〔浦添関係文献紹介〕
昭和
7
年発行の浦添小学校『創立五十周年記念誌』の資料的価値
沖縄の近代教育の普及は、明治5(I872)年に明
治政府が琉球国を琉球藩と改め、同12 (1879)年に
断行した「廃藩置県」 (琉球処分)により王国体制
が崩壊した以後のことである。これより先の明治8
年に政府は処分官松田道之を琉球に派遺して、太政
大臣三条実美からの御達書を藩王尚泰に手渡した。
この達苦の一文に「学柑修業、時消通知ノタメ、人選ノ
上、少壮ノ者十名程、上京致スベキ」ことか述べら
れていた。琉球藩はこの学事修業のために知花里之
f
親実上・安村親雲上らを研修生として上原させる
旨を、松田に報告している。学弔修業とは、いわゆ
る明治5年に発布された教育制度「学制」の精神を
日本国家の版図に組み込まれた琉球(沖縄)にも浸
透せんがためであろう。
「学制」はフランスの教育制度に倣って比米たも
ので、個人→主義的・実利主義的教育思想の下に学校
設立の意義も唱われてはいるものの、当時の国情に
そぐわない部分か多いまま、中央政府の画ー的な教
育干渉度が地方に過ぎたため、その実施は困難を窮
めたようである。がため、 12年に「学制」を廃止し、
アメリカの自由主義的な教育精神に学んで制度化し
た「教育令」を公布した。沖縄県は翌年、「教育令
J
公布に伴い学務委員(教育担当吏具)を各間切に配
属したりして、学校教育の準価を始めた (lei]年12月
に「教育令」改正)。その結果、島尻に
1
0
校、首里に
3
校、伊江島に
1
校の小学校が創立されたのである。
翌
1
4
年には那覇に
2
校、中頭・八重山にそれぞれ
1
校か創設された。浦添に小学校か創設されたのは明
治15年3月、教員 l人・生徒30人構成で間切番所内
に開校した「浦添小学校」を最初とする。
『創吃五十周年記念誌 浦添尋常晶等小学校』は
その表題がぷすように、浦添小学校創立
5
0
周年を記
念して発行した学校記念誌である。昭和
7
年11月発
行である。この欄でこの資料を取り上げたのは、た
だ単に浦添で最初の小学校記念誌だからではない。
創立当初からの校長・教員名を列記し、任期期間
や前任・転任先なども付記、さらに彼らの出身地も
吉き込まれている。浦添出身者の教員か何人、同学
校に赴任したかか分かる。出身字名も併記してある
ので、関係者(または遺族)を探して、辞令苔や学
校関係習料の発掘か出来よう。明治28年に浦添小学
校の仲西分校として設立された仲内小学校の『創立
三十五周年記念誌』 (昭和
1
3
年発行)にはこのよう
な名簿記述は見られない。
浦添小学校「創立五十周年記念誌」の大きな特長
として、次の
2
点を掲げることができると思う。
1点目は、創立〇△を記念しての祝辞・答辞文や
学校沿革史、功労者名などを収録するたけでなく浦
添の略史ならび各字の概況、拝所・年中行市・人生
儀礼等も掲載、さらに字毎の略図(名所旧跡などを
プロットしている)を添付していることである。略
図に記された森・川・池沼などの自然物、橋・道路・
建築物等の人為巾物に付された名称をみると、その
ほとんどか今日は「跡地」でしかないことが分かる。
人生儀礼については、鹿取集洛と地人集落の習俗に
いくぶん違いかあることに気付く。昭和7年頃の浦
添の民俗事象を知り得る一舒料にもなろう。
2
点目に、浦添に関わる歌謡が収録されているこ
とである。 「浦添口説」 「浦添区域[J説」や字沢砥
に伝承される「あまうえだ歌」 (雨親田)などであ
る。特に「あまうえだ歌」は種蒔収穫を祈願する占
い儀礼に謡われる歌で、山内盛彬著『琉球王朝古謡
秘曲の研究』
(
I964
年)にも掲載されているほど貴
重な歌謡である。記念品にそれを収録した慈義は大
きい。また、郷土史家島袋全発の小論「うらそえの
オモロより」が12貞にまたがって脊稿されている。
この島袋全発論文を、琉球文学研究者の池宮正治琉
大教授か『浦添市史』第
2
巻
(1981
年)て、浦添関
係オモロの解説に活汁jしている。
記念誌編集者の知識の輻広さかうかかえると同時
に、以上の特長からも、浦添小学校の「創立五十周
年記念誌」の賓料的価値は高いのではなかろうか。
原本は浦添小学校に
1
冊保管され、浦添市立
l
叉
I
I
'
f
館沖縄学研究宰にはその複製がある。<長間安彦>