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意味と無意味

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(1)文学・芸術・文化. 4巻2号. 1992. 12. 意味と無意味 清. 島 秀. 樹. 【意味の有る特別な番号】 電話番号や身分証明書の番号は、 意味も無い単なる数字の羅列に見える ことが多いが、 時たま極めて珍しい特別なものに見える場合がある。 例え ば、 太郎と次郎の兄弟が何かのクレジットカ ー ドを手に入れたとする。 太郎 の番号が< 1415926535 >でも我々は「ああ、 そうか」と別に何も感じないだ ろうが、 次郎の番号が< 0123456789 >だったら殆どの人は「おっ、 珍しい、 すごい」と驚く筈。 太郎の番号は出鯰Hで何の意味も無い数字だが、 次郎の は規則を持った意味の有る特別 なもの、 と感じるのが普通だろう。 さて、 一 体、 この差は何に起因するのか。「慈味の有るもの」 と「意味の無いもの」、 「出鉗目なもの」と「規則的なもの」、「特別なもの」と「並みのもの」 など の迩いとは、 そもそも何であろうか。 この相違は、 少し真面目に考えてみる と、極めて訳の分からないものであることが明らかになってくる。 そして、 それは我々の精神の働き方の根底にまで触れる問題をも含んでいる。 数学的確率か ら 言えば、 太郎の番号と 次郎 の 番号とは、 「特殊 さ、 特別さ、 珍しさ」の点で 何処にも迩いがない。 単純な順列組み合わせの 計算.から分かることだが、 十進法の十個の算用数字を使って十桁の数列を作 る場合、 10の10乗個、 つまり百億個の異なったものが出来る。 太郎の番号 < 1415926535 >も、 次郎の番号< 0123456789 >も、 それぞれ、 この百億個の 内の つであり、 その特殊さにおいては完全に等しい。 我々が実際にカ ー ド を手に人れる場合、 誰にとっても、 太郎の番号を手に入れる可能性と、 次郎 の番号を手に人れる可能性とは、 全く同じ「百惚分の 一」 の確率である。 っ まり、 次郎の番号のほうが太郎の番号よりも手に入れ難い訳でもないし、 - 98 -. (67).

(2) 意味と無意味 消島 又、 手に入れ易い訳でもない。 どちらの番号も、 確率的には、 珍しさの点で 何の変わりもないからである。 しかし、 我々の心は数学的確率による「特殊さ」には納得しない。 誰 でも無意識に、 次郎の番号のほうを おお、 珍しい」と思ってしまう。 こ 「. れはクレジットカ ー ド以外のものでも同じ。 自分の買った宝くじの番号が < 0123456789 >だったら、 即座に「ああ、 これは駄目だ。 こんな珍奇なや っ は当たりそうもない」と思うだろうが、 (或は逆に「おっ、 珍しい。 これは 絶対に当たる」 と思う人もいるかもしれないが、)それが< 1415926535 > だったら誰もそんな特別なことは思わないで、 単に. 「. 当たればいいなあ」な. どと願う程度であろう。 一等が 一 枚だけとした場合、 それが当たる確率は百 億分の 一で、 どちらの番号にとってもその可能性は等しい。 それでも、 我々 は 一 方の番号を 特殊なもの、 珍しいもの、 異常なもの」と感じてしまい、 「. 他方に対しては何の特別な感情も持たない。 これは我々の心の自然な動きで ある。 そもそも、 番号それ自体には何の特殊性• 特別性も備わっていない。 あ る番号に特異さを感じるのは、 そこに我々の心が何等かの意味合いを投影す るからである。 次郎の番号が太郎の番号よりも確率的に珍しい訳ではな い か、 我々の精神が 次郎の番号の方に 珍しさを簡単に投彩してしまうのに対 し、 太郎のにはそれがやりにくいだけである。 この意味投影を行う人間の思 考作用なしに、 独立に「特別な番号」 などというものがそれ自体で存在する 訳ではない。 凡そ、 人が何らかの意味投彩をしやすい対象は「特殊なもの」 「意味有るもの 」 r秩序あるもの」と言われ、 それが難しい対象か「取るに 足りない寸[みのもの 4 意味無いもの」「出鱈目なもの」と言われるに過ぎな 「. い。 我々は、 次郎の番号 < 0123456789 >に対して「 一ず つ増加する数の列」 という意味を簡単に付与することが出米る。 この「 一つずつ大きくなるも の 4 の概念は、 数字を操作する上で極めて粘本的なものであり、 数のことを 少しでも扱った者なら誰もが良く知っている。 恐らく、 百人のII本人がい (68). - 97 -.

(3) 文学・芸術・文化. 4巻2号. 1992. 12. たら、まず百人 全員が等しく持っているような周知の概念である。 そこで、 次郎の番号に対しては、 誰でも、この概念をその意味として容易に投影でき る。 それは意識的努力なしに殆ど自動的に行われる。. 一. 方、それと同じこと. が、 太郎の番号に対しては即座に出来ない。何らかの既知の概念を対象に対 して投影できないとは、その対象を解釈できないことを意味する。 そこで、 太郎のは「意味が無い」 「出鱈目な」番号ということになる。 我々が既に心 の内に持っている明瞭な概念を投影できるか否かが、意味の有る無し(特殊 • 月並み、秩序・出鱈目など)を決めるのである。 さて、多くの人にとっては意味の無い 太郎の番号<1415926535 >も、 一部 の人にとっては明確で重要な意味を持 つ。 実は、この太郎の番号は円周率. 7[. の小数第1位から10位までの部分に等しい。 何かの理由で小数20位くらいま での円周率の値を毎日扱っているような人にとっては、 太郎の番号は無意味 で出鱈目なものではなく、 ちゃんとした規則を持った意味有るものである。 その人にとって. 「 円間率. 7[. を表記する数列の 一部」の概念は、慣れ親しんだ. 馴染みのものであるから、それを意味投影することは殆ど無意識の内に出来 てしまう。 そんな人が 太郎の番号のカ. ー. ドを手に入れたら、 恐らく. 「う 一. ん、珍しい」と思うに違いない。 また、 普段は円周率などと関係ないところ で暮らしてる者にしても、 「 太郎の番号は円周率. 7[. の小数部分に等しい」と. 説明された途端に、 「なあんだ、そういう番号だったのか」と思うのではな いか。 それは、これまで意味も無く出鱈目に見えた番号<1415926535 >が急 に明確な意味と秩序を持 つものとして顕れてきたからである。 無意味だった ものが意味有るものに変わった訳である。 ちなみに、我々の多くは学校時代 に円周率のことを学ぶだけで、その後はそれを余り使わない。 小数第10位ま での値なぞを毎日のように使ってる人など、人口全 体から見たら、かなり 少 ないだろう。 そんな数値は、多くの者にとって記憶の片閥で埃をかぶってい るだけで、 通常は意識にすら上らない。 そのような我々 一般人が太郎の番号 を見ても、 「円周率」の概念が簡単に浮かんで来ないのは当然である。 太郎 �96. (69).

(4) 意味と無意味 清島 の番号を解釈する概念が即座に見 つからない、 つまり、 そこに投影できる概 念が無意識に浮かんでこないので、 その番号は「無意味」 「出鱈目」 と呼ば れることになる。 それが後になって、 「円周率云々」の説明により、 自らの 知識の中に円周率の概念があることが再認識されて、 意味投影が可能になっ た結果、 太郎の番号は 「意味有るもの」になるのである。 無論、 これは円周 率に関する知識を 少しでも持っている者にとって起こることであり、円周率 のことを全く知らない者には、 その様なことは起こり得ない。 そんな人に とっては、 太郎の番号は何時まで経っても「無意味なもの」のままである。 同じ番号(数列 )でも、 人によって特別であったり無かったりする。 「特 殊性」 や. 「特別性」は、. 番号自 体に内在するものではなく、番号に意味を投. げかける人の精神作用の中に有るからだ。 誰でも、 自分の生年月日の数字と 同じものを、 次のようなものの中に見 つけた場面を想像してみればよい。 新 居の電話番号、 乗ろうとした 電車の車 体番号、 新しい職場で受け取った身分 証明吉の番号、常に使っているコンビュ ー タ ーの製造番号、 等々。 「おっ」 と言う奇異の感に打たれるに違いない。 しかし、 それは当人だけにとっての ものであり、 他の人には珍しくも何ともないものである。. A 君の生年月日を. 示す番号<19511017 >は、 A君にとっては意味が有る。 しかし、 A君以外の 殆どの人にとっては無意味な番号に過ぎない。 太郎の番号< 14 15926535 > は、 円周率の数値に熟知している者にとっては明瞭な愁味を持 つものだが、 円周率のことを忘れている者や知らない者には何の意味も無い出鮨日な数列 である。 それでは 一 体、 次郎の番号< 0123456789 >が誰にとっても. ―. 特別で. 意味あるもの」に見えるのは何故か。 それは、 この番号に対しては誰もが等 しく意味投影を出来るからである。 そこに投影するべき概念を多くの人が 持っているからである。「一 つず つ大きくなるもの」 と言う概念は、極めて 適用範囲が広いものであり、我々の身の回り至る所で頻繁に使われている。 数学世界では、 公差lの等差数列の如何なるものも、 この概念の投影対象で あり、 その様な数列の実例は無限にある。 (70). 95. く. 13. 14, 15, 16 >< -9, -8, -7 >.

(5) 文学・芸術・文化. 4巻2号. 1992. 12. <千ー, 千二, 千三>等々。(初項の選び方、 項数の選び 方が無数に有り得 るので。)この無数のものが、 「 一つずつ大きくなるもの」 と言う概念を共通 の骨格として持っている。 そして、この共有の概念骨格を持つ数列の無数の 実例が、 実際に日常世界の事物と結び付いて現れる場面も無限にある。. 一. 年. 毎に増える自らの年齢、 日にちの呼び名、 読み進んでいる小 説の頁数、駐車 場を満たしていく車の台数、 飲み屋で 次々に空けていく徳利の本数、 等々。 凡そ、 身の回りにある数えられるものなら何でも、 この概念によって把握で きる。「数える」 と言う操作を学んだ現代人の頭には、 この概念が世の事物 を見るための基本的枠糾みとして備わっている。 それは、 我々にとって殆ど 心身の 一 部に迄なっている。 そこで、 次郎の番号に対しては誰でも無意識に この概念を投影できる。 自分の持っている概念を投影するとは、意味を見出 すことに等しい。 しかも、その概念は極めて基本的で、 万人周知のものであ る。 それほどの普遍的な概念を投影できるような番号は、確かに、 そう多く はない。 だから、 次郎の番号は誰にとっても「特別」「 珍しい」と感じられ るのである。 これに対して、 円周率とその数値の概念が使われる場面は限ら れている。 まして、. A 暦の生年月日の数字なぞ. A君本人しか知らないもので. ある。 このような番号に多くの人が意味を見出せないのは当然と言い得る。 「一つずつ大きくなるもの」と言う概念と同じ位に晶本的で、 日常生活で 頻繁に使われる概念が 他にもある。 例えば、 「同じものの繰り返し(反復・ 連続)Iと言う考え。 この概念の枠組みを投影し得る事物は我々の身の回り に幾らでもある。 貧乏ゆすりの膝の動き、 ドアのノック音、 音楽のリズム、 肩たたきの動作、 歩いてる時の手足の動き、 風呂場の タ イル張りの模様、 屋 根瓦の、lf(び、 布の織 I.I、 起きて食べて寝る毎日の行動パ タ ー ン、 昼夜の交 代、 季節のめぐり、 等々。 そもそも、 生命現象の底には或る種の周期性が潜 んでいるようなので、 繰り返しや反復のリズムは 我々の本性の 一側面を成す ものとも言い得る。 そのような我々が森羅万象の中に色々な単位要素の反復 を見てしまうのは極めて自然なことである。 実際、 「 同じものの繰り返し」 - 94. (71).

(6) 意味と無意味 清島 と言う概念の枠組みを通して見ると多くの自然現象が巧く解釈できるし、 そ の概念骨格を使うことによって人間は無数の事物を創造してきた。 この誰も が持っている「繰り返し」の概念が番号(数列)になって顕れると<111111 1111 >とか. < 4444444444. >等となる。 こんな番号のクレジットカ ー ドや宝く. じを手に入れた場合も「おっ、 すごい」と鷲かざるを得ない。 これは、 次郎 の番号. < 0123456789. >が誰の目にも特別に感じられるのと同じである。 どち. らも、我々誰もが持っている極めて基本的な概念を無意識に投影できるもの だからである。 更にまた、 「 一 つず つ大きくなるものl 「同じものの繰り返 し」という二 つの概念骨格の変形や混合によっても、特別に見えるカ ー ド番 号ができる。. < 987 654321 0 ><2323232323 ><1234554321. >等々。. 次郎のカ ー ド番号などのような「特別に見える番号」「出鱈目でない 番 号」は、 色々な点で取り扱いやすい。. < 5555555555. 比べれば、 誰でも前者の方が遥かに覚えやすいし、. >と< 897 9323846 >とを 一. 度記憶した後には忘れ. ー. にくいだろう。 この二 つをノ トに書き写す場合も、 後者に比べ前者はずっ と楽に出来るし、 間迩えにくい。 前者は「 5の反復」と言う単純構造なの で、 コンピュ ー タに入力する時は「5」のキ ーを10回押すだけでよいが、 後 者にはその様に簡単で規則的な構造性が見当たらないので、 元の数列とキ ー ボ ー ドとを 一々見比べなからやらなければならず、 面倒至極になる。 さて、 単純な木構造性を持 つものとは、 ごく基本的な概念の枠を人が容易に投影でき る対象のことである。 それは言葉を変えれば、 我々の精神が処理しやすいも のを意味する。 今の場合、 前者に ついては「繰り返し」 と言う甚本的概念さ え使えば、 何の苦労もなく、 その番号を規則正しいものとして自由に扱うこ とが出来る。 これに対して、 後者の番号に関しては簡単に付与できる概念枠 が無いので、 それは出鱈目な数列となり、我々の精神はそれを楽に扱うこと が出来ない。 そして、 粘神が処理しやすいものの方に我々は注目しやすい。 上の二 つの番号を何気なく見たら、 恐らく、 誰でも前者の方に目が行きやす いのではないか。 これが「特殊な番号iの正体である。 (72). - 93 -.

(7) 文学・芸術・文化. 4巻2号. 1992. 12. 【出鱈目俳句制作プログラム】 「意味は番号それ自体に内在しているのではなく、 番号を解釈する人の心. にある」 と言うことは、 数列以外のものにも当てはまり、面白い問題を提供 する。 例えば、言語の意味に ついて。 今ここに、出鱈目に17個の平仮名の列 を作り出し続けるコンピュ ー タ・プログラムが有るとしよう。 実際、 こんな プログラムは簡単に出来る。 さて、 それを動かし始めた時、 まず最初に. 「え. このみせるいみしにわいやさか つし」 が打 ち出され、 次に「し つかさやいわ にしみいるせみのこえ」 の文字列が打 ち出されたとしたらどうか。 始めの 「えこのみせ …」 は出鱈目な文字の羅列だから 誰も何とも思わないだろう が、 次の「し つかさや …」 には日本人なら 誰しもびっくりするに違いない。 そこに否応なく意味を投影してしまうからだ。 芭蕉の名句という意味を。 そ もそも、 このプログラムが作り出し得る 異なる平仮名列の数は有限個であ る。 日本語の 単音の種類を仮にイロハの 47個とした場合は、 47の17乗個のも のしか出来ない。(無論、 清音濁音を区別するとか、 促音の扱い 方の違い等 によって字音の数は違ってくるが、 有限個という点では何の変わりもない。 一. 般的に言えば、 日本語の 異なる字音の数をn個とするなら、 俳句はnの17. 乗個以上は作り得ない。 字余りを計算に入れたところでnの18乗個以内であ る。 日本語で作り得る俳句の数は限られているのだ。 たとえその数が膨大で あるとはいえ。)さて、 「えこのみせ …」 も「し つかさや …」 も、 このプログ ラムが産み出し得る47の17乗個の内の 一実 例にすぎない。 ど ちらの文字列が 作り出される確率も完全に同じなのだ。 しかるに、 我々は 「えこのみせ …」 には何も感じないで見過ごしてしまうが、 「し つかさや …」には魂消て注目 してしまう。 我々の持っている日本語の知識情報の内には、 「えこのみせ …」に投影できる概念・知識は何もないが、 「 し. つかさや …」には多量のも. のを投影できるからである。 このプログラムが打 ち出し続ける17文字それ自体には、 もともと意味も無 意味もない。 プログラムは我々に何かを伝えようとして17文字を並べている - 92. (73).

(8) 意 味 と 無意味. 清島. のではなく、 単に 乱数に 基づいて 機械的に 字を羅 列しているだけである。 そ んな文字列の 内の或るものには特 定の意味を 見出し、或るものには何の 意味 も 見出さないのは、 そこに概念投影をする 我々の精神の 働きに 他ならない。 文字 列「し つか さや …」をきっかけとして、 我々の 精神は 自 己の内部で 活動 を 起こすことが出 来る。 一方、 ―えこのみせ . . .」 はその 様なきっかけと 成り 得ない。 この 粕神の 活動とは、 人の思考を 作り 上 げている 様々な構成要索 · 観念群 ・概念 網が 互いに アレコレと 結び付き 合うこと、 その結び 付きを 変え ることである。 そ れは 精神の 自 己変 容、 自 己再組織化と言ってもよい。 この 精神の自 己転変が、 特 定の 文字列に意味を見 つけたり 見つけなかったりする のである。 以前、 このようなプログラムを 幾つか 作って数時 間にわたり動かしてみた ことがある。 当然、 意味の 行るようなもの、 つまり、 17文字全体に対して 大 規模な概念 投影を出来るようなものは 現わ れなかった。 まあ、 そ れが 普通だ ろう。 ネコや 赤ん 坊が タ イプライ タ ーをいたずらして 打っても、 ア ル フ ァ ベットが 出 鱈 Hに打ち 出さ れるだけで、 何の意味も 成さない 文字 列が出来る ことが殆 ど。 どん 方法にしろ、 出鱈 目に 文字を 並べる 限り、 意味を成すよう な言 菓が 出来ることは極めてま れ。 こ れを 我々は 直感的に 知っている。 さて そこで、 次のような場 面を 想像してみる。 一 ― ―或る 時、 かのプロ グラムが 「し つかさや • こ にすぐ 続いて、 ―くさのともすみかはるよそ ひなのい ヘ 「 ゆくはるやとりなきうをのめはなみた」「あらた ふとあをはわかはの ひの ひかり 」 と 連続して打ち出した。 — — ーもし 現実に、 こんなことが 僕のコ ン ピュ ー タで 起こったら、 ゾッとする。 こ れらの文字列は 47の 17乗個の 内の 四 実 例に過ぎず、プロ グラムには何の意 図も 意志もないので、 こ れは 単なる 偶 然だ、 と幾ら 思おうとしたところで納得できないだろう。 確かに、このプロ グラムはその様な 四 つの 文字列を 連続して 作り出す 可能性を 持っているの で、 そ れは別に 有り 得ないことではない。 偶々そうなっただけで、 そ れ以 I二 のことは何もない。 我々が 勝 手に意味を投げかけて 特別に 忠うだけだ。 ゾッ ( 74 ). � 91.

(9) 文学・ 芸術 ・ 文化. 4 巻 2号. 1 992. 12. としたのは 僕の精神作用の 勝手な反 応 であり、 プログラムや 機械に何 か特別 な 原因がある訳 ではな い。 など と 言う 具合に考えるこ とは確 かに 正しく、 当 たって いる。 それは 少しも 間違って いない。 し かし、 我々の 心は 納 得しな い。 こんな珍し いこ とは何 か外的 原因があって 起こった、 と無意 識 に 思って しまう。 「無意味な 偶 然j ではなく「意味有る 原 因」 を 欲するの である。 我々の 心は、 四つの特別な文字列が 続くのには何 か意味が 有る、 原因が 有る と 思 い、 その 原因探しに 動きだす。 このプログラム 自 体の 中に特 別な 原因か 見つ からなければ、 コ ンピュ ー タの内の 隠された 仕掛け、 乱数 発生機能 ・ 乱 数 シ ートに 隠された 機械製作者の 秘密 メ ッ セ ー ジ か悪戯、 コ ン ピ ュ ー タ ・ ウ ィ ルスなどか 原 因 として考え 得るもの である。 し かし、 その何れ でもな かった 場合はどうなるの か。 恐ら < 、 -神 と か霊 と 言う ような 超越的 存在を持 ち 出してくるの ではな か ろう か。 我々の 未だ知 らな い力が 何ら かの 形で コ ン ビ ュ ー タに 影 臀を 与えた、 と でも言 い 出しそうな 気がする。 そう解釈する 方 が、 プログラムがたまたま 作り 出した と 解釈する よりも、 我々にはもっ とも らしく 思える から である。 「無意味な 偶然」の 概念 で解釈する よりも、 得体 の知れな い 存在 であ ろうが 「意味有る 原因」 を 想定するほうが 安心できるの だ 。 これは、 事物に 何ら かの意味や 関連性を見 出さなくては 安心できな い 我々の 精神の 傾向性を 良く 物 語っている。 ちなみに、 猫か タイプライ ターの 上 で飛び 跳ねて次の ような文字列を打 ち出した とする。. <. I a m a c at . Life. is b u l a dre a m . Enjoy your life . >さて、 これをどう解釈する か。. 「 偶然」. か、 否 か。 恐らく、 否 と 思う人が多 いだ ろう。 概念 投影を 出来る対象にはど うしても意味を見 出してしまう、 単なる 偶然のもの として 放って おけない、 解釈 できるものは 全て解釈しない と 安心できな い、 等々の人の本 性的 欲求が 「 偶然」 と いう解釈を 拙う から である。 そして、 この 英文に否 応無しに意味 を付 与してしまう。 その 卒 げ 句、 「この 猫は意識を持 ち 英語を 知って いる」 と か 「この 猫は誰 かに 操られた ー などの解釈に 達する。 こんな 奇怪な解釈で も、 「無意味な 偶然」 よりは 好まれるの である。 - 90 -. ( 75 ).

(10) 意味と無意味 清島 さて、 上の俳 句製造 プ ロ グラムを 少し変えて みよう。 今 度は、 「ああああ あ. あああああああ. あああああ」 「あああああ. あああああああ. あああ. 「あああああ あああああああ ああああう」「あああああ ああああ あい」 あああ ああああえ」と言う 具合に 五十音の 順序に 従い文字を 一 つず つ 変化 させて17文字列を作り出し 続けるようにする。 これも簡単に 出来る。 当然、 この プ ログラムは 芭蕉を 始めとする 過去のあら ゆる俳人の名 句を 全て 打ち出 すことになるし、 未来に作られるだろう名 句も余すところなく 打ち出す筈で ある。 無論、同 時に無意味な 句も数多く作るし、そちらの 方が意味の有る句 より遥かに多いだろうが、それは構わない。 ともかくも、事実として、この プ ロ グラムは人 間が作り 得る 全ての俳 句を 産 み 出す 力を持っている。 それで は、この プ ログラムに 全ての俳 句が 内在していると言って 良いのだろうか。 そこには、人類が作り 得る 全俳句の意味が何らかの 形で潜在的に 含まれて い るのだろうか。 この プ ロ グラムに、過 去未来の 全ての俳人 達の精神 世界が本 質的に 含まれているのだろうか。 それは、否、である。 或る 特定の17文字の 列に 意味を 見出すのは、人の 心である。 我々の精神の作用の 働きかけが無け れば、 つまり、特 定の概念の投影と言う解釈作用が無ければ、かの プ ロ グラ ムが 産み出し 続ける文字列は 単なる平仮名の羅列に過ぎない。 それは、意味 や無意味とは 関係ない 単なる 物 理的 模様だ。 人の精神の 働きかけがあって 初 めて意味が顕れる。 17文字の列は、そのきっかけに 過ぎない。 つまり、我々 の精神作用が無い限り、その プ ロ グラムそれ 自 体には 何の意味も無いのであ る。 一見 奇妙に 聞こえるかも知れないが、その プ ロ グラムはあら ゆる俳 句を 産み 出し 得るが、それ 自 体では 如何なる意味も 持っていないと言い 得る。. 【. 「意味の 有る. 」 組 み分けと. 「意味の無い. 」 糾み分け】. さて、 「意 味が有る」 「意味が無い」 の言 葉は、 「 役に 立つ」「 役に 立たな い 」 ことを 指す場合がある。 この 用 法は、 上に 述べてきた番号の 「 意味」や 俳 句 プ ロ グラムが作り出す文字列 の ( 76 ). 「意味. - 89 -. 」 とは迩うところもあるが、 実.

(11) 文学 ・ 芸術 ・ 文 化. 4巻2号. 1992. 1 2. は、 深い部分では極めて 似た構造を 持っている。 或る 部分では 繋がっている とさえ言ってもよい。 どちらも、 精神が自らの持 つ 既知の概念を投影した り、 諸概念どうしの 関辿網を 再編したりする 活動の 上に成り 立っているから である。 つまり、 精神の 自 己変容の 顕れなのである。 まず、百人の大学生集団を二 つの グル ープに分ける場 合を 考えてみよう。 当然、 基 準の 取りかたによって 幾らでも 異なった 組み 分けが出 来る。 例え ば、 「 男 組」 と 「女組」、 「 二十歳以 上の 者」 と. 「 二十歳未満の. 者」、 「 下宿し. ている 者」 と 「自 宅通学の者」、 「 自動 車運転免許を持っている 者」 と 「持っ ていない 者」、 「煙草を 吸う 者」 と 「吸わない 者」、 「 来週の 火曜日が 暇な 者」 と 「 ): j- J 事がある 者」 等々。 このような 分けかたは、 我々が 日常 生活でごく 普 通に 行っているものである。 これとは逆に、現実には殆どやらないような 奇 妙な 分けかたも、 理屈としては、無数に出 来る。 者」 と. 「無い 者」、 「. 「 氏名の. 中に ラの字が有る. 自 宅の 電話番号の 各桁の数字の 平均が 5以 上の 者」 と 「5. 未満の者」、 「 氏名の 中に 力 行の文字が二 つ以 上入ってる 者」 と. 「 二つ 未尚の. 者」、 「 生年月日の 西 暦年と 月 と 日の数字の合計が 奇数の人」 と. 「 偶数の. 人」、 と言う 具合に 勝手な基 準を 考えだせば、 奇怪な 組み分けを幾らでもな し 得る。 誰しも、このような分けかたは出鱈目で意味がないものと思う筈 だ。 では、 何 故、 先に 挙 げた 「男と 女」 などのような 分けかたは意味があ り、 後に 挙げた 電話番号の数字の性 質によるような分けかたは意味がないの か 。 分け 方に意味の有る無しが 生ずる根拠は何か。 そも そも、まともな分け かたと 出鱈 目な分けかたの違いとは何であ ろう。 荒っ ぽい 答え 方をすれば、 現実 世界での有 用性の有無である。 我々が暮ら していく 上で何らかの 役に 立つ分け 方は 「意味が有る 」 と言われ、何の 役に も 立ち そうもないものは 「意味が無い」 と言われる。 例えば、 性 別による 男 女の 区分は 便所や 更衣室の 設置や 使用に 必要であり、 年齢により 組み分けは 教育や 行政上の処 理に 役立ち、 空いてる日時による分け方は 宴会や 催し 物の 計画に 欠かせない。 大 学の 回りの迩 法駐車に ついて注意するにしても、 百人 - 88 -. ( 77 ).

(12) 意味と無意味 清島 の学生全員に 話す より、 「 免許証を 持っている者」だけを 対象として 集 中的 にやるほうが何かに つけて 便利であろう 。 そもそも、 我々が実際に よくやる 組み 分けとは、日 常生活の 中でその分け 方をすることが 必要 だったから生ま れた 訳である。 それは、 人 間生活に 必要であり、 役に 立 つものであるから 「意味が 有る」 と 称される 。 男と 女、 子供と大人などの分け 方は、 人類の 存 続自 体に 影 響を 及ぼす 程に 甫要なものなので、 どの 民族どの 時代にも見られ るのである 。. 一. 方、 奇怪な 基準に よる「意味が無い 」 分け 方とは、 生活の 中. でその様な分け 方を 使う 必要がないため、普通は用いられな いだけである 。 生年月日の数字の 和が 奇数であるかないかなどという分け 方は、 まず実 生活 では何の 役に 立 ちそうもない 。 氏名の 中に 含まれる 力 行の文字の数で学 生達 を分けることか、. 一. 体、 何の 役に 立つであろうか。 そこで、 この ような 分類. は 「意味が無い」とされる。 物事の有用性は 状況に よって変 化するので、 或る特 定の分け 方も、 それが なされる時代や 土地に よって、 無意 味になったり有意味になったりする 。 例 えば、 満十ニオの者と 十三オの 者とを 分けて 区別 するのは、 現代の 日 本では 教育制度などの 都合で 必要なことであるから、 意味が 有るとされる 。 しか し、 その様な分け 方が 縄文人 達の 間で 必要だったとは 到底思えないので、 彼 二. らの世 界では 恐らく無意味とされるであろう 。 満十 .オの者 達と十三オの 者 達は、 物 理的に見れば、 現代と 同じく 縄文時代にも 存在した筈だ 。 仮に、 少 し頭のおかしい 一人の 縄文人学者がいて、 生まれてくる 子供達の 年齢を何等 かの 方 法で、 例えば 子供が生まれてから 経験した 春の数をもとにして、 正確 に 記録していたとする 。 すると、 その 社会では、 やろうと思えば、 満 十ニオ と 十三オの 集団を確かに 区別 できることになる 。 しかし、 そ んな分け 力を 他 の 縄文人 達の誰が 必要とするであろうか 。 彼らの生活にとって 軍要なのは、 女なら 子供を 産める ようになったか 否か、 男なら 狩りで 獣を 倒し得る よう になったか 否かなどであり、 物 理的に 春を 経験した 回 数などではないだろ う 。 そこで、 この ( 78 ). 「満. 十 ニ オの者」 と 「十 三 オの 者 ー と言う 二 つ の 集 団 - 87 -.

(13) 文学 ・ 芸術 ・ 文化. 4巻2号. 1992. 1 2. の 区別は、 縄文人の生活にと っては 殆 ど役に 立たないので、意味が無い分け 方と言うことになる。 かの変人学 者の 記録のおか げで 区別しようと 思えば 出 来るにも関ら ず、 誰もそんな分け 方をまともなものとは思わないに違いな し \。. 同じ様な 例は我々の 回りに 幾らでもある。 「もじゃこ 」「わかし」「いなだ 」 (「はまち」) 「わらさ」「ぶり 」 のそれ ぞれの 魚集団を 区別するのは、 日 本人 にと っては意味が有るが、 イン ド人にと っては無意味である。 も っとも、そ のように 出 世魚の 各段 階を 分けて 別の 集団として扱うことは、 昔の 日本人の 生活には重要であ ったろうが、 現代の日本人にはあまり意味もなくな ってき ている。 しかし、それでもまだ、この内の幾らかの 区別は 有効に 残 ってい る。 日 本人の食 習慣がそれを 必 要としているからだ。 その 必要を 感じない 人々にと っては、 成長段 階による出 世魚の 区別な ど全く無意味なものであ る。 このようなことは、 世界の 様々な言 葉を見ると 良く分かる。 A集団が 区 別している. 「 X」. と 「 Xでないもの」 を B 集団は無意味なものとして 区別し. ていないとか、 A 集団 内 部でも 時代の 推移に つれてその 区別が無意味にな っ ていくとか、逆に時代の変 化によ って B 集団がその 区別を 採用するように な ったり、と言うようなことは 至る 所で 見られる。 状況によ って 或る 分類の意味が 出てきたり無くな ったりするものならば、 前に 百人の学 生集団の分け 方の 所で 挙 げた 奇怪な 組み分けは どうなるのか。 当然、それも特 定の 状況によ っては意味 有るものとなる。 例えば、「 氏名の 中に ラの字が 有る 者」 と 「無い 者 ] の分け 方。 便宜上これを「 ラ文字組み分 け 」 と呼ぶ。 この組み分けは 今の 世界では、ま ず何の 役にも 経たない。 そこ で、無 意味なものである。 では、 どんな 場合に意味 有る分け )jに変わるの か。 次のような 想像をしてみる。 何 白年か 後に、 或る 変人 科学 者が 自分の 勤めている大学の 生徒に対して ラ 文字糾み分けをして、 � つの 集団(「 ラ有り 組み」と「 ラ無し 糾み」)のこと を 在学中から 卒業後迄 アレコレと 調べてみた。 すると 不思 議なことに、 「 ラ 86. ( 79 ).

(14) 意味 と 無意味. 清島. 有り 組み I の中には、 「 ラ無し 組み」 に比べ、 歯糟膿漏に 罹っている 者が 少 ないことが分かった。 これは 単なる 偶然かもしれないと 思い、 他大学 の学生 や 一般 社会人 の「 ラ有り 組み」と すると、やはり. 「 ラ有り 組み. 「 ラ無し 組み」についても広く 調査した。. 」 には 歯槽膿凋に 罹っている 者が 少なかった。. ここに 至って、 突然、 ラ文字 組み分けには 意味が出てくる 。 原 因は 不 明だ が、 ラの字を 氏名 の内に 持つ 者は、そうでない 者より、 歯槽膿漏に 樅りにく い、と言う 統計的 事実が 明らかになったからである。 後に、そ の変人 科学者 はそ の原因を 探し 求めて、 ラ音の発音と 歯槽膿漏の疾患率とが関係 有るらし いことをつきとめた。 ラ音の発声によって 舌が口 腔内 壁を 激しく 擦ることに より、 歯茎の歯垢が 取れやすい。 自分 の姓名 の中に ラ音を 含んでいる 者は、 自分 の 名 前を語る時に ラ音を 発 声する。 そこで、どうしても、 「 ラ有り 組 み」 の者は 「 ラ無し 組み」 の 者よりも 頻繁に 舌で 歯垢掃 除をすることにな る。 これが 歯槽膿漏の疾患率の高低になって現われる。 さて、こ の変人学者 は 更に 妙なことに 気付いた。. 「 ラ有り 組み」. の者には、 「 ラ無し 組み 」 に比べ. て 舌癌 に罹るも のが多い。 こ の 原因も、 ラ音を 発声する 頻度 のせいらしいこ とが分かった。 こうなると、 ラ文字 糾み分けは 更に重要なも のになってく る。 と 言う のは、 ラの字 の有る 無しが 歯槽膿漏や 舌癌に 罹りやすい 者を 示す 指標になる ので、 治療や 予防が以前より 効率的に 行い得るようになったから である。 もはや、 誰も ラ文字組み分けを無 意味とは言わなくなった。 以 上は、 何 の根拠も 無い 荒庫無稽な 空想話しであり、こんな ことは 未来に もまず 起こらないだろう。 しかし、そんなことはどうでもよい。 問題な の は、 無認味と 思われていた 分 け方が 意味 有るも のになる 過程である。 そ の 要 をなす のが、 ラ文字分類に対応して 董なる 他 の分 煩の発見である。. <. ラ有り. 組み ←→ ラ無し組み > の分 類はそれだけでは 何の意味も無かったが、それに 対応して重なる < 歯槽膿漏 に罹りにくい 集団←→歯槽膿紺に 罹りやすい 集団 > の発見によって、 俄然、意味が出でくる。 更に、それと 同じ 様に 相対 応し て重なる ( 80 ). <. 舌癌に 罹りやすい 集団← 屯i癌に 罹りにくい 集団>など の 新分類 - 85 -.

(15) 文学 ・ 芸術 ・ 文化. 4巻2号. 1 992. 12. が 出てくることによって、 ラ文 字分類の重要さは 一層増し、その意 味も、よ り確 固としたものになっていく。 これを 一 般 的に言ってみよう。 分 類A< a " > a でないもの > は、 それと同 ←→ b でないもの >、. C< c ←→. 一. の構造を持って重なる 他の分類 B< b. C でないもの >、 D< d ←→ dでないもの >. 等々の 存在が確 認されている時に「 意味有るもの」 と言われる。 当然、 軍な るものを多く持 つものが、より重要で確 立した意味を持 つものになる。. 一. 方、それ自身と 軍なる 他の分類が 全く無い場 合は「無意味なもの」 に過ぎな い。 もともと、 ラ文 字分 類が無意味とされたのは、現在の 世界では、それに 重なるような 他の 組み分けが 全く 見当たらなかったからである。 これに対し て、 女と 男のような 分け方には、. <. 子供を 産める者 ←→産めない 者 > < 乳房. を持 つ者 ←→持たない者 > < 乳が 出る者 ←→出ない者 >等々の 無数の分類が 璽なっている。 つまり、 日 常生活で 頻繁に行う意味 有る分け 方とは、それに 重なる 他の組み分けが 幾つも 存在するもののことである。 それは言い 方を変 えれば、分 類A< a←→ aでないもの > による a 集団が、その 元々の 性質 a に 加えて、 他の 性質 b 、 C 、 dなどを 幾つか持 つことに 他ならない。 それは、 ラ有り 組み 集団が、 元来の <氏名の内に ラの 字を持 つこと >と言う性質の 他 に. <. 歯槽膿漏に 罹りにくい > < 舌癌になり やすい >等々の 性質を持ち、その. -)jで、 ラ無し組み 集団は、それらと反対の 諸性 質を持 つことである。 さて、分 類A<a集団←→ aでない 集団 >と同 一の 構造を持って重なる分類 B< b 集団← > bでない 集団 >、分 類C< c集団←->- C でない 集団 >などが 存在 するとは、 一体、どういうことか。 それは、簡単に言えば、 異なる事象どう しの 間に 連関 性が見 つけられた 状態を意味する。 分類 Aは、それと 相対応す るような 他の分類か無い 限りは、 �1なる 孤 1[.した事象であり、 正にその 孤立 性 ゆえに無意味とされる。 この分 類 Aに対応して 前なるような 分類 B、 Cな どが 発見されたとは、これまで無 関係と 思われていた Aと B、 Cの 問に 或る 辿関性が 見出されたことに 他ならない。 ←氏名の 中の ラ文 字」 と「 歯槽膿涸」 舌癌」 とは、かの変人 学 者の 研 究以 前には、 互いに 何の関係もない バ 84. (81 ).

(16) 意味と無意味 清島 ラバ ラのものだった。 人は、 それら に 関す る 個別の 知識や概念こ そ持ってい たが、 その人の頭の 中で、この 三つの概念は相 互 に何の 連関もなく 孤立状態 のままで 存在していた。 この 互い に 無関係だったものが、 変人学 者の 調査 に よって、 見事に結び 付 けられたのであ る。. バ ラバ ラに 離れて. いた概念が 新た. に結び 付 けられ る、 孤立していた概念が 他の概念と 関係を 持つ よう にな る、 この ような精神世 界の動きが 「意味の 無かったところ」 に 意味を 出現させ る。 或は、 古い意味 に代わ る 新たな意味を 産み 出す。 それ は、しばしば、 我々を 取り 巻く 宇宙 に対す る 深い理解をもたらし、 「 発見」 と呼ばれ ること があ る。 天空 に見え る 太 陽や 星の 運行と、目の前の リ ン ゴが 落 ち る 現象と は、 ニ ュ ート ン カ学が 登場す る以前 には、何の関係も 無い全く別の事象とし て人々の知識の 中 にあった筈だ。 この 二つのものが ニ ュ ート ン に よって結び 付けられた 結果、 宇宙 に対す る人間の 知識は 格段 に増 大す ること にな る。 そ して、大した意味もなく、あり ふれたものと 看倣されていた リ ン ゴの 落 下現 象には、 重大な意味が 現われたのであ る 。 それ以 降、人の頭の 中では、リン ゴと 宇宙とは結び 付 けられたものとなったと言い得 る。 これと同じことが、 かの 変人 学者の 発見 物 語であ る。. 【出鱈 目と 秩序】 或 るものが 秩序あ る構造性を持ってい るか 単な る 出鱈目のものであ るかを 判断す ることは難しい 。 事物 には それ 自 体 に秩序性や 出鱈目 性が 内在してい る 訳ではないからだ。 秩序や 非秩序は人間の精神が事物 に投げか け るもので あ る。 数 列< 3687 015149687 >が 出鱈 目な数の羅列か、或 る 規則 に 従ったも のかは、この数列だ けでは全く分からない。 分からないと言 う より、 決定し ようが無い。 それは、この数 列 に秩序や 非秩序が 本 質的 に内 属してい るので はないからであ る。 もし その様なものが 存在す るのならば、この数列を 調べ るだ けでこの 問題 に決 定を 下すことが出来 るのだが、 そ んなことは 不可能 だ。 では仮 に、この数列が出 鱈 目でないとした場 合、 それは どうして 分か る ( 82 ). -- 83 -.

(17) 文学 ・ 芸術 · 文化. 4巻2号. 1992. 1 2. の だ ろうか。 これが 秩序ある数 列と見なされ得る 条件は何か。 それを 幾つか 述べてみよう。 まず、 これが 知的 生物によ って何らかの 意図のもとに 作られ たことが 判明した 時である。 この数 列の 背後に、これを 作り 出した 精神の 働 きが 読み 取り得る 場合 だ。 しかし、 それ だけでは 不 十分 だ ろう。 と 言うの は、 その知的 存在が何か メ ッ セ ー ジを 伝えようとして 作 ったものなら確かに 出鱈 目ではないが、 その知的 存在が 敢えて出鱈目を意 図して 作 ったものなら 秩序ある数列とは見なしにくいからである。 では、 この数列に 特定の「生成 規則」 や 「構造性」が 存在することが 判 明した場合はどうか。 その 場合、 ま ず 前提として、 これは 或る意 図のもとに知的 存在によ って 作り 出されたもの でなければならない。 機械がたまたま 打ち出したものでは 話しにならないか ら だ。 この数列が 生物の精神 活 動と 結び付い ていることが確 認されている 上 で、 そこに何らかの 生成規則や構造性が 発見されれば、 確かに、 この数列は 出鈷 Hなものではないと言えよう。 しかし、この生成規則 や構造性を 見つけ だす 作業は 厄介である。 この数列が円周 率 7[ や自然対数の 底 e の 小数 部分の どこかの 一部である 場合なぞ、 それを 探し出すのはそう簡単にはいかない。 まして、 その生成規則が、 これを作 った 本人にしか分からないようなものの 場合、 例えば変な 暗号だ った 場合、 その 規則を 他人が 見つけ だすことは殆ど 不可能にも 近い だ ろう。 従 って、 本当に 秩序ある数列か 否かは 決定できない 場合もある。 牛成 規則 や構造性というものは、 人の 精神活動があ って 初めて 可能なもの である。 特 定のパ タ ー ンの 組み 合わせを行うのは我々の心をおいて 他に無 い。 その様な組み合わせを我々が対象に投影して、 その対象を 解釈した時、 初めてそのものに 一定の 構造性や規則性が顕れる。 これが 出来ない限り、 そ の対象は出鱈目で無意味なものの 状態に 留まり 続ける。 事物に 秩序と意味を 与えるのは我々の心である。. - 82 -. ( 83).

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参照

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