7
、日夏秋之介﹁明治大正の小説家﹂角川文店8
、本多川山彰﹁夏目激石論﹂英宝社 9 、伊藤整制﹁z
A
H
減石研究﹂新潮社 問、松川議﹁融行先生﹂岩波書店 日、削除桜制﹁一札口融一れ﹂近代文学鑑賞誹座角川一山 問、小林一郎﹁立円融行の市簡研究﹂国語と凶文学 日 、 寺 川 寅 送 ﹁ 反 日 滅 お 先 生 の 川 心 い 山 川 ﹂ 筑 摩 日 、 森 川 水 千 ﹁ 一 反 日 倣 一 れ ﹂ 甲 烏 書 林 目、川村与一郎﹁蹴∼れの早期作品に見えたる二傾向﹂同訴 と国文学 目 、 山 本 正 一 角 ﹁ 一 円 札 口 激 石 の 文 章 ﹂ 国 語 と 国 文 学 打 、 一 路 川 忠 治 ﹁ 一 十 規 と 減 石 ﹂ 国 語 と 国 文 学 QO、
u i k t l、 比t
丈 v r r J出 品 川 弘 1 手 託 生 噌i F 耳 、 寸 刈 M M I H む, 4 3 苛 ﹂ λ − 4 T コ コ 伐 ﹃ 一 刊 、 小 宮 山 耳 降 ﹁ 融 行 、 寅 彦 、 三 武 士 口 ﹂ 角 川 書 店﹁
方
丈
記
﹂
の構想と
その中心思怨
江 鈴 崎子
中世の無常の文学とし℃知られている﹁方丈記﹂は、す でに多くの研究がなされているが、その特色として、﹁方 丈記﹂はつはらの民民に不倣底を認め矛盾必恥じた告’けを したものである﹂︵註一︶とされる永積安明氏の消極説と、 ﹁無常の世をいかに生くべきか在身を以って追求した人生 記録である﹂︵註二︶といわれる西尾実氏の積極説がある。 一つの文学作品に対してかかる見解の相違をみることは、 その中に盛られている品忽のとらえ方によワて生ずるもの である。そこで私は、作品研究の根本的な段階である作品 自体の分析、即ち、どういう素材でいかなる表現在してい るかによって、その構想を明らかにし、それや契機として ﹁方丈記﹂の主副をつかみ、その中心思想を究明したいと 思 う ⑦ ﹁万丈記﹂に流れている思想を考察するためには、﹁方 丈記﹂を研究することによってのみ解決できるものではな く 、 作 有 川 判 長 明 の 他 の 作 品 の 研 究 、 又 は い い 仏 明 の 作 家 研 究 、 更に、当時の社会的勢など、その他あらゆる方耐からの研 究が必要であることは明らかであるが、とこでは主として ﹁方丈記﹂そのものについて行けみる乙とにする。 ﹁方丈記﹂の川山想を探究して行くに当つ℃、長明の生き た当時の世相、生い立ちについて簡単に触れてみる。 長明は千安時代の末期、一一五三年に生まれた。藤原氏 の勢力が向い℃保元の乱、千治の乱と相弐いで戦乱が起と り、世はまさに動乱の危機にあった。人々は諸行無常を感 じ 、 同 川 離 械 土 e 欣求浄土の観念から、厩壮的風潮が高まっ た。かかゐ世相に起った安元の大火、治承の大つむじ風、 - 24-﹄ d − EEL − − − I t − − f i v J ! “ f j− J B − ノ r A u u h H p t 圭 一 n t ニ ノ $ n 川 J a R 4 7 L J
’
l z r I 1︿ 福原遷都、養和の飢僅等々の天変地異は、生長期にある長 かも白た庶ず 明の精神に大きな影を投げかけている。長明は鴨河合社の 繭宜の次男として生れた。二十代において父に死別し、繭 宜の職継承の望みや失い悲嘆したが、その反動で若い頃か ら親しんだ和漢の文学、特に和歌と管絃の道に身を打ち込 ん記。和歌においては﹁鴨長明歌集﹂を父の死後まもなく 出し、三十余歳にして千載集の中に一首おさめられた。そ の喜びに励まされ、一層和歌の道に精進し、間十六歳の頃 宮中の和歌耐の寄人として選ばれた。と乙ろが亡き父のあ とである繭宜の職を継ぐことができる機会が到来し喜んだ が、同族からの芯わぬ反対で、ついに若い頃から切竪して いた家業の地位を得るととができなかった。叉長明が願主 として催した秘曲づくしの席上、彼が伝授を受けていなか った琵琶の秘曲を弾じた乙とから非難の声がでた。これら の 事 件 が 幼 い 頃 か ら の 天 変 地 同 時 中 、 不 如 意 な 人 生 に 、 千 常 か ら無常観を抱いていた乙とと相侯って、長明の出家の直接 原因となった o 五十二、三歳にして大原山に身をひそめ、 その後まもなく日野の外山に方丈の庵を作り、そ乙に関知 して晩年を過した。方丈庵に移って約四年の後︵一二一二 年︶に﹁方丈記﹂を著わし、前後して歌論書である﹁無名 抄﹂、仏教説話を集めた﹁発心集﹂ぞ書いた。二二六年 ﹁方丈記﹂著作後わずか四年にしてとの世を去った。 ﹁方丈詑﹂本文の引間は﹁古典文学大系羽﹂西尾実校注 対浮σ
, ﹂ ハ r , す ] じ 反 4 ん J ん 2 4 u p ト 羽 m u h ト 土 た J + h J f I ﹂ ん J 一 列 庁 ν 戸 J p d ノ 使 加 。 註 註 永積安明著﹁中世文学論﹂方丈記序論 西尾笑若﹁日本文芸史における中世的なもの﹂作 品としての方丈記論 日頭の部、﹁ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もと の水にあらず。淀みに浮ぷうたかたは、かつ消えかっ結び て、久しくとどまりたる例なし﹂と﹁世中にある人と栖﹂ を象徴的に提起して、都の﹁人の住ひ﹂と﹁住む人﹂との はかなさぞ共体的にとりあげている。ひき続きそれを﹁あ さがほ﹂と﹁露﹂に比喰し、無常の必定を救うととのでき ない逝命であるとして述ペている。巧みな比騰と格調高い 対句形式をもってうたい出され、とれ令序としているので あ る 。 都の生前のはかなさを暗示した作者は﹁予、ものの心を 7 知れりしより﹂と実際の作者の体験に基づくもの巻とりあ げ る 。 安元白大火は、客観的に冷静な描写で、その凄絶さそ摘 さ、都会生活では当然起乙るべき災難であり、すべてのも のははかなく焼け失せるものである乙とを認め、﹁人の営 み、皆愚かなるなかに、さしも危ふさ京中の家をつくると て、宝を費し、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る ﹂ L ﹂ 感 ず る 。 治承の大つむじ風においては、自然の猛威に対してあま りにも微弱な人間にはどうするすぺもない有様を述懐して いる。極めて詳細且つ確かな表現で、読者に事実をより事 実として迫らぜる。 作者は、同じ治承年間、世の中の明日とも頼みがたい ζ とをまざ/\と感ずる福原巡都へ筆を転ずる o 退部によってまき起こった人聞社会の醜い一聞や見逃さ ず、すみかと人の心が世の変動に一束じ変って行くものであ みことを述べる。天災ばかりか人聞の携わる治政に関する ものであっても、会く予想外の事件に遭遇し、忽ちにさび れ行く旧都のはかない生活と、新都のいまだ成らざる現実 の姿を無慈悲なまでに叙した。当時の都の者として、新興 武士に対する見方を露骨に感ぜしめる点は、作者長明が旧 社会に一周するものであったあらわれである。そして作者は 社の不必議としての、大火、大つむじ風ぞ写実的で客観的 な間接をして来た白に対し、との選都に至って可成り強い 批判の限を向けていることも注目すべきことである。 また義和の飢餓は﹁あさましさ一号﹂として取りあげた。 都の生叫が川合に礎をおくものであるが故に食糧不足にあ えぐ姿を写しだしている o 飢僅に件う庶民病の流行によって 部人の生に対する執渚を強調し、都の惨状を酷却に印象づ けている。天変地異の休験の最後にとりあげられた一瓜暦の 大地震は﹁そのさま、ょのつねなら﹂ざるもので﹁すなわ ちは、人みなあぢきなき一事をのぺて、いささか心の濁りも うすらぐかと見えしかど﹂も、月日が経つに従い﹁ととば に か け て 一 言 ひ 出 づ る 人 。 た に な し ﹂ と 作 者 は 、 人 々 白 仏 教 へ の無関心の実際で結んでいる。 以上、体験した﹁世の不思議﹂を要素として、長明が感 ずることは﹁すべて世中のありにく L 、 我 が 身 と 栖 と の 、 はかなく、あ冗なる﹂と、都の牛一泊のはかなさを序に沿い ℃暗示するところの結論に還した。そういう休駄の生み出 した長明の世界観は単なる詠嘆ではない。そこから長明は 徹底した厭世観へ発展して行くのである。﹁心をなぞます 一やは、あげて不可計﹂と世に怯む人の精神的悩み在具体的 にとりあげ、﹁いづれの所を市め℃、いかなるわざをして か、しばしもこの身を指し、たまゆらも心を休むべき﹂と 白己の内省へ眼を転ずるのである。 ここまでが﹁方丈記﹂の前牛として考え、
b
れるのである が、世の常ならぬこととして作者がみたととをたどったこ とは、作者が乙の先いかなる心抵の展開告示すかの基本づ け と な る と 思 う 。 以上の前牛の部分の素材舎整却し、その構想を考察する と弐のようになると思う。 一、序無常を感じているもの︵都の﹁人の住ひ﹂と﹁位 む 人 ﹂ ︶ - 26-占 f ノ
qf
ト ト J X E r i e ま わ え を 主 詐L
朝¢管状を酔斜に印象づ けている。天変地誌の休験の故後にとりあげられた元府の 一 一 一 一 ー 一 回 出 品 叫 幽 岨a・
・
.
‘一、無常の裏づけとなる作者の休験した事 イ 安 一 冗 の 大 中 ヘ ロ治承の大つむじ風 ハ治承の福原辺部 一一詩和の飢餓・疫病 ホ 一 川 岡 山 の 大 地 民 二一、無常の椛誌から主まれる厭世間 一’i U 丈記﹂前牛において部の生前を否定し去った長明は、 吐い寸我が生慌を簡明に振り返る。﹁しのぶかたんL
し げ か りじかど﹂父方の加はの家を去るととを余儀なくされ、三 十余政にして賀茂河原に小崎を設けた。長明にはそれまで の生前は﹁あられぬ骨﹂であり﹁心をなぞませる一引﹂の連 日刊であったり﹁をり/\のたがひめ﹂に﹁おのづからみじ かさ注をきとり﹂冗十になって大原山に隠遁した。﹁出て がたきよすがもな﹂く﹁身に官時﹂もないことが﹁何に付 けてか執念附めん﹂と沼叶いを促したのである。 大 関 山 で の 山 活 生 前 五 年 に し て 二 一 度 目 の い 松 川 、 日 野 山 の 山%に方丈の胞や結んだ。﹁六十の露出えがたに及び﹂、作家 を入山として生前できる故小限までにした﹁末現の杭り﹂ であり、長明はその庵を﹁いはば、技人の一夜の店をつく り、近︵い︶たる誕の繭ぞ営むがごとし﹂と表現している が、それは長明白身の心境から同たも白である o 方丈庵の 一、序相⋮常を感じているもの︵都の﹁人の杭ひ﹂と﹁杭 む 人 ﹂ ︶ 内外の行様を綿密に叙し℃いて、そ乙にみられるものは住 家に対する欲虫を極度に縮めたものである o そういう中に あって、﹁阿繭陀の絵像﹂﹁北川氏﹂﹁訟花経﹂をおき、﹁和 歌・管絃・往生要集とときの抄物を入れ﹂た﹁山氏龍三合を む﹂き、﹁琴・琵琶おの/\一一政ぞたつ﹂と白己の生活の よすがとするものや列挙しているととは、ひたすらに己が 生前を来しむあらわれであるり 躍のある﹁加のさま﹂、周聞の問手折々の川趣の描写は、 仏従としての遁世すの自然への浸舟が知知されるものがあ る。それにもかかわらず日常生日ι
おいては﹁去、念仏も のうく、読経まめならぬ同は、みづから休み、身、つからお と た る o さまたぐる人もなく、また恥づぺき人もなし﹂と 何ら他の支配を詐さない臼分というものを打ちだしていく 生 析 で あ る 。 ﹁ 歌 を 詠 み ﹂ ﹁ 一 日 比 古 を ひ く ﹂ 円 適 の 生 前 で 、 芸術三味に生きる長明は仏徒らしきm u p
引の肢が部く、閑対 生活を己れの心に従うま L に生きようとするのである o また山守の子を友としてあそび、うら L かな日は山野を 股渉し、静かな夜はバヤ以の戸に故人を忍び、山の雨、山 内崎、鹿、はては長の戸にも風引を長い﹁山中の景気、折に つけて、尽くる一ゃなし﹂の感慨を持ち得る生活である o そ し℃﹁いはむ阜、、探︿川山ひ、探く知らむ人のためには、と れにしも限るべから歩﹂とより z 内 攻 へ の 表 現 に ・ お い て 白 己 の境地を認識している o扱て、作者長明は我が生涯ぞ同顧し、関白生活の有様、 日常生活態度を殺して来たが、と乙に至って我が心境を述 ぺる。﹁あからさまと忠﹂った﹁仮りの苓もや L ふるさと とな﹂って、﹁ことの便りに﹂開く都は、相変らず無常の 世の中であるのに、長明には﹁た父仮りの苓のみ、の
E
け くしておそれな﹂く、﹁一身ぞぞどすに不足な﹂い住家が あゐのである。﹁身ぞ知り、世を知れれば、願はず、走ら ず 。 た い λ しづかなるぞ望︵み︶とし、憂へ無きをたのしみ とす﹂る方丈庵の生活である。そして長明のすみかは﹁身 の為にむすべり。人の為につくら﹂ないものである。 世間の人の本性の醜さ冶述べ、﹁人をなぞます、非主な り。いかいふ他の力を借るべき﹂と独肘生活に沿ける自我の 道を行くのである o それらの閑屈生活は﹁惣て、かゃうの 楽しみ﹂として一詰られ、それは﹁富める人に対していふに はあらず。久、わが身ひとつにとりて、むかし今とぞなぞ らふるばかりなり﹂と、あくまでも自我に根を下じて生き る 人 間 長 明 の 強 制 叫 さ が う か が え る 。 也一誌々と自己の生き方を説いた作者は関針生活の肯定をし て、己れの心の安らかさと白山を悟ったのである。その閑 討。気味は﹁住まずして誰かさとらむ﹂とまで敢然と言い 放てるものである。 以上﹁方丈記﹂前宇の厭世観と、長明前牛生白人生不如 意の厭世観の数々から脱出した閑島生活において、風雅を 楽しみ、自己ぞ仏徒としての隠者の範鴎に限定しないとと によっ℃臼分を見いだして来た作者長明は、再度自己とい うものを顧みる。仏の道から反省すると﹁平苓を愛するも とがと﹂なり﹁閑寂に著するもさはり﹂となる。そしてこ れは﹁嬰なき楽しみ﹂に過ぎない。とこに﹁住まずして融 かさとらん﹂の心境と相反する矛盾の壁につきあたった。 ﹁このことわりを忠ひっ父けて、みづから心に問ひ℃い はく、世を遁れ℃、山林にまじはるは、心ぞ修めて道を行 はむとなり。しかるを、汝、すがたは聖人にて、心は濁り に染めり﹂と、修道者としての自分を援視し、厳しい自己 批判を敢えてする。隠者としてあるまじき己れの態度に、 仏徒としての長明が挑むのである。﹁若とれ、貧胞の報の みづからなぞますか、はたまた安心のいたりて狂ぜるか﹂ と指しつめて来るo
が、そ乙には﹁心更に先日ふる事なL
o
− − − − − − − − − − − − − − − − − − − − 只、かたはらに舌根をぞとひて、不請︵の﹀阿繭陀仏、両. . .
. . .
. .
三 一 必 中 ハ し ︶ て ぞ み ぬ ﹂ o との最後の、宗教に不徹底な活 者の姿は何から生まれたものであろうか。長明は人間とし て、より真実でありたいのである。仏徒としての批判を下 し℃も依然として方丈の庵令愛し、閑括の気味や楽しみ続 けて行乙うとしている。そ乙に人間長明の素直な姿を見い だ す の で あ る 。 以上前牛を受ける後牛の部分の素材必整理し、 をまとめてみると共のようになると思う。 - 28 -その構想− 4 1 6 4 ﹂ − L J Z ご ノ J U 意の版世制の数々から脱出した関白生泊において、風雅を 問、我が生搾 イ 父 方 の 祖 母 の 家 口三十にして鴨の河原に小庵を結ぶ ※長明前今生から生まれる厭世観 ハ五十にして大原山に問家幽居す 己 六 十 に し
τ
日野山奥に方丈庵を結ぶ 庵の有様 その所のさま 日常生活 五‘我が心境 六、我が悟り ※ 厭 仕 組 か ら の 脱 出 七、活者とし℃の自己批判 . 、 、 、 b ν へ , F 門 m H m ﹁方丈記﹂に取り扱われている素材と排想を通して、作 品﹁方丈記﹂をみて行くとき、今一度﹁方丈記﹂を一文川︶ナ 作品として考えねばならぬ乙とがある c ﹁ 方 丈 記 ﹂ が 佐 治 、 保胤の﹁池亭記﹂︵本朝文粋巻十二所収︶の影響そ叉けて いるという ζ とは夙に指摘されているところである。単な る素材、形式の上から見れば﹁方丈記﹂は模倣の文学とも 言い兼ねない程、密接な関係が見られる。﹁方丈記﹂告知 る上には﹁池亭記﹂が﹁方丈記﹂の中に如何に影科してい E J ﹂ 附4
を交ける後牛の部分の素材。伊暴却し、 をまとめてみると共のようになると必う。 その側担 るか、その内同関係を知る必要がある。 山子旬表現上著しい類似必持つものに、 椋 を 並 ぺ 聾 を 一 争 へ る 、 h H M き 、 い や し き 、 人 の 性 ひ ハ ト か ︶ 高 家 比 レ 門 述 し 堂 、 小 出 血 隔 レ 暁 按 レ 得 ハ 地 ︶ h 唱のれが身、数ならずして、権門のかたはらじ肘ろもり は、深くよろとぶ引あれども、ドへきにたのしむに能は一九 なげき切なるときも、戸をあげて泣くことなしむ肥川やす からず、起加につ冷て、恐れ舎の L くさ去、たとへば、庄 の一恥の取に近づけるがごとし︵中心︶ 叉 近 二 勢 家 一 、 容 二 倣 F 身 一 身 、 円 阿 川 坤 : 叫 が t件 ι 花 、 M − 雌 J 山 r j e 小 J 得 レ 築 。 有 レ 楽 不 レ 市 一 一 大 川 レ 口 耐 町 、 ド 行 l h 民 不 ν怯 一 , 品 川 向 戸 山 央 一 。 進 出 行 1供、心材不 J 山 女 。 如 、 一 狛 ; り 住 之 近 一 − 肱 川 一 々 、 ︵ 山 ﹀ 放人の一夜の杭をつくり、必︵い︶たゐが、の繭岳山川なが ど と し ﹁ 十 以 ︶ 亦 猶 下 行 人 之 泣 一 一 政 府 一 、 者 五 乙 成 小 川 州 上 京 ヘ ︵ 池 ︶ 等々のごとき的似したもω
が多くみ z h れ、また取り似つた 対象物と椛成の知似は、﹁方丈心﹂前午 J じとりあげた人三 地日誌に対し、﹁地ぷ消﹂では、円以ω
北出を抗斗 u 、 ト へ い の 家の火事、賀茂川のん氷、北町のひでり等の災山川をーにりあ げ℃いる。長川明が悦の小の布りに J き こ と や − 述 べ た の に い 刈 し﹁他亭記﹂では束のい以の刊仰を抗くことによってそれ在述 ぺ、﹁方丈記﹂の後午、万丈府の生活を h 必 べ て い る の に い 刈 し、作者保胤の閑民生活左述べている υ その他相通γ
る ところが多く、践のとりあっかい方をはじめ、全文の構成に は同じ手法がみられる o ところで、以上の類似点が﹁方丈記﹂の中でいかなる位 置ぞ占めているか考察するに、﹁池亭記﹂と﹁方丈記﹂の 闘 に は 本 質 的 た 隔 り を み い だ す 。 ﹁ 池 一 日 午 記 L に描かれてい るものは繁華な部会生活を否定し、つ L ましぞかな信教的 精神による閑加生活に安性している生前記録ともいうべき である。そして﹁方丈記﹂にみる深刻な臼己内省は令く感 知できない。表現の字句対後としたものが酷似してはいる が、長明においてはその視角が臼己凝視の礎になるものと してとられておるのである。﹁他卒記﹂に形式その他の範 をとったととは写実であるが、決して模倣の文学作品では ない。長明は﹁池亭記﹂をふまえるととによって、﹁方丈 記﹂の構想を論現的にし、自己の思想を明確に捉え、より 具体的に表現できたのではなか九うか。 土 日 色 町 み 山 小 一 一 ” 山 町 以上みてきたととによって明九かなように﹁方丈記﹂は 者頭から巻末まで整った構想をもっている。 M M 式から推し て﹁枕草子﹂阜、﹁徒然草﹂の典型的な随筆とはおの守すから 具なる内容が生まれる。との作品の特殊性が、単なる随筆 ではなく、一つの小論文ともいうべき’ものであることは否 みがたい事実である o 長明はとの﹁方丈記﹂を書き川すに 当たり、確とした思想をもっていたものである。その思想 ぞ 特 川 和 一 一 な 子 訟 で 以 っ て 炎 現 し て 行 っ た と 考 え な け れ ば な ら h 、 、 。 争 匂 ’ v 作品を分析しながらたどってきた結果得た昨想に上って 主湖、思想がいかなるものであるか考察してみる o ﹁方丈記﹂のはじめにおいては無常ぞ感じているむのを と り あ げ 、 そ の 純 一 常 の 裏 付 け と し て 作 有 の 体 験 し た 一 引 い 川 を 述ぺている。作者は休験した世の恨常から脱壮耐を抱く c 後牛では我が身の不如意な牛生に版世を感じ、前市下で
ω
べ た朕世観と相侠って出家近世し、彼が讃美していた閃川生 活へ行ったのである o ぞの閑肘生前において仏徒としての きびしい自己批判を下した彼は、そとに仏牧に倣しない我 が身を認めるが、敢えてそれ冶是正しようとしなかった。 ﹁方丈記﹂の主肌は人間長明が臼己をふりかえるとたに よって、より素直に生きようとしたところにあると忠J
t
ζ の白己凝視とそ、人間の本質を探ろうとY
る別神の必さ であり、生への追求である。即ち﹁方丈記しの主闘は批の 無常から自分というもの令見いだすところにある o 長川の も つ 加 唯 一 常 観 が 、 長 明 を 生 き る 人 間 と し て 、 深 め さ せ た の で あ る o ﹁方丈記﹂の構想を支え発展させたものは外なられ無 常観である。﹁方丈記﹂の無常制は﹁徒然平﹂にみられる 無常の敵である死が念々に迫っている乙とを認識せよと説 く無常観点、﹁千家物語﹂にみられる欣求浄土の仏教的無常 観とは具るものである o ﹁方丈記﹂の無常は世の中の北 H 厄 - 30ー当たり、確とした川山想をもっていたものである。その思想 的なものから生ま礼たものではなく、長川?け F 山 切 の 休 肢 か ら 生まれたものでゐる。そ礼でとそ﹁方丈記﹂独特の川小山を つくり出し亡いるのである。 私は、はじめに水位氏と百尾氏の﹁方丈記﹂の一一党けとり 方が山部川却し﹂治以説の対照的なものがあると一一一口ったが、そ のことじついて少し触れ℃ふる。 内凡んはいず札も、作品の立味椛注の上からみておらにら が、その制点を阜、 LM ︵ に さ れ る 。 氷 山 似 氏 は 一 一 K 明の生日史的照明をもってそ、ル守一法・川けし℃ ふられら。氷川川氏の説によれば﹁方丈記﹂は社会