<研究ノート>高句麗都城研究と平壌安鶴宮遺跡
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(2) ノ. 第2号/2011.3 文 学 ・芸 術 ・文 化/第22巻. き な 相 違 があ る こと に起 因 す る。 そ こ で、 本 稿 で は、 近 年 の動 向 を 加 え て、 安 鶴 宮 遺 跡 に関 す る調 査 、 研 究 史 を 整 理す ると と も に、 特 に出 土 瓦 の検 討 に より 、高 句 麗 都 城 の研 究 に おけ る本 遺 跡 のあ る べき 位 置 を 明 確 に し た い。. け るた め 五 八 六 年 の遷 都 を 境 に、 そ の前 を 前 期 平 壌 城 、 後 を. 後 期 平 壌 城 と 呼 び わ け て お り 、 こ こ でも そ れ に し た が う ( 注. -) 。 そう す ると 、 こ の記事 は 、安 鶴 宮 遺 跡 を後 期 平 壌 城 と み な し て いる こと にな る。. 安 鶴 宮 遺 跡 が 注 目 され てき た のは 、 高 句 麗 の王 都 に関 す る. 文 献 史 料 の ﹁城 の中 には た だ 食 糧 や武 器 を 蓄 え 敵 の侵 攻 に備. (一) 発掘 以前 - 地 誌 の記 述 と 踏 査 によ る 知 見 -. いう 記事 ( 注2) か ら イ メ ージ さ れ る高 句 麗 王 都 に お け る山 城 と. は別 に近 く に宅 を つく り 、 い つも 城 に いるわ け では な い ﹂と. え 、 敵 が遣 ってき て はじ め て そ こ に入 って守 る。 王 は そ れと. 安 鶴 宮 は 、古 く か ら そ の存 在 が知 ら れ ており 、朝 鮮 時 代 の. 王宮 の関係 に、 こ の遺 跡 が ふ さわ し いと 理 解 さ れ てき た から. 安 鶴 宮 遺 跡 の 調査 研究 史. 地誌 ﹃ 東 国 輿 地 勝 覧 ﹄ (一四 八 一年 撰 ) の平 壌 府 の項 に次 の. に ほ か な ら な い。 つま り 、 高 句 麗 中 期 ( 三世紀 ∼四二七年). 一. よう に見 え る 。. の都 城 のお か れ た 現在 の中 国吉 林 省 集 安 市 に所 在 す る平 地 城. 山城 ( 古 く は 山 城 子 山 城 、 近 年 の現 地 では 丸 都 山 城 と 呼 ぶ). ( 遺 跡 名 は古 く は 通 溝 城 、 近 年 の現 地 では 国 内 城 と呼 ぶ) と. 在 大 城 山 東 北 。 土 築 。 周 五 千 一百 六 十 一尺 。高 十 九. の関 係 に み ら れ る平 地 の王 宮 、 山 城 のあ り か た を 継 承 す る 、. 長安城. 尺。. と み ら れ てき た か ら で あ る. 安 鶴 宮遺 跡 が 地 図 に載 せ ら れ た のは 、 一九 一五年 の ﹃ 朝鮮. 高句 麗 平 原 王 二十 八 年 。 自 平 壌 移 居 干 此 。 城 中有 安 鶴宮古趾。. ﹂( 五 万 分 の 一) と 題 す る 地 形 図 に 、 ﹁ 伝 安 鶴 宮 趾 ﹂ と し て表. こ ( 注3)の付 図 ﹁平 壌 附 近 楽 浪 郡 及 高 勾 麗 遺 蹟 圖. 文 献 史 料 によ ると 、 高 句 麗 後 期 にお け る都 城 は 、 平 壌 城 と. 示 さ れ た のが 、 早 い例 であ ろう 。 ま た 、 同 時 に 刊 行 さ れ た. 古蹟圖 譜. 呼 ば れ、 五 八六 年 ( 平 原 王 二八 年 ) の遷 都 後 は 、 長 安 城 と も. ﹃ 朝鮮古蹟圖譜. 二﹄( 注4) 、 に は 、 安 鶴 宮 の遺 跡 写 真 と 瓦 ( 軒. 呼 ば れ て いる こと が わ か る。 そ こ で、 研 究 上 では 、 混 乱 を さ. 一70一.
(3) 全 文 を 引 用 す る。. け ば 、 安 鶴 宮 遺 跡 に か んす る記 述 と し て早 いも の であ ろう 。. の遺 跡 に関 す る記 述 が あ る。 先 にあ げ た 朝 鮮 時 代 の地 誌 を 除. 丸 瓦 3型 式 、 軒 平 瓦 4型 式 ) が 掲 げ ら れ 、 同 図 譜 の解 説 に こ. 詳 細 に図 示 す る。 本 書 の解 説 は 、 そ の存 在 が 確 認 でき ず 、 未. 大 同 郡 林 原 面 四 足 里 安 鶴 宮 趾 ﹂ の 2葉 が 安 鶴 宮 と そ の周 辺 を. ﹁大 城 山 城 趾 及 安 鶴 宮 趾 及 古 墳 分 布 図 圖 ﹂ お よ び 、 ﹁平安 南 道. 11 型 式 、 軒 平 瓦 8 型 式 に 増 え て い る。 同 書 の付 図 のう ち 、. 刊 に終 わ った よ う であ り 、 ま た 関 野 は 一九 三 五 年 に亡 く な っ. 構 せ ら る ・庭 にあ り ( 地 圖 一参 照) 方 約 五六 町 続 ら す に. 平 壌 の東 北 約 三 里 、大 同 郡林 原 面 大 城 山 下な る安 鶴 宮 と. より 、 高 句 麗 時 代 の王 宮 、 す な わ ち 、 前 期 平 壌 城 と みな し た. ると 、 は じ め 安 鶴 宮 の内 部 に高 句 麗 瓦 が 散 布 し て い る こと に. も のと な った 。 遺 跡 と 遺 物 の関 連 で関 野 の見 解 の進 展 を た ど. た の で、 上 記 の 一九 二八 年 の論 文 が 関 野 の最 新 か つ最 終 的 な. 土 城を 以 てす 。傳 へて高 勾 麗 の安 鶴 宮 の遺 趾 と 稠 し、 又. のであ った 。. 傳 安 鶴 宮 趾 [三 八 四- 四 〇 二]. 長安 城 の故 地と も 云 ふ 。 土 城内 より 高 勾 麗 時 代 の者 と 認. も と づ き 、 遺 跡 は 高 句 麗 末 期 の別 宮 と いう 見 解 に変 る。 そ れ. に伴 い、 前 期 平 壌 城 の王 宮 を 別 個 にさ がす こと にな り 、 そ の. け れど も 後 に修 正 さ れ た 高 句 麗 瓦 の年 代 観 に. む べき 巴 瓦 及 び唐 草 瓦を 多 く獲 見 せ り 。其 地 形 より 判 ず る に 、或 は 長壽 王 の遷 り 都 せ し 平壌 城 の趾 跡 に はあ らざ. 結 果 、確 認 さ れた の が清 岩 里 土 城 であ る。 関 野 は こ の土 城 内. の東 より 部 分 を 王 宮 に 、西 より 部 分 に は離 宮 の存 在 を 推 定 し. る か 。 猶後 考 を 侯 つ。 二﹄( 注5). 高 句 麗 都 城 に 関 し て関 野 の没 後 の顕 著 な 動 き と し てあ げ る. 解説. そ の後 、 一九 二八 年 、 朝 鮮 の建築 、 遺 跡 な ど の体系 的 調査. べき は 、 一九 三 入年 の清 岩 里 土城 の発 掘 であ ろう 。 関 野 が王. ﹃ 朝鮮古蹟圖譜. 研 究 の先 駆 者 であ る関 野 貞 は 、 論 文 ﹁高句 麗 平 壌 城 及 び 長安. 宮 の所 在 地 に推 定 し た 土 城内 東 より の台 地 を 発 掘 し、 検 出 し. た 。 いず れも 瓦 が多 量 に散 布 し て いる箇 所 であ る。. 城 に就 い て﹂ で、 文 献 史 料 、 遺 跡 、 遺 物 を 詳 細 に検 討 し て平. た 遺構 は 、 王宮 では な く 、寺 院 跡 と み な し た 。 こ れ が清 岩 里 廃寺 であ る ( 注8) 。. 壌 地 域 にお け る高 句 麗 都 城 の全 体 像 を 示 し た ( 注6) 。 関 野 は、 翌 一九 二 九 年 、 ﹃ 高 句 麗 時 代 之 遺 蹟 ﹄( 注7) を編集 し 安 鶴 宮 遺 跡 の細 部 写 真 と 地 図 、 瓦 を 紹 介 し た 。 瓦 は 、 軒 丸 瓦. 71. 千田 高句麗都城研究 と平壌安鶴宮遺跡.
(4) ( 二). 一九 四 五年 以後 - 発掘 調 査 の成 果 -. 安 鶴 宮 遺 跡 に発 掘 調 査 の鍬 が入 った のは朝 鮮 総 督 府 に よ る植 民 地 支 配 か ら解 放 さ れ た 一九 四 五年 以 後 のこと であ る 。最 初 の発 掘 は朝 鮮 民主 主 義 人 民共和 国 ( 以 下 、 北朝 鮮 と 略 称 ) に よ り 一九 五 八 年 か ら 一九 六 一年 に か け て行 わ れ 、 一九 六 四年 に 報 告 さ れ た (﹃ 大 城 山 一帯 の高 句 麗 遺 跡 に関 す る 研 究﹄)( 注9) 。 こ の時 点 で、 始 め て土 城 内 で 建 築 遺 構 が姿 を 現 し 、 ま た 瓦 も多 量 に出 土 し た ( 軒丸瓦. 蘇. め. ♂ 01ー σ. お. 一72一. 10 型 式 、 軒 平 瓦 3 型 式 )。 そ の後 、 一九 七 〇 年 代 にも 大 規 模 な 調 査 が 実 施 さ れ 、 一九 七 三 年 に報 告 さ れ た (﹃ 大 城 山 の高 句 麗 遺 跡 ﹄)( 注-o) 。 この調査 では 、 さ ら に多 数 の建 築 遺 構 が検 出 さ れ た 。 これ ら の調 査 によ り 、 土 城 内 に は 、 回廊 で か こ ま れ た 広 場 を も つ宮 殿 風 の区 画 を 複 数 配 置 す る大 規 模 な 建 築 遺 構 の存 在 が確 認 さ れ た 。ま た建 築 遺 構 に伴 う 瓦 も 大 量 に 出 土 し 、 型 式 数 は さ ら に 増 え 、 軒 丸 瓦 15 型 式 、 軒 平 瓦 10 型 式 と な る ( 第 2, 3 図 )。 こ の 二 つ の調 査 に よ って、 採 集 資 料 のみ に 拠 ら ざ る を 得 な か った そ れ ま で の 研 究 に対 し て、 は じ め て遺 構 と 瓦 と が 関 連 を も つ資 料 と し て. 安鶴宮遺跡出土軒丸瓦. 第2図. 051Dcm 一. 鞭 灘. 第2号/2011.3 文学 ・芸 術 ・文 化/第22巻.
(5) 議 論 が 可能 に な った こ と の意義 は 大 き い。 北 朝 鮮 は 、 こ れ ら の調査 報 告 書 に お い て安 鶴 宮 遺 跡 を 前 期 平 壌 城 の王 宮 と 位 置 づ け 、 当 然 な が ら 瓦 の年 代 観 に つ いても 前 期 平 壌 城 の時 期 と み て いる。 安 鶴 宮 遺 跡 を 前 期 平 壌 城 の王 宮 と み る 見 解 は、. 癖8. 北 朝 鮮 に お い ては 、 定 説 と さ れ 、 今 日 に いた る ( 注. 0510cm LLJ. n) 。 ま た 、 日 本 で は 、 安 鶴 宮 遺 跡 の発 掘 成 果 は 、 貴 重 な高 句 麗 時 代 遺 跡 の調 査 と し て紹 介 さ れ 、以 後 、 こ の遺 跡 は前 期 平 壌 城 に属 す る遺 跡 と し てと. 、. 一73一. り あ げ ら れ る こと が 多 か った 。 そ の後 、高 句 麗末 期 説 によ って記 述 す るも のも あ ら わ れ 、 近年 で は 高 麗 時 代 説 への言 及 も 見 ら れ る よう に な ってき て いる( 注-2) 。 一方 、 中 華 人 民 共 和 国 (以 下 、 中 国 と 略 称 ) や大 韓 民 国 ( 以 下、 韓 国 と 略 称 ) で は 、 北 朝 鮮 の前 期 平 壌 城 王 宮 説 を そ のま ま 述 べる 記 述 が 多 い( 注B) 。な お、 最 近 の北朝 鮮 と 韓 国 の共 同 調 査 の報 告 書 でも 、 前 期 平壌 城 王 宮 説 にし た が っ て いる( 注14) 。 安 鶴 宮 遺 跡 の年 代 論 は 、 以 上 のよ う に諸 説 が 並 び 立 って いる状 況 であ る 。 安 鶴 宮 遺 跡 の考 古 学 側 から の年 代 論 への接 近 は 、 発 掘 調 査 で大 規 模 な 遺. 安鶴宮遺跡出土軒平瓦. 第3図. 千田 高句 麗都城研 究と平壌安鶴宮遺跡.
(6) 第2号/2011.3 文 学 ・芸 術 ・文 化/第22巻. き た安 鶴 宮 遺 跡 の瓦 の年 代 的検 討 にも と づき 概 述 す る。. が基 本 であ ると 考 え る 。 以 下 で は 、 こ れま で筆 者 が検 討 し て. 構 群 にと も な って出 土 し た資 料 、と く に瓦 類 の検 討 に よ る の. あ る の で 、今 後 、 より 良 好 な 資 料 の出 現 が期 待 さ れ る。 し か. り 、 ま た 北 朝 鮮 と 韓 国 に よ る共 同 の試 掘 調 査 も 実 施 さ れ つ つ. い。 満 月 台 遺 跡 に 関 し て は 、 近 年 、 北 朝 鮮 に よ る 発 掘 が あ. し 、 そ う し た 調 査 の結 果 は 、 ま だ ま と ま った 形 で は 報 告 さ れ. て い な い の で 、 こ こ で は 、 こ の資 料 に よ って 検 討 す る 。. 満 月 台 遺 跡 の瓦 に つ い て 軒 丸 瓦 、 軒 平 瓦 を 総 体 と し て み る. 安 鶴 宮 遺 跡 出 土 瓦 の年 代 の 検 討. 筆 者 は 、安 鶴 宮 遺 跡 の瓦 を検 討 す る 中 で 、報 告 書 の示 す 年. と 、 大 き く 、 2種 類 に 分 け る こ と が でき る 。 こ れ を 仮 に A. 二. 代観 に疑 問を も ち、 はじ めは高 句 麗末 期と 理解 し た( 主5) 。. 類 、 B類 と す る 。. 先 に 、 B類 に つ いて述 べる 。軒 丸 瓦 B類 は 、蛇 の目文 な ど. そ の後 、高 句 麗 時 代 では な く 、 高 麗 時代 に く だ る 。 と いう 見 解 に 変 わ っ て いる ( 注16) 。 こ の 間 に、 集 安 地 域 を 中 心 に 平 壌. と 呼 ば れ る 文 様 で 、 中 央 に 、 半 球 形 の 中 房 を お き 、 そ の周 囲. 瓦 は 、 B 類 と し た 以 外 の 、 蓮 華 文 な ど を 一括 す る 。 軒 平 瓦 A. 地 域 を ふ く め た 高 句 麗 時 代 の 瓦 編 年 案 に つ い ても 公 表 し. 安 鶴 宮 の瓦 を 考 え るう え で の重 要 な 基 準 のひ と つは 、 高 麗. 類 は 、 B 類 以 外 の 唐 草 文 な ど を 一括 す る 。 B 類 は 、 軒 丸 瓦 6. に 同 心 円 状 の隆起 線 を め ぐ ら す 。軒 平 瓦 B類 に つ い ては 、軒. ( 九 三 五 ∼ = 二九 二 年 ) の都 で あ った 開 城 の満 月 台 遺 跡 であ. 点 に対 し て、 軒 平 瓦 は 、 7 点 が 図 示 さ れ て いる 。 軒丸 瓦 、 軒. た( 主7) 。 こ う し て 現 在 の 筆 者 は 、 瓦 の年 代 、 そ し て遺 跡 の. る。 高 麗 の 首 都 は 、 江 華 島 に 移 っ た 時 期 (一二 三 二 ∼. 平 瓦 は 、 ほ ぼ 同 数 で あ る の で 、 複 数 の セ ット と し て 屋 根 に 葺. 丸 瓦 と 同 様 の 半 球 形 の文 様 を 2 個 配 列 す る 。 次 に A 類 の軒 丸. 一二七 〇年 ) を は さ ん で、 開 城 にあ り 、 王 宮 の所 在 地 が 満 月. か れ た も の と 理 解 し て 大 過 な い で あ ろ う 。 一方 、 A 類 は 、 軒. 年 代 を 高 麗 時 代 と み る考 え に立 って いる。. 台 遺 跡 であ る。 満 月 台 遺 跡 の瓦 に つ いては 、 一九 一八 年 刊 行. 丸 瓦 2 3 点 、 軒 平 瓦 14 点 が 図 示 さ れ て お り 、 こ れ も 不 完 全 な. さ て、 こ の よう な 瓦 の年 代 を ど う み る か 。 ま ず 、 A 類 は 、. であ ろう 。. が ら 全 体 と し て は 、 本 来 いく つか の セ ット 関 係 に あ った も の. 六﹄( 注18) に掲 載 さ れ て い る資 料 を 検 討 し. の ﹃ 朝 鮮古 蹟図譜 た。. 満 月 台 遺 跡 の瓦 は 、 採 集 資 料 であ る の で、 ﹃ 高麗史﹄ など の文 献 史 料 に みえ る多 数 の宮 殿名 と の対 比 など は行 な い得 な. 一74一.
(7) 高句麗都城研究 と平壌安鶴 宮遺 跡 千 田. お よ そ 十 二世紀 か ら 十 三 世紀 に か け て出 現 し た ので は な いか. こ こ で は 、 朴 銀 卿 の研 究 ( 注珍を 参 考 に し て B 類 は高 麗 中 期 、. が 、安 鶴 宮 の瓦 の年 代 を 考 え る 上 でも 最 重 要 の課 題 であ る。. の問 題 は B 類 の出 現 年 代 であ り 、 こ れ を 厳 密 に 決 め る こと. 解 でき 、 総体 と し て、 B類 に先 立 つも のと 理 解 でき る。 つぎ. 高 麗 時 代 に さき だ つ統 一新 羅 時 代 の文 様 を 継 承 し たも のと 理. れ て いる か ら 、安 鶴 宮 遺 跡 のタイ プ の瓦 は厳 密 に は平 壌 地 域. 瓦 にも 安 鶴 宮 遺 跡 と 類 似 した 文 様 の軒 丸 瓦 、軒 平 瓦 が 報 告 さ. て いる( 注20) 。 こ の遺 跡 で高 麗 時 代 瓦 と し て 紹 介 さ れ て い る. 句 麗 時 代 の遺 跡 に重 複 し て高 麗 時 代 の遺 構 、 遺 物 が 検 出 さ れ. 約 24 キ ロに位 置 す る元 五里 廃 寺 ( 旧 平 安 南 道 平 原 郡 ) でも 高. 色 を も った 瓦 であ る こと を 示 唆 し て いる。 な お 、 平 壌 の西 北. に対 し て、 安 鶴 宮 の瓦 は 、 ほ ぼ平 壌 地 域 に分 布 す る強 い地 域. に 限定 さ れず 、も う す こ し広 が る 可能 性 を 指 摘 し て おく 。. と 推 定 し てお く 。 こ こ で、 安鶴 宮 の瓦 にも ど る と 、 安鶴 宮 跡 か ら は 、軒 丸 瓦. 以前 、す な わ ち 、十 一∼十 二 世紀 ご ろと み る こと が でき る 。. 以 上 のよう に し て 、安 鶴 宮 遺 跡 の瓦 の年 代 は 、 B類 の出 現. セ ット 関 係 を な し て いた こと が 推 定 でき る 。 満 月 台 遺 跡 と の. 発 掘 調査 で大 規 模 な 建築 遺 跡 に伴 って、 瓦 が出 土 し た こと. 15型 式 、 軒 平 瓦 10 型 式 が 出 土 し て お り 、 軒 丸 瓦 、 軒 平 瓦 は. 比 較 で は、 B 類 が ま った く 出 て いな いこ と が ま ず 注 目 さ れ. 瓦 は、 大 き く は 、 A類 に対 比 でき る資 料 と み て いる。 満 月 台. るけ れ ど も 、 A類 と の関 係 はど う か 。 筆 者 は 、 安 鶴 宮 の軒 丸. 安 鶴 宮 の瓦 が 満 月 台 遺 跡 B類 よ り さ が る こと は な いと 考 え. た ず 、 結 論 的 には 高 麗 時 代 の遺 跡 と み な さざ る を 得 な い こと. 五 八 六 ) の時 期 では な く 、 ま た高 句 麗 末期 と す る 説も 成 り 立. 検 討 に よ っ て、 安 鶴 宮 遺 跡 は 、 前 期 平 壌 城 (四 二 七 ∼. 考 え る こと は 妥当 な手 続 き であ る 。 以 上 に 述 べた考 古 学 的 な. が 報 告 さ れ て いる わ け であ る か ら 瓦 の年 代 か ら遺 跡 の年 代 を. の瓦 に類 似 の文 様 が みあ た らな いのは 、 安 鶴 宮 の瓦 が 平 壌 地. にな る。. る。. 域 の特 色 を 濃 厚 に有 し て いるた めと 理 解 し て いる。 平 壌 地 域. 分 布 し て いる こと も 、安 鶴 宮 の瓦 が B類 に先 立 つも の であ る. 以上 のような年代的検討とは別 に、 一九七三年 の発掘調査. 三. で は 、安 鶴 宮 遺 跡 以外 で は 、満 月 台 遺 跡 のB類 にあ た る瓦 が. こ とを う が わ せ る 。す な わ ち 、 B類 が朝 鮮 半 島 に ひ ろく 分 布. 報告 以降 に、安鶴 宮遺 跡 に関係す る瓦 の採集 資料 が いく つ. 新 た な 採 集 資 料 の紹 介 と 安 鶴 宮 遺 跡 の 年 代 論. す る 、 いわば 広 域 様 式 と でも いう べき 文 様 を も つ瓦 であ る の. 一75一.
(8) 第2号/20]1,3 文 学 ・芸 術 ・文 化/第22巻. か 、 紹 介 さ れ て お り 、 遺 跡 の年 代 論 に も か か わ る と の理 解 も あ る の で、 こ こ で 言 及 し てお き た い。. 高句 麗編. (1 )﹄( 注m)に 掲 載 さ れ て い. ま ず 、 一九 八 九 年 刊 行 の ﹃朝 鮮 遺 跡 遺 物 図 3. 鱗 磯. 、. 鰹. 鑑. 4. 安鶴宮遺跡採集瓦. 第5図. る 安 鶴 宮 遺 跡 の瓦 に、 上 記 2 冊 の発 掘 報 告 書 に は み え な い型 式 の 軒 丸 瓦 2 点 が 掲 載 さ れ て い る (第 5 図 1 ・2 )。 ま た 、 二 〇 〇 五 年 、 谷 豊 信 は ■平 壌 遷 都 前 後 の 高 句 麗 瓦 に 関 す る 覚. 一76一. 書 ー 東 京 国 立 博 物 館 収 蔵 資 料 の 紹 介 1 ﹂( 注22) に お い て 、 安 鶴 宮 出 土 と いう 瓦 を 紹 介 し た 。. (第 5 図 3 ・4 )、 ﹂安. そ の 中 に は 、 や は り 上 記 報 告 書 に み え な い型 式 2点 が含ま れ ており. 鶴 宮 を 巡 る 論 争 に 一石 を 投 ず る も の ﹂ と 述 べ て い る。 こ れ ら の資 料 は 、 いず れ も 、 従 来 か ら 高 句 麗 時 代 の瓦 と さ れ てき た も ので あ って筆 者 も そ の点 に 関 し て は 異 論 が な い( 注23)。 問 題 は 、 発 掘 遺 構 と の関 連 であ る。 も し 、 遺 構 と 関 連 のあ る 瓦 で あ る な ら ば 、 安 鶴 宮 遺 跡 の年 代 が 高 句 麗 時 代 に さ か の ぼ る 可能 性 を も つこと に. 鯵,.
(9) 推 測 し てお く 。. が お こな わ れ た と いう 情 報 は な く 、 現 段 階 では 、 採 集 資 料 と. 行 以 降 、 一九 九 一年 ま で の間 、 安 鶴 宮 遺 跡 に つい て発 掘 調 査. く 、 不 明 と せ ざ るを 得 な い。 た だ 、 一九 七 三 年 の発 掘報 告 刊. こと が 明 確 であ る。 これ に対 し て前 者 に つい ては 、 解 説 が な. な るか ら であ る。 後 者 は 、 発 掘 品 では な く 、 採集 資料 であ る. た 。 いま 、 遺 構 に つい て、詳 細 に比 較検 討 す る 用 意 は な いけ. いえ ば 、 詳 細 な 年 代 を 絞 り 込 む 作 業 が 残 さ れ る こと にな っ. 研究 を大 き く進 めた ( 注25) 。 考古 学 側と し ては、瓦 に関し て. あ た る と いう 説 を 提 出 し 、安 鶴 宮 遺 跡 の歴 史 的性 格 に 関 す る. 三 五年 (一〇 八 一年 )条 に みえ る左 右 宮 のう ち の ﹁ 左宮 ﹂に. 麗時代 説を 前提 にし た上 で、安鶴宮 遺 跡を ﹃ 高 麗史﹄ 文宗. 鶴 宮 遺 跡 内 に石 室 基 底 部 を 残 す 高 句 麗 古 墳 の存 在 が 報 告 さ れ. 平面 図を掲げ ておく ( 第 4 図 )( 注26) 。 一瞥 し た だ け でも 、 平. 先 に瓦 の検 討 でも 扱 った 開 城 の満 月台 遺 跡 であ り 、 そ の遺 構. れ ど も 、 高 麗 時 代 の遺 跡 と し て安 鶴 宮 遺 跡 と 比 較 す べき は 、. て いる ( 安 鶴 宮 1 ∼ 3 号 墳 )。高 句 麗 時 代 の遺 跡 を 破 壊 し て. 地 に展 開 し た 安 鶴 宮 遺 跡 に対 し て、 狭 い尾 根 の連 続 す る 丘 陵. そ も そも 安 鶴 宮 遺 跡 では 、 一九 七 三 年 刊 行 の報 告 書 で、 安. 安 鶴 宮 遺 跡 が 造 営 され て いる こと は 明 白 であ る。 安 鶴 宮 遺 跡. 区 画 さ れ た多 数 の建 築 群 を 配 置 す る点 な ど 両 者 に多 く の共 通. 地 に配 置 さ れ た 満 月 台 遺 跡 と は 立 地 の違 いを 越 え て、 回 廊 で. な い。 した が って、 こ の よう な 遺 構 と の関 連 が 不 明 な 資 料 に. 点 を み いだ す のは さ ほど 困 難 では な い。 建 築 遺 構 に つい ても. 内 から 高 句 麗 時 代 の遺 物 が 採 集 さ れ る こと は 異 と す る に及 ば. よ って遺 跡 の年 代 論 にま で 及 ぶ のは困 難 であ ろう 。. 祖 五年 ( 九 二 二年 )条 に みえ る ﹁ 在 城 ﹂ で は な いか、 と 推 定. と 、 遺 跡 の性 格 が 問 題 に な る。 筆 者 は か つて、 ﹃ 高 麗史﹄太. 代 と み な さ ざ るを 得 な い。 高 麗 時 代 の遺 跡 と いう こと な る. 以上 のよう に 、安 鶴 宮 遺 跡 は高 句 麗 時 代 で はな く 、 高 麗 時. お わ り に1 高 句 麗 都 城 研 究 と 安 鶴 宮 遺 跡 の位 置 -. よう 。. は確 実 な 資 料 にも と つ く 新 た な 出 発 が 求 め ら れ て いると いえ. 点 は重 要 であ る。 遺 跡 ・遺 物 を 中 心 にし た 高 句 麗 都 城 の研 究. 鶴 宮 遺 跡 が 高 句 麗 都 城 研 究 の対 象 か ら は 外 れ る こと にな った. ら み ると 、 年 代 観 が 大 き く 変 わ ら ざ るを え な い。 と り わ け 安. 安 鶴 宮 遺 跡 は 、 以 上 のよ う に、 発 掘 報 告 刊 行 の当 初 段 階 か. 今 後 、 広 範 な 比 較 検 討 が 期 待 さ れ る。. し た こ と が あ る( 注24) 。 こ れ に 関 す る 近 年 の文 献 史 学 の 成 果 を み よう 。 二 〇 〇 四年 、 田 中俊 明 は 、安 鶴 宮 遺 跡出 土 瓦 の高. 77. 千田 高句麗都城研究 と平壌安鶴宮遺跡.
(10) 第2号/201].3 文 学 ・芸 術 ・文 化/第22巻. ( 追 記 ) 本 稿 は 、 都 城 制 研 究 会 (二 〇 一〇年 九 月 一入 日 、 大 阪 歴 史 博 物 館 ) にお け る発 表 ﹁高句 麗 都 城 研 究 の 一動向 平 壌 安 鶴 宮 遺 跡 を め ぐ ってー ﹂ を も と にし た も の であ る 。 研 究 会 にお いて貴 重 な ご 教 示 を 頂 いた 中 尾 芳 治 氏 を は じ め と す る諸 氏 、 成 稿 にあ た って有 益 な 助 言 を 与 え ら れ た 鈴 木 拓 也 氏 に感 謝 す る。. ︻ 注︼ ( 注 1) 田 中俊 明 ﹁後 期 の王 都 ﹂ ﹃高句 麗 の歴 史 と 遺 跡﹄ ( 東 潮 ・田. 高 麗 伝 の記 事 。 現 代 語 訳 は 田 中 俊 明. 中俊 明編 著 ) 中央 公 論 社 、 一九 九 五年 ( 注 2) ﹃周 書 ﹄ 巻 四 十 九. 年 度古 蹟 調 査 報 告﹄ 朝 鮮古 蹟 研 究 会 、 一九 四 〇 年. ( 注 9) 察 煕 国 ﹃ 大 城 山 一帯 の高 句 麗 遺 跡 に 関 す る研 究 ﹄ ( 遺跡 発. 掘 報 告 第 9 集 ) 社 会 科 学 院 出 版 社 、 一九 六 四 年. ( 注 10) 金 日成 総 合 大 学 考 古 学 ・民 俗 学 講 座 ﹃大 城 山 の高 句 麗 遺. 跡 ﹄ 金 日 成 総 合 大 学 出 版 社 、 一九 七 三 年. ( 注 11 ) 考 古 学 関 係 では 、 社 会 科 学 院 考 古 学 研 究 所 ﹃ 高句 麗文化﹄. 社 会 科 学 出 版 社 、 一九 七 五 年 、 同 ﹃朝 鮮 考 古 学 概 要 ﹄ 科 学 百. 中世編. 高 句 麗 遺 物 ﹄、 いず れ. 高 句 麗 の 城 郭 ﹄、 ﹃中. 高 句 麗 ﹄ 一九 九 一年 、 社 会 科 学 院 考 古 学 研 究 所. 科 事 典 出 版 社 、 一九 七 七 年 、 バ ク ・ジ ンウ ク ﹃朝 鮮 考 古 学 全 書. 高 句 麗 の建 築 ﹄、 ﹃中 世 編 11. ﹃朝 鮮 考 古 学 全 書 ﹄ のう ち ﹃中 世 編 4 世編 5. も 、 (㈱ ) ジ ン ・イ ンイ ン 、 二 〇 〇 九 年 、 な ど があ る 。 通 史. 事 典 出 版 社 、 一九 七 七 年 、 ﹃朝 鮮 全 史. 第 3巻. 高 句 麗 ﹄、. で は 、 社 会 科 学 院 歴 史 研 究 所 ﹃朝 鮮 通 史 (上 )﹄ 科 学 、 百 科. こ. 一九 七 九 年 な ど があ げ ら れ る。. ﹁後 期 の王 都 ﹂ (注 -前 掲 ) に よ る 。 ( 注 3) 朝 鮮 総督 府 ﹃ 朝 鮮古 蹟 図 譜. 二﹄ 一九 一五年. 一九 一五年. ( 注 4) 朝 鮮 総督 府 ﹃ 朝 鮮古 蹟 図 譜. 古 代 の都 城 - 飛 鳥 か ら 平 安 京 ま で)、 一九 八 八 年 な ど 都. ﹁後 期 の王 都 ﹂ (注 2前 掲 ) や 、 早 乙女 雅博 ﹁ピ ョン ヤ ン の遺. 城 関 係 の記 述 でも 前 期 平 壌 城 説 に よ るも のが多 い。 田 中俊 明. 集. 後 、 町 田 章 ﹁中 国 都 城 と の比 較 ﹂ ﹃ 季 刊 考 古 学 ﹄ 第 22号 ( 特. 七 、論 考 編 ) 一九 八 一年 、 が最 初 の詳 細 な 紹 介 であ る。 そ の. ( 注 12) 永 島 暉臣 慎 ﹁高 句 麗 の都 城 と 建 築 ﹂ ﹃難 波 宮 趾 の研 究﹄ ( 第. 解説. 二﹄ 一九 一五年. ( 注 5) 朝 鮮 総 督 府 ﹃朝 鮮 古 蹟 図 譜. 図 版 上 冊 ﹄ (古 蹟 調 査 特. ( 注 6) 関 野 貞 ﹁高 句 麗 平 壌 城 及 び 長 安 城 に就 い て ﹂ ﹃ 史 学雑誌 ﹄ 第 鈴 編 第 1 号 、 一九 二八 年 ( 注 7) 朝 鮮 総 督 府 ﹃高 句 麗 時 代 之 遺 蹟 別 報 告 第 7 冊 )、 一九 二九 年 ( 注 8 ) 小 泉 顕 夫 ﹁平 壌 清 岩 里 廃 寺 趾 の 調 査 ( 概報)﹂ ﹃ 昭和 十三. 一78一.
(11) 句 麗 末 期 離 宮 説 に よ って記 述 す る。 中 尾 芳 治 ・佐 藤 興 治 ・小. 跡 と 遺 物 ﹂ ﹃朝 鮮 半 島 の考 古 学 ﹄ 同 成 社 、 二 〇 〇 〇 年 、 は 高. 学 術 論 集 ﹄ 第 5集 、 一九 九 四 年. 地 方 に お け る都 城 と 山 城 の基 礎 的 研 究 1 ﹂の第 2 章 ) ﹃青 丘. (注 18 ) 朝 鮮 総 督 府 ﹃ 朝鮮古蹟図譜. 六 ﹄ 一九 一八 年. 笠 原好 彦 編 ﹃ 古 代 日本 と 朝 鮮 の都 城 ﹄ 二 〇 〇六 年 、 は 後 で触. ( 注 19 ) 朴 銀 卿 ﹁高 麗 瓦当 文 様 の編 年 研 究 ﹂ ﹃ 考 古 歴史 学 志 ﹄ 第 4 輯 、 一九 八八 年. れ る 田中 俊 明 に よ る高 麗 時 代 の ﹁左 宮 ﹂ 説 も 含 め諸 説 を 紹 介 す る。. 高句. ( 注 20 ) 小 泉 顕夫 ﹁泥佛 出 土 地 元 五里 廃 寺 趾 の調 査 ﹂ ﹃昭 和 十 二年. 度 古 蹟 調 査 報 告 ﹄ 朝 鮮 古 蹟 研 究 会 、 一九 四 〇年. ( 注 13) 近 年 の 概 説 書 や 概 説 的 記 述 を あ げ る と 、 中 国 では 魏 存 成 ﹃ 高 句 麗 遺 跡 ﹄ 文 物 出 版 社 、 二 〇 〇 二年 な ど 、 韓 国 では 姜 賢. ( 注 21 ) 朝 鮮 遺 跡 遺 物 図 鑑 編 纂 委 員 会 ﹃ 朝鮮遺跡遺物図鑑 3. 第 5 9 6 号、 二 〇 〇 五. の高 句 麗 遺 跡 ﹄ 第 75図 ⑨ )、 第 5 図 2 は ﹃ 高句 麗時代之遺蹟. ( 注 23) 平 壌 地 域 の類 例 を あ げ る 。 第 5 図 1 は 大 城 山 城 (﹃大 城 山. 年. 物 館 収 蔵 資 料 の紹 介 1 ﹂ ﹃ ] ≦dω国d] ≦. ( 注 22) 谷 豊 信 ﹁平壌 遷 都前 後 の高 句 麗 瓦 に関す る覚 書 - 東京 国 立博. 麗 編 (1)﹄ 一九 八 九 年. 淑 コ局句 麗 ﹂ ﹃韓 国考 古 学 講 義 ﹄ 韓 国 考 古 学 会 、 二 〇 〇 七 年 な ど が 代表 的 な も ので あ ろう 。 ( 注 14) 東 北 亜 歴 史 財 団 ﹃高 句 麗安 鶴 宮 調 査 報 告 二〇 〇 六年 ﹄ ( 南 北 共 同 学 術 調 査 報 告 書 2 ) 二 〇 〇 六年. 千 田 剛 道 ﹁平 壌 安 鶴 宮 遺 跡 の基 礎 的 検 討 ﹂ ﹃日. ( 注 15) 千 田 剛 道 ﹁清 岩 里 廃 寺 と 安 鶴 宮 ﹂ ﹃ 文 化財論 叢﹄ 同朋社、 一九 八 三年 本 原 史﹄ 吉 川 弘 文 館 、 一九 入 五 年. 図 版 上 冊﹄ 図 2 4 6 (﹁平 壌 ﹂)、第 5 図 3 は ﹃ 高 句麗時代 之遺 蹟. ( 注 16) 千 田 剛 道 コ局句 麗 ・高 麗 の瓦- 平 壌 地 域 を 中 心 と し てー ﹂ ﹃朝 鮮 の古 瓦 を 考 え る ﹄ 帝 塚 山 考 古 学 研 究 所 、 一九 九 六 年 、. ( ﹁土 城 里 ﹂) な ど 。. 二〇 〇 四 年. ( 注 25) 田 中 俊 明 ﹁高 句 麗 の平 壌 遷 都 ﹂ ﹃ 朝 鮮学報 ﹄第 1 90輯、. ( 注 16前 掲 ). ( 注 24) 千 田 剛 道 ﹁高 句 麗 ・高 麗 の瓦- 平 壌 地 域 を 中 心 と し てー ﹂. 図 版 上 冊 ﹄ 87 ( ﹁兵 器 所 ﹂)、 第 5 図 4 は ﹃同 ﹄ 56. 千 田 剛 道 ﹁高 麗 の瓦 i 平 壌 と 開 城 の比 較 を 中 心 にー ﹂ ﹃ 高麗 古 都 開 城 の文 化 的 価 値 と 保 存 ﹄ イ コ モ ス韓 国 委 員 会、 二〇 〇 五 年 、 参 照 。 (注 17 ) 千 田剛 道 ﹁瓦 か ら み た 高 句 麗 古 都 集 安 ﹂ (服 部 敬 史 ・千 田 剛 道 ・寺 内 威 太 郎 ・林 直 樹 ﹁工 高 句 麗 都 城 と 山 城- 中 国 東 北. 79. 千田 高句麗都城研究 と平壌安鶴 宮遺跡.
(12) 第2号/2011.3 文 学 ・芸 術 ・文 化/第22巻. 朝 鮮 遺 跡 遺 物 図 鑑 10﹄ 高 麗 (注 26 ) 朝 鮮 遺 跡 遺 物 図 鑑 編 纂 委 員 会 ﹃ 編 (1) 一九 八九 年. 第 2図. 第 1図. 安 鶴 宮 遺 跡出 土軒 平 瓦. 安 鶴 宮 遺 跡 出 土軒 丸 瓦 同右. 同右. 安鶴宮遺跡平面図 ﹃ 大 城 山 の高 句 麗 遺 跡 ﹄ (注 10 ). 図版出典. 第 3図 ﹃ 朝 鮮 遺 跡 遺 物 図 鑑 10 高 麗 編 (1 )﹄. 満 月台 遺 跡平 面図. 3 高句 麗 編 (1 )﹄ (注 21 ). ﹁平 壌 遷 都 前 後 の高 句 麗 瓦 に 関 す る 覚 書 - 東 京 国. ﹃朝 鮮 遺 跡 遺 物 図 鑑. 安鶴宮遺跡採集瓦. ( 注 26). 第 4図. 第5図 1 ・2 3 ・4. 立博物収蔵資料紹介1﹂ ( 注 22 ). :1.
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