清 沢 満 之 の 精 神 主 義 中 , 、 、
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||進化論的人間観への批判||子
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清沢満之は文久三年︵一八六一一むから明治三十六年三九O
三 ︶ 、 その間僅か四十一年の短い生涯である。清沢満之の 生きた時代、それは日本が近代の西洋文明に直面した いままでのインド、中国、朝鮮、日本という東半球の文化領 域にとどまらず、東洋の文化圏に西半球の文化、文明が怒濡のごとく流れ込んできた大きな課題に直面した時といえ る。満之の生きた明治時代、それは初期十年代を西洋崇拝期、二十年代を国粋保存期、 三十年代を帝国主義形成期と 区 分 す る こ と が で き る 。 その生涯は近代文明の夜明けを象徴するペリーが浦賀に黒船で来航︵嘉永六年、一八五コロL
て か ら の 五 十 年 間 、 日 露 戦 争 勃 発 ︵ 一 九O
四 ﹀ の 一 年 前 に 生 涯 を 終 え て い る 。 渡辺正雄氏は﹃日本人と近代科学||西洋への対応と課題||﹄のなかで、日本における近代科学の導入ないし西洋文 化の摂取には基本的に三つの問題点があるという。ω
、それを生み出した思想的、文化的基盤を顧慮することなしに、ω
、西洋の学術文化の諸分野の相互間にわたる密接な関連性を顧慮 単なる技術的に導入し模倣し利用してきたこと、することなしに専門細分化した各分野を個々別々に学びとってきたこと、
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、導入した西洋の学術文化と日本在来の ものとの聞に何らの関連をつけることなしに両者を併存させていること、 こういう点を是正することは、今日のわれ われに課せられた文化的課題であり、広い意味での教育における中心的事項であることを指摘されている。 い ま 、 そ の三点の第一点に注目するとき、西洋における近代科学の歩みには ダ l ウ ィ ン ︵ 一 八O
九一八八二︶によって提唱 さ れ た 進 化 論 が 、 いままでの人間観、価値観を一転させる真理の﹁聖俗革命しと称せられる歴史を背景としているこ とである。それは﹁信仰﹂から﹁理性﹂へ、 現象であむそのことは、今日の文明、文化の危機として人間の根抵に横たわっている根本的な問題にほかならない ﹁ 教 会 ﹂ か ら ﹁ 実 験 室 ﹂ へという、真理の世俗化、知識の世俗化という といえる。西谷啓治先生は﹁現代における人間の問題﹂のなかで次のようにその問題点を指摘されている。 進 化 論 は 、 いうまでもなく、近代の自然科学における非常に大きな発見であって、 ある意味では人類の歴史にお ける一つの画期的な発見とすらいえるであろう。それが人類の知見というものに、今までなかった一つの新しい視 野を聞いたことは疑いない。 しかし、同時に西洋の精神史上でみると、 進化論というものが当時の人々に非常に大 きな衝撃を与えたという事実に注目しなければならない。進化論は西洋におけるこ千年来の精神的伝統、特にその 伝統を貫く人間観を根抵から動揺せしめる結果になった。 一 般 に は 、 たとえば学校などで進化論を教える場合には、 その科学史上の大きな進歩であったことは説かれるわけだが、 それが同時に精神史上の衝撃的な出来事であったと い う こ と に は あ ま り 触 れ ら れ て い な い 。 と ︵ ﹃ 大 法 輪 ﹄ 昭 和 三 十 七 年 八 月 号 ﹀ そのような点から、社会的ダーウィニズムに対する清沢満之の精神主義の批判を探ってみようと思う。 清 沢 満 之 の 精 神 主 義 七清 沢 満 之 の 精 神 主 義 八 西洋において精神史上に一大衝撃をあたえたダlウィンの進化論は、日本では明治十年︵一八七七︶にモlスによっ て連続三国の講演が行われるのがはじめである。 モ I スという人は、清沢満之が東京大学で学生時代に私淑したフェ ノ ロ l サ を 紹 介 し た 人 で あ る 。 そして、当時日本に於いてのダ l ウィンの進化論は博物学、分類学、生態学、実験生 物学、古生物学、地質学等の諸分野にわたる学問的蓄積、 体系的知識がないため生物学上の議論として受けとめられ る と い う よ り は 、 ハ l バ l ト・スベンサ l ︵ 一 八 二
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一 九O
一二﹀によって代表される社会的ダーウィニズム、科学に 裏づけられた新しい世界解釈、 そ れ も ﹁ 生 存 競 争 と 自 然 淘 汰 ﹂ 、 ② ろの社会的思想として受けとめられていく傾向が強かった。 ﹁優勝劣敗、適者生存﹂という単純な公式によるとこ そういう社会的、思想的影響の最も強力な主張者が清沢満之の学んだ東京大学の総長加藤弘之氏である。この加藤 弘之は清沢満之が﹃精神界﹄に﹁倫理以よの安慰﹂と題する一文を公にしたとき、 自ら浩々洞の門を敵いてその真意 を開きたいと書面を出しているが、満之は病躯疲労のために会うことができず、 弟子の暁烏敏が会いにいっている。 ま た ﹁清沢渦之全集﹄には満之と加藤との﹁哲学雑誌﹄による論議があり、清沢満之の多くの書き語った文のなか には、社会的ダーウィニズムに対する一貫した批判が流れている。 加 藤 に は 初 期 の 著 作 と し て ﹁ 立 憲 政 体 略 ﹄ 、 ﹃ 真 政 大 意 ﹄ 、 ﹃国体新論﹄という三部作、天賦人権論にたった立憲政 体思想の書物がある。その書物を絶版し、 社会的ダーウィニズムにたった思想的転換を﹃自然と倫理﹂の序に、 ﹁ 余 は 四O
歳の頃、即ち、明治八、九年頃迄は専ら二元主義を信じて、 物質上には自然力が働き、精神上には超自然力が 働くものであるというようなる迷怨的宇宙観を有して居た。 の み な ら ず 、 五日々人間と他動物とを全く別種祝して、吾々人間には他動物と違い、天賦人権なるものが存し、又、天命的倫理が具わって居るものと認めて居たのである。然 る に 四
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歳 に 至 り 、 偶々バックル氏︵ H ,F
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回 g n w − 叩 ︶ の ﹃英国に於ける開化史﹄︵出E
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ロ円。を読みて始めて其の非を悟るの端緒を得ることとなった。﹂ と 一 諮 っ て い る 。 そ し て 、 進化論にたった﹃新 人権説﹄では﹁進化主義ヲ以テ天賦人権主義ヲ駁撃スル﹂と次のようにいう。 体質心性ノ遺伝及ヒ変化一一於テ優劣ノ異同ヲ生スルハ特−一動植物ニ限ルニプラス。動物ノ上位ニ居ル所ノ吾人々 類ニ在リテモ亦同シ。︵中略︶吾人々類体質心性−一於テ各優劣ノ等差アルコト果シテ疑フヘカラストスレハ、其間ニ 生存競争ノ生スルハ決シテ巳ムヘカラサルコトト云フヘク、 而テ此競争一一於テ優者カ常ニ捷ヲ獲テ劣者ヲ圧倒スル コト、即自然淘汰ノ作用生スルハ是レ亦決シテ免カレサル所ニシテ、是レ即所謂優勝劣敗ナリ。是一一由テ之ヲ観レ ハ万物法ノ一大定規タル優勝劣敗ノ作用ハ特ニ動植物世界−一存スルノミナラス、 吾 人 々 類 世 界 一 一 モ 亦 必 然 生 ス ル モ ノナルヲ了知スヘシ。優勝劣敗ノ作用必然吾人々類世界ニ生スルノ理己ニ疑ヲ容ル可カラストスレハ、彼ノ吾人々 類カ人々個々生レナカラニシテ自由自治平等均一ノ権利ヲ固有セリト為セル天賦人権主義ノ如キハ、 敢テ信スヘカ ラサル妄説タルコト既−一甚タ明瞭ナルニプラスヤ、実理ト矛盾スルモノハ即妄想ト称セザルヲ得ズ、妄想ト実理ト ハ決シテ両立共存スル能ハザルモノナリ。 ︵ ﹃ 明 治 啓 蒙 思 想 集 ・ 明 治 文 学 全 集 ﹂ 一 七 八 頁 ︶ ここでは ﹁ 実 理 ﹂ H ﹁ 進 化 論 ﹂ に 依 拠 し て ﹁ 妄 想 ﹂ H ﹁ 天 賦 人 権 説 ﹂ を 批 判 し て い る 。 その﹁実理﹂とは、生存競 争、優勝劣敗の法別である。動植物の進化とは、動植物の世界に必然的に起こる生存競争に於いて勝を占める優者が 常に劣者を圧倒する。そのように我々の宇宙、万物法を支配しているのは優勝劣敗の大規定であり、 それこそ永世不 易の自然規律であるというのである。 そ し て 、 ﹁此一個ノ大規定ヲ称シテ優勝劣敗ノ定規ト云ハント欲ス、蓋シ宇宙 ハ 宛 カ モ 一 大 修 羅 場 ナ リ 、 万物各自己ノ生存ヲ保チ自己ノ長育ヲ遂ゲンガ為メニ常ニ此一大修羅場ニ競争シテ互ニ勝 清 沢 満 之 の 精 神 主 義 九清 沢 満 之 の 精 神 主 義 四 0 敗 ヲ 決 セ ン コ ト ヲ 是 レ 勉 ム ル ナ リ 。 ﹂ ︵ 同 上 一 七 七 J 一七八頁︶と、その万物法を支配する規定をそれぞれの有機体の利 己 的 根 本 動 向 に み 、 さらに、細胞
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組 織 ︵ 器 官 ︶ 1 個体という生物界の構成を個人社会国家という社会構造に依 め、個体維持︵国家の安全︶のための細胞︵個人︶の滅私奉公を説くところに加藤の主張はある。 そのような社会的ダーウィニズムの社会的、思想的風潮のなかで、清沢満之は﹁文明開化﹂という次のような一文 を 草 し て い る 。 社会は万物全体と共に次第に進化して、善美に趣くと云ふは、進化論者の唱導する所にして、 殆んど学者の輿論 たるが如し。然るに仏教は、此の世間を以て迷界染土となすのみならず、更に五潟増進の一説ありて、進化論と全 く相背馳するが如し。染浄不離と説き、真俗壁要と説かんか、或は一難を脱するを得ベし。然れども、 五濁増進は 抑々如何にすべきや。或は世間出世の両門を説き五濁は即ち出世門の上に於いて、 心識の雑染を増すを指摘するも のにして、猶ほ進化論者の、事物の進化は複雑性の増進するにありと云ふが如しと云はん敗。義に浄染不離を説き たるを如何せん。又五渇を細説せ施せば、其の説明全く現実の世間説たるが如きを如何せん、要するに是等の諸点 t土 一 問 題 を 掲 示 す る の 必 要 あ る も の な り 。 ︵ ﹃ 清 沢 満 之 全 集 ﹄ 第 三 巻 四 五 六 頁 ﹀ この一文をみるとき、現代のように﹁人聞にとって科学とは何か﹂という科学に対する暗い影、不審はない。 西 洋 の近代科学に対して目を見張るような驚きがあり、文明がだんだんと世の中を明るく豊かにしていく、 ﹁ 善 美 に 趣 く﹂という情況のなかにあったといえる。そのような中で、仏教では末法においては五濁増進という、 そのことは進 化論と相背馳しはしないのか。また仏教においては出世間、世間の両門を説くというがそのことは如何なることなの か と い う 設 問 で あ る 。 さらに、進化論と末法の問題に就いて﹁仏教と進化論﹂と題して、 抑々進化論なるものは、万有の成立を時世の遷流に就いて研究し、往と今と来との三世において、万有は次第に多 様 に 流 れ 、 次第に判然たる限画を生じ 次第に密若なる関係を享有するに至るものなることを認なる論なり。 ︵中略︶即ち換言せば、人世は蒙昧野蛮より進んで半開未文の域に入り、半開未文より進んで文明開化の境に至り、 更に文明開化より進んで黄金世界に達す可しとするなり。︵中略︶仏教の所説は、此の論と少しく違一一泊する所あるに あらずや。三千年前の釈迦仏在世の時を以て根智最勝の代とし、其より像法末法次第に根智の退却ありといふに比 すれば、其の進化論に対する関係如何。是れ本篇の柳か論究せんとする所なり。 と問い、結論的に次のように述べている。 蓋し今の世は物質文明の進化盛んなる時なり。物質的進化は単純を卑しみ複雑を尊ぶ。故に近世の進化論者は、 単純を去りて複雑に就くをよしとす。而も是れ精神的進化と相反す。精神的の進化は、複雑を統合して単純に帰し、 万差を離解して一実に納むるを要とす。是れ修道の本義なり、近位の人智は之に反して分析の道に敏なり。分析益 々進みて、人智愈精、市して各学者の領解する所、 日 々 益 々 位 、 年益々狭、夫れ終に一一種微を弄して、尚ほ一生其 の一分を伺い尽す能はざるに足らんか。︵中略﹀而して宗教や道徳や実際信修の正路は安心立命より起る。安心立命 の門戸は信仰の台石に立つ。而して信仰の確定は、懐疑の消散を要す。懐疑の消散は、総合的宇宙観の大成を待つ。 釈迦牟尼仏陀は自ら一大総合宇宙観を覚して一切有情に揚一不せり。 吾菅一政迷、根智陸だ劣なりと睡も、希くは仏陀 の真音を領して一段と大信仰を発せざる可けんや。 ︵ ﹃ 清 沢 満 之 全 集 ﹄ 第 四 巻 一
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一 J 一 一 ム ハ 頁 ︶ かく、清沢満之は文明の物質的進化に対して、仏道とは何かを問い、 仏道の問題を精神的進化として対峠させてい る 。 一 体 、 そ れ な ら ば 満 之 の い う 、 いわゆる精神的進化とはいかなることをいうのであろうか。 清 沢 満 之 の 精 神 主 義 四清 沢 満 之 の 精 神 主 義 四 そのことに就いては 明治二十六年︵一八九一二︶にシカゴに於いて宗教会議が開かれた際に発表した﹁宗教哲学骸 甘 ﹂ に そ の 骨 子 が 一 不 さ れ て い る 。 ﹃ 宗 教 哲 学 骸 骨 ﹄ の 構 成 は 第一章宗教と学問、第二章有限無限、第三章霊魂論、 第四章転化論、第五章善悪論、第六章安心修徳となっている。 そ の ﹁ 霊 魂 論 ﹂ の と こ ろ で 、 宗教の要は、無限力の活動によりて、有限が進みて無限に化するにあり。 之 を 有 限 の 方 よ り 一 一 員 へ ば 、 有 限 が 開 発 して無限に進達するにあるなり。而して有限は万種千類なりと雄も、 吾人の実際に於いては各自の霊魂、或は心識 が開発進化して、無限に到達するが、宗教の要旨なり。 ︵ ﹃ 清 沢 満 之 全 集 ﹄ 第 二 巻 二 一 頁 ︶ とはじまり、さらに、霊魂に就いて霊魂有形説、霊魂無形説、霊魂自覚説を以て展開している。 ア 晶 マ は﹁自覚作用の本体﹂のことである。ともすると、近世の世界観の地平に於いて霊魂が問題にされるとき、 ここで霊魂というの もはやそ こに於ける自然は生物態的世界観ではなく、デカルトの﹁心身二元論﹂、 主観と客観、精神と物体という二元論にて、 物体界は﹁延長性﹂としての霊魂ぬきの機械的自然、機械的な体系として捉えられていくのである。 そのように近世 の世界観の地平には、人間至上主義にたった自然観、 として、世界は量の関係にのみ把握されていく位俗化の問題がある。 つまり因果的法則に必然的に服する機械的な体系︵脱霊魂化︶ 加 一 勝 弘 之 の ﹁ 実 理 ﹂ リ ﹁ 進 化 論 ﹂ は ま さ に こ の 立場といえる。その霊魂に就いて、清沢満之は﹁宗教研究﹂に次のような一文を記している。 号 証
魂
仏教に於ては四種の我を立つ。真我、自在我、仮我、執我、是なり。 市して此の中真我は真如を以て性とし、自在我は智を以て性とし、仮我は五藩和合の身体に主宰あるに似たるを性とし、 執我は分別倶生の執若を性と云ふ。 然り市して此の四者中、第一者は真如を性とすれば、木より真実のものにして排すべきにあらず。第二者も亦た真 智を以て性とすれば、是れ大いに求むべきものなり。第三者は其の能く仮立のものたる事を忘れざるに於いては、 一宅も斥すべきにあらざるなり。唯だ第四の執我は、妄執を以て性とするものなるが故に、罪業の国となるものなり。 故に真正の道を行ぜんと欲せば、此の我執を断除せざる可からず。是れ無我説の存する所以なり。︵中略︶仏教に於 て無我を説くも竜も世間に達するにあらず。又我無我を併説するも、一宅も自家撞着にあらざるなり。否な仏教は無 我よりも、却って有我を以て真正の趣意とし 其 の 無 我 を 説 く は 、 進 ん で 古 川 一 ︵ 我 に 入 ら し め ん と す る も の L 如し。何 となれば、浬喋経には我者如来蔵義、 一切衆生悉有仏性、是即我義と云ひ、或は一切衆生従レ本以来、具一一此性﹁煩 悩 所 レ 覆 、 不 レ 能 レ 得 レ 見 、 等 と 云 ふ あ れ ば な り 。 ︵ ﹃ 清 沢 満 之 全 集 ﹂ 第 一 一 巻 三 四 七
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三 四 八 頁 ︶ そこには、生物態的世界観でも、機械的自然観でもない、 の故に執我︵悪差別︶に執われて生きる質の関係、 ︿真如﹀を性とする真我︵一切衆生悉有仏性︶と︿無明﹀ つまり仏陀の悟りの境界︵出世間︶と衆生の迷いの境界︵世間︶ の両極の関係を開示する人間の精神界の根本問題こそ、 清沢満之のいう霊魂論にほかならない。 そ し て 、 その霊魂 ︵ 精 神 ︶ の 自 覚 作 用 に 就 い て 、 ﹁ 転 化 論 ﹂ で は 、 回より何れを進化とし、何れを退化とするも可なりと躍も、 宗教上に於て、有限の無限に到るを進むといひ、其 の反対を退くといふ便宜によるのみ。 ︵ 進 化i
有限より無限に向ふ 転化 ι ︷ 退 化 | 無 限 よ り 有 限 に 向 ふ ︵ ﹃ 清 沢 満 之 全 集 ﹄ 第 二 巻 一 八1
一 九 頁 ︶ と示している。ここでいわれる無限︵絶対︶と有限︵相対︶の関係は、 清 沢 満 之 の 精 神 主 義 四清 沢 満 之 の 精 神 主 義 四 四 蓋 し へ l ゲル民は絶対一元よりして、相対多元を開展せしめんとするものなり。 然れども吾人は先に、既に絶対 界と相対界との間には、因果の関係を適用すべからざることを論定したり。 吾人の因果界は固より彼我自他差別の 相対界なるなり。故に其の転化の原則も亦た此の如くならざるべからざるなり。 一元が二元に白展し得ること︵或 は一一克が其のみにて他元に転化し得ること︶は吾人の思議し得ざる所なり。 ︵故に絶対の開展に於いても、吾人は 貫 一 ︵ 如 に 対 し て 無 明 を 立 て 、 無 明 の 妄 風 に よ り て 真 如 海 面 に 波 澗 を 生 ず と 説 く な り 。 ︶ 無 明 ︵ 縁 ︶ +
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万 法 ︵ 果 ︶ 真 如 ︵ 因 ︶ ︵ ﹁ 清 沢 満 之 全 集 ﹄ 第 三 半 径 三 七O
頁 ︶ と い わ れ て い る よ う に 、 真 如 ︵ 因 ︶ 、 無 明 ︵ 縁 ︶ 、 万法定さという図式は、後に万物一体の真理︿真如﹀、 阿弥陀仏 の平等無碍の正念にめざめない、八無明﹀ を 縁 と し た 万 物 別 体 、 自他差別の妄見に生きる人間の問題が︿迷・悟﹀の 有限より無限に向う進化を還滅門 範鴎に於いて捉えられている。 無限︵絶対︶と有限︵相対︶の関係は、 ︵悟りの因果︶、無限より有限に向う退化を流転門︵迷いの因果︶として展開してくる。 そ れ 故 、 ﹂こに清沢満之のいう精神の 進化、退化はたんなる物質に対する精神という位相ではなく、 どこまでも︿迷・悟﹀の範鴎にて見掘えられている点 に注意されなければならない。 さらに、そのことは﹁宗教研究﹂のなかで次のように設問してくる。 仏教に於て、十界の上に迷悟を論じ、転迷開悟を以て教法の要回目とす。 抑ミ転迷閲悟は、是れ理論上より高妙適実の説にして近世の進化説の如きは其の一端を得たるものに過、ぎず。同 より近世の進化説は、其の所包広漠にして、或は宇宙万物の全体に就いて進化を説き、 或は太陽系統の上に於て進 化を説き、或は地球の形成に就いて進化を説き、或は生物界に就いて進化を説き、 或は動物界に就いて、杭物界に就き、或は人類の生存に就き、或は社会の文野に就き、 吏に又社会上、歴史上の現象に就き、 一物一生の発達に就 き、進化論の条緒は実に繁多なるを見る。然り而して、此等繁多の条緒は、各個別離せるなるやと云ふに、其の然 らざる事明瞭なり。故に繁多の条緒を検定し来れば、或は主条あり、或は従条あり、本緒あり、末緒あるを見る可 し。市して其の根本基源の線路は一原体上の進化なり。 一原体上の進化にして実存ぜば、彼の各般の進化線路は必 然なる論理的結果たる事明らかなり。然り而して仏教の転迷開悟説は、 此の根本進化に就いて、疾に己に精解を施 せるものなり。抑々一体の進化を説明せんとせば、唯だ其の一状態、 一顕現上のみに止らず、其の一体が数多の状 態、数多の顕現を経過して、変改転化する模様を解釈し、如何なる状態如何なる顕現中に出没するやを明示せざ る 可 ら ず 。 仏 教 に 於 い て は 、 一原体の十界に出没するを説き、 其の最上境界を仏陀界と云ひ、其の最下境界を地獄 と云ふなり。而して其の出没の行路に於いては、管に進化あるのみならず、 此 の 心、亦 進、た 化、退 し、化 て、あ 悟、る れ、事 ば、を 唱 則、へ ち、
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此 と、の な、両 り、化 の 此、方 軌を因縁因果の理法に取る。謂ふ所の一原体、之を説きて心と名づけ、 の心退化して迷えば、則ち衆生となると云ふ。 ︵ ﹃ 清 沢 満 之 全 集 ﹄ 第 三 巻 四 一01
四 一 一 頁 ︶ ここで、当時の社会的ダーウィニズムの進化説に対して、 仏道とはどこまでも八迷・悟﹀のカテゴリーにおける精 神 の 位 相 、 つまり、そこにおける精神の進化、退化の問題であることをよく指摘している。四
そこにたって、仏教の本旨を﹃有限無限録﹂では 仏教に於て我法二執を破訴する所以は、 吾人が彼我同体の絶対無限たることを覚らず︵之を不覚妄念と云ふ︶し て生ずる悪差別的有限の我を執して永く他人と隔別し、外物と隔別するの妄想を断、せしむるにあり。 ︵ ﹃ 清 沢 満 之 全 清 沢 満 之 の 精 神 主 義 四 五清 沢 満 之 の 精 神 主 義 四 六 集 ﹄ 第 七 巻 五 七 頁 ︶ と、万物一体、彼我同体の無我の原理
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破 析 の 精 神 に て 、 仏道の無我主義の積極性を公共主義にありと強調し、 そ こ から当時の社会的ダーウィニズムの思想に対して、 次のように批判をなしている。 強者伏レ弱迭相呑臨は主我主義の結果なり。 生存競争優勝劣敗は主我主義の結果なり。 今の世の論者往々此主義を趣帰とす。 浩 歎 に 堪 え ざ る な り 。 仏教の根基は最大の公共主義を趣帰とし其の理論的説明を確立するにあり。是れ無我論の説ある所以なり。主我主 義は執我を根本とす。執我は則ち有限者独立自在の観想なり。是れ先に所謂迷倒なり。迷倒を翻すは有限者独立自 在の不成立を説破するにあり。乃ち執我の妄見を破滅するにあり。 破我確立せば主我主義自ら壊れて公共主義自ら 成立す。仏教の要義公共主義の大慈悲を宣揚するにあり。 弱肉強食|主我主義|執我見!迷倒 主主 ?巷亡
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愛 謙 公 譲 共 主 義 無 我 観 知 見 ︵ ﹃ 清 沢 満 之 全 集 ﹄ 第 七 巻 七 二 一 貝 ︶ こ こ で は ハ ザ キ リ と 真 如 、 無 我 、 万 物 一 体 、 阿弥陀仏の平等無碍の正念に立脚した仏道の精神の顕現においての 批 判 が 一 亦 さ れ て い る 。 つまり、超越なる働きに向き合った自己における自己の体位、 ﹁ 破 析 ﹂ の 精 神 | | 、 ﹁ 無 明 の 暗鬼﹂に対する根源的照明をくぐった大慈悲の宣揚、公共主義こそ仏道の行証であることをいう。そ の 意 味 で は 、 こ こ に お け る ﹁ 大 慈 悲 を 宣 揚 す る ﹂ ︵ 公 共 主 義 ︶ ! 、 清沢満之の精神主義のグルンドとなるものは 先 に 述 べ た よ う に 、 たんなる物質に対する精神というこ元主義の位置ではない。 それはどこまでも垂直線上の︿迷 悟﹀のカテゴリーであると同時に、 その垂直線が水平線上に切り結ぶ、 ︿個・類﹀のカテゴリーとしての公共主義を 発揚する精神の位相にて捉えられている。 ま た 、 そこに当時の社会思想に対する満之の鋭い批判もでてくる。まだ、 一 、 二 の 問 題 点 は 残 さ れ る が 、 守 的 閣 扇 記 ﹄ で は 以 上 問 題 に し て き た 点 が 次 の よ う に 筆 致 さ れ て い る 。 真如の城を後にして無明の暗鬼に迷はされ、昏々醸々として瞭劫以来の流転の結果、 五に人界の生活を得たると 共に、霊妙なる観想思索の智力を獲得し、宇宙の壮観に其の疑歎を発し、沈思冥想、 反りて万化の本源を索め、漸 く以て其の旧里に還らんと欲するの念を起すに至れり。鳴呼、瞬劫の流転も悲に初めて還誠の緒に就かんとするか。 果して然らば、万有の進化は人聞に至りて一段の極を結び、形体的の進化は此より転じて精神的の進化に入らんと す る か 。 噴劫の流転その歳月決して短少にあらざりき。還滅の進路宣また容易なるを得んや。 然も路程の遠近、歳月の多 少は吾人の費議するを必とせざる所、要する所は此の還滅の大事を成就せしむべき素因は其れ何物なるや、其の進 化は如何に成就すべきゃにあり。 鳴呼、吾人果して霊智を具へ、妙用を備ふるものなりや如何。果して還滅の素因を懐有するものなりや如何。 人生の目的は何物なりや、吾人の心性は何物なりや。 吾人は流転を弁識し得たるや、吾人は還滅を認識し得たるや。吾人は蕗に人生に在り、 行立して反観顧望すべき に あ ら ず や 。 吾人が周囲にある万象は、吾人を駆りて内省の事に従はしむるにあらずや。思難や、苦労や、悲哀や、沸衰や、 清 沢 満 之 の 精 神 主 義 四 七
清沢満之の精神主義 皆 な 以 て 吾 人 の 心 一 一 に 求 む る 所 あ る も の な ら ず や 。 吾人の欲望は吾人を駆りて、宇宙の源底を探らしずや。 吾人は絶対無限を追求せずして満足し得るものなるや。 註 ①村上陽一郎著﹃近代科学と聖俗革命﹂参照 四 八 ︵ ﹃ 清 沢 満 之 全 集 ﹄ 第 七 巻 三 七 三 J 三 七 四 頁 ︶ ③ 渡 辺 正 雄 著 ﹃ 日 本 人 と 近 代 科 学 ﹂ 、 近代科学の歩み﹂参照 村上陽一郎著﹃日本