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「予備概念」(『小論理学』ヘーゲル)についての考察(2)

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Academic year: 2021

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(1)Title. 「予備概念」(『小論理学』ヘーゲル)についての考察(2). Author(s). 宮田, 和保. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 42(1): 29-46. Issue Date. 1991-07. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4512. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 平成3年7月. 北海道教育大学紀要 (第1部B) 第42巻 第1号 l ion I B) Vo ion(Sec iver i t i do Un ty of Educat .1 s journalof Hokka ‐42 , No. l Ju y ,1991. 「予備概 念」 (『小論理学』 ヘー ゲル) についての 考察( 2 ). 宮. 田. 和. 保. m 「客観に対する思想の第二の態度」 について < は じめ に >. 「客観にたいする思想の二の態度」 に於いて姐上に載 せられている経験論 (特にヒューム) およ び批判哲学 (カ ント) は, 周知のように, 現代哲学の分野みのならず, 現代社会科学 (特にその方 法論) の分野においても極めて大きな影響 を与え続けている. したがっ て本来 は, これらとの関係 において 「第二の態度」 が何らかの形で論及されることが望ましいが, しかし本稿では限定して, あくまでもヘーゲルの 「第二の態度」 の中心に絞っ て事柄を整理することにする. この整理を通し 6 )もこの現代的意義の究 た後はじめて, これの現代的意義 が諒解されうるのである. とは言え, 本稿1 明から全く無縁ではなく, 潜在的で, 不十分ながらも, そのための方向性を内包している. その意 味では本稿 はそのために準備 的作業でもある. 尚, 前稿との関係では, 「旧形而上学」が具体的に形 而上学的諸問題を どのような態度で取り上 げていたのか, この論及から始めなけれ ばならないが, しかし本稿においては, 批判哲学からのこれに対する 批判および両者に対するヘーゲルの評価とを 考察するなかで, これを取り扱う ことにする. ) 経験論 ( 1 「客観に対する思想の第二の態度」 は, 経験論の考察からはじめられて いる. 我々 は, 「経験論」 の旧形而上学にたいする批判的位置付けおよ びそれの 「批判哲学」 との媒介的関係に注意を払いつ つ, この 「経験論」 を考察する. ( a ) <経験論 が生じた理由と経験の哲学的位置> 我々 はヘーゲルに沿っ て, 経験論が生じた理由から考察しよう. ヘーゲルはまず経験論 が生じた 二つの根拠を上 げる.「一つには, 自分自身でその普遍的諸規定から特殊化 と規定へ進み得ない悟性 的抽象的な諸理論 [である旧形而上学] に満足しないで, 具体的内容 が要求されることとなっ たこ と」 ( S37 ) である. つまり抽象的o一面的諸規定しか得れないところの悟性 を越えでるための 「具 体的内容」 の要求 が、 それである. 「もう一つには有限な諸規定の領域 [魂, 世界, 神というような 本来理性に属する以外の対象] で, 有限な諸規定の方法 [悟性的方法] にしたがっ て, すべてを証 7 )に満足しないで, 確かな拠り所( ) が要求さ f l t t 明することができるような, 単なる可能性1 e s e Ha 「 「 を求めたところの経験論 ) である. 具体的内容」 と 確かより所」 l b i d れるようになっ たこと」 ( . , ) 求めないで, 真理を経験 l bs i t は, 「真理を思想 (概念) そのもののうちに( e n dem Gedanken s ) 取り出そうと試み ), 我々 の内的およ び外的現在のなかから( の な か か ら(aus der Er f aus rung ah ) 始まるが, 必ずしも経験のなかから た」 ( ) . 批判哲学 はこれにたいして経験とともに(mi t l b i d . , ( ) 生ずるのではなくて主張するのであるが, 経験論はこのように「自分自身の手元を見ること, aus i ) t esse s 人 間 と 自 然 の『こ こ』を と ら え る こ と, 現 在 を 享 受 す る こ と を 説 い た. こ こ, 現 在, こ れ(Di 29.

(3) . 宮 田 和 保. は, [旧形而上学の]空虚な彼岸, 抽象的な悟性 の幻影に取っ て変わる だけの値打をもっ ている ま , たこのことによっ て旧形而上学がもたなかっ た確かなより所, すなわち無限の規定( f t d t e s e Hal ‐ ,. i h l i immung) が 得 ら れ る の で あ る」 (S38 Zusatz) t e unend che Bes ‐d .. 以上のことから, 経験論はおのずと次 の特徴を有する. ① 「経験論のうち には 真実なものは現 , 実(Wi l i ) のうちにあり, かつ知覚されな ければならないという偉大な原理がある」<具体 i t rk chke 「 的な内容 の獲得>( S38 Ar Im) . ② 主観 の面から言っ ても, 経験論には自由という重要な原理が含 まれている のを認めなければならない. すなわち経験論によれば 人間は自分の目で見 その場に , , 居合わせたこと以外のことについて は自分て承認しなくても良いという原理である」<確かなより所 の獲得>( l ). b i dづ と こ ろ で「経 験(Er fahru1 1 g)」 と はヘ ー ゲ ル 哲学にとっ ていかなる意義を有するのか. . ヘーゲルは 言う,「哲学の内容 は, 生きた精神 の領域そのもののうちで生み出され また現在生み出されつつあ , る内容, 意識の世界, 意識の外的および内的世界とされている内容にほかならないという こと 一 , 口で言えば哲学の内容 は現実性であるということ, を理解しなければならない この内容 [哲学の . 内容である現実性]を最初に意識するも のがいわゆる経験(Er f ) である」( S6 ) ahrung , と. したがっ て 「[真理である] 哲学 は現実性および経験とかならず一致しなければならない 実際この一致は , . 「真実 或る哲学 の真理に関する, 少なくとも外的な試金石( ) である」 ( f i auBe l i ) b d t r r pru e s e n . ,. 在(Wahre ) は現実的であり現存しな ければならないから,外に現れたものも潜在的には真実在であ る」 ( き 38Zusa )からである. したがっ て理性が求めている無限なものは, 世界の内にあるのであ t z る. しかし, 「無限なもの (自由, 精神, 神) は, 経験の地盤の上には見いだされない なぜなら . , これらの対象が経験に属さないからではなく--こ れらの対象は感覚的に経験され得るものではな いが, 人間の意識にあるも の [神, 精神, 宇宙] は経験されている のであ・ るから, 経験されている ということと意識されているということとは同義反復 であり,[したがってこれらの対象は意識 にあ る以上経験され, 経験に属するものである, と言える.]--その内容が直ち に( l i ) 無限なも sog e ch 8 「直ち )( のであるからして, 経験の地盤に見いだされないのである」1 S8 ) 自由 精神 神という , , . に無限である」理性的対象 は,感覚的に個別的な姿において はそれ自体自立的には( dfursich) anm・ 現れないし, 感覚的にはこれらを把握 できない. したがっ て, 経験論<正確に言えば「 チ醜底した経験論」> は感覚的に個別的な姿[今, ここ, これ] に拘泥し, これらを直接的な対象とするのであるから, いかにこれらが潜在的に無限の内容の可能 性を有していたとしても, 結局, 把握形式 に限定され, 対象の内容は有限なものとなる 感覚的 , . 個別的な姿を捕えた経験論は, 「現在, ここ, これ」を媒介している無限なも のを 直接的な「現在 , , ここ, これ」 の世界= 「経験の地盤」 には 「みいだすことができない」 のである . ( b ) ・ <対象の内容と対象把握 の形式における経験論の限界> 旧形而上学の対象は, 前稿で見たように, 「内容 は神, 魂, 世界一般 [宇宙] というような理性的 対象をとりあつかい, [この内容を把握する形式は, 以前見たように, 表象(知覚) であっ たのであ るからして,]この内容 は表象からとられたも のであり, 哲学の仕事はそれを[悟性的形式 であるが] 「 思想の形式 へ還元することであっ た」( S38Zus ) t za z . したがっ て旧形而上学の内容 は, 悟性の有 限な形式によっ て有限化されはしたけれども, 無限であっ た」 ( ) l b i dり . 経験論の源泉は, 「表象, つまりまず経験に起源する内容( V lung i de orstel ‐h . den ztu・achst ,d fahrung herr L d l von de ) であり」 ÷÷系経験の地盤には無限なものの内容を見い r Er l l t ernden 工猷 a だすことはできなかっ たからして--, 経験が取りあつかう内容は有限である 「自然の感性的内容 および有限な精神 の内容」 であっ た. これを有限な形式つまり感覚o知覚で捕 えようとしたのであ 30.

(4) . 『小論理学』 ヘーゲル) についての考察( 2 ) 「予備概念」 (. 「 )《有限な内容と有限な形式であっ た経験論》 S38Zusa t る( z . とは言え, 経験論は, 個々 の知覚は l ), 直観の内容を普遍的な表象, f uh ま だ経 験(Erfahrung) ではないから, 経験論も知覚, 感情(Ge 「 的表象へ高め ) S38 命題, 法則, 等々 の形式へ高め はする」( . この 知覚, 感情, 直観の内容を普遍 「 S38 思想への進展 「 知覚の直接性から 進展 ) f 」( ahrung への ること」 は 単なる知覚 から経験(妃r 」 , ) である. しかし 「経験論 がそうしたこと [高めること] を行う場合, これらの普遍的規定 Zusa t z f u rsich) (たとえば力)は,知覚から取られたものという以 上の意味,妥当性を[経験から]独立して( もつことはなく, 現象のうちに示さ れる以外の連関は正しくないものと考 えられているのである」 ) ( S38 . 以上の内容と形式 を有した経験論 は, したがっ て, 次の限界を有する. 旧形而上学との相異に触 れつつこの限界を指摘しておこう. まず内容からみた限界 である.「経験論の内容は有限なものにか ぎられているから, 徹底した経験 be ) を全く否定するか, あるい 「反省的経験論]( i l i che r nn S60 Anm)] は超感覚的なもの(U1 s 論[ は [仮に超感覚的なものがあっ たとしても] 少なくとも超感覚 的なものの認識および規定すること 「 場合でも, その認識 S38 Ar 1m) の可能性を否定したのである」( 。 つまり 超感覚的なものを認める き38Zusatz) と考えた 」( は不可能であって,我々 はひたすら感覚に属するものに頼らなければならない, のである, ここから 「思惟的原理と, その内に展開さ れる精神的な世界との独立性が否定さ れるの 「 自然主義であ S60 Anm)《思惟と感覚との分断》 である」( . 反省的経験論の整合的体系が唯物論, 「素朴な経験論」は 「あくまでも感覚に ) i る」 「 l b d , . 。 ちなみに, 形而上学を許容する経験論つまり , 信頼をおいてはいる が, 同時に精神的な現 実, 感覚を越えた世界--その内容 がどうであろうと, すなわちそれが思想に起源をもつものであるうと, 想像等々 に起源をもつ ものであろうと--承認 して い る」 (S60 Amn) の で あ る。. 次に, 形式から見ての限界 (;知覚から経験への進展のさいの限界) についてである。 経験論は, 単に知覚に留まることなく, 思想にまで知覚 を加工することによって対象を把握しよう としたので あるから, これらの思想 が対象そのものの本質 と考える場合, それは再 び, 事物の真理は思惟によっ てとらえられる という, 旧形而上学の前提と同じである. ところが, この 「単なる知覚から経験へ の進展」 の際に, 経験論はあれだけ旧形而上学を批判 しながらも, 旧形而上学と同じく, 旧来のカ テ ゴリーを無批判的無意識的に使用 しているのである.「それは物質とか力 とか-, 多, 普遍, 無限 等々 といような形而上学 的なカテ ゴリーを使い, さらにそれらを導きの糸として推理を進め, そし てその場合には推理の諸形式を前提しかっ適用しているにも かかわらず, しかもそれは自分 が形而 上学を含み形而上学を行っていることを知らず, カテ ゴリーおよ びカテゴリーの結合されたものを 「 S38Amn) 全く無批判的無意識的な仕方で用いているのである」( . 学的経験論 〔徹底した経験論〕 の根本的欠陥」 はここにある, とヘーゲルは指摘するのである. つまり, 彼らは, 旧形而上学と同 i ) のである. こ l b d じく 「思惟には抽象と形式的同一性 [悟性的諸規定] の能力しか認めない」 ( ‐ , の経験 論は, このカテ ゴリーの 「無批判的無意識的な使用」 の点でも経験論は旧形而上学と同じ地 盤の上に立っているのである. c ) <経験の二つの構成要 素とヒュームの懐疑論 > ( ) への進展」 で明らかなよう に, 経験 f 経験の形成, つまり, 「個々 の知覚 からの経験(Er ahrung 「 ある. 「一つは, 個々 ばらば と経験論者は自覚したので 概念は 二つの要素」 から成り立っ ている, らの無限に多様な素材であり, もう 一つは, 形式, 普遍性と必然性という規定 である. 単なる経験 ) は多数の, 殆 ど無数の同様な知覚を示 しはするが, しかし普遍性は非常に多数とは全く (Emp i i r e i ) は, 確かに継続する諸変化 あるいは併存する i r e 異なるものである. 同じくこのような経験(Emp e 31.

(5) . 宮 田 和 保. 諸対象にたいする知覚 を示しはするが,しかし必然の連関は示さない(Ebenso gewahrt die Empi i r e ア vah.nehα1ungen von aufeinanderfo.genden verandernungen 。der v。n nebeneinander- w。hl ・. l i i 辻 lang der Notwend egen den Gegenstanden,abern igke )」 ( i 等39 Cht einen Zusammer t )・ こ こ. ではまず注意しな ければならないことは, 経験(Er f ) と経験(Emp ) とが区別されている i i ahrung r e ことである. 後者 は, 前者の一つのモメ ントであり, 普遍性と必然性に対時している 「知覚」 次元 のカ テ ゴリ ー で あ る. つ ま り Emp i i r e″ は「普遍性」 とは異なっ た 「数え切れない多くの同じ知覚」 9 であり, 「必然性」 とは異なっ た 「継続する諸変化あるいは併存する諸対象にかんする知覚」1 ) を , 示 す こ ろ の も の で あ る.. 「そこで( ) もし知覚が, あくまでも真理と思われているものの基礎でなければならないとす nun れば, 普遍性と必然性 は不当なも の, 主観的偶然と, その内容が どう にも変わり得る単なる習慣 「 (Gewbh ) と考えられる」 ( r l he i ) l b i t d . . ここから生じる一つの重要な帰結は, こう した経験的な , 仕 方( i i ) においては, 法的な規定や人倫的 [習俗的] 規定や法則, 宗教の内容さ empi r sche We s e. えも偶然的なものと考えられ, それらの客観性および内的真理 は捨てられてしまうことになる」 ( S 「 「 39 Anm) . これは, 前稿でも触れたよう に, 古代 の懐疑論」 と異なる 近代 (ヒューム) の懐疑 論」 の立場である. 知覚そのも のを懐疑せず, 逆に知覚を真理 の 「基礎」 とした 「近代 の懐疑論」 , つまり 「徹底した経験論」 は, 知覚に拘泥することによっ て, 思惟諸規定 (普遍性と必然性という 客観性) は, 経験的表象( i l lung) に よ っ て は基 礎 づ け ら れ ず, 「主 観 的 偶 然 性」, te sche Vors em r 「習慣的なもの」 である と主張したのである このことは次のこと --事実上同じことであるが , . -- を意味する. ①思惟諸規定の客観性 の否定およ び②世界にかんする経験的表象 (有限性) から 無限性への移 餅テ (把握) の否定である, さらに③前に見たように, 知覚から経験への進展の際に悟 性的カテゴリーの無批判的使用, 換言すれば悟性的カ テ ゴリーそのものの吟味・検討の放棄である . このような経験論 の経験概念をふまえながらも, 経験的認識に関する思想 (思惟) の客観性を確 保すること, 経験的認識とは違っ た次元に於ける無限性の世界 (宗教・道徳) の客観性を何らかの 形で確保すること, これらが, 批判哲学の始発的な課題であっ たのである したがっ て批判哲学に . おいても問題の立て方が, すでにここに, 主観的であるか, 客観的であるか, ということにならざ るをえないことを苧んでいることは明らかである. ( ) 批判哲学 2 ( a ) 批判哲学の出発点と課題および方法についての考察から始めよ. う. 批判哲学は経験論と一つ の共通性をもっ て出発している. その出発点とは, 「経験論とともに経験(Er f ) を認識の唯 ahrung 「 一の地盤」 ( ) とし S4 かつその 経験概念に感性的素材とその普遍的諸関係 という二つの要素」 0 , を見いだし, 前者の 「知覚そのもののうち には単に個別的なものと単なる出来事しか含まれていな いというヒュームの考察を認めている」 ( 工 b ) ことである. しかし批判哲学とヒュ ームとの相違 i d . , は同時にここにある. 批判哲学は経験論のように認識の唯一の地盤である 「経験を真理と見ずに, 現象の認識に過ぎないと考える」 ( ) のである. l b i d . , では批判哲学は 「経験」 をなにゆえ 「現象」 とみなしたのか. 「知覚があくまでも真理と思われて いるものの基礎」 とした現代の懐疑論者ヒュ ームは, 「経験」 概念の構成要素である 「普遍性と必然 性は不当なもの,主観的な偶然,その内容がどうにでも変わり得るたんなる習慣と考えた」 .したがっ て, この 「徹底した経験論者」 は, 「超感覚的なものを全く否定するが, あるいは少なくとも [それ が存在していたとしても] 超感覚的なも のの認識および規定を否定」 したのであっ た これに対し . て批判哲学も, 同様に 「単なる経験(Emp ) は多数の, ほとんど無数の同様な知覚は示 しはする i i r e 32.

(6) . 『小論理学』 ヘーゲル) についての考察( 「予備概念」 ( 2 ). が, しかし普遍性は非常な多数 とは異なっ たものである. またこのよう な経験は継続する諸変化あ るいは併存する 諸対象に関する知覚 は示しはするが, しかし必然 生の連関を示さ ない」 のであるか )」 「知覚」 は, 「普遍性と必然性」 つまり 「客観性」 を有せず 「主観的」 に i i らして, 「経験(Emp r e す ぎないことを認めたのである. しかし, 批判哲学はヒ ュームと異なっ て次のように主張する,「普 遍 性 と 必 然 性」 は 「経 験(Erfahrung)」 の な か に 「事 実(Faktum)」 と して 現 在 す る の で あ り, こ の. 「普遍性と必然性」 は 単に主観的なものではなく, 「思惟の自発性( ), 言い換えれ i Spon t t a t ane , 「思惟諸規定すなわち 割生概念が経験認識の客観性を構成する」 この先天的である ば先天的に属し一 , ) のである, と. とは言え, 「普遍的かつ必然的な規定を与える 思惟」 は, 「や はり我々の思想 ( S40 「 我々 の思 にす ぎず」 , したがっ て 我々 が知る対象は自己の根拠を自分自身のうち でなく, 他の者〔 「 「 想〕 のうちにもっ ている」 ことになり, 経験的認識」 は自体存在 (真理) ではなく 現象の認識に れ で あ ろ う. す ぎな い」 , と 主 張 し た の で あ る. こ の 点 に つ い て は後 に 論 及 さ る b ( ) <カ ントの思惟諸規定の検 討方法としての主観性と客観性, これに対するヘーゲルの批判>. 批判哲学は, 経験論が獲得した 「経験の内部での二つの要素のである主観性と客観性との区別か ら出発」 するのであるからして, 「普遍性と必然 生」 である 「客観性」 を 「構成」 するところの, 「形 而上学において用 いられているところの」o「悟性概念 [先天的なものとしての思惟諸規定] の価値 S41 ) のである. しかし 「この批判 [検討] は, これらの思考諸規定の内容およ をまず検討する」 ( ) そのものに向けられるので はなく, それらを主観性と l i び思考諸規定相互の特定の関係(Ve t n s rha 客観性との対立一般という面から考察する」 のである. なぜなら, 批判哲学にとっ ての課題は, 経 験的認識の 「客観性」 の妥当性の吟味であっ たからである。 すなわち悟性概念の客観性つまりその 対象構成能力の吟味が行われたのである. ここでカ ントが確立した思惟の客観の意味とは,「感覚に固有な偶然性, 特殊 生, 主観性な どと区 ) である。 我々 はこの客観性を 《客観性 S42 Za t 別された普遍的で必然的なものという意味」 ( sa z 「 しかし カ ントの言う思惟の客観性は と命名しておこう 1》 、 , 結局また主観的なものにす ぎない, , というのは, カ ントによれ ば思想 は普遍的かつ必然的な規定ではあるけれども, やはり我々の思想 ) l b i dっ にすぎず, 物自体とは越えることのでき ない深淵によって区別されているからである」( .思 惟が客観的であるといっても, それは我々 の思想にす ぎない のである. この 《客観性1》 は, 日常 用語で使われているところの客観性 から, つまり,「単に主観的なもの, 考えられたもの, 夢想され ) l b i d たもの等々と区別された外的に存在し一「感覚を通して外から我々 に到達するものと言う意味」( ‐ , と の客観性から, 区別されている. 《客観 生1》 とは区別されたこの後者の客観性を 《客観性2》 「単なる主観」 と 《客観性1 命名 しておこう. この 《客観性2》 に基 づいて, カ ントは 「この対立 [ 》 との対立] の意味をもっ とひろげて, 主観性のうちに[知覚o感性と我々 の思想である 《客観性1. 》 との関係である] 経験全体(das Ganze der Erfahrung),. す なわち 上 述 の 二 つ の 要 素 を二 つ な が. ) しか残さないようなことを行っ i ら含ませ[主観的なものとし] ng-an‐ s ch ,反対の側には物自体(Di S41 )<主観-客観の対立の維持>. たのである」 ( ヒュームが因果の概念と実体の概念しか吟味していないのに反 して, カ ントが意識的に概念の価 値を吟味しているのは高く評価しなけれ ばならないが, 我々 は, ヘーゲルとともに, カ ント哲学の 次のような本質的な問題点を指摘しておかねばならない. 第一 に, 思惟の客観性についてである. カ ントの確立した 《客観性1》 は, 思惟されたもの, つ まり思想を普遍的で客観的ものとよんでいるのは全く正しいのであるが, しかしヘーゲルにとっ て の 「思想の真の客観性 は単に我々の思想である だけでなく, 同時に物および対象的なもの一般 の自 「 ) であることを意味する」 体 [真理] (Ans i ch . 言い換えれ ば われわれが考えたものとも異なり, 33.

(7) . 宮 田 和 保. したがっ て事物( Sache ) 自身あるいは物自体とも異なっ ているところのもの [主観的なも の] とは 区別されたところのもの,思惟によっ て把握された存在するところの自体(An ) という意味であ i s ch S41Zusa ) る」( t z . これこそがヘーゲルが確立した意味の客観性である. とは言えここに問題点が ないわけではない. ヘーゲルにとって, 事物自体は意識が自ら自己外化したものであり, したがっ て意識 は自ら自身を対象とするものである以上, 《客観性2》 は, 事実上否定されているのである. 『経営学=哲学草稿』 このことについては「ヘーゲル弁証法と哲学一般と の批判」 ( ) に於けるヘーゲ ルの対象性概念に対するマルクスの批判が想起されなければならないが, 本稿ではこのことを指摘 するに留めておく. また, 思想が普遍的で必然的な規定であるとするカ ントの 《客観性1》 は, や はり 「我々の思想」 にす ぎないと主張さぜるをえないことによっ て, 「思惟の産物と事物自体」 との 間に深淵を定立する 《S 22参照》 . 第二に,カ ントにとっ て認識過程以前に対象の認識の能力そのものの吟味することの問題である. 自由な思考とは, 何の前提をももたない思考である. 古い形而上学の 思惟が自由でなかっ たのは, それがその諸規定を, 反省の吟味にかけないで, 無造作に, 先在的なもの, 先天的なものと認めて いたからである. したがっ て懐疑精神のないところ自由がない.「批判哲学はこれに反して, 一般に 思考の諸形式がどの程度真理の認識に導き得るかという検討 を任務とした. もっ と正確に言えば, それは認識する以前に認識能力を吟味することを要求したのである. ここには確かに思考 の諸形式 そのものを認識の対象とせねばならないという, 正しい要求もあるが, しかし間もなく, 認識する 以前に認識しようという, 言い換えれば, 水泳を覚えてから水に入ろう, というような誤解が忍び 込んで来る. 思考の諸形式を吟味なしにもちいてはならないというのは確かであるが, しかしこの 吟味はそれ自身すでに, 一種 の認識なのである. したがっ てこの認識において は, 思考の諸形式の 活動 [認識] とその [思考の諸形式の] 批判 [吟味] とが結合されていなければならない [思考の 諸形式の活動とその批判と の結合としての認識] .思考の諸形式 は即目的かつ対目的に考察されなけ ればならない. [つまり] 思考の諸形式は [吟味=批判の] 対象であると同時に [吟味の] 対象自身 の活動である[からして] , それらは自分で自分を吟味し, 自分自身に即して自身 の限界を規定し自 分の欠陥を指示しなければならない」 ( S41 Zusa ) [思考の即目的かつ対目的考察] t z , だから思惟 は主体=自由であることになる. .( )理論的能力 認識そのもの α , 我々 は 「に) 理論的能力, 認識そのもの」 の考察に移るが, ここは, 内容的に二つの部分に別れ ている. 前半の部分は, 経験(Er f ) の形成過程とそこでの悟性概念の役割と限界, したがっ て ahrug 「現象界の認識」 としての経験 (Er f ) と, これに対蒔する無制約界 (=絶対的真理) という ahrung 「二元的世界一 の形成についてのカ ントの論理の検討である 《 》 の部分がこれに対 . S42》 ~ 《S45 応する. 後半の部分は, カ ントが無制約者 へのカテ ゴリーの適用, 形而上学 (思惟諸規定) をいか に評価しているか, 評価の仕方とそれに対するヘーゲルの批判である. 《S46》 ~ 《S 52》 の部分が これに対応する. ( a ) <純粋統覚> 「感覚(Ge fml ) と直観によっ て与えられる諸表象は, 内容からいっ ても多様なものであると同時 に, 形 式 に よ っ て も, [つ ま り] 感 性の 相 互 外 在 性(Aussere inander ) か らいっ て も そう である こ の. 諸表象は, 直観の形式 (普遍性) として先天的である時間と空間いう二つの形式のなかにあるので ある」 ( S42 ) . 「 [追加; 感性的なものは互いに外にあり(das Aussereinander),自 己の 外 にあるもの(das Aussersich‐ 34.

(8) . 『小論理学』 ヘーゲル) についての考察( 「予備概念」 ( ) 2. ) であっ て, これが感性的なものの根本規定である. 例え ば, 今は前後に関係してのみ i nende s e ) 同 じ く 赤 は, 》 jetzt 《nur seinin Bezieh・mg aufein Vorherund Nacr立lerhat 存在する. ( 黄色と青色 がそれに対時しているかぎりにおいてのみ存在する, しかしこれらの他のものは赤色 の外にある から, 赤色 はそれが他のものでないか ぎりにおいてのみ存在し, しかも他のものが存 在するか ぎりにおいてのみ存在する. --カテ ゴリ ーを単に我々 にのみ属するもの (主観的なも の) と見なければならないということは, 実際誤っ たことも含まれている. しかしカ テ ゴリーが indung) は含 ま れ て い な い と い う こ と だ け は正 l baren Empf in derun血i t te 直接の感覚のうち に( S42 Zusatz).] しい」 (. f ) と直観のこの [内容と形式からいっ て] 多様なものは, 自我がこの i しかし 「感覚(Emp ndung 多様なものを自己に関係させ, そして一つの意識としての自己に結合する (純粋統覚) ことによっ ich a l i s て, 同一性, 本源的な結合へもたらさ れる( ndem lch daaselbe aufsich bezieht undins i tat ion), wi ingt( ine Apperzet t in ldent in vere BewuBt ermi rd hi r se , in eine づ が 悟 概 念 す なわち カ テ 定 様 式 純 粋 性 ), こ の 関 係 け の 特 の i che Verbindunggebracht ursprungl ,. inem ・n e. ゴリーである」( l b ) i d - , このことは, 世界それ自身は自己を自己に関係できず, 自己関係能力を喪 , 失したものであり, 人間によっ て本源的統一 にもたらされる, ということを意味する. では, 多様なものを自己に関係 づけ, 一つの意識としての 自己に結合する特定の様式である 「純 粋悟性概念」 は自己の根拠o源泉を どこにもっ ているかといえ ば, それは, 「思惟に於ける自我の本 ) においてである。 「した i b i d 源的同一性(カ ントはこれを自己意識の先 験的統一とよんでいる)」( . , がっ て自我が普遍性と必然性の規定をあたえるということである。 --我々がまず目の前にもっ て いるものを考察すれ ば, それは非常に多様なものである. カテ ゴリーはこう した [多様な] ものが S42 Zusatz). 関係する単純態である」 ( [追加;この点についてより具体的に述べてみよう. 「例えば砂糖一片をとれば, それは白かっ たり 硬かっ たり, 甘かっ たり, その他色々 である. 我々 はこれらすべての性質が一つの対象のうちに indung) の な か に は な い. 我 々 が 二 つ の 出 結 合 さ れて い る と 言 う. し か し こ の 統 一 は感 覚(Empf. 来事を互いに原因と結果の関係に立っ ているものと見る場合もそうである。 ここで知覚されるも i ) で あ る。 - inanderfolgen) 個々 の 二 つ の 出 来 事(Begebe鴎l t の は, 時 間 的 に 継 続 す る(nache e. 方が原因であり他方が結果であるということ (因果関係) は, 知覚されるのではなく, 我々 の思 惟にたいしてのみ存在するにす ぎない。 しかしカテ ゴリー (統一, 原因と結果) が思惟そのもの に属するにしても, このことから, カテゴリーは主観的なものにすぎず対象そのものの規定では な い と い う 結 論 は け っ し て 生 じ な い の で あ る が [し か しカ ン ト はそ う 主 張 し た の で あ る」(Zusatz. ) 3 。] カテゴリーによっ て多様なものを自我化することを, カ ントは, 「純粋統覚」 と規定し, 「普通の 統覚」 と区別している. 本源的に自己同一であり, 自己のもとにある 「自我とはひたすら自己関係 Sage であり,あらゆるものは,この統一のうちに措定されるとき,それに感染し,それに転化される( i l bs i i i i i i t t td ehwl ch se ese Einhe ch》 工ch 《 s es d e abstrakte Bez g auf s , und was in d ,so i が と は ). 自 我 した っ て無 beninf i i i l t t undins rd rd von dersel z er e verwande gesetzt wi ,das wi. ) 統一に還元するところの, いわ ば増禍であり火である, こ 関係な多様を焼き尽くして( r zehe ren ve れがカ ントがふつうの統覚と区別 して純粋統覚とよんでいるものである. 普通の統覚は多様なもの ) [知覚レベルにとどめる統覚] が, 純粋統 をそのものとして自己のうちに取り入れる( f ne腹ロen au i igke i ie re ine Apperzept ion al 覚 は多 様 を 自 我 の も の に す る 働 き で あ る(d t des Ver ‐ s d e Tat. )」 ( S42 Zusatz). t melnlgens zu betrachten i s 35.

(9) . 宮 田 和 保. b ( )〈自我の本源的同一性〉 で は悟性概念が自己の根拠を有する 「思惟に於ける自我の本源的自己同一性」 とは何である のか, そしてこの悟性概念と自我 の本源的同一性との関係 はいかなるものか .. 自 己 意 識 の 統 一 つ ま り 自 我 と は, 「超 越 的(Tranzendent )」 つ ま り 「悟 性 に よ っ て 規 定 さ れ た も の. を越えるもの」 である. 言い換えれば, 自己同一でありながら, それを否定し自己をある他の或る ものとして定立し, そして他の或るものとして定立しながらまた自分自身のもとにある のである . つまり自己同一と自己区別との統一である. ところがカ ントの自我論は, このような 「自己意識の 統一だけを超越論的( l ) と呼び, そしてそれに, 自己意識の統一 は単に主観的なも の t t ranzenden a e であっ て,自体的に存在する対象そのものには属さない意味を持たせているのである」( S42 Zusatz). 「 つまり, 超越的 ( )」 である自我すなわち自己矛盾的統一 である自我 を, 「超越論的 t t ranzenden ( t ranzendental e」 と よ ぶ こ と に よ っ て, こ れ を 抽 象 的・空 虚 な 自 己 に, し た が っ て 主 観 的 な も の に. 還元したである. それゆえ, 悟性概念の根拠o源泉が, 「思惟における自我の本源的同一性」 (=「自 己意識の超越論的統一」 ) にあるといっ ても, 「自我の諸規定」 である 「カテゴリー」 は, この 「自 我, すなわち自己意識の統一が全く抽象的であり無規定」であるからして, 自我から「導出( l ) i t ab e en される」 ことはできない. したがってカ ントは, 経験的に従来のカテゴリー表を充分な検討なしに. 使用(発見. 0 } Auf f indung) し た の で あ る2 .. また, カ ントは, 「純粋統覚」によっ て, 世界を認識し世界をわがものにし世界を自己 に従えよう とする意識の本性を正しく言 い表していたのであるが, しかしこの 「多様のうちに絶対的な統一を 導入した」 するものは, ヘーゲルが批判するように, カ ントにおいての自我論が空虚な・主観的な 1 ) 存在であるからして, 単なる 「自己意識という主観的な作用」 によるもの, とせざるをえない2 . ( ) <物自体と理性> c 以上見たように, カ ントによれば,「一方単なる知覚( d i ebloBe Wahrneh叩Dung) が 客 観 性(obje‐ kt ), 経 験(Erfahru1 i i tat v 1 g) へ ま で 高 め ら れる の はカ テ ゴ リ ー に よ っ て で あ る が, 他 方 で は, 単 な. る主観的意識の統一体(Eimi i ) としてのこれらの諸概念は, 与えられた素材によっ て制約されて t e おり, それ自体としては空虚であり, ただ経験にしかおのれの適用, 使用を有しないのである. そ して経験の他の構成要素(Be i l ) である感情(Ge ) f l t t uh s and e , 直観の諸規定もまた同様に主観的な 「だからカテゴリーは絶対者を規定する資格を有 しないのである ものにすぎないのである」( S43 ) . , K というのは絶対者[そのもの]は知覚のなかには与えられていないからである(Di i t i d r a e o e n n s e g daher unfahing i i t ten zu sein, als welches nicht in e r nmungen des Absol ner VVahrneh- , Bes. ) t mmg gegebeni s . それゆえ悟性すなわちカテゴリーによる認識は, [経験全体の反対側にある] 物自体を認識する能力をもたないのである」( S44 ) . こう した見解は, 超経験的なものの認識[物自 体] を否定した 「徹底した経験論」 と同じものである. では, この 「物自体」 の本性とは一体なんであるのか. 「物自体」 の本性の看破は, カ ントの 「理 性」 及び 「理性的対象」 がなんであるかを明らかにする. したがっ て 「物自体」 の理解は, カ ント の3つの 「仮象」 の批判を批判的に理解するのに決定的なポイ ントをなし, 理性 (もっ とも深い意 味での自己意識;自我) を含めての人間観につ いてのカ ントのそれとヘーゲルのそれとの決定的分 岐点に光をあてるのである. そして, この点において, 逆説的に聞こえるかもしれないが, ヘーゲ ルが或る意味ではカ ント哲学が提起した問題を真 に引き継 ぎ, 解決したところの真の継承者である という面をも我々 に呈示するのである. ヘーゲルは, 一見不可思議なこの 「物自体(Di )」 の本性を暴露して, 次のように述べ i ng‐an- s ch 「 る, それ[物自体]はまさに純粋な抽象にまで行き着いた思考の産物であり,空虚な自我の産物--こ 36.

(10) . 「予備概念」 ( 『小論理学』 ヘーゲル) についての考察( 2 ). の空虚な自我 は自己自身 のこの空虚な同一性を対象とする [ i d e s caput mortuu皿 selbst nur das ‐ D k P1 k i d b t i td d f n ion ortgegangenen Denkens,desleeren ou es e en s, e en es zur re nen Abst rakt 工ch i i l bst sich zum Gegens tat seiner se ] - -. [思 惟 の] 対 ese leere 工dent tande macht ,das d .. 象としてのこの空虚な同一性 [=物自体] が結 果として得る( ) ところの否定的な規定 は, l t e rha en カ ントの[あ げた1 2の]カテゴリーのもとでも( ) ふるまわされ t n r u e , それはかの空虚な同一性[空 虚な自我] と同様によく知られたも のである」 ( S44 Anm), と. 対 象 と し て の こ の 「物 自 体」 は, 主体 (思惟) の側での空虚な自我の o つまり自分自身の空虚な同一性を対象とする空虚な自我の o 産物である. 要するに, すべての諸規定の捨象 にまで突き進んだ思惟である空虚な自我が この空 , 虚 になっ たときの自己の同一性を取り上 げてできたものが 「物自体」 の本性である とヘーゲルは , 規定するのである. とするならば, この抽象的o空虚な自我が 「理性」 と規定されるならば--事 実カ ン ト は こ のよ う に 規 定 し た の で あ る が一-- 当 然 に こ の 「理 性 の 対 象(Vernuf t tand)」 sgegens ,. とは, この理性 (空虚な自我) が対象とするもの= 「物自体」 となる . d ( ) <カ ントにおける悟性と理性との区別> 我々 は経験的認識を中心に考察してきた. この経験的認識 は, 制限(規定)されており, この「制 限を洞察するものこそが, 制限されていないも のの能力である理性である」( S45 ). 経験は知覚に与 えられたものにカテゴリーを適用するものによっ て生じるがゆえに, 超経験的なものとは 知覚に , 与えられず, したがっ てカテゴリーの適用が不可能であるところの o ある対象からそれに関するあ らゆる意識, 感情, 特定の思想を捨象されたところのo「物自体」 として, 経験を越えでている理性 の 「対象」 となる. そしてこの 「理性的対象」 である 「物自体」 は, 上に見たように, 全くの抽象 にまで進んだ思惟 (=空虚な自我) の産物であり, 「カ ントが理性と呼んでいる のは, この純粋な同 一性[物自体] を対象あるい は目的とする抽象的自我あるい は思惟である」( 工 i ) b dっ . とするならば, ヘーゲルの立場からするならば, カ ントの 「理性の対象一 及び 「理性」 の概念は, カ ントにあっ て は極めて貧困と言わざるをえないのである. ところで 「経験的認識は常に規定された内容であるか らして, このような全く の無規定の抽象的同一性 には経験的認 識 はあ て はま ら な い」( lbid ). こ の . , ような 「物自体」=無制約者を 「理性の絶対的真理(理念 ldee )」 とするから, 経験的認識は現象と 考えざるを得ないのである」( l b i ) d . . 以上のカ ントの論旨を要約すれば, 経験的認識=規定された , 内容=現象, 理性的対象=無制約的なも の (無規定o抽象的同一性としての物自体);真理 (理念) である. ここでカ ントは「理性の対象」= 「無制約者」 を同時に「思惟における自我 の本源的同一性」 とも規定している. なぜなら, 前述したように, 「思惟における自我 の本源的同一性」とは 空虚な , 自我であっ たからして, これは, 空虚な自我が対象とする自己自身の空虚な同一性=「理性的対象」 と同一となるからである. 理性及び理性的対象がこのように極めて貧困な規定 であっ たとは言え カ ントによっ て 「初めて , 悟性と理性とがはっ きり区別され, この区別の仕方は, 悟性は有限で制約 のあるものを対象 [有限 な認識として経験的認識] とするのに対して, 理性 は無限で無制約 のものを対象とするということ である」 ( S45 Zusatz). こ れ は, カ ン ト 哲 学 の 重 要 な 成 果 で あ る. し か しカ ン ト は, 「理 性 の 無 限 性を, 区別を排除する抽象的 [無規定的な] 同一性にのみ還元」 し 「このように理性を単 に悟性の , 有限性および制約性を越えるもの [理性の無限性を抽 象的無規定的な同一性] とのみ考え‐ ると, そ のために理性そのものは実際 には有限で制約されたものに引き下げられてしまう というのは 真 . , に無限なものとは有 限なものの単なる彼岸ではなくて 有限なものを止揚さ れたもの として自己 の , うちに含むからである」 ( 工 i ) b dっ . さらにこの区分に基づいてカ ントは,「経験的認識の内容をな している我々 の直接的意識の諸対象 37.

(11) . 宮 田 和 保 lbid ). を単なる現象( b l oBe Erscheinungen) とみなすことは,カ ント哲 学 の非 常 に重 要な成 果 である」( . , 「 すなわち, カントは経験的認識を 己の存在根拠を自己目身のうちではなく他のもののうちにもっ )″ であるからして, 「われわれ ) として見なし, この他者が 我々(Wi ている」 もの (= 「現象」 r ) にす ぎず, l i b dリ の意識内容をなすもの を単に我々 のもの, 単に我々 によっ て定立されたもの」 ( 「我々 が知るところの事物(Di にとって ての現象にすぎず 事物のそれ自体は我々 ) は我々 にと ng っ , 「 あくまでも到達できない彼岸である」 , と言う. これに対してヘーゲルは, この場合さらに問題な 「 この他者がどう規定されるかということ のは, 」であるとして, 我々 が直接に知る事物 は,単に我々 に対してのみならず, それ自身単なる現象にす ぎない. そしてその存在の根拠を自分自身のうちに. ) l b i d もたず, 普遍的な神的理念のうちにもっ ということは, 有限な事物の規定[現象] である」( . , , と言う. ( e ) 「しかしこの同一性すなわち物自体を認識しよう とする要求が起こっ て来る. ところで [こ ) とは, ある対象をその特定の内容 [対象の自己連関と他者連関] に従っ の] 認識する(Erkennen 「 S4 ) ) ことにほかならない」( 6 て知る(wi s sen . そして あの無限者つまり物自体の規定にとっ て理 性 はカテゴリー以外なにもない. そこで理性がカテ ゴリーをそのために使用しようとすれ ば, 理性 「悟性によっ て規定されたものを越えるもの」 ] ) [ ) (超越的 t は高踏的( f l i t ube r ranzenden egend 「 となるのである」 ( S46 ) . カ ントはここに, 理性批判の第二の面」 を見いだすのである. ところで, 「理性批判の第一 の面」 とは, 今までに見て来たカ ント哲学の 「主観的観念論」 (コ ペ ルニクス的転回)である. つまり,「カテゴリーはその源泉を自己意識の統一 のうちに持ち, したがっ てカテ ゴリーによる認識は客観的なものを少しも含まず, カテゴリーに帰せられている客観性自身 も単に主観的なものにすぎない, という見解である. … [そこでは] カテゴリーの内容 は問題にし ないで, 主観性および客観性という抽象的 [」面的] な形式をのみ取り扱い, 主観性を究極的な肯 S46.Ar 定的な規定とした」 ( 1m) ことである. これに対して, 理性がその対象 [無制約者] を認識しようとしてカテ ゴリ ーを用いるさいに明ら かになる 「理性批判の第二の面」 では, 「カテゴリーの内容の少なくとも幾つかの規定が問題になる 「 のである」 . だから 思惟諸規定の内容およ び思惟諸規定相互の特定の関係そのものに批判が向けら ゴ 身 内 れて い な い」(S41 .Amn), と し て カ ン ト に 今 ま で 批 判 的 で あ う た ヘ ー ゲ ル は, カ テ リ ー 自 の. 2 ) 容の幾つかの規定が問題になる 「理性批判の第二の側面」 は「第一 の側面より重要である2 」 と, 指 摘するのである. カテゴリー自身の規定 が問題になるということによっ て, 同時に, 哲学的考察の本質に属する「思 惟の本性の弁証法」 が明るみになる. それは次のことである. 第一に 「悟性としての思惟 は自己否 SII Amn) こと. 第二に, 「思惟 は本質的に直接的存在の 定, 矛盾に陥らざるをえないという」 ( 否定」( S12 Ar 1m) であるということ, 「思惟の否定的態度」 (思惟の否定的媒介性) がそれである. ( f ) <我々 の課題>. .理性がカテ ゴリーを使用して 「物自体」 を認識しようとすることによっ て理性自らが 「超越的」 ) に対するヘーゲルの評価を明らかに になるとするカ ントの見解 (カ ントが批判 した三つの 「仮象」 することが, 今からの我々の考察の課題である. そのさい両者の立場を浮き彫りにする ため, 同時 に, 旧形而上学の主張をも姐上に載せる. ヘーゲルの主要なカント批判 は, 結論を先取り的にいえ ば, カントが旧形而上学を批判するために提唱した悟性と理性との区別 が思弁的・概念的に正しく 把握されておらず, 理性が事実上抽象的な悟性に還元されて しまっ たことに向けられている. 少々 敷宿しておこう. 理性 が無限者を特定の内容 [カテゴリー] にしたがっ て規定しようとすれ ば, 「高 踏的(超越的)」 になる ことを明らかにしたカ ントが, そのことから導いた結論 は, 無限な能力であ 38.

(12) . 「予備概念」 ( 『・論理学』 ヘーゲル) についての考察( 2 ) る 「理 性」 はカ テ ゴリ ー に よ る 認 識 を 行 え な い, と い う こ と で あ っ た。 し か し, 我 が ヘ ー ゲ ル か ら. 言えば, このことは, 理性が 「空虚な悟性」 「抽象的な思惟」 に還元され, 理性と思惟諸規定 (=自 我の諸規定であるカテゴリーによる認識) とが切断されている, ということを意味するのである。 それ故, カ ントにあっ ては当然に, 理性的対象を把握するカテ ゴリーの吟味は遂行されずじまいと なる. さらに 「抽象的思惟」 としての理性 は 「真理のオルガノ ン」 ではなく, ただ, 「矛盾 [形式的 矛盾] がないという原理」 として 「真理のカノ ン」 にすぎなくなるのは必然的の帰結である, と. ( g ) < バラ ロ ギス ムス >. 「自体的に すなわち観念にたいしてあるような 魂の内的本性を認識しようとした」 合理的心 , , 理学 (旧形而上学) は, 「魂」 を「直接的に現在しているもの(Exs ) i t s enz , 我々 が感覚的に表象す る 「 inn l i l l もの( s ch Vorste en)」 (S34 Zusatz) と し て の 物(Ding)」 と 考 え た. 彼 ら は特 に 魂 の 不 滅 に 興 味 をも っ て い た か ら, そ こ で 「表 象」 か ら 得 ら れ た こ の 魂 に 「単 純」 ま た は 「複 合」 と い う カ. テ ゴリーが妥当であるか否かを考察したのである. 《旧形而上学の特徴の一つ は, 与えられた 「表 象」 を前提にして, この表象を 「悟性」 によっ て思惟しようとしたことにあっ たことは前稿で既に 見た》 もちろんヘーゲルの立場から言えば, 「抽象的な単純性」<悟性的規定> は, 「複合」におとら ず, 魂の本質<内的本性o規定>に適合しない規定であるのだが.. 旧 形 而 上 学 は 「無 制 約 者」 で あ る 「魂」 に つ い て の 「単 な る 経 験 的 諸 規 定( i bloBe empi r sche 「 「 Best immungen)」 (= 表 象o 知 覚」か ら 得 ら れ た 魂」)の 代 わ り に, こ れ に 対 応 す る カ テ ゴ リ ー(思. 惟諸規定)を置き, そのことによっ て, 経験的諸規定とカテ ゴリーとの混合=「バラロギスムス(推 理誤謬)」 に陥り, 「魂の単なる経験的諸規定を魂そのもの」 ( S47 Zusatz) と 考 え て い る, とカ ン トは指摘した. すなわち旧形而上学が経験的諸規定から思惟諸規定への 「推理」 「移行」 をなしたと いう点に, カ ントの批判の根本がある. 彼によれば, 我々 が「認識」 できるのは, 「知覚のうちには 与 え ら れ て い な い」 「物 自 体」 と し て の 「魂 そ の も の」 で はな く, そ の 「現 象」 で あ っ た. そ し て こ. の現象世界の形成にのみカテ ゴリーが 「関係」 しうるのであるからして, 理性は 「物自体」 として の 「魂そのもの」 を対象とする際, それにカテゴリー (思惟諸規定) を適用できない. 旧形而上学 がバラロギスムスという誤謬を犯したのは, 経験的世界の形成にのみ適用できるカテゴリーを, 理 性が自己の対象である 「魂」 (超経験的存在者o無限者) に適用するという 「理性が自己に定められ 「 た限界を越え」 , 理性が超越的になっ た」ことに基づくものである, とカ ントは批判するのである. つまりカ ントの結論は,理性的対象である魂それ自体はカ テ ゴリーによっ て把握できないのである, と主張したのである. では, 旧形而上学およびそれに対するカ ントの批判に向けて, ヘーゲルはいかなる批判的評価を 与 えて い る の か。. ヘーゲルは言う, カ ントの 「バラロギスムス」 の指摘による旧形而上学 への批判 は, 既に経験論 者が叙述 したこと, つまり 「一般 に思惟諸規定 (普遍性と必然性) は知覚のうちに見いだされず, 経験的( ) なものとは内容, 形式からいっ ても思惟諸規定とは異なると主張した」( i i S47 ) r emp s che 「 「 ヒュームの立場と同じである, と. であるならば, 問題は 経験的諸規定」 と 思惟諸規定」 との 関係 である. 我々 は以前に, ヘーゲルの 「客観的思惟」 とは, 「思惟によっ て, 内容がはじめ感覚, 直観, 表象のうちにある在り方に或る変化がもたらされる. したがっ て対象の真 の性質が意識され るのは, ただ変化を介してのみである」( S22 ) ることを , ということを己のモメ ントとして有してい. 「 見た. この 変化」 による対象の真の把握という客観的思想 (思惟) の立場こそがヘーゲルをカ ン トから区分する一つの 「分水嶺」 であっ た。 このことについて は《 S22》 についての論述を想起され たい.「あらゆる認識,否,経験でさえ,知覚を思惟すること,最初知覚に属 している諸規定を思惟諸規 39.

(13) . 宮 田 和 保. 「 S47Anm) l ) こと」 ( 定に変える( ve rwande n , さらに 感性的なものの系列を断き切っ て超感覚的 S50 ) ということに思惟(理性)の本性があるということを. つ なものへまで飛躍するということ」( まり理性的思惟 《思惟の否定的態度》 をカ ントは全く理解していない, という ことがヘーゲルのま ずもっ ての批判である,尚,思惟の「飛躍」 「上昇」 の際の 「形式」 について は後に触れる. [追加;カントのように経験的諸規定と思惟諸規定との区別を主張するのみである限りでは, 「思想 と事物とが分離され」 , そして思惟と存在とは深淵によっ て互いに距てられていることになり《思 思惟 は認識を放棄せざるを得なくなる. なぜなら, 理性的対象(ここでは魂で 惟と存在の問題》 , 「認識とは実際規定する思惟であり 「 あるが) は 無限者」 であるからして, 限定 (規定)=認識 ( , S48 Anm) で き な い か ら で あ る. し か し認 識 の た め に はカ テ ゴ リ ー また規定された思惟である」( しかない. ここに矛盾が存在する. この矛盾から解放されるためには, 認識を放棄するしかない. もし理性が空虚な・無規定の思惟であるとすれば, 何も思惟しないのだから, 認識の放棄=矛盾か らの解放が遂行される. 実際カ ントは理性をこのように還元したのである. そしてこのことは, カ ントは魂の認識だけでなく,世界の認識と神の存在証明への批判のすべてに妥当するのである. S44 Ar皿 不可知論の背後には, このように思惟 (=理性) の 「空虚な同一性への還元」 がある( 「 「 「 「 参照) , 魂」 であれ, 世界」 であれ, 神」 であれ 物自体」 が認識不可能である見解は, この ように思惟と存在との関係およ び思惟 の本性が問題になっ ているのである.] 確かにカ ントはバラロギスムス を指摘することによって,「単純性, 複合性等は魂の規定にたいし て適用できない」 ことをあきらかにしたという 「功績」 を残した. しかし, それは 「消極的功績」 「概念は主観的意識にのみ属 である. 前述したように「理性 が自分に定められた限界を越えるから[ する統 一であるから, あたえられた素材によっ て制約され」概念を超経験的なものに適用できない] というような理由ではなく, このような抽象的な悟性規定は魂にとっ てあまりに低い規定であるか 3 ) S47Zusat ら で あ る2 z)と して, ヘ ー ゲ ル は, カ ン ト の 悟 性 批 判 (= カ テ ゴリ ー) の 検 討 の 不 徹 」(. 底を衝くのである. h ( ) < ア ンチ ノ ミ ー に つ い て >. ) は,「その外的複雑さと現象においての自然お l i 旧形而上学の第三部門である宇宙論(Ko smo og e S35 ) を 「幾つかの抽象的な諸規定 [悟性] に よび精神 [つまり表象から得られた自然と精神]」 ( ) のである. 例えば, 「世界を支配しているのは偶然であるか, S35Zusa したがっ て考察した」( t a それとも必然であるか, 世界 は永遠であるか, それとも造られたものであるかというような問題で あっ た, したがっ て宇宙論の主な関心は, 例えば自然に飛躍 はないというような, いわゆる普遍的 工 i ). また, 「世界に現象する精神について言え ば, 宇宙論が b d な宇宙法則を立てることにあっ た」( . , ) l b i dっ 対象としたものは, 主として人間の自由およ び悪の起源であっ た」( . そこでは, 悪と善が単 「 に区別されているのみならず, 否定的なものの自己のうちにおける絶対的仮象」である悪をそれ自 体で存在しているもの, 「肯定的なもの」<独立存在>と見ているのである. また 「自由と必然とを あくまでも異なっ たものと考え, これらを自然の作用 は必然に従うが, 精神 は自由であるというふ ). S1bid うに自然と精神のう えに適用しているのである」 ( ‐ , これに対してカ ントは次のように旧形而上を批判する.「理性が第二の対象である世界という無制 約者を認識しようとすると試みる場合には, 理性はアンチノミーに陥る. すなわち, 理性 は, 同じ. 対象について二つの反対の命題を主張するようになり, しかもこれらの命題の各々 が同じ必然性を ) S48 もっ て主張されなけれ ばならなくなる」 ( , と. 「ここからカ ントが引き出す結論 はその諸規定がこう した矛盾に陥るような世界の内容 は自体的 な も の(Ans i ) ではあり え ず, 現 象 [Ershcheinung] に す ぎな い と い う こ と で あ る. す な ch[真実] 40.

(14) . 『\論理学』 ヘーゲル) についての考察( 「予備概念」 ( 2 ). わち, 矛盾 は対象そのものの内にあるので はなく, 認識する理性[主観] のうちにあるにす ぎない, ″ ) S48 というのがカントの解決である」( ,矛盾におちいる世界の内容は,カテゴリーを用いている 我々 「 ・ ″ に と っ て の み 生 じる の で あ る か ら し て, 矛 盾 は 自 体 的 で はな く 我々 に 根 拠 を も つ と こ ろ の 現. 象」 となる. 我々 はここで「理性批判の第一 の面」 (カテゴリー は主観的な統一 にすぎず, したがっ てカテ ゴリ ーによる認識 は結局主観的なものにす ぎないということ) と 「理性批判の第二の面」 (理 性の超越性) とがここで関係している ことが理解できる。 さて,ヘーゲルから見た両者の意義と限界を指摘すれば以下の如くである,カ ントのアンチノミー l ) であ b i d の指摘は, 「矛盾をもたらすものは, 内容そのもの, すなわちカテ ゴリー自身である」( . , 「 [ ] ること が語られており, そして 悟性の諸規定によって理性的なもの の対象 のうちに定立され る矛盾 が本質的であり, 必然的であるという思想 は,.近代の哲学の最も重要な, 最も根本的な進歩 S48 Anm). つ ま り ア ン チ ノ ミ ー の 指 摘 は ド グマ テ ィ ズ ム (一 面 のひとつと見なけれ ばならない」( 的見方) を除き, 思惟の弁証法的運動に注意を向けさせたか ぎりでは哲学的認識の非常に重要な促 進 で あ っ た こ と で あ る。 lbsung) を 上 に 見 ) が ど ん な 深 い に せ よ, カ ン ト はそ の 解 決(Auf しか し こ の 見 地(Ges i cht spunkt た よ う に 「思 惟 す る 理 性」 に 求 め, つ ま ら な い も の に 終 わ らせ て い る。 カ ン ト の 上 の 結 論 は, バ ラ. ロギスムスにおいて 「思想と現象」 とが一致しない場合, 思惟 (思想) の方に欠陥 があると主張し たのと同じく, 矛盾が対象自体に存在するので はなく, 思惟する存在, 理性 (思想) の側に矛 盾の lbid )と 根 拠 を 認 め た の で あ る. つ ま り, 「理 性 が カ テ ゴ リ ー の 適 用 に よ っ て の み 矛 盾 に お ち い る」( . ,. いうのである。 このように 「矛盾」 が我々の思惟 (=認識する理性) に基 づくとするならば, この 「矛盾」 から解放されるには 「規定する思惟, 規定された 思惟」= 「認識」 (=カテゴリーによる規 , ) l i b dづ 定)を捨てるしかない,「理性を空虚な同一 生に還元 し一( , 思惟することを拒否する しかない. 『 実際にカ ントはそう したのである. だからヘーゲルは エンチクロペディ ーヘの序論』 で, 「思惟の 本性そのものが弁証法であり, 悟性として思惟 は自己否定, 矛盾に陥らざるをえないという洞察が 論理学の主要な-側面をなしている. [ところが]思惟 は, 自分自身で陥っ た矛盾の解決を自分自身 でなしと げることに絶望すると, 他の諸形式において与えられて いた解決と安息へ後戻りしてしま う」 ( SII Anm) と, 前以て注意を与えていたのである。 また, アンチノミーは, 「あらゆる種類の対象のうちに, あらゆる表象, 概念および理念のうちに 見い だされ…対象をこうした特性において認識することこそが哲学的考察に本質に属するものであっ 「論理学のより立ち入っ た概念と区分」 ] とし て, この特性こそ理性的なものの弁証法的モメ ント [ て 述 べ ら れて い る も の を な し て い る」 (S48 Zusatz) の に, カ ン ト はカ テ ゴリ ー 表 に 基 づ い て ア ン. チノミーを 「4つ」 しかあげず, それも対象を概念からではなく 「図式」 のもとにおくというやり 4 ) 方 で あ っ た2 .. ) <神の存在証明と媒介の止揚としての理性 的証明について> ( i 旧形而上学 は, 認識の基準を 「表象」 に求め, この表象された神 (主語) に 「いかなる述語 [悟 S36 Ar皿) を検討した. その際, それらにとって, 「実在性 性的諸規定] が適切であるか否か」 ( と否定性 [規定性] とは絶対的に対立するものとして考えられているから, 結局悟性が理解するよ うな概念 は, 無規定の本質, 純粋な実在性, 純粋な肯定性というような空虚な抽象物, 現代の啓蒙 S36 Anm) こ と に な っ た。 す な わ ち, 神 の 概 念 が, 「最 も 思想の生命のない産物しか残らない」 ( 実在的な存在」 というような抽象的な概念としてのみ把握されるとき, 神は我々にとっ て単なる彼 岸となり, それ以上の認識 は不可能となっ てしまうのである. というのは, 規定されるものがない S36Zusatz)。 場合には,いかなる認識もまた不可能であるからである.「純粋な光は純粋な闇である」( 41.

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