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15 鵜 橋 遊 覧 乗 番 鵜 橋 天 低 幅 遊 覧 橋 普 道 路 橋 堀 川 遊 覧 14 千 鳥 橋 平 成 6 竣 工 県 庁 窓 覗 横 千 鳥 橋 橋 江 戸 御 廊 橋 松 江 城 之 丸 御 殿 結 重 橋 現 在 根 橋 遊 覧 乗 解 散 遊 覧 橋 新 鮮 橋 橋 普 注

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松江の

原田美恵子

①幸橋(さいわいはし) 平成 15 年竣工 最初に出会った記念すべき橋、幸橋。長さよ り幅の方が広く、不思議な感じの橋だった。 「松江の玄関」というような趣も感じられた。 しかし「近代的で情緒がない」「橋らしくない」 という感想も。 城下町松江には橋がたくさんある。水の都と呼ばれるように、川 や宍道湖など、水を身近に感じることができる町である。張り巡 らされた堀や水路にかけられた橋は 600 ほどもあるそうだ。そん な松江の橋、特に松江城を囲む堀川にかかる橋をこの目でじっく り観察しようと、8 月某日、夏真っ盛りの暑い日に私たち 5 人の 編集部員は県庁前に集まった。 ④新栄橋(しんさかえばし) 栄橋を過ぎ、新栄橋にたどり 着いた。すぐ近くに甲部橋が あり、橋の交差点のようだっ た。「適当な感じの橋」「予算 をかけてなさそう」という感 想が多かったが、堀川に出っ 張りがあって、そこから橋が かけられていて「趣がある」 という人もいた。 ⑦米子橋(よなごばし) 遊覧船から見ると、とて も趣があるように見える 米子橋。実際に歩いてみ ると、何の変哲もない橋 で、片方だけに遊覧船用 の飾りがついているとい うものだった。普段は注 意して見ない橋の意外な 一面を垣間見ることがで ⑥新米子橋(しんよなごばし) 平成 3 年竣工 さらに東へ進んで扇橋を見た 後、引き返して甲部橋から北 へ進み、新米子橋に着く。人 しか渡れない小さな橋で、「レ トロでかわいい」と好評。木 ③東京橋(ひがしきょう はし) 昭和 44 年竣工 カラコロ広場を過ぎ東京 橋へ。「とうきょうばし」 と読んでしまいそうにな るが、「ひがしきょうはし」 と読むことにみんな驚い ていた。扇形の変な形の 橋だが、「古くて京橋より こっちの方がいい」とい う人も。 ②京橋(きょうはし) 平成 8 年竣工 柳のたくさん植わっている道を東へ進むと京橋がある。「洋 風で気に入った」「ハイカラなデザインできれい。明治っぽい」 とみんなに好評だった。「50 年くらい後に歴史を感じさせる 橋になりそうだ」という感想も。 ⑤鍛冶橋(かじはし) 昭和 7 年竣工 頑丈そうな鍛冶橋。両側の道路がずれているために、 道路に対して斜めに橋がかかっている。欄干には車 がぶつかった跡も見られた。斜めってことが分から なくて、まっすぐ進んでぶつかったのだろうか。

~今と

をつなぐ~

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⑬亀田橋(かめだばし) 昭和 51 年竣工 萌音という団子屋さんで元気を回復し、亀田橋へやっ てきた。木製で、歴史を感じさせる橋だった。欄干 の下の方から木が生えていて、みんな驚いていた。 ⑮鵜部屋橋(うべやばし) 遊覧船に乗ると、くぐるのが一番たいへんな 鵜部屋橋。天井は低く、幅も遊覧船が通るの にギリギリ。橋の上は普通の道路って感じで、 歩いていると橋だということが分かりにくい が、堀川遊覧の楽しみの一つである。 ⑧普門院橋(ふもんいんはし) 平成 2 年竣工 米子橋の次は普門院橋。小泉 八雲が最初に書いた怪談、「小 豆磨ぎ橋」に出てくる普門院。 昔の雰囲気をかもしだしてい て、夜に来ると怖そうという 印象だった。 ⑨北堀橋(きたほりばし) 昭和 39 年竣工 この橋は今までの橋とは形が 違っていた。また、欄干に擬 ⑭千鳥橋(ちどりばし) 平成 6 年竣工 県庁の窓から覗く「しま ねっこ」を横目に千鳥橋に たどり着いた。この橋は江 戸時代には「御廊下橋」と 呼ばれ、松江城の中心と三 之丸御殿を結ぶ、重要な橋 だったとか。現在はないが、 屋根がかかっていたとい う。まるくてやさしさがあ る、歩きやすそうな橋だっ た。 ⑫新橋(しんはし) 平成 13 年竣工 稲 荷 橋 を 渡 っ て 城 山 を 出 る と、すぐの所に新橋。歩道部 分と車道部分の高さがずいぶ ん違っていて、しかも趣まで 違う。時代の違う橋が二つくっ ついたという感じ。「段差が面 白い」「情緒がある」とみんな にも人気だった。この辺りま で来ると、暑さと疲労で足取 りが重くなってきていた。 ⑪北惣門橋(きたそうもんばし) 平成 6 年竣工 明治時代に石造りになった北惣門 橋だが、平成になって史跡にふさ わしい江戸時代の木橋へとつくり 変えられたそうだ。車も通れるよ うになっている。木がいい感じに 古びていると好評だった。 ⑩宇賀橋(うがはし) 昭和 48 年竣工 この橋は古くて趣があり、木の 様子がまさに城下町という感じ だった。欄干が凝っていて、「今 までの橋で一番景観に合ってい る」という人も。松江城に近づ くにつれて、景観を考慮した橋 が多く見られた。 最後に遊覧船に乗り解散となった。 遊覧船から見ると、歩いてまわった 橋のどれもが少し違って見えて新鮮 だった。私たちが見た橋はほんの一 部。ほかにも橋はたくさんある。普 段あまり注目されない橋だが、たま には気に留めてみると新しい発見が あるかもしれない。

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自分のルーツはノルマン?

  一昨年の秋、アメリカはノースカロラ イ ナ に 住 む レ イ・ ハ ー ン( Ray Hearne ) と い う 年 輩 の 女 性 が 私 を 訪 ね、 数 十 頁 の コ ピ ー の 束 を 手 渡 し て 行 っ た。 そ れ は『 ハ ー ン 家 の 歴 史( Hearne History )』 と い う 本 の 一 部 で、 「 ハ ー ン 」 と い う 姓 の 綴 り は Hairun, Heiron, Heron, Hearn, Hearne, Hearon, Herron の七種類がみら れるが、そのルーツはすべてノルマン人 に行きつくと書かれてあった。   ノルマン人はもともとスカンジナビア 半 島 や デ ン マ ー ク 地 方 を 拠 点 と す る 狩 猟・漁労民で、八世紀頃からバイキング として各地の海岸地帯を攻略し、十世紀 はじめには北フランスにノルマンディー 公国を建てた。レイ ・ ハーンさんも最近、 北仏ルーアンに旅をしてこの資料を手に 入れたという。以来、 ラフカディオ ・ ハー ンという作家に、 姓の綴りは違うものの、 特別な親近感を覚えて、来日の機会に松 江を訪ねたというわけだ。   私自身は、自分のルーツに関して、と くに千年も前の先祖のことにはさして関 心はなかった。でも少し気がかりなこと がある。初期のハーンの伝記には概して 父方の先祖はイングランドの北部ノーザ

ノルマンディー

小旅行

――ルーツをもとめて――

小 泉 凡

■ル・アーブル駅に到着。 ンバランド州の田舎町の城主でその子孫 が ア イ ル ラ ン ド に 渡 っ た と し て い る が、 最近では、ハーン家の先祖はアイルラン ド土着のケルト系だと考える説が有力に なってきて、ともするとこれで決着しそ うな気配さえある。   し か し、 完 全 な 証 拠 が な い ま ま に ど ち ら か 一 方 に 固 定 す る こ と は 避 け た い。 ルーツ探究の夢は後世に残しておいた方 が楽しい。実際、レイさんからもらった コピーには、ハーン家(フランス語では ヘロン家と呼ぶ)は北仏ノルマンディー 地方にいたが、一〇六六年イングランド 王 エ ド ワ ー ド の 死 去 に 際 し、 ノ ル マ ン ディー公ウィリアムが王位を要求して侵 入したいわゆるノルマン・コクエストの 際に、 ウィリアムにつき従って渡英した。 その子孫のウィリアム・ヘロンがノーザ ■旅の同行者タキス・エフスタシウ氏。

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ンバランドのバンボロー城の城主になっ たと書かれている。   こ れ が 事 実 だ と す れ ば、 ラ フ カ デ ィ オ・ハーンが通っていた聖カスバート校 はノーザンバランドのすぐ南のダーラム にあり、またフランスで留学した可能性 があるといわれてきたイヴトーの神学校 は、ハーン家のまさにルーツの場所ノル マ ン デ ィ ー 地 方 に あ る。 も し か す る と、 ラフカディオを育んだ大叔母サラがその ルーツのことを理解していて、ノルマン ディーと北イングランドの学校にハーン を留学させたという推測が許されるかも しれない。   そんな想像をしているうちに、根っか らの放浪癖が顔を出し、だんだん地に足 がつかなくなってきた。遠い先祖の足跡 を訪ねたいという思いから、ほとんど下 調べをする暇もないままに、今年の五月 連休のはじまりの日に、弾丸旅行に出発 した。

パリからルーアンへ

  パリのシャルル・ドゴール空港に着い たのは、四月三十日の早朝。ここでギリ シャ人の友人タキス・エフスタシウが到 着するのを待つ。彼はここ数年、ハーン の足跡を旅することに関心をもち、松江 にも何度も足を運んでいる。恐るべきコ ミュニケーション能力の持ち主で、たい て い、 初 対 面 の 人 で も、 も の の 二、 三 分 で 旧 知 の よ う な 関 係 を つ く っ て し ま う。 反面、地図や時刻表を読むのがめっぽう 苦手で、ひとり旅はまずしない。私と正 反対だ。   それぞれの得意分野を生かして旅の役 割分担を決め、 まずは私のリードでパリ ・ サン・ラザール駅をめざす。彼は空港に いたカナダ人やスウェーデン人にさっそ く 話 し か け、 「 こ の 男 の 後 を つ い て い け ば間違いない」などと余計なことを言う が、パリ市内に電車で入るのは意外と難 しいので、内心ドキドキしている。RE Rという郊外に向かう鉄道とメトロとが 複雑に入り組んでいるからだ。パリ北駅 が パ リ に 比 べ て 一 段 と 肌 寒 さ を 感 じ る。 駅 で も う 一 人 の 知 人 が 合 流 す る。 彼 は フィリップ・ブルネットというルーアン 大学の教授でアフリカの民族音楽と古代 ギリシャ芸術を専門としている。この旅 の直前にタキスの友人のギリシャ人作家 バビス・プレイタキスさんが自分の学生 時代の親友だといって紹介してくれた人 だ。楽器を持って現れたので初対面だが すぐにわかった。   中 心 街 ヴ ュ ー・ マ ル シ ェ 近 く に あ る ホ テ ル に 徒 歩 で 向 か い、 チ ェ ッ ク イ ン を 済 ま せ て 町 に で る。 ホ テ ル の す ぐ 前 に は、 救 国 の 少 女 ジ ャ ン ヌ・ ダ ル ク が 一四三一年五月三十日に魔女として断罪 され、十九歳の若さで火刑に処せられた 処刑場跡があった。ノルマンディー地方 独特の木骨組み切妻壁をもつハーフティ ンバー・スタイルの古風な建物が並ぶ町 並みを散策し三人で遅い軽めの昼食。ワ まではRERで乗り換えなし に行けるが、そこで下車して マジャンタ駅まで歩き、東方 面 か ら 来 る R E R に 乗 り 換 え、サン・ラザール駅に行か なければならない。   何とか無事到着。ここから 十二時五十分発のルーアン行 きの中距離通勤電車の二階席 に座り、しばし安心してセー ヌ河畔の過ぎゆく風景を楽し む。印象派の画家たちが好ん で訪れたノルマンディーへの 道は、穏やかな光に包まれて 実に牧歌的な風景だった。   午 後 二 時 に ル ー ア ン に 到 着。天気は予報ほど悪くない ■シャルル・ドゴール空港。案内 板がパリに来た実感を与える。 ■ルーアン駅で。フィリップ・ブルネット氏との出会い。 ■ルーアンのシンボル、ノートルダム大 聖堂。 ■(上)ノルマンディー 名産の牡蠣。(右)ノル マンディーの地ビール。

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を褒め称え「僕たちのため にパンにチーズとパテをは さんでくれない。できれば コーヒーも!」と頼んでい る。何と、チーズ屋で朝ご はんを作ってもらおうとい う 魂 胆 だ。 し か し、 彼 が 頼むと、おばあちゃんは微 笑 み な が ら、 フ ラ ン ス パ ン に パ テ と チ ー ズ を 挟 ん で、コーヒーまで入れてく れた。そして、松江でレイ さんからもらったコピーに の っ て い た 十 世 紀 に 建 て ら れ た と い う 「 ヘ ロ ン 城( Chateau du Heron )」 の 写 真を見せて聞いてみた。すると、 「あっ、 これ知ってる。一九四〇年過ぎまでここ か ら 四 五 キ ロ ほ ど 離 れ た ヘ ロ ン 村( Le Héron )にあったのよ」 と、 教えてくれた。 そうか、でも、もう城はないのだ。   この地方では一九四〇年代というのが 大きな意味を持って語られる。それは第 二次世界大戦末期にアイゼンハワー元帥 の指揮のもとに行われた兵員八万人によ る ノ ル マ ン デ ィ ー 上 陸 作 戦 だ。 そ れ に よってフランスは解放されるが、この地 方の多くの建物が米軍によって破壊され たことも悲しい歴史のひとコマだ。ヘロ ン村については、昨夜、フィリップが友 人に電話で場所を確認して地図をもらっ ておいてくれたので、これで何とか訪ね ることができそうだ。そしてヘロン城が あった場所が、今も「ヘロン村」と呼ば れていることもわかった。

ヘロン村

  すぐにタクシーをチャーターし、ヘロ ン村へ急いだ。道すがら、咲き乱れるコ ル ザ と い う 菜 種 に 似 た 黄 色 い 花 が、 牧 草 地 に 彩 を 添 え て い た。 小 一 時 間 で 到 着。牧草地の背後に森があり、美しいア ンデル川が流れている。実に静かなとこ ろだ。村の入口にある看板に眼がとまっ た。 「 よ う こ そ ヘ ロ ン 村 へ( Bien venue au Heron )」 と あ り、 そ の 上 に 鷺 の 絵 が 描かれている。   フランス語で「ヘロン」は鷺を意味す る。実はアイルランドのハーン家の家紋 に も 四 羽 の 鷺 が 描 か れ て お り、 そ れ を 知っていたハーンは松江で同僚の美術教 師・後藤金弥に下げ羽の鷺を図案化して もらい、後に小泉家の家紋とした。 「鷺」 の家紋を通じてこの村に急に親近感が湧 いてきた。村人にたずねると、アンデル 川には小魚が多く、それを狙って今でも 鷺がいっぱいやってくる。だから 「鷺 (ヘ ロン) 」という地名になったという。   家 紋 と い え ば こ ん な 出 来 事 が か つ て あった。山下汽船に勤務していた私の父 が、 戦争中、 軍用船で遠洋航海に出た際、 世界でもっとも深いマリアナ海溝で撃沈 され、海に投げ出された。ところがしば らくして日本の水雷艇が現れ、船首には 何 と「 さ ぎ 」 と い う 二 字 が 読 め た。 「 も しかすると、この船が……」と一筋の希 望 の 光 が さ し た。 案 の 定、 父 は「 さ ぎ 」 イ ン と カ マ ン ベ ー ル・ チ ー ズ や サ ラ ミ、 そして牡蠣を楽しんだ。   カマンベールという白カビのチーズの 名の由来は、ノルマンディー地方の地名 か ら 来 て い る。 そ の と ろ け る よ う な ク リーミーな味わいには感動を覚える。し かし注文したワインはボルドー産で、地 元製品ではない。ノルマンディーとその 南西に位置するブルターニュ地方は、寒 冷 地 で ブ ド ウ の 栽 培 に 適 さ な い。 だ か ら、地元ではシードルというリンゴから つくった発泡酒が親しまれている。 そう、 ノルマンディーは、フランスでありなが ら風土はイギリスのそれに近い。   旅の疲れから早寝をし、翌朝は青空か ら 降 り 注 ぐ 朝 日 の ま ぶ し さ で 目 が 覚 め る。朝食をとりにタキスと町に出る。い かにも地元らしくチーズを山ほど積み上 げている素朴な店に入ってみた。すると タキスはチーズ屋のおばあちゃんの笑顔 ■木骨組みの伝統的な建物が並ぶルーアンの市街 地。 ■(上段)アンデル川が流れる ヘロン村の入り口。(下段)「よ うこそヘロン村へ」。村の入り口 にたつ看板。 ■かつてヘロン城があった場所。

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に助けられ九死に一生を得て八四歳まで 生 き た。 だ か ら、 「 鷺 」 の 家 紋 は 我 が 家 にとっては、単なる家の標ではなくお守 りのような存在でもある。   かつて城があったという場所は、いま は牧草地となっていた。一番近くにあっ たお宅で聞いてみると、確かに米軍の攻 撃 を 受 け る ま で そ こ に 城 が あ っ た と い い、 その資料も多少残っているらしいが、 あいにく日曜とあって、資料の管理者は 留守だった。近くには、ルーアンに生ま れたフランスの小説家ギュスターヴ・フ ローベール(一八二一―一八八〇)の小 説「 ボ ヴ ァ リ ー 夫 人 」( 一 八 五 六 年 ) の 舞台となったことを語る案内板が立てら れていた。ハーンもフローベールの作品 に親しみ、彼のゴーチェとボードレール の両者のすぐれた形式を結合する新形式 を評価していたようだ。結局十分な情報 を 得 る こ と が で き ず に 村 を あ と に し た さ れ て 以 来、 多 く の 研 究 者 が 訪 ね た 町 だ。しかし、ハーンがこの町にいたとい う根拠はまだ何も見つかっていない。フ ロ ス ト が も し イ ブ ト ー で 学 ん だ と す れ ば こ こ に 違 い な い と 推 測 し た、 ア ン ス ティテューション・エクレシアティック ( Inst itut ion Ecclésiast ique ) を訪ねるが、 この建物も一九四〇年代の米軍の爆撃で す っ か り 建 て 替 え ら れ て し ま っ て い た。 そして、古い資料を簡単に得ることはで きなかった。   天気は一層不安定となり冷たい雨が大 地を叩き始め、緑の香が強くなった。一 段と強くなってきた風に、なじみ深いア イルランドやイギリスの大気の感触を思 いだした。半日近くお世話になったタク シー・ドライバーのヤニックさんは実に 親切な人で、取材を積極的に手伝ってく れた。一生懸命フランス語を英訳してく れ た こ と に 何 よ り 感 謝 し て い る。 イ ブ トー駅でヤニックさんと別れ、インター シティーで、 イギリス海峡に臨む港町ル ・ アーブルに向かった。

ル・アーブル――旅の終わり

  ル・アーブルはとりわけ第二次世界大 戦での被害が甚大だった町で、ヨーロッ パ の 町 並 み と は 思 え ぬ ほ ど 建 物 が 新 し い。大半が一九四五年から一九六四年に か け て 再 建 さ れ た も の だ。 ま ず は フ ェ リー・ターミナルに出向いてイギリスの ポーツマス行きのフェリーの時刻を調べ るが、切符売場や待合室は施錠されてい て中に入れない。午前中の出発便があれ ば、ぜひ明朝、イギリスへ渡りたいのだ が、夕方に一本出るだけだと町の人たち が教えてくれた。しかし所要時間は五時 間ほどだという。これならば、ノルマン 人たちがイギリスにも国を作ろうとした 気持ちがわからないではない。   最近、ハーンの渡米についてもこの港 か ら 船 に 乗 っ た と い う 可 能 性 が で て き た。アメリカで乗船名簿が見つかったか ら だ。 ロ ン ド ン 発、 ル・ ア ー ブ ル 経 由 ニ ュ ー ヨ ー ク 行 き の セ ラ 号 と い う 船 で、 ハ ー ン は 一 八 六 九 年 九 月 二 日 に ニ ュ ー ヨ ー ク に 着 い た こ と が 明 ら か に な っ た。 そして、シンシナティで若きハーンに出 会ったワトキンは、フランスの神学校の 制服を着ていたと回想している。とすれ ば、イギリス留学後にイブトーかあるい は パ リ 等 の 神 学 校 で フ ラ ン ス 語 を 学 び、 ル・アーブルから船に乗ったという可能 性も考えられる。   フェリー・ターミナルの脇にある漁船 の船溜まりに、干潮で逃げ遅れたサメの 赤ちゃんが横たわっている。妙に寂しげ な夕暮れの光景だった。ここでは、地元 の ビ ー ル と 魚 を 楽 し ん だ。 や は り、 「 こ れはフランスではない」という実感を強 くした。   翌朝、 インターシティーでパリへ戻る。 足かけ三日間のノルマンディー弾丸旅行 は、フランスらしからぬノルマンディー の風土を実感し、日本人には馴染みの薄 い ル ー ツ 探 し の 旅 の 面 白 さ を 体 感 で き た。このまま帰国しては余りにもったい な い。 そ こ で ユ ー ロ ス タ ー に 乗 り 換 え、 出発の一週間前に名乗り出てくれた初対 面の親戚に会うためにロンドンに向かっ た。 彼女はアニーという名で、 先祖がハー ンの父チャールズの兄弟だという。ここ で紙幅が尽きたので続きは、 別の機会に。 ( こ い ず み・ ぼ ん / 総 合 文 化 学 科 教 員 * 民 俗 学) が、遠い先祖のルーツ さがしに一筋の光がさ したような喜びを覚え た。   そこから六〇キロ余 り 北 西 に 離 れ た イ ブ トーという小さな町を めざす。ここは、ハー ンが子どもの頃、この 町の神学校に留学した という説が一九一一年 にケナードによって出 ■ハーンが通ったかもしれない神学校跡(イブトー)。 ■(上段)夜のル・アーブル。(下段)パリ 北駅とロンドンのセント・パンクラス駅を2 時間余りで結ぶユーロスター。

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ジャジャンとは

  前号の『のんびり雲』では、インドネ シア (ジャワ島) の断食月を取り上げ、 「食 べないこと」をテーマにした。今回はそ の逆で、 「食べること」をテーマに、 ジャ ジャンを中心にジャワの市場と屋台につ いて紹介してみたい。   ジャジャンとは、買い食い、あるいは 菓子や軽食などを買って帰り、家で食べ ることを意味する語である。ジャワの人 は、 子 ど も か ら お 年 寄 り に い た る ま で、 ジャジャンを好み、市場や屋台がその中 心となる。ジャジャンは、人を結びつけ る も の で も あ る。 私 の ジ ャ ワ で の ジ ャ ジ ャ ン の 思 い 出 も、 食 べ 物 だ け で な く、 ン」という意味になる。ジャジャン・パ サールは、精霊や祖霊へのお供えとして も使われるもので、ジャワでは人以外の 存在もジャジャンが好きらしい。   私 が 気 に 入 っ て い る ジ ャ ジ ャ ン・ パ サールは、オンデ・オンデとナ シ・ リ ワ ッ ト で あ る。 オ ン デ・ オンデは、沖縄のサーター・ア ンダギーに似た揚げ菓子で、丸 め た 小 麦 粉 の 生 地 に 白 ゴ マ を 付 け て 揚 げ た も の で あ る。 ナ シ・リワットはソロ市の名物料 理で、バナナの葉に包んで売ら れている。ココナツミルクで炊 き込んだご飯に、ゆで卵、鶏肉

ジャジャンの楽しみ

ジャワの市場と

屋台の食

塩 谷 も も

売り手の人や一緒に食べた 人と深く結びついている。   ジャワでフィールドワー クをしていたソロ市郊外の 村からは、歩いて十五分く ら い の と こ ろ に 市 場 が あ り、下宿していた家の家族 は、 そ こ で 日 々 の 食 材 を 買っていた。この買物にと き ど き 同 行 さ せ て も ら い、 買物の仕方や内容を観察し ながら、揚げ菓子、軽食等 を 買 う の を 楽 し ん で い た。 このように市場で買ったお や つ 風 の 食 べ 物 は、 ジ ャ ジャン・パサールと呼ばれ る。パサールは市場を意味 し、 「 市 場 で す る ジ ャ ジ ャ を少量載せ、上にハヤトウリの千切りを 煮込んだ少し辛めのソースをかけて食べ る。この二つは、ジャワを訪れる機会が あると、必ず食べてきた。

ジャワの市場と買物の仕方

  市場の店は早朝に開店し、昼前には閉 店する。市場は女性の世界と言っても良 いくらい、売り手も買い手も圧倒的に女 性が多い。肉、魚、野菜などの食材に加 え、惣菜、台所用品や日用品、植木、お もちゃ、服など様々なものが売られてお り、見ていて飽きない。   市場の中心となる建物は、トタン屋根 で覆われた開放的な空間で、その中に小 さなスタンド式の店が並び、通路脇にも ■ココナツジュースをジャジャンする子どもたち。 ■(上段)祖霊へのお供え(右 側の揚げ物はジャジャン・ パサール)。(下段)ナシ・ リワット。左のソースをか けて食べる。 ござや台に商品を並べた だけの店が出ている。こ の中心となる建物のまわ りにも小さな商店が建ち 並び、通りにも日傘の下 に商品を並べた小さな店 が並んでいる。

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  量り売りが基本になっているため、多 くの店に、秤と分銅のセットが置いてあ る。売り物に値札がついておらず、値段 交渉ができるのも市場の特徴である。買 い手は多くの場合、最初に売り手に言わ れた値段で買うことはなく、少しでも安 い値段になるように交渉する。 買い手は、 買っても良いと思う額よりも低めの額を 提示するところから交渉を始め、最初の 売り手の提示額との間くらいの金額で折 り合うことを目指す。買い手は、鶏肉は この店、唐辛子はこの店と買物をする店 を決めていることが多い。それは、行き つけの店だと値段交渉なしに一定の値段 で買物ができるためで、時にはおまけを してもらえることもある。

ジャジャン

  市場では日々の食材を必要な分だけ買 うのが基本だが、 調理用油、 砂糖、 紅茶、 コーヒー、 粉ミルク等の食品や洗剤、 シャ 布等を取り出して預けると番号札を渡さ れ、買い物が終わって帰るときにそれと 引き換えにバッグを受け取る。   スーパーマーケットは、クーラーが効 い た 店 内 に 整 然 と 商 品 が 並 べ ら れ て お り、日本の店の雰囲気とそれほど変わら ない。その一方で、ドライヤーや炊飯器 な ど の 電 化 製 品、 整 理 棚、 服、 サ ン ダ ル、タオルなどが並ぶ棚もあるのが特徴 的で、スーパーマーケットとホームセン ターを一緒にしたような品揃えになって いる。その点は、食品に混じって様々な ものが売られている市場の品揃えと似て いる。また、 店の入り口やレジ近くには、 菓子、パン、飲み物、雑誌と新聞などの スタンド式の店が並んでいる。売られて いるものは、市場で売っているような伝 統的な菓子類が多い。スーパーマーケッ トでも、ジャジャン・パサールが出来る 場が、別に設けられているのである。

市場の変化

  二 〇 〇 九 年 に 調 査 地 を 再 訪 し た 際 も、 ジャジャン・パサールを楽しみにいつも の市場へ行ってみた。そこで目にしたの は、 見 慣 れ た 古 い 市 場 の 建 物 で は な く、 コ ン ク リ ー ト 二 階 建 て に 改 装 し た 市 場 だった。市場の中心となる建物の入り口 近くには、以前は日傘の下に商品を並べ た店が並んでいたが、そこがバイクの駐 輪場になっていた。改装に伴って売り場 の様子も変わり、以前よりも配置がきち んと整備され、ひしめくように並んでい たスタンド式の店も数が減っていた。   市場の建物の中で肉を売る店はすべて 二階に移動しており、衛生面も前よりは 改善され、買い物がしやすいように配慮 されていることが分かった。しかし、整 備が進むことで、以前よりもなじみにく い雰囲気になってしまった気がした。い つも買っていたオンデ・オンデの屋台を は じ め、 顔 な じ み の 店 も い く つ か な く なってしまっていた。長年同じ場所で商 売をしてきた店が、どこへ移動したのか 気にかかった。

屋台の種類と料理の内容

  市場でのジャジャンと並んで、屋台で の ジ ャ ジ ャ ン も 日 常 的 に な さ れ て い る。 ジャワは、食べ物の屋台の数が多く、料 理の種類も非常に多い。屋台料理の売り 方は、移動しながら売るもの、道路脇な どに出店して売るものに大別される。 移動式のものは、主に頭の上に籠を載せ て歩く形、車輪のついた屋台を押して歩 く形、または自転車や自動車を使って売 ン プ ー な ど は、 ス ー パ ー マーケットでまとめて買う 人 が 多 い。 ス ー パ ー マ ー ケ ッ ト で 売 ら れ て い る 肉、 魚、野菜などの食材は市場 に 比 べ る と 値 段 が 高 い た め、日常的に利用する人は 少ない。それに対し、調理 用油や洗剤類等は大量仕入 れのために安く、品質的に も安心であるということか ら、これらの品はスーパー マーケットで買うそうだ。   スーパーマーケットの買 い 物 は、 月 に 一 度 が 基 本 で「月の買物」と呼ばれて いる。インドネシアで給料 日にあたる毎月一日後にこ の 買 物 を す る 人 が 多 い た め、毎月上旬の夕方、スー パーマーケットは買い物客 で混雑する。また、インド ■(上段右)市場内のスタンド式の店。(上段左)賑わう市場近くの通り。(下段右) 市場で買い物をする女性たち。(下段左)秤でみかんを量る市場の女性。 ■改装された市場。2階建てでりっぱ になった。 ネシアの スーパー マーケッ ト で は、 売り場に 入る前に バッグを 預けなく てはなら ない。財

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る形がある。頭の上に籠を載せる形のも のは、焼鳥、揚げ物、ビーフン炒めなど を売っている。頭の上に支えになる輪を 載せ、その上に料理の入った容器を載せ て担ぐ形と、大型の平らなざるを頭に載 せ、その上に料理の入った容器を載せて 担ぐ形がある。   車輪のついた屋台を押して歩く形のも のは、カキ・リマと呼ばれる。インドネ シア語でカキは足、 リマは五を意味する。 インドネシア語は日本語と逆で、形容詞 が名詞の後にくるため、 これで「五本足」 と い う 意 味 に な る。 手 押 し 式 屋 台 に は、 前に二つ、後にひとつ車輪がついている ため三本足、これに売り手の二本足を加 えて五本足、これが語源だと言われてい る。   カキ ・ リマの屋台は、カットフルーツ、 緑 豆 入 り の コ コ ナ ツ ミ ル ク、 蒸 し 菓 子、 肉団子入りスープ麺、チキン麺、炒飯な ど様々な種類があり、コンロを積んでい て、注文するとその場で作ってくれるも のもある。   自転車を使った形のものは、蒸しとう もろこし、 パン、 中華まん、 アイスクリー ムなどを売っている。自動車を使ったも の は、 パ ン や 菓 子 の 販 売 が 中 心 で あ る。 パン屋のロゴの入った車に商品を積んで おり、移動販売が基本だが、大通りの脇 に駐車して店開きをすることもある。

屋台の音と時間

  住宅街を移動販売する場合、当然のこ と な が ら 家 の 中 に い る 買 い 手 に 屋 台 が 通っていることに気づいてもらわなけれ ばならない。ジャワは熱帯で年間を通じ て気温が高いため、日中は風が通るよう に ド ア や 窓 を 開 け 放 し て い る 家 が 多 い。 そのため、日本の移動販売車のようにス ピ ー カ ー を 使 っ て 商 品 名 を 流 さ な く て も、声や音が中まで聞こえやすい。   屋台の売り手は、節をつけて売ってい る料理名を言う、小型の銅鑼や鈴など音 が出るものを鳴らす、笛を吹く、テープ で曲や声を流すなどするが、それぞれ味 わ い が あ る。 毎 朝、 「 ジ ャ ジ ャ ン は い か が で す か?」 と 節 を つ け て 言 い な が ら、 籠を担いで朝食用の揚げ物を売り歩いて いた女性の声は、今でも印象に残ってい る。   屋 台 ご と に 違 い が あ り、 鈴 を シ ャ ン ることもある。   屋台で売りに来る料理は、 朝、 昼、 夕、 晩と時間によって内容が違っており、決 ま っ た 屋 台 が 大 体 同 じ 時 間 に 売 り に く る。しかし、あるときは待っていた屋台 が 休 み で 通 ら な か っ た り、 長 期 休 業 に 入ったり、通る道を変えて、ある日ぱた りと来なくなってしまうこともある。ヤ シ砂糖をもち米に挟み込んで蒸し、ココ ナツ・フレークをかけたクプトゥという 菓 子 の 屋 台 が 私 は 特 に 気 に 入 っ て い た が、これも食べたくて待っているときに 限って来ない。   朝は朝食にあわせて、 パン、 中華まん、 豆粥などの軽食が中心である。昼頃はア イ ス ク リ ー ム、 カ ッ ト フ ル ー ツ な ど の すっきりした食べ物や、 昼食用の揚げ物、 肉団子入りスープ麺などである。 夕方は、 昼寝後の空腹時にあたるため、汁麺、蒸 し菓子、蒸しとうもろこし等、ある程度 お腹にたまるものが多い。夜は、夕飯と なる、炒飯、焼きそば、焼鳥などのしっ かりとした料理が中心となる。特に夕方 シャンと鳴らして 歩 く の は 焼 鳥 売 り、小型の銅鑼の ようなものをポン ポンと打つのは肉 団子入りスープ麺 売り、屋台に積ん だ蒸し器に笛を取 り付けて、蒸気で ピーっという音を 響かせるのは蒸し ■移動式屋台カキ・リマ。 ■(上段)快活な鶏肉売りの女性。(下 段)屋台でコキス(菓子名)を焼く男性。 ■(上段)チキン麵を売る通りの屋台。布 に紅茶の広告入り。(下段)街で一番おい しいと評判のナシ・リワットの屋台。 菓 子 売 り な ど、音で何の 屋台であるか が分かる。聞 きなれない音 の屋台が通っ た と き に は、 呼び止めて何 を売っている のかを確認す

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や夜に来る屋台には、小さなコンロが積 まれていて、その場で作ってくれるもの が多い。出前と違って料理を待たされる こともなく、値段も手ごろなので、屋台 は日常的に手軽に利用されている。

日没後に出る通りの屋台

  ジャワでは、移動せずに通りで食べ物 を売る屋台が、特に日没近くになるとあ ちこちに現れ、街の大通りには、多くの 屋台が立ち並ぶ。ただ、近年では取り締 まりが厳しくなり、決まった一角に出店 することを求められるなど、以前ほど自 由に出店できない地域が広がってきてい る。   この形の屋台は、その場で食べること が出来るようになっており、料理を包ん でもらって持ち帰ることも出来る。小型 のベンチや椅子を置いたもの、靴を脱い でござの上に座って食べるようになって いるものもある。屋台には大きな布がか けられていて、中が見えにくくなってい る も の も 多 い。 屋 台 の 大 き さ は 様 々 で、 数人しか入れないような小規模のものか ら、二十人近く入れる大きなものまであ る。   屋台の布には、屋台の店名やメニュー が書いてある。店名は、店主の名前、屋 台 を 出 し て い る 場 所 の 地 名、 メ イ ン で 売っている料理名などを組み合わせたも の が 多 い。 な か に は 名 前 が つ い て い な か っ た り、 「 料 理 名・ ( 味 は ) ま あ ま あ 」 など個性的な名前がついているものもあ る。 規 模 の 大 き い 店 は 店 員 が 複 数 い て、 家族で経営しているものも珍しくない。   屋台の種類は、炒飯と焼きそば、鶏や あひるの揚げ物などの肉料理、 海鮮料理、 中華料理、パンケーキ、焼きとうもろこ し、 揚げバナナなど、 食事が中心のもの、 軽食と飲み物を中心にしている店と多様 である。カキ・リマと同様に、注文して からコンロで作ってくれるので、あたた かい出来立ての料理を味わえる。屋台は 庶民的な雰囲気で値段も安いが、ジャワ で は 経 済 的 に 豊 か な 人 々 も 利 用 し て い る。屋台は経済的にも、年齢的にも多様 な人々が集まる場となる。   屋台には地域ごとに名物料理があるた め、観光などで他の街にいった際、地元 の屋台で食事をすることを楽しむ人も多 い。最近では、この屋台めぐりが旅番組 に組み込まれてテレビ放送されて人気を 集め、観光用に屋台料理を紹介した食べ 歩き用のガイドブックやパンフレットも 作られている。

集まりの場としての村の屋台

  街 の 屋 台 や 大 通 り に 出 て い る も の は、 観光客も利用するなど開かれた雰囲気だ が、 村 の 屋 台 は 住 民 を 対 象 に 営 業 し て い る も の な の で、 少 々 雰 囲 気 が 異 な る。 フィールドワークをしていた村では、三 軒の屋台が晩になると出ていた。屋台ご とに顔ぶれが決まっており、若者が集ま る屋台、年長者が集まる屋台など、屋台 ごとに特徴がある。街の屋台は家族連れ や 女 性 同 士 で 食 べ に 来 る こ と も あ る が、 村 の 屋 台 は 男 性 の も の と 意 識 さ れ て お り、女性は屋台で売られている揚げ物な おしゃべりをする。村の屋台は情報交換 をしたり、住民が交流をする場としての 意味が大きい。

人と会う場としての市場・屋台

  屋台と市場に共通しているのは、人と 会う場としての重要性である。 屋台では、 客と店主が話をしたり、見知らぬ客同士 が話をはじめることも珍しくない。 また、 晩に出る村の屋台は、男性が近所の人と 合って話をする場となっている。   市 場 で は、 顔 な じ み の 店 で 話 を し た り、買物客同士、あるいは近所の女性と 話している場面を目にすることも珍しく ない。冷蔵庫があっても市場での買物に わざわざ毎日のように行くのは、女性が 人と会って話をするためだろうか。もし かしたら、スーパーマーケットでの買い 物に月に一度しか行かないのは、市場で の買物に比べてつまらないからかもしれ ない。 ( し お や・ も も / 総 合 文 化 学 科 教 員 * 文 化 人 類 学) ■(上)菓子類の屋台。どれ を 選 ぶ か い つ も 迷 う。( 左 ) 晩に出店する小さな屋台。 ど を 買 い に 来 て も 持 ち 帰 り、 その場では飲食をしないのが 特徴である。   居酒屋の雰囲気と似ている 気がするが、イスラム教徒が 多数派のジャワでは、飲み物 は ア ル コ ー ル で な く、 紅 茶、 コーヒー、 ホットミルク、 しょ うが湯などである。揚げ物を つまみ、飲み物を飲みながら

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●クリスマス

  日本の友達を訪ねて来たニュージーラ ンド出身の青年が、突然高熱に襲われ病 院に行きました。熱の上がり下がりの激 しさに Dr.も首をかしげています。検査の 結果、熱帯地方に多い病気だとわかりま した。彼は日本到着前にあちこち回って おり、熱帯の国にも行っていました。遠 くの病院から薬を取り寄せるなど最善の 治療が行われ、一週間ほどの入院で回復 しました。時あたかもクリスマス。旅先 での病気は気の毒です。小さなクリスマ ス飾りをお見舞いにあげました。熱でフ ウフウ言いながら彼は「NZから来た僕 がまさか日本でこんなに暑いクリスマス を迎えるとはねぇ……」と笑いました。   これは、医療通訳をされているYさん から寄せられたエピソードである。Yさ んは、病院などで意思疎通をはかること が難しい外国人を対象に医療通訳を行っ て お ら れ、 「 医 療 英 語 勉 強 会 」 の 参 加 者 のひとりである。   「 医 療 英 語 勉 強 会 」 と は、 島 根 に 住 む 外国人を対象として医療通訳を提供する ボランティアの育成・技能向上を目的と した事業である。しまね多文化共生ネッ トワークが開催しておられ、平成二十年 に私の本学着任と合わせて声をかけてい ただいて以来、講師という形で参加させ て い た だ い て い る。 し ま ね 多 文 化 共 生 ネットワークは、在住外国人の支援を目 的として松江市を中心に活動している団 体であり、お互いを理解し合い、尊重し 合える友だちの輪を広げることを活動の 目的として、各種教室や勉強会を通して 情報交換を行っており、医療英語勉強会 はそのひとつである。   月に一度の勉強会では、実際の医療場 面を想定したテキスト文の日本語から英 語への翻訳学習を行うほか、具体的な診 療場面をシミュレーションしながら通訳 の練習をすることで医療用語を身につけ るなど、実践的なメニューを取り入れて いる。テーマは幅広く、 インフルエンザ、 食 物 ア レ ル ギ ー、 緑 内 障、 不 整 脈 な ど、 専門的な内容にも対応できるようになっ ている。勉強会には、年齢、性別、職種 を問わず参加者が集まり、毎回しっかり と予習してきたテキストを片手に、会場 である私の研究室が狭く感じられるほど 活発に意見交換が行われる。   この勉強会の参加者は、いろいろな興 味深いエピソード、文化の違いを経験さ れており、今回いくつかご紹介させてい ただきたい。まず、冒頭でご紹介したY さんのエピソードである。

●謎の骨折

  ある国のお嬢さんがふざけて空手のマ ネをして尻もちをつき、翌日からひどい 足の痛みに苦しむようになりました。遂 に歩けないほどの痛みになり、病院に行 きました。レントゲンには骨折は見当た りません。でも Dr.曰く「画面には出てい ませんがこの裏の骨にヒビが入っている と思います。不思議な話ですが、西洋人 の 方 に 特 徴 的 な 骨 折 な ん で す よ 」。 患 部 をピンポイントで見つけ処置をされまし た。しばらくは杖を使いましたが、やが て見事に全快。すると彼女はすぐまた空 手 の マ ネ を 始 め ま し た。 や め な さ い っ て!

●医者より詳しい

  ある女性がのどの痛みで病院に行きま した。彼女は日頃から運動にも食事にも 気をつけているちょっとした健康オタク です。既往症の喘息が生活環境の変化で 再発し気管支炎に発展した、という診断 に納得するまでに一時間以上かかりまし た。炎症確認のためのレントゲン撮影も 体に悪いとさんざんごね、既往症の喘息 を示すレントゲン写真を見せられてもそ ん な は ず は な い と 反 論( 実 は 本 人 が 忘 れ て い た だ け )、 治 療 で 吸 入 を す る 際 は 含まれている薬品の一つが気に入らない とごねる……。処方される薬も漢方系に 限ると Dr.に指示。診断書が高いと受付で もひとこと。院外薬局で薬を購入する際 も「 こ れ は も ら う け ど こ れ は 要 ら な い ……」 。こういうケースに立ち会う通訳っ てたいへんです。病気になりそうです。  

●入院体験

  ある国の女性が耳鼻咽喉科の病気で入 院しました。でも病室が空いていないと

言葉によるケア

クリス・ラング

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の こ と で 彼 女 は 産 婦 人 科 の 六 人 部 屋 に。 ま だ 若 い 彼 女 は「 ま た と な い 経 験 だ わ 」 と、せっせと周りの様子を日記に書いて いました。   ご 両 親 は「 産 婦 人 科 病 棟?」 「 六 人 も 一緒?」と驚いていたようですが、後日 来日した時にぜひ当時の娘の主治医にお 礼が言いたいと外来を訪ね、お礼の品を 渡しました。お互い言葉はカタコトでし たが、その時のご両親と Dr.の笑顔はとっ ても素敵でした。   次は、ある外国人女性の出産をサポー トしたTさんのエピソードである。

く 印 象 に 残 っ て い る の は、 あ る 外 国 人 女 性 の 出 産 ま で の 医 療 通 訳 で す。 半 年 く ら い の お 付 き 合 い だ っ た で しょうか。出産は私自身も実際に体験し たことなので、とても身近なことで、自 分の過去の経験も思い出しながらのお仕 事となりました。   とてもプライベートなことであり、ま た出産というのは精神的にも影響を与え やすいため、言いようのない不安や動揺 を感じたりします。それで患者さんが何 で も ド ク タ ー に 聞 け る よ う に な る に は、 私との意思疎通がまず大切と思い、検査 と検査の待ち時間に努めていろいろ話を するようにしました。 会話をすることで、 ある程度の信頼を私においてもらい話し や す い 雰 囲 気 を 作 る こ と に 努 力 し ま し た。このことは必ずしも通訳とは関係あ りませんが、通訳をよりスムーズに進め る上で大切ではないかと思ったのです。   医療用語の通訳は最初のうち本当に大 変でした。先生のおっしゃる単語がすぐ には英語で出て来なくて、簡単な状況の 説明で意味を伝えたり、辞書で調べなが らだったりと、今から思うと、ドクター にとっても患者さんにとっても、もどか しい時間だったのではと思います。そん な時も、全く嫌な顔もせず、じっと私の 言葉を待っていてくれるという経験を重 ねるにつれ 「このままではいけない、 もっ と勉強しなきゃ!」という気持ちが強く 沸いてきました。そんな気持ちが私を今 日まで導いてくれた気がします。   ある時、待合の場所でいつものように 待 っ て い た ら、 夫 妻 が 現 れ、 「 今 日 は セ ンターの方から通訳は違う人が行くかも しれないと言われたので、不安に思って いたんだよ」と言って、嬉しそうな表情 をして近づいてきてくれました。 その時、 微力ながらも私のことを頼りにしてくれ ているのかと感じ、とても嬉しかったこ とを覚えています。   通訳は足さない、引かないの大原則に 基づいた言葉の受け渡しですが、やはり そこに思いやる心があってこそ、より行 きとどいた通訳が出来るのではと感じた 通訳でした。   次に、薬剤師としてのご経験を活かし ながら通訳をされているAさんが経験さ れた、日本と西洋の薬に対する感覚の違 いについてご紹介する。

本ではおなじみのシップ薬、 粉薬、 坐 薬 で す が、 西 洋 で は 見 た こ と も 使ったこともないため、使い方も何の薬 かも分からない人があります。患者さん が日本人の方でない場合は、使い方が分 かるかどうか確認し、 分からない人には、 丁寧に説明し、必要があれば錠剤に変更 をします。   痛み止めや熱を下げる薬としてよく使 われる薬のひとつに「アセトアミノフェ ン 」 と い う 薬 が あ り ま す。 日 本 人 に 対 し て は、 一 回 四 〇 〇 ミ リ グ ラ ム の 量 で 効 果 が あ り ま す が、 西 洋 の 方 で は 一 回 五〇〇~六〇〇ミリグラム使わないと効 果が現れにくいことがあり、量に注意し なければ薬を使用しても効かないという ことになってしまう場合があります。   日本ではお風呂と言えば仕事が終わり 家庭に戻って寝る前に一回入るのが普通 と考えられていますが、ブラジルなどで は朝起きた時と夕方二回入るのが習慣と 聞 い て い ま す。 軟 膏、 貼 付 薬( 例 え ば、 喘 息 の 薬、 咳 止 め と し て も 使 わ れ る 薬 ) など医師の指示が 「お風呂上がりに使用」 となっている場合、日本人とは違った使 い方をされる可能性があります。   マスクの着用についても、日本では咳 がでる時など着用するのが当たり前と考 えられていますが、西洋では、マスクを 着用する習慣がないと聞いています。   何の薬か説明する場合、日本語を辞書 でひいて難しい医学用語を英語で通訳し ても、相手がその単語を知らないことも あ り、 「 分 か り や す い 言 葉 」 に な お し て 通 訳 す る こ と が 大 切 で す( 例 え ば、 「 去 痰剤」ではなく「痰を切る薬」と言い換 えて通訳します) 。   最後に、医学部に在籍し、デンマーク に 一 ヵ 月 留 学 経 験 の あ る U さ ん の エ ピ ソードである。

ン マ ー ク で は 診 察 の 最 初 に 患 者 さ ん と 握 手 を す る の が 習 慣 な の で す が、 当初はなかなか不思議な感じでした。 しかし一ヵ月たち、日本へ戻る頃には自 分 か ら 握 手 を 求 め る く ら い に な っ て い て、日本へ戻ってからも患者さんに挨拶 (次頁最下段へ続く)

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  島根県立大学短期大学部松江キャンパ スは、前身の島根県立女子短期大学時代 から継続して二十年以上にわたりアメリ カ、ワシントン州のエレンズバーグにあ る セ ン ト ラ ル・ ワ シ ン ト ン 大 学( 通 称・ セ ン ト ラ ル ) と 協 力 協 定 を 結 ん で い る。 エレンズバーグはシアトルから車で二時 間ほど内陸に入ったところにあり、大学 と干し草と牛の町だ。 松江キャンパスは、 毎年夏休みに「サマー・プログラム」と 呼ばれる短期の「海外語学研修」をセン トラル ・ ワシントン大学で実施している。 また、例年数名の留学希望者がいて、こ れまでに四十名を超える卒業生がセント ラルに留学している。この中には、毎年 井嵩子さん、高尾亜友美さん、福島翔子 さんである。

専攻と年間カレンダー

  藤井さんは「コミュニケーション」を 専攻し、副専攻は「中国語」で、来年三 月 の 卒 業 を 予 定 し て い る。 高 尾 さ ん は、 「 フ ィ ル ム & ビ デ オ 」 の 批 評 コ ー ス を 専 攻 し、 今 年 八 月 に 卒 業 を し て 帰 国 し た。 福島さんは「社会学」専攻で、副専攻は 「ビジネス」 。福島さんも来年三月の卒業 を予定している。お気付きのように、八 月卒業あり、三月卒業ありだ。   セントラルの年間カレンダーを簡単に 紹 介 す る と、 秋 学 期( 九 月 ~ 十 二 月 )、 する時は「実習生のUです」と言って思 わず握手を求めようとしていました(苦 笑 )。 ま た、 デ ン マ ー ク に い た 頃 は、 く しゃみをするとその部屋にいる全員から bless you! と 言 わ れ、 私 も 誰 か が く し ゃ み を す る と bless you! と 言 っ て い た の で、日本に戻ってからもしばらくは、く しゃみをすると bless you! が来るかと身 構 え た り、 誰 か が く し ゃ み す る と bless you! と喉まで出かかっていました。   このように、異文化に接するというこ とは、 単に言葉のやり取りだけではなく、 その文化と個人を理解するということな のである。その人の背景にある文化、ま たその文化の影響を受けて形成された人 格を思いやることが、コミュニケーショ ンの第一歩であろう。   人は健康な時ばかりではなく、病院に かからなければいけない時が突然やって くる。そんな時は、誰でも心細く不安に 思うものだが、異国に住み、言葉の壁が ある外国人にとっては、その不安はさら に大きなものになる。そんな時、このよ うな医療通訳ボランティアの方が、通訳 作業以上に親身になって寄り添ってくだ さることは、どんなに心強いことであろ うか。このような取り組みが全国、世界 に広がり、まさに「多文化共生」の輪が 広がることを期待している。   ( Kriss Lange / 総 合 文 化 学 科 教 員 * 英 語 教 育)

留学生事情

短大卒業生@セントラル・

ワシントン大学

小 玉 容 子

一名、一年間学費免除奨学生 が含まれる。   留学には大きく分けて、一 年間程度の語学留学と大学に 学部編入し卒業を目指す留学 の二タイプがある。今回は学 部 編 入 を し た 短 大 卒 業 生 に、 現在の生活についていろいろ 情報を提供してもらった。彼 女たちは島根県立女子短期大 学最後の卒業生で、文学科英 文専攻を平成二十年三月に卒 業し、卒業式の一週間後には 三 人 そ ろ っ て( 実 際 は 四 人 だったが、一人は他大学へ編 入したので今回は登場してい ない)アメリカへ渡り、留学 生生活をスタートさせた、藤 (前頁より続く)

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冬 学 期( 一 月 ~ 三 月 )、 春 学 期( 三 月 ~ 六月)の三学期と、夏学期(八~十週の コ ー ス が 二 回 ) と い う よ う に な っ て い て、どの学期からでも履修を始められる し、卒業単位を取得したところで修了と なり、卒業を迎える。   一般的には秋学期に入学して、卒業は 春学期だ。秋学期がスタートする時、入 学式にあたる新入生オリエンテーション があり、大学での生活や履修制度などに ついて説明を受ける。春学期が終わると 卒業式があり、秋・冬学期で修了した学 生や、夏学期で修了予定の学生もこの卒 業式に参加できる。八月卒業の高尾さん は、六月にガウンとキャップを身につけ て、感動の卒業式に参加した。   卒業に必要な単位は一八〇単位で、一 般教養科目、主専攻専門科目、副専攻専 門 科 目 の 合 計 単 位 で あ る( 主 専 攻 に よ り、副専攻が必要な場合と不要な場合が あ る )。 一 科 目 五 〇 分 授 業 が 週 五 回 で 五 の取得単位をどの程度移行してもらえる かにより、卒業までの期間は異なる。

専攻で何をどのように学ぶか

  三人にそれぞれの専攻でどのような勉 強をしているのかを紹介してもらおう。 藤 井   個 人 対 個 人、 個 人 対 多 数、 女 対 男、国家対国家など、様々なレベルでの コミュニケーションにおける特徴や理論 な ど を 学 び、 あ と は デ ィ ス カ ッ シ ョ ン、 プレゼンテーション、レポート提出など をガンガン要求されます。国レベルでそ の文化に基づいたコミュニケーション能 力や特徴を比較した時に、日本人として の意見をいろいろと聞かれました。他の 監督の映画も初めて見て、それまではハ リウッド映画中心だったが、日本映画も たくさん見るようになりました。クラス でただ一人のアジア人だったり、英語で プレゼンテーションを行ったりすること も多く、人見知りが克服されました。 福島   社会問題を勉強したり、それらを 理解するための統計学やデータ分析を勉 強したりしています。ロッキード事件が 課題として取り上げられた時は、様々な リーディング課題を読み、表に出なかっ た 細 か な こ と ま で 知 る こ と が で き ま し た。 最 初 は 英 語 の 勉 強 に 必 死 で し た が、 英語が分かるようになってからはいろい ろな科目に興味を持ちました。社会学や 単 位 と い う 数 え 方 な の で、 卒 業 単 位 数 だ け を 比 べ る と日本の四年制大学(通常 一二五単位)よりかなり多 いように感じるだろう。短 大卒業生は、編入学時に短 大での取得単位を移行して もらうが、何単位が認めら れ る か は 個 人 個 人 で 異 な る。   たとえば高尾さんの場合 は、平成二十年春学期・夏 学期はESLと呼ばれる大 学の付属英語学校で英語を 勉強した。学部編入は平成 二十年の秋学期からで、単 位 換 算 に よ る 移 行 単 位 が 一〇〇単位ほどあり、平成 二十二年の夏学期まで、学 部在学二年間で卒業に必要 な単位を取得したことにな る。専攻により、また短大 国の学生と意見交換や情報交換 をすることで、新しいことをた くさん学びました。初めは「参 加型授業」に圧倒されっぱなし だったけど、しばらくして慣れ てきて、授業中に頭をフル回転 させること、自分の意見を持つ ことは大切だと実感しました。 高尾   ハリウッドの歴史、映画 のジャンル、映画批評理論等の 基本的事柄を学んだり、映画の 撮影技術、演出の仕方などを理 論 面 か ら 勉 強 し た り し ま し た。 映 画 を 通 し て ア メ リ カ と 日 本、 ま た は 他 の 国 と の 文 化 の 違 い や、映画に対する見方の違いな どを学びました。また、黒澤明 監督など、日本を代表する映画

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ビジネスは、日本にいた頃は興味なかっ たのですが、英語で勉強すると一味違う 面白みがあります。社会学で、社会のし くみや自分が今生活している社会につい て知ることで、今まで見えなかった世界 が漠然とですが見えてきた気がします。

授業アラカルト

  セントラルでは、専攻の種類も授業の 種類も半端じゃないほど多い。留学して 二年目を迎えている栄養学専攻の総合文 化学科卒業生は、 「グローバル ・ ワイン ・ スタディーズ」という科目群を履修して いて、 ソムリエの資格も取得する予定だ。 しかし、もちろん二十一歳以上でないと 履修できない。藤井さんと高尾さんは体 育 で「 キ ッ ク ボ ク シ ン グ 」 を 履 修 し た。 他にも「フリスビー」 「ゴルフ」 「エアロ ビ」 「ボーリング」 「ジョギング」などな ど、体育の授業だけをとっても選択肢が 非常に多い。   どんな人材を採用したら会社にとって 有利かなどを学ぶ「ヒューマンリソース ( 人 材 学 )」 の 授 業 も お も し ろ そ う だ し、 キ ャ ン パ ス 内 で 穴 を 掘 っ て い る「 考 古 学」 も (何が出てくるか知らないけれど) 目と関心を引いたとのこと。しかし全て の授業は時間とお金に結びついているの で、皆、卒業に向けて専門科目に集中し ている。ちなみに三人とも短大での専攻 は 英 語 だ っ た。 セ ン ト ラ ル で の 専 攻 は、 編入後に一般教養で不足している単位を 取りつつ、目当ての専攻や他の専攻の勉 強内容を調べてから最終決定をした。ア メリカ人の学生も入学する時に専攻が決 まっている人ばかりではなく、大学での 勉強を始めて、徐々に専攻を絞っていく 学生も多い。

授業料および経費について

  先ほど 「時間とお金」 ということを言っ たが、アメリカではどの大学でも、授業 料や寮費、生活費などが年々値上がりし ている。州立大学のセントラルだが、授 業料は各学期およそ五六〇〇ドル。諸経 費込みの金額だが、近年は上がり幅も大 いけない。藤井さんも福島さんもこのよ うな追加の授業料を払っても卒業が延び るよりは良いということで、平成二十二 年の秋学期からは十八単位を超える履修 をして、少しでも早い卒業を目指すこと にしている。オンラインで受けられる授 業 も あ る が、 こ れ も ま た 一 科 目 に つ き 四〇ドル追加になるそうだ。   オンラインコースは、パソコンでイン ターネットを利用し自分の好きな時間に 受 け ら れ る 通 信 講 座 だ。 時 間 が 自 由 な だ け で な く、 ど こ に い て も 受 講 で き る と い う メ リ ッ ト が あ る。 先 生 の 講 義 を I-tunes で 聴 き、 資 料 は 授 業 の サ イ ト で 入手し、チャット機能を利用してのディ スカッションも時間指定で参加する。福 島さんはこの夏、日本で就職活動をしな がらオンラインで社会学の専門科目を二 科目履修した。もちろん、エレンズバー グにいて普通の授業とオンラインクラス を組み合わせて受講することもできる。

生活&アルバイトのこと

  勉 強 の こ と ば か り を 話 題 に し て き た が、お金続きでもうひとつ。留学生でも 学内のカフェテリアや図書館などでアル バイトをしている人は結構多く、時給は 八 ・ 五 〇 ド ル だ。 週 二 十 時 間 以 内 と い う 制 限 は あ る が、 藤 井 さ ん と 高 尾 さ ん は、 アルバイトでアパート代くらいは稼いで きたという。留学して最初の学期は、 皆、 寮に入って学食を利用しての生活だった が、寮費が高いのと、食事が合わないこ と も あ っ て、 す ぐ に ア パ ー ト に 移 っ た。 アパートでは自炊ができ、 ご飯を炊いて、 みそ汁を作って、日本食中心の食生活が できるので体調も安定する。   E S L で 英 語 の 勉 強 を し て い た こ ろ は、 時 間 の 余 裕 も あ り、 金 曜 日 は パ ー テ ィ !!土 曜 日 も パ ー テ ィ !!と い う 時 も あったが、学部に入ると忙しくてそんな 余裕は無くなる。金曜日も勉強、 土曜日 ・ 日曜日にはバイトも入れたりして、パー ティどころではなく、エナジー・ドリン ク(ドリンク剤)を飲んで頑張ったそう だ。そして、日本人同士で話す時は、卒 きくなっている。し かし一方、ファイナ ン シ ャ ル・ エ イ ド や チ ュ ー イ シ ョ ン・ ウェイバーと呼ばれ る授業料減免制度も 利 用 で き る。 松 江 キャンパスはセント ラルとの長い交流の 中で、減免制度も短 大卒業生枠を設けて もらっていているの で、大いに利用して もらいたい。   一 学 期 の 授 業 料。 これは十八単位まで の授業料で、それを 超えると一単位につ き約五〇〇ドルを追 加して納めなければ

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業 単 位 の 話 と か、 就 職 活 動 の 話 と か が 中 心 に な り、 パ ー テ ィ は 過 去 の も の に ……、ということで、この三人に代表さ れるように、日本人留学生は大体真面目 で勤勉な留学生生活を送っている。   楽しみは長期休暇中の国内旅行で、ラ スベガス、 ロサンゼルス、 カナダ、 ニュー ヨークなど、格安で行けるので今のうち に、 という思いで出かける留学生が多い。 エレンズバーグに住んでいると、シアト ルは近いので(車で二時間くらいは十分 かかるが、あの広いアメリカでの移動時 間としては「近い」距離)買い物だけで なく、イチローの試合もシーズン中何回 か見に行くという。その他、感謝祭、ク リ ス マ ス、 ニ ュ ー イ ヤ ー な ど の 行 事 も、 パーティや友達の家に招待されたりして 楽しんだそうだ。

卒業後に向けて

  留学生にとって、卒業後の就職は心配 ごとの一つだ。東海岸のボストンで毎秋 開催されるキャリア ・ フォーラム ( Career Forum. Net 主 催 ―― イ ン タ ー ネ ッ ト で こ の 言 葉 を 検 索 す る と 情 報 が 載 っ て い る)に、昨秋、三人は出席し、就職活動 を ス タ ー ト さ せ た。 ボ ス ト ン で は バ イ リ ン ガ ル 人 材 を 求 め る 日・ 米 の 企 業 が 一〇〇社以上ブースを出し、企業説明や 面接などを行う。同様の企業説明会がロ サンゼルスや東京でも開催され、留学生 の就職活動の場となっている。東京での キャリア ・ フォーラムに参加するために、 夏休みに日本に一時帰国する在学中の留 学生も多い。このフォーラムで、どんな 企業が来るかをウェブサイトでチェック して、履歴書を渡して歩くことが就職活 動の第一歩だ。   今年の夏、日本で就職活動をした福島 さんの場合、最終的には自宅近くの会社 か ら 内 定 を 得 て、 本 人 は も と よ り、 家 の 方 た ち が 大 変 喜 ば れ た。 彼 女 は、 英 語、韓国語、中国語の外国語力を大いに アピールしたという。社会学専攻の福島 さんだが、中国語と韓国語もセントラル で二学期間受講し、ルームメートが中国 人、友達は韓国人という環境で生活した ので、短期間で日常会話ができるほどの 力がついたそうだ。   イ ン タ ー ネ ッ ト 時 代 に な っ た お か げ で、どこにいても企業の採用情報が手に 入るようになった。企業も留学経験者の 採用に積極的になってはいるが、留学生 の就職活動は簡単ではない。履歴書を書 くこと一つとっても、日本の大学生は大 学での就活支援の中で指導を受けるだろ うが、福島さんの場合、三十社近くの会 社の採用試験を受けて、一回一回履歴書 をより良いものにしていったという。面 接や自己PRなども数をこなしながら自 分 で 工 夫 を し て い っ た そ う だ。 「 語 学 力 も上には上がいる」ということも想像で きる。就職活動ができる時期が限られて い た り、 そ の 他 に も 不 利 な 点 は あ る が、 就職活動中の高尾さん、藤井さんは、留 学で学んだことを自信を持ってアピール し、頑張ってほしい。

アメリカ留学をして

  最後に藤井さん、高尾さん、福島さん の声を伝える。 藤井   卒業の見通しがつきラストスパー トをかけるところですが、やっぱり言葉 の壁は厚く高い。自分の言いたいことが 伝わらないことにイライラしたり、そん な 自 分 自 身 に 嫌 気 が さ す こ と も あ り ま す。しかし、自分自身でその状況を乗り 越えていく力や精神力を養うことができ て、本当に留学をして良かったと思いま す。留学生活を支えてくれている両親や 家族、友達の存在に、改めて心から感謝 しています。 高尾   アメリカでの勉強を終えて、本当 に ア メ リ カ に 行 っ て 良 か っ た と 思 い ま す。アメリカかぶれだった自分が、日本 人の几帳面さだとかまじめさを改めて知 り、日本の良さに気付きました。親元を 離れての生活で、生活力も身についたと 思います。さまざまな国の人たちと出会 い、また日本人の中でも、日本にいたら 出会えなかった人たちと出会うことがで き、アメリカ留学から得たものは本当に たくさんあります。 福島   アメリカに留学して一番思うこと は、自分の視野や世界が広がったことで す。二十年間地元を離れたことがありま せんでした。アメリカでの生活では、困 難や失敗などもありましたが、自分に喝 を入れ、 時には留学生同士で励ましあい、 目 標 の 卒 業 に 向 か っ て 頑 張 っ て い ま す。 今、改めて自分の育ってきた環境に感謝 しています。家族の支えなくして留学は なかったし、地元に帰ってきた時に「お かえり」と迎えてくれる友達がいてくれ る の で、 自 分 の 原 点 を 見 失 う こ と な く、 今まで頑張ることができました。   藤井さん、高尾さん、福島さんの今後 の活躍を祈っている。 ( こ だ ま・ よ う こ / 総 合 文 化 学 科 教 員 * ア メ リカ文学)

参照

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