村上春樹 vs.グローバ リゼーシ ョン 157

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か ら出発」す るとい う態度 を、創作の方法 とし て選択できたのである。 したがって 「無関心」、

そ して 「無臭性とは、村上が 自らの置かれた 日本文学の コンテ クス トの中で用いた戦略 と見 るべ きである。

村上文学の 「無臭性」 とはあくまで 「伝統的」

と思われてい る 日本のイ メー ジに対 しての、 日 本文学の コンテ クス トの中での 「無臭性」であ り、厳密 には無臭ではない。 したがって村上文 学の 「無臭性」 を感 じ取 りたい と思 う読者 は、

村上の作品を 日本文学 と認識 しなが ら読むべ き である。 四方 田自身 この 「グローバ リゼー シ ョ ンのなかで」 と題 された ワー クシ ョップでは一 貫 して村上の ローカ リテ ィ、あるいは村上が置 かれた特殊 な 日本文学の コンテ クス ト‑の理解 を促 し、グローバル化す る世界 における村上文 学の普遍性 を称揚す る (あたかもグローバ リゼー シ ョンその ものを賛美す るかの よ うな)声 をけ ん制 している。 これ を受 けてなのか冒頭 に挙げ た韓国の金 も 「私は春樹が無国籍 の作家だ とは 思いません」 (柴 田、沼野、藤井、四方 田217) と言い、村上を 日本文学 とい うコンテ クス ト抜 きで無臭 と取 ることは否定 してい る。 しか し金 は次の よ うに続 けて言 う。 「春樹 はあ くまで 日 本の作家ですが、谷崎、川端、三島 と比較す る と、韓国人に とって よ り近いメンタ リテ ィが感 じられ、共感ができるとい うことです。 ・・・

た しか 『風の歌 を聴 け』が群像新人賞 を とった ときに選考委員 だった丸谷才一 さんが 『日本的 叙情だ』 と評 していた と思います。それ は正 し い指摘 です し、春樹 は 日本的であ りなが ら国際 的なものももっているとい うことなので しょう」

(217)。確 かに単純 に言 えば村上は 「日本的で あ りなが ら国際的」なのだ。だが この場合 「国 際的」 とは何 を意味す るのだろ うか。金の場合、

村上に 「共感できるとい うのは、金がたまた ま 日本 と文化的に多 くの共通点 を持つ韓国の読 者だか らなのか もしれ ない。その場合、村上に 対す る 「共感」 は結局 ローカルな ものである。

それは他 の国の読者 について も言 える。村上が 翻訳 され多 くの読者 を得ている国や地域 は実は

158国際経営論集 No.36 2008

世界の限 られた一部で しかない。つま り 「共感」 は全体 として もローカル な ものである。

いったい村上文学の 「国際性」 とは どのよ う なものなのか。確かに村上は2006年にフランツ ・ カ フカ賞 (チ ェ コ) とフランク ・オ コナ‑質

(アイル ラン ド) の二つの外 国の文学賞 を受賞 し、 ノーベル賞の候補 に も名前が挙が り、一気 に国際的な名声 を高めた。 だがそれ よ りも前 に さ らに注 目す べ き出来事 が あった。2004年 に Vintage Booksか らVintage Readersシ リー ズ の 一冊 と して、 ア ン ソロジー Vl'ntageMurakaml' が出版 された。 このシ リーズは 「現代の最 も重 要 な 作 家 達 を 広 範 囲 に 渡 っ て 選 抜 した」

"Representing awide spectrum ofsome ofour mostsignincantmodernauthors" (183)と銘打っ て、村上の他 にMartinAmis(イギ リス)、James Baldwin(ア メ リカ)、Sandra Cisneros(アメ リ カ)、 Joan Didion(ア メ リカ)、 Richard Ford (アメ リカ)、 Langston Hughes(アメ リカ)、

Barry Lopez(アメ リカ)、 Alice Munro(カナ ダ)、 vladimir Nabokov (ア メ リカ)、 V.S.

Naipaul(イギ リス)、 OliverSacks(イギ リス) といった一見奇妙な取 り合わせの現代の作家達 を集 めている。 ここにはアフ リカ系アメ リカ人 のBaldwinとHughes、 ロシア生まれ のNabokov、 メキシコ人の父 とメキシコ系アメ リカ人の母 を 持つCisneros、イ ン ド ・トリニダー ド系で トリ ニ ダー ド ・トバ ゴ生 まれ のNaipaulが含 まれ て いるが、英語圏の作家でな く、 もともと英語で 書いていないのは村上だけである。海外の読者 の中には この顔ぶれ を見た ときに、村上が 日系 アメ リカ人またはイギ リス人の作家、あるいは 日本で生まれ て英語圏で生活 してい る作家であ ると誤解 した者 もいたかもしれない。このVintage 社 のシ リー ズは "awide spectrum"と言いなが

ら、結局はある特定の文化圏を世界の中心 とし て想定 している。それ は簡単に言 えば英語圏で あ り、 さらにはアメ リカの消費文化 を中心 とし た ものである。村上は見事 にその世界の中心の

"ourmostsignincantmodern authors"の一人 に 選 ばれた。 それ は彼の文学が もともと英語で書

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かれていないにもかかわ らず、アメ リカの消費 文化の現代 にお ける覇権 を反映 し、またそれ 自 体をテーマ としてい るか らに他 な らない。金が 村上は 「日本的であ りなが ら国際的」 と何気な く言 って しま うの も実は このせいである。韓国 も日本 と同様 に、 さらには村上が多 くの読者 を 得てい る他 の全ての国々 と同様 に、アメ リカの 消費文化 に強 く影響 されてい る。韓国の読者 が 村上を共感 をもって読めるのは、韓国 と日本が 仏教文化や儒教文化 を共有 してい るためではな く、同 じアメ リカの影響の下にあるか らである。

それはロシアの読者 、フランスの読者、東欧の 読者 について も同様 である。

Vl'ntageMurakamJ'の出版 は村上の 「国際性」

がいかに国際語 としての英語の世界での覇権、

さらに我 々の消費文化の原型 としてのアメ リカ の消費文化の覇権 を背景 に した ものであるかを 示す一つの証拠である。 したがって村上文学が

「日本的であ りなが ら国際的」であると言 う時、

この ワー クシ ョップのタイ トルが暗示す るよ う にグローバ リゼーシ ョンを持 ち出 して次の よ う に言い直 した として もあながち間違 ってはいな いだろ う。 「今 、 グローバル化 してい る と言わ れ る世界の資本主義の国々の、特 に都市部 にお いて、人は皆似た よ うな消費社会で似 た よ うな 生活 を送 り、その中で似 た よ うな孤独感や虚無 感 を感 じてお り、ま さにそ うした社会の一つで ある日本の社会を背景に書かれた村上の作品は、

似た よ うな社会 に生 きる世界 中の人達 を代弁す ることに成功 した。だか ら村上は 『日本的であ りなが ら国際的』 なのだ」 と。 この場合 「日本 的であ りなが ら国際的」 は強引に同義語反復 さ せ られてい る。つま り 「日本的」も 「国際的」

も同 じことを意味 し、それは消費社会的、ポ ッ プカルチャー的、都会的、アメ リカ的、後期資 本主義的な どを意味す る。

実際にワー クシ ョップの中で四方 田はこ うし た言い方 を誘発す るかの よ うに、試みに次のよ

うな質問を してい る。

ほぼ同 じ世代で同 じよ うにジャズが好 きなこ

のふた りの作家 [中上健次 と村上春樹]です が、 ローカ リテ ィに向か うか どうか とい うこ とがはっき り海外での受容の され方 に現われ ています。 これ を踏 まえて も う少 し抽象的な 質問を したい と思います。それ は 日本文化は 日本 らしさとい うものを消す ことによって し か海外 に受 け入れ られ ないのか とい う問いで す。宮崎駿に しても大友克洋に してもピカチュ ウに して も、 日本的な記号 とい うものが殆 ど 見 られ ない。消費者 の側 は 日本 の もの として 受 け取 らない。春樹 に したって同 じだ と思い ます。詳 しく読む と違 って くるか もしれませ んが、多 くの読者 はは じめ 日本文学 としては 受 け取 らないで しょう。 (柴 田、沼野、藤井、

四方 田220)

つま り村上が海外で受 け入れ られたのは 「日 本 らしさとい うものを消す ことに よって」、す なわち 「日本的であ りなが ら国際的」を同義語 反復 させ ることによってなのか とい う質問であ る。 これに対 してカナダのTheodoreW.Goossen は次のよ うに答 える。

何が 日本 らしさか とい うことについて考 えね ばな りません。若い読者 とい う言い方には矛 盾 があって、二十歳 くらいの私の教 えている 学生たちは習慣 としては本 を読みません。そ の代わ りにコンピュー タで画像 を見た り映画 やアニメを見た りは します。だか ら彼 らにとっ ては 日本のイメー ジ とい うのは ビジュアル文 化か ら得た種類の もので しょう。

ただ春樹だけがそ うい う若者 に もす ぐにお もしろく読めるんです。それは消費カルチャー を援用 しなが らその文化 自体 を批判す るとい う、春樹の戦略が優れているとい うことでは ないで しょ うか。 (柴 田、沼野、藤井、四方 田220‑21)

Goossenは確 かにカナ ダの若 い読者 に村上が 受 け入れ られているのは、少 な くとも彼 らの間 では 「日本的であ りなが ら国際的」が同義語反

村上春樹 vs.グローバ リゼー シ ョン 159

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復 になってい るか らである と言 っている。つま りこの場合 「日本的」 も 「国際的」 も同 じ 「消 費カルチャー (的)」を意味 している。Goossen の答 えはグローバ リゼー シ ョンに言及 しなが ら 村上の海外での受容 を説明す る典型的な答 えに なっていると言 える。

だが ここでGoossenがその同義語反復 の 中に

「消費カルチ ャー を援用 しなが らその文化 自体 を批判す るとい う、春樹の戦略」を見ている点 は重要である。村上が 「日本的であ りなが ら国 際的」であ りえるのは、村上において 「日本的」

と 「国際的が同 じ 「消費カルチ ャー (的)」 を意味す るのではな く、実は同 じ反 「消費カル チ ャー (的)」を意 味す るか らとい うことにな る。 これ は上 で あ げた 「無 臭性 」、 あ るい は

「無関心」 の戦略 とは区別 され るべ き、 も う一 つ の村上の戦略 として見 るべ きである。 「無臭 性」あるいは 「無関心」の戦略は村上が 日本文 学の コンテ クス トの中で、 日本の伝統的な もの に対 して採 った戦略であ り、具体的に言 えば村 上はあえて 自らの作品に描かれ るライ フスタイ ルや趣味をアメ リカ化す ることによって、伝統 的な 日本文学 と距離 を置 き 日本文学に対 して 自

らを差異化 しよ うと努 めた。 これ はアメ リカ化 と同義でのグローバル化 をあえて受 け入れ るこ とを意味す る。 これ とは反対 にGoossenの発言 の中に見 られ る 「消費カルチャーを援用 しなが らその文化 自体を批判す るとい う、春樹の戦略」

とは、アメ リカ的なライ フスタイルや趣味を追 いかけ一見消費カルチ ャー を享受 しているよ う に見せなが ら実はその虚飾 を批判す るのであ り、

ここではアメ リカ化 と同義でのグローバル化 を 拒んでいる。つま りここでは村上はグローバ リ ゼーシ ョンに対 して距離を置き、グローバ リゼー シ ョンに対 して 自らを差異化 しよ うとしている のである。村上の戦略は二重である。村上は一 方ではグローバ リゼー シ ョンを武器 に 日本文学 の ローカ リゼ‑シ ョンに対抗 し、他方において は消費カルチ ャーにおける人間疎外やアイデ ン テ ィテ ィの喪失 を武器 にグローバ リゼー シ ョン に対抗 してい るのである。

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村上の こ うした二重の戦略はグローバ リゼー シ ョンに対す る二つの矛盾 した態度 となって表 れ る。つま り日本の伝統、 ローカ リテ ィに対 し てアメ リカを立てる時、村上はグローバ リゼー シ ョンを称揚 してい る。 だが世界的に蔓延す る 消費カルチャーにお ける人間疎外、 自己喪失な どを描 く時、村上はグローバ リゼーシ ョンを嘆 いてい るのである。 1 こ うした村上の二つの態 度 は典型 的、 さ らに言 えば構 造 的 な ものだ。

FredricJamesonはグローバ リゼー シ ョンを定義 するに当たってそのように一方でグローバ リゼー シ ョンを称揚 "celebrate"しなが らも う一方で 嘆 く "deplore"とい う同時 にあ りなが ら矛盾 す る二つの態度 を指摘 し (55)、二つ を仮 にグ ローバ リゼーシ ョンの文化的次元 と経済的次元 とに振 り分けている。つま りグローバ リゼーシ ョ ンは文化的次元においては コミュニケーシ ョン を拡大 し、世界の多様 な声 を解放 し、文化多元 主 義 を促 進 し、 ひ い て は世 界 に 「差 異 性 」

"Difference"をもた らす ことになる。 だが経済 的次元ではグローバ リゼー シ ョンは世界市場 を 画一化 し、各国の市場 の 自律性や多様性 を破壊 し、ひいて は世界 に 「同一性 "Identity"を もた らす ことになる。私達は前者 においてはグ ローバ リゼーシ ョンを称揚す るが、後者 におい てはそれ を嘆いている (56‑57)。

だがグローバ リゼー シ ョンにおいて特徴的な のはこ うした文化的次元 と経済的次元の区別、

あるいは差異性 と同一性 の区別 を超 えて、全て が複雑 に絡み合 った上で常に一つの もの と考え られている点である。すなわち多様 である以上 に全体的なのであ る。Man丘・edB.Stegerの極 簡単な入門書的な定義 で もグローバ リゼーシ ョ

ンは不定冠詞aで括 られた一つのま とま り"set"

である。 「グローバ リゼー シ ョン とは、世界規 模での社会的相互依存 と交換 を創造 し、繁殖 し、

拡張 し、また強化 しなが ら、同時にローカルな もの と離れてあるものがます ます深 く連結 しつ つあるとい う認識 を人 々に抱かせ る、社会的諸 過程の多次元的なまとま りである」"Globalization referstoamultidimensionalsetofsocialprocesses

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that create,multiply,stretch,and intensibr worldwidesocialinterdependenciesandexchanges while at the same time fわstering in people a growing awareness of deepening connections betweenthelocalandthedistant" (13)。

Jamesonもまた グローバ リゼー シ ョンを仮 に 文化 と経済それぞれの次元に分 けた後で、それ らを相互浸透 させ、グローバ リゼー シ ョンを一 つの弁証法の運動 として捉 えよ うとす る。

Now,a洗er having secured these initial structuralpossibilities,you can projecttheir axes upon each other. Now,in a second moment,thebalefulvision ofIdentity can be transferredontotheculturalrealm:andwhat willbe afnrmed,in some gloomy Frankfurt Schoolfashion,istheworldwideAmericanization orstandardization ofculture,the destruction oflocaldifferences,themassificationofallthe peopleontheplanet.

Butyouareequallyfreetodotheinverse, and to transfer the joyous and celebratory Differenceandmultipleheterogeneitiesofthe 丘rst,cultural dimension onto the economic sphere: where,asyoumaywellimagine,the rhetoriciansofthemarketpopupandfeverishly reassureusastotherichnessandexcitement ofthe new 丘・ee market allover the world:

the increase in sheerproductivity thatopen markets will lead to,the transcendental satisfaction that human beings have 丘nally begun to grasp exchange,the market,and capitalism as their most fundamentalhuman possibilitiesandthesurestsourcesoffreedom.

(57‑58)

今や これ らの最初の構造的可能性 を確保 した 後で、それぞれの視軸 を互いの上に投影 させ て見 ることができる。 こ うして第二段階にお いて同一性 の恐 ろ しい光景が文化の領域 に移 されてみ る と、なにや ら陰密 なフランクフル

ト学派の見方において見 えて くるのは世界規 模 での文化 のアメ リカ化 、あるいは画一化 で あ り、地域差の破壊であ り、地球上の人間全 ての一塊の もの としての大衆化である。

しか しその逆の見方 を して最初の、つま り 文化の次元の楽 しく称揚 さるべ き差異性 と、

多様 な異種混交を経済の領域 に移 して見 るこ ともできる。す るとそ こには、誰 もが想像す るとお り市場 を声高に宣伝す る者 が現れ、世 界 中に広がる新たな 自由市場の豊か さと興奮 を次の よ うに熱心に説いて回る姿が見 えて く る。すなわち開かれた市場はひたす ら生産性 の向上につながる と。そ して人類 はついに交 換 と市場 と資本主義 を人間の もっ とも根源的 な可能性 として、また 自由の もっ とも確 かな 源 として捉 え始 めた とい う超絶的な満足感 が そ こにあるのだ と。

Jamesonは 「経済が文化 にな り、文化 が経済 に な る こ と」 "The becoming cultural of the economic,and the becoming economic ofthe cultural"はポス トモ ダニテ ィの特徴 で あ る と 言 う (60)。 また グローバ リゼー シ ョンは我 々 が属 してい るポス トモダニテ ィと呼ばれ る資本 主義の第三の、多国家段階の 「一つの内在的特 徴」"anintrinsicfeature"である と言 う (54)。

グローバ リゼー シ ョンにおいては分離 し対立す るものが相互浸透 しーっの運動 を形成す る。文 化の差異性 は経済の同一性 と相互浸透 し、世界 的な文化 の画一化 を招 き、経済の同一性 は文化 の差異性 との相互浸透 によって多様 な経済活動 を生む。だがそれ もこれ もグローバ リゼーシ ョ ン とい う一つの存在者 の弁証法的な 自己運動の

‑契機 に過 ぎない。 グローバ リゼーシ ョンを定 義す るにあた ってJamesonが援用 してい るのは Hegelの 『大 論 理 学 』 に お け る 「矛 盾 」 ("contradiction")の概念であ り、「矛盾」によっ て 自己‑、あるいは 「根拠」 ("Ground")‑ と 還帰す る弁証法の運動その ものである。Jameson はそれ をさらに 「状況その もの、そ こで物事が 起 こ り歴史が生 じる全体性 の僻轍図、あるいは

村上春樹 vs.グローバ リゼーシ ョン 161

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地 図」"the situation itselflthe aerialview or the map ofthetotality in which thingshappen and History takesplace"と言 い換 え、それ こ そが グローバ リゼー シ ョンとい う現象が我々に 喚起す るものである と指摘す る (76)。

この よ うに グローバ リゼー シ ョンをJameson 流に弁証法の運動 として捉 えると、村上に見 ら れ るグローバ リゼー シ ョンに対す る二つの態度 は結局 グローバ リゼー シ ョンの 自己運動 におけ る二つの契機 に過 ぎない もの となる。村上は一 方で 日本 を離脱 してグローバ リゼーシ ョンに組 し、他方では 自分 自身の個性 (た とえそれが空 虚 な ものであって も) に立ち返 ってグローバ リ ゼー シ ョンに距離 を置 こ うとす る。すなわち一 方で称揚 し他方で嘆いているのだが、 これ はグ ローバ リゼー シ ョン自身の 自己否定 と自己復帰 であ る。 Jamesonの言 うよ うにグ ローバ リゼー シ ョンとはそ こで歴史が生 じる 「状況そのもの」 であるとすれ ば、村上が泣いて も笑 って も結局 はグローバ リゼーシ ョンに囚われているのであ り、その二重性 こそがかえって グローバ リゼー シ ョンとい う 「状況」の特徴 を体現す るもの と なっている。 この意味で、村上は正 しくポス ト モ ダンの作家である。

村上が 「日本的であ りなが ら国際的」である とい うのはグローバ リゼーシ ョンとい う 「状況」

において村上が 日本の作家 として 「日本的」に 日本か ら離脱 して 「状況」に付 き、同時に 「国 際的」に 「状況」に反発 して個 に立ち返 ろ うと す るグローバ リゼーシ ョンに対す る村上の二重 の態度 を表 した ものだ。

だがそれだけではない。村上が 「日本的であ りなが ら国際的」であるとい うのは言い換 えれ ば村上が弁証法の運動 としての グローバ リゼー シ ョンを体現す るポス トモダンの作家であると い うことだが、それが可能 になったのは村上が 第二次大戦後圧倒的なアメ リカの経済 と文化 の 影響を受けてきた 日本の戦後生まれの作家であっ

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た ことによる。 この ことを理解す るにはグロー バ リゼー シ ョンにおいてアメ リカの文化、ある いはライ フスタイルが果 た している特殊な役割 を と りあえず認 める必要 があ る。 Jamesonは次 のよ うに言 う。

People oRen evoke "corrosive individualism"

and also consumerist "materialism" asaway ofaccounting forthe destructiveness ofthe new globalization process. ButIthink these moralizingconceptsareinadequatetothetask, anddonotsufncientlyidentifythedestructive forcesthatar・e North American in origin and resultfrom the unchallenged primacy ofthe United Statestoday and thusthe "American wayoflife"andAmericanmassmediaculture.

Thisisconsumerism assuch,theverylinchpin ofoureconomic system,and also the mode ofdailylifeinwhich allourmasscultureand entertainment industries train us ceaselessly dayaRerday,inan imageandmediabarrage quiteunparalleledin history.(64)

新 しいグローバ リゼー シ ョンの過程の破壊性 を説明す るために、 しば しば 「腐食性の個人 主義」 とか消費者 「唯物主義」 とい う言葉が 聞かれ る。 だが私 はこ うした道徳的な解釈 は この場合不適切 である と思 う。それはもとも と北米 に始 ま り、今 日のアメ リカのゆるぎな い地位 とそれ とともにある 「アメ リカン ・ウェ イ ・オ ヴ ・ライ フ」 とアメ リカのマスメデ ィ ア文化の優位 か ら生 じる破壊力 を十分に言い 当てていない。それは消費主義その ものであ り、我 々の経済 システムのま さに要 と言 うべ きである。 またそれ は大衆文化 とェ ンタティ メン ト産業が総がか りで毎 日休む ことな く、

一定のイメー ジの もとに、歴史上類 を見ない ほ どの激 しさで我 々を訓練 し続 けている我々 の 日常のモー ドである。

グローバ リゼー シ ョンにおいて世界の文化は決

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して平等に伝播 しあってはいない。確 かにサム ライ映画や宮崎駿や一部の 日本食 はアメ リカで 受 け入れ られた。だが一部 のアメ リカ人が一時 的に真似 をす ることはあって も、 日本の伝統的 な文化がアメ リカ人のライ フスタイル を全般的 に変 えることはない。 またVl'ntageMurakaml'を 出版 したVintage Booksの親 会社 で あるRandom Houseは ドイ ツの巨大 メデ ィア企業Bertelsmann に1998年 に買収 されたが、だか らといって ドイ ツの現代作家の原書な り英訳本 がアメ リカで広 く読まれ るとい う事態 は起 きそ うにない。 日本 企業のアメ リカ‑の進出について も同様である。

仮 に 日本の資本やェ ンタティメン トが世界 を席 巻 した として も、世界 中に 日本の伝統文化や ま してや 日本語が浸透す る とい うことは起 きそ う に ない。Jamesonが指 摘 す る とお りソニー は Columbiaを、 松 下 は

MCA

を買収 す る こ とはで きたが、 「日本人 はグローバルゼ‑ シ ョンを確 かなもの とす るために、いかなる競争者 に とっ て も必要 となる本質的に文化的な面での生産力 を手に入れることはできなかった」"theJapanese were unable to master the essentially cultural productivityrequiredtosecuretheglobalization processfわrany given competitor" (67) 第 二 次大戦後、アメ リカ文化 は圧倒 的な影響力で世 界 を席巻 した。それ は少 な くとも先進国におい て人々のライ フスタイル その ものを変 えた。村 上 は このア メ リカ文化 の影響力、Jamesonの言 い方で言 えば 「破壊力」を意識的に真 に受けた。

村上は自らをアメ リカ化す ることによってグロー バル化す る文学産業 において成功 した。 だがそ れだけではない。村上はアメ リカ文化 を真 に受 けなが らも、それ に対 して抵抗 をす る。そ して このアメ リカ文化 に対す る抵抗 こそが村上の世 界的な成功の鍵 となった。

アメ リカ化 (アメ リカナイゼーシ ョン)はグ ローバ リゼー シ ョン と同 じものではないが、少 な くとも前者 は後者 において特権的な地位 を占 めてい る。 これ は英語が国際社会でいつのまに か公用語 としての地位 を占めるよ うになった こ とと連動 している。 だがいかに英語が世界 中で

使 われ るよ うになって も、各国語 または現地語 が存続 しますます尊重 され るの と同様 に、アメ リカ文化 も決 して他 の文化 を完全 に駆逐す るこ とはない。その結果世界の各地で人々はダブル ・ スタンダー ド、 トリプル ・スタンダー ド、ある いはそれ以上の基準をもってライ フスタイル を 作 り、また文化的事象 に携わることになる。つ ま りImmanuelWallersteinに倣 って言 えば、各地 で様 々 な 単位 にお い て 「世 界 文 化」 "world culture"として名乗 りを上げたアメ リカ文化 に 対す る 「文化的抵抗 "culturalresistance"が 起 きるこ とにな る。 様 々な単位 とい うのは、

wallersteinが指摘するようにまず国民国家nation‑ stateの単位 において、その中でマイ ノ リティー などの集団groupの単位で、さらに個人individual の単位 で (ただLWallersteinは これ については 懐疑的である)、 とい うことである。Wallerstein

もJamesonと同様 に グローバ リゼー シ ョンを弁 証法の運動 として捉 えてお り、グローバ リゼー シ ョンとは全体化 とそれ に対す る様 々な単位 で の抵抗の総体である。だか らこそ 「文化的抵抗 は永遠 のテーマ で あ る」 "culturalresistance is aneternaltheme" (99)と言 う。 また全体化 に 対す る各単位 の抵抗は レベル こそ違 え並行 関係 にある。すなわち 「一つの世界‑向か う傾 向 対 別々の国民国家‑ と向か う傾 向、そ して一 つの国民 (国家)‑ と向か う傾 向 対 一つの 国家 の 中で別 々の民族集 団‑ と向か う傾 向」

̀1endencytooneworldvs.tendencytodistinctive nation‑states,and tendency to one nation vs. tendencytodistinctiveethnicgroupswithineach state" (99)が並行 してい るのである。 この並 行関係 は ミイ ラ取 りが ミイ ラになる循環構造 を もつ。世界 とい う全体に対 して抵抗す る国家は、

今度は国家 とい う全体 として民族集団の抵抗 を 受 けるのである。 これ は村上にお けるグローバ リセ‑シ ョンに対す る二重の態度 とよく似てい る。村上は 日本の伝統 とい う 「国民国家‑ と向 か う傾 向」に対 してはグローバ リゼーシ ョン と い う 「一つの世界‑向か う傾 向」 を立て、その グローバ リゼーシ ョンがアメ リカ化 とい う 「‑

村上春樹 vs.グローバ リゼーシ ョン 163

(8)

つの国民‑ と向か う傾 向」を示す と、それ に対 しては個 を立て るのである。 ここにも循環があ る。 日本 とい う全体 に対 して抵抗す るグローバ リゼー シ ョン (アメ リカ化)は、今度はアメ リ カ とい う全体 として個の抵抗 を受 けるのである。

村上におけるグローバ リセ‑ シ ョンに対す る 二重の態度 とWallersteinにお ける並行す る二つ の対立は、ただ一点においてずれてい る。村上 の小説 はアメ リカの黒人文学の よ うに 日本の中 の特定のマイ ノ リテ ィー グループを代弁す ると い うことはな く、抵抗の根拠 を徹底 して個人、

しか も個人の内面 (た とえそれが空虚であって も) に求 める。 これ に対LWallersteinは 「文化 的抵抗」 を基本的には 「組織的」 "Organized"

な もの、 あ るいは 「計画的」 "planned"な も の とし、個人的抵抗 についてはそれ を文化的抵 抗 と呼ぶべ きか どうか疑問を投げかけてい る。

Wallersteinは次の よ うに言 う。

Furthermore,canindividualresistancebecalled culturalresistance? Irone pursuesactivities with reference only to one'S inner ear,in what sense is one sharing a culture with anyone else,even with other individualist resisters? Andiftheansweristhattheinner earisa guide to the true path,isthisnot anappealtouniversalistvalueswithavengeance, since in thiscase,the claim to universalism lacksanycontrolwhatsoeverofsocialdialogue?

(102)

さらに、個人的抵抗 は文化的抵抗 と呼べ るだ ろ うか。 も し自分の内なる声にばか り耳を傾 けて活動す るとなる と、誰か と、特 に他の個 人的抵抗者 たち と文化 を共有す ることになる だろ うか。 また もしそれ に対す る答 えが、内 なる声は真実‑の道である と言 うな らば、そ れは単にや り返すために普遍的な価値 に訴 え ているだけではないのか。 と言 うの もこの場 合、普遍主義 の主張は全 く社会的対話 を踏 ま

えていないか らだ。

164国際経営論集 No.36 2008

Wallersteinの この個人的抵抗‑の疑問は、村上 とグローバ リゼーシ ョンの関係 を考 える上で示 唆的である。Wallersteinの弁証法的 「世界文化」

観 においては永遠の 「文化的抵抗」 こそが 「世 界文化」その ものであ る。 しか しその 「文化的 抵抗」の中に個人的抵抗は含まれない。Wallerstein に とって個人的抵抗 は何か しら抵抗 には違 いな いが、ただ文化的ではない。だがこれはWallerstein の思い描 いてい る個人が一人の生身の人間だか

らである。 しか もその仮定 された個人は 「自分 の内なる声にばか り耳を傾 けて活動す る」 こと で 自らを社会か ら完全 に切 り離 し、話す言葉 も 言語 としてその存在が理論的に疑わ しい私的言 語の よ うな ものになっている。だが村上が最終 的にグローバ リゼーシ ョンに対す る抵抗の根拠 とす る個人 とは、個人主義の ことである。つま り文化的生産物 としての個人主義のイデオロギー である。 しか もそれはアメ リカ文学の圧倒的な 影響 の下で文学活動 を してきた村上に とってア メ リカの個人主義であ り、 さらに言 えばそれは アメ リカか ら小説 を通 して輸入 され 日本 で翻訳 された個人主義である。

村上の小説 はデ ビュー作の 『風の歌 を聴 け』

以来、男性一人称の主人公 ‑語 り手である 「僕」 の独特の語 り口と思想 を特徴 としてきた。だが

「僕」 を主人公 ‑語 り手 にす ること自体 は特 に 個人主義 とは関係 がない。村上がその一人称の 語 りに変化 を加 え、風丸良彦の言い方で言えば、

一つの小説 の中に多様 な視点を混在 させ る話法 に 「越境」 (276,295)させ るよ うになったの は 『スプー トニクの恋人』以降である。風丸は この変化 について 「かつて村上の特徴 とされた

『翻訳文体』が、いまや村上か ら離れつつある」

(262)と言 っているが、む しろ反対 に村上は三 人称 を自由に使 えるよ うになることでよ り翻訳 的で、 しか もよ り個人主義的になった。本来西 洋の近代 に始 まる新 しいジャンル としての小説

(9)

novelは、平凡 な市民の一人 を個 人 と して客観 的 に観 察す る こ とを基本 に してい る Roland Barthesが言 うよ うに三人称 こそが 「小説 にお ける典型的な慣習」"Lèil'estuneconvention typeduroman" (29)であ り、村上の 「僕」 は

もともとそ うした西洋の小説の慣行である三人 称の 「彼」が変形 した ものである。 したがって 村上が 「僕」でな く 「彼」を使 っていた として もそれが小説であるとい うだけで個人主義的な のである。だが 日本の近代小説 が西洋 の個人主 義 を輸入 しよ うとしていびつな私小説 を生んだ よ うに、村上の小説 の個人主義 もまた どこかい びつである。特に第二次大戦後、 しか も後期資 本主義の下でアメ リカ文学の影響 を受 けなが ら 作家活動 を始 めた村上の個人主義は、それがま さにアメ リカ的であるがゆえにいびつなのであ る。

村上が 『風の歌を聴 け』の文体、そ して 「僕」 を創 造す る際 に最 も影響 を受 けた作家 と して F.Scott Fitzgerald、Kurt Vonnegut、Richard Brautigan、∫.D.Salinger、Raymond Chandlerの 名 が挙げ られ る。 しか も原文だけでな く多分に その翻訳 の影響 も受 けた。 2 特 に村上が敬愛す るFitzgeraldの影響 は大 きい と思 われ る。 村 上 は後に 自らFitzgeraldの代表作TheGreatGatsby を翻訳す ることになるが、村上が 『風の歌 を聴 け』 を執筆 した当時 目に した可能性のある野崎 孝訳ではその冒頭 は こ う訳 されている。

僕がまだ年若 く、今 よ りもっ と傷つ きやす い心を持 っていた時分 、父が僕 に、ある忠告 を与えて くれたけれ ど、爾来僕 は、その忠告 を、心の中で繰返 し反萄 してきた。

「ひ とを批判 したい よ うな気持 ちが起 きた 場合にはだな」 と、父はい うのである 「この 世の中の人がみんなお前 と同 じよ うに恵 まれ ているわけではない とい う事 を、ち ょっ と思 い出 してみ るのだ。」

父はこれ以上多 くを語 らなかった。 しか し、

父 と僕 とは、多 くを語 らず して人なみ以上に 意 を通 じ合 うのが常だ ったか ら、 この父の言

葉 にもいろいろ言外の意味が こめ られている ことが僕 には分 っていた。 このため僕 は、物 事 を断定的に割 り切 って しまわぬ傾 向を持つ よ うになったけれ ど、 この習慣 のおかげで僕 は、いろいろ と珍 しい性格 にお 目にかか りも し、同時にまた、厄介至極 な くだ らぬ連 中の お相手をさせ られ る破 目にも立ち至った。 (2)

これ に対 し、村上の 『風の歌を聴 け』の冒頭 は こ うである

「完壁 な文章な どといった ものは存在 しな い。完壁 な絶望が存在 しない よ うにね。」

僕が大学生の ころ偶然 に知 り合 ったある作 家は僕 に向ってそ う言 った。僕がその本 当の 意味を理解 できたのはず っ と後の ことだった が、少 くともそれ をある種の慰 め として とる ことも可能であった。完壁 な文章なんて存在 しない、 と。

しか し、それで もや は り何かを書 くとい う 段 になると、いつ も絶望的な気分 に襲われ る ことになった。僕 に書 くことのできる領域 は あま りにも限 られた ものだったか らだ。例 え ば象について何かが書けた として も、象使い については何 も書 けないか も しれ ない。そ う い うことだ。

8年間、僕 はそ うしたジ レンマを抱 き続 け た。‑ 8年間。長い歳月だ。

もちろん、あ らゆるものか ら何かを学び取 ろ うとす る姿勢 を持 ち続 ける限 り、年老いる ことはそれ ほ どの苦痛ではない。 これは一般 論だ。

20歳 を少 し過 ぎたばか りの頃か らず っ と、

僕はそ ういった生き方を取ろ うと努めてきた。

おかげで他人か ら何度 とな く手痛い打撃 を受 け、欺かれ、誤解 され、また同時に多 くの不 思議 な体験 もした。様 々な人間がや ってきて 僕 に語 りかけ、まるで橋 をわた るよ うに音 を 立てて僕の上 を通 り過 ぎ、そ して二度 と戻 っ ては こなかった。僕はその間 じっ と口を閉 ざ し、何 も語 らなかった。そんな風 に して僕は

村 上春樹 vs.グローバ リゼ ー シ ョン 165

(10)

20代最後の年 を迎 えた。(7)

一見 してす ぐに二つの小説 の冒頭 が よく似 てい ることがわか る。 まず誰かの忠告 を思い出 して い る一人称の語 り手 「僕」がいる。そ してその 忠告は どち らも語 り手に対 して人や物事の不完 全 さを責めない よ うに と言 う。忠告の受 け入れ 方 には多少程度 の違 いがあるが、いずれ にせ よ 語 り手は どち らも忠告 に従 って 「物事 を断定的 に割 り切 って しまわぬ傾 向」あるいは 「あ らゆ るものか ら何かを学び取 ろ うとす る姿勢」 を身 につけ、その 「おかげで」かえって多 くの 「厄 介至極な くだ らぬ連 中」あるいは 「様々な人間」

と知 り合 うことになる。 3

村上は明 らかにTheGI・eatGatsbyの冒頭 をそ のまま模倣 してい る。だが村上が どうして も模 倣 できない部分があった。それ は忠告者 として の父 で あ る。 実 はme GTeatGatsbyの 冒頭 は ShakespeareのHamletを模 倣 して い る。 仮 に Fitzgeraldにそ の 日覚 がな くて も、西洋 文学 の 歴史の中で形成 された読者 の期待 の地平がそれ を模倣 として受容 させ る。村上が この父の忠告 とい う要素 を模倣 できなかったのは彼 が 日本の 作家であ り、 日本文学の伝統、 さらには 日本文 学に通 じた読者 の期待の地平 を意識 していたか らである。 とい うの も、 も し村上が 『風の歌を 聴 け

の 冒頭 にお いてThe GreatGatsbyの 冒

頭そのままに忠告者 を父 としていた ら、 この小 説 は もち ろん 一 方 で はHamletか らme Great Gatsby‑ と連 な る西洋文学 の伝 統 に連 な る も の、またその模倣 として読まれていたに違いな いが、 も う一方でそれは 日本の近代小説の一つ のジャンル と看倣 され るよ うになったいわゆる 私小説のよ うに読 まれて しまっていたに違いな いか らである。 「僕」 を語 り手 にす る以上、 日 本の作家である村上は どうして も私小説 を意識 せ ざるを得 ない。村上が 『風 の歌 を聴 け』の冒 頭 でThe GTeatGatsbyの 冒頭 にあ る父 を排 除 したのは、 この小説 を典型的な私小説の よ うに

「僕」 と父、家 、世 間、村 、因襲、あるいは血 との戦いを描いた もの と取 られた くなかったた

166国際経営論集 No.36 2008

め と思われ る。4

よく言われ るよ うに村上の小説 は両親や親戚 を具体的 に描 くことはな く、 「僕」は漠然 と学 生であった り、友人 と小 さな翻訳事務所 を特 に 困難 もな く経営 した りと、世間か ら遊離 した孤 独者 として現れ る。 また 「僕」は過去の友人 と の関係 に苦 しむ ことはあって も大江健三郎の四 国や 中上健次の紀州の よ うにその存在 を呪縛す る宿命 的 な故郷 を持 たない。『風 の歌 を聴 け』

は故郷 の町 を出て東京 の大学 に入 った学生 の

「僕」 が初 めての夏休み に帰省 した時の経験 を 描 いた ものだが、 「僕」 は確 かに実家 で暮 らし ているよ うなのに家庭 の様子は全 く描かれてい ない。実家にいなが らま るで一人暮 らしの よ う である。その代わ りに家庭 が透 けて見えるのが 鼠である。だがそれ も鼠の実家が どうや ら裕福 であるとい うことだけで、具体的に人間が描か れているわけではない。 これ は村上が初 めて小 説 を書 くに当たって 日本 の小説 の伝統か ら離れ るため、あるいは 日本臭 さを排 除す るために意 図的に した ことである。 この こと自体極 めて 日 本的な ことで、村上は三作 目の 『羊をめ ぐる冒 険』の冒頭 で 自らのそ うした 「日本的な」意図 を茶化 してい るよ うに さえ見える。

新 聞で偶然彼女の死 を知 った友人が電話で 僕 にそれ を教 えて くれ た。彼 は電話 口で朝刊 の一段記事 をゆっ く りと読み上げた。平凡な 記事だ。大学 を出たばか りの駆 けだ しの記者 が練習のために書か されたよ うな文章だった。

何月何 日、 どこかの街角で、誰かの運転す る トラックが誰かを擦 いた。誰かは業務上過 失致死の疑いで取 り調べ 中。

雑誌 の扉 に載 ってい る短かい詩 のよ うにも 聞 こえる。

「葬式は どこでや るんだろ う?」 と僕は訊 ねてみた。

「さあ、 わか らないな」 と彼 は言 った。

「だいいち、あの子に家なんてあったのかな ?」

もちろん彼女 にも家 はあった。

僕 はその 日の うちに警察に電話 をかけて彼

(11)

女の実家の住所 と電話番号 を教 えて もらい、

それか ら実家 に電話 をかけて葬儀 の 日取 りを 聞いた。誰かが言 ってい るよ うに、手間 さえ 惜 しまなければ大抵 の ことはわか るものなの だ。

彼女の家は下町にあった。 ・ ・ ・(9‑10)

この文章の中で 「家」とい う語が最初 に出て く る箇所 にはル ビが振 ってあ り、 「家」を 「イエ」

ではな く 「ウチ」 と読 ませ てい る。 「イエ」 と

「ウチ」 では少 し意味が違 うが この場合 どち ら で も良い。 いずれ にせ よ後 に出て くる 「実家」

を意味 し、ここで問題 になっているのは 「彼女」

に とっての 「実家」 の存在 であ る。5 実家 とは 人の生家の ことだが、通例その人の親 の住む家 の こ とである。『風 の歌 を聴 け』 とその続編 の

『1973年 の ピンボール』 ではその 「実家」 が奇 妙な ぐらいに不在である。奇妙 と言 うのは一人 称の小説 な ら何で も私小説 的 リア リズム、す な わち作家の 自己告 白と社会 との葛藤 の ドラマを 求 めて しま う日本文学の伝統的観 点か らすれば とい うことである。 この 『羊をめ ぐる冒険』の 冒頭で 「だいいち、あの子 に家なんてあったの かな ?」 と 「彼」が問い、それ に対 して 「僕」

が 「もちろん彼女にも家 はあった」と応ず るの は、 「実家」 の不在 を茶化 しなが ら逆 に強調す る効果 を持 ってい る。それは この小説 の描 く空 間その ものが 日本の村社会の現実か ら離れてい ることを示唆す る。

だが村上が 自分の小説 か ら父や家 を排除す る のにそれほ どの苦労はい らなかったはずである。

とい うの もここで もまたFitzgeraldの例 に倣 え ば良か ったか らで あ る。The GreatGatsbyの Nick CarrawayもJay Gatsbyも過去 か ら自らを 切 り離そ うとす る人物であ り、 この小説 自体が アメ リカの個人主義 についての考察である。村 上はただ この二人 を 日本 に輸入すれ ば良かった のである。『風 の歌 を聴 け』 の 「僕」 と鼠が宙 に浮 い て い る よ うに見 え るの は 、The GI・eat GatsbyのNickとGatsbyが彼 らの周囲か ら浮 き、

小説 の最後にあるよ うに 「流れ に逆 らって、絶

えず過去‑ と戻 されなが らも、ボー トを漕 ぎ続 け」"beaton,boatsagainstthecurrent,borne backceaselesslyintothepast" (Fitzgerald184) よ うとしてい るか らである。 アメ リカ化 に抵抗 す る村 上 の個 人 主義 とは ま さに こ うしたme GreatGatsbyのNickとGatsbyが 当時 のア メ リ カ社会 に抵抗す る姿か ら来た ものである。m e

GreatGatsbyのNickとGatsbyの個人主義がいび つであるとすれ ば、村上の個人主義 もまたいび つである。だがそれ は上で見た よ うに二重の意 味においてそ うなのだ。 まずそれ は翻訳的で 日 本の土壌か ら浮いているとい う意味 においてい びつである。 さらにそれ はアメ リカ的であ りな が らアメ リカ化 とそれ を中心 とす るグローバル 化 に抵抗 しているとい う意味において もまたい びつである。前者 は実は旧来の私小説作家 にも 言 えることである。だが後者 は村上において独

自の ものである。

私小説は明治期 の 日本人が西洋の近代小説 を 翻訳また模倣 した際、西洋の個人主義 を 日本の 土壌 に強引に持 ちこも うとした結果生まれた。

最初の私小説 と言われ る田山花袋の 『蒲団』 は 一人称でな く三人称の 「彼」を用いて書かれて いるが、それ は花袋が三人称の 「彼」に西洋の 個人を見たか らである。だが この小説 は結局市 民社会の個人 を描 くのではな く、 日本の村社会 で西洋の個人主義にかぶれて個人になろ うとし、

世間の しが らみの中で身動 きが取れず、単に 自 分の性欲 を告 白す るだけの明治の知識人の挫折 を描 くものになって しまった。『蒲団』の 「彼」

は、柳父章が言 うよ うに、 「市民社会 の どこに で もいそ うな一人を取 り上げてい るので 〔は〕

な」 く、 「む しろ逆 に、 日本社会では、 どこに もいそ うにない特別 な人物 を指 してい る」 (52) のである。それ は個人ではな く、個人主義 とい

う翻訳 された理念 に手足 を付 けた人形の よ うな ものである。

アメ リカの小説の影響 を受 けて造形 された村 上の 「僕」 も‑ また鼠 も‑ 翻訳的な存在で ある。だが明治の私小説作家 と村上 とでは置か れた状況が違 う。 ここで状況 と言 うのは上で見

村上春樹 vs.グローバ リゼー シ ョン 167

(12)

たJamesonの言 うグローバ リゼーシ ョン

「状況」

の ことである。村上に とって 日本の伝統か ら遊 離す ることは もはや明治の知識人が 日本 の社会 か ら遊離 して感 じた よ うな痛み を伴 うものでは ない。村上は 日本の伝統か ら遊離 し自らをアメ リカ化す ることでかえって 「日本的であ りなが ら国際的」になる。私小説の主人公である私 ‑ 小説家 は 「日本社会では、 どこにもいそ うにな い特別な人物」 として 日本 に しかいないいびつ な存在 だった。だが 日本 においてアメ リカ化 さ れた村上の 「僕」はグローバル化 された 「社会 の どこにで もいそ うな一人」になる。 さらにグ ローバ リゼー シ ョン

「状況」においてアメ リ カ化 ‑グローバル化 し 「社会の どこにで もいそ

うな一人」 になった個人はその無名性 、空虚 さ か らかえってアメ リカ化 ‑グローバル化 に抵抗

しよ うとす る。 これ は実はグローバ リゼー シ ョ ン

「状況」 の 自己運動 に過 ぎないのだが、そ の表現 としての個人の運動その もの としては矛 盾 であ りいびつである。 これ はグローバ リゼー シ ョン

「状況」 が個人 に共通 して強い る宿命 である。 グローバ リゼー シ ョン

「状況にお いて個人は皆いびつになる。村上の 「僕」のい びつ さは こ うして 「状況」を体現す るもの とな

る。

村上の 「僕」は 日本の土壌においては 「個人」

として宙に浮 いてい る。それ は 「僕」がアメ リ カの小説の模倣、 さらに言 えば翻訳の模倣だか らである。村上の 「僕」はこの意味で虚構であ る。 だが村上は この虚構の 「僕」 を通 してその 虚構性 を断罪す る。言い換 えれ ば、村上はアメ リカ化 された 「僕」を通 してグローバ リゼーシ ョ ン

「状況」 に抵抗す るのである。 これ を最 も 良 く成 し遂げたのが海外で も人気のある 『ノル ウェイ の森 』 で あ る。 『ノル ウェイ の森 』 の

「僕」は主 にTruman Capote、John Updike、F.

ScottFitzgerald、Raymond Chandlerといったア メ リカ の 小 説 を愛 読 し、 中 で もThe Great Gatsbyを 「最 高の小説」 (65)と呼ぶ人物 であ る。 「僕」 は単 にme GTeatGatsby (実際 はそ の翻訳) を愛読す るばか りでない。千石英世が

168国際経営論集 No.36 2008

アメリカニスム

指摘す るよ うに 「僕」 は 「言 葉 に病む人物」

(30)であ り、 自分 について語 るにもTheGreat Gatsbyをなぞ りなが ら語 るのである。

雑木林 を抜 け小高 くなった丘の斜面に腰 を 下ろ して、僕 は直子 の住 んでいる棟の方 を眺 めた。直子の部屋 をみつけるのは簡単だった。

灯の ともっていない窓の中か ら奥の方で小 さ な光が灰かに揺れているものを探せ ばよかっ たのだ。僕は身動 きひ とつせず にその小 さな 光をいつまで も眺めていた。その光は僕 に燃 え残 った魂 の最後の揺 らめきの よ うなものを 連想 させた。僕 はその光 を両手で覆 って しっ か りと守ってや りたかった。僕はジェイ ・ギャ ツビイが対岸 の小 さな光 を毎夜見守 っていた の と同 じよ うに、その灰かな揺れ る灯 を長い あいだ見つ めていた。 (村上 『ノル ウェイの 森』233)

千石は この文章について次の よ うに解説 してい る。

この一節 に埋 め込まれ た論理的構造の打ち明 けるところは、その美 しさが、フイツツジェ ラル ドの模倣 であ り、模型であるか もしれぬ とい うことだ。 引用文最後の一文に見える直 喰 「ジェイ ・ギャツビイ ・・・と同 じよ うに」

を どれ ほ ど意味深い比境 とみなすかの問題 で ある。 も しそれが大層意味深い ものであるな ら、最後の一文直前の文章群はすべて、フイツ ツジェラル ドの影 のなかにあることになる。

直子は、ワタナベ君 に看取 られていたのでは な く、間接化 して しまった ワタナべ君、アメ リカの一作家の訳本 に登場す る人物 に看取 ら れていたのだ。 ギャ ッツ ビー気取 りの人物の 相手を させ られていたのだ。直子 も芝居がか るほかはない。 かれ とかの女は、相乗的に、

競 うよ うに、 ともに病 んで行 くほかはない。

(30‑31)

千石 が示唆す るよ うにFitzgeraldを模 倣す るこ

(13)

とで 「病んで」いるのは 「僕」だけではない。

「僕」 のい るこの小説 の空間全体が 「病 んで」

い る。千石 はこの小説の 「あ とがき」で村上が これを 「個人的な小説」 と呼んだことに注 目し、

これ を 「小説 を小説化 した小説、二重の小説」

(12)と呼んでい る。 つ ま りこれ は後 の 「僕」

がかつての 「僕」 について語 った回想録(小説) であ り、 さらにそれ を作者村上が 「個人的な小 説」 と呼んだ 「二重の小説になってい るとい うことである。千石 はまた この小説 は 「リア リ ズムに化 けている反 リア リズム、すなわち、そ れ 自身で写実小説 として成立す るにもかかわ ら ず、それ を さらに写実小説だ と主張す ることで 成立す る小説、二重に手袋 をはめて、用心深 く、●●●●●●●●●

現実に触れ られ よ うとす る写実小説」(14)と い う意味でも 「二重小説」であると言っている。

もともと小説 は虚構であるか ら小説の写実性 と は虚構性の限界内においての ことであ り、わ ざ わ ざ断 らな くて も小説 は常に 「写実小説とい う虚構 であ る。 村 上が 自分 の小説 をわ ざわ ざ

「写実小説 だ と主張す る」 のは、それ を 「個人 的な小説」だ と言 うの と同 じことであ り、 「だ いいち、あの子 に家なんてあったのかな?」と 問 うの と同 じように、自己言及す ることでかえっ てその虚構性 を強調 してい るのである。

『ノル ウェイの森』は実際まった く 「個人的」

ではない し 「写実的」で もない。 もし私小説 の よ うに 「個人的」で 「写実的」であることが リ ア リズムであるとすれば、村上の小説 は千石の 言 うよ うに 「リア リズムに化 けてい る反 リア リ ズム」の小説 である。 また も し私小説が社会 の 現実に対 して 「個人」の虚構性 を描いた とした ら、村上の小説 は社会の現実に 「個人」の虚構 性が対峠 しているその図式全体 を虚構 として呈 示 している。この場合図式全体 と言 うのはグロー バ リゼーシ ョン‑「状況」のことである。 「個人」 の虚構性は村上にとってグローバ リゼーシ ョン‑

「状況」 に対す る文化 的抵抗 の拠点である だ がJamesonやwallersteinが示唆す るよ うに弁証 法の運動 としてのグローバ リゼーシ ョンは全体 化 とそれに対す る様 々な単位 での抵抗の総体で

ある。その運動の中で現実に対す る虚構の抵抗 は現実によって現実化 され、また虚構 の抵抗 を 常に前提 とす る現実は虚構 に よって虚構化 され る。す なわちグローバ リゼー シ ョン‑ 「状況」

においては現実即虚構であ り、また虚構即現実 である。村上に とってはその虚構 ‑現実に忠実 であることこそが リア リズムである。 よって村 上の リア リズムはかつての私小説 が した よ うに

「僕」だ けのいびつ さを強調 して描 くのではな く、世界 その もののいびつ さを描 く。 村 上 は

『村上春樹全作品1979‑1989』版 の 『ノル ウェイ の森』 に付 した別刷 のエ ッセイ 「100パーセ ン ト・リア リズム‑の挑戦」で次の よ うに リア リ ズムを定義 してい る。

僕の考 える リア リズム とい うのは、まず簡易 (コンヴェンシ ョナル とい うこ とではな くシ ンプル)でス ピー ドがあること。文章は筋の 流れ を阻害せず、読者 にそれほ ど多 くの物理 的 ・心理的要求 を しない こと。感情 とい うも のはなるべ く自立 させず、あま り関係 のない ものに うま く付託す ること。それが僕の設定 した 『ノル ウェイの森』 における文章的アク セスの概要であった。

(

XI)

ここで村上は 「感情 とい うものはなるべ く自立 させず、あま り関係 のない ものに うま く付託す る」 と言 ってい るが、 これ はT.S.Eliotがかつ てShakespeareのHamletを 論 じ てobjective correlativeが欠 けてい る と言 ったの と良 く似 て い る。Eliotは文学 にお ける私的な感情の表出や 個人主義 を伝統の中に解消 しよ うとした。村上 もまた似た よ うな ことを している。ただ し村上 の場合Eliotの伝統 に当た るのはグローバ リゼー シ ョン と呼ばれ る 「状況である。 「僕」が村 上の正確 な分身 であるか どうか、 「僕」 は村上 の感情 を正 しく伝 えてい るか ど うか、 「僕」は 村上の正直な内面描写 となってい るか どうかな ど、私小説的 リア リズムに とって問題 であった ものは村上に とって もはや リア リズム とは何の 関係 もない。だか らこそ村上は続 けて次のよ う

村上春樹 vs.グローバ リゼーション 169

(14)

に言 う。

しか し結局の ところ‑ 僕が想像す るに‑

多 くの人々は (とくに文学プ ロパーにおいて は とい うことだが) この文体 を リア リズム と しては捉 えなかった よ うである。僕の考 える リア リズム とい うのは、他の人が考 える リア リズム とはずいぶん異なった地点で成立 して いるのかもしれない。そ うい う意味において、

あるいは僕 はまった く見 当違いの ことをや っ ていたのか も しれない。 (XI)

村上の 「個人」 はグローバル化 した消費社会、

大量に生産 され消費 され る複製商品の社会 を享 受 しなが らその中で解消 され る空虚 な 「個人」

である。それで もそ うした 「個人」 を描 くこと は グローバ リゼー シ ョン‑ 「状況」 に対す る抵 抗である。 この村上の二重の態度、二重性 はそ のままグローバ リゼー シ ョン‑ 「状況」の二重 性 であ り、村上の リア リズムはそ うしたグロー バ リゼー シ ョン‑ 「状況」 の二重性 に対 して忠 実なのである。

村上は 日本文学が伝統的に表現 してきたもの、

特 に私小説が描 くよ うな 日本人 と日本の村社会 の姿に背 を向け、まるでニュー ヨー クの若者の よ うな 「僕」 を 日本で創造 した.だが も う一方 で画一化す る都 市生活 に埋 もれた人間のライ フ スタイル を拒否 し、 「個人」 が失 った もの‑の ノスタル ジーを読者 に喚起 しよ うとす る。 もち ろんそれ は一周 して元に戻 り、 日本人が失いか けている と盛んにメデ ィアが喧伝す るよ うな義 理人情、あるいはかつて土居健夫が 「甘 えの構 造」 と呼んで批判 した集 団主義 メンタ リテ ィー に浸かった 日本的 自己を再評価す るとい うこと ではまった くない。 またそれ は私小説が描 くよ うな西洋の 「個人」のいびつな 日本的複製 を 日 本的 自己として再評価す るとい うことでもない。

村上には回帰すべ き 自己はない。村上に とって

170国際経営論集 No.36 2008

の 自己 とは絶 えず 自己否定 と自己復帰 を繰 り返 す グローバ リゼー シ ョン‑ 「状況」 自体であ り、

全体 としてそれ は さらな るグローバル化 を 目指 し続 ける。村上は 日本文学の伝統に対す る無関 心を 自らの戦略 としたが、その具体的な方法 と して徹底 してアメ リカ小説の影響 を受 けること を選択 した。村上は 自らをアメ リカ化す ること によって 自らをグローバル化 した。 アメ リカ小 説、あるいはアメ リカ文化 は 日本語 と日本の土 壌 に縛 られていた村上の 「僕」に世界 に通 じる 言語 を与 えることになった。そ してそれ を可能 に したのが グローバル化 においてアメ リカ化が 果た してい る特権的な地位 なのだ。

だがそれ に して もアメ リカ化 はグローバル化 の一つの契機 に過 ぎない。 アメ リカ文化 自体が 世界文化になることはない。このことをWallerstein は次の よ うに表現 してい る。

Iam skepticalwe can 丘nd our way via a searchforapuriiedwof rldculture.ButIam also skepticalthatholding on to nationalor toethnicortoanyotherfわrm ofparticularistic culture can beanythingmorethan acrutch.

Crutchesarenotfoolish.WeoRenneedthem to restore our wholeness,but crutches are by deBnition transitional and transitory phenomena.(104)

このまま私達が追い求 めていけば純粋 な世界 文化 に達す るだろ うとい う風 には私 には思 え ない。 しか し一つの国あるいは民族 あるいは 他の何 で も特定の文化 に しがみついているこ とが松葉杖以上の ものであるよ うにも思えな い。松葉杖 もバカに した ものではない。私達 は健康 な体 (全体) を回復す るために しば し ばそれ を必要 とす る。 しか し松葉杖 とい うの は定義上一時的な もので、その うち消えて し ま うものだ。

村上の 「僕」がアメ リカ小説の翻訳のよ うに話 しアメ リカ小説の主人公 のよ うに振舞 うとして

(15)

も、それが彼 のアイデ ンテ ィテ ィ として定着す ることはない。 この ことは村上の 「僕」 に限 ら ず グローバ リゼー シ ョン一般 においてそ うなの である。 「僕 」 にはアイデ ンテ ィテ ィ とい うも のはない。三浦雅士はかつ て こ う書いた。

資質によるものであれ思想 によるものであれ、

いずれ にせ よ村 上春樹 は現代人が世界 に対 し て覚 える疎隔感 をその小説 の主題 に している。

それ は、現実 をいわゆる現実 として感 じるこ とができない とい う病 で あ り、他者 の心に達 す ることができない とい う病 である。 そ して それ は、 自己が 自己であ る とい うことを実感 できない とい う病 、 自己をめ ぐる病 である。

しか もこの病 が優 しさを もた らす のだ。村上 春樹 の文体 を浸 してい る軽快 さと暗欝 さの奇 妙 なアマル ガムは この主題 の直接 的な帰結 で あ り、 主題 と文 体 は密 接 に連 関 してい る。

(240‑41)

村上の小説 の登場人物 たちは 「自己が 自己であ る とい うことを実感 できない」が ゆえに他者 の 心の中に、あるいは他者 との交わ りの中にアイ デ ンテ ィテ ィを追い求 める。 だが追い求 めて も

「他者 の心 に達す る こ とがで きない」 が ゆえに

「自己が 自己である とい うことを実感 で きない」 とい う悪循環に陥る。 この悪循環の中でモルモ ッ

トの よ うにアイデ ンテ ィテ ィを、あるいは 「優 しさ」を追い求 めることが村上の物語 のプ ロッ

トを構成す る。

グローバ リゼー シ ョン‑ 「状況」 にお いては 誰 もがモルモ ッ トの よ うに宙 に浮 いたまま無駄 にアイデ ンテ ィテ ィを追い求 める。村上の小説 は グ ローバ リゼー シ ョン‑ 「状況」 にお け る こ のモルモ ッ トの よ うな人間の姿 を巧み に描 いた がゆえに世界 の多 くの読者 の共感 を得た。世界 で村上の読者 はそれぞれ の 「僕」になる。 これ までの 日本文学では外 国の読者 はそ こに描 かれ た人物 になることはで きなかった。 それが出来 た読者 、た とえば極少数 の 日本語 を読 める 日本 文学研 究者 も 日本 の文化や風習 について調べ、

さま ざまな先入観 と誤解 を正せ る限 りは正 した 上で作品に描 かれた 日本人 に無理や りなろ うと した。 だが村上文学 においては 日本人 になる必 要 がない。 「僕 」 になれ ば よいので あ り 「僕 」 とは 日本人 でな く、 しか も外国の翻訳 のほ とん どにおいては男性 で も女性 で もない。 「僕 」 は フランス人の女性 の読者 に とって も、アメ リカ 人の男性 の読者 に とって も 「僕」である。 もち ろん フランスではjeであ り、アメ リカでは Ⅰだ が、いずれ にせ よそれ は一人称 の代名詞 が指す 主体の位置 である。位置 だけで主体 はない。主 体は空虚である。 したがってそれは誰で もよい。

村上の小説 を読 んで 「僕」 になる とは誰で もよ い 自分 、 とい うことは誰 で もない 自分、にな る ことである。

1 Richard Powersは 『世界は村上春樹 をどう読 むか』に収め られた講演 「ハルキ ・ムラカ ミー広 域分散一 自己鏡像化一地下世界一 ニュー ロサイエ ンス流‑魂 シェア リング ・ピクチ ャー シ ョー」

(柴 田元幸訳) において、村上のグローバ リゼー シ ョンに対す る二つの態度 を見極めなが らも、固 定 したアイデ ンティティか らわれわれ を解放す る もの としてのグローバ リゼーシ ョンを村上文学が 肯 定的 に表 現 してい る こ とを強調 してい る。

『われわれ』が何百もの異なる国の産物であるこ と、 自己と外界の大まかなモデルをそのつ どでっ ち上げている何百ものニュー ロン領域の産物であ ることを、彼のフィクシ ョンはなかば本能的に肯 定 しています。村上春樹の物語は、分散 した 自己 を急きゑ ELと、古い国家が消えてい くなかで新 し い世界主義を生きることにめざま しい心地 よさを 見出しています。難民状態が普遍化 した時代にあっ て、われわれは どこで生きることを望めるで しょ う? あ らゆる場所にほかな りません。故郷がな いか らこそ、世界の どこにでも住み うる自由が生

じます」 (柴 田、沼野、藤井、四方 田51)。 2 村上の次の文章には当然なが ら範晦が含 まれ ているが、翻訳小説に影響を受けた ことははっき りと見て取れ る。 「僕は三十歳の ときにたまたま 何かの成 り行 きで作家になったわけだが、それ以 前にはごく少数の例をべつにすれば 日本の作家の 小説 とい うものをほとんど手に取ったことがなかっ た し (これにはいろいろと僕な りのやむにやまれ ぬ事情があるのだが、話 しだす と長 くなるし、前

村上春樹 vs.グローバ リゼーション 171

参照

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