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明治見聞録における清末の南京

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Academic year: 2021

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(1)明治見聞録における清末の南京 楊. 洪俊. (南京工業大学外国言語文学学院. 要. 准教授). 旨. 中国の清末は日本の江戸時代末期と明治時代に当たる。「西力東漸」の時代背 景のもとに、中日両国は異なる道に向かうことになった。甲午中日戦争(日清戦 争)を通し日本は清朝から多くの利益を強奪するとともに、中日間の人員往来 が一層盛んになったのである。数多くの色々な身分の日本人が中国に渡り、そ の体験を多くの見聞録に残した。その中の南京を巡る文章を分析し、明治時代 の日本人の目から見た南京、主に交通と商業から構築される都市空間を分析す る。清末の南京において、馬、驢馬や人力などの伝統的交通機関が続用されてい るが、鉄道のような近代的交通機関も勃興していた。商業では、商家の看板など が記述された城内の商店街は市井百態の舞台で、下関開港により近代的対外貿 易の場もできた。清末の南京は形勝地と六朝の情趣が依然としたが、経済と都 市建設においては近代的要素がありながらも衰退が明らかであった。 「西力東漸」の時代背景のもとに、中日両国は嘗て同じような変革運動を試行 錯誤したが、異なる道に向かうことになった。一衣帯水の隣国である中日は、お 互いに参考にし、影響し合いながらも、国運相違のため競い合い、戦争へ行きつ くことになった。甲午中日戦争(日清戦争)は『馬関条約』の締結によって終わ り、日本は清朝から多くの利益を強奪するとともに、中日間の人員往来が一層 盛んになったのである。官員、学者、実業家、学生など、数多くの身分の日本人 が中国に渡り、中国のことを実際に見聞きして感じ取り、その体験を多くの見 聞録に残した。見聞録は文学の題材の一種として、文学的価値はもちろん窺え るし、見聞録に遊覧した名跡、風土と人情、物産と商売と貿易、また会った清朝 の官員と当時の名流などに関することが大量に書かれていて、史料としての価 値も高いと言えよう。 このような明治見聞録の中に南京に触れたものが少なくない。南京は清末民 初において特別で重要な記号的な存在であった。特別というのは、歴史的感情 の色彩の豊かさを指し、悲哀もあれば歓喜もあったという意味である。重要と いうのは、歴史上におけるシンボリックな位置づけを指し、終わりも意味すれ. 45.

(2) ば始まりも意味するからである。阿片戦争は中国近代史の幕を開き、『南京条 約』によって終わり、中国は半植民地、半封建社会に入った。1912 年 1 月 1 日 に、中華民国臨時政府は南京に成立した。本稿では明治時代の日本人の目から 見た南京、主に交通と商業から構築される都市空間を分析する。. 一、清末の南京の交通:伝統的交通機関の続用と近代的交通機関の勃興 明治見聞録における南京の道は、主に二つが挙げられている。一つは下関(南 京の西北で、揚子江沿岸の港の名であり、また、その区域の名でもある)からの 江寧馬路である。二つ目は同じ下関からの寧省鉄路である。この二つのルート は清末南京の交通の主要な舞台となっている。 江寧馬路に関して、馬路の平坦さと道端の柳がよく書かれている。内藤湖南は 1899 年に南京の下関に着いた。「農商務省の留学生たる平岡杉山二氏の驢に騎し て余を迎えられたるは嬉しかりき。下関より儀鳳門を入り張之洞が甲午乙末の役 劉坤一の留守をあずかりし際に修築せる馬路を行くこと我が二里に近かるべしか くて総督衙門に近き科巷の東本願寺学堂に抵り、暫らくここに宿りを求めぬ。こ の馬路は砥平にして、細柳路を夾さみ樹間僅かに二三尺皆根より三尺ばかりの處 より枝を生じたれば、時は已に孟冬に属し、枝葉蕭疎を免れざるも若し春初卉木 萌生の期にも際したらんには定めて煙るが若き嫩緑、行人の馬を驕らしむるなら んと想いやられたり。巡路工夫は日々修理と掃除とに怠らざれば、ここ丈は上海 などに似て、我帝都にも増したるべく見えたり」。1 東亜同文書院第九期生の「江 寧武昌班」は 1911 年に下関に着いた。「松島君が馬車に荷物を積んで、荷物に陪 乗して南京城内賓来館へ出発する。《中略》僕らは徒歩で出発す。下関から南京 に通ずる並木道は実に宜い。柳の緑に鳥が遊ぶ。全く『文明の緑門』だと思う」。 2. 内藤は驢に乗って江寧馬路を通り、東亜同文書院第九期生たちは徒歩で馬路を. 通った。1899 年に内藤が見た「根より三尺ばかりの處より枝を生じた」小木は、 十二年後の 1911 年に、第九期生たちの目に入った「並木道」「文明の緑門」にな った。江寧馬路は「揚子江の岸辺から始まり、下関を通って、儀鳳門から城には いる。旧石道の筋に沿って、鼓楼に至る。鶏籠山の麓を回って、総督衙門前を通 って、とうとう駐屯城の傍にある通済門に至る」。この馬路の修築は 1895 年か ら張之洞によって始められた。「1895 年(清光緒二十一年)6 月張之洞はまた下 関の岸辺から碑亭巷までの江寧馬路の修築に着手した。上海租界の馬車道路の技. 46.

(3) 術標準に参考し、道幅は 6 ないし 9 メートルで、両江総督(今長江路 292 号)を 中心に、東南は通済門の駐屯城の傍に至る。西北は碑亭巷を通り、鼓楼を経て儀 鳳門を出て下関の河辺に至り、南京城内の南北を貫いた幹線道路になった」。3 江 寧馬路の南京城内各地とつながる各支線は 1901 年に相次いで完成し、「いずれ の道も人力車と軽馬車が通れる」。4 下関から南京城内に入る道として、江寧馬路のほかに、1907 年に修築し始め、 翌年完工した寧省鉄路はもう一つの選択肢になった。『南洋官報』の「光緒三十 三年一〇一冊路鉱郵電」によると、「工程司に軌道線路を定められた金陵城内の 鉄路工事は十月二十日に始まった。この鉄路は下関から儀鳳門の東の金川門を 経て城内に入り、《中略》全長約十五、六里(里:中国の市制の長さの単位、1 里は 500 メートル)ぐらいである」。5 当時、江口・下関・三牌楼・無量庵・督 署・万寿宮の七つの駅を設けた。小林愛雄は 1908 年に、上海から汽車で南京の 下関に着いた。下関からまた「市内列車を半時ばかりで降りると、馬車が待って 居た」。6 小林の目的地は総督府であるので、駅は督署駅のはずである。小林の 記録に基づくと、当時下関駅から督署駅までの運行時間が一時間ぐらいである ことがわかる。勝田主計は 1909 年に南京の下関に到着した。「南京の船附は下 関という所で津浦鉄道の南の起点浦口と向え合せになって居る南京の市街まで は約二里半強もあって此間に南京市街鉄道というが敷設されて居る此鉄路は延 長七哩計で広軌式で極めてあっさりと出来て居って乗り心地がよい」7 と、「南 京雑観」の始めに書いている。寧省鉄道は運行最初の時期には乗り心地がよい 交通機関であることがわかる。 小林愛雄は南京の鉄道の踏切をも記した。「途の踏切の處へ出ると、其處には 大きな門があって、『眼見火車、往来人等、車馬勿過』8 と大書してある」。9 こ の大書された注意書きは、清末南京の各交通機関の要素を含めているだけでな く、馬、驢馬、人力が代表する伝統的交通機関は鉄道が代表する近代的交通方式 に道を譲るべきという意味も含めているであろう。. 二、清末の南京の商業:市井百態の舞台. 外貿易. 城内の商店街と近代的対. 下関開港. 明治見聞録において清末の南京の経済的状況も詳しく述べられている。南京 市内の商業地域と商売の百態だけでなく、下関の開港貿易と輸出入貨物の種類、. 47.

(4) 貿易額、関税なども記されている。 南京の開港貿易について、村木正憲は『清韓紀行』において「輸入ハ上海若ク ハ鎮江ヲ経由ス其重モナルモノハ綿布、綿糸、阿片、石油、砂糖等ナリ輸出ノ重 モナルモノハ綢緞、天鵞絨、薬材、皮革、羊毛、鴨毛、麦、胡麻等ナリ」10 と輸 出入貨物を紹介し、また、「南京ノ海関収入ハ僅々五萬六千六百五拾三両なり」 11 と海関の収入額を記した。1900. 年に記した数字であるが、どの期間の収入額. かはよくわからない。ただ「僅々」という言い方から南京の海関収入の少なさが わかる。勝田主計は南京の下関港の船舶の出入と貿易額、また貿易赤字の状況 を記した。「南京は開港の一であって千九百八年の統計によると船舶の出入が 約五百二十萬噸位で輸出入貨物の価格が約千五十萬両になって居る内常に輸入 勝の所で約六百九十萬両の輸入に対して輸出は約三百五十万両位である要する に南京は寧ろ消費地で毛皮類とか絹織物とか多少の生産物もあるが著しいもの はないらしい極り旧都であると両江総督の駐在する所とで持って居る位であろ う」12 と、輸出入貨物の種類が豊富ではないこと、貿易は常に赤字であることな どを述べている。しかし、港として下関港の景観は悪くなかったらしい。小林愛 雄の 1908 年の記録によると、「船は漸く南京の港に着く。港外から見た金陵の 様は、独逸の旅館英吉利の商館など、たちならぶ洋館のいかめしさ、城内の支那 街とは全く面目を異にして居る」。13 下関港の辺りに洋館が立ち並び、城内の街 並みと違うことを述べている。 城内の商業区画と商売の百態も明治見聞録に記述されている。南京城内で最 も繁華な街が何回も言及されている。内藤湖南は「農商務、三井の留学生達に伴 われて、南京の最盛市街たる三山街あたりを観たり」14 した。勝田主計は十年 後、「夕景に市街商業の中心たる三山街附近秦淮天神橋等をドライブ」15 してい る。二人の記述には十年の時差があるが、少なくともこの間の三山街は南京で 一番繁盛した商業街であることがわかる。三山街の商業の繁盛は 1928 年の地 価からみてもわかる。「城南は都市の商業中心地として、商店が密集し、且つそ の種類・数量が多くて、その地域の地価も最も高い。三山街の地価は 1928 年に は既に 1 平方丈 16 あたり 200 元(大洋 17)に達した。それはほかの地域より遥 かに高かった」。181910 年の佐藤善治郎の見聞録に「水西門」が繁盛している 様子が書かれている。「腕車に乗り、水西門を入る。此辺は南京繁華の中心に て、大廈両側に聳え、肩摩轂撃の有様である」。19 一年後の東亜同文書院第九期. 48.

(5) 生の記述には、「水西門附近を調査して一人前の商人になったような気になっ て居る」と書いてある。水西門は内秦淮河と外秦淮河が合流する所であり、門外 には港が設置され、城外からの商人がここに集まっていた。「城の西南角なる賽 虹橋を渡て北に向かえば、西水関にて秦淮水は城濠に合し、波穏かにして舟船 往来、往時繁華の名残を留めたり」20 と、1899 年に内藤湖南が述べていた。そ の後十数年、伝統的な商業の繁華街は一層発展したのであろう。 商店名は商業文化の重要な表現だけでなく、市井文化の表現でもある。1910 年に、佐藤善治郎は人力車で下関から中正街(現在南京の白下路)にある日本総 領事館に行く。途中の鼓楼から、道の両側に立ててある看板に注目して記した。 「士官行臺=官吏の假の宿の義。上等旅館の義を有す。多くは旅館の対側に煉 瓦壁を作り大文字にて記す。整容=理髪処 時計屋. 照相或麗珠照相=写真屋. 劉字號=劉屋とういが如し。公司、局=会社. 不二價=懸直なし 西洋風の靴. 書閣=芸者屋(本屋にあらず). 頭等=一等. 君子自重=小便無用. 小便池=共同便所. 鍾表=. 洋行=外人の商店 車站=停車場. 銭荘=両替屋. 真. 学士靴=. 押、當=質屋. 閑人莫進=無用の者入るべからず」。21 この記述を読め. ば、清末の南京の商家の看板と注意喚起のための看板がわかる。中日の看板の 違いを紹介しただけでなく、「整容」「書閣」のような言葉は現代中国では違う 意味に使っているため、中国語の意味変化を知るにも有意義な資料になる。 下関開港後の貿易状況、南京城内の商業区画と商業中心地である商店街、ま た商家の看板などを記述し、清末南京の経済地理学的略図が描けている。. 三、結 論 清末に中日両国は 1871 年に『日清修好条規』を、また 1895 年の中日甲午戦 争後『馬関条約』を結んだ。日本官民は多種の目的を持って中国に渡った。その 遊歴のコースは多く、また見聞きの方法も多様で各社会階層に渡っていた。明 治時代の日本は軍事力が強くなる一方であるのに対して、清末の中国は列強の 侵略で衰えていくばかりであった。そのような情勢の下で、日本官民の中国に 対する認識も絶えずに変化していた。中国に対する認識とその変化は明治中国 見聞録によく現れている。その中の南京に関する文章を分析すると、当時日本 人の見た清末の南京の全体像が見えてきた。清末の南京の交通では、伝統的交 通機関が多く続用されていたが、近代的な交通機関に適応するために、馬路を. 49.

(6) 建設し、城内鉄道も敷いて汽車も利用されるようになった。商業については、下 関開港後、南京の商業は市井商売に留まらず、輸出入貿易も行われるようにな った。貿易額はまだ低く、赤字も著しかったが、近代的なビジネスは南京に拘っ て来た。城内の商業は主に三山街と水西門が繁盛していた。見聞録に記された 商家の看板は清末の南京の商店街を可視化したようである。清末の南京は形勝 地と六朝の情趣が依然としていたが、経済と都市建設における衰退が明らかで あった。清末の南京像を研究するには、明治見聞録は重要かつ有意義な資料で あり、更に深く詳しく解読するべきである。 注: 1. 内藤虎次郎:『支那漫遊 燕山楚水』,小島晋治監修:『幕末明治中国見聞録集成』 (第四巻),(東京)ゆまに書房 1997 年版,第 221-222 頁。 2. 東亜同文書院第九期生:『東亜同文書院大旅行誌 5 孤帆双蹄』,(東京)雄松堂出 版 2006 年版,第 178 頁。 3. 孫建国:『南京通商港開港の経緯』,『档案と建設』1999 年第 8 号,第8頁。 4. 南京市地方志編纂委員会事務室翻刻:『首都志』(下),(南京)南京古旧書店、南 京市地方志編纂部 1985 年版,第 844-855 頁。 5. 南京市地方志編纂委員会事務室翻刻:『首都志』(下),(南京)南京古旧書店、南 京市地方志編纂部 1985 年版,第 851 頁。 6. 小林愛雄:『支那印象記』,小島晋治監修:『幕末明治中国見聞録集成』(第六巻), (東京)ゆまに書房 1997 年版,第 277 頁。 7. 勝田主計:『清韓漫遊余瀝』,『明治北方調査探検記集成』(第 11 巻),(東京)ゆ まに書房 1989 年版,第 394 頁。 8. 『眼見火車、往来人等、車馬勿過』:『目に火車を見る、往来の人等、車馬は過ぎる なかれ』。「火車」は中国語では「汽車」の意味を表す。 9. 小林愛雄:『支那印象記』,小島晋治監修:『幕末明治中国見聞録集成』(第六巻), (東京)ゆまに書房 1997 年版,第 290 頁。 10. 村木正憲:『清韓紀行』,小島晋治監修:『幕末明治中国見聞録集成』(第五巻), (東京)ゆまに書房 1997 年版,第 152 頁。 11. 村木正憲:『清韓紀行』,小島晋治監修:『幕末明治中国見聞録集成』(第五巻), (東京)ゆまに書房 1997 年版,第 156 頁。 12. 勝田主計:『清韓漫遊余瀝』,『明治北方調査探検記集成』(第 11 巻),(東京)ゆ まに書房 1989 年版,第 394-395 頁。 13. 小林愛雄:『支那印象記』,小島晋治監修:『幕末明治中国見聞録集成』(第六巻), (東京)ゆまに書房 1997 年版,第 326 頁。 14. 内藤虎次郎:『支那漫遊 燕山楚水』,小島晋治監修:『幕末明治中国見聞録集成』 (第四巻),(東京)ゆまに書房 1997 年版,第 223 頁。 15. 勝田主計:『清韓漫遊余瀝』,『明治北方調査探検記集成』(第 11 巻),(東京)ゆ まに書房 1989 年版,第 398 頁。 16. 丈:中国の市制の長さの単位。1 丈は約 3.3 メートル。1 平方丈は約 11.11 平方メー トルである。. 50.

(7) 17. 大洋:清末と中華民国前期において流通した一元銀貨の通称。 18. 王乾、徐昀、宋伟轩:《南京城市商业空间结构变迁研究》,《现代城市研究》2012 年 第 6 期,第 84 页。 19. 佐藤善治郎:『南清紀行』,小島晋治監修:『幕末明治中国見聞録集成』(第十八巻), (東京)ゆまに書房 1997 年版,第 139 頁。 20. 内藤虎次郎:『支那漫遊 燕山楚水』,小島晋治監修:『幕末明治中国見聞録集成』 (第四巻),(東京)ゆまに書房 1997 年版,第 227 頁。 21. 佐藤善治郎:『南清紀行』,小島晋治監修:『幕末明治中国見聞録集成』(第十八巻), (東京)ゆまに書房 1997 年版,第 112-114 頁。(2016 年度中国江蘇省社会科学基 金項目「日本近代文学における南京像の研究」(16WWB007)の助成金による). 51.

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