Title
ベトナム陶磁調査紀行
Author(s)
安里, 嗣淳; 菊池, 誠一; 金武, 正紀; 手塚, 直樹
Citation
史料編集室紀要(23): 143-166
Issue Date
1998-03-27
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/7488
Rights
沖縄県教育委員会
ベ ト ナ ム 陶 磁 調 査 紀 行
1 2 3 4 淳 一 紀 樹 嗣 誠 正 直 里 池 武 塚 安 菊 金 手1
.は じめに 琉球王国が、中国や東南アジアの国々と貿易 をお こなっていたことは、琉球王国時 代の外交文書集 『歴代賓案』 をは じめ とする古記録 に明 らかであ り、また、各地のグ スク時代遺跡か ら出土するおびただ しい陶磁器類がそれを示 している。グスク遺跡の 陶磁器の多 くは中国産であるが、少量なが ら今帰仁城や首里城跡、勝連城跡 などか ら タイ陶磁器やベ トナム陶磁器が出土 している。ベ トナム陶磁器は1
5-1
6
世紀頃の青磁 碗 、青花碗 、瓶 、大皿、色絵椀 、合子などで、当時か ら琉球 とベ トナムの交流があっ たことを物語 っている。 これ らのベ トナム陶磁器が琉球 にもた らされた経緯 を明 らかにする手掛か りを得 る ために、私たち4
人は、1
9
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7
(平成9
)年1
2
月2
7
日か ら1
9
9
8
(平成1
0)
年1
月6
日ま で、ベ トナムの生産地や積み出 し港の状況の調査 をおこなった。幸い、ハ ノイ国家大 学ベ トナム研究 。交流セ ンター所長 フアン ・ブイ ・レ一教授 をは じめ、ベ トナム側の 関係者 ・関係機関のご協力のおかげで、円滑 な調査 を実施 し、多 くの成果 を得 ること がで きた。 調査の詳細 についてはいずれ報告 したいが、その予報 として、また今後の諸調査の 参考のため、 と りあえず 「調査紀行」の形で記録 を残 してお きたい。 なお、この調査 は沖縄県教育委員会が企画 し、財団法人沖縄県文化振興会 に委託 し て実施 している 「沖縄県史編集事業」の一環 として取 り組 まれた ものである。 2.ベ トナム陶磁器調査の経緯1
9
9
7
年1
2
月2
7
日 (ij 香港経由ハ ノイ市へ 安里 と金武は那覇か ら香港経由でハ ノイに向か う。ハ ノイ空港到着後 タクシーで市 内のホテルへ。官庁や博物館、劇場、公園のある市内の中心地のバクナム (BacNan) ホテルに到着。夜 、国立考古学研究所の トン氏がホテルを訪問。同氏は1
9
9
4
年 に沖縄 を訪 れ、各地の グスクなどを踏査 し、また沖縄の考古学研究者 と交流 したことのある 人物である。翌 日の博物館見学な どをうちあわせ る。1
2
月2
8
日 (日) ハ ノイ市内の博物館 、文廟 (1) 鮒 沖 縄 県 文 化 振 興 会 ・史 料 編 集 室 主 幹 (2) 昭 和 女 子 大 学 非 常 勤 講 師 (3)沖 縄 県 那 覇 市 教 育 委 員 会 文 化 課 長 (4) 鎌 倉 考 古 学 研 究 所 長一
1 4 3-朝 はまず路上の屋台でハ ノイの庶民料理 「フォー」を食べる。沖縄のソーメン汁 に よく似ていて、安 くて美味。以後、ほ とんど毎朝 これを食べて通 した。 トンさんの案 内で近 くの国立博物館 を見学。土器、陶磁器、青銅器などを観察。繊細な文様が施 さ れた有名 な銅鼓文化の陳列が 目をひ く。館の外の売店で陶磁器関係の古書 を求める。 昼食後国立美術館へ、陶磁器 も少 しあるがほとんど近代美術 の展示が多 く、隣の文廟 へ向か う。王朝時代 にベ トナムの秀才たちが勉学に励んだ場所である。道路 に面 した 塀の隅に 「下馬」碑がある。沖縄の崇元寺の外塀の隅に建立 されている 「下馬」碑 と 同 じ性格 の もので、中国に起源 をもち北京の国子藍にもある。後で石碑 に詳 しいハ イ フン省博物館長に伺 った ところ、ベ トナムにはほかにも 1下 馬」碑があるとのことで あった。境内の両側 には亀の背に建て られた形の石碑群がある。国家試験の合格者 た ちの記念碑 である。 この 日の朝、手塚 と菊池は成田を出発 し、香港経由で夕方ハ ノイ空港 に着 き、バ ク ナムホテルで安里、金武 と合流。夜、 トンさんの家に招かれ夕食 をごちそ うになる。 日本、琉球 とベ トナム陶磁器 をめ ぐる話題で歓談する。電話でタクシーをよび、ホテ ルへ戻 る。
1
2
月2
9
日 LB) 午前8
時、バ クナムホテルで今 回の調査の受け入れ機関であるハ ノイ国家大学付属 ベ トナム研究 ・交流セ γタ-所長で歴史学科のフアン 。フイ ・レ- (
Pha
nHu
yLe
)
教授 と、講師のグェン ・ヴァン ・キム(
Ngu
y
e
nVa
nKi
m
院文金 ) さんをま じえ て、調査の打 ち合わせ を した。 レ一教授 はベ トナムを代表する歴史学者で数々の著作 があ り、 またベ トナム歴史学会会長やベ トナム ・日本友好協会副会長などの要職 にあ り、 日本のベ トナム研究者の間では旧知の方である。キム講師は 日本留学の経験があ り、江戸時代研究 を専門 としている若い研究者である。今 回の調査は、すべてこの研 究セ ンターが各地方機関や博物館 に連絡 をとり、受け入れの準備 をすすめて くれた。8
時4
0
分 、今 回の調査 に同行 して くれるキムさんと、彼 らが手配 して くれた車で、 まずバ クニ ン(
Ba
cNi
nh)
省のフーラン(
Ph
uLa
n
g)
に向か うoベ トナムの南北 を縦断 し、北 は中国国境のランソン(
La
n
gS
o
n)
まで通 じてい る国道1号線 を北上 す る。 国道 といって も名ばか りで、道は狭い。 しか も トラックなどの通行量が多い うえに 自転車、オー トバ イがあふれ、対向車や追い越 し車 に冷や冷やの連続でであった。5
0
分ほ どでバ クこ ン省の文化局につ く。以前 はハバ ック(
HaBa
c
)
省 といっていたが、 昨年(
1
9
9
7
年)バ クこ ン省 とバ クジャン(
Ba
cGi
a
n
g)
省 に分割 されたのである。 この地は、北部ベ トナムの伝統を深 く刻みつけた土地柄で、民謡のクアンホ(
Qua
n
Ho
)
の故郷 と して名高い。陰暦の正月に民族衣装 に着飾った男女が舟のうえで、恋歌 など を掛 けあ うのである。 クェボー(
Qu
eVo)
県の人民委員会 に立 ち寄 り、県の役人であるロン ・ダン氏 の 案内で1
1時3
0
分、7-ランに到着07-ランは北部を代表す る伝統的な窯業生産地の ひとつである。女性が右 回 りのロクロを使用 して陶器 を造 り、男性は窯焚 きなどの仕 事 に従事するとい う性別分業がなされている。ここでは、主 に無相の瓶や壷、鉢、甑、 棺桶 などを生産 し、一部粕薬のかかった製品 も焼いているo製品はハ ノイや北部の各 - 144-省 に船や トラック、自転車などで出荷 しているが、昔は河川 を航行する船がお もな輸 送手段であった。船でソンカウ
(
SongCau)
を下 り、タイビン(
ThaiBi
nh)
省 、 タインホア(
ThankHo乱)
省 まで製品が運ばれるという。 見学後、遅い昼食 をとり、県の人民委員会 に挨拶 を し、帰路、ティエ ンソン(
Ti
e
n
Son)
県に所在する李朝時代の皇帝 を配 るデ ン ド- (
De
nDo)
と、彫刻がすぼ ら し いデ イン 。デインバ ン(
Di
nhDi
nhBang)
を見学す る。ハ ノイ市 内 に戻 り、古書 店でベ トナム考古学関係の書籍 を購入する。 夜 は7
時か らホテルで夕食会。参加者 は研究センターの レ一教授、副所長で言語学 の トワッ ト(
Thuat
)
教授、そ して考古学主任のハ ・ヴァン ・カン(
HaVanKhan)
教授 、 ラム 。テ ィ ・ミ一 ・ズ ン(
Lam ThiMy Dung)
講 師 、 グ ェ ン ・テ ィユ(
Nguye
nChi
e
u)
講師である。 この席上 、安里か ら今 回の調査 の趣 旨が、金武か ら 沖縄 出土のベ トナム陶磁器の説明がなされた。 また、ベ トナム側か らベ トナム と琉球 の交流 を示す 『歴代賓案』の文献提供の要望がなされた。現在、ベ トナムにはこの史 料 がないため、ベ トナム歴史学界はこの史料 に強い関心 をよせているとのことである。1
2
月3
0
日 ㈹ ハイフン省の古窯跡へ 朝、7
時1
0
分 にホテルを出発 し、国道5
号線 に入 り、ハ イズ ォン(
Ha主Duong)
市 に向か う。 きょうと明 日は、沖縄 出土のベ トナム陶磁器の生産地を探 る旅である。 道 は北部 を代表す る貿易港ハイフォン(
Ha主Phong)
に通 じているため、道路の拡 張工事がお こなわれていた。以前 とくらべると整備 され、道路状況が よくなっている ら しい。 8'時40分 、ハ イズ ォン市内にあるハイフン(
HaiHung)
省博物館 に到着。 博物館長のタン ・バー 。ホアイン(
TangBaHoanh)
氏 か らハ イフン省の窯跡 に ついて簡単 な説明 をうけ、収蔵庫の陶磁器 を特別に見学 させて もらった。収蔵庫内の 展示ケースには、1996年に発掘 されたミイサー(
MyXa)
窯跡 出土遺物があ り、 こ のなかに色絵椀がある。これは、以前 にチュウダオ(
Chu Dau)
窯跡 で発見 された 色絵碗片 に続いて2
例 日の発見である。 この遺跡出土の大半は青花碗や皿であ り、若 干の焼締陶器 も出土 している。年代的には、16-18世紀頃 と考えられている。このほ かに、チュウダオやバー トウイ(
BaThuy)
窯跡、ヴァンイェン(
VanYe
n)
窯跡、 ランゴイ(
LangNgo
i)窯跡 、ホップレ- (
HopLe)
窯跡の灰原出土品が収蔵 され ている。 これ らの遺跡のなかで、白地褐彩陶器片や見込みに "金玉満堂"銘のある青 磁片 を出土 した ヴァンイェン窯跡 は、この地域のなかで も古い窯跡のようだ。1
3-1
4
世紀 と考えられているが、青磁片 については、ベ トナム産 とする博物館長 と中国産 と す るわれわれの見解 に分かれた。また、チュウダオ製品 と考えられるホイアン沖の沈 没船引 き揚 げ遺物で、見込みに菊花の紋様のある青花盤や、チュウダオの伝世品であ る青花鉢が沖縄 出土のベ トナム青花 と類似 していることを確認 した。 別室 には、チュウダオとホ ップレ-などの窯跡の遺物が出土層位 ごとに棚 に整理 さ れていた。大半が青花であるが焼締陶 もある。これらの焼締陶のなかには、茶道の世 界で "縄簾" とよばれるものや、長崎や堺 などで出土 している1
7
世紀代の長胴瓶 と類 似す るもの もある。また、ランゴム リンサー9
3(
LangCom Li
nわ Xa 9
3)
と注記 のある青花椀 は1
7
世紀後半の肥前磁器であ り、宋印船貿易後の 日本 とベ トナムの交流 - 145-を偲 ばせ る貴重 な資料である。年代 の判明す る肥前磁器の発見 は、年代確定の難 しい ベ トナムの窯跡の年代 を知 るうえで有力 な資料 となろう。 収蔵庫 の資料調査後 、博物館の展示 を見学 した。そ してハ イフン省の遺跡 に同道 し て くれる考古学担当職員であるグェ ン ・ズイ ・クオン (NguyenDuyCuong)さん と宿泊先の タイン ドン (ThanhDong)ホテルで手続 き。昼食後 、遺跡見学 に向か う。 タイ ビン (ThaiBinh)川 、 キ ンタイ (Kink Thay)川 をわた り、チ - リン (chiLinh)県の役所 、そ して13時45分、 コ一夕イン (CoThanh)村 の人民委員会 に寄 る。14時、ランゴム (LangCom)遺跡 に着 く。 まず 、 デ ン ド- (Den Do) 窯跡群 を見学 し、住民の案内で陶磁器が拾 える地点 に案内を して もらう。遺跡 はキ ン タイ川の右岸 にあ り、多数の陶片が散布 していた。若干の青磁片や青花片 も採集で き た。青磁 は中国龍泉窯系で15-16世紀頃、青花 はベ トナム産で16世紀 頃の ものであろ う
。
川べ りにあることか ら一見積み出 し港の遺跡か と錯覚 しかねないが、この広大 な デル タの川 は何度 も流路 を変 えてお り、現況地形 と当時 とではかな りの違いがある と の ことである。川べ りには床面のみであるが窯跡 も確認す ることがで きた。堤防を越 えた反対側 は田畑 になっているが、 ここで も陶片が多数散布 し、広範囲な窯跡 と考 え られる。近 々発掘調査 をお こなう予定 とい う。 15時10分 、この地か ら対岸 のナム タイ ン (Nan Thanh)県ベ ン リンサ ー (Ben LinhXa)窯跡 にい くため、車で船着場 までい く。ひ とり400ドン (日本円で約4円) を払い、小型船で数十 メー トルの川 を渡 る。着いた ところがすでに遺跡であ り、陶片 が無数 に散布 していた。私たちは、ここで年号銘のある陶片 を採集することができた。 銘 には "光宝十年" とあ り、これは実朝の年号で1563年である。窯跡の年代 を考 える うえで貴重 な発見である。 この窯跡 は無粕陶器 をお もに焼いてお り、 この点で対岸の ランゴム との関連が強い。両遺跡が どの ような関係 にあったのか、今後の課題である。 遺跡踏査後、また船で対岸 に戻 り、16時に帰路 につ く。途 中、村の人民委員会 に寄 っ て職員 を降ろ し、17時30分博物館着。 12月31日 (A) チュウダオ窯跡へ 今 日は大晦 日であるが、ベ トナムは旧暦 による正月なので年の瀬 とい う雰囲気 はな く、ふだん とまった く変わ らない。朝7時20分 にホテルを出発 し、博物館で学芸員 の クオンさんを乗せ、チ ュウダオ窯跡 に向か う。 8時13分、チュウダオに到着。 まず 、 寺の脇 に作 られた遺物収蔵庫 を見学す る. このなかには、ガラスケースの整理棚 にチ ュウダオの発掘遺物が層位 ごとに並べ られていた。出土遺物の大半 は省の博物館 に保 管 されてい るが、その一部が村 に置かjt、見学者のために供 されているのである。見 学後 、村内を歩 き、窯跡や発掘地点 をみる。若干の遺物が散布 していた。そ して、堤 防 を越 え、 ミンタン (MinhTan)村 に属す る ミイサー (My Xa)遺跡 にい く。現 在 、水 田になっているこの地点で1996年 にハ ノイの考古学研究所 と歴史博物館 、ホー チ ミン市の歴史博物館 が協 同で発掘調査 を実施 し、色絵 や青花 な どが出土 した。発掘 トレンチの周辺 に も青花椀 や皿、焼締陶片が散布 していた。チュウダオの生産 と類似 してお り、 また至近距離で もあ り、チ ュウダオ窯跡群のひ とつ として把捉で きよう。 遺跡見学後、堤防上 を歩いて、チュウダオ村や付近の地形 をみる。チ ュウダオには-
146-古 い船着場があった といわれ、現在で もその地点 をソンベ ン
(
S
o
n
gBe
n)
と呼 んで いる。ソンは川、ベ ンとは船 .渦合着場の意味である。堤防がで きる前は、このソンベ ンか らクツ ト(
So
n
gCu
t)
川が タイビン川 までのぴていたとい う。 タイ ビン川 に出 れば海は近い。 しか し、タイビン川の氾濫 を食い止めるため、フランス植民地時代 に 堤防を築 き、 またクッ ト川は埋め られ、現在では一面の玉萄黍畑 になっている。雨の 多い月はこの玉萄黍畑が水面下に没するという。また、堤防を築いたときの土は周囲 か ら土取 りしているため低地にな り、現在 は水 田となっている。そのため旧川跡の よ うな印象 をうける。地域 に詳 しい研究者の同道がなければ、地形判断に大 きな誤 りを 生 じて しまう。 周囲の観察後、堤防をお り、チュウダオ村 をまた歩 く。4
年頃前 に壊 された窯跡 も あ り、現在では家の下 にな り、わずかに床面が確認で きた。 また、オース トラリアの アデ レー ド大学の調査地点では、付近の家が ごみ穴 を掘 ってお り、ここか らも多数の 青花碗や皿な どの製品がみ られた。色絵 などを焼いていたチュウダオは東南アジアや 沖縄 などに輸 出されたベ トナム製品の生産地のひとつである可能性が高い。 11時に出発 し、ハ イズ ォン市 に戻 る。1
2
時5
5
分 にロ ンスェ ン(
Lo
n
gXuy
e
n)
社 のランカイ(
La
n
g°a
y)
に向か う.1
3
時1
8
分 に到着。ここは、現在で も陶磁器生 産 をおこなっている相である。大半の製品は型づ くりの皿で、瓦 なども生産 している。 ヴ- .テ一 ・クウ (
VuTh
eCu
u)
氏宅 を訪問 し、 聞 き取 り調査 をお こなった。氏 は7
0
歳で、この地で長い間、陶磁器生産に携わ り、数々の優秀 な製品を作 り、国か ら 勲章を受けたひとである。氏 によると、池や井戸 を掘った ときに、古い時代の青磁や 青花、陶器な どが出土するとい う。また、ホ ップレ- (HopLe
)
のひ とび とが この 地に移住 して生産 を開始 した、 という伝承 もあるとい う。ナムサ ック (南策)の地は、1
6
-1
7
世紀 にかけて大規模 な戦場地 とな り、この戟禍 を避けて移住 したらしい。その 後、氏の案内で最近 まで稼働 していた窯 を見学 した。4
年前 までは7
0
基ほどの窯があっ たが、現在では二、三家族が生産に従事 しているだけ とい う。ここにも、 ドイモイに よる市場原理 を導入 した結果、伝統的な地場産業が崩壊 しているようにみえる。 訪問 した家では、ち ょうど型づ くりによって皿の生産 と粕掛 け、窯詰め、サヤづ く りをおこなっていた.使用する粘土はチ- リン県か ら購入す るとい う。敷地には レン ガ造 りの煙突式窯があ り、一回の窯詰めで約8千個の皿 を焼 き、焼成時間は24時間 といっ。
1
4
時4
5
分、カム ビン(
Ca
m Bi
nh)
県フックラオ(
Ph
n
cLa
o)
窯跡 に到着。 この 地は1
9
9
6
年 に試掘調査 され、青花椀や褐粕椀などが出土 している遺跡である。ケ-サ ッ ト(
S
o
n
gKeSa
t
)
川の西 に位置 し、広範囲に陶磁器や窯道具が散布 していた。 こ の地を1
5
時1
5
分 に出発 し、1
5
時4
0
分にホ ップ レ-窯跡 に到着。両遺跡は至近距離であ る。ホ ップレ-では、村のいたる所 に陶磁片が散布 し、村全体が厚い陶磁片の上 にあ るような印象 をうける。村人の話では4m
下 まで陶磁片が出土するという。ケ-サ ッ ト川の川辺の陶磁片の集中 しているところを観察す る。青花や鉄絵 、焼締陶片 などが 散布 していた。 とくに、鉄絵 は長崎などに出土 している1
7
世紀の鉄絵皿 と類似 してい るような印象 をうける。その後、9
0
年にお こなわれた発掘地点の見学 をおこない、帰 路 につ く。1
7
時 に博物館着。 - 147-1
9
9
8
年1
月1
日 (*) クァンニ ン省のヴァン ドン港へ 小雨の降る元旦 となった。 しか し、ベ トナムは陰暦 による正月であるため、いつ も と変わ らない。7
時4
0
分、ホテルを出発。ハ イズ ォン市か ら国道1
8
号線 にでて、西 に 進み、クァンニ ン (QuangNinh)省ホ ンガイ (HongGa主)市 に向か う。たびたび 料金所 を通過 したが、そのぶん道路 はよい。両側の水 田地帯では田植 えの光景が見 ら れ、新暦の正月は人々の生活のなかでは無関係 だとい うことを実感する。8
時5
5
分 、 国道1
8
号線沿いにある ドンチエ (Dong Chieu)町に寄 り、 グェ ン ・ズ ィ 。ヒイユ (NguyenDuyHieu)氏の窯場 を見学 した。ここでは、型づ くりに よる植木鉢 な ど 大型青花鉢 を主に生産 している。この地での生産の開始 は、1
9
5
6
年頃か ら広東省 出身 の中国人の指導 をうけて国営生産 をは じめ、 ドイモイ以後は個人経営 に移行 し、現在 では約2
0
家族が生産に従事 しているとい う。氏の窯場 には大形の階段状連房式登窯が あ り、ち ょうど窯詰めを しているところであった。また、近 くでは女性が製品に紋様 を措いていたが、手慣 れた筆使いで、ひ とつの製品の紋様 を3
0
分ほどで措 ききって し まう。ここの製品は、お もにハ ノイやハ イフンなどに出荷 しているという。ハ ノイ郊 外の一大窯業地バ ッチ ヤン (BaTrang)を近 くにもつハ ノイ市場への出荷 が可 能 な のは、バ ッチ ヤンでは植木鉢などの大形製品をあまり作 らないため、ここの製品が市 場 に出回る との ことである。9
時4
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分 出発。車窓か ら遠 く、ハ ロン湾 に浮かぶ奇岩がみえて くる。1
0
時1
5
分、ウ ォンビー (UongBi)町で休憩。1
0
時3
7
分出発 し、11時3
3
分 、船着場 に到着 。 カー フェリーに乗 り、1
0
分ほどで対岸 に着 く。1
2
時にクァンニン省文化局に着 くが、昼休 みになってお り留守で、近 くの食堂 にい く。1
3
時1
0
分、文化局で打 ち合せ。局長 は1
4
時に見 える との ことで 、省 の史跡名勝管理室長の ゴ ・チュ ン ・ホア (Ngo Trung Hoa)氏 と女性職員の ヴ- 。カイン ・ズェン (VuKhanhDuyen)さんが対応 を し て くれた。ズェンさんはキムさんの大学の歴史学科の先輩であ り、久 しぶ りの再会 と のことであった。途中か ら局長 もみえ、ヴァン ドン港調査のための話 し合いが進め ら れた。 その結果 、明 日の早朝 、モー ターボー トで、ハ ロン湾の ク ァンラ ン (Dao QuanLan)島のカイラン (CaiLang)遺跡、 そ して ゴ ックヴン (NgocVung)島の遺跡 、最後 にコンタイ (CongTay)島 。コン ドン (Cong Dong)島にい くこ とになった。 また、島にはすでに私たちが行 く旨の無線連絡をしてあるとのことであっ た。 1時間ほ どの打 ち合せ を終 え、船着場近 くのホテルに部屋 をとり、時間があるの で周辺の史跡やハ ロン湾 に浮かぶ奇岩 を撮影する。ハ ロン湾は世界遺産に登録 されて いるだけあって、たいへん美 しい。その後、私たちはホテルに戻 り、キムさんたちは 明 日の食料の調達 を Lに市場 にでかけた。
1
9
9
8
年1
月2
日 塩) ハ ロン湾の島々へ 早朝6
時2
4
分、朝焼 けのなかの出発である。ホテルの向かいの船着場か ら小型モー ターボー トに私たち4
名 とキムさん、文化局のズェンさん、そ して操縦者2
名が乗 り 込む。前 日に購入 したパ ンなどの食料 を積 こみ、ボー トはい きよいよく出発 した。風 よけのないボー トのため、海か らの冷たい風が直接顔 に吹 きつける。ボー トは時速4
0
- 148-kmでハ ロン湾に浮かぶ石灰岩山のなかを縫 うようにすすむ。朝霧に霞む大小の島々は 墨絵の世界のようである。東の空か らようや く太陽があらわれる。ボー トは途中、燃 料の入れ替えのため停止 した。停止すると海は穏やかで空は青 く、風 もな くホッ トす る。 そ して、 また猛ス ピー ドですすむ。途中、何 回 も漁船 に近づ き、 ク アンラン
(
Qu
a
nLa
n)
島の方向 と場所 を尋ねる。この海に詳 しい操縦者 もまたクァンラン島 を訪問 したことのあるズェンさんやキムさんにも、この大小 さまざまな島が点在する 海のなかで、 目的の島をみつけることは容易ではないようだった。 クアンラン島はホンガイ市から西に約45km離れ、ハ ロン湾の島のなかで も外洋 に 一番近い島である。
『大越史記全書』によると李英宗大定十年(
1
1
4
9
年) に "雲屯" という地点に外国貿易のための港をもうけたという。つ ぎの陳朝、李朝の時期 も重要 な貿易港 として機能 し、この島が雲屯港のひとつ と考えられているのである。クァン ラン島以外 に、ゴックヴン(
Ng
o
cVu
n
g)
島、そ してコンタイ(
Co
n
gでa
y)
島、 コン ドン(
Co
n
gDo
n
g)
島にも遺跡があ り、ベ トナム歴史学界では重要 な貿易地点 として認識 されている。今 日の調査はこの三島の遺跡踏査であ り、沖縄から出土する ベ トナム陶磁の積出港の確認である。 ボー トに乗ること1
時間3
0
分、7
時5
0
分に島に着岸 した。 しか し、この島がクァン ラン島のカイラン(
Ca
iLa
n
g)
かどうかはっきりしないとキムさんがい う。 そのた めキムさんとズェンさんが近 くの民家を訪ねた。ほどな くして、キムさんが戻 りこの 場所で よい という。 きっそ く私たちは一軒だけポッンとたたずんでいる小 さな民家 ま で歩いた。 ヴ一 ・ス オン ・チュオン(
VuXu
a
nTr
u
o
n
g)
氏の家で、夫人のファム ・ ティ ・ネ(
Pha
m Th
ュNe
)
さんが数匹の犬 と小鳥に囲まれていた。畑か ら掘 り出 さ れたという焼締陶をみせて もらう。やや肩の張る長胴の容器で内面にロクロ目が残 り、 口頚部 と肩部に波状紋があるのが特徴である。この種の焼締陶が堺市や長崎市で出土 してお り、興味深い。彼女に周辺の状況 を聴 くと、海辺にた くさんの陶磁片が散布 し ているとい う。1
0
時頃か ら潮が引 きは じめ、それ以後ではないと干潟での調査がで き ないため、まず焼締陶が出土 した畑 を歩 く。島のわずかな平坦地を若い夫婦が畑 とし ているのであった。畑には焼締陶片や中国青花碗片などが若干散布 していた。しか し、 李朝や陳朝 にさかのぼるような古い陶磁片はみあたらないようであった。 その後、この家か ら少 し離れ、島の奥 まったところにある家にい く。掘 り出された 陶磁器類 を所蔵 しているホアン 。テ一 ・イェン(
Ho
a
n
gTh
eYe
n)
氏の家である。 陶磁器類 はエ ビの養殖場 を造ったお りに、深 さ40cmほどのところから出土 したという。 16世紀代前半か ら中頃の景徳鉄案系の万頭心の青花碗や青花皿があ り、17世紀末か ら18世紀代の福建 。広東窯系の青花碗や散 り蓮華があった。また、ベ トナム産の白磁 印花紋碗や蛇の 目粕剥 ぎでチ ョコレー トボ トムの青花皿があった。白磁は堺環濠都市 遺跡や根来寺遺跡などで出土 している16世紀代の白磁椀 と似ているようであ り、青花 皿 も16、17世紀の ものであろう。ほかに、茶の湯の世界で "縄簾" とよばれる長胴の 容器で、17世紀前半代の堺環濠都市遺跡や長崎市内の遺跡などから出土する長胴瓶 と 類似する遺物 もあった。出土遺物は16世紀 を中心に17世紀-18世紀代 もあ り、それ以 前 にさかのぼる資料 はないようであった。また特徴的な点は、16世紀末から17世紀前 半の中国製品や17世紀後半の肥前磁器がなかったことである。-1
4
9-資料の観察 と写真撮影をおえ、ネさんの家に戻るため、潮の引いた干潟 を歩 くとマ ングローブ林のなかに無数の陶片が散布 していた。唖然 とす るような情景である。近 くに窯跡があるか とお もわれる くらいの膨大な量の陶片である。そのなかに若干の青 花片があるが、 どれ もみな
1
6
世紀代の もの とお もわれた。1
4
世紀 にさかのぼるような 青磁片 はみ られなかった。そのため、この遺跡は1
6-1
7
世紀代であ り、『大越史記全 書』 に記す李朝 ・陳朝の雲屯港 をこの地に比定することはで きない と思われた。 ネさんの家でパ ンを食べ、ボ- トに向か うが、干潮時のため汀線が遠 ざか り、遥か 沖合 に停泊 している。素足 にな り、ズボ ンをまくり上げ、海 を歩 く。1
3
時0
5
分、ボー トに来 るが、浅瀬のため動かず、皆で3
0
分ほどボー-トを押 して浅瀬 を脱することがで きた。1
4
時1
0
分、ゴックヴン島に到着。この島にも二、三 カ所陶磁片が散布 しているとい う。そのひとつの地点、コンイェン (CongYe
n)
地区にい く。1
3-1
4
世紀の白磁片 や1
4-1
5
世紀の青磁片があ り、また多数の陶器片があった。 このなかには、ハイフン 省のベ ンリンサー窯跡でみ られた陶器片 もある。1
6-1
7
世紀の青花類はないようであっ た。そのため、1
3-1
5
世紀頃の港跡 と考 えられる。1
4
時5
8
分 に出発 し、コンタイ島 ・コン ドン島に向か う。1
5
時1
8
分、コンタイ島に到 着。 コンタイ島 とコン ドン島は平行するふたつの島か らな り、島の間 を幅約1
0
0m
の 水路が流れている。水深が深 く、また水路の両脇が島のため、船の避難場所 として絶 好の地の ようである。地図上では西 にある島をコンタイ (タイとは西 の意 )、東 にあ る島をコン ドン (ドンとは東の意) と記述するが、島民によればふたつの島をコン ド ンとよんでいるとい う。コンタイの水路側の海辺に大量の陶磁片が散布 していた。こ のなかに、ベ トナム産の青花椀や皿、合子の蓋や身、型づ くりによる鳥形の容器片が あった。1
5-1
6
世紀代の ものであろう。私たちが訪れた時、たまたま家 を建築中で基 礎 を掘 っている場 に出 くわ し、出土 した遺物 をみせて もらった。筒形の陶器や鳥紋の ある合子片、おそ らく青花樽 とお もわれる破片があった。青花樽 は、イン ドネシアに 輸 出された代表的なベ トナム貿易陶磁であ り、主に建築用のタイルとして使用された。 当時のイン ドネシアは中部ジャワにマジャバ ヒ ト王国(
1
2
9
2-1
5
0
0
年)が興 り、盛ん にベ トナム陶磁 を輸入 していたのである。おそ らく、この地は陳朝 ・繋朝の港 として 機能 していた とお もわれる。沖縄 出土のベ トナム陶磁器の積出港の可能性が考えられ る。 遺跡踏査後、ボー トに乗 り、対岸のコン ドン島にい く。ここで も多量の陶磁片が散 布 していたo中国の龍泉窯系青磁片や陶器片がある。 しか し、青花実削まない。時期的 に、 コンタイの遺跡 よりも古い と判断 された。おそ らく、1
3-1
5
世紀頃であろう。1
6
時に帰路 につ き、1
7
時2
0
分、ホンガイの船着場 に到着 した。1
9
9
8
年1
月3
日仕
)
ハ イフォン、そ してハ ノイへ 朝7
時にホテルを出て、船着場の近 くの食堂で朝食をとり、その ままフェリーで対 岸に着 く。 きょうはハ イフォン(
HaiPhong)
経由でハ ノイに帰 る予定である。 8
時4
0
分、バ クダン(
Bac
hDang)
江 につ く。ここは1
2
8
7
年 に元軍 の侵攻 を打 ち破 っ た戟場 として有名であ り、その ときの遺跡が一部保存 されている。川底 には何本 もの - 150-木杭 があるが、これが潮の千滴 を利用 して元軍の艦船 を破 った ときの杭 であった。キ ム さんの説明では、この付近一帯 にた くさんの木杭が今で も残 っている とい う.
8
時5
5
分 、フェ リーの船着場 に到着。1
5
分 ほ どで渡 り、進む とまたフェ リーの船着 場 につ く。再 び渡 り、1
0時 にハ イフォン市の博物館 に到着す る。 この博物館の館員が キム さん と大学時代 の同級生のグェ ン 。ヴァン 。フォン(
Nguye
nVanPhuong)
さんであった。彼 が先週 オープン したはが りの陶磁器展示室 に案内 して くれた。"
l
l
-1
9
世紀 の各時代 のベ トナム陶磁器室" と看板の出ている展示室 に市内で蒐集 された 陶磁器が展示 されていた。白地褐彩壷 をは じめ、白磁 、青磁 、緑粕、青花などがある。 隣室 は先史時代 の遺物が展示 され、 と くにチ ャンケ ン(
Tr
angKhe
n)
遺跡出土の石 器や腕輪 ・小玉 などの石製品、土器が注意 をひいた。この遺跡 は石製品の製作跡 と し て著名 な遺跡 であ り、1
9
6
8
年 に発見 された。その後、2
回の発掘調査が実施 され、青 銅器時代 の フングェン文化か ら ドンダウ文化並行の年代があたえ られている。C
1
4
年 代測定 もお こなわれ、1
9
6
9
年の測定では深 さ1
.
9m
で3
4
0
5
±
1
0
0
BP.
、 そ して1
9
8
6
年 の 測定では深 さ1
.
6m
で3
3
4
0±7
0
BP.
な どの年代 であった。 この遺跡か ら出土 している石 器が沖縄 の八重 山諸島で出土 している珊型の角 ノミ状石器 とよ く似 ていた。八重山の 石器 は約4
0
0
0
年∼1
0
0
0
年前 に位置する もの と考 えられているが、 この石器の系譜の解 釈 にベ トナムの地 も視野 に入れた解明が必要であることが感 じられた01
0時5
0
分、博 物館 を出発 し、一路ハ ノイに向かった。1
3
時3
0
分、ハ ノイのバ クナムホテルに到着。1
9
9
8
年1
月4
日 (日) 朝8
時4
0
分、ハ ノイ大学研究交流セ ンター副所長の トワッ ト教授 がホテルに見 えた ので、教授 に今 回の調査が成功 した旨を伝 える。その後、私 たちは レ一教授宅 に向か い、今 回の調賓報告 をお こなった。 とくに、ハ イフン省のベ ンリンサー窯跡で年号 の あ る陶器片 を採集 したこと、また、 ヴァン ドン港の調査 において、各地点の遺物の様 相 を報告 した。 さらに、ク ァンランのカイランには、李朝 ・陳朝時期の遺物 はな く、 他 の遺跡 では陳朝 ・賓朝時期の遺物があったが、李朝時期の遺物 はみ られなかった と 述べ た。 これに対 して、教授 もヴァン ドン港が機能す るのは、陳朝 か ら黍朝であろ う といわれ、遺物か らもそれが裏づけ られる と仰 った。1
7
世紀 になる とヴァン ドン港 は 衰退 し、それに替わってホ- ヒュ ン(
PhoHi
e
n)
が港 として発展す る とい う。 こ う した報告 の後 、教授か ら7
月にハ ノイでお こなわれる初のベ トナム学 国際学会へ の招 待状 をいただ き、 また昨 日出版 されたばか りの先生 ご執筆の本 をいただ く。最後 に、 み なで記念撮影 をお こない、1
0
時 に先生のお宅 を辞 した。1
0
時1
6
分 にホテルを出発 し、窯業地のバ ッチ ヤン(
BatTr
ang)
へ向かった。バ ッ チ ヤンは1
4
世紀か ら窯業生産 をお こなってお り、現在で もベ トナム最大の生産地であ る。1
0
時4
5
分 、バ ッチ ヤン着。あいに くの雨で道はぬかるみ、足元が悪い。何軒かの 店 にはい り、最近、観光客向けに作 られている1
5-1
6
世紀の青花や色絵 な どの コピー 商品 をみ る。1
2
時3
0
分、帰路 につ き、1
3
時ホテル着。昼食 をと り、午後 は資料整理 を お こなう。1
9
9
8
年1月4
日 (日) ホーチ ミン市へ - 1 5 1-朝
7
時にホテルを出発 し、ノイバ イ空港 に向かった。定刻 よ り少 し遅れ、8
時5
4
分 に飛行機 は離陸 し、1
0
時4
0
分、 タンソンニ ヤ ツ ト (Tan Son Nhat)空港 に到着 。 真夏であった。 日中の気温で3
0
0
ほ どになる とい う。空港 タクシー2
台 で市 内の 中心 街 にあるサ イゴン (Sa主Con)ホテルに向か う。昼食後1
3
時3
0
分 にホテルを出て、戦 争犯罪展示館 に向か う。 ここはベ トナム戦争 に使用 されたアメリカの戦車や大砲 、爆 弾 な どを展示 し、またソンミ事件の写真や猛毒 なダイオキシンを含 む枯葉剤の散布 に よる被害状況、そ してホルマ リン漬けにされた二重胎児がアメリカ軍の蛮行、戦争の 悲惨 さを訴 えている。アメ リカ軍のベ トナム出撃基地のひ とつ となった沖縄 も、ベ ト ナム戟争 との関わ りは深い。次 にホーチ ミン市歴史博物館 にい く。 ここでは、李朝 ・ 陳朝 ・黍朝の時代のベ トナム陶磁器が展示 されている。 また、陶磁器展示室があ り、 クメール、タイ、中国、 日本の陶磁器が展示 されている。 タイ と中国陶磁器 はベ トナ ム沖での沈没船資料である。 そ して、旧南ベ トナム政権の大統領官邸、現在の統一会堂 にい く。1
9
7
5
年4
月3
0
日 に解放軍の戦車が門を破 り、南ベ トナム解放民族戦線の旗が官邸 にたなび き、ベ トナ ム戦争が終決 した劇的な場所である。建物 には大小 さまざまな会議室や娯楽室があっ て、旧権力の様子 を忍ばせ る。地下 には作戟司令室がある。アオザ イをきた素敵 な女 性が 日本語で解説 して くれた。3.
調査の成果 今 回の調査でえ られた成果 について、以下、 2
点 について まとめてお きたい。 (1) ハ イフン省の窯跡群 と沖縄 出土ベ トナム陶磁器の生産地 ハ イフン省の窯跡 の研究 は、1
9
8
3
年 に省史編纂委員会 による陶磁器研 究か ら始め ら れ、以後 、現在 まで に1
5
カ所で窯跡 を確認、その うち6地点で発掘調査がお こなわれ た。1
5
地点 とは、主 に無粕陶器 を焼 いたチ- リン県のチ ャムデ イエ ン (Tram dien)、 ヴァンイェン、バ イチ ュ トオン (Ba主TruThuong)、キェッ トドアイ (KietDoai)、 ランゴム とナムタイ ン県のベ ンリンサー、ゴムクアオ (Gom Quao)であ る。 また 青花 な どを焼いたナムタイ ン県のチュウダオ、 ミイサーやカム ビン県の フックラオ、 ランゴイ (LangNgoi)、ランカィ、バ ーチ トウイ (Ba Thuy)、 ホ ップ レ-、 そして フンイェン (HungYen)市のシックダン (ⅩichDang)である。
この地での調査研 究 を推進 しているハ ノイ国家大学のハ 。ヴァン ・カ ン教授 らは、 窯跡群 を
4
地域 にわけている。ナム タイ ン県の窯跡群は1
3-1
4
世紀頃に出現 し、主に 無粕陶器 を焼 き、ナムタイン県の窯跡群 は1
4-1
8
世紀 に存在 し、お もに青花 を焼 き、 海外輸 出品 も含 まれていた としている。 また、カム ビン県の窯跡群はナムタイン県の それ と同時期かやや遅れ、お もに民間用 品を焼 き、シックダン窯跡 はおそ らく、1
7
世 紀 の国際貿易港であるフォー ヒェ ンと関連 し、その製品が海外 に輸 出された可能性が ある と指摘 している。 また、省博物館 の館長であるタン ・バ ー ・ホアイン氏 は、チ ュウダオ窯跡 を高級磁 器 を中心 に焼 いた窯で1
4
世紀後半か らは じま り、1
5-1
6
世紀 に発展 し、1
7
世紀後半 に は衰退 した と考 えた。その理 由 として、中国の明の海禁政策 によ り、ベ トナム陶磁器 が海外 に輸 出されるようになった こと。 また衰退の原因 として、1
6
世紀末か ら1
7
世紀 - 1 5 2-初頭には じまった莫朝 と李朝の抗争で、このナムサ ック (南策州)が戦場 と化 したこ とに求めている。 私たちは、上記の窯跡のうち、ランゴム、ベ ンリンサーとチュウダオ、 ミイサー、 ホップレ-、ランゴィ、フックラオの現地踏査 をおこない、その他の窯に関 しては、 博物館で出土遺物の観察 をおこなった。その結果、無軸陶器を焼いていたベンリンサー で、 "光宝十年"
(
1
5
6
3
年)の年号銘のある陶器片 を採集 した。これにより確実に1
6
世紀 まで生産をお こなっていたことがわかる。 しか し、ベンリンサーやランゴムでは1
3-1
4
世紀 にさかのぼる青磁片は採集で きず、また、博物館所蔵の肥前磁器碗 もこの 地での表採資料であるため、ハ ・ヴァン 。カン氏の窯跡 を古 く考える説は今のところ 十分な根拠に乏 しく、今後の注意深い資料の観察 と、出現時期の解明のための発掘調 査が必要 とされている。 つ ぎに、色絵椀が出土 したチュウダオとミイサーは、遺物分布の広範囲さや出土陶 磁器の豊富 さか ら、1
5-1
6
世紀の輸出用青花や色絵 を焼いていた窯のひとつであるこ とは間違いない。沖縄 出土青花鉢や椀、瓶、そ して色絵碗 ・合子などとの関係が問題 となる。 しか し、博物館資料の検討か らでは、中部のホイアン沖沈没船引 き揚げ遺物 やチュウダオで伝世 された遺物 に類似する点が確認で きたが、発掘資料 とは若干こと なっていた。今後、広範囲に遺物が分布 しているチュウダオや ミイサーの研究の進展 を期待 したい。 また、沖縄 出土の青磁 に関 して、類似する青磁 は今回の踏査遺跡や博物館資料のな かに兄いだすことがで きなかった。ベ トナムで青磁 を焼いていた窯跡は、ハイフン省 以外には旧ハバ ック省やヴインフ-省にあ り、またタイビンやタインホアにもあると いわれている。今後、この地の調査が必要である。 最後に、ベ トナム焼締陶の問題である。現在のところ、沖縄ではまだ確認 されてい ないが、ベ トナム青花類が出土 している以上、必ずベ トナム焼締陶が南海の特産物 を いれた容器 として輸入 されているはずである。壷屋焼 きなど、日本の焼締陶 との判別 がむずか しいため、今後は赦密な観察が要求 されよう。 (2) ヴァン ドン港 と海外交易 ベ トナムの正史である 『大越史記全書』によれば、李英宗大定十年(
1
1
4
9
年)に南 海諸国の船舶がベ トナム北部の "海東"に入 り、交易 と居住の要求 し、李朝はこの地 に庄 をもうけ、「雲屯」 となづけたという。当時の南海諸国 とは、 ジャワや シュ リー ビジヤヤ、シャム、チ ャンバ (?
)などであろう。また、この港は南海諸国ばか りで はなく、中国交易の うえか らも重要な港であった。この貿易港がハロン湾に浮かぶ島 にあった。1
9
3
6
年 (昭和1
1年)に、山本達郎氏が 日本 人研究者 としては じめてこの地の調査 を おこなった。氏はクァンラン島のクアンチヤウ社 とクアンラン社 を踏査 し、陶磁器や 古銭を収集 した。クァンチャウでは、南未の影響のあるベ トナム青磁血や北宋時代並 行のベ トナム青白磁器皿、末代 と考えられる白磁、そ して明代並行のベ トナム青花類 を収集 している。クアンラン社では、1
5
世紀以前の ものは認められず、明末か、それ 以降のベ トナム青花のみであったという。そのため、氏は 「安南の貿易港雲屯 (『東 - 153-方学報』第
9
冊)の中で雲屯港の位置について、収集遺物やクアンラン社の海岸が遠 浅であ り、クァンチ ャウ社のそれが錨地に適 していることにより、往時の雲屯港の中 心 をクアンチ ヤウ社 にあったのではあるまいか と考えなが らも、遺物が偶然 による出 土品のため、「雲屯の貿易の中心地に関する論断は今暫 らく之を避 けて置 きたい」 と 慎重である。以後、ベ トナム人研究者の踏査や若干の 日本人研究者の踏査がこの島々 でおこなわれた。 ベ トナム歴史学研究所の ド- ・ヴ ァン 。ニ ン (DoVan Ninh)教授 は、その著 『ヴァン ドン島県』(1997年刊 )のなかで、唯一、ヴァン ドン港の位置を確定する方法 として、考古学的な踏査や発掘調査が有効であるとした。その結果、氏は現在のクア ンラン島のカイラン (CaiLang)とソンハオ (SonHao)のコンカイ (CongCai)を重要な地点 として考えた。 カイランは私たちが踏査 した場所である。民家のネさんの話で も ド一 ・ヴァン ・ニ ン教授が きた とい う。 ド-氏 によると、カイランの陶磁器は李朝 ・陳朝 ・黍朝の もの があるとい う。 しか し、私たちがエ ビ養殖場造 りのお り出土 した陶磁器類 を観察 した ところ、それ らは中国景徳鎮窯系の青花椀や皿であ り、16世紀前半か ら中頃の もので ある。ベ トナム青花 もあったが、器形や紋様か ら15世紀 にさかのぼるものではない と 思われた。そ して、16世紀末か ら17世紀前半に東南アジアに輸出された景徳鎮窯系の 荒磯紋碗 。鉢、芙蓉手皿や福建 ・広東窯系の荒磯紋碗 ・鉢、赤壁碗 ・鉢 などがみ られ ないことも大 きな特徴である。 また、17世紀後半の肥前磁器 もない。但 し、17世紀末 か ら18世紀代の福建 ・広東窯系の青花椀や散 り蓮華がみ られた。 焼締陶に関 しては、年代決定がむずか しい。 日本出土資料 と比較するなら、16世紀 末か ら17世紀前半代 と思われる。当然の ことなが ら、ベ トナムにおいてはそれ以前か 生産がお こなわれていたことは確かである。 しか し、氏のい うように李朝にまで さか のぼるかは、ベ トナム側 にも資料がな くはっきりしない。現在知 られている資料 だけ を根拠 に李朝 にさかのぼるとい うのであれば、問題があるというべ きだろう。そのた め、当面、同 じ深 さか ら出土 した という中国青花類 などか ら、この遺跡 は16世紀代 と するのが妥当なところであろう。 以上のように、カイラン遺跡 について、私たちは現在の ところ16世紀 を中心 とした 遺跡 と考 えたい。 したがって、李朝 。陳朝のヴァン ドン港跡 と考えることは、現時点 ではむつか しい。 ところで、 ド-氏が指摘 したクアンラン島のコンカイ遺跡は、残念なが ら踏査す る ことがで きなかった。氏 によるとカイランと同様 な遺物が散布 しているという。氏は 当然の ことなが ら、李朝 ・陳朝 。黍朝 と考えるが、再検討が必要であろう。 つ ぎに、グックヴン島の遺跡 について、氏 はコンイェン (CongYen)とコンヘ ッ プ (CongHep)の遺跡 を紹介 し、遺物 も李朝 ・陳朝 ・費朝の ものがあるという。 そ してこの港跡 を 「この二遺跡はヴァン ドン港の中心ではないが、主港 (カイラン遺跡 のこと一筆者 )に入る前の中継港である」(同書、131-230頁) と考 えてい る。 しか し、この地区の採集遺物 はカイラン遺跡のそれよりも古い。13-14世紀の中国の白磁 や14-15世紀の中国龍泉窯系の青磁 、タイ陶器、見込みに手早い筆致で草花類の文様 を措いたベ トナム鉄絵 などである。ベ トナム鉄絵 も14-15世紀の ものであろう。明 ら - 1 5 4
-かに、カイラン遺跡 とは時期的に関連 もない古い時代の港跡である。 コン ドン島 とコンタイ島 (氏は トァコンとよぶ)の陶磁器 については、豊富で多種 類の陶磁器があると記 し、こまかな年代 については言及 していない。そ して、この島 の港は、李朝 ・陳朝 ・李朝のヴァン ドン港の中心ではないが、大陸 と港 を結ぶ中継港 として位置づけている。すでに紹介 したように、コンタイ島では
1
5-1
6
世紀のベ トナ ム青花 を多 く、またゴツクブン島でみ られた古い鉄絵 もある。コン ドン島では1
3-1
4
世紀の中国龍泉窯系青磁が多い。ベ トナム青花類 は見当た らなかった。そのため、こ のふたっの遺跡 は時期的に相違 しているか、あるいは一部重 な りあう可能性が考えら れる。コンタイ島のベ トナム青花類は、東南 アジアなどに輸出された もの と同類であ り、この時期の重要な貿易港であることを示唆 していよう。 以上の ように、各島の遺跡 は一部重 な りあ う時期があるものの、基本的には時期 を 異 に している。こうした遺跡 を氏 は同一時期 と把捉 し、往時のヴァン ドン港の中心 を クアンラン島のカイランや ソンハオに比定 し、それ以外の遺跡 を中継港 として認識す るのは問題があろう。考古学的な調査が有効 とする考え方は評価で きるが、氏の立脚 している根拠が厳密 な考古資料か らのそれでないのが残念である。 今後 は、他島の遺跡や山本達郎氏が紹介 したクアンラン島のクァンチ ャウ遺跡 な ど の島部の悉皆調査 と採集 した陶磁器類の提示が必要である。私たちは、各遺跡で採集 した陶磁器の資料化や胎土分析の必要か ら、現在、文化省 に日本への持 ち込みの許可 申請 をお こなっている。許可が受理 されれば、採集 した陶磁器の資料化 をお こない、 別途 この間題 について論 じたい。4.
おわ りに1
0
日間の調査 は、ベ トナム側の用意周到 な準備のため、
滞 りな く進んだ。そのおか げで、沖縄 出土ベ トナム陶磁器の生産地 と貿易港 について、多 くの資料 を実見 させて いただ き、今後の検討のための基礎情報 を得 ることがで きた。調査 によってわかって きたことと、新たな問題点 も浮かびあがって きた。今後は、各遺跡採集陶磁器類の資 料化 をお こない、別途、この間題について報告 したいと考えている。 また、今 回の もうひとつの収穫は、ベ トナム側の研究者や研究機関 との交流が深 ま り、沖縄 とベ トナムとの交流の歴史について双方が さらに強い関心 をもつ契機 になっ たことである。ひきつづ き、あ らゆる分野でベ トナムと沖縄 との交流が深 まることを 期待 し、 また努力 したい ものである。 末尾 なが ら、今 回の調査の受け入れ機関であるハ ノイ国家大学付属ベ トナム研究 。 交流セ ンターのフアン 。フイ ・レ一教授 をは じめ関係者のみなさん、そ して今 回の調 査 に同行 して くれたグェン 。ヴァン ・キムさんに深 く感謝 申 し上げる次第である。 (付記 : 今 回の調査 は、ベ トナム考古学研 究者 の菊池氏が築いたベ トナムの研 究者 との 強 い交 流 関 係 と、同氏 のベ トナム考古学への深 い知識 ・情報 のおかげで、短期 間 に実 り多 い調査 を実 施 す る ことがで きた。 また 、かね てか ら沖縄 の陶磁 器の研究 を続 けている手塚氏 に、 直 接 ベ トナム の 地 で比較検討 していただいた ことも貴重 であ った。 史料編集室 安里嗣淳 記 ) - 155-1
力文 廟 (ハ ノイ市内)2.
文廟の内部にある考試合格者の記念碑-3
B
「下馬碑」文廟 の外塀隅にある4
.国立考古学研究所 (ハノイ市内)-5.7
-ランの窯業地、ソンカウ川 を航行する 陶器製品運搬船 (バ クニン省 フーラン)6.フーランのある窯場、娘が輪積み用粘土 を作 りなが ら 右足でロクロをけり、母親が成形 をする。
-7.
チュウダオ窯跡地域の村落内にある資料館。 発掘出土品の-部 が収蔵展示 されている。8.
チュウダオ窯跡のある村落、現在 この村落 に窯業 は継 がれていない。-9.チュウダオ窯跡 か ら出土 した青花碗
10.チュウダオ窯跡出土、青磁 と青花 が くっついていることか ら、 同時に焼 いたことがわかる。
-ll.ホ ップ レ-窯 (ハイフン省)
村のいたるところに陶磁片が堆積散乱 している
1
2
.
ランゴム窯 (ハイフン省) キンタイ川畔にある。-1
3
.
ハ ロン湾 、世界遺産に登銀 されている1
4.
ハロン湾の クァンラン島カイラン、 おびただ しい量の陶片が散乱 している-15.クァンラン島カイランの住人が採集 した焼締陶器
1
6
.
クァンラン島カイランの住人が掘 り出 した青花片など-17.クァンラン島の前の海 は遠浅 で、干潮時には舟 を降 りて、 約
3
0
分 も沖 まで押 していった。18.ハ ロン湾の コン ドン島の海浜 に散乱する無数の陶磁片
-19.現代の窯業 (ドンチュの町)
20。現代の窯業 (ハイノ市郊夕上 バ ッチャン)
14世紀 か らのベ トナム最大の生産地で、伝統的な製品も作 っている