ム ノ 、
﹃
唯
信
紗
文
意
﹄
の書誌学的研究
||流布本の特異性について
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悌 光 寺 派 門 − T E a −徹
真
問
題
の
所
在
﹃唯信紗文意﹄の現存する諸本を校合してみると、本誓寺本、光徳寺本、十一日本、二十七日本、流布本といった 五本の聞では、かなりの部分で加筆されたり、語文が改定されていることが知られる。これら加筆改定しなければな らなかった宗祖の意趣は一体いかなるものであったのかを考察せんとするものである。 一般的には﹃唯信紗文意﹄といえば、宗祖真蹟本である二十七日本を底本として研究または出版が進められている 場合が多い。しかるにこれより約半年程後に書かれた流布本こそが最も宗祖の本意にかなうものであったと考える。 ここではその論拠となる点をいくつか示してみたい。﹃
唯
信
紗
文
意
﹄
の諸本について A 本 誓 寺 本 盛岡の本誓寺に伝わる一本で、その奥書に 建 長 二 歳 康 成 十 月 十 六 日 愚禿親鷺書之 とあって、宗祖七十八歳の時に﹃唯信紗文意﹂が書かれたという原拠とされている。奥書に続いて﹁藤原︵花押︶﹂ とあり本文と同筆とされる。この寺の開基である是信房は聖人の直弟であり、しかも藤原氏である所からこの人の書 写 本 で は な い か と も い わ れ る 。 この一本は大谷派宗史編修所編の﹁諸本校異唯信紗文意﹄において﹁真宗仮名聖教本﹂を底本として校合された中 に一本として加えられていて、ここに示されている校異の結果を参考とさせていただいた。 B 光 徳 寺 本 河内光徳寺に伝わる室町時代末期の古写本で、その奥書には 愚禿親鷺八十四歳書寓之 建 長 八 歳 丙 辰 三 月 廿 四 日 とあり、現存の諸本の中では本誓寺本に次いで古く書かれたものである。五十六葉からなり、半葉五行の各行十五字 内外で書写されている。その仮名遣いは宗祖のものと異っている点も多いが、﹁すなわち﹂とか﹁きわなし﹂﹁この和 尚おぱ﹂などと宗祖独特のものをそのまま残し伝えている所もある。真蹟二本に先立って書かれたものとしては本誓 寺本と共にその当初の姿を伝えるものである。﹃定本親鷲聖人全集﹄の和文篇には真蹟本に別して収載されており、 ﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹄ の 書 誌 学 的 研 究 一 ム ハ 一﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹂ の 書 誌 学 的 研 究 二 ハ 凹 ﹂れによって他本と校合している。 C 十 日 本 高田専修寺に伝わる真蹟本として重要文化財の指定を、つけているもので、その奥書には 康元二歳正月十一日 とのみあって﹁愚禿親鷲八十五歳書潟之﹂とあるべき所は欠いている。本文は五十二葉から成り、半葉五行、 四字から十八字内外で書かれている。表紙左下に﹁釈額智﹂の袖書があるものの所持者は不明とされている。ちなみ に﹃一念多念文意﹂にも同じ袖書をもっ顕智書写本が現存している。 一 行 十 ﹃親鷲聖人真蹟集成﹂第八巻に写真版として所載されており、これをもとに他本と校合している。 D 二 十 七 日 本 先の十一日本からわずか半月程遅れて書かれた真蹟本として高田専修寺に伝わり、同じく重要文化財の指定を・つけ ている。旧表紙二葉と本文五十七葉からなり、半葉五行で一行十五字内外で書かれている。表紙左下に﹁釈信讃﹂の 袖書があり、同じ袖書のある宗祖真蹟の﹃唯信紗﹄と同じす法の料紙であることから、二冊一組として真悌の子の信 讃に与えられたものとされ、後に覚然の手に渡っている。その奥書には 康元二歳正月廿七日 とあり、先の十一日本と校合することにより本文改定のあとをうかがうことが出来る。 この二十七日本を底本として出版されたものは多くあって、﹃大正新情大蔵経﹄第八十三巻、﹁定本親鷺聖人全集﹂ 和文篇、﹃真宗聖教全書﹄二などの他、本願寺出版の﹃浄土真宗聖典﹄があり、これらの諸本に示されている光徳寺 愚禿親鷲八十五歳書寓之
本、十一日本、流布本等の校異を参考とさせていただいた。
E
流 布 本 流布本と称される写本は数多く現存しているが、それら諸本の奥書には共通して 正 嘉 元 歳 丁 巳 八 月 十 九 日 愚禿親鷲八十五歳書之 とあって、先の真蹟二本から半年程後に、宗祖が新たな﹃唯信紗文意﹂を書かれて門弟に与えられたが、あるいはそ の書写を許されたことが知られる。残念なことにその自筆本は現存しておらず、後の写本によってしかその本文を知 ることは出来ない。ここでは数多くの諸写本の中から代表的な七本に見られる異同について検討を加えることとした。 − 教 覚 寺 本 静岡教覚寺に蔵されるもので、寺伝によれば門弟の光信に与えられたものとする。鎌倉時代末期の写本ではあるが、 全体四十三葉の内の初の十一葉は室町時代末期の補写にかかるもので、後の三十二葉は古写である。これら鎌倉時代 書写の部分にもいくらかの欠落があるとはいえ、宗祖の仮名遣いなどは比較的忠実に書写されていて、半葉六行、 行十八字内外で書かれている。 2 真宗法要本 明治十一年に本願寺派の聖教本として出版されたもので、﹃真宗聖教全書﹄二においてもこれを底本とする本文が 収められており、そこには他の流布本との校異が示されている。流布本の中でも代表的な一本といってよい。 3 悌光寺本 明治四十四年に悌光寺から出版された﹃真宗和語宝典﹂天に収められたもので、宗祖の仮名遣いをそのままに伝え る所もあって、流布本の中の一本として加えることとした。 ﹃ 唯 信 診 文 意 ﹂ の 書 誌 学 的 研 究 一 ム ハ 五﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹂ の 書 誌 学 的 研 究 一 ・ 六 ム ハ 妙安寺本 前橋の妙安寺に伝わる流布本の中でも代表的な一本とされているもので、その奥書には 4 愚禿親鷺八十五歳書之 同 二 歳 季 夏 十 五 日 以 ニ 師 真 筆 本 − 釈 成 然 書 寓 之 とあって、門弟の成然︵妙安寺開基︶が宗祖真筆本を書写したものと伝える。﹁大正新情大蔵経﹄第八十三巻には二 十七日本に加えてこの一本が収められている他、﹃真宗聖教全書﹄にも校異の一本として加えられている。 正 嘉 元 歳 丁 巳 八 月 十 九 日 5 宅掻寺本 暦応四年︵一三四一︶に乗専が顕性の求めによって書写されたものとして宅措寺に蔵されている。その奥書には流 布本に共通するものの後に と 書 き 添 暦 ぇ 応 ら 四 れ 歳 て
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~暴 書 篤 校 ム口 詑 願主釈顕性 一 行 十 五 字 内 外 で 書 写 さ れ て い る 。 6 龍谷大学本 室町時代末期の写本として龍谷大学の所蔵になるもので、全体五十七葉と白紙一葉、半葉五行、 一 行 十 七 字 内 外 で 書かれている。ただしその巻末は﹁ふかきことはこれにでもをしはからせたまふべし﹂で終っていて、以下は欠文と な っ て い る 。 7 真宗仮名聖教本 大谷派の聖教本として承応二年︵一六五三︶秋田屋刊行本を底本として明治時代に刊行されたもので、大谷派宗史 編修所から出された﹃諸本校異唯信紗文意﹄にはこれを底本として、他に本誓寺本、二十七日本、真宗法要本などと の校異の結果が示されており、参考としている。A . 本 誓 寺 本 、
B
. 光 徳 寺 本 、c
. 二 十 一 日 本 、D
. 二 十 七 日 本 、E
.流布本︵真宗法要本︶の五本を校合してみ ると、仮名遣いや新旧漢字の書体の違い、仮名あるいは漢字という表記上の違いについては今は同一のものとして考A
B
C
D
E
五本間の異同類型をまとめてみると、次の如くである。 ぇ、明らかに語文が異っている場合だけに限ってみると、およそ三三三例にわたって異同を認めることが出来た。 n t n U F U O O F U。
0 0 0 0 0 η’
a υ F U A 仏3 9 d q d q d q d 9 d q d 9 d。
oooaaτ 胃i’
i ABCD+E ABC D→E ABCD-E A B→C D→E AB+CDE A B→C DE ABC+DE AC D→B→E ACD E→B AB E→C D ABCE+D ABE+CD AB C→D E AC D→B E ABDE+C ACDE-B ABCE-D AB-CDE ABC DE (以下略)ABCD
四本が同一でE
本のみが異なっ て い る 例 が 圧 倒 的 に 多 く 、E
本にのみ新た な語文が加筆されているものが訂倒、別の 語文に改められているものが前例、語文が 削られているものが伍例あって、合わせて 五本間に見られる異同の三分の二近くはABCD
四本が同じで流布本のみが異なっている例である。次いでAB
二m
例 に 及 ぶ 。 されているものが日例などとなっている。 本からC
D
二本で改められ更にE
本で改められているものが四例、AB
二本が同じでCDE
三本に新たに語文が加筆 このことから流布本が新たに書かれるに際して大幅に語文の加筆改定がなされていることになる。 次にこれら五本間に異同が認められた却例についてそれぞれ二本聞の一致例を求めてみると上の如くになる。 ’i n U A U O E n U R υ q d p o o o ’i n U F 0 4 u τ q d a q q L q υ n v a a τ F 0 2 υ n d n J u n L n J u n L このことからわかるのは、五本聞においてAB
二本の合致する場合が最も多 く、次いでCD
の真蹟二本がよく合致していることである。A
本を受けてB
本 A=B A=C A=D A=E B=C B=D B=E C=D C=E D=E が書かれるに際してお例にわたって書き改められ、B
本からC
本書写に際して ﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹂ の 書 誌 学 的 研 究 は 回 例 、C
本からわずか半月程後に書かれたD
本書写に際しては訂倒、このD
一 六 七﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹄ の 書 誌 学 的 研 究 本から更に半年程後に書かれた
E
の流布本においてはm
例の本文改定のあとが見られる。 一 六 人 宗祖は七十八歳の時に﹃唯信紗文意﹂を書かれたとされており、これを受けて現存の諸本を見る限りにおいては少 くも四度にわたって本文の改定が行われていて、その本を門弟に与えるなり、あるいは書写を許されていることにな る。ここにみる語文改定のあとはそれなりの意図があってのことと思われ、AB
二 本 を 草 稿 本 、CD
二本を改定本と 見 る 時 、E
の流布本は決定稿本ともいうべきもので、大幅に加筆改定せざるをえなかった理由があったわけで、その 意 図 を 考 ゑ 小 せ ん と す る の が 本 論 の 主 旨である。 教 法 悌 妙 宅 龍 仮 教覚寺本。
75 70 31 45 55 32 真宗法要本 75。
76 15 33 39 18 働光寺本 70 76。
36 44 50 49 妙安寺本 31 15 36。
77 65 86 老婦寺本 45 33 44 77。
83 64 龍谷大学本 55 39 50 65 83。
68 真宗仮名聖教本 32 18 49 86 64 68。
ここで流布本七本聞に見られる異同についても先と同じく表記上の相違につい ては除き、更に一本のみが異って他の六本が一致する場合は書写に際しての誤り と考えて除くとして、二本と五本あるいは三本と四本とが異なっている場合の即 例について各二本聞の一致例を見ると上の如くである。 この表からいえることは流布本七本の中でも古写本とされる教覚寺本と妙安寺 本とは別系統のものとみることが出来る。この教覚寺本には前述の如く欠損部分 があるわけだが、これと最もよく一致する真宗法要本は表記上の相違はあっても その全体を伝えていて、更に悌光寺本が真宗法要本に近いものといえる。これら 三本が流布本の一系統を伝えるものとすれば、他の四本は別系統のものと考えら れ る 。 これら四本については妙安寺本と真宗仮名聖教本が最も多く合致し、次いでは 宅矯寺本と龍大本とが合っているし、更に妙安寺本と宅揚寺本がよく一致している所から成然書写本と乗専書写本は 同じ一本であったとも考えられる。要するに八月十九日という同じ奥書をもっ流布本の諸本の間にも大きく二系統があることから、宗祖が書かれてか らかなり早い時点で別系統のものとして書写が重ねられたものといえよう。 ここで現存の光徳寺本の本文に関して問題点のあることを指摘してみたい。 光徳寺本は本誓寺本とともに﹁唯信紗文意﹄の草稿本とでも言うべきことは、既に述べた通りであるが、流布本に 比し真蹟二本と多く合致する点が見られるとはいえ、一ケ所大きく異なる所がある。﹁五会法事讃﹂において引かれ る慈感の偶文の内﹁但使廻心多念仏、能令瓦喋変成金﹂の二句を注釈する部分においてであるが、その相違を対照し て み た の が 次 の 表 で あ る 。 便 宜 上 、 文 に 番 号 を 付 し て い る 。 ︵A . 本 誓 寺 本 ︶ B . 光 徳 寺 本 ︵ C . 十 一 日 本 ︶ ︵ D . 二 十 七 日 本 ︶ 自力のこころをすっといふは、ゃうやうさまざまの 大小聖人・善悪例︵
CD
例ナシ︶凡夫のみづからが み を よ し と お も ふ こ こ ろ を す て 、 ︵D
. + 局 計 ︶ た の まず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛 の 川 対 ︵CD
. 川 劇 的 ︶ ・ 屠 泊 の が 付 的 ︵CD
. 有 鵜 ︶ 元専光悌の不可思議の棉瞬、慶大智慧の名号を信楽 すれば煩悩を具足しながら元上大浬繋にいたるなり 1 . 具 縛 は よ ろ づ の 煩 悩 に し ば ら れ た る わ れ ら な り 、 煩はみをわづらはす、悩はこころをなやますと"
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ふ ﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹄ の 書 誌 学 的 研 究E
. 流 布 本 ︵ 真 宗 法 要 本 ︶ 自力のこころをすっといふは、ゃうやうさまざまの 大小例聖人・善悪例凡夫のみづからが身をよしとお もふこころをすて、身をたのまず、あしきこころを 討料はりかへりみず、誌が川計討は制U
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扮叫将司 司 抗 的 対 台 廿 功 、 , ひ と す ぢ に 具 縛 の 川 対 ・ 屠 詰 の 吟 錦 、 元専光備の不可思議の蔀瞬、慶大智慧の名号を信楽 すれば煩悩を具足しながら元上大浬繋にいたるなり 1 . 具 縛 討 吋 け め は よ ろ づ の 煩 悩 に し ば ら れ た る わ れ ら な り、煩は身をわづらわす、悩はこころをなやますと Uミ ふ 一 六 九﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹄ の 書 誌 学 的 研 究 屠はよろづのいきたるものをころしほふるもの なり、これはれうしといふものなり 泊はよろづのものをうりかうものなり、これは あき人なり ︵
CD
.+これらを下類といふなり︶ 2 .能令瓦礁変成金といふは能はよくといふ、令は せしむといふ 瓦はかわらといふ、磯はつぶてといふ 変成金は変成はかへは︵CD
.はナシ︶なすと いふ、金はこがねといふ 3 .かわら・つぶてをこがねにかへなさしめむがど としとたとへたまへるなり 4 かゃうのものとも︵AC
かゃうのさまざまのもの D ・れうしあきーんさまざまのもの︶はみないし・か わら・つぶてのごとくなるわれなり 5 .如来の御ちかひをふたごころなく信楽すれば 6.摂取のひかり倒的料におさめU
日 付 お 、 門 的 川 町 て 一 七 O 屠はよろづのいきたるものをころしほふるもの、こ れは猟師といふものなり 泊はよろづのものをうりかふものなり、これはあき 人 な り 、 こ れ ら を 下 類 一 と い ふ な り かはら・つぶてのごとくなるわれらなり 2 .能令瓦様変成金といふは能はよくといふ、令はせし む と い ふ 瓦はかはらといふ、喋はつぶてといふ 変成金は変成はかへなすといふ、金はこがねといふ 5 知来の本願を信ずれば 3 .かはら・つぶてのごとくなるわれらをこがねにかへ 、J 、 , 、 J 室 、 , 、 , 、 , 巳 ヨ , 、 , 一 なさしむとたとへたまへるなり ︵ 4 ︶ あ ざ ぴ ド 品 誌 な −H t
はいし・かはら・つぶてのごとく な る を 6 .如来の婿取のひかりにおさめとりたまふてぜすてた7 かならず大浬繋のさとりをひらかしめたまふは 8.すなわち︵
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し + あ なi
き む3
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と ) なをど
よ は1 く ) こ い し・かわら・つぶて︵ACD
. がねとなさしめむがごとしとたとへたまへるなり 9 .掻取のひかりとまうすは郡朝起側︿︵C
D
.町職隙 慨︶の御こころにおさめとりたまふゆへなりm
.文のこころはおもふほどはまうしあらはし候はねど もあらあらまうすなり 日.ふかきこと材︵D
.紛ナシ︶ばこれにておしはカら せたまふベし ︵ A . こ れ に て お し は か り た ま ふ べ し ︶ お 同 利O
こ れ J ひ と へ に ま こ と の 信 心 ー の ゆ へ な れ ば な り と し る ベ し 9.掻取のひかりとまうすは部窮地械の御こころ例引引 に お さ め と り た ま ふ ゆ へ じ ﹁ 金 剛 の 信 心 と ま う す な り 叩.文のこころはあもふほどはまうしあらはしさふらは ねどもあらあらまうすなり 日.ふかきことはよカらんひとにもとはせたまふべし それに続く文としては現存の光徳寺本においては、 ﹁ 自 力 の こ こ ろ を す っ と い ふ は : : : 元 上 大 浬 繋 に い た る な り 。 ﹂ と あ る 所 は 大 き く 異 な る 所 は 見 ら れ な い の だ が 、 2 ・ 3 とあり、この後に 1 の文が連らなり、この後に 4 の 文 が 続 い て い る 。 と こ ろ が 真 蹟 二 本 に よ れ ば 、 1234 と の 順 序 で あ る 。 つまり光徳寺本にあっては 1 と 2 3 の文の順序が 逆 に な っ て い る 。 何故この様な違いが生じたのかを考えてみると、現存の光徳寺本の祖本ともいうべき真蹟本においては 1234 の 順序で書かれていたものが室町時代の現存の光徳寺本に至る迄に何度か書写を重ねる過程において、 一 葉 に 123 の ﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹄ の 書 誌 学 的 研 究 順で書かれていたものを袋綴じにするに際して表と裏を逆にしてとじられたものをそのままに書写した結果ではない 七﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹂ の 書 誌 学 的 研 究 七 かと思われる。すなわち半葉に一
O
四文字から成る 1 と九十七文字から成る 2 3 の部分が全く表裏逆にしたまま書写 を重ねていることになる。たまたま逆に綴じても前後の文に不自然さがなかったために、そのまま伝えられたのでは な い か 。 ちなみに宗祖の真蹟本をみると半葉五行、七十文字内外で書かれているものが多いのだが、半葉六行で書かれたも のとしては﹃尊号真像銘文﹄広本や﹃西方指南抄﹄などがあり、字数は半葉に九十字から百字内外で書かれている。 光徳寺本の祖本とでもいうべき宗祖の自筆本が半葉五行か六行なのかは知る由もないが、後世の諸写本の中にも現存 一行十五文字から十八字内外で写されていて、たとえ半葉五行の写本の中にも慧 光寺本や永福寺本︵残欠本︶などが百字前後であることからも、現存の光徳寺本の祖本の中にも半葉に百字前後で書 の 教 覚 寺 本 や 常 楽 寺 本 は 半 葉 六 行 、 かれていたものがあったといえるのであろう。 次に流布本の本文はいかがかといえば、先行する四本に比べて大きく文章が改定されていることが知られる。 まず 1 についてはほぼ同文といってよいが、真蹟二本と流布本には﹁これらを下類といふなり﹂の一文が加筆され ている。続く 2 は同文といえるが、その後に 5 3 とあるなどは大幅に改定されているといえよう。その理由としては 本書寺本、光徳寺本、真蹟二本にあっては流布本に比して明確な文章ではなかったからと思われる。ことに 3 と 8 は ほほ同文といってよく、これに 4 を合わせてみると繰り返しが多く、しかも 5 か ら 8 迄の文についても明確とはいい 難い。このことから流布本にあっては大幅な改定が加えられたのではないかと考える。﹁これひとへにまことの信心 のゆへなればなりとしるべし﹂の一文と﹁金剛の信心とまうすなり﹂の一文を加えることにより、 い し 、 か わ ら 、 "".") ぶてのごとくなるわれらが加来の本願を信ずる心一つにてこがねになきしめられることを明示されたといえよう。 更にここで注意すべきことは日の部分である。すなわち真蹟二本においては﹁ふかきことはこれにておしはからせ たまふべし﹂と結ぼれている文が、流布本では﹁ふかきことはよからんひとにもとはせたまふべし﹂と改められており、善鷲などの異義が生じたことから、門弟達にそれぞれ自分で﹁おしはかる﹂のではなく、﹁よからん人に問う﹂ ことを求められたといえよう。この点からも流布本がより一層宗祖の本意を伝えているものといえる。 流布本の特異性について 宗祖が晩年に至って繰り返し強調された思想の一つに如来等同あるいは弥勤等同と称されるものがあるのだが、 ﹁唯信紗文意﹂においても諸仏等同にについて当初の本誓寺本に見ることが出来る。
。
この信心をえでのちに慶喜する人は諸備に︵B
﹁ と ﹂ ︶ ひ と し き 人 と な づ く 。 とあり、真蹟二本においては ︵ 定 親 全 三 、 二 O 六 頁 七 ︶。
この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜する人は諸悌とひとしきひととなづく。 ︵ 真 聖 全 二 、 六 五 O 頁 七 ︶ とあって、これが流布本には。
この信心をうるを慶喜といふ。慶喜するひとは諸備にひとしきひととなづく。 ︵ 真 聖 全 二 、 六 三 三 頁 三 ︶ とあり少しく異っている。この文は信心仏性を示す際の一文であるが、それでは弥勤等同を示す文についてはいかが かと言えば大きな異同が見られる。まず本誓寺本、光徳寺本にあっては、 この信楽をうるときかならず掻取してすでたまはざれば、すなわち正定棄のくらゐにさだまるなり。 ︵ 定 親 全 三 、 一 九 二 真 一 O ︶ とあり、真蹟二本も全同である。これが流布本においては この信心をうれば等正覚にいたりて補慮の禰勤におなじくして元上覚をなるべしといへり。すなはち正定棄のく ら ゐ に さ だ ま る な り 。 ︵ 真 聖 全 二 、 六 二 四 頁 二 一 一 ︶ ﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹂ の 書 誌 学 的 研 究 七﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹄ の 書 誌 学 的 研 究 一 七 四 と改められて、先行の四本にはない弥動等同の思想を明示するのみならず、﹁等正覚﹂﹁元上覚﹂の語が用いられてい る。この点については後述するとして、まず弥勅等同の思想についての研究論文は多くを見るが、その中には知来、 諸仏については﹁ひとし﹂、弥勤については﹁おなじ﹂と使い分けが一応なされているものの、時には﹁弥勅とひと ︵ 1 ︶ し ﹂ と い っ た 例 外 の あ る こ と も 指 摘 さ れ て い る 。 更にこの思想の原拠は﹃教行信証﹄に見えることも既に指摘されているが、具体的に宗祖自身の言葉として示され てくるのはその晩年になってのことといってよい。﹁如来とひとし﹂を示すものとして最も早いものは宗祖七十六歳 一月二十一日の奥書のある﹁浄土和讃﹄初校本には 与諸加来等ととく 歓喜信心無疑者おば とあり、これが八十三歳の再校本では 知来とひとしとときたまふ 大信心は悌性なり 悌性すなはち如来なり ︵ 定 親 全 二 、 五 七 頁 上 ︶ 信心よろこぶそのひとを 大信心は偽性なり働性すなはち如来なり ︵ 定 親 全 二 、 五 七 頁 下 ︶ と改められている。﹁末燈紗﹂をはじめとする消息類には十例を見ることが出来、繰り返し強調されていたといえる。 ﹁諸仏とひとし﹂と示すもので早いものとして宗祖七十八歳の﹃唯信紗文意﹄の例があり、更に八十五歳二月十七 日の奥書のある﹃一念多念文意﹄にも 信心をうるをよろこぶ人おば経には諸悌とひとしきひととときたまへり ︵ 真 聖 全 二 、 六 一 O 頁 六 ︶ と 示 す ほ か 、 消 息 類 に も 四 例 が 見 ら れ る 。 それでは﹁弥勤と同じ﹂と示す文については如何といえば、まず早いものとして八十三歳六月二日の﹃尊号真像銘 文 ﹂ 略 本 に 成等覚といふは正定緊のくらゐなり。︵中略︶これはすなわち禰勤のくらゐとひとしとなり
︵ 真 聖 全 二 、 五 七 五 頁 四 ︶ とあり、広本も同じである。八十三歳入月二十七日の奥書のある﹃愚禿紗﹂にも﹁便同調勤怠舵﹂の言があり、同じ 八十三歳十月三日の奥書のある﹃末燈紗﹄にも この人は正定緊のくらゐにさだまれるなりとしるべし。しかれば粛動悌とひとしき人とのたまへり ︵ 真 聖 金 二 、 六 六 O 頁 八 ︶ と示されている。八十五歳のものになると一層繰り返し強調されており、二月十七日の奥書のある﹃一念多念文意﹄ lま しかれば念併のひとおば大経には次加瀬勤とときたまへり ︵ 真 聖 全 二 、 六 O 七 頁 二 ︶ とあり、少しおいては ちかしといふは禰勤は大浬繋にいりたまふべきひとなり。このゆへに捕勤のごとしとのたまへり ︵ 六 O 七 頁 六 ︶ と 一 不 し 、 続 い て 他力信楽のひとはこのよのうちにて不退のくらゐにのぼりて、かならず大般浬繋のさとりをひらかむこと、蘭珊勤 のごとしとなり ︵ 六 O 七 頁 一 O ︶ と説かれている。更には王日休の﹁念仏衆生使同嫡動﹂の文について述べて 同はおなじきなりといふ。念傍の人は元上浬繋にいたること、捕勅におなじきひととまふすなり ︵ 六 O 八 頁 六 ︶ とある。三月一日の奥書のある﹁正像末法和讃﹄草稿本においては﹁等正覚﹂の語に左訓して しゃうぢゃうじゅのくらゐをいふなり。みろくをとうしゃうがくとまふすなり ︵ 定 親 金 二 、 一 四 三 頁 下 ︶ と示し、三月二日の奥書のある﹁浄土三経往生文類﹂広本には 等正覚とまふすは、すなわち補処の禰勅書薩とおなじくらゐとなると、ときたまへり。しかれば大経には次如禰 ﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹂ の 書 誌 学 的 研 究 一 七 五
﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹂ の 書 誌 学 的 研 究 一 七 六 動とのたまへり ︵ 真 聖 金 二 、 五 五 三 頁 三 ︶ と あ り 、 一 一 一 月 二 十 一 日 の 奥 書 の あ る ﹃ 如 来 二 種 廻 向 文 ﹄ に も 等正覚はすなわち正定衆のくらゐなり。等正覚とまふすは補処の禰勤菩薩とおなじからしめんとちかひたまへる な り ︵ 真 聖 金 二 、 七 一 一 一 一 頁 六 ︶ とほぼ同文がある。八月十九日の奥書のある流布本については前掲の如くであるが、十月十日の奥書のある性信宛の 消 息 に は 信心をえたるひとはかならず正定衆のくらゐに住するがゆへに等正覚の位と申なり。︵中略︶等正覚とまふすく らゐは補処の禰勅とおなじくらゐなり。嫡勤とおなじく、このたび元上覚にいたるべきゅへに蒲勤におなじとと きたまへり。さて大経には次如禰勤とはまふすなり。︵中略︶しかれば嫡勤におなじくらゐなれば正定棄の人は 知来とひとしとも申なり。︵中略︶これは等正覚を菊勤とおなじと申によりて信心の人は如来とひとしとまふす こ こ ろ な り ︵ 真 聖 全 一 つ 六 六 一 頁 六 ︶ とあり、これ以外にも執筆年代不詳とはいえ、随信、浄信、慶西、専信宛の消息においても﹁嫡勤とおなじ﹂﹁菊勤 とひとし﹂と繰り返されている。ここで注目すべきことは、﹁嫡動等同﹂を一不すにあたっては必ずといっていい程 ﹁等正覚﹂﹁元上覚﹂の語が用いられていることである。同じことは流布本においてもいえることは前述の知くであ るが、これに先立つ四本には全くこれらの語が見出しえない。調勤等同の思想については八十三歳六月二日の奥書の ある﹃尊号真像銘文﹄略本にその例を見るが、﹁等正覚﹂とか﹁元上覚﹂の語を用いられたのは八十五歳二月以後の ﹂ と と 一 言 っ て よ い 。 ﹁元上覚﹂の語が初めて宗祖自身の言葉として用いられたのは八十五歳二月九日の日付のある﹃夢告讃﹄であると ぃ 、 え る 。
弥陀の本願信ずべし本願信ずるひとはみな掻取不捨の利益にて元上覚おばさとるなり ︵ 定 親 全 二 、 一 五 二 頁 一 ︶ と 書 き 示 し た 上 で 、 こ の 和 讃 を ゆ め に お ほ せ を か ふ り て う れ し さ に か き つ け ま い ら せ た る な り との言があり、この和讃感得の背景には普鷺の異義によって惹起された門弟関の信心をめぐる混乱、念仏に対する弾 圧事件からくる門弟達の心の動揺を、つけて思いをめぐらすことがあったと思われる。こうした背景から特に強調され たのが禰勤等同の考えであると思われ、﹃夢告讃﹄に﹁元上覚おばさとるなり﹂とあることもこの思想が念頭にあっ ︵ 3 ︶ た に 違 い な い 。 三月一日の奥書のある﹃正像末法和讃﹂草稿本には すなわち定衆にいりぬれば 民賓信心うるゆへに 補処の禰勤におなじくて 元上覚を謹すべし ︵ 定 親 全 二 、 一 四 三 頁 ︶ とある﹁元上覚﹂には左訓が加えられていて、﹁だいはちねはんをまふすなり﹂と記され、初校本や文明本にはこの左訓は ご 、 ‘ 。 φ h v し 浄信にあてた二月二十五日の消息には﹁諸悌等間と云事﹂との標題があるものだが、 員賓信心さだまると申も、金剛の信心のさだまるとまふすも、掻取不捨のゆへにまふすなり。さればこそ無上覚 にいたるべき心のおこるとまふすなり。これを不退の位ともまふし正定緊の位にいたるともまふし等正覚にいた るともまふすなり。このこころのさだまるを十方諸悌のよろこびて諸傍の御こころにひとしとほめたまふなり。 このゆへに、まことの信心の人をば諸悌とひとしとまふすなり。また補処の粥勅とおなじともまふすなり ︵ 真 聖 金 二 、 六 六 六 頁 一 四 ︶ ﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹂ の 書 誌 学 的 研 究 七 七
﹁ 唯 信 紗 文 意 ﹂ の 書 誌 学 的 研 究 七 )¥ とあり、この執筆年代は八十五歳と考えていいのではないか。前掲の八十五歳十月十日の性信宛の消息にも同意文が 見 ら れ る 。 流布本にあっては﹁元上覚﹂の語は四度にわたって用いられているが、前掲の一例のほかの三例を示すと次の如く で あ る 。 ま か
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ム い 三る。 会 し 合 た 一 ゆ す 。 て一 一 る 空 へ み 頁四 元上。。 自 と 。 に や 八 も ) 超 か )覚。 ) ま 流布本が書かれるに際しては弥動等同の思想を強調する中から﹁元上覚﹂の語を用いて文が書き直しされたといえ る。同じことが﹁等正覚﹂の語についてもいえる。この語の初出は八十五歳二月十七日の﹃一念多念文意﹄において ﹃ 如 来 会 ﹄ の 文 を 引 い た 上 で 、 くにのうちの有情、もし決定して等正覚をなりて大浬襲を誼せずは、備にならじとちかひたまへるなり ︵ 真 聖 全 二 、 六 O 六 頁 七 ︶と あ り 、 ﹁ 等 正 覚 ﹂ に は 左 訓 が あ り まことのほとけになるべきみとなれるなり。 と示し、少し後には このくらゐにさだまりぬれば、かならず元上大浬繋にいたるべき身となるがゆへに等正覚をなるともとき ︵ 真 聖 全 二 、 六 O 六 頁 一 四 ︶ と あ り 、 ﹁ 等 正 覚 ﹂ の 語 に は 左 訓 が あ っ て 、 ほとけになるべきみときだまれるをいふなり より等正覚にいたる人 すなわち禰勅におなじくして ﹃ 正 像 末 法 和 讃 ﹂ に お い て も 多 数 の 左 訓 例 が 見 出 ・ さ れ る 。 ﹁ 念 働 往 生 の 願 に 大 般 浬 繋 を き と る べ し ﹂ ︵ 定 親 全 二 、 一 四 三 頁 ︶ と あ る ﹁ 等 と示されている。三月一日の奥書をもっ 正 覚 ﹂ に は しゃうぢゃうじゅのくらゐをいふなり。みろくをとうしゃうがくとまふすなり との左訓があり、更に﹁如来二種の廻向を ふかく信ずる人はみな等正覚にいたるゆへ 憶 念 の 心 は た え ぬ な り ﹂ ︵ 定 親 全 二 、 一 四 八 頁 ︶ と あ る 所 で も しゃうぢゃうじゅのくらゐなり との左訓があり、続いて﹁粥陀智願の廻向の信楽まことにうるひとは 掻 取 不 捨 の 利 益 ゆ へ 等正覚にはいたるな り﹂とある所には しゃうぢゃうじゅのくらゐにいたるとしるべしとなり と左訓がある。これらの左訓は八十六歳九月二十四日の奥書のある初校本においても、小異はあるけれども同様に記 さ れ て い る 。 ﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹂ の 書 誌 学 的 研 究 一 七 九
﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹂ の 書 誌 学 的 研 究 一 八 O 流 布 本 に お い て は 先 掲 の 例 の ほ か に 、 。 。 。 。 。 。 。 。 。 不退転に住すといふはすなはち正定棄のくらゐにさだまるなり。成等正覚ともいへり。 とある傍点の一文は真蹟本にはなくて加筆されたものといってよい。 ﹁元上覚﹂﹁等正覚﹂の二語は真蹟二本においては全く見られないものであったが、弥勤等同の思想をふまえて加 ︵ 真 聖 全 二 、 六 二 五 頁 三 ︶ 筆改定するに際して﹁元上覚﹂は四例、﹁等正覚﹂は二例を加えて流布本が書き改められたものと考えられる。これ ら二語は﹃夢告讃﹄と﹃一念多念文意﹄という宗祖八十五歳の二月になって初めて用いられたもので、以後の消息な ど に 多 数 の 用 例 を 見 る こ と と な る 。 これ以外にも流布本にいたってその文意が一層明確に改められている例がある。 ﹁自来迎﹂の語を釈するに当り﹁自﹂について﹁自然﹂の意を述べて本誓寺本、光徳寺本には 自然といふはしからかむといふ。しからしむといふは行者のはじめでともかくもはからはざるに、過去・今生・ 未 来 の 一 切 の つ み を 穂 ず 。 ︵ 定 親 全 三 、 一 九 一 頁 一 ︶ とある所を真蹟二本にはこの後に﹁縛ずといふは善とかへなすをいふなり﹂の一文が加筆されている。更に流布本を み る と ﹁ は か ら は ぎ る に ﹂ の 後 に は 過去・今生・未来の一切のつみを善に縛じかへなすといふなり。縛ずといふは、 つみをけしうしなはずして、普 になすなり。よろづのみづ大海にいればすなはちうしほとなるがごとし。 ︵ 真 聖 全 二 、 六 二 三 頁 八 ︶ と 文 が 加 え ら れ て 、 転 悪 成 善 の 益 を 一 一 層 明 確 に さ れ て い る と い え る 。 更 に 本 誓 寺 本 、 光 徳 寺 本 に あ っ て は 、 もとめざるに一切の功徳善根を信ずる人にえしむるがゆへにしからしむといふ。はじめではからはざれば自然と い ふ な り 。
との文が前掲文に続いており、真蹟二本においては﹁一切の功徳善根を悌のちかひを信ずる人に﹂とあって﹁悌のち かひを﹂の語が加筆されている。流布本になると一層文意が明確に改められている。 粥陀の願力を信ずるがゆへに如来の功徳をえしむるがゆへにしからしむといふ。はじめて功徳をえんとはからは ざ れ ば 自 然 と い ふ な り 。 ︵ 真 聖 全 二 、 六 二 三 頁 一 O ︶ 。 。 。 。 ここでは﹁禰陀の願力を信ずるがゆへに﹂と示した上で﹁如来の功徳をえしむる﹂とし、続いて﹁はじめて功徳をえ 。 。んとはからはざれば自然といふなり﹂と加筆されていて、先行四本と比較すればその加筆改定の意趣は明確である。 ﹁極楽元為浬繋界﹂の一句を釈して﹁極楽とまうすはかの安楽浄土なり。よろづのたのしみつねにして、くるしみ まじわら、ざるなり。﹂と示されていて、更に次の﹁随縁雑善恐難生﹂の﹁随縁﹂を釈する所でも 随縁は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせてもろもろの善を修するを極楽に廻向する な り ︵ 定 親 全 三 、 二 O 三 頁 一 O ︶ : : : ﹁ お の お の の こ こ ろ に ま か せ て ﹂ 流 布 本 に ナ シ とあって﹁極楽﹂の語が用いられている。加えて流布本にはこの語が用いられていて、﹁但有はひとへにみなをとな ふるひとのみみな極楽浄土に往生すとなり﹂︵真聖全二、六二二頁十一︶と示す中で先行四本には見えない﹁極楽浄土 に ﹂ の 語 が 加 筆 さ れ て い る 。 宗祖は意識的に﹁極楽﹂という用語を避けられたのではないかとの指摘があるのだが、少なくとも晩年にあっては これは当っていないことを先の例は示している。この他の聖教においても﹃教行信証﹄化身土巻に﹁故難生極楽不見 一五六頁五︶とあり、七十六歳一月二十一日の奥書をもっ﹃浄土和讃﹂初校本においては﹁贋大曾﹂ 三 賓 ﹂ ︵ 真 聖 全 二 、 の 左 訓 と し て ﹁ 十 方 の し ゅ じ ゃ う み な ご く ら く に て 備 に な る こ と を ほ ふ し ん と い ふ な り 。 ﹂ ︵ 定 親 全 三 、 一 四 頁 ︶ と あ り 、 ﹁ 一 生 補 処 ﹂ の 左 訓 と し て は ﹁ ご く ら く に ま い り な ば み だ 一 の お む で し と な る こ こ ろ な り 。 ﹂ と あ り 、 ﹁ 普 賢 の 徳 ﹂ に つ い て も ﹁ わ れ ら し ゅ じ ゃ う ご く ら く に ま い り な ば だ い じ だ い ひ を お こ し て 十 方 に い た り て し ゅ じ ゃ う を り ゃ く す る な り 。 傍 の し ご く の じ ひ を ふ げ ん と ま ふ す な り o ﹂と左訓されて ﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹂ の 書 誌 学 的 研 究 J¥
﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹄ の 書 誌 学 的 研 究 J\