Title
生活協同組合の新たな理論的課題
Author(s)
小林, 甫
Citation
沖縄大学地域研究所年報 = The Institute of Regional Study,
The University of Okinawa Annual Report(5): 91-100
Issue Date
1994-03-25
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/9902
生活協同組合の新たな理論的課題
1
.
はじめに1
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年代以降生協運動は質的転化期に入ったとい われている。それまで生協の主要な事業展開として あった共同購入事業の伸長率に陰りが見え始めたの である。そして、その伸長率は、その後低下を続け、9
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年度はそれ以前の過去1
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年間で最低となり1
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%
であった〈図1
参照)。このような事態に対して、 日本の生協連は庖舗重視の方針を打ち出して、新し い生協運動を模索しているロ 図1
.庖舗と共同購入の伸び率推移 回 ( % )共同購入
出所:朝日新聞1
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年2
月1日付朝刊小 林 甫
そのような状況の中で、9
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年1
月には、r
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世紀 を展望する生協の9
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年代構想J
(第1
次案〉が報告 された。そこでは、9
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年代の生協運動が掲げるべき 理念として「人間らしい豊かな暮らしの創造」をあ げ、そこから生協事業を生活の領域全体に拡大する ことによって、現在の生協全般の伸び悩み状況を突 破しようとしている。また運動としても、c
o
-
o
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商 品の見直しゃ、班活動の改善などが方針として打ち 出され、自己実現欲求を充足する成熟化社会型生協 運動への体質改善が目指されている。(1) さらに、9
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年1
月には、第6
次全国中期計画(
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-
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年度)案が出され、 「全国各地でスーパーマー ケットチェーンを構築し、共同購入をしのぐ主力業 態としていくための基礎を築く」としたoそしてさ らに、都道府県単位でしか認可されない生協が単独 で、大手スーパーに対抗してチェーン化するには限 界があるため、生協の枠を超えて商品の調達や管理 などにあたる「事業連合」を積極的に進めることも 呼びかけている。 (2) 沖縄においても、コープおきなわが、9
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年の通常 総代会において庖舗展開の本格的展開を決め、9
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年 度に那覇市に1
号点を出底し、9
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年までに6
庖舗を 展開する予定である。さらに、9
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年以降に衣料部門 も含む大型庖の構想も明らかにしている。{引そし て、そのためにも、9
3
年1
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月に厚生省の設立認可を 受けた「コープ九州事業連合」に加わった。r
コー プ九州事業連合」は、これまで各生協が個別に実施 していた商品開発や仕入れを共同で行うことによっ て、価格値下げなど規模のメリットを生かしていこ うとしている。また、庖舗経営についても各生協に ノウハウを提供することになっている。 (4) -91ーこのような状況の下で、大手流通資本に対抗しう る今日の発展段階に見合った生活協同組合理論の構 築が現在求められている。【引そこで、次に、これ までの生活協同組合理論を検討し、そこでの問題点 を解明し、今後の生活協同組合の理論的課題を提起
し
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こい。2
.
近藤理論批判の登場 従来、協同組合論において、近藤康男氏の「商業 利潤節約・排除」説は大きなウエートを占めていた。 周知のように、それは、協同組合を、商人利潤を排 除するため、総資本が自己の利益のために自律的に 総出する産物であると見なすものであった白 石見尚氏によれば、近藤理論批判は1
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年代終わ りから7
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年代初めにかけて登場してきたとされる。 その代表的なものは三輪昌男氏の1
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年に出版され た『協同組合の基礎理論』と黒清一清氏の1
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年に 出版された『協同組合原論』である。これらの登場 は日本が高度経済成長をへて工業化社会として社会 システムが確立し、従来の近藤理論に代表される伝 統的な協同組合理論が適用できなくなったからだと している。三輪氏の著作は、近藤理論が作り出した 図式、すなわち協同組合の本質を商業資本の特殊な 企業形態になぞらえる単純な想定を是正しようとし たものであり、黒清氏の著作は、地域社会で班組織 に結集し共同購入を行う協同組合運動から、いかに して自主管理し経営に参加していくかを追及するも のであったとされるo そして、これらは第二世代の 協同組合論の破綻を意識し、次の第三世代の協同組 合論への準備をするものであったとされる。 ここで石見氏が、世代による協同組合論というタ ームを用いているのは、氏の協同組合論発展の理解 によっている白氏によれば、第一世代の協同組合は、 ユートピア社会主義者が創設した自治的な協同村建 設運動の時代であるo それに対して、第二世代の協 同組合は、我々が今日目にする消費生活協同組合や 農業協同組合である。それらには、ロッチデールの 協同組合原則が共通している。この第二世代の協同 組合は、産業革命とともに軌道にのった工業化社会 への順応型の協同組合組織であり、従って、工業化 社会の行き詰まりが来た1
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年代になると運動の目 標を失って、ヨーロッパの多くの国で衰退したので ある。1
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年代に、それに代わって第三世代の協同 組合が登場した。この協同組合の特徴として、ワー カーズ・コープに見られるように分権型の自主管理 とエコロジ}の特徴を合わせもっている点があげら れている。 以上が石見氏の見解であるが、氏によれば、生協 など第二世代に属する協同組合は、その役割を7
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年 代前半で終えて、その席を第三世代の協同組合に譲 ったことになる。それ故、石見氏には、それ以降の 生活協同組合の理論的展開は見られないことにな る。
(6) 翻って、7
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年代後半になると、7
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年代を通じて急 速に発展した生活協同組合の到達段階と、7
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年代後 半というその時代的特徴を背景として、戸木田嘉久 氏によって、近藤理論に代表される「商業利潤節約」 説の批判がなされることになるo 戸木田氏は、体制変革の内容をなす経済民主主義 との関連で協同組合論の内実を問題とし、近藤理論 に代表される従来の協同組合論は、資本主義下にお ける「協同組合介在の合法則性」の根拠を、社会的 総資本の側の事情・利益にもとめる消極論であり、 それでは、経済民主主義における協同組合の役割の 解明といった積極的課題につながっていかないとし ているo そして、協同組合運動の発展の合法則性を 問う場合、労働運動の発展の合法則性に関する理論 を援用しなければならないとして、生協も革新統一 戦線の一翼を担うことによって、自らの目的を実現 できるとしている。 (7) この戸木田氏の指摘は、労働運動の側からの近藤 理論批判であり、生活協同組合の経済学的分析では なかった。そこで8
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年代にはいると、生協の流通に おけるポジショニングの上向とも関連して、生協の 発展段階に対応した経済学的分析が求められるよう になった。8
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年代に入って、井田喜久治氏は、 「商業利潤節 約」説に立って、生協は商業資本のー形態であるとし、そこから、生協は資本の目的に奉仕し収奪の関 係を再生産することによってのみ、自己目的を追求 することができるのであっ
τ
、生協による収奪の軽 減はそこからの終局的解放などではなく、逆に結局 においてそれが収奪の強化につながっていくのだと いう議論を展開したo ES}井田氏のこの説はいわば 「商業利潤節約」説の行きついた究極の姿であった と言える。 この井田氏の見解に対して松原昭氏が批判を展開 した。松原氏は、井田氏の説は生活協同組合につい ての「資本の論理」であって、それは生協に働く労 働者の立場からのものではないとして批判したロそ して、松原氏は、生協労資の特殊性を、生活協同組 合の労働者階級的性格の内容から、マルクスの概念 を利用して対自的資本・賃労働と規定した。そこで、 従来の流通費や商業利潤の概念による交換価値から のアブローチだけでなく、消費生活内容を把握する 基礎概念としての使用価値の視点を加える生活協同 組合の経済理論を構想しなければならないとし た。 (9) その後、両氏の論文の掲載された生活問題研究所 の機関誌上で、 「現代生活協同組合論」の確立のた めの討究が継続的になされることになった。それら の諸成果を総括する形で、生協運動が質的転換期に さしかかったといってよい8
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年に、川口清史氏によ る「生活協同組合理論の再構成J
が登場した。そこ で、8
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年代後半の生活協同組合論の問題点を析出し、 現代の生活協同組合論を展望するためにも川口氏の 見解を検討する必要がある。そこで、次にそれを見 てみよう白3
.
川口生活協同組合理論の概要 川口氏は、今日求められている生活協同組合の理 論は、既成の理論の演縛的適用ではなく、生活協同 組合の現実の諸活動の総体の分析を前面に出して、 そこから、既成の社会科学を見直すという方法によ るべきだとしているoその方法論の欠落している例 証として、井田氏に見られるような生活協同組合を 商業資本の一種とする「商業利潤節約」説を批判し ながら、流通機構としての生活協同組合の位置づけ が「商業利潤節約」を中心に混迷していることをあ げ、流通・商業を「二重性J
の視点から把握しなけ ればならないとしているo その「二重性J
の視点とは、川口氏によれば、 「社会的歴史的形態」と「素材的側面」からの分析 というこつの視点であるoその場合、 「社会的歴史 的形態」からの視点とは「商業資本」からの視点で ある。他方、 「索材的側面」からの視点とは、 「商 業・広くは流通J
を、マルクス『資本論』に依拠し て「社会的物質代謝を媒介する機能J
と位置づける ことであるロ この「素材的側面」から見るならば、 「生活協同 組合は、消費の側から、つまり人聞の発達や成長の 法則にそって、社会的物質代謝の媒介を遂行すると いうことができる」ということになる。そして、ぞ の視点に立てば、 「現代の日本の生活協同組合は、 利調獲得を動機とする商業資本によってはもはや円 滑な社会的物質代謝の媒介が遂行しえないこととの 対抗で発展している」ことから、生活協同組合は、 「資本主義的生産関係との矛盾との対抗で発展して いるという意味において、それは社会的移行の萌芽 と見るべき」だとしているロ(10) 川口氏は、以上のように、生活協同組合の理論を 資本に対する対抗の論理として把握し、そこから、 経済民主主義の中での生協の位置づけを理論化しよ うとしている。その際、戸木田氏のように生協が統 一戦線の一翼に民主的運動団体として参加すること に意義をもっとするのではなく、川口氏は、生活協 同組合が現実に果たしている経営・事業と組織・組 合員活動というこつの側面を経済民主主義全体の中 でいかに位置づけるかが重要だとしている。(11)そ の理由として、 「経済過程における民主主義の前進、 その担い手の形成が、民主主義的社会主義の基礎条 件となるのであって、移行を問題にする場合には、 とりわけ重要だ」ということをあげている。そして、 協同組合の民主的管理・運営はそれ自体が経済民主 主畿の実践の場であることから、民主的管理・決定 の問題を協同組合的所有との関わりで検討することー
93-が必要になる。 その場合、氏は、マルクスの周知の「資本主義的 株式企業も、協同組合工場と同じに資本主義的生産 様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよい のであって、ただ、一方では対立が消極的に、他方 では積極的に廃止されているだけである」という叙 述を援用し、 「問題は、所有と機能の分離の程度の 違いが、管理や決定における違いとしてどのように 現れるか、という点に見なければならない」として いる。そこから、この問題を次のように解釈する。 「株式会社における所有は、たとえ、機能と切り離 されてはいても、それは利調の取得を目的としたも のであり、その目的を実現するために管理や決定が なされるoその限りでの所有と機能はまだ一致して いる。」それに対して、 「協同組合では、 『一人一 票制』という決定システムは、所有と機能の分離を 極限までおしすすめる」ことになるという解釈であ る ( 1
。
2) この「所有からの分離の徹底」は、 「管理・決定 のシステムの遣い」としでもあらわれる。r
株式会 社では、所有に奉仕する限りで、所有者から機能者 に権限が委ねられる。」ところが、 「協同組合では 『一人一票制』にもとづいて組合員自身から代表が 選ばれ、専門的管理者と集団を形成する」ことにな る。そこで、生協労働と生活協同組合における主体 形成が問題となってくる。 まず、川口氏は、生協労働を広く、 「家事労働と 商業労働の『重層的編成』と理解」し、そこから、 「消費者自身による商業労働の遂行」であると捉え ているo この点を踏まえて、 「社会的分業として生 協労働をみた場合、それは商業・流通機能をになっ ている」とする。その際、運輸・保管・簿記は、 「生活協同組合における労働も、商業資本に包摂さ れた労働にも本質的な遣いはな」いが、 「売買操作 という、いわば純粋の商業労働において、協同組合 における労働と商業資本の下での労働とに」違いが でてくるとする白川口氏によれば、その場合、生活 協同組合は、 「マルクスが『社会的物質代謝の媒介』 と呼んだこの純粋な商業機能を、・・・生産の側から でなく、消費の側から、人聞の再生産の側から遂行 する」ことになるo 以上のように生活協同組合を理論的に再構成し、 そこから生活協同組合における主体形成との関連で、 「生活の社会化」を問題にする。J
I
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口氏は、r
r
生 活の社会化』は、労働の社会化の生活過程での進展J
であるとして、 「労働の社会化は、もともと、家族 内、共同体内での労働が外部化していくことであり、 その意味では、生活の社会化とは労働の社会化であ るJ
.とする。但し、資本主義の下での社会化は個別 化の過程にすぎないのであり、この「個別化による 社会化をこえた、商品を媒介した社会化をこえた、 直接的な人々の結合」という「新しい段階での社会 化」が生活協同組合を支えるものだと結論づけてい る(1。
3) これまで概観してきたように、川口氏の生活協同 組合理論はきわめて包括的であり、それまでの生活 協同組合に関する理論的成果を積極的に統合し、再 構成するものであった。そこで次に、川口生活協同 組合理論の問題点を検討しよう。4
.
J
I
I
日生活協同組合理論の検討 川口氏の生活協同組合理論は、 「社会的歴史的形 態」と「素材的側面」という「二重性J
の視点から 生活協同組合を分析してることであり、その際、特 に「素材的側面」からの分析を重視していることが 特徴であるロそして、生活協同組合を理論的に分析 していく場合、一貫してこの「素材的側面」からの 視点を貫いていることである。 そこでまず、川口氏がr
商業、広くは流通の素材 的視点からの位置づけを、マルクスは、社会的物質 代謝を媒介する機能であると位置づけている」とい う指摘についての是非である。その点に関連したマ ルクスの指摘は、次の通りである。r
商品取引資本 一一それと結びついていることがある保管や発送や 運輸や仕分けや小売りのようなすべての異質的な機 能を取り去って売るための買いというその本来の機 能に限定して見たそれーーは、価値も剰余価値も創 造しないのであり、ただ、価値と剰余価値との実現を媒介し、また同時に諸商品の現実の交換、ある人 の手から他の人の手への商品の移行、社会的物質代 謝を媒介するだけである
J
(14)と述べている ここで、マルクスは、 「商品取引資本」は「ただ、 価値と剰余価値との実現を媒介」するだけだと、産 業資本家の視点から、すなわち「社会的歴史的形態」 の視点から指摘し、そのあと、 「また同時に」とし て、 「社会的物質代謝を媒介するだけである」との べている。この「また同時にJ
という言葉によって、 その前後で「社会的歴史的形態」から「素材的側面J
への叙述の視点が移行じたと解釈されうるのである。 また、マルクスは『資本論』第1
巻の「労働過程」 の分析の箇所で次のように指摘している。'
f
労働過 程はまず第一にどんな特定の社会的形態にもかかわ りなく考察されなければならないJ
と指摘し、 「労 働は、まず第一に人間と自然とのあいだのー形態で ある。この過程で人聞は自分と自然との物質代謝を 自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御する のであるJ
(15)と述べている。ここでのマルタスの 分析の視点は「素材的側面」からのものであり、そ こで用いられている「物質代謝」という用語を勘案 するならば、マルクスが先の引用文で「広く流通」 まで含めていたかは別にして、商業の「素材的側面」 を「社会的物質代謝の媒介」と捉える川口氏の指摘 は首肯しうるものであるo しかし問題は、川口氏が生活協同組合を本質的に 商業資本と同じ機能を担うものと見ている点である。 そこから、氏は、他方で生活協同組合を商業資本の ー形態と見なす見解を批判しながら、 「素材的側面」 からみれば商業資本と同じ「社会的物質代謝の媒介」 機能を「消費の側から、人間の再生産の側から遂行 するJ
と見なすことになる。その視点が生協労働の 把握にも適用され、生協労働を「家事労働と商業労 働の『重層的編成』と理解」し、そこから、 「消費 者自身による商業労働の遂行」であるとしている。 以上の理解に立って、川口氏によれば、 「社会的分 業として生協労働をみた場合、それは商業・流通機 能を担っている」ということになる。このような生 協労働把握は問題を含んでいるロ 労働を「索材的側面」の視点からみれば「協業」 であるが、 「社会的歴史的形態」の視点からみれば、 それは社会的分業の体系として組織される。商業労 働は消費者への販売機能を遂行する業務を担うので あり、鵬買もその目的のために行われる。しかし生 活協同組合は、消費者の自主的組織であり、商品の 購買は、阪売の目的のためではなく、自らの安全で 豊かな消費生活の実現のために行われる。従って、 「売るための買い」という機能を含んではいないの である。また、生協活動も、現在の生協の発展段階 においては、単に事業活動のみに限定されず、組合 員の多様なニーズに対応して文化的活動まで含めて 多面的に展開されるようになっている。生協労働は その多面的活動を担い遂行するのであり、 「商業・ 流通機能を担っている」と規定するだけでは不十分 となづているo それは、組合構成員の福祉と人間的 諸側面の能力を発展させることを目的として遂行さ れる福祉労働の性格を有しているといえるo 次に、川口氏の、 「所有と機能の分離J
における 株式会社と協同組合の相違についての理解の仕方に 見られる問題点を検討しよう白 川口氏は、マルクスに依拠しながら、株式会社と 協同組合の所有と機能の分離の程度の遣いが、管理 ・決定における違いとしてあらわれるとしてるロ株 式会社における所有は機能と切り離されてはいても、 それは利澗獲得を目的としたもので、その目的を実 現するために管理や決定がなされる。その限りでの 所有と機能はまだ一致している。これに対して、川 口氏によれば、協同組合における「一人一票制」と いう決定システムは、所有と機能の分離を極限にま で押し進めることになるとされる。川口氏が、何故 このような理解に達するかといえば、マルクスは、 この「分離」が資本主義的生産様式から次の結合生 産様式への転化の通過点だとしていることに求め、 従って、そこから協同組合がこの「分離J
を極限ま で押し進めれば、結合生産様式へ転化すると考えて いることによるD しかし、この川口氏の理解は肯定できない点を含 んでいるo川口氏も援用しているところであるが、 -95ーマルクスは、 「株式会社では、機能は資本所有から 分離されており、したがってまた、労働も生産手段 と剰余労働との所有からまったく分離されている」 と指摘している。このことは、資本が「結合された 生産者である彼らの所有としての、直接的社会所有 としての所有に、再転化するための必然的な通過 点
J
(16)となっていることを意味する。そして、そ れをもって、 「これは、資本主義的生産様式そのも ののなかでの資本主義的生産様式の廃止であり、し たがってまた自分自身を解消する矛盾であJ
(17)る としながらも、 「しかし、株式という形態への転化 は、それ自身まだ、資本主義的なわくのなかにとら われている」ために、 「社会的な富と私的な富とい う富の性格のあいだの対立を・・・新たな姿でつくり 上げるだけJ
(18)ということになる。それに対して、 「労働者たち自身の協同組合工場は、古い形態のな かでではあるが、古い形態の最初の突破」であり、 「資本と労働との対立はこの協同組合工場のなかで は廃止されているJ
(1引のであるロそれ故に、 「資 本主義的株式企業も、協同組合工場と同じに、資本 主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみ なしてよいのであって、ただ、一方では対立が消極 的に、他方では積極的に廃止されているだけであ るJ
(20)ということになるのである。 以上見たように、マルクスは、株式会社における 所有と機能の分離を資本主義的生産様式の廃止とし ながらも、資本主義的わく内にとらわれているため 対立を新たな姿でつくり上げるため、それを消極的 廃止と位置づけている。それに対して、協同組合工 場では資本と労働め対立が廃止されており、従って、 所有と機能の分離は克服され、所有と機能は一致す ることになるo また、 「労働も生産手段と剰余労働 との所有からまったく分離されている」という状態 も克服されているoそれをもって、マルクスは、協 同組合工場では対立が積極的に廃止されているとし ているのである。そのような意味で、彼は、 「物質 的生産力とそれに対応する社会的生産形態とのある 発展段階では、どのように自然的に一つの生産様式 から新たな生産様式が発展し形成されてくるかとい うJ
(21)例証として協同組合工場をあげているので あるo従って、1
1
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口氏のように、協同組合が「所有 と機能の分離を極限までおしすすめ」れば、新しい 結合生産様式に転化するなどとは考えていないので ある。 この問題は、従来、生活協同組合においては、出 資、利用、運営の三位一体の問題として扱われてき たものである。r.専門的管理者と集団」の形成の問 題も、理論的なレベルの問題として考察するならば、 利用のために組合員が自ら出資して生活協同組合を 運営するなかで、協同組合が発展し、自らの活動を 協同組合専従管理者・従業員に委ねることになるの であり、従って、生活協同組合における労資関係が 形成された場合も、それは対自的資本・賃労働関係 として形成されることになるのであるo {22} 以上、川口氏の生活協同組合理論の問題点を検討 してきたが、これまで指摘してきたような問題点を 川口生活協同組合理論が含むことになった根本の原 因は、1
1
1
口氏が分析の視点として「社会的歴史的形 態J
と「素材的側面」をあげながら、その両者の相 互関係を「二重性」と捉えたことによるo従って、 商業も生協も、流通上で機能する客体的対象として は同一物と観念され、商業としては「社会的歴史的 形態」の視点で分析し、生協としてはそれを「素材 的側面」から分析すればよいということになってし まうのである。生活協同組合理論を経済学的対抗の 論理として「再構成」するためには、 「社会的歴史 的形態」と「素材的側面」の経済学的範鴫である価 値と使用価値の視点からの一貫した分析が必要であ り、その際、価値と使用価値の相互関係を「二重性」 としてではなく、価値と使用価値との矛盾の論理と して、つまり、使用価値が、価値に対して、その価 値がもっ矛盾と限界を克服して、自己を貫徹してい く過程として論理構成しなげればならないのである。5
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むすびにかえて 川口氏の「生活協同組合理論の再構成J
が提起さ れて以降の、8
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年代終わりから9
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年代初めにかけて、 世界協同組合運動はドラスチックな変化を経験した。ソ連・東欧の社会主義陣営は崩壊し、既存の協同組 合組織も壊誠的な打撃を受けた。また、
9
2
年には、 ICA第30回東京大会が開催され、 「変化する世界 における協同組合の基本的価値jが採択され、そし て、9
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年を目途に「協同組合原則」の改定作業が着 手された。このような変化を経験する過程で畳場し た若干の議論を検討し、生活協同組合理論の構築の 手がかりとしたい。 そこでまず、 ICA大会に提案された協同組合の 「基本的価値jに関連して、伊東勇夫氏によって提 起された問題を見てみよう。伊東氏は、協同組合の 「特質」が協同組合の「基本的価値」の土台をなす として、その特質の一つに、使用価値尊重をあげて いるoそのことについて、伊東氏は次のように指摘 している。.
r
歴史的に協同組合は商品の使用価値を 尊重し、物そのもののもつ効用を重視するという理 念をもつことである。」ところが、営利会社の場合 は利潤の最高が企業活動の目標であるoそれに対し て、 「協同組合の場合は、品質本位を旨とし、組合 員のニーズに答えるという形をとり、販売ではなく、 共同時入という形をとり、本質的に組合員と組合の 聞には市場価格はなく、供給という形をとっている。 この点が商業資本と著しく異なる特質といわなけれ ばならないJ
(23)ということである。そして、その ような協同組合の特質から、協同組合の基本的価値 のーっとして「品質本位の価値jをあげ、 「使用価 値を尊重し、品質本位を旨とすることによって、生 活や生産を自衛することJ
(24)としている。 このように、9
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年代初めにかけて、協同組合の基 本的価値を検討する過程で登場した、使用価値の重 視ということと、共同購入による供給という形態を とるため、組合員と組合の聞には、本質的に販売は なく市場価格は存在しないとする伊東氏の理解は、8
0
年代半ばに、川口氏が生協を「素材的側面」から 見て「社会的物質代謝の媒介」を遂行するとしなが ら、商品生産の一般的基礎としての「社会的分業と して生協労働をみた場合、商業・流通機能を担って いる」とした理解よりも、生協の理解としてははる かに本質を捉えた優れた理解である。 ところで、 ICA大会で、基本的価値を議論し、 協同組合原則の改定に着手した時期は、ソ連・東欧 の崩壊を目の当たりにした時期でもあった。大内力 氏は「原則」を「原理」によって実現するという視 点にたって、ソ連・東欧の崩壊も考慮にいれて次の ような議論を展開したo これまで、協同的原理、市場経済原理、計画経済 原理の三つの原理が存在したが、市場経済原理が失 敗しただけでなく、ソ連型社会主義経済の中央集権 ・指令型計画経済も破綻した。そこで、協同的原理 の復活と、それが有効に機能して人々が経済社会の 主人公になりうるような社会機構の確立が求められ ているのである。ところで、計画経済原理というか らには、そこでは何等かの協同が、すなわちできる 限り多くの構成員の自発的参加、共同の意志形成お よび計画運用に対する自主的な協力が不可欠の要因 となるo この協同的原理を強化するといった場合、 計画経済原理には構成員の協同に基づく計画化が当 然に含まれることから、それは計画経済原理を排除 するものではない。但し、それはソ連型の天下り的 ・強制的計画化ではなく、まず部分社会における構 成員の自発的協力による下からの計画化を次第に重 ねつつ範囲を拡大していくことによっておこなわれ るような計画化である。計画化がそのように部分社 会から出発するため、市場経済原理も残ることにな るo ただ、それは一方で共同体聞の協同によって、 また他方では、民主主義の徹底を前提とした園、地 方自治体等の権力体の政策によって制御され誘導さ れる市場経済としてのこるのである。 (25) 先の、伊東氏の協同組合におげる使用価値視点の 重視と、この大内氏の協同的原理の捉え方の視点は、 生活協同組合理論を考えていく上で示唆を与えてい ると思われる。そこで、提起されてきた視点を考慮 にいれて生活協同組合理論に関わるいくつかの点を 考察したい。 この協同化と計画化の問題について、先の松原昭 氏は、 『資本論』における「協業」との関連におい て、次のように指摘している。 まず、松原氏は、協同組合の本質理解として協業 -97ー概念の再検討の必要をあげ、マルクスの
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∞,p
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概念を、協同化と翻訳しなおし、それを基礎 に協同組合理論を構築すべきだとしているo但し、 氏によれば、その協同化概念には社会的生産関係が 捨象されていることの確認が重要だとしている。そ して、 「同じ生産過程で、または同じではないが関 連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画 的に一緒に協力して労働するという労働の形態を、 協業というJ
(26)というマルクスの『資本論』の指 摘を引用し、 「マルクスにとっては、協業=協同化 が労働の形態として把握されており、多くの人々が 計画的に一緒に協力して労働する形態こそが協同化 の本質J
(27)だと確認しているo そして、そこから、 協同組合一般の本質は、労働者の自主的な協同化労 働組織だと特徴づけている。 ここで確認されていることは、マルクスの1
∞-p
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概念において、協同化と計画化が措定さ れると同時に、そこでは社会的生産関係が捨象され ているということであるci先の川口氏の用語でいえ ば「素材的側面J
からの概念規定だということであ る白このことは、先に川口氏の問題点を指摘したと ころで述べたことに関していえば、 「協業」を考察 する場合も、使用価値と価値の矛盾の発現の論理展 開として、資本主義社会における「素材的側面jと して「協同化」を措定し、次に「社会的歴史的形態」 として「分業J
を考察し、そこで使用価値的側面か らの展開としての「協同化」が自己を貫く過程とし てこれを見なければならないということを意味して いる。つまり、協同化と計画化といった場合、そこ には使用価値がすでに措定されているということで ある。すなわち、使用価値側面に関連する協同化・ 計画化が価値側面に関連する分業の矛盾を克服し自 己を顕現していくのである。 従って松原氏は、協同組合においては、資本の一 般的定式G - WーGではなく、商品流通の定式,W -G-Wを経済学的考察として重視されるのである。 ここでの交換は、使用価値を目的になされるからで ある。但し、氏は、商品流通を生活協同組合理論と して展開していく場合、 「貨幣による商品の購買は、 その購買した商品を消費し使用することが目的であ るので、この購買活動は非営利活動であって、その ためにあらかじめその貨幣を取得するためには自ら の所有する商品を販売しなければならない」として、 貨幣を取得するために販売しなければならない生活 協同組合構成員の所有している商品を労働力として、 「労働組合がWーGの過程を」遂行するとしている。 それに対して、その貨幣で商品を購買するG-Wの 過程を生活協同組合が遂行することになるとしてい る。 (28) 生田靖氏は、この松原氏の提起したG-Wの過程 を労働力の再生産の過程として把握しようとして、 かつて、 A-G-W-Aという定式で捉えようとし たことがある。この場合、 A =協同組合員の労働力 を販売し、 G =貨幣を取得し、それで協同組合を利 用しで生活必需品= W
を隣人し、自分達の労働力の 再生産=生活を維持していくという過程を意味して いる。 (29) 但し、生田氏においては、 「商業利潤節約」説の 立場にたって、協同組合を商業資本と同ーの機能を 果たすものと捉えていたために、この定式から使用 価値視点に立って論理を展開していくことがなかっ たo 現在求められている生活協同組合理論は、使用価 値視点に立ってそこを出発点として以上指摘したよ うな方向で論理を展開していくことが求められてい るo そして、もう一つの視点は、マルクスが「資本 主義的生産様式から生まれる工場がなければ協同組 合工場は発展できなかったであろうし、また同じ生 産様式から生まれる信用制度がなくてもやはり発展 できなかったであろう。信用制度は、資本主義的個 人企業がだんだん資本主義的株式会社に転化して行 くための主要な基礎をなしているのであるが、多か れ少なかれ国民的な規模で協同組合企業がだんだん 拡張されて行くための手段をも提供するのであるJ
印刷と述べている指摘を重視することである。マル クスの意を汲むなら、このことは、今日の資本主義 的発展段階において、流通過程で大手流通資本に対 抗し、生協の新しい発展段階を築くためには、資本主義的最先端の技術を「索材的側面」として生協も 取入れ、事業活動の展開に生かして行かなければな らないことを意味しているoなぜなら、資本主義的 大手流通資本との対立の中に生活協同組合はおかれ ているため、そのことなしには成功することができ ないからであるo そして、それが価値に対して使用 価値が勝利し、自己を貫徹するということの現実の 運動の姿であるo
[付記]
本研究は、公益信託宇流麻学術研究助成基金から助 成金の交付を受け、協同組合の共同研究をおこなっ てきた成果の一部であるD ここに記して、感謝の意 を表したいー但し、本論文は筆者個人の責任におい てなされたものであり、内容についてもその責めは 筆者にある。(注)
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朝日新聞、1
9
9
0
年1
月3
0
日、朝刊。(
2
)
向上紙、1
9
9
3
年2
月1
目、朝刊。(
3
)
琉球新報、1
9
9
3
年5
月2
8
日、朝刊。(
4
)
向上紙、1
9
9
3
年1
0
月1
3
日、朝刊。(
5
)
1
9
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5
年が共同購入の伸びに陰りが見え、生協 運動にとって重大な転換点となったことを筆者 は、かつて拙論「生協運動の現状と課題」、 『流通戦略の新展開』所収、早稲田大学産業経 営研究所、1
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8
7
年7
月、の中で指摘した。 また、向上拙論で、野村秀和・生田靖・川口 清史編『転換期の生活協同組合』、大月書底、1
9
8
6
年、に見られる次のような見解を批判した。 それは、今日の生協の発展の到達段階を外延的 発展と内包的発展の相互関連から把握し、外延 的に量的な発展を遂げてきた生協が質的転換を むかえ、今後は内包的発展を目指すことによっ て、消費者の組織化から消費の組織化への転換 を図り、それによって一人当り利用高を増やし ていくというような見解は、消費者の全面的な ニーズに応え、大手流通独占資本と全面的に対 決していく発展段階に到達した時期の生活協同 組合の理論としては不十分であることである。 (6) 石見尚『第三世代の協同組合論』、論創社、1
9
8
8
年1
0
月。 (7) 戸木田嘉久「経済民主主義と協同組合運動」、 坂寄俊雄編『生活協同組合と現代社会』所収、 法律文化社、1
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7
8
年1
1
月。 (8) 井田喜久治「生活協同組合の本質と任務」、 『商品流通と生協経営'jN
o
.
7
3
、生活問題研究 所、1
9
8
2
年1
月。 (9) 松原昭「生活協同組合の経済理論j、 『商品 流通と生協経営JN
O
.
8
4
、生活問題研究所、1
9
8
2
年1
2
月ロ(
1
0
)
川口清史「生活協同組合理論の再構成(1)J
、 『生活協同組合研究.oN
o
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l
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0
、生活問題研究 所、1
9
8
5
年2
月。(
1
1
)
この生活協同組合が、革新統一戦線の一翼を 担いうるか否かという問題については、川口氏 は前掲書、野村秀和・生田靖・川口清史編『転 換期の生活協同組合』の申で、次のように述べ ている。r
生活協同組合はその組織的性格やか かげる要求課題から、広い意味での民主主義陣 営に属するといえるo とはいえ、そのことから 生活協同組合が組織全体として、たとえば、革 新統一戦線の一翼を担いうるかといえばそうは ならないであろう。なぜなら、・・・生協の大衆 運動はつねに事業活動を基盤にしたものであり、 プリミティプな要求をプリミティプな方法で組 んでいく。高度な政治的課題での恒常的組織に 組織全体として参加することは考えられない。」 (同書、p
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2
8
8
)
これに対して、二宮厚美氏は、山田達夫・二 宮厚美編『生協運動の新時代』所収の「現代民 主主義と生協」の中で、 「ここで生協が革新統 一戦線の一翼をになうことにならない理由にあ げられた点は、やや論旨に明快さを欠き、また その論点も革新統一戦線への参加に制約を課す 必要条件ではあっても十分条件にはならないの ではないかという疑問を禁じえないJ
(同書、 P.7
5
)
と指摘しているロ -99ー(1