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G・ビースタの芸術教育論に関するノート ― 学校の美術教育の課題を捉える手がかりとして

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Academic year: 2021

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G・ビースタの芸術教育論に関するノート

  学校の美術教育の課題を捉える手がかりとして

濱元

  伸彦

一章

 

はじめに

本稿の目的は、教育哲学者ガート・ビースタの芸術教育に関する理論を整理 し、そ の 内 容 に つ い て、日 本 の 美 術 教 育 の 文 脈 に 基 づ き 検 討 す る こ と で あ る。 ビースタは、現代の教育哲学の理論的中心を担う一人であり、我が国でも彼の 『 教 え る こ と の 再発見 』 ( ビ ー ス タ 訳書二〇一八 ) な ど 翻訳書 が 増 え て い る 。 そ の 研究 は、存在論的なアプローチに基づき、現代の教育の動向に批判的なまなざしを むけつつ、人間の主体化にむけた教育の役割を再定式化しようとするものであ る。また、後述するように、ビースタは、アレントやレヴィナスの哲学理論に 基づき、人間の主体化を支える教育原理として「中断の教育学」を提起してい る。 他方、ビースタの教育論はかなり抽象的であり、例えば、彼の「中断の教育 学 」 に つ い て も 、 具体的 な 教育活動 の 場 で そ れ を ど の よ う に 実現 し う る か イ メ ー ジしづらい面もある。ただ、興味深いことに、ビースタは自身の研究キャリア において芸術教育との接点が多くあったことから、芸術教育に関する著作をい くつか発表し、教育者たちにむけても様々な場で報告している。いわば、芸術 教育は、彼の教育理論の応用の領域であると捉えられよう。 本稿 で は 、 ビ ー ス タ が 自身 の 芸術教育論 を ま と め た 著書

“Letting Art Teach

:

Art Education ‘After’ Joseph Beuys”

( 二〇一七 ) を 取 り 上 げ る 。本書 は 、 現代 の 芸術教育の「危機」を捉え、それに対する教育理論からの反応として提起され た著作である。本書では、ビースタの存在論的な立場から、教育、芸術、そし て芸術教育が再定義される。また、本書の一つの特徴をなし、かつ刺激的な部 分 は 、 そ の 副題 が 示 す よ う に 、 ド イ ツ の 現代美術家 の ヨ ー ゼ フ ・ ボ イ ス ( 一九二 一 −一九八六 ) が 発表 し た あ る パ フ ォ ー マ ン ス に 関 す る 議論 を 起点 に 、 教 え る と い う仕事の本質や主体化に対する役割、その芸術教育への示唆を検討している点 である。 本 稿 で は、こ う し た ビ ー ス タ (二 〇 一 七) の 展 開 す る 芸 術 教 育 論 の 全 体 像 を 整 理し、理論的に考察する。そして、彼の芸術教育論が、どのように、日本の学 校における美術教育の課題の理解に有効か、その実践的示唆は何かを、最後に 筆者の試論として提示する。

二章

 

ビースタの芸術教育論における問題意識

で は、ま ず、ビ ー ス タ (二 〇 一 七) (1)に お け る 問 題 意 識 を 整 理 す る。ビ ー ス タ に よれば、本書は、現代の芸術教育における二つの危機に対する彼の理論的立場 か ら の 応答 だ と し て い る ( 五三頁 ) 。 こ こ で い う 二 つ の 危機 と は 、 芸術教育 に お け る二つのものの消失、即ち「芸術の消失」と「教育の消失」である。 ま ず 、「 芸術 の 消失 」 と は 、 現代 の 教育改革 に お け る 測定文化 の 強 ま り と と も に、教育の目的が個人の資質・能力の向上に置かれている状況から生じている も の で あ る 。 こ う し た 改革 の 流 れ の 中 で 、 芸術教育 も 、 創造力 や 表現力 な ど 、 個 人の資質・能力の向上に役立つものと認識され、それがゆえに意義あるものと み な さ れ る よ う に な る。こ の 状 況 を、ビ ー ス タ は、 「芸 術 教 育 の 道 具 的 な 正 当 化 」 と 呼 ぶ ( 五三頁 ) 。 こ れ は 、 芸術教育 の 目的 が 芸術 そ れ 自体 に あ る の で は な く、 芸術の外部にあるものと認識されることを意味する。これにより、芸術そのも のを実践し、それに親しむことではなく、芸術教育を介して個人の資質・能力 の伸長を図ることが重視されるようになる。こうした見方の強まりは、政策担 当者がそれらの資質・能力を伸ばす別の方法を見出せば、芸術教育をコストが 高く、面倒なものと捉え、カリキュラムから除外する可能性を強める。要約し て言えば、教育者や政策担当者が、芸術それ自体の自律的な価値や目的を見出 さぬまま、芸術教育を進める状況が、ビースタのいう「芸術の消失」である。 次 に 、「 教育 の 消失 」 で あ る が 、 こ れ は 、 芸術教育 に お け る 教育的 な ね ら い を 失っ た表現主義 ( expressionism ) の強ま り を意味す る (五六頁) 。詳し く い う と 、 そ れは、第一の「芸術の消失」と同様、個人の様々な資質・能力の伸長とその測 定が重視される教育改革の文脈で生じている現象である。こうした改革の浸透、 並 び に そ れ へ の 反 作 用 と し て、 「 (芸 術 教 育 は) 子 ど も や 若 者 が 自 身 の 声 を 表 現 し、 か れ ら 自身 の 意味 を 創造 し 、 自身 の 才能 を 発見 し 、 自身 の 創造性 を 発現 さ せ 、 そ のユニークなアイデンティティを表現するための機会をもたらすからという理 由で取り組まれるようになる」 (五五頁) 。

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つまり、芸術教育が子どもの内面にある表現したいものを表現する場とする 見方が強まるわけだが、そこには大きな問題があるとビースタは主張する。そ う し た 見方 に は 、 次 に 挙 げ る よ う な 「 も し も 」 ( what if ? ) の 問 い に 対 す る 答 え が 用意されていない。 「もし、表現したい声の主がレイシストであったら?」 「も し 、 浮上 し て き た 創造性 が 破壊的 な も の で あ っ た ら ? 」「 も し 、 提起 さ れ た ア イ デンティティが自己中心的なもの、ないしはレヴィナスのいうエゴロジカルな も の で あ っ た ら ? 」 ( 五六頁 ) 。 こ れ ら の 問 い が 喚起 す る 問題 は 、 単 に 芸術教育 が、 子どもの内面にある声や欲求、アイデンティティをそのまま表現させることの 問題性 を 浮 か び 上 が ら せ る 。 ビ ー ス タ が ア ド ル ノ ( 一九七一=訳書一九九六 ) を 引用 し て 言 う よ う に 、「 ア ウ シ ュ ビ ッ ツ 後 」 の 時代 を 生 き る 我 々 に は 、 複数性 を も っ た世界の中で生きる存在として表現上の責任を問われるのである。 むろん、自己に関わる表現そのものは芸術の重要な要素であり、ビースタも それを否定していないが、問われなければならないのは、世界の中に主体とし て 存在 し て い る と い う こ と を 前提 に し た 、 表現 と い う 行為 の 「 質 」 で あ る ( 五六 −五 七 頁) 。こ こ で 問 わ れ る 質 は、審 美 的 な ( aesthetic ) も の と い う よ り は、 「存 在 論的 な 質 」 ( existential quality ) で あ る と ビ ー ス タ は い う 。 こ こ で 初 め て 提起 さ れ る 「 表現 の 存在論的 な 質 」 と い う 概念 は 、 ビ ー ス タ の 一般的 な 教育理論 と 芸術論 を 橋渡しする鍵概念であると考えられる。 ビースタのいう「存在論的な質」 ( existential quality ) とは、即ち、 「いかにして 子どもや若者が、個人的にも集団的にも、世界の中に、そして世界とともに善 く 実存 し う る か に 関 わ る 質 」 ( 五七頁 ) で あ る 。言 い 換 え れ ば 、 そ れ は 、 子 ど も や 若者がこの世界と対話して生きる「主体」としてのあり方に関わる表現上の質 である。表現主義の強まりによる芸術教育からの「教育の消失」とは、表現さ れるものの質を問わず、生徒の自己表現を最大の目標として芸術教育を捉える こ と で 、「 存在論的 な 質 」 に 関 す る 探求 と い う 教育的 な 次元 が 芸術教育 の 中 か ら 消え去ることを意味している。筆者なりにまとめると、それは、一人の主体と して世界の中に/とともに生きるとは何かが教育する側に理解されていないた め 、 生徒 が 世界 と 深 く 対話的 な 関係 を 築 く た め に 必要 な 教育者 の 関与 ( 後述 の 「 中 断 の 教育学 」) が 喪失 す る こ と を 意味 す る 。 す る と 、 生徒 は そ の 表現 に お い て も 、 自 己の殻に閉じこもったままで自己の世界を拡張し続ける、主体化しない存在に 留まることになる。 この論に従い、芸術教育における「存在論的な質」の問題を考えていくため には、そもそも、世界の中に主体として存在しているとは何かについて、改め て定義する必要が生じてくる。これについて、総括的な見解を述べているのが、 次のビースタの論述である。 主体 と し て 存在 す る と は 、 単 に 何 か 外的 な 決定 ( determination ) か ら 逃 れ る こ とを意味するのではなく、限界や制約に関する問いを熟考することである。 それは、いつ、どのようにして、どの程度、他者の欲求に対して、そして、 わ れ わ れ が 望 む 全 て を 与 え て く れ は し な い 環境 ( 一 つ の 惑星 ) に 対 し て 、 自分 自身の欲求を制限し、変換させるべきかという問いである。このようにし て、主 体 と し て 存 在 す る と は、世 界 と 対 話 し て 存 在 す る こ と、す な わ ち、 「世界の中心を占めることなく世界の中に」あることを意味する (五八頁) 。 こうした主体の捉え方、ビースタの提起する「教育の役割」とは、他の人間に、 世界の中で主体として存在したい ― 即 ち 、「 成 熟 し た 」 あ り 方 で 世 界 の 中 に 存 在したい ― という欲求を喚起させることである。 以上 、 ビ ー ス タ の 問題意識 と し て 、 彼 の い う 芸術教育 の 二 つ の 危機 ( 消失 ) に ついて概観した。そして、この危機への反応として、ビースタは、改めて主体 とは何か、教育とは何かを問い直した上で、芸術教育の意味をも再考する必要 があることを指摘している。次に、この「問いなおし」にむけたビースタによ る 「 中断 」 ( interruption ) の 試 み と し て 、 同書 で 取 り 上 げ ら れ る ヨ ー ゼ フ ・ ボ イ ス のパフォーマンスについて紹介したい。

三章

 

ヨーゼフ・ボイスのパフォーマンスから

芸術教育に関する著書として、本書の面白さの一つは、ある芸術表現から喚 起されるイメージを手掛かりに議論が展開されている点である。その芸術表現 とは、ドイツの現代美術家ヨーゼフ・ボイスが、一九六五年にドイツのギャラ リーで発表した「死んだ兎にどのように絵を説明するか」というタイトルのパ フォーマンスである。本書の議論の中にボイスの「死んだ兎に〜」を登場させ ている理由として、ビースタは、それが教師の教えるという仕事について、力 強いイメージをもたらしてくれるからだと述べている (一一八頁) 。

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現代美術の領域では有名なパフォーマンスだが、以下の議論の展開のために、 文 献 に 基 づ き (2)、簡 単 に そ の 内 容 を 説 明 し て お く。こ の パ フ ォ ー マ ン ス で は、 ヨーゼフ・ボイス自身が、壁に絵を掲げた一室で、死んだ兎を抱えた男として 登場する。その格好は、異様と言ってよいものであり、顔面に金箔を貼り、頭 に蜂蜜をかけている。男は、兎を抱えて、壁に歩み寄り、絵を見させるように 間近 に そ の 顔 を 近 づ け さ せ た り 、 前足 で 絵 に 触 れ さ せ た り を 行 う ( 図 1左側 の 写真 ) 。 ま た、時 折、絵 に 向 き 合 わ せ た 兎 に 何 か を 囁 き か け る (絵 に つ い て「説 明」し て い る と 推測 さ れ る ) 。他 に も 、 兎 と と も に い く つ か の 動作 を 行 う が 、 最後 に 、 男 は 兎 を 抱 き か か え、静 か に 椅 子 に 座 り、パ フ ォ ー マ ン ス が 終 わ る (図 1右 側 の 写 真) 。ち なみに、このパフォーマンスの後、このパフォーマンスをめぐって、ボイス自 身と集まった評論家たちで対話が行われ、その模様も映像として記録されてい る。 ビ ー ス タ は 、 ボ イ ス の こ の パ フ ォ ー マ ン ス に 見出 さ れ る の は 、「 教 え る 」 と い う行為の元型 ( archetypical form ) 、即ち「見せる」 ( show ) ことだと述べている (四 四頁 ) 。 つ ま り 、 教育 と は 基本的 に 、「 誰 か が 、 何 か を 、 誰 か に 見 せ る 営 み 」 で あ る と い う こ と で あ る 。 さ ら に 、 こ の パ フ ォ ー マ ン ス で は 、「 教 え る こ と 」 の 元型 的 な 様式 で あ る 「 説明 」 と 、 ( コ メ ニ ウ ス の 『 世界図絵 』 が そ う で あ っ た よ う に ) 元型的 な 対象 と し て の 「 絵 」 も ま た 含 ま れ て い る 。 こ れ ら の 要素 を ま と め る と 、「 教 え る こと」の元型とは、教師が生徒に次のように呼びかけ、対象に向き合わせるこ と だ と ビ ー ス タ は 主張 す る 。「 ご ら ん 、 そ こ に 、 君 が 注目 す べ き 、 善 く 、 重要 で、 価値あるものと私が信ずる何かがあるよ」 (四四頁) 。 な る ほ ど 、 こ の よ う に 、「 教 え る こ と 」 の 元型 を 、 ボ イ ス の パ フ ォ ー マ ン ス が 再確認させてくれるという点は理解しやすい。しかし、このパフォーマンスに お い て 、 表現内容 の 核心部分 で あ り な が ら 、 理解困難 に 思 わ れ る の は 、 パ フ ォ ー マンスのタイトルにも記されているように「兎が死んでいる」ことである。つ ま り 、 パ フ ォ ー マ ン ス 中 の 「 男 」 を 教師 と し て 、「 兎 」 を 生徒 と し て 見 る な ら ば、 後者が「死んでいる」ことは、両者の間には越えられないコミュニケーション の断絶があると捉えられよう。 し か し 、 視点 を 変 え る と 、 兎 ( 生徒 ) が 「 死 ん で い る 」 こ と は 、 男 ( 教師 ) の 思 いのままにコントロールできない状態として理解することも可能である。ビー ス タ は 、 ボ イ ス の パ フ ォ ー マ ン ス に お い て 、「 死 ん だ 兎 」 を 、 生徒 の 「 主体 と し て の 自 由」 (四 八 頁) の 象 徴 と し て 捉 え て い る。生 徒 を 対 象 (世 界) に 向 き 合 わ せ、 そ れ に つ い て 語 り か け る こ と は 、 教師 の 「 教 え る 」 仕事 の 核心的 な 部分 だ が 、 し か し、同 時 に 考 慮 さ れ ね ば な ら な い の は、そ の 行 為 を 受 け 取 る「生 徒 の 自 由」 であることを、ボイスのパフォーマンスは示唆しているとビースタはいう。そ う し た 考 え 方 に 基 づ け ば 、「 教 え る こ と 」 は 教師 か ら 生徒 に 対 す る 贈 り 物 で あ る (四 八 頁) 。逆 に、教 師 が 生 徒 の 感 覚 や 思 考 を 思 い の ま ま に コ ン ト ロ ー ル し た り、 あるいは、教師が教えた行為によって見返りを期待するとすれば、彼/彼女は ( ビ ー ス タ の 言葉 を 用 い れ ば ) 「 成熟 し た 」 教師 と は 言 え な い 。 そ う し た 意味 で 、「 死 ん だ兎」は「教師に向けたメッセージでもある」 (四八頁) とビースタは主張する。 加 え て、教 師 か ら 生 徒 へ の 呼 び か け、語 り か け は、パ フ ォ ー マ ン ス 中 の「男」 が 「 兎 」 に し て い る よ う に 、 強制的 で は な く 、「 優 し く 、 た め ら わ れ が ち に 」 ( 五 九頁) 行われるべきだとビースタは述べている。

四章

 

ビースタの芸術教育論

(一)ビースタ(二〇一七)の議論の構造

さ て、先 の 芸 術 教 育 の「二 つ の 危 機」に 関 す る 問 題 意 識 (第 一 章) と、ボ イ ス の 芸 術 表 現 が 喚 起 す る 教 え る こ と の イ メ ー ジ に 関 す る 議 論 (第 二 章) を 出 発 点 と して、ビースタは、芸術と教育をめぐる中心的な議論を展開する。ただ、同書 図 1.Biesta(2017)に掲載されているヨーゼフ・ボイスの パフォーマンス(1965)の画像の一部 同書の巻頭では同様の画像が十数頁にわたって示されて いる。画像左側は、「男」が兎を抱えて絵画を見せ、語り かけている場面。右側は、パフォーマンスの終わりに、「男」 が兎を抱きかかえて椅子に座っている場面。後者はピエタの ようにも見え、本書の文脈でいえば、学び手(兎)の「再 生」のイメージと解釈しうる。

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の内容に即して言うならば、芸術教育の意義と方法の話題にすぐには進まない。 ま ず、主 体 の 教 育 に 関 わ る 問 い か け と そ れ に 対 す る 議 論 が 五 つ の 章 に (三 章 か ら 七章 ) 分 け て 展開 さ れ る 。 そ こ で の 問 い は 、 次 の 四 つ で あ る 。①世界 の 中 に 存在 するとは何を意味するのか。②そこに成熟したあり方で存在するとは何を意味 するのか。③そのように存在することを望むとは何を意味するのか。④そのよ うに存在することを望むように、別の人間に欲求を喚起するとは何を意味する のか。 本 書 の 序 章 の 説 明 に よ れ ば (三 八 −三 九 頁) 、上 記 の 問 い の ① と ② に つ い て は 第 三章で扱われ、③については第四章、④については第五章で扱われる。さらに、 残る第六章と第七章は、補章とも言えるかもしれないが、教育における能動的 な 意味形成 ( sense-making ) の 限界 と 問題点 、 そ し て 、 人間 の 感覚 の 受動性 に つ い て検討される。以上の章で述べられるビースタの存在論とそれに基づく教育理 論は、既にビースタの『教えることの再発見』を読んだ人には馴染みのあるも の が 多 い 。 し か し 、 芸術教育論 を 扱 う 本書 で は 、 各章 で 、 そ れ ら の 理論 を 芸術 ・ 芸術教育に絡めて論じている点が特徴的である。 結 論 を 先 取 り す る 形 に な る が、こ れ ら の 議 論 を 通 し て、 「芸 術 を す る こ と」 ( doing art ) が 、 人間 の 主体化 を 支 え る 営 み で あ り 、 そ れ を 教育 の 中 に 置 き 「 芸術 に教えさせること」 ( letting art teach ) の意義を確認することが、ビースタの最終 的な主張である。 以下では、ビースタの存在論、教育論、芸術・芸術教育論という順に、本書 における彼の議論のエッセンスを引き出し、整理してみたい。

(二)世界における主体の意味と教育

ビ ー ス タ に よ れ ば 、「 主体 と し て 存在 す る 」 と は 、「 私 た ち が 誰 で あ る か 」「 何 を 持 っ て い る か」で は な く、 「ど う あ ろ う と し て い る か」に 関 わ る 問 題 で あ る ( 六三頁 ) 。 ま た 、 そ れ は 自己 の 中 に 留 ま り 続 け る こ と で は な く 、 自己 の 外 へ 出 て いこうとすることに関わる。その世界は、社会的にも物質的にも「他者」の存 在する世界であり、私たちの要求や願いが全て叶い、満たされうる場ではない。 それゆえ、そこに存在し生きるとは、世界の中で出会う人や事物という現実と 自 ら を 「 和解 さ せ る 」 こ と で あ る ( 六三頁 ) 。言 い 換 え れ ば 、 主体 と し て 存在 す る と は 、 そ う し た 他者 と し て の 人 や 事物 と の 対話 の 中 で 存在 し よ う と す る ( 生 き よ う と す る ) こ と で あ る 。 そ れ は 、 フ ィ リ ッ プ ・ メ リ ュ ー の 言葉 を 用 い れ ば 、「 世界 の中心を占めることなく世界の中にある」ことであり、あるいは、ハンナ・ア レントの言葉を借りれば「世界の中に安らうこと」 ( being at home in the world ) で ある (前掲頁) 。 それでは、主体が「世界との対話の中で存在する」とは何を意味するのであ ろ う か 。「 世界 と の 対話 の 中 で 存在 す る 」 と は 、 主体 が 行為 や 働 き か け を し か け る だ け で は な く 、 他者 の そ れ を 被 る こ と で も あ る ( 六三頁 ) 。 つ ま り 、 主体 で あ る とは、そのように他者と出会い、行為をしかけ、また被るという関係にあふれ る 世界 に 「 向 き 合 わ さ れ て い る 」 ( turned ) こ と で あ り 、 そ の 状態 を 維持 し て 世界 の中に居続けることだと言える。このように主体であることの意味を捉えた時、 ビ ー ス タ に よ れ ば、教 育 の 役 割 と は、 (ボ イ ス の パ フ ォ ー マ ン ス の「男」が 兎 に し た よ う に) こうした世界に人間を「向き合わせる」ことである (前掲頁) 。 ビ ー ス タ は さ ら に 論 を 進 め る 。主体 と し て 世界 に 向 き 合 い 、 対話 す る と は 、 世 界にある「他なるもの」との出会いを続けること、そして、物質的にも社会的 に も そ れ ら か ら の 「 抵抗 」 を 経験 す る こ と を 意味 す る ( 六四頁 ) 。主体 の 諸 々 の 意 図や試みは、自分の創造物ではなく、それ自体の権利と統一性をもった「他な るもの」の存在に阻まれることになる。そうした世界がもたらす抵抗に対する 向 き 合 い 方 と し て、ビ ー ス タ は、三 つ の 選 択 肢 が あ る と い う (六 四 −六 五 頁) 。第 一は、自らの欲求を世界に向けて押し通すことである。それは究極的には、他 者の存在を無視し、世界そのものを思い通りに作りかえる、あるいは、世界を 破壊することである。第二は、抵抗が自分に与える苛立ちに耐えきれず、世界 から撤退することである。それは、自らの試みや意欲を諦め、自己の中に引き こもることだが、それは、究極的には、世界での存在を止め、自分自身を破壊 することになりうる。 そして、第三は、こうした世界破壊と自己破壊のどちらか一極に流れず「中 間地帯 」 に 留 ま り 続 け る こ と で あ る ( 六五頁 ) 。 こ れ が 、 ま さ に 、 世界 と の 対話 の 中に存在することであり、自らを世界の中心におかない存在の形である。それ は、他者の支配や他者との競争に向かうのではなく、他者と共存しようと持続 的 に 取 り 組 む こ と を 意味 す る 。 こ う し た 対話的 な 空間 と し て の 中間地帯 は 、「 世 界的 な 空間 」 と 呼 び う る も の で あ り 、 か つ そ れ は 、 教育的 な 空間 で も あ る ( 前掲 頁) 。

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そ れ で は 、 次 の 問 い に な る が 、 そ う し た 空間 の 中 に 、「 成熟 し た 仕方 で 存在 す る」とは何を意味するのか。ここでも、主体が何/誰であるかということでは な く 、 ど う あ ろ う と し て い る か が 問 わ れ る と ビ ー ス タ は い う ( 六九頁 ) 。 そ の た め、 それは、人間の年齢や発達段階で決まるものではない。何をもって「成熟した 仕方 」 と す る か と い う 問 い に つ い て は 、 多様 な 解 が あ り う る と し な が ら も 、 ビ ー ス タ は 、 主体 の 欲求 と の 向 き 合 い 方 か ら 一 つ の 答 え を 示 し て い る ( 前掲頁 ) 。人間 の持つ諸欲求は、人間が生きるための原動力であり、人間を外の世界へ引き出 すものでもある。しかし、その欲求の客体となり、支配されれば、世界との軋 轢によって対話は困難になり、前述のような、世界破壊ないしは自己破壊に陥 る か も し れ な い 。 そ う し た 中 、 ビ ー ス タ は 、「 成熟 し た 仕方 」 で 世界 の 中 に 存在 するとは、主体が自らの欲求が望ましいものか問い直し、それを変容させうる ことを意味している。ガヤトリ・スピヴァクは、教育を「欲求の非強制的な再 編」の過程だと定式化しているが、これは、ビースタの考える「成熟した」主 体になる仕方を表している (七一頁) 。

(三)芸術とは何か

このように、主体として存在することの意味が明らかになったとして、では、 芸術とは何であろうか。様々な芸術の定義がありつつも、ビースタは、芸術に ついて、前述の主体の存在論に依拠し、 「芸術をすること」 ( doing art ) に重きを おいて論を展開する。行為としての芸術を観察すると、それは、社会的かつ物 質的な世界に向き合い、抵抗を経験しつつも、それを破壊するのではなく対話 し て い く 営 み だ と い え る 。 ビ ー ス タ は 、 芸術 は 、「 他者 で あ る 何 か 、 誰 か と の 出 会いの持続的で終わりのない探求、そして、世界の中に、そして世界とともに 存在するとは何を意味するのかの探究」 (六六頁) であると述べている。例えば、 芸 術 上 の 多 様 な 創 作 や 表 現 の 過 程 で は、 「絵 具、石、木、金 属、音、身 体 (自 分 自身 の 身体 も 含 め ) と の 出会 い 」 ( 前掲頁 ) が あ り 、 そ れ ら が も つ 抵抗 を 引 き う け つ つ、 そ れ ら に 何 ら か の 形式 を 与 え て い く 。 そ れ は 、 ま さ に 、 世界 と 対話 す る 存在 ( = 主体) のあり方を可能にする行為である。 加えて、その対話の中で「抵抗」として現れてくるものの中には、主体自身 の も つ 欲求 そ の も の も 含 ま れ る と ビ ー ス タ は い う ( 七二頁 ) 。世界 と の 対話 や 探究 の過程では、主体が自らの内面を見つめ直すことで、自らの欲求も明らかにな る。 芸術は我々の欲求を可視化し、それらに形を与えることができる。そして、 抵抗を与える物や人との対話に参入していくことを通して、同時に、我々 は自分の欲求の望ましさを探究し、その再編や変容に取り組むことになる。 より大胆に言えば、芸術がまさに人間の世界との対話であるように、芸術 は、我々の欲求が、我々に世界に成熟した仕方で存在することを求めるよ うにするポジティブな力となりえるよう、欲求を探究し変容させることで もある (前掲頁) 。 このように、芸術という行為がそれ自体、世界との対話に参加していく過程 であるとすれば、その行為自体が、人間を世界の中で主体にさせるという点で 教育的 だ と 言 え る 。実際 、 こ れ が 、 本書 の タ イ ト ル (『 芸術 に 教 え さ せ る こ と 』) に 示 されるように、ビースタの芸術教育論の中心的な主張である。 以上のように、芸術を通して、世界の「他なるもの」と出会い、抵抗を引き 受 け 、 対話 し て い く 営 み は 、 ア レ ン ト の 言葉 を 用 い れ ば 、「 私 」 を 世界 に 対 し て 和 解 さ せ る こ と で あ る。こ う し た 芸 術 に お け る 対 話 を、ビ ー ス タ は、サ ン = テ グ ジ ュ ペ リ の『星 の 王 子 様』の 一 節 に お い て、王 子 が キ ツ ネ を「な つ か せ る」 ( tame ) こ と を 学 ぶ 過程 に な ぞ ら え て い る ( 六七 −六八頁 ) 。王子 ( 主体 ) が キ ツ ネ ( 世 界 に お け る 他者 ) を 「 な つ か せ る 」 た め に は 、 相当 な 時間 と 、 一歩一歩 、 キ ツ ネ を 怯えさせないように接近していく「がまんづよさ」が求められる。

(四)世界とつながる三つのチャンネル

しかし、そもそも、人間はその生の中で、世界とどのように「つながり」を 築くのだろうか。ビースタは、人間を世界へと橋渡しする三つのチャンネル― 「頭」 ( head ) 「手」 ( hands ) 「心」 ( heart ) ― を説明する (七七 −八〇頁) 。 ま ず 、「 頭 」 の 働 き と は 、 思考 で あ り 、 そ れ は 、 世界 の 中 の 他 な る も の に つ い て思考するという形でのチャンネルである。しかし、思考は常に自身の頭の中 で行われるものであり、それは「距離をとった」つながり方だとビースタは言 う (七八頁) 。つまり、思考のみでは、 「私」自身の世界の中に留まり続けること になり、かつ、その思考の内部でのみ世界に対する「抵抗」に向きあっている

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ならば、そこで増殖した苛立ちは、世界ないしは自己への破壊の衝動へとつな がりかねない。 以上のように「頭」の働きの限界を指摘した上で、ビースタは世界とつなが るチャンネルとして「手」そして「心」の役割の重要性を指摘する。 ま ず 、「 手 」 の 働 き で あ る が 、 そ れ は 、 具体的 な 行為 や 仕事 、 そ こ で の 感覚 を 通して「外にあるもの」に直接ふれることである。つまり、それは自らの身体 を用いた直接的な世界との対話であり、それによってこそ、世界に存在してい る も の の 物質性 や 統一性 を 感知 す る こ と が で き る ( 七九頁 ) 。 そ し て 、 具体的 な 事 物に対する「手」の働きかけでは、それぞれの性質に応じた関わり方を意識す る 必要 が あ る 。加 え て 、「 頭 」 の 働 き ( =思考 ) に は 時間性 が な い の に 対 し 、 身体 を 用 い た 世 界 と の 現 実 的 な や り と り (例 え ば、何 か の 制 作) で は、時 間 の 進 行 や リ ズ ム に 合 わ せ 、 待 つ こ と も 要求 さ れ る ― 先 の 『 星 の 王 子 様 』 で キ ツ ネ を 「 な つ かせる」過程のように。このような、具体的な行為を通じて世界の「抵抗」に 自身を調和させる過程を通して、人は自らがもっていた欲求に向き合い、それ を 違 っ た 形 に 変換 さ せ る こ と が で き る 。 こ の よ う に 、「 手 」 の 働 き は 世界 の 現実 に根ざして、それと対話することを可能にする重要なチャンネルである。 最後 に 、「 心 」 の 働 き で あ る 。 ビ ー ス タ に よ れ ば 、「 心 」 は 、「 頭 」 と 「 手 」 の 中間に位置するチャンネルであり、世界について、あるいは世界のために「感 じ る 」 こ と を 介 し て つ な が り が つ く ら れ る ( 八〇頁 ) 。実際 、 人間 は そ の 行為 や 思 考を通じて、世界の事物に様々な感情を持ちうる。その中には、世界そのもの をケアする感情や、世界への愛情も含まれるが、そのようにして感情は、主体 と世界を引き寄せる力をもつ。 以上の三つのチャンネルは、相互に作用しあいながら、人間を世界へとつな げる役割を果たす。そして、これら三つは、芸術の行為の中でも特に顕著な働 きを示すものである。しかし、現代の我々の世界では、芸術にせよ、教育にせ よ、 「頭」 (=思考) を重視する方向に偏り過ぎているとビースタは主張する。思 考 の 重視 は 、 後述 す る よ う に 人間 の 側 の 一方的 な 「 意味形成 」 を 進 め 、 結局 、 世 界の中心に自己を置く存在の様式へと陥る。そうした中、ビースタは、次に示 すように、芸術における「手」と「心」の働きの意義を再確認する (前掲頁) 。 ま ず 、 芸術 に お け る 造形 や 表現 の 活動 で は 、 必然的 に 「 手 」 ( =身体 ) を 媒介 と して世界の事物と向きあい、様々な感覚が体験される。芸術活動の一つの特徴 は、そこに素材となりまた「抵抗」の源ともなる「物質」が存在すること、そ し て 、 芸術 を 構成 す る 個 々 の 活動 に 「 時間 」 が 伴 う こ と で あ る ( 八〇頁 ) 。 つ ま り、 ど の よ う な 造形 や 表現 も 、 世界 の 一部 と し て の 物質 や 時間 の 経過 と い う 制約 ( 抵 抗) に、自 ら を 合 わ せ な け れ ば な ら な い。し か し、芸 術 に お い て は、そ う し た 制約の中で、多様な素材の特質に配慮して「手」を加える行為や、変化のペー ス ( 時間 ) に 合 わ せ て い く 過程自体 が 、 世界 と の 対話 に 人間 を 招 き 入 れ 、 対話 の 方法 を 教 え て く れ る 要素 と な る ( 八一頁 ) 。 ま た 、 そ の 過程 は 、 思考 の み で 生 じ た アイデアや、自らの欲求のみでは何も形にならないことも教えてくれる。 次 に 、「 心 」 に つ い て で あ る 。芸術 を す る こ と ( 様 々 な 表現 や 鑑賞等 ) は 、 そ れ 自 体、様々な感情を生み出す。それらは主体の中に感動や情熱を生み出し、同時 に、芸術そのものをケアし、愛する感情を育む。そうした芸術が生み出す感情 に よ り 、 人間 は よ り 普遍的 な 形 で 世界 と の つ な が り を 築 く こ と が で き る ( 八一頁 ) 。 このように、芸術は、直接的な方法で、我々を「成熟した」主体となる方法 を 教 え て く れ る 。 ビ ー ス タ は 次 の よ う に 述 べ る 。「 芸術 は 、 世界 に つ い て 私 た ち の行う思考をこえて、世界と「触れ合う」 ( in touch with ) 方法を深め広げる可能 性をもっている。それゆえ、このようにして芸術はまた、われわれの存在―世 界における、成熟した仕方での主体として―にとって重要である。 」 (前掲頁)

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「中断の教育学」としての芸術教育

この兎は死んでしまっている。では、この兎は、この絵を感じとることが できないのか。自分はそうではないと思う。金箔をかぶった男は兎の手を 使い、兎は心が無い状態で絵をさわる。かれらは芸術に本当の意味で触れ ている。この映像は芸術の本質に触れるとはこういうことだと伝えている のかもしれない。 これは、筆者のある教育に関する講義において、先のヨーゼフ・ボイスのパ フォーマンスを見せ、議論させた後の学生の感想の一つである。この「心が無 い 状態 」 で 絵 に 触 れ さ せ て い る と い う 捉 え 方 は 、「 兎 が 死 ん で い る 」 こ と の 意味 を肯定的に解釈したものである。そして、この捉え方は、学習者自身の能動的 な理解の動きをいったん「中断」させるというビースタの教育論にも通じてい

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る。 特に、ビースタが批判しているのは人間の外界に対する「意味形成」である。 それは、知覚したものを、人間が既にもつ思考や認知の枠組みで理解し、そこ に新たに位置づけていく能動的な過程である。また、近年の教育の言説におい ては、それが人間の「主体的な」学習の過程だと理解されがちである。 しかし、それは、世界に存在するものを既にある自己の枠組や欲求で一方的 に、都合よく理解し取り込んでいく過程とも言え、世界との間に、影響を与え かつ被るという対話的な関係を築くものではないとビースタは指摘する。言い 換えれば、意味形成は、世界にある「他なるもの」からの中断を生じない、自 己の世界の維持・拡大の過程となりうる。 本書では、後半の章に書かれている内容であるが、ビースタは、意味形成の 限界を指摘するとともに、また、それが現実に、人間と世界の相互作用のごく 一部 に す ぎ な い こ と を 指摘 す る た め 、 人間 の 知覚 の 「 受動性 」 ( passivity ) に つ い て論じている。即ち、人間がその身体を媒介に、外界の事物のもつ音や肌触り、 匂いなどを感知するためには、まず、自らの感覚器官をその対象にさらす必要 がある。そのように未知の対象に自分の感覚器官をさらすことは、自らをバル ネラブルな状況に一時的に置くことでもある。しかし、そのように、世界にあ るものが自分の中に入ってくることを「許容」することを通して、初めて、対 象の実相を感知し、理解することが可能になる。同様のことは、事物の知覚だ けに限らず、他者の見解を知ることにもあてはまる。要約すると、こうした受 動性の側面に注意を払うことなしには、世界と対話して存在することは不可能 である。 前項では、芸術という行為が世界との対話の実践であり、それを人間に教え る 教育 の 役割 が あ る と い う ビ ー ス タ の 考 え を ま と め た 。 し か し 、 芸術 で あ れ 、 教 育 で あ れ 、 そ の 過程 の 中 に い れ ば 、 自動的 に そ の よ う に 、「 私 」 が 世界 に 向 き 合 い、世界の中にある他なるものに出会い、それとの対話を開始できるというわ け で は な い 。 む し ろ 、 同 じ 過程 の 中 で も 、 他 な る も の と の 遭遇 を 経験 せ ず 、「 私 」 が自らのアイデンティティや理解の枠組、当初の欲求の中に留まり続ける可能 性もある。特に、ビースタも指摘するように、現代のグローバル資本主義の中 で の 社会生活 で は 、 人間 は 消費者 と し て 欲求 の 拡大 へ と ひ た す ら 煽 ら れ る ( 七一 頁) 。そ う し た 状 況 の 中 で、自 己 表 現 の み が 芸 術 教 育 の 中 で 重 視 さ れ る な ら ば、 それは、子どもが拡大するエゴの中に留まり続ける姿勢を強めることになる。 人 間 が も つ「受 動 性」に つ い て、ビ ー ス タ の『教 え る こ と の 再 発 見』 (ビ ー ス タ 訳書二〇一八 ) の 記述 に 基 づ き 、 補足 し た い 。 そ れ に よ れ ば 、 ビ ー ス タ は 、 ア レ ン ト に 従 い、 「私 た ち が 主 体 で あ る こ と は 私 た ち の 手 の う ち に は な い」 (二 一 頁) と 主張 す る 。 そ し て 、 レ ヴ ィ ナ ス の 言明 に 基 づ き 、「 私 が 主体 で あ る こ と に 関 す る 出来事 は 、 つ ね に 私 の 内在性 の 中断 ― つ ま り 、 私 自 身 の た め に 、 私 自 身 と と も に 存在 す る こ と の 中断 ― と し て 現 れ る こ と で あ り 、 ま ど ろ み か ら の 目 覚 め と し て 現 れ る」 (前 掲 書、二 八 頁) と 述 べ て い る。つ ま り、主 体 化 の た め に は、教 育 者 は 、「 私 」 の 理解 や 欲求 を 中断 さ せ る よ う な 、 世界 に あ る 「 他 な る も の 」 と の 遭遇をつくりだすことが必要となる。 前述のように、他の人間に、成熟した仕方で世界に存在したいという欲求を 喚起することが教育の目的であるとすれば、教師の役割とは、生徒を世界に対 し て 「 向 き 合 わ せ 」、 世界 と の 対話 に む け て 「 呼 び か け る 」 こ と で あ る 。 そ し て、 ビースタによれば、その行為は、生徒の欲求を中断、停止させ、生徒の欲する ものが望ましいものかどうかを判断する機会をつくること、さらに、その判断 の後も、長きにわたり生徒にとって「生きた問い」が維持されるよう支援する も の で な け れ ば な ら な い ( ビ ー ス タ 訳書二〇一八 、 三〇頁 ) 。 こ う し た 一連 の 教育 の 原 理をビースタは「中断の教育学」と呼ぶ。 ビ ー ス タ は 以 前 の 著 作 か ら、一 般 的 な 教 育 理 論 と し て こ の「中 断 の 教 育 学」 を提起しており、これを具体的な教育活動の実践や分析に用いる他の研究者も 近年増 え つ つ あ る 。 そ う し た 中 、 ビ ー ス タ 自身 が 、「 中断 の 教育学 」 の 応用例 と し て 提示 し て い る の が 、 本書 に 提示 し て い る 芸術教育 の 領域 で あ る 。 そ し て 、 そ れは、ビースタが指摘する芸術教育の「危機」に対する理論的な応答と読むこ とができよう。 ビ ー ス タ は、こ の 教 師 の 仕 事 を「中 断」 ( interruption ) 「停 止」 ( suspension ) 「維 持」 ( sustenance ) の三つ に分け て説明し て い る。こ れ ら は連続す る三つ の段階の よ う に も 見 え る が、本 書 や『教 え る こ と の 再 発 見』を 読 む 限 り、特 に「中 断」 と「停止」は分離した仕事ではなく、相互に織り合わさり、分け難いものであ ると考えられる。以下、本書の記述よりこの三つについて整理してみたい。 ま ず 、「 中断 」 と は 、 人間 の 主体化 の プ ロ セ ス の 中 で 、 私 が も つ 欲求 や 存在 の 仕方 、 私 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ を 中断 さ せ る こ と で あ る ( 八六頁 ) 。 そ れ は 、 人 を 世

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界 へ と 向 き 合 わ せ 、 か れ ら の 「 外 」 に あ る 現実 に 出会 わ せ る こ と を 意味 す る 。 そ の方法とは、人を世界の事物が有する「抵抗」と向き合わせ、それとの対話に 導くことである。それは、芸術においては、しばしば「抵抗材料」と呼ばれる ような素材であったり、芸術作品そのものであるかもしれない。 次に、 「停止」である。停止は、ビースタによれば、 「中断」の後、生徒が何 らかの主体として「跳躍」を果たすまでの間に置かれるべき過程である。この 停止 の ね ら い は 、「 子 ど も や 生徒 が も つ 欲求 と 、 そ こ か ら 導 か れ る 行動 と の 間 に ギ ャ ッ プ を 作 り 出 す こ と 」 ( 八九頁 ) で あ る 。 そ の た め に は 、 教育活動 の 中 で 、 生 徒が自らの欲求との関係を再構築するための時間や空間、形式が設定されねば ならない。そのように、芸術の一定の形式に取り組むことの中で、生徒は自ら がもつ欲求を見つめなおし、その欲求そのものを変容させることが可能になる。 ビースタによれば、この過程では、生徒の探求を加速ではなく、スローダウン さ せ る こ と が 重要 で あ る ( 前掲頁 ) 。 な ぜ な ら 、 生徒 が 自身 の 欲求 を 見 つ め な お し、 それとの関係を築きなおすためには、十分な時間が必要だからである。 最後 に 、「 維持 」 で あ る 。 こ れ は 、 上述 の 過程 で 生徒 が 得 た 「 問 い 」 に つ い て 取り組み続けられるように、即ち、中間地帯に留まることができるように、支 援 を 持続 す る こ と で あ る ( 九一頁 ) 。 こ の 中間地帯 と は 、 前述 の よ う に 、 自己破壊 と世界破壊の間にある地点であり、また、さまざまな限界や問題に関する問い と出会う場、我々が自らを現実と和解させること、即ち、世界の中に安らおう とすることの課題に向き合う場である。ビースタは、生徒がそうした課題に向 き合い、探求を続けられるよう、教育者が支え続ける必要があると主張してい る。それは、世界の中にある抵抗と向き合い、対話を続ける主体としてあり続 けられるようにするための支援である。 以上のように「中断」 「停止」 「維持」の意味を整理すると、芸術はそれ自体 「 中断 の 教育学 」 と し て 機能 し う る 要素 を 多 く も っ て い る 。 ま ず 、 芸術 は 、 人 を 世界に向き合わせ、主体としての存在の意欲を喚起するような、効果的な中断 を も た ら す こ と が で き る (八 八 −八 九 頁) 。例 え ば、芸 術 作 品 は、し ば し ば、人 々 の注目をその表現内容に集め、思考を立ち止まらせる。また、芸術の行為自体 も中断を生み出す。即ち、それは、人々に抵抗をもたらし、スローダウンさせ、 立ち止まって考えさせる。それはまた、我々の発想を転換させ、我々の心を弾 ま せ る も の で も あ る 。 こ の よ う に 、 芸術 が 、「 成熟 し た 仕方 」 で 世界 に 存在 す る ための方法を教え、その意欲を喚起することが教育の役割だとすれば、芸術は この役割を、他の方法ではなしえない形で提供するものであるとビースタは主 張する。 特 に 、 芸術 が 「 中断 」「 停止 」 の み な ら ず 、 そ の 後 の 「 維持 」 に も 寄与 で き る、 言い換えれば、主体が中間地点で探求を続ける意欲を支え続ける力をもちうる 理由 と し て 、 ビ ー ス タ は 次 の 二 つ を 指摘 す る ( 九一頁 ) 。一 つ は 、 芸術 が 、 基本的 に 人間 の 内 に 喜 び を も た ら し 、 エ ネ ル ギ ー と 情熱 を 生 み 出 し う る こ と で あ る 。 も う一つは、世界の中で出会う抵抗に出会い、それを経験することの意味を理解 できる具体的な機会を与えてくれることである。こうした芸術のもつ力によっ て 、「 私 」 は 、 自 ら の 外 に あ る も の 、 他 な る も の と の 遭遇 と 対話 を 通 し て 、 そ の 世界 が も つ 複雑 さ と 美 し さ と の 出会 い に 喜 び を 見出 す よ う に な る ( 前掲頁 ) 。 こ の ようにして、芸術の経験そのものが「中断の教育」となり、世界と対話し、世 界の中に安らうことを人に教えるのである。

五章

 

結びに

  ―

  日本の美術教育の問題点を考える

こ こ ま で、ビ ー ス タ (二 〇 一 七) の 芸 術 教 育 論 の 概 要 を 整 理 し た。そ の 内 容 は、 概ね次のようにまとめられるだろう。人間が世界との対話の中で生きる、即ち (アレントの言葉を借りれば) 「世界の中で安らう」手段として芸術があると。そのよ うに、芸術はそれ自体、人間に主体的な存在として生きる術を教えるという点 で 教 育 的 で あ る が、そ う し た 芸 術 を 教 育 (と り わ け 学 校 教 育) の 中 に そ の 本 質 の ま ま に 置 く こ と ( 即 ち 、 本書 の タ イ ト ル

“Letting Art Teach”

の 意味 ) が 、 芸術教育 の あ り 方 として求められ、再認識されねばならない。 以下、本稿の結びとして、ビースタの理論を実践的な視点で読解する試みと して、日本の美術教育の問題に引きつけて論じてみたい。特に、ビースタの論 から、日本の美術教育の課題がどのように捉えられるか一つの試論を提示する。 戦後日本の美術教育に関する議論を振り返ってみると、ビースタの芸術教育 論の投げかける内容が、全く新しいというわけではないように思える。むしろ、 日 本 の 美 術 教 育 の 実 践、特 に 子 ど も の 主 体 的 な 表 現 に 関 す る 議 論 の 要 素 に は、 ビ ー ス タ の 考 え 方 と つ な が る も の が 豊富 に あ る 。一例 を 挙 げ る と 、 柴田 ( 二〇〇 〇) は、戦 後 の 美 術 教 育 に お い て、大 き く 分 け て「美 術 に よ る 教 育」と「美 術 の教育」の二つの考え方が対峙してきたと整理している。ただ、その基調にお

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い て は 、 表現主体 と し て の 子 ど も の 存在 を 尊重 し 、「 表現 を 手掛 か り に 子 ど も た ち を 理解 し て い く 」 こ と に 重 き が 置 か れ て き た と い う ( 三一頁 ) 。 そ う し た 中 、 柴 田自身 は 、「 も う 一歩踏 み 込 ん で 子 ど も た ち が そ の 人生 を 主体的 に 生 き る た め に という視点を設定」すべきであると述べ、そうした視点に立ち、美術教育の課 題 を 、「 今 こ こ に 在 る 」 こ と を 確認 す る こ と と 、 イ メ ー ジ の 翼 に の っ て 「 彼方 へ と 羽 ば た い て い く」こ と の 二 つ の 軸 に お い て 捉 え て い る (三 五 −三 六 頁) 。こ う し た 柴 田 (二 〇 〇 〇) の 主 張 は、人 間 の 主 体 化 の 術 (す べ) と し て 芸 術 と そ の 教 育 を 捉えるビースタの考えと大きく重なるものと見える。 他方で、表現主体としての子どもの捉え方は、教育改革のレトリックの中で 変 化 し て き た と 指 摘 さ れ て い る。例 え ば、南 雲 (二 〇 一 六) は、一 九 八 〇 年 代 の 臨教審以降の教育改革において「個性化教育」が叫ばれるようになり、美術教 育を子どもの個性を表現する場として捉える見方が強まってきたと指摘してい る 。 そ う し た 状況 を ふ ま え 、 美術教育 に お け る 表現 で は 、「 ど の よ う な 質 の 自由 や 個性 を 求 め る べ き か 、 我 々 は 十分 に 考 え て い く 必要 が あ る 」 ( 三〇六頁 ) と 南雲 は指摘している。こうした問いかけは、本稿で紹介したように、ビースタの芸 術教育論がまさに正面から向き合っている課題である。以上のように、子ども の主体化と美術教育のあり方に関する議論は、旧来の日本の美術教育の中でも あ っ た わ け だ が 、 そ う し た 議論 の 内容 を 理論的 に 整理 す る 手掛 か り と し て 、 ビ ー スタの芸術教育論は有用ではないかと思われる。加えて、以下に述べるように、 ビースタの芸術教育論は、日本の美術教育が今日抱える課題をより深く掘り起 こす上で役に立つと筆者は考えている。 ビースタの芸術教育論を引き合いに出すまでもなく、日本の学校、とりわけ 初等 ・ 中等学校 レ ベ ル の 美術教育 に は 危機 と 呼 び う る 状況 が 存在 す る 。 ま ず 、 一 九八〇年代以降のカリキュラム改革の中で、図画工作や美術の指導時間は縮減 の 傾 向 に あ る (藤 原 二 〇 一 四) 。英 語 教 育 や プ ロ グ ラ ミ ン グ な ど 新 た な 教 育 内 容 が カリキュラム改革に盛り込まれる反面、美術教育の学校教育の中でのプレゼン スはますます低下しつつあると言えよう。さらに、中高での美術教員の「非正 規化」が全国的に強まりつつあるとともに、小学校レベルでは教員が図画工作 の 指導 に 自信 を も っ て 取 り 組 み に く い 状況 が あ る と 指摘 さ れ て い る 。 い わ ば 、 学 校の美術教育を支える時間や教員の専門性といった基盤が一層脆弱になりつつ あるのが今日の状況である。 こ う し た 状 況 の 中、ビ ー ス タ が (お そ ら く 欧 米 の 状 況 を 指 し て) 呼 ぶ「芸 術 教 育 の 危機 」 は 、 日本 の 美術教育 の 実践 に お い て も 、 そ の 教授学的 ( ペ ダ ゴ ジ カ ル ) な レ ベルで同様に生じているのではないかと考えられる。 繰り返しになるが、ビースタのいう「芸術教育の危機」は、芸術教育が、芸 術の外にある子どもの資質能力の向上のために行われるという道具的正当化に よる「芸術の喪失」と、芸術教育を専ら子どもの個性的な表現の場として位置 付けることで生じる「教育の喪失」の二つの面を持っていた。このうち、後者 の「教 育 の 喪 失」は、前 述 の 南 雲 (二 〇 一 六) が 指 摘 す る、個 性 化 教 育 と し て の 美術教育の問題とほぼ一致するものである。 一方で、前者の「芸術の喪失」は、芸術教育の中の「芸術」がその意義の道 具的正当化により、その実践が芸術としての本質を失うこととして説明されて いるが、ビースタの芸術教育論の全体を読むと、芸術教育の中の「芸術」がそ の本質を失う理由はそれだけにとどまらないと考えられる。こうした芸術教育 における「芸術の喪失」が、日本の美術教育の文脈でどのように生じているの か、ビースタの論を手掛かりにして考えてみよう。 ビ ー ス タ は 、 芸術 を 、「 他者 で あ る 何 か 、 誰 か と の 出会 い の 持続的 で 終 わ り の ない探求、そして、世界のうちに、そして世界とともに存在するとは何を意味 するのかの探究」として定義している。こうした定義に基づき、芸術を考えた とき、それを通して教育する教師の役割とは、生徒の自己の外にある他者との 出会 い を つ く り 、 そ れ を 相手 と す る 対話 と 探求 の 場 を つ く り だ す こ と で あ る 。 し かし、日本の美術教育の現状としては、二つの意味における「他者」との出会 いの機会が失われているのではないかと筆者は考えている。 第一 は 、「 自然 」 と い う 他者 と の 出会 い の 喪失 で あ る 。 か つ て の 日本 の 学校 の 美術教育においては、学校の内外に生徒と自然との出会いが比較的多く存在し た 。 ま た 、 多様 な 「 生 」 の 素材 ( 物質 ) が 制作 に 持 ち 込 ま れ 、 子 ど も た ち が そ の 五感を用いて、それらと向き合う時間も過去には豊富にあった。それら自然と いう他者との出会いは、それ自体が子どもの生活体験への抵抗となり、 「中断」 をもたらすものであったといえる。 しかし、そうした自然との出会いについていえば、上述のような美術・図画 工作の指導時間の縮減や、子どもの安全確保等の理由で、子どもが学校外に出 る機会や、多様な素材に向き合う機会が乏しくなっている。それに代わるもの

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として活用が広がりつつあるのは、子どもの教室内での制作活動を容易にする 個別の制作キットやタブレットによるデジタル表現などである。このようにし て、美術・図画工作の活動は、自然という他者と子どもがその身体を介して出 会う機会を消失させ、その内容はますます「抵抗」の少ないものに変容しつつ あ る 。 し か し 、 こ の よ う に 生徒 の 要求 に 合 わ せ て 抵抗 を 少 な く す る こ と は 、 ビ ー ス タ に よ れ ば、 「生 徒 が 世 界 か ら 隔 離 さ れ て し ま う リ ス ク」 (ビ ー ス タ 訳 書 二 〇 一 八、 三一頁) を強めるものである。 もう一つ、世界における他者との出会いという点で、日本の美術教育の課題 だと考えられるのは、芸術における社会的な意味での他者、即ち「表現上の他 者」との出会いである。それは、特に芸術表現との出会いにおける、精神的な 存在としての生徒自身の内的な世界にはない他者、アドルノの言葉を用いれば 「非同一のもの」との遭遇を意味する。 例えば、日本の学校の美術教育では、多様な芸術鑑賞の方法がとられている が、芸術家という、いわば社会におけるマージナルな存在やかれらの表現精神 を認め、生徒がそうしたものと遭遇し、深くそれらを味わう機会は限られてい ると思われる。多くの場合、鑑賞は、作品の技術的な部分に着目し、理解を促 すものとなっており、それは、ビースタの言葉を用いれば、芸術作品の意味生 成 の プ ロ セ ス ( = 生徒自身 の 同一的 な 世界 の 拡大 ) で あ る 。先 の 、 自然 と い う 他者 と の 出会いの希薄化が、教育環境の変化による近年の問題であるとすると、こちら の社会的な「他者」との出会いの問題は、日本の美術教育の性格上、より古く か ら あ る 問 題 で は な い か と 筆 者 は 考 え て い る (3)。つ ま り、日 本 の 美 術 教 育 の 考 え方の中で、生徒の世界の「中断」となりうるような表現上の他者との出会い を 生 み 出 す ペ ダ ゴ ジ ー (教 授 学) が そ も そ も 希 薄 だ っ た の で は な い だ ろ う か。さ らに、その状況に輪をかけて、現代の個性化教育のレトリックの拡大や、デジ タ ル ・ メ デ ィ ア に よ る 個 の 内的表現 の 拡張 は 、「 他者 」 の 存在 を よ り 不可視化 し ていく可能性がある。 以上、自然および表現上の「他者」との出会いの消失という、日本の美術教 育の「危機」を指摘した。こうした問題について、ビースタの芸術教育論が具 体的な解決策を提示しているわけではない。ビースタが教えてくれるのは、芸 術を通して「他なるもの」との出会いと対話を通して、子どもたち自身の表現 や鑑賞が教育的になるためには、教育者が芸術それ自体の意義を知り、それを 教育の中に配置する方法を再考することが必要だということである。 また、これからの芸術教育のあり方に関する議論について、ビースタ自身も、 本書の哲学的な提案でそれを終わらせているわけではない。ビースタは、本書 の 刊 行 の 翌 年、他 の 芸 術 教 育 の 研 究 者 お よ び 実 践 者 と の 共 同 に よ る 著 書 “Art, Artists and Pedagogy” (二〇一八) の刊行に加わり、芸術教育の実践と理論とを 往還する仕事に取り組んでいる。 筆 者 自 身 も、ビ ー ス タ (二 〇 一 七) の 理 論 が、ど の よ う に 美 術 教 育 を 含 め、子 どもの多様な表現活動に関連付けられるかを模索している最中である。筆者は、 こ れ ま で、白 樫 雅 洋 に よ る「生 活 と 仲 間 を 見 つ め 自 己 を 形 象 化 す る 美 術 教 育」 の実践の研究 (濱元二〇一六a) や、ポスト・フクシマの教員の美術教育観の研究 (濱 元 二 〇 一 七) を 行 っ て き た。特 に、前 者 の、ケ ー テ・コ ル ヴ ィ ッ ツ や 丸 木 俊 を 題材にした白樫の美術教育実践は「中断の教育学」の一つの具体例として捉え られると考えている。また、子どもの主体化を目指した現代的な美術教育の方 法として、英国のスケッチブックを用いた経験主義的な美術教育の実践からも (濱元二〇一六b、渡邊・新島二〇〇五) 、日本の側から学べる点が多いと思われる。た だ、海外の実践など、新たな方法に目を向けることも重要であるが、日本の美 術教育の文脈においていえば、既存の美術教育の題材や方法の中にも、改めて それがもつ芸術としての意義を見直し、子どもを主体として育む教育として再 び機能させうるものが多いと考えている。教育の中での芸術とは何か、ある題 材を芸術たらしめる方法は何か、また、そこでの教師の役割とは何かを再考す るための手掛かりをビースタの論はもたらしてくれるだろう。 (1) 本 稿 で と り あ げ る ビ ー ス タ の 芸 術 教 育 論 は、ビ ー ス タ (二 〇 一 七) の 記 述 に 基 づ く も の で あ る た め、記 述 を 容 易 に す る た め、 「ビ ー ス タ (二 〇 一 七) 」で はなく単に「ビースタ」として表す。また、ビースタの他の文献を参照す る場合には、それを明示する。 (2) こ の ボ イ ス の パ フ ォ ー マ ン ス に つ い て は 、 文献 リ ス ト に 挙 げ た Ulmer ( 二〇 〇七 ) の 文献 に 詳 し い 。 こ の パ フ ォ ー マ ン ス に つ い て は 様 々 な 解釈 が 存在 す るが、ビースタはこの Ulmer の解釈をヒントにしていると考えられる。

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(3) このように、日本の美術教育において「表現上の他者」との出会いが重視 されていない理由として、筆者は次の二点を指摘したい。第一は、日本の 美術史上、視覚芸術が工芸品として発展してきたこともあり、芸術家の精 神を、日本人の伝統的な価値観と同質的な職人の気質として見なしがちで ある点である。第二は、美術教育にたずさわる教員が、子どもの内的表現 を重視しつつも、子どもの内心に影響を与えることを美術教育の課題とし て避ける傾向があった点である。

【引用文献】

T ・ ア ド ル ノ 『 プ リ ズ メ ン ― 文化批判 と 社会 』 ( 渡辺祐邦 ・ 三原弟平訳 ) 一 九 九 六 年 、 ちくま学芸文庫。 G ・ ビ ー ス タ 『 教 え る こ と の 再発見 』 ( 上野正道監訳 ) 、 二〇一八年 、 東京大学出版 会。 Biesta, G, “Letting Art Teach : Art Education ‘After’ Joseph Beuys” Arnhem: ArtEZ Press, 2017. 藤原智也 「 新自由主義教育改革 と 美術教育 −学習 の 機会保障 の 問題 」『 美術科教 育学』 (美術教育学会) 三五号、二〇一四年、四四一 −四五五頁。 濱元伸彦 「 ケ ー テ ・ コ ル ヴ ィ ッ ツ を 題材化 し 続 け た 一美術科教師 の ペ ダ ゴ ジ ー : 松原三中における授業実践の「語り」から」 『京都造形芸術大学紀要 Gen -esis 』二〇号、二〇一六年a、一一五 −一二八頁。 濱 元 伸 彦「シ テ ィ ズ ン シ ッ プ と し て の 自 己 表 現 の 教 育」 『 Rosette-葉』 (京 都 造 形 芸術大学芸術教育資格支援センター編) 3号、二〇一六年b、二三 −二八頁。 濱元伸彦「福島県の二人の教員の三・一一経験とその後の教育観:美術教育に た ず さ わ る 教 員 の ラ イ フ ス ト ー リ ー に 基 づ い て」 『京 都 造 形 芸 術 大 学 紀 要 Genesis 』二一号、二〇一七年、一七二 −一八四頁。 南雲 ま き 「 美術 に お け る 「 個性化教育 」 に つ い て の 考察 」『 美術教育学研究 』 四 八号、二〇一六年、二九七 −三〇四頁。 Christopher Naughton, Gert Biesta, and David R. Cole, eds. Art, artists and

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参照

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