「あやまりて」についての再補足
著者 山本 一
雑誌名 金沢大学語学・文学研究
巻 24
ページ 21‑23
発行年 1995‑07‑01
URL http://hdl.handle.net/2297/7130
別れてふ一校務あり自露一三に野の景の綻びはじめ冬に入る舞ふほどの波の高さにあらねども 東つる野にひとつの別れ置いて来しかい蒼天の峡を占めたる〈余寒かな(昭和一一一六年京王未中‐島町立熊木小堂銭校) 働く灯ばかりをともし深雪村雪踏まぬ靴が弾みをつける旅「副詞としての「あやまりて」-中世文学の用例から-」今北陸古典研究」7、児年9月)、「副詞的な「あやまりて」についての補足」(「金沢大学壺窪T文学研究」四、叫年7月)の二つの拙稿(以下便宜的に前者を拙稿①「後者を⑦E記す)において、「かえって」「逆に」などの意味に解される「あやまりて(あやまってとの用例を報告してきたが、その後、当然言及するべき先行研究を見落としていたことに気付いたので、再度補足しておきたい。一つは、『古今著聞集」巻十七「大納言泰通狐狩を催さんとするに老狐夢枕に立っ事」の用例に関する小林保治氏の注解(西尾光一氏との共著、新潮日本古典集成「古今著聞集下』二九五頁頭廷であり、いま一つは、山田みどり氏の論考「用法の違いと意味の差と-「あやまりて」を例として-」(「同朋国文」、、卯年3月)である。小林氏は、夢の中に現れた老孤の一一一一口葉…今よりのち、おのづからもしれごとつかまつり候はぎ、其時いかなる御勘当も候べきなり。わかく候奴原に、この御気 〈研究ノート〉
「あやま、りて」についての再補足
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色のやう由含候なば、いかでかこり侍らず候べき。あやまりて御まもりとなり候て、今より後は、御内の御吉事などば、かならずつげしめしまいらすべく候」(日本古典文学大系、四七○頁)
の「あやまりて」について、拙稿①に挙げた『宇治拾遺物奎巴
の二例を示され、…の場合と同じく、「かえって反対に」の意に解すべきである。として、古典大系本の頭汪「謝罪する」を訂している。拙稿①は、本来、氏の指摘を承けて若干の用例を補足する形をとるべきはずのものであった。容易に目にし得る注釈書を見落としていたことはまことに不任意であり、小林氏には深くお詫び申し上げる。遅ればせながら、「古今著聞集」の用例を拙稿①②の用例に追加すると共に、小林氏の指摘が拙稿に先行することを改めて明記しておきたい。山田氏の論考は、右の小林氏の考えを批判的に捉え、中古から中世にかけての「あやまる」の用法を広く検討して、|見「反対に」の意味のように見える場合も、「あやまる」という動詞の用法に収まることを論じている。氏は「あやまる」の用例の検討から、「て(もとを伴わない場合には誰かの行動に関わり「はずれる」といった意味であり、「あやまりて(もこの形で連用 修飾として働くばあいには「変わって上奪えて」といった意味であること、また、「間違う」という吉』味、およびパターン化された「心あやまる」という形以外は、仮定・推量に使
われる例がほとんどであることが判った。との展望を導かれ、さらに「類聚名義抄」を援用すると、これらの多《様な意味の「本流」が「失う。忘れる」あたりにあると考えられるとして、「その筋で考えていくと、実例にうまくあてはまり、前にようやく解釈堰ほどこしたり、無理な訳をあてたりしたものも素直に訳せることがわかった」とされている。拙稿①に不明としておいた動詞「あやまる」からの意味の派生の問題が扱われており、特に「何かからはずれる」の意味がこの動詞に本来備わっていること、そこから「て」を伴っての「見方や感じ方が今までとは変わって」「考え方を変え一○の様な意味での用法が生じてくることが示されているのは、中世の「あやまりて」を理解する上で極めて右、効である。拙稿lを書くに当たって当妖尖扇心し、言及するべきであった。お託ぴと共に補訂しておきたい。ただし、山田氏が、多《様な用法を統一的に把握することに重点を置かれる一方で、中世において「あやまりて」が{表質的に「反対に」の意味を持って副詞化していく現実を否定されるように見えるのは、やや理解し難い。山田氏は、「類聚名義抄」の字訓の検討にもとづいて「あやまる」の本金義を「失う.忘れ22
る」皇ぞえるならば、種々の用法についての説明を「区別する必要がなくなる」とされるのであるが、平安時代壺窄」して共時的に見る場合はそうであろうが、中世を含めて通時的に見てもそう言わなければならないであろうか。動詞の原義をどの程度保っているかは、解釈の仕方によっても変わってくるが、拙稿①②に示した用例のうち少なくともかなりの部分は、鎌倉期にはこのような副詞化が起こっていたことを裏付けるように思われるし、山田氏が示された用例のうち中世の例、例えば、『関居の友』上巻十二話の、「…我、ものいみじく食ひて、力ありとても、なにのおこなひをかし侍べき。あやまりて、おこたりぞいでき侍べき。:.」〈新日本古典大系三九一頁)のような会話文中の用例は、「反対に」と解する方が自然なように私には思われる。もとより専門の国語学者ではない私に、品詞の認定などは能くするところではないが、中世文学の研究者として、「反対に」の意味の「あやまりて」の存在を承知し
なお、山田氏の「類聚侶扁義抄』の字争訓の硬討に関連して一つ気付いたことを付け加えると、「青」およびその異体字で下半分が「月」の字に、「反対」の意の「アャニク」と並んで「アャマッ」「アャマチ」の訓が見えている。もとより、同じ字の訓であることは、同義語であることを意味しないし豊想義語 一石として、「反対に」の意味の「あ鉤ておくべきだと老えているのである。 であることもただちには一意味しない。しかし、山田氏の老》察とも併せて考えると、〈錯誤〉〈転換〉〈反転〉等の意味領域が古くは重なり合うものとして意識され、それが「あやまる」の語で示されていたのではないかとも考えられる。それならば、「反対」の意味の「あやまりて」が派生的に生じることも不可解ではないであろう。思うに、副詞的「あやまりて」が認められにくかった理由の一つは、動詞「かへる」から派生した「かえって」のように、現代まで生き残らなかったことにあるのではないか。鎌倉期の副詞的な「あやまりて」が、中世坐億期から近世にかけてどのような推移をたどったのか、この形が存眠続しなかったのは、それ自体に何か不安定な点があったためか、それとも別な理由によるのか。そのあたりの解明が求められる。問題は意外に広くかつ深いようである。(金沢大学教育学部)
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