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トゥーラン主義運動家としての今岡十一郎 利用統計を見る

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全文

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著者

レヴェント シナン

雑誌名

アジア文化研究所研究年報

49

ページ

102-82

発行年

2014

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007390/

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シナン・レヴェント

はじめに 19 世紀の世界では,ヨーロッパ中心主義(= 「アーリア主義」)が強まり,それはアジア諸民 族に対して西欧の優越感を主張する政治的な理 念として唱えられるようになった。同世紀後半 から,このイデオロギーは西欧のアジア諸民族 に対する植民地主義を正当化する手段となっ た。こうしたヨーロッパ中心主義,言い換えれ ばアーリア主義は,後進のアジア出自の諸民族 の間に反発を喚起した。「トゥーラン主義」は, なによりもヨーロッパの優越感を主張するアー リア的理念に反するイデオロギーとして,主導 されるようになった。 日本にトゥーラン主義が流入したのは,後述 のように第一次世界大戦後という遅い時期で あった。この時代にハンガリーはトゥーラン主 義を日本で流布するために接近を図り,その過 程で今岡十一郎という同志を獲得した。本稿で は,「日本におけるトゥーラン主義の最初の提 唱者」と目されながら1 ,必ずしも充分に究明 されてこなかった今岡の活動を通して,日本に おけるトゥーラン主義を時系列的に整理する。 1. 準備段階【1905 年と 1914 年】 日本におけるトゥーラン主義は,日本が自発 的に捜し求めて受容したものではなく,ハンガ リーの知識人によってもたらされたものであ る。すなわち,1905,1914,1921 年と 3 度 にわたり来日した民族学者にしてトゥーラン主 義活動家バラ−トシ・バログ・ベネティック (Baráthosi Balogh Benedek 1870 ∼ 1945)

の活動によるものである2 。日露戦争終結後の 当時は,ハンガリーにおけるトゥーランという 用語は,地理的な概念から政治的な意味を持つ ものへと変わり,1905 年に同国初のトゥーラ ン主義団体が結成された時期にあたる3 。こう した事情から,彼の最初の来日は,単なる学術 調査だけではなく,トゥーラン運動に対する日 本の支持を獲得する目的も,あわせ持ったもの と判断できる。 2 回目の来日は,第一次世界大戦勃発直前の 1914 年 5 月のことであった。特筆すべきは, 後に日本におけるトゥーラン主義の中心人物に なる今岡十一郎との最初の出会いである。バ ラートシは,トゥーラン民族の一派たるトゥン グース種族についての現地調査をするために, ドイツ・ハンブルク博物館との契約で,民俗資 料収集のために来日した。その際に日本語が分 からないバラートシに,ドイツ語通訳兼助手と して協力したのが今岡であった。今岡は東京外 国語学校(=現東京外国語大学)ドイツ語学科 を卒業し,引き続き専科でフランス語を学び, ドイツ語教授山口小太郎の紹介でバラートシに 会い,全く無報酬で彼の助手になった4 。今岡 は 1956 年の『日本週報』に連載した,後に詳 述する回想録の第一部で往時をこう回想してい る5 なぜ私がハンガリーに興味をもつように なったか,それからお話しよう。私は東京外

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語ドイツ語科で,山口小太郎先生について勉 強していた。卒業の年,つまり大正三年 [ = 1914 年 ] のことである。山口先生が私を呼 んで『ハンガリーの民俗学者でバラートシと いう教授が,樺太,千島,北海道などのギリ ヤーク人,オロッコ人,アイヌ人などの研究 に来られているが,いい助手を世話してくれ ということだ。金はない。どうかね君,やつ てみる気はないか』といわれた。山口先生の お話によると,日露戦争における日本の勝利 は,ハンガリー人を狂喜せしめた。ハンガリー はロシア−スラブ民族のために,さんざん痛 めつけられている。いわば,歴史的宿怨の国 である。それを見事に日本が破った。しかも 日本はハンガリーと同じくツラン民族であ る。東方の兄弟国が,宿怨のロシヤ帝国を破っ たというので,わがことのごとく,喜んでい る。バラートシ教授は,その日本をあこがれ て,日露戦争直後日本にやってきた。自分は ドイツ留学の帰途,シベリア鉄道で教授と一 緒になり,大いに意気投合した。人格,識見 ともに申分なく,燃えるような祖国愛の情熱 には敬服するものがある。君の勉強のために も,彼と交友を結ぶことは,大いに意義があ ると思う―と。私は快諾した。<中略>私は 彼に従って樺太に渡った。私は彼によっては じめて,ツラン民族というものを知った。そ してハンガリーには,ツラン民族同盟という ものがあり,熱心な研究家が研究しているば かりでなく,ハンガリーはヨーロッパにおけ る唯一のツラン民族『ウラル・アルタイ系民 族=歴史家のいう北方アジア民族』であると して,むしろ誇りとし,東方の同族に対して, 限りないあこがれと郷愁をもっている,とい うことも教えられた。 こうした 2 度にわたる訪日経験を経て,バ ラートシを介した日本におけるトーラン主義普 及の準備が整ったのである。 2. 初期段階【1921 年∼ 1922 年】 日本におけるトゥーラン主義展開の最初の 担い手は,1921 年に 3 度目の来日を果したバ ラートシと,彼に協力した今岡である。彼らに 加え,シベリア出兵中の日本陸軍と出会った, 前述のバシキール民族独立運動家のクルバンガ リーと,タガンを含めることも出来る。彼らが, 1920 年代初期に宣伝活動を共にして,トゥー ラン主義は次第に日本で知られるようになっ た。その中で,後述するバラートシ,今岡及び タガンの協力関係は,さらに興味深い展開を示 す。 バラートシは,3 度目の来日に際して,前回 の 2 回より長く滞在した。今岡によると,こ の時の来日目的は第一次世界大戦で敗北した 新生ハンガリー国家の回復のために,日本へ の接近を図ることであった。今岡はこう記し ている6 このときの内閣は,テレキを首班としてい たが,このテレキ首相は熱心なツラン民族主 義者であり,大の親日家であつた。「彼は地 理学者としても有名で,日本の地図をつくつ た功績により,日本から勲章を受けている」。 そのテレキ首相が,敗戦祖国の窮乏と混乱を 救い,ハンガリーの回復を図るには,東方の 兄弟国である日本と結び,ツラン運動を起す 以外にない,と考えて,自分のポケット・マ ネーを割いてバラートシ教授を日本に派遣し た。その表向きの理由は,「横浜の倉庫にあ づけてある荷物を取りに行く」ということで, 教授は三度目の日本の土地を踏んだ。大正十 年の春のことであった。 今岡の回想によると,「彼(筆者注:バラー トシ)は日本に着くと,早速私のところへ飛ん できた。『ツラン運動をやる,援助してくれ』 と非常な意気込みである。私は『よろしい,や りましょう』と引き受けた。彼は情熱的な眼を

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輝かして私の手をとり,『二人はこれから,ツ ランの使徒になろう』といつて誓い合つた」と, 早速に活動を開始している7 。今回の来日に際 して,バラートシは知己の今岡の世話を受け, 彼と同郷の今岡信一郎の夫人が経営していた, 東京本郷区追分の下宿屋「えいりん館」の一室 を借りた。今岡はこう記述する8 東京本郷区追分に,私と同郷の今岡信一郎 (筆者注:現在の芝の正則学園長)の夫人が 経営する下宿屋(えいりん館)があった。バ ラートシはここに一室を借りて自炊してい た。金がないので,牛やニワトリの骨を買っ て来て,遊牧民ふうに,これをグツグツ煮な がら,われわれ三人(筆者注:今岡・バラー トシ・タガン)はこの六畳に,毎晩顔を会わ せた。 バラートシの運動の裏には,当時の国際情勢 があると考えなければならない。すなわち,日 露戦争後にアジア主義が覚醒して日本はアジア の盟主たらんとする一方,第一次世界大戦の講 和会議たるパリ講和会議への出席,ヴェルサイ ユ・ワシントン体制への参画を通して「五大国」 の一員として,欧米列強と協調しての国際関係 構築を目指していた。とりわけ第一次世界大戦 後の新世界秩序において,五大国の中でアジア 唯一の国家であったことは,日本に対する「頼 れる同胞民族の大国」の期待を,他のアジア諸 民族やハンガリーに与えていた。同じトゥーラ ン民族と目されるトルコは頼られる国どころ か,当時解放戦争末期を迎え,不安定な政情に あった。同じく,フィンランドもロシア革命後 独立したばかりであり,大戦後スウェーデンと も領土問題が生じていたこともあり,不安定な 状況であった。しかも,フィンランドは弱小国 であり,トゥーランを導く勢力などをもってい なかった。また,内・外モンゴルはそれぞれロ シア・中国という大国から圧迫されていた。中 央ユーラシアに居住していたテュルク族も,ロ シアの統治下に置かれていた。こうした国際情 勢を重視した上で,ハンガリーは日本への接近 を図ろうとしたのである。バラートシらハンガ リー・トゥーラン主義者には,「当時トゥーラ ン民族のうち,独立国家は日本,トルコ,ブル ガリア,ハンガリー,フィンランドの5ヵ国し かない。他は全部スラヴ民族(ロシア)の奴隷 である。しかもこの5ヵ国のうち力のあるのは 日本のみである。日本が先達となって,これら の奴隷的,植民地的境遇におかれているトゥー ラン諸民族に働きかけるならば,必ず共産ロシ アは崩壊する」という確信があった9 そのころ,今岡は東京帝国大学経済学部研究 室の高野岩三郎の下で社会主義を勉強していた ものの,その理念に違和感を抱き民族主義への 関心を高めていた。まさにそのときに,今岡は バラートシに出会ったと回顧している。今岡の こうした勉学上の転向は,当時隆盛期にあった 東大・京大を中心とする社会主義研究から異端 視され,さらに今までの同志からは裏切り者扱 いを受けた。自分の中に潜在的にあった民族へ の好奇心に,バラートシの影響も加わり,今岡は それまで 10 年間勤務した経済研究所から離れ, トゥーラン主義活動家となったのである10 私は当時,東京帝大の経済学部研究室の高 野岩三郎先生の下で勉強していた。このころ はマルクス主義はなやかなりしころで,京都 大学には河上肇,東大には高野岩三郎と両巨 頭が対峙し,その下には優秀な研究学徒が曇 のごとく集まっていた。私も社会運動に魅力 を感じ,森戸辰男,大内兵衛,櫛田民蔵,細 川嘉六ら英才のそばで,ほそぼそと社会主義 を研究していた。<中略>ところがマルクス 主義は,クラス・ストラグル(階級斗争)一 本槍で,レース・ストラグル(民族斗争)は 認めていない。私はいつも,これに不満であっ た。一国内における階級闘争によって,貧富 の差をなくすと同時に,これと併行して,民 族間の富を平等にすること−福祉を図らねば

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ならぬ。全人類の立場において,人間は平等 であり,相互の人権は尊重されねばならぬ。 搾取する国と搾取される国,支配する国と支 配される国,侵略国と植民地,帝国主義と隷 属国こんな姿のまま放置されていて,どこに 人間の自由と平等があろうか。そしてこれは 一国内における階級闘争だけで解決される問 題では決してない。アジアやアフリカ,ある いは中近東やロシア領内の,諸民族の貧困と 隷属を救うためには,まず,民族闘争を巻き 起こさねばならぬ。私のこの考えは,高野先 生も同志たちも,一人として耳を傾けてくれ なかつた。ドイツには民族経済学の資料があ ると聞いたので,私はドイツへ留学して,こ の民族問題を研究しようとひそかに決心をし ていた。ちょうどそうしたときに,バラート シ教授が,ツラン民族運動の使命をおびて日 本へやって来たのである。私が研究所を脱け て,バラートシと手をとって民族運動に走っ たという記事を,大々的に新聞が報道した。 私は同志から裏切り者だといわれた。ことに 東大の講師,権田保之助は,『改造』でツラ ン運動をマルキシズムの立場からこつぴどく 叩き,冷笑したものである。こうして私は, 十年間の経済研究所に別れを告げて,ツラン 運動者となつたのである。   写真:1 左から今岡,バラートシと,タガン [ 出典:今岡,1956 年 12 月 10 日 ] このようにヨーロッパ諸言語を習得し,社会 主義研究を経た後,民族学で目覚めてトゥーラ ン主義に傾倒した今岡の経歴は,多くの日本の アジア主義者たちの経歴とは異なる。この差異 こそが,その後の日本においてアジア主義と トゥーラン主義とが共鳴関係を持ちえなかった ことの原因であると考えられる。 さらにいま一つ重要なことは,前節で述べた ように,第一次世界大戦後の国際情勢の中で, ロシア革命のもたらした内戦でボルシェヴィキ 派の弾圧から逃れて,極東さらに日本に亡命し てきた反革命運動のテュルク系諸民族も,自ら の民族独立運動のために,東方の大国たる日本 に支援を求めようと活動していたことである。 なかでも,バシキール人の民族運動活動家ムハ ンマド・アブドルハイ・クルバンガリーやアリ ム ジ ャ ン・ ダ ガ ン(Alimcan Tagan 1892 ∼ 1948, ロシア名:タガーノフ)が,1920 年 前半の日本でトゥーラン主義や,さらにその後 の日本の「回教政策」の展開にも絡んで重要な 存在である。戦間期の対中央ユーラシア圏政策 の中で重要な役割を果していた小村不二男の指 摘によれば,こうしたテュルク系亡命者らは, 東北アジアを経て参謀本部の肝煎りで 1920 年 前半に相次いで来日した。彼らの指導者たるク ルバンガリーとタガンらは東京において政界・ 財界・軍人・民間アジア主義運動家の様々な要 人たちと面会を重ねた11。今岡とバラートシは, ある日,有力な民間アジア主義者である頭山満 の家においてトゥーラン系のテュルク系諸民族 のバシキール人であるタガンに初めて会ったと いう12 そのころ(バラートシが三度目に来日した 際)ロシア人のタガノフ(=筆者注:タガン) という男が日本へ亡命して来た。タガノフは, ウラル山麓のバスキール共和国の出で,この 民族は回教徒であり,ツラン民族である。ロ シア革命に際し,バスキールは,民族の自由 と独立のために起ちあがったのであるが,ボ

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ルシェヴィキに攻めたてられて,あえなく敗 れた。独立の戦士たちは,シベリアを追われ 追われて,ついに満州に遁入した。タガノフ はその軍事代表であった(政治代表はラルバ ンガリー(=筆者注:クルバンガリー))」。 日本軍がこれを援け,原道次らが日本へつれ てもどり,頭山満の下に二人をかくまつた。 私はバラートシと共に,頭山満邸でタガノフ に逢った。彼も(バラートシと同じく)カイ ゼル髯をはやした堂々たる偉丈夫である。完 全なツラン系で,日本人にそつくりで,識見 も高邁である。だが,言葉はロシア語とトル コ語しか出来ない。バスキールの独立を願う 彼は,一も二もなく,われわれのツラン民族 運動に賛同し,一見十年の知己のごとく将来 を誓いあつた。これで同志は三人になつたわ けである。 3. 大亜細亜協会・トゥーラン民族同盟の結成 前述のように,頭山満の下で手を組んだ上記 3人は,まず軍部から同運動の構想に関して後 援を得ることを画策した。しかし,参謀本部は トゥーラン主義への関心をあまり示さなかっ た。しかし,望みを捨てなかった 3 人は,日 本におけるトゥーラン主義展開のための助力を 得るために,民間団体「大亜細亜協会」13の要 人に接近を図り,彼らと接触を持った。3 人と 大亜細亜協会の関係者との一時的な関係から, 「ツラン民族同盟」という結社が生まれた。日 本のアジア主義者たちは,バラートシと白系ロ シアのテュルク系諸民族をトゥーラン主義運動 の名のもとに日本側に引き込み,1921 年末に 大亜細亜協会の支援の下で日本初の「ツラン民 族同盟」というトゥーラン主義結社を創設し た。「大亜細亜協会・ツラン民族同盟」の発会 式は,東京市上野公園内にある上野精養軒で行 われた。同同盟の設立については,当時のメディ アの注目も引き,1921 年 10 月1日発行の『読 売新聞』の朝刊に,「今日発会式を挙ぐる−ツ ラニズムの大亜細亜協会−」という題名で報じ られた14 今回の欧州大戦乱,即ちアリアン系白色人 種の大醜態に鑑みてこの際ツラン民族たる全 アジア及びバルカン半島の諸国そのほか,ト ルコ,中央アジア等の各人種それにアリアン 系ではあるがインド人種をも加えたいわゆる 有色人種の一大結束を作る可く今回愈々これ ら各国の人々によって大亜細亜協会なるもの が設立されることになった。30 日夜午後 5 時から牛込神楽坂末よしで同協会の委員の相 談会が開かれた,当夜は右協会設立の目的を 以って予ねてハンガリーから来朝中ブダペス トの有名なる人類学者バラトシ・バログ・ベ ネデク博士やこれも同じ目的を以って先頃か ら来朝中のバシキール民族の代表者クルバン ガリエフ(=筆者注:クルバンガリー),タ ガノーフ(=筆者注:タガン)の二氏も出席 した。小林勝民氏の挨拶に次いでベネデク博 士は『全世界十六七億の人口の内約七億を有 してツラン民族が結合すれば必ず今日のアリ アン民族の構暴を制する事が出来ると自分は 信じている,自分達は決してアリアン民族に 対して好戦的な意味で立つものではない。人 道の為め正義の為めツラン民族の興起を促す 次第である』と熱心に説いて尚同協会は今一 日午後 5 時から上野精養軒において発会式 を挙げ,会長及び副会長,そのほか役員を決 定するとの事である。会長は(中略)大隈侯 に内定している。 この同盟の設立にあたり,政界・軍部・民間 の要人に働きかけた日本側の主役は,今岡で あった。『朝日新聞』は,アリアン系とされる 西欧諸民族の侵略に対して,「同胞血縁的なア ジア民族の生存を保持するため,バラトシ・バ ラグ・ベネデク,今岡十一郎氏等発起にてツ ラン民族同盟を結成することとなった」と報道 し,今岡とバラートシが同同盟結成において中 心人物であったことを提示する15。また,今岡

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は回想録の中でこの件を次のように記述してい る16 民間団体として,小林勝民代議士や鹿子木 員信博士,中村屋にかくまわれているボース などが主宰する大亜細亜協会があった。私は これらの同志と一緒にやろうと提案し,しば しば会合を重ねて,熱心に議論をたたかわし た。 1921 年に設立されたトゥーラン民族同盟に 関する一次史料は,残念ながら管見の限り極め て少ない。新聞記事と今岡回想録以外に手がか りとなるのは,1921 年の「大亜細亜協会・ツ ラン同盟会」の発会式に際して行われた講演を 下に作られた記録書・小冊子である。全 50 頁 の同資料には,クルバンガリー,タガン,バラー トシらの外国人の講演記録もあれば,今岡が記 したように小林勝民や鹿子木員信のような大ア ジア主義者の発言もある。同資料の「緒言」に おいては,「大正十年秋十月一日を以って,東 京上野精養軒に於いて盛大なる発会式を挙げ た,大亜細亜協会及びツラン会亜細亜本部の設 立は,時期既に来たつたためではあるが」と記 されている。続いて,「大隈重信氏,後藤新平 氏,原敬氏,野田卯太郎氏,岡田安賢氏諸氏の 祝辞各民族よりの祝電あり,盛況を高め(?), 八代六郎氏の発声にて万歳三唱を以って式は終 わった」と報じられた。さらに,小林勝民が「大 亜細亜協会・ツラン同盟会」の関係者を代表 して行った演説において,同協会の創立主旨を 「英,仏,米,蘭といった西欧諸国によって支配・ 奴隷化されているアジア諸民族を興起,またア ジア特有の文化を発揚させることである」と述 べている。すなわち,同発会式における様々な 講演の基調は,いずれも反白人種,あるいは反 西欧主義的な論調であったことである。そこに はアジア諸民族の連帯を日本の盟主の下に植え 付けるような議論の傾向があった。例えば,鹿 子木員信は講演の中で,こう述べている。 ところが,同会は設立以降,これといった活 動を確かめられないので,タガンらとバラート シの歓心を得ることを目的とした,打算的な団 体設立に過ぎなかったと言うことが出来る。日 本のアジア主義者たちは,反ロシア・反欧米列 強という観点から,トゥーラン主義に興味を抱 きつつも,積極的な受容・共闘を模索すること なく,表面的な関係を維持するに留まった。ま た,トゥーラン主義,あるいは同理念が包括す る地理的,民族的な対象地域は,日本のアジア 主義者がトゥーラン運動に対し距離を保つこと となった大きな理由の一つだと考えられる。す 写 真: 2 大正 10 年 10 月1日東京上野精養軒で の「大亜細亜協会・ツラン会同盟」発 会式。バシキール民族運動家のクルバ ンガリー及びタガン,そしてハンガリー のトゥーラン運動家バラートシと日本 のアジア主義者らとの面談光景である。 [ 出典:大亜細亜協会・ツラン会発会式,1922]

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なわち,大英帝国の支配下にあった,アーリア 系と目されるインドは,アジア主義者の西欧帝 国主義に対するアジア連携論において欠かせな い存在であったにもかかわらず,トゥーラン主 義の守護する民族理論の中にはインドが含まれ なかった。従って,インド問題を包含しない トゥーラン主義は,アジア主義者には合理的な 理念と映らなかったと考えられる。 先にはロシアの武断的侵略主義の結果とし て,而して百数十年に亘つては主としてアン グロサクソンを急先鋒としたる欧州の資本主 義的侵略主義に由つて,吾々のアジアが全然 吾々の手から離れて,そうしてヨーロッパ 人,アメリカ人の手に帰していつたのであり ます。このアジアがヨーロッパ人の贅沢の資 源になって行ったのである,その結果として アジアの民族が今日見るが如き支離滅裂の逆 境に沈淪するに至つたのである。<中略>こ の逆境から脱出する道は唯だ一つ,それは連 結より外仕方がない,ところが団結するには 必ず中心を必要とする,依て以て団結する処 のものがなければならない。而して依て以て 団結する処の者というのは,先程バラトシ博 士の言われた通りに,今日アジアに於いて否 独りアジアに於けるのみならず,世界に於い てヨーロッパ人の外には日本しかない,そこ でこれらのアジアの諸民族,独りアジアの諸 民族のみならず,ヨーロッパに入つて行つて いる吾々と遠いまた近い関係かもしれませぬ が,兎に角,血族的関係を以ている民族が自 ら日本を太陽と仰ぐが如くに仰いで来たので あります。<後略> また,発会式に来賓として参加したバラート シも,一場の講演を行った。その要旨は,次の ようなものであった17 <前略>私の主張する汎ツラン同盟なるも のがかくの如き主旨を持つものとすれば,か かる正当にして必要なる同盟の建設に一層の 力を籍して下さるのは我が親密なる日本の義 務ではないでしょうか。数億数千万の同盟の ためにする尊き義務ではないでしょうか。否, 一歩を進めていえば,日本は是非共その盟主 となって下さるべきものと思う。今日この同 盟を率いて世界に号令すべきもの貴国日本を 措いて外にはない。<後略> さらに,バシキール人であるクルバンガリー も,次のような講演を行った。彼自身も,バラー トシと同じく,日本を盟主国とみたことが,そ こから伺われる18 私は日本人諸君と同胞の親交を結ばんがた めに今度こちらへ参りました,そうして図ら ずも吾々が一致団結して,吾々と同民族のた めに働かなければならぬと思つております。 私共人間は総て平和といふものを熱望して居 ります併ながら真の平和は白色人と有色人と 同じやうな生存権が得られたる場合に始めて 実現するのかと思ひます,而して此同じ生存 権,平和を齎す同じ生存権を得る為に吾々先 づ地位を同じくする所の者が一致団結して初 めて其れは得らるるものだと思ひます。それ が為に私共はどうしても日本に頼らなければ なりませぬ<中略>私は回々教徒でございま すが,回々教徒の現下の状態は非常に悲惨で あります,回々教徒程世界で圧迫せられて居 る者はございませぬ,露西亜の革命以来,奮 露西亜には六つの国が出来ました,さうして 彼等は皆な人道の為に平和の為に努力して居 るのであつて,さうして目指す所が皆日本に 近づかうとすることでございます,満州に 於いても奉天に於いてもあらゆる方面から の回々教徒が集まりまして,さうして一つの 団結を造り,日本に接近し,日本と親交を結 び親善的関係を結んで,さうして色々な方面 に於いて日本からの援助を受けやうとしつつ あるのであります,私共有色蒙古人種に対し

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て日本以外に握手する所はないのでございま す,それで日本を先達者として,日本を一番 の兄さんとして私共は日本の文明に頼り日本 の色々な援助に依頼して,さうして吾々回々 教徒,吾々亜細亜民族は初めて白人と同じや うな権利を勝ち得る事と存じます。<後略> この講演にも良く現れているように,クルバ ンガリーが立脚する理念は第一にイスラームで あり,イスラーム教徒である白系ロシア支配下 のテュルク系諸民族が,社会主義ソ連に対抗し て日本の支援を獲得するために,アジア主義に 接近していることが明確にうかがえる。こうし た彼の思考は,前述したハンガリーのトゥーラ ン主義とは逆に,中央アジアにおいては反ロシ ア感情がトゥーラン主義と結び付かずに低迷し ていた状況を如実に反映している。 日本のアジア主義者がトゥーラン主義に傾斜 しない一方で,白系ロシアに属するテュルク系 諸民族と日本のトゥーラン主義者との間には, 表面上の限られた連携が存在するだけであった と言わざるをえない。即ち,上述した各々の 事情から,日本のアジア主義者,ハンガリー・ トゥーラン主義者バラートシ,白系ロシアに属 するテュルク系民族の亡命者らの協力によっ て,日本初のトゥーラン主義組織は結成された。 だが,日本社会一般において同組織,またトゥー ラン主義は大反響を得ることはなかった。 今岡は,アジア主義者の間によるこの冷評に ついて,次の 2 つの理由を挙げている。その 第一は,日本のアジア主義者たちが比較的日本 に近い地域であるインド及び東南アジアの解放 を先んじさせていたことと,第二は,当時階級 闘争論に立つマルクス主義が興隆した時期であ り,その影響で日本政・財界及び民間団体は, 民族闘争論の成功性を信じなかったのである。 今岡は,当時をこう振り返る19 さて,われわれはまず,参謀本部に対し, 運動の構想を話し,助力を求めた。参謀のこ うした方面の係は後年のドイツ大使大島浩で あった。大島を通じて,当時の軍当局に話を 持ち込んだが,だれもかれも,一向に応じる 気色がない。<中略>なぜか?というと,日 本のアジア主義者は,インド及び東南アジア の解放ということが中心眼目である。要する に,英帝国が敵である。しかるにツラン主義 者は,英国を敵にしてはいけない,当面の敵 はロシアである,ロシアは革命直後で混乱し ている,しかもロシア領内及びその周辺は, 自由と独立を希求するツラン民族が分布され ている,これをまず援けて,反乱を起し,民 族自決の理想を達成すべきで,そのためには むしろ英国は味方におくべきだ,というので ある。 4. 大亜細亜協会・トゥーラン民族同盟と   猶存社との関係 前述したように,トゥーラン民族同盟は大亜 細亜協会と共に結成された団体とされているの で,同協会に関する情報はトゥーラン民族同盟 系の情報ともなっている。当時のメディアに おける大亜細亜協会関連の記録を見てみると, 1922 年 3 月 23 日『朝日新聞』朝刊に「今度 は文化的に亜細亜民族の合同計画」と題した, 次のような関連記事があった。題名からも分か るようにアジア民族の連帯を図る新しい動き, あるいは組織の準備が始まったことがうかがわ れる。内容を分析すると,まさに 1921 年に結 成された大亜細亜協会が,政治的な色彩を有し たため破綻したことが判明する20 内務省秘書官の後藤文夫,協調会理事の武 藤七郎,日本教育者協会理事の有馬頼寧氏等 を評議員として亜細亜文化協会が生誕を揚げ た発企者にはツラン民族研究家のバトラン氏 (=筆者注:バラートシ)を筆頭に支那,朝鮮, インドの有識者が名を連ねているが,協会の 行く道は,アジアの各民族間に発達してきた

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文化の跡を探求して,その淵源に共通するア ジア文化の体系を明らかにしアジア民族が堅 く合同せねばならぬ事実の歴史的考証を挙げ るにある。バトラン氏は前に流産した大亜細 亜協会の運命に顧みて文化協会の設立には一 切政治的な色彩を避け専心文化事業としての 発展を熱望しているので評議員なども乗気に なり常務幹事として原田政治氏が活動してい る,協会は設立趣旨によって出版物を刊行し てアジアのあらゆる文化紹介に努めることに なつた,バトランは近く帰国するので帰国後 は協会の事業のために我が国と連絡して研究 を続け更に我がツラン民族の研究者今岡十一 郎氏の洋行を機会に調査を依頼することにな つた。 このように,政治的な側面が強かったとされ る大亜細亜協会の代わりに,文化的な事業に専 心する亜細亜文化協会が東京で設立されたので あった。上記の『朝日新聞』記事に大亜細亜協 会と亜細亜文化協会との大きな差異点として, 後者は事業内容,また設立趣旨において一切政 治的動きを避けることが明記されている。 亜細亜文化協会は,従来ほとんど研究されて いない大正末期の民間組織であり,原田政治や 酒井忠正ら教育者により設立されたと言われ る。上述の『朝日新聞』記事よりも 4 ヵ月ほ ど前の 1921 年末に,原田政治の主導のもとで 小石川原町酒井忠正伯邸内に設立されたようで ある。同協会の結成において,右派思想家の 満川亀太郎,大川周明,北一輝らが結成した 国家改造主義運動の猶存社の動きが見られる。 1921 年 10 月から,同協会に元文部官僚安岡 正篤と内務官僚の後藤文夫が参画することとな り,同協会の活動が活発化したと見られる。こ のうち,安岡の経歴を辿ることによって,猶存 社と亜細亜文化協会との関係があったことが伺 われる。 安岡と大川周明・満川亀太郎・北一輝らとの 関係からも伺われるように,亜細亜文化協会は 猶存社関係者が主導する国家改造運動の一種の 教育・文化組織であったと言えよう。同協会は 1922 年 11 月から 1924 年 1 月まで『東洋思 想研究』全 10 号を刊行した21。1921 年 11 月 1 日,同誌に掲載された以下の設立趣旨には, 大亜細亜協会との大きな相違点がうかがわれ る。「我が如何にすべきか,子孫を如何に導くか, 国家社会は如何にあらねばならぬか,我等は一 刻も早く東洋人の精神的自覚と文化の普及を謀 るべきである。ここにかかる権威者を求め,同 書を刊行する。さらに同協会は理想的世界文化 の創造に寄与するために諸民族からなるアジア 大陸の様々な文化を紹介することに努力する」。 加えて,亜細亜文化協会は,こうしたアジア文 化の紹介において大亜細亜協会をはじめ,当時 の多くの組織が謳った反西欧的な論調を支持せ ず,むしろ西欧の優れた文化を認めた上で,従 来あまり知られないアジア諸文化を前面に出す ことを強調している。そうすることによって, 西欧文化と交じり合った世界の新文化,また理 想的な国際文化の特色を生み出すことが第一の 目的であると強調した22 従って,大亜細亜協会の政治的な側面とは具 体的に何だったのか,またそれはどういった理 念に反するものだったのか,という問題点が浮 上するのである。限られた史料から,こうした 問題点を明らかにすることは出来ないものの, 大亜細亜協会の前述の発会式において,その設 立趣旨は,「我アジア民族は淵源が最も古く光 輝のある歴史を有し,特に今日極東において世 界を指導するために十分に開明した者があるの に現状は西欧諸邦に仕える後庭である。非アジ ア民族(=筆者注:西欧諸国)に対して今にお いて尚奮起せねばいけない。さもないとアジア 諸民族の将来はなく,その前途はただ絶滅であ る」とされている。ここでも見られるように, 反西欧的な論調こそは,大亜細亜協会と亜細亜 文化協会の明らかな相違点であったといえよ う。こうした反西欧主義は,当時大正期の民主 化運動という思潮にそぐわなかった一方,ワシ

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ントン条約後の緊迫状態にあった英米,そして 同時期に日に日に定着し,その勢力を強めたソ 連政府の反発をまねくような展開に繋がってい く可能性が考えられたと思われる。 亜細亜文化協会は,バラートシと関係を築い たほか,同じトゥーラン主義の擁護者と目され るテュルク系ムスリムであるタガンやクルバン ガリーらとも接触したことが,嶋野の伝記から 伺われる。嶋野によれば,北一輝はクルバンガ リーの来日を大変喜び,中央ユーラシア地域の 一人のテュルク系ムスリム指導者の来日によ り,日本朝野の目も開かれるだろうと期待し, クルバンガリーらの独立運動を支援すべきと述 べたという23。後述のように,今岡やバラート シらトゥーラン主義活動家の 1922 年半ばの離 日以降,彼らと亜細亜文化協会との関係につい ては,史料不足により不明の点が多いが,同機 関誌の諸記事中には,トゥーラン運動や中央 ユーラシアの反ロシア独立運動について,ある いはバラートシ,今岡やクルバンガリーの投稿 は見当たらない。恐らく,同協会とバラートシ らの関係は,在日中のごく短期的かつ表面的な 形でしかなかったことが考えられる。 5.停滞期間【1922 ∼ 29 年】:3 人の  トゥーラン主義志士の「夢想」 バラートシ・タガン・今岡の 3 人は,日本 の各界名士と面談し,運動への支援を求めたこ とは前述の通りである。これら日本の民間アジ ア主義者,そして軍部の政策立案当事者を説得 するため,3 人が積極的な努力をしたなかで, バラートシがイデオロギーとしてのトゥーラン 主義の意義を繰り返し説明した中心人物であっ たことが,今岡の回想録からうかがわれる。こ うしたバラートシとアジア主義者らとの間の話 の内容について,今岡はこう記す24 ロシアにおけるスラブ族は,モスクワ周辺 と白ロシア,それにシベリア鉄道の沿線に そって散在するだけで,これが他のツラン民 族の上に君臨しているのである。ツラン民族 のうち,独立国家は,日本,トルコ,ブルガ リア,ハンガリー,フィンランドの5カ国し かない。他は全部スラブ民族の奴隷である。 しかもこの5カ国のうち力のあるのは日本の みである。日本が先達となって,これら奴隷 的,植民地的境遇に置かれているツランの諸 民族に働きかけるならば,必ず共産ロシアは 崩壊する。アングロサクソンを討つのは,そ れから後でもいいではないか,というのが彼 の意見であり,テレキ首相の戦略である。さ らにバラートシは,日本を中心とする東ツラ ン,中央アジアを一丸とした中ツラン,ハン ガリー,トルコ,ブルガリア,ウクライナを 中心とする西ツラン,フィンランド,エスト ニア,カレリア地方等をブロックとする北ツ ランと,ツランを四つに分ける。そしてまず 東ツランから運動を起こしていくべきだと主 張する。なぜなら,日本の軍は対露作戦に熱 心であるが,この作戦を有利にするには,ツ ラン運動をおいてほかにない。ロシア内のツ ラン民族はスラブの支配に不満をもってお り,アジアに郷愁を抱いている。必ず今やれ ば共産ロシアは分解する。もしこれをやらず に,ロシアの革命に時間をかせば,ツラン諸 民族は永久に起ちあがれないのみか,逆に, 日本はロシアの威力の前に屈伏する時が来よ う,と説くのである。 こうしてバラートシ・タガン・今岡は,軍部 や民間アジア主義者たちとの共闘関係を構築し ようとしたが,当時の参謀本部も,民間のアジ ア運動者も,ついに彼らの所説に耳を傾けるも のは一人もいなく,トゥーラン主義の初期展開 は暗礁に乗り上げた。ここに至り,3 人は運動 の停滞状況を打破すべく,アジア主義との連携 を断念して単独でトゥーランの宣伝を始めるこ とを決意した。この活動方針の決定と時を同じ くして,中央アジアのトルキスタン地域におい

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て,ボルシェヴィキ革命直後にバスマチ運動と 称されるテュルク系諸民族の独立運動が開始さ れた。この独立運動に刺激を受けてバラートシ・ 今岡・タガンの 3 人は,トルキスタンに向か うことを決めた。今岡は,これについて,次の ように回想している。 この下宿の六畳で,我々三人は新しい決意 した。東ツランがダメなら,中ツランで事を 起そうではないかというのである。時あたか も,タシュケントやボハラ,キワなどのトル ケスタン方面で,暴動が起きたというニュー スが入つた。われわれは雀躍した。『このチャ ンスを掴み,この暴動を利用しよう』われわ れは奮い起つた。そしてまず,どこから潜入 するかを研究した。まずハンガリーに行き, そこからトルコを通って中央アジアに入るし か道はない。中央アジアへは回教徒でなく ては入れない。言葉もハンガリー語やドイ ツ語は通用しない。どうしてもタガノフを 先導にして,私とバラートシはこれに従う ほかない25 計画では,タガンの仲介でまず中央アジアに 入り,当時ソ連政府に抵抗するテュルク系少数 民族によるバスマチ運動に関与し,そこから運 動を全トゥーラン地域につなげていくことが企 画された。しかし,タガンはロシアからの亡命 者すなわち無国籍外国人であったので,出国に 際し旅券が必要であった。そこで,当時の駐日 ドイツ大使ゾウルの援助で,旅券不携帯のまま ドイツに入国する許可を得て,タガンはドイツ 貨物船に船員として乗りくみ,ドイツ経由でハ ンガリーに入国するために,1922 年 4 月 22 日に横浜港から出発した。今岡は,当時を次の ように回想している。 無国籍の亡命客(=タガン)では,外国船 にのることはできない。思いあまって私はバ ラートシと二人でドイツ大使のゾルフ(=ゾ ウル)に相談した。彼は腹の太い,有名な仏 教研究家である。ゾルフ大使は,私たちの運 動に共感し,旅券なしでドイツの貨物船にタ ガノフを船員として乗船するよう手配してく れた。しかし食費だけは払ってくれという。 私はかねて懇意にしていた中村屋の相馬黒光 女史に,この金策を依頼した。黒光は女傑で ロシア語もできる。われわれ三人は女史と共 に幾度も議論を交えたこともあり,ことにタ ガノフとは,ロシア語で相当突込んだ話まで していた。 写 真:3 中央アジアにおけるバスマチ反ソ連武 力運動に出船する前に,今岡とバラート シが世界地図を下に議論する様子 [ 出典:『東京日日新聞』朝刊,1922 年 4 月 16 日 ] 一方,今岡とバラートシの 2 人はタガンと 同じ日に横浜港を出発し,アメリカに赴いた。 アメリカ経由でハンガリーに行くことを計画し ていた二人の目的は,在米ハンガリー人共同体 を対象に講演を行い,そこで中央アジア運動や トゥーラン運動のために募金活動をすることで あった。実際に,両名は,ある程度の資金集 めに成功したという。そこから 2 人は,船で 大西洋を経て,ドイツのハンブルグ市に同年 6 月頃に上陸した。ハンブルグでタガンと落ち合 うと,三人一緒にハンガリーに赴いた26 今岡とバラートシのこうしたトゥーラン運動 促進のための旅行は,当時のメディアにも反映 されている。1922 年 4 月 16 日の『東京日日

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新聞』は,「ツラン民族連盟せよと−経済的な 立場から同民族居住の欧州各地の行脚に上る今 岡十一郎氏−」と題して,本件を報じている。 それによると,今岡らの横浜港出帆は同月 17 日となっているが,今岡は回想録の中では「船 出したのが,大正十一年の四月二十二日のこと である」と明白に記している27。ただし,同記 事は,今岡との面接に基づくものであり,彼, あるいはバラートシの意見提言でもあったこと がその内容から伺われる。そこでは,社会主義 運動の発祥地たるロシアは,実際には種族闘争 の国であり,全人口の 9 割以上が日本と同じ トゥーラン民族系であることが強調される。さ らにこれらの諸民族をトゥーラン民族連盟の下 で結集する「大仕事」の道を開くことが,今回 の 3 人のトゥーラン主義志士の旅行の目的で あったという点が記事の要点である。同記事が 反ロシア的な色彩が強く,トゥーラン主義とい う名で日本の盟主論を主張する論調にあったこ とは興味深い。最後に,同記事は次のように結 んでいる28 バスキール,タタール,キルギス等をはじ め廿ヶ国のツラン民族国を後援して同民族が ボルシェヴィキに蹂躙されることを防ぐと同 時に大ツラン民族連盟を完成しなければなら ないと思う。この大仕事が完成されるのは 二十年,三十年の将来であろうが,われわれ はその基礎に向かって努力しなければなら ぬ。 ドイツを出発した 3 人はついにハンガリー に落ち着き,ハンガリーで暫く時間を過した。 ここでタガンと今岡は,バラートシを通じて同 国のトゥーラン運動家の知遇を得たと考えら れる。早速,中央アジア潜行の準備を始めた 3 人は,同国のトゥーラン運動家からの支持を受 けた上で,バスマチ反ソ連武力運動に携わるた めに,1922 年 11 月にブタペストを出発した。 3 人は,まずトルコに入国した。しかし,ギリ シャ・トルコ戦争(=トルコの解放戦争)が進 行中であり,さらにソ連軍がトルコの政情不安 を利用し,コーカス地域を南進中であった。今 岡は,こうした状況は,3 人の「トゥーラン主 義の志士」にとって,「不幸だ」だと記している。 このような事情から,3 人は中央アジアの独立 運動への参加計画を中止しなければならなかっ た。トゥーラン連盟を実現させる第一歩と目さ れた同計画を断念した 3 人は,トルコに暫く 滞在してから,やむを得ずハンガリーに戻った。 今岡は,その後の 3 人の状況については,「時 期の到来を」待つことにしたという29 上記のように,当時の国際環境は,3 人の目 的が実現する機会を与えなかった。事実上,日 本国内での活動に見切りをつけ,運動の停滞を 打破すべく乾坤一擲とばかりに,中央アジアに 活路を求めた 3 人の行動は,結局見果てぬ夢 に過ぎなかったといえよう。 その後,今岡とタガンはそのままハンガリー に残り,バラートシをはじめとするトゥーラン 主義活動家の助力を得,各々ハンガリーにおい て生計を立てた。こうして,今岡は,以後満州 事変勃発まで約 9 年間,ハンガリーに滞在した。 一方,タガンはブタペスト大学で経済学博士号 を取得し,その後ブタペスト民族学博物館の東 洋部長を務めたものの,第二次世界大戦の戦局 により,1944 年にドイツに亡命し,ハンブル ク大学でトルコ語の講師をしながら晩年を過ご した30 こうして,今岡ら 3 人の日本を巻き込んだ トゥーラン連盟構築の理想は,結果として今岡 とタガンの長期間にわたるハンガリー滞在を 招くこととなり,1929 年まで日本において, トゥーラン主義の活動は殆ど顧みられなくなっ た。 6.今岡十一郎のハンガリー滞在 今岡のハンガリー滞在は単なる学術研究を目 的とする留学ではなかった。この間に,今岡は

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同国の政界・官界・宮廷関係者とも交流し,貴 重な人間関係を構築した。今岡がハンガリー滞 在期間中に,同国のトゥーラン運動家から多岐 にわたる支援を受けていることが,次の回想か らも伺われる31 当時ハンガリーは第一次大戦に敗れた後 で,隣接国に分取られた割譲地からの引揚者 や,共産革命の混乱のため,非常な住宅難で バラックや鉄道の車両住いをする者も多く, 部屋を借りるのも容易ではなかつた。幸いに して,ハンガリーのツラニストのお世話で, 学生寮に移ることが出来たのである<中略> この部屋は,ツラニストの好意によって得た ものであると述べたが,その後も彼等が私の ために何かと世話をしてくれ,部屋代も彼ら が支弁し,ツラン同胞としての温かいもてな しにあずかつたものである。<後略> 今岡は彼等の自分に対する援助の根拠を,「東 邦日本の血縁国から,はるばるツラニストが来 たというので,何から何まで,親身になって世 話してくれた」と述懐している。 今岡がハンガリーに住み始めた 1920 年代 初頭は,ハンガリーのトゥーラン運動のなか で,分裂が生じた時期であった。1920 年に, 1910 年設立のトゥーラン協会のメンバーの一 部は,同協会と別のトゥーラン組織を創立する 動きを始めた。その結果,同年 9 月 25 日に, 民間団体としてトゥーラン同盟会が設立され た。同同盟は,チョーノキ・エネー,バラートシ, アンタル・ゼンタガリといった,旧トゥーラン 協会員の指導の下で設けられたものの,三年間 という短命に終わり,1923 年に解散となった。 トゥーラン協会と新設のトゥーラン同盟との大 きな差異は,前者がハンガリー政府から支持を 受け本部を国会内に置いた,半官組織であった のに対して,後者は過激的な右派の団体であっ た。思想の面では,基本的にはトゥーラン協会 との差異はほとんどなかったものの,人種を殊 更に強調する傾向があり,反西欧的な論調が, より激しいものであった32。今岡は,両派につ いて,こう記している33 ブダペストには,ツラン協会と,ツラン同 盟の二団体があるが,前者は国会内に本部を 置き,政府の補助金まで得ている半官的団体 である。これにたいし同盟のほうは,純然た る民間団体で,それぞれ熱心な主義者が研究 している。バラートシ教授も,もちろんこの 有力なメンバーであるが,私は彼を通じて, まずこれらの熱心なツラン主義者たちに紹介 された。 今岡の回想録から,彼のブダペスト大学への 入学も,同じトゥーラン運動家との関係による ものであったことが伺われる。ハンガリーに来 た当初,ハンガリー語も分からなかった今岡に とって,ヨーロッパ有数の伝統あるブタペスト 大学に入学することは,決して容易でなかった と思われる。しかし,バラートシと共に,トゥー ラン同盟の会長で,同大学文学部の著名な人文 地理学者チョーノキ・エネー教授の支援で,今 岡はブタペスト大学への入学を許されることに なった。そして,今岡はチョーノキ教授の指導 の下に研究生活を始めることになった 1923 年 から,満州事変前後までの 9 年間,同研究室 に所属した34 今岡は,ブタペスト大学に入学後 1 ヵ月ほ どたったある日,同大学の学生会から,珍しく 極東から来た留学生として講演をしてほしいと いう依頼を受けた。こうした講演こそ,今岡の その後のハンガリー生活における経済的基盤に 繋がって行くこととなった35。今岡は,9年間 のハンガリー滞在中,講演を約 750 回こなし, また,新聞・雑誌への寄稿も約 800 本に及ん だという36。今岡は,「私は講演の謝礼や原稿 料で充分生活が出来た」,と振り返っている37 彼は,最初の講演をハンガリー語がまだ出来な かったため,ドイツ語で行い,当時大きな関心

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を集めていた,「アメリカの排日法案」をテー マに講演を行った。同法案に対する今岡個人の 批判的な論調は,新聞社や雑誌社の注目を引き, その結果講演や原稿の依頼が相次ぐようになっ た。 今岡は,バラートシ,タガンと提携して行っ たトゥーラン運動の国際的な興起に失敗した 後,ハンガリー社会を通じてヨーロッパに日本 を正しく理解させることを自分の使命にしたと いう。その契機は,最初の講演のテーマでもあっ た,1924 年のアメリカで発生した「日本人の 移民問題」であった。彼は,ハンガリーからの 帰国後,1933 年に刊行した『ツラン民族運動 とは何か』,という単著の「はしがき」で,トゥー ラン運動の志士からハンガリー国において,日 本の紹介事業につくようになった経緯を,次の ように記述する38 一九二四,五年の頃,米国に日本移民禁止 法案の出現と共に,ヨーロッパの言論界−新 聞,雑誌−などにおいても,この問題が当時 盛んに論議されるに至つた。その印象は,皮 膚の黄色い,生活程度の低い,多産で好戦的 な日本移民が,優秀な白哲人の社会へ流れ込 むことは,定めし不快なことであろうという のが,一般的論調であつて,そのどこかに, 白人優越感が潜んでいたことは疑いの余地が なかった<中略>これに対し自分は,日本の 立場・日本の正義観も彼等に知らせる必要の あることを切に感じた。いわゆる彼等が認識 不足の蒙を啓いてやらねばならぬことを痛感 すると共に,私は,新聞,雑誌,講演などに より,日本事情の紹介を始めた<中略>かく のごとき,日本を正解させる運動を,主とし てハンガリーを通じて努めたのである。 今岡は,ハンガリーにおいて,上記の活動の 他,トゥーラン協会とトゥーラン同盟の開講し た日本語講座の担当教師でもあった。トゥーラ ン同盟は,1921 年に英語,トルコ語,フィン 語の 3 ヵ国語と共に,日本語講座も開講した ことが,一次資料を駆使したトルコとハンガ リーにおけるトゥーラン主義の比較考察を行っ た,ニザム・オネン(Nizam Önen)の優れ た研究から伺われる。オネンによれば,トゥー ラン同盟の言語講座の中で,日本語は英語の次 に人気があり,68 名が登録した39。また,トゥー ラン協会も,1927 年から日本語講座を開講し た。今岡は,両トゥーラン団体の日本語講座 を担当したことが,彼の回想録から伺われる。 トゥーラン協会は,1925 年以後,日本および 日本人に一層の関心を寄せ,日本に関する講演 の回数も増えたことが分かる。さらに,今岡は, 1927 年には正式に同協会の会員となった40 また,今岡は当時ハンガリーには,日本の外 交公館がなかったために [1938 年に公使館開 設 ],私設公使館の役割を果していた。即ち, ハンガリーと日本との間の掛け橋ともなり,近 年の学問用語を借りるならば,パブリック・ディ プロマット(=民間外交官)の役を果していた。 具体的には,日本語講習会を開いたり,日本に 関する研究会に参加したり,貿易商品の引き合 いや,発明品の取次ぎ,版権の問題,ハンガリー 訪問の日本人の案内役など,極めて多岐にわた る活動を,無報酬で行っていた41 ハンガリーには日本の公館はなく,オース トリアの公使館の管轄内にあった。従つて私 は,ハンガリーにおける私設公館のようなも ので,日本事情の宣伝普及や,来洪する [ ハ ンガリーに来ること ] 邦人の案内役や,日洪 親善のための事業や集会など,無報酬で一手 に引き受けていた。そんな関係もあって,月 に一度くらいは,ウィーンに出張した。ウィー ンの日本公使館は,私のために一室をあけて おいてくれ,行けばそこを宿舎とした。その ころ山下奉文が中佐で,ウィーンの武官室に いた。私はウィーンに出張するたびに山下を 訪ね夜のふけるのも忘れて,アジアに関し, ツランに関し,二時三時までも語り明かした。

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ウィーンでの一番楽しかつた思い出は,山下 との放談であつた<中略>私は軍事のことは 知らないが,彼はつねにロシアを睨んでいた ようである。そして語ることは,いつも日本 の大陸政策に関してである。 上記からも分かるように,今岡の個人的な思 想形成において,ウィーン駐在の山下中佐の影 響も受けたことが十分に考えられる。満州事変 に伴い帰国した今岡は,その後の著作などで, トゥーラン主義を上述のように大陸政策の中に 引き入れることが興味深い点である。さらに, 今岡は,山下と交わした上述の談話を,ウィー ン時代の最も懐かしい思い出として振り返る。 今岡が,ハンガリーで案内した日本人の来訪 者の中には,政府関係者のみならずビジネスマ ンや学者,そして皇族も含まれていた。 ことに日本人旅行者の案内は,かなり頻繁 なもので,私が十年間に案内した日本人の数 は千三百名にも及んでいる<中略>一九二七 年ころ,高松宮御夫妻でみえられたときは, ハンガリーは国賓として,国をあげての大歓 迎をした。私は両殿下に御進講を申し上げ, ハンガリー名物の一間もある牛の角を御進呈 した<中略>議員団で思い出すのは三木武吉 氏である。三木氏が団長で五,六人やって来 た<中略>前東京市長の永田秀次郎氏が親子 でやつて来たし,三井財閥の大番頭池田成彬 氏も夫人同伴で来た。 このように,今岡は,1924 年の排日移民法 以後,ハンガリー社会において母国日本の文化 や,その核である精神などについての理解を深 めることに励み,そのための様々な文化活動を 行った。その結果,彼は帰国直前の 1930 年に, 両国関係の発展に努めた功績を評価され,ハン ガリーの摂政ホルティーより勲三等を授かっ た。こうしてみると今岡はハンガリーにおける 9 年間の滞在中,トゥーラン運動家としての業 績というより,両国間の親善関係を促進する諸 活動に努めたことが明らかである。同国滞在の 当初トゥーラン運動の国際的な促進者を自認し た今岡は,1924 年以後の自分を私設公使館と 呼び,両国間の親善関係を図る民間外交官,あ るいは文化人としての役割を果した。このよう に,1920 年代後半に文化活動家としての傾向 が強かった今岡であったが,帰国直前の 1930 年ころから再びトゥーラン理念の渦中に巻き込 まれるようになった。今岡におけるこうした変 化の主要な契機は,次節で検討する日本におけ るトゥーラン運動の再開と大きなかかわりがあ ると思われる。 写 真:4  前列左端が今岡,右端駐がウィーン 大野公使,後列右端が山下武官 [ 出典:今岡,1956 年 12 月 25 日号 ] 7.今岡の帰国【1931 年 12 月】 1931 年 12 月 に 日 本 に 帰 国 し た 今 岡 は, トゥーラン主義宣伝のために再びアジア主義者 に接近し,彼らに受け入れられた。すなわち, 1933 年の大亜細亜協会設立に際して今岡はそ の設立委員に名を連ね,アジア主義との連携を 図りつつ,数々の著作を発表し,トゥーラン主 義普及に尽力し始めたのである。表面的にみる ならば,1921 年当時と異なり,今岡のトゥー ラン主義活動は社会的基盤を得ることになっ た。9 年間のハンガリー滞在を終えた今岡の帰

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朝は,当時の『読売新聞』では,次のように報 じられた42 ハンガリーの無冠の大使が花嫁を探しに 帰朝した。日,ハ両国の親善に多大の努力 を払い『ハンガリーにイマオカ,イタリー にシモイ在り』といわれた無冠の大使,今 岡十一郎氏は十年振りで廿四日ヒョッコリ 帰朝,麹町の平河町の相馬愛蔵氏宅に落着 いた。 帰国した今岡は,当時民間アジア主義者とし て有名であり,頭山満や内田良平などとも昵懇 の新宿中村屋店主である相馬愛蔵の家に暫く滞 在したことも興味深い。同記事の中で,今岡の 談話として,次のように紹介されている。 私の帰朝の目的はツラン協会の主義が日本 の目下の情勢に適合するのでツラン協会の名 をもって日本に呼びかけようとやって来たの です<中略>具体的にどんな運動をするか決 まつている訳ではありません,何しろ居所さ えまだ決まらない始末だから。 上記のように,今岡はハンガリー・トゥー ラン協会の関係者との約 10 年間の関係を踏ま え,トゥーラン主義を日本社会に広めようと努 めた,さらにトゥーラン主義を日本社会に合致 させる形で展開させようと試みていたことも伺 われる。しかしながら,帰国間もない今岡には, まず日本での生活について考えなければならな かった。そこで,中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻 の助力を求めたものと思われる。 今岡は 9 年間のハンガリー滞在中,日本・ ハンガリー両国関係のために,私設公使あるい は「無冠の大使」として形容される活躍をした こと,さらには,ウィーン公使館の外交官らと の交友関係などの影響もあったためと思われる が,帰国後外務省に嘱託として入った。 今岡のハンガリー滞在は,彼自身のトゥーラ ン主義理解にとって大きな意義があった。しか し同時に,今岡の日本不在中,日本における トゥーラン主義の展開は殆ど中断され,その間 に日本のアジア主義は大きく変容してしまっ た。すなわち竹内好が指摘するように,満州事 変以降,欧米からの孤立により日本はアジアに 回帰した。従って,アジア主義の優先対象地域 は,隣接する中華民国となった。特に同国の民 族問題に焦点を一層当てられるようになり,華 北の満州・蒙古地域において侵略行動が開始し た。 今岡の情熱とは反比例して,満州事変後にお いて,日本のアジア主義はハンガリーの提唱す るトゥーラン主義の本質をもはや理解・受容す ることはなかったのである。1930 年代初頭に おいて日本において,ハンガリーのトゥーラン 主義が,「一のファシズム的な傾向を持った思 想であった」と報じられていた43。実際に満州 事変後より,ハンガリーのトゥーラン主義がこ れまでの影響力を失った理由として,その対象 地域概念をあげることが出来る。すなわち,満 州事変後,東アジアに回帰した日本にとって, 中国,モンゴル,中央ユーラシア地域のテュル ク・ムスリム問題 [ とりわけ西北問題 ] が優先 され,ハンガリーのトゥーラン主義が唱えるト ルコ,フィンランドなど北ヨーロッパトゥーラ ン諸国は,軽視されることとなった。こうし て,ハンガリーのトゥーラン主義が日本社会に おいて冷評された一方,日本的な展開を迎える トゥーラン主義の誕生となった。いわば,満州 事変に沿って,トゥーラン主義の内容,また その概念は,日本的な展開を始めたと言えよ う。日本最初のトゥーラン主義運動家たる今岡 が,丁度こうした時期に帰国することを決めた のも,決して偶然ではないだろう。つまり,満 州事変以後日本のトゥーラン理念の特徴として は,角岡の『大道』でも言及したように,中国 の民族問題とトゥーラン主義を接合させ,満蒙 政策,さらに中国西北部までの北方領土方針を 正当化させるための歴史的な理論背景であった

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と言えよう。 8.日本トゥーラン協会の結成【1932 年】 角岡の主導で再開した日本のトゥーラン運動 は,満州事変の勃発と共に強まった反スラヴ・ 反漢民族的な対外政策の中で,再び唱えられる ようになった。今岡の帰国はその時流に沿うも のであった。最初のトゥーラン組織であった, 1920 年代初頭のツラン民族同盟は,当時の思 想に,また日本の対外政策に適合せず流産して しまった。今岡も日本を離れざるを得なかった が 1931 年 3 月の満州事変,さらに翌年 3 月 の満州傀儡国家の建設こそは,トゥーラン主義 運動再開の好機と見なされたのに違いない。 そのことは,1932 年に日本で 2 つのトゥー ラン結社が相次いで結成されたことからもうか がわれる。第一は,1932 年 3 月に一時的に「ツ ラン協会」の名の下で設置されたものである。 同協会は,結成直後に『日本民族指導原理とし ての汎ツラニズム』と題した本を出版し,関東 軍の満蒙政策を民族的な理論との関連で実証 しようとした44。同書は野副重次(=重遠)述 となっており,彼は後述する林銑十郎を中心に した日蒙協会,いわば北進論的なネット・ワー クの中の一人である。同書の巻頭には,3 月 10 日付で理事長としての村岡亀吉郎の名が書かれ, また村岡理事長により「満蒙問題と汎ツラニズ ム」という興味深い一文が紹介されている45 満蒙は日本の生命線である。この命題には 勿論間違いない。然し,日本民族が唯消極的 に満蒙それ自体のみの問題として,取り扱う 限り,決してこの問題に善処する所以ではな い。この問題が又,全ツラン同胞民族の運命 を決する重大問題としての積極的関心を持つ べきである。<中略>満蒙問題の解決は,僅 かに日本の大陸経済の一端緒たるに過ぎない ものである。即ち日本民族は欧亜(=ユーラ シア)の大陸にまでその視野を広め,全ツラ ン同胞民族の先達としての高邁なる理想に生 きるべきである。 上記のように,同協会の対象地としては,ユー ラシア地域のトゥーラン系とされる諸民族の居 住圏があげられる。これは,まさに後述する 林銑十郎大将の満蒙問題の見方と重なる点であ る。ところが,「ツラン協会」は上述の著作以 外の活動が確認できない。周知のように,傀儡 国家満州が,同年同月に建設されたのである。 従って,「ツラン協会」は,満州での関東軍の 侵略を民族的に正当化し支援するために,作ら れたものと考えられる。また,同書巻頭の協会 綱領における「汎ツラニズムを以つて新日本躍 進の指導原理となし日本民族の祖国大陸還元復 興の大成を期する」との箇所も,筆者の推測を 裏書きするものである。従って,恐らく後述す る大通民論社のように,一冊の出版物のために だけ設置された仮結社であるかと思われる。 「ツラン協会」結成から 3 ヵ月後,同 1932 年 6 月に「日本ツラン協会」が結成されたこ とが,外務省外交史料館の関連文書,また津田 塾大学所蔵の今岡十一郎文庫の著作物・文書資 料からわかる。同協会は,トゥーラン運動に関 心を持ち,同民族圏について研究しようとする 日本の大陸政策関係者が集う正式な場となっ た。後述する大通民論社の北川鹿蔵と日蒙協会 (善隣協会の前身)の野副兄弟,またハンガリー から戻ってまもなく外務省嘱託となった今岡と が,資料上確認できる限り,同協会の主要構成 員である。同協会の設立と共に日本における トゥーラン主義の宣伝が本格化したとはいえ, 同協会の,また同思想の影響力は限定的なもの であったと言わざるを得ない。 津田塾大学今岡文庫に保存されている同協会 会則によると,協会住所は東京市麻布区六本木 町 27 番地であり,その会則は次の 8 条からな る。 第一條:本会ハ日本ツラン協会ト称ス。

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