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野外教育研究への示唆 スポーツ哲学の観点から①

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Academic year: 2021

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69 54 険なはずはないと思います。密閉された室内 よりは、確実に野外活動の方が安全です 。 <岡田> 室内だとエアコンがよくないという話があ りますがこれについてはいかがですか? <三浦> エアコンは換気しないタイプが多いので、 密閉空間になります。また、乾燥するのでウ イルス粒子が小さくなってエアゾルとなって いつまでも空気中に漂って、下に落ちること もないので、危険だと思います。 <築山> ありがとうございました。最後に、星野理 事長から総括をいただきたいと思います。よ ろしくお願いいたします。 <星野> 代表しまして、参加された皆さんありがと うございました。それからのオンライン研究 会の開催をしていただきました実行委員会の 皆様、ありがとうございました。総括という ことなのですが率直な感想を2つ述べてみた いと思います。一つは野外教育の実践現場を 持つ人たちの対応力の高さに驚かされました。 大学からの突然の中止命令だとか社会状況の 変化だとかをお客さんからの要望だとか、あ らゆる状況に対して対応策をその都度考えら れて実践されたというのはすごいなと思って 感心させられました。マイナスをプラスに変 える志に感心しましたし、対応策やアイデア が満載だなと思いまして、皆さんすごいなと 思いました。もう一つは、分科会のほうで、 民間のところに参加したのですが、この危機 的な状況にあっても、毅然として対応してい るところに覚悟のようなものを感じました。 これもすごいなと思ってみておりました。三 浦先生からも専門的医学的科学的な話を聞か せて頂きましてありがとうございます。野外 でどう対応すべきかたくさん情報を頂きまし て参考になりました。今日は本当にそれぞれ の専門の立場から多くの実践の模様を学ぶこ とができました。大変勉強になりました。学 会理事会を代表いたしまして厚く皆さんに感 謝申し上げたいと思います。ありがとうござ いました。 <築山> 星野理事長ありがとうございました 。これ で企画委員会シンポジウムを終わります。 69 岡山大学大学院教育学研究科 【スポーツ哲学の紹介】 はじめにスポーツ哲学に関連する学会をご 紹介します。「スポーツ哲学」「体育哲学」「体 育原理」などの言葉は聞き覚えがあるかと思 いますが、一般的にはこの3 つの言葉がある 程度同じような意味合いで使われていると思 います。国内の関連学会としては、日本体育 学会体育哲学専門領域(旧:体育原理)、およ び日本体育・スポーツ哲学会という2 つの学 会があります。 体育哲学や体育原理の設立の背景ですが、 元 々 はア メ リカ の Principles of Physical Education(PPE)をモデルに始まったと言 われています。ただし、日本の場合はアメリ カの PPE とは異なる形で発展をしてきまし た。PPE は体育・スポーツ科学の研究成果を 実践に役立てていくための、いわば技術的な 領域だったと言われており、そこには哲学的 な位置づけは特に与えられていませんでした。 ですが日本に入ってきた後に、科学の成果を 体育実践に役立てるという方向ではなくて、 体育の本質を問うという方向へと議論が拡大 していきました。そのため、この領域は体育 原理から始まり、体育哲学、さらにはスポー ツ哲学も内包する形で発展してきたことにな ります。このような形で、元々の設立の背景 にあるアメリカの PPE とは発展の経緯が異 なっているという点が特徴的です。 次にスポーツ哲学と呼ばれる分野の研究課 題について説明したいと思います。ここでは、 佐藤臣彦先生(筑波大学名誉教授)が 1993 年にまとめられた論文を参考にしながら話を させて頂きます。体育・スポーツ哲学や体育 原理と呼ばれる分野の研究課題は、大きく分 けて2 点あると言われています。1 点目は、 体育やスポーツを対象とする「原理論の構築」 です。これは簡単に言うと「体育とは何か?」、 「スポーツとは何か?」という問いかけに当 たります。2 点目は、体育・スポーツに対す る「現状批判・現状分析」です。これについ ては、体育・スポーツに関する理論の現状、 要は研究の動向や様々な言説に対する批判や 分析、および実際の世の中で起きている体 育・スポーツ事象そのものに対する批判や分 析も研究課題になってきます。このように、 原理論の構築と現状批判・現状分析、これが 哲学と呼ばれる領域の課題であると佐藤先生 は定義づけています。 ただし、これに加えて次のような点も指摘 されることがあります。それは、体育・スポ ーツ諸科学と実践を取り結ぶ新たな体育原理 を哲学が先導して取り組まなければならない という指摘です。つまり、先に述べたような アメリカの PPE の役割を担うことも期待さ れており、体育・スポーツ科学の体系化への 要望が哲学領域に求められているというわけ です。 ここまでの話をまとめますと、体育・スポ ーツ哲学の研究課題や学問的な役割とは、① 本質の究明を目指す原理論の構築、②現状批 日本野外教育学会 第3回研究集会報告

野外教育研究への示唆 スポーツ哲学の観点から①

髙橋 徹

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判と現状分析、③学問の統合化や体系化に向 けた知見の導出になります。おおよそ、この 3 点のいずれかに該当するような研究が、学 会員によって進められてきていると思います。 【哲学とは何か?】 ここからは、そもそも哲学とは何かという ことについて考えてみたいと思います。はじ めにスポーツ哲学領域の久保正秋先生(東海 大学名誉教授)の考えを参考にしながら、哲 学 に つ い て 紹 介 し ま す 。 ま ず 、 哲 学 (philosophia)というのは、愛する(philein) という言葉と、智恵(sophia)という言葉が 組み合わされてできた言葉とされます。智恵 とは単なる学校で習うような知識だけでなく、 物事の本質を見極め究明するという意味を含 んだ言葉です。したがって、物事の本質を究 明することを愛することが哲学であると言わ れています。 このことを前提とした上で、久保先生は哲 学について具体的に次のように説明していま す。教育に携わる人の多くは「どのように? =How to」を問うています。どうやって教え るか、どうやって上達させるか、例えば今の 時期だったら、スキーをどうやって上手に子 どもたちに教えるかなど、「どのように?どう やって?」ということを問うているのです。 これは、有用性の原理(=役に立つことは良 いという原則)に基づいて、行動の方法や手 順を考えているということを意味しています。 教育に携わる人の多くは、そういう思考法に なっているというわけです。 しかし一方で、哲学的な思考というのは少 し異なります。それは、「何か?= What」を 問うことです。教えるとは何か、上達という のはそもそもどういうことか、ということを 考えることです。これを久保先生は哲学的思 考と表現しています。しかし、あまり実践の 役には立たないものかもしれないとも述べて います。 哲学についての説明としてもう一つ、教育 哲学の苫野一徳先生(熊本大学准教授)によ る説明も分かりやすいのでご紹介します。苫 野先生によれば、哲学とは様々な物事のそも そも、あるいは本質を考え抜く営みであり、 その上で、それにまつわる問題を解き明かし ていくものであるとされます。もちろん、あ る物事に対する絶対の正解がいきなり出てく るわけではなく、多くの異論が出る可能性も あります。しかし、哲学の大事な仕事はこう した本質的な問いに対して、できるだけ共通 了解可能な答えを、まずはテーブルの上にお いて多くの人の吟味にさらすことにあります。 その上で、議論や会話を通してブラッシュア ップしていくことが大事になります。苫野先 生はこのように、絶対の正解はないかもしれ ないけど、できるだけ共通了解可能な答えを 導き出そうとすること、そしてそれについて みんなで議論していくこと、これが哲学であ ると言っています。 ここまでのお二人の考え方をもとに野外教 育の立場で考えてみると、野外教育の「野外 ってそもそも何なのか?」「自然とは何だろ う?」「体験とは何だろう?」という問いをま ずは立ててみて、それに対して多くの人と共 通了解できる答え、なるべくみんなが納得で きる答えを獲得しようとする営みが、野外教 育における哲学的思考と言えると思います。 久保先生と苫野先生は表現こそ少し異なって いますが、本質を問いながら議論を通して共 通了解できる答えを導き出していくこと、そ れを哲学と言っているのだと思います。 【スポーツ哲学分野における研究動向】 次は、スポーツ哲学分野における研究テー マの傾向についてご説明します。傾向をご紹 介するにあたり、過去の学会誌なども振り返 って見てみたのですが、基本的には皆さんが マイブームで研究を行っていると言って良い かと思います。これは以前、学会の先輩の先

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71 70 判と現状分析、③学問の統合化や体系化に向 けた知見の導出になります。おおよそ、この 3 点のいずれかに該当するような研究が、学 会員によって進められてきていると思います。 【哲学とは何か?】 ここからは、そもそも哲学とは何かという ことについて考えてみたいと思います。はじ めにスポーツ哲学領域の久保正秋先生(東海 大学名誉教授)の考えを参考にしながら、哲 学 に つ い て 紹 介 し ま す 。 ま ず 、 哲 学 (philosophia)というのは、愛する(philein) という言葉と、智恵(sophia)という言葉が 組み合わされてできた言葉とされます。智恵 とは単なる学校で習うような知識だけでなく、 物事の本質を見極め究明するという意味を含 んだ言葉です。したがって、物事の本質を究 明することを愛することが哲学であると言わ れています。 このことを前提とした上で、久保先生は哲 学について具体的に次のように説明していま す。教育に携わる人の多くは「どのように? =How to」を問うています。どうやって教え るか、どうやって上達させるか、例えば今の 時期だったら、スキーをどうやって上手に子 どもたちに教えるかなど、「どのように?どう やって?」ということを問うているのです。 これは、有用性の原理(=役に立つことは良 いという原則)に基づいて、行動の方法や手 順を考えているということを意味しています。 教育に携わる人の多くは、そういう思考法に なっているというわけです。 しかし一方で、哲学的な思考というのは少 し異なります。それは、「何か?= What」を 問うことです。教えるとは何か、上達という のはそもそもどういうことか、ということを 考えることです。これを久保先生は哲学的思 考と表現しています。しかし、あまり実践の 役には立たないものかもしれないとも述べて います。 哲学についての説明としてもう一つ、教育 哲学の苫野一徳先生(熊本大学准教授)によ る説明も分かりやすいのでご紹介します。苫 野先生によれば、哲学とは様々な物事のそも そも、あるいは本質を考え抜く営みであり、 その上で、それにまつわる問題を解き明かし ていくものであるとされます。もちろん、あ る物事に対する絶対の正解がいきなり出てく るわけではなく、多くの異論が出る可能性も あります。しかし、哲学の大事な仕事はこう した本質的な問いに対して、できるだけ共通 了解可能な答えを、まずはテーブルの上にお いて多くの人の吟味にさらすことにあります。 その上で、議論や会話を通してブラッシュア ップしていくことが大事になります。苫野先 生はこのように、絶対の正解はないかもしれ ないけど、できるだけ共通了解可能な答えを 導き出そうとすること、そしてそれについて みんなで議論していくこと、これが哲学であ ると言っています。 ここまでのお二人の考え方をもとに野外教 育の立場で考えてみると、野外教育の「野外 ってそもそも何なのか?」「自然とは何だろ う?」「体験とは何だろう?」という問いをま ずは立ててみて、それに対して多くの人と共 通了解できる答え、なるべくみんなが納得で きる答えを獲得しようとする営みが、野外教 育における哲学的思考と言えると思います。 久保先生と苫野先生は表現こそ少し異なって いますが、本質を問いながら議論を通して共 通了解できる答えを導き出していくこと、そ れを哲学と言っているのだと思います。 【スポーツ哲学分野における研究動向】 次は、スポーツ哲学分野における研究テー マの傾向についてご説明します。傾向をご紹 介するにあたり、過去の学会誌なども振り返 って見てみたのですが、基本的には皆さんが マイブームで研究を行っていると言って良い かと思います。これは以前、学会の先輩の先 71 生と懇親会の席で話をした際にも同じような 話になったので、私の認識は間違っていない かなと思っています。ただし大きな括りで見 ていきますと、若干の傾向というのが分かっ てきました。例えば、身体や心身問題、現象 学などは以前より継続的に取り上げられてい るテーマです。一方で近年増えてきたテーマ としては、体罰、暴力、あるいはドーピング などの倫理問題があります。特に、大阪市立 桜宮高校バスケットボール部の一件が起こっ て以降は、こちらの議論が増えてきていると 思います。 続いてスポーツ哲学分野の研究方法につい てです。これはあくまでも私が考えている方 法なので、他の先生に聞いた場合は違うよと 言われてしまう可能性があることを了解した 上でお聞き下さい。まず1 つ目は、特定の人 物が著した理論に焦点を当てて、それを体 育・スポーツの視点から読み解くという研究 です。例えば、カント、ヘーゲル、デカルト、 フッサール、メルロ=ポンティなどの理論を 解読して、体育・スポーツの視点から読み解 くというものです。特に、フッサール、メル ロ=ポンティなどは、これまでにも多くの人 が取り上げてきました。2 つ目は、ある特定 のテーマや問いに対して、特定の人物に偏ら ずに理論構築していく研究です。大学院生や 比較的若い研究者は、1 つ目の研究を進める ことが多いかなと感じています。それはおそ らく、指導教員の先生が特定の人物の理論を しっかりと院生時代に学ばせるという方針も 影響していると思います。次第に幅広く様々 な議論を包括的に捉えられるようになってか ら、2 つ目の方向の理論研究を進めていくと いう流れがあるようにも思います。もちろん、 1 つ目と 2 つ目は明確に区別できるものでは ないので、この分類によってこれまでの研究 の全てが整理できるわけではないこともご承 知おき下さい。 スポーツ哲学分野の具体的な研究の手順と しては、他の分野も基本的には同様だと思い ますが、まずは問いの設定が重要になります。 何に問題、関心を抱いているのかという問い の設定、それに関する過去の理論の読解、そ して考察・分析した内容をわかりやすく表現 すること。このように問いの設定、読解、考 察・分析、表現、これらを通じてできるだけ 共通了解可能な答えを導き出せているのかど うか、これが哲学の分野では問われているの だと思います。例えば、査読の際にカントを テーマにした論文が投稿されたとして、カン トの理論を査読者にあたる学会員の全員が 100%把握していることは難しいと思うので、 多少その理論に疎い人に対しても、なぜその 問いを立てたのか、どうやって考察したのか を、しっかりわかりやすく表現するという力 も問われていると思います。「問いの設定」、 「読解」、「考察・分析」、「表現」という4 つ の要素をしっかりと押さえている論文、だけ どそれは絶対的な答えではなくて、ある一定 の共通了解可能な答えを導き出すということ、 これが研究の方向というか議論の方法になっ ていると思います。 研究動向とは関係がありませんが、私自身 が興味を持っている研究についても簡単にご 紹介します。今まで自分がどのような研究を してきたのかについては、最近まで言葉で上 手に表現できなかったのですが、同僚の先生 から「体育についての学びの研究をやってい るよね」という言葉をもらって以来、その表 現がしっくりときています。研究を進める上 での問いとしては1つ目として、「体育での学 びとは何なのか?体育では何を学ぶのか?」 ということを考えています。次に、「なぜ体育 で学ぶ必要があるのか?」ということが2 つ 目の問いです。そして 3 つ目は、「体育での 学びはどのようにして生まれているのか?」 という問いです。おおよそこの3 つの問いに ついて、これまで研究をしてきました。また、 これに加えて、私自身はスポーツ哲学という

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よりは体育原理という立場にもこだわりたい と思っていて、最近は体育・スポーツ科学の 動向とか、その現状に対しての分析にも興味 があり、研究を進めています。 それでは、ここまで紹介したスポーツ哲学 分野の研究動向や、私自身の研究に関わる問 いを野外教育に接近させながら、後半のお話 を進めていきたいと思います。 【野外教育への4つの問い】 野外教育への問いということで、皆さんと 一緒に考えてみたいことの1つ目が、「野外教 育における学びの内容は時代の変化とともに 変化するものなのか?あるいは普遍的なもの はあるのか?」についてです。次に2つ目は、 「他の教育活動と比べた時に野外教育の特徴 や意義がどういうところにあるのか?」につ いてです。例えば、学校教育だと国語・算数・ 理科・社会などの教科がありますが、それら と野外教育を比べた時にどのような特徴があ るのか?野外教育を専門としている先生方は どのように考えているのか?という点に興味 があります。 なお、野外教育への問いを立てるにあたっ て、まずは私自身が考える野外教育の魅力に ついてもお話しておきます。野外教育の魅力 の1つ目として、やや大きく提言をしてみる と、野外教育の場が学校で学ぶあらゆる教科 の要素を包括するような、あるいは特定の教 科に偏ることのないような別の世界観を描け る場になっていることが挙げられると思いま す。少し極端な表現をしてみますと、今の子 どもたちは教科によって分割された世界観、 いわゆる学校の世界観の中で学んでいて、そ の世界の中でその世界を学ぶことが当たり前 になっています。勉強が国語・算数・理科・ 社会のテストで良い点を取ること、なるべく 100 点を目指すことという世界観が当たり前 になっている中で、それとは異なる学びの可 能性、もっと広い学びの可能性というのが野 外教育の場には存在しているのではないかと 思います。本来、学びというのは学校の勉強 に限られたものではないはずなのです。これ は学術的な論拠もない私のイメージでの話で すが、そのような学びの可能性が野外教育の 中にはあるのではないかと感じています。 現在の学校の世界観は普遍的なものではな く、恣意的に意図的に人間が勝手に作り上げ たものです。例えば日本の場合ですと、約150 年前の明治時代から学校の世界観が作り上げ られてきたわけですが、それより前の時代の 人は学ぶということに対して全く違った考え 方を持っていた可能性もあります。そのよう に考えると、現代人が持つ学びへのイメージ というのは、歴史上の一時的なものである可 能性もあるなと感じています。野外教育では、 学校の世界観で作り上げられた空間とは異な る空間で学べること。学校のテストで良い点 を取ることはもちろん良いことですけど、そ れだけが人間にとっての学びや成長ではない ということ。そのような点を、体験的に学べ るという魅力が野外教育にはあるのではない かと私は考えています。 私が考える野外教育の魅力の2つ目として、 教える側がコントロールできない、コントロ ールしきれない学びの機会の豊富さがあると 感じています。もちろん教育なので、まずは 目標を設定し、その目標に向かって子どもや 学生を導いていくことを我々は目指すのです が、自分が計画していたことと全く違った部 分での子どもたちの成長や学びも担保されて いる気がしています。予想外、計画外の出来 事も容認されていて、学校や教室では輝けな い子が野外の活動を行うと輝いたりすること があるのは、そのような成長に対する寛容さ が良い方向に影響していることもあるかなと 思っています。 さて、話を戻しまして、野外教育への問い の3つ目です。「教育内容のプログラミング化、 つまり内容をしっかりと組み立てていくこと

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73 72 よりは体育原理という立場にもこだわりたい と思っていて、最近は体育・スポーツ科学の 動向とか、その現状に対しての分析にも興味 があり、研究を進めています。 それでは、ここまで紹介したスポーツ哲学 分野の研究動向や、私自身の研究に関わる問 いを野外教育に接近させながら、後半のお話 を進めていきたいと思います。 【野外教育への4つの問い】 野外教育への問いということで、皆さんと 一緒に考えてみたいことの1つ目が、「野外教 育における学びの内容は時代の変化とともに 変化するものなのか?あるいは普遍的なもの はあるのか?」についてです。次に2つ目は、 「他の教育活動と比べた時に野外教育の特徴 や意義がどういうところにあるのか?」につ いてです。例えば、学校教育だと国語・算数・ 理科・社会などの教科がありますが、それら と野外教育を比べた時にどのような特徴があ るのか?野外教育を専門としている先生方は どのように考えているのか?という点に興味 があります。 なお、野外教育への問いを立てるにあたっ て、まずは私自身が考える野外教育の魅力に ついてもお話しておきます。野外教育の魅力 の1つ目として、やや大きく提言をしてみる と、野外教育の場が学校で学ぶあらゆる教科 の要素を包括するような、あるいは特定の教 科に偏ることのないような別の世界観を描け る場になっていることが挙げられると思いま す。少し極端な表現をしてみますと、今の子 どもたちは教科によって分割された世界観、 いわゆる学校の世界観の中で学んでいて、そ の世界の中でその世界を学ぶことが当たり前 になっています。勉強が国語・算数・理科・ 社会のテストで良い点を取ること、なるべく 100 点を目指すことという世界観が当たり前 になっている中で、それとは異なる学びの可 能性、もっと広い学びの可能性というのが野 外教育の場には存在しているのではないかと 思います。本来、学びというのは学校の勉強 に限られたものではないはずなのです。これ は学術的な論拠もない私のイメージでの話で すが、そのような学びの可能性が野外教育の 中にはあるのではないかと感じています。 現在の学校の世界観は普遍的なものではな く、恣意的に意図的に人間が勝手に作り上げ たものです。例えば日本の場合ですと、約150 年前の明治時代から学校の世界観が作り上げ られてきたわけですが、それより前の時代の 人は学ぶということに対して全く違った考え 方を持っていた可能性もあります。そのよう に考えると、現代人が持つ学びへのイメージ というのは、歴史上の一時的なものである可 能性もあるなと感じています。野外教育では、 学校の世界観で作り上げられた空間とは異な る空間で学べること。学校のテストで良い点 を取ることはもちろん良いことですけど、そ れだけが人間にとっての学びや成長ではない ということ。そのような点を、体験的に学べ るという魅力が野外教育にはあるのではない かと私は考えています。 私が考える野外教育の魅力の2つ目として、 教える側がコントロールできない、コントロ ールしきれない学びの機会の豊富さがあると 感じています。もちろん教育なので、まずは 目標を設定し、その目標に向かって子どもや 学生を導いていくことを我々は目指すのです が、自分が計画していたことと全く違った部 分での子どもたちの成長や学びも担保されて いる気がしています。予想外、計画外の出来 事も容認されていて、学校や教室では輝けな い子が野外の活動を行うと輝いたりすること があるのは、そのような成長に対する寛容さ が良い方向に影響していることもあるかなと 思っています。 さて、話を戻しまして、野外教育への問い の3つ目です。「教育内容のプログラミング化、 つまり内容をしっかりと組み立てていくこと 73 についてどのように捉えているのか?」とい う点に興味があります。一般的に教育という のは、過程(プロセス)と結果がともに不確 定な活動なので、教える側は確実性を求めて しまいがちです。したがって、教える側は活 動をプログラミング化して、なるべくその不 確実な要素を取り除くという作業をします。 しかし、学校の制度的な完成、要は学校の教 育内容がしっかりとプログラミング化された 1960 年代、1970 年代頃から教育の病理現象 とされる「学びからの逃避」として、いじめ や不登校、学級崩壊などの現象が噴出してき ました。つまり、確実性や標準化を追求し続 ける背後には、その世界になじめずに脱却す るものの存在が浮かび上がります。もしも野 外教育のプログラミング化が今まで以上に進 んだとき、野外教育からの脱却という現象が 起こる可能性についても気になっています。 次が最後の問いとして4つ目の問いになり ます。「活動が上手にいくことが教育の成功な のか?別の表現をすれば、活動が上手くいく ことがよい学びなのか?」ということにも興 味があります。一例として、これは私自身の 体験にもなるのですが、大学の新入生の親睦 を深めることを目的にした自然体験プログラ ムとして、春先に少年自然の家への引率を行 いました。そこでハイキングをしたり昼食を 作ったりという活動を行ったのですが、昼食 のカレーを作った際に指導にあたって頂いた 自然の家の先生からは、役割分担をしっかり として効率よくおいしいカレーを作る活動を 指導して頂きました。しかし、別の見方をす れば、「A:役割分担をしっかりとして効率よ くおいしいカレーを作る活動」とは異なる活 動として、「B:みんなで試行錯誤しながら、 一応食べられるカレーらしきものを作るとい う活動」も有り得たかなと思います。もちろ ん、普通に考えればA の方が良いように思い ますが、学びという観点から考えてみた場合 には、B を選択しても新入生にとっては貴重 な学びの機会になったのではないかと考える こともできます。A のようにみんなでおいし いカレーを作る活動を通して、「協力してカレ ーを作って、おいしくカレーが食べられて良 かったね」という体験を通した学びはもちろ んですが、「あの時色々失敗しちゃったね、あ たふたしてなんとか食べられるカレーを作っ たよね」という体験を通した学びの意義もあ るような気がしていて、A と B 両方の学びの 意義が考えられるのではないかと思っていま す。この辺りについても野外教育を専門とす る先生方とお話をしてみたいなと思います。 【野外教育での学びはどのようにして生まれ るのか?】 私自身は先ほどご紹介した通り、体育の授 業の中での学びがどのようにして生まれるの かを研究テーマにしています。体育という授 業の空間には、「主体」である子どものほかに、 「自己」と「他者」と「もの」と「こと」と いう要素が存在しています。少し詳しく説明 すると、この「自己」というのは自分自身の ことです。授業の場面において、主体である 自分はその空間の中にいるけども、その自分 自身との対話の対象としての「自己」を意味 しています。次は「他者」ですが、友達や先 生、その他誰でも良いですが周囲の人間が必 ずそこにいることを意味しています。そして 「もの」は、体育の授業の場合は教材や教具 ですが、自然環境も「もの」として括ること ができるかもしれません。最後に「こと」と は、授業のシチュエーションやルールなどを 意味しています。つまり、授業の中では主体 である子どもは常に「自己」「他者」「もの」 「こと」との相互作用を絶え間なく繰り返し ていくことになりますし、おそらく野外教育 の実践場面でも同様のことが起こっていると 思います。そして、この相互作用を省みるこ とで人は学んでいく、つまりそれが成長へと 繋がっていると考えています。

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この相互作用の話は、昨年度の学会大会で 発表した内容(デューイの教育論的視座から の野外教育の再評価)とも重なっているので すが、おそらくJ.デューイ自身はこの 2 つの プロセス、つまり直接的な相互作用と、その 後の相互作用を省みるというプロセスを合わ せて、経験という1 つの言葉で括っていると 思います。これに関係して、事前に頂いた土 方先生(明治大学)からの質問を読んでいて 全くその通りだなと思ったのですが、日本語 では自分自身で省みる前の言語的な思考の介 入が無い部分を「体験」と呼び、省みること で学ぶことを「経験」と表現しているのでは な い か と 考 え ら れ ま す 。 英 語 に す る と 「experience」の一語にまとめられてしまう けれども、日本語では意味合いに違いがある なと感じています。 もう少しだけこの話を進めますと、教える 側、つまり教師や指導者の側ができることは、 この「他者」「もの」「こと」を準備するとこ ろまでかなと思っています。「こと」を準備す るとは、例えば体育の授業で縄跳びの授業を 行ったときに、縄跳びの回数を沢山跳ぶこと を良いとするシチュエーションとして設定す るか、沢山の種類の跳び方を開発することを 良いとするシチュエーションにするか、友達 と一緒に協力しながらできない子に教えてあ げることを良いとするシチュエーションにす るかによって、「こと」というその空間を支配 しているルールは変わってくると思います。 また、本来の意味とは違うのですが、こと わざの「馬を水辺に連れていくことはできて も、水を飲ませることはできない」という言 葉が教育の場面には当てはまると思っていま す。つまり、教える側が意図してあれこれ準 備したとしても、そこで何と相互作用し(体 験し)、どのようなことを省みるか(経験する か)というのは、結局のところ主体自身にあ る程度任されていると解釈することができる のです。つまり、そこに教育という営みの 1 つの限界点があるかなと思っています。逆に この体験までをもコントロールしようとする と、おそらく体験の本来の良さや豊かさがな くなってしまうのではないかと感じています。 この辺の話を整理したり、教育にも限界点が あるということを認めて教育活動を行うこと も必要かもしれません。そのようなことも少 し考えています。 【野外教育の発展について】 最後の話題として、学会の肥大化に伴う問 題の噴出についても考えてみたいと思います。 野外教育学会が今後どのように発展していく かは分からないですが、参考までに関連学会 として日本体育学会の動向をご紹介します。 日本体育学会は今年(2021 年)の 4 月か ら名称が変わり、日本体育・スポーツ・健康 学会になります。名称変更の背景には、研究 対象、研究目的、研究方法のいずれもが多様 化してしまったことが挙げられています。つ まり、教育の範疇である体育あるいは体育学 という名辞では、学会の全体像をカバーしき れなくなってきたことが第一の理由のようで す。この名称変更について私自身が懸念して いることは、HP に公開されている趣意書に 書かれているように、名称及び目的は不断に 省察され続けなければならないという点です。 つまり、学会の名称や目的は、今後もずっと 考え直し続けなければならないとされている のです。少し疑問に思うことは、では誰が考 えるのか?ということです。学会が発展して いった先に、誰かが考えてくれるのか、誰が 考えていく必要があるのか、ということを真 剣に考えなければならないなと感じています。 この問題を考えるにあたり参考になる論考 を発表した人物として、スペインの哲学者で あるオルテガ・イ・ガセットがいます。『大衆 の反逆』という本の著者として有名ですが、 この本の中でオルテガは科学の発展の背後に 必然的に起こる問題を提起していますので、

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75 74 この相互作用の話は、昨年度の学会大会で 発表した内容(デューイの教育論的視座から の野外教育の再評価)とも重なっているので すが、おそらくJ.デューイ自身はこの 2 つの プロセス、つまり直接的な相互作用と、その 後の相互作用を省みるというプロセスを合わ せて、経験という1 つの言葉で括っていると 思います。これに関係して、事前に頂いた土 方先生(明治大学)からの質問を読んでいて 全くその通りだなと思ったのですが、日本語 では自分自身で省みる前の言語的な思考の介 入が無い部分を「体験」と呼び、省みること で学ぶことを「経験」と表現しているのでは な い か と 考 え ら れ ま す 。 英 語 に す る と 「experience」の一語にまとめられてしまう けれども、日本語では意味合いに違いがある なと感じています。 もう少しだけこの話を進めますと、教える 側、つまり教師や指導者の側ができることは、 この「他者」「もの」「こと」を準備するとこ ろまでかなと思っています。「こと」を準備す るとは、例えば体育の授業で縄跳びの授業を 行ったときに、縄跳びの回数を沢山跳ぶこと を良いとするシチュエーションとして設定す るか、沢山の種類の跳び方を開発することを 良いとするシチュエーションにするか、友達 と一緒に協力しながらできない子に教えてあ げることを良いとするシチュエーションにす るかによって、「こと」というその空間を支配 しているルールは変わってくると思います。 また、本来の意味とは違うのですが、こと わざの「馬を水辺に連れていくことはできて も、水を飲ませることはできない」という言 葉が教育の場面には当てはまると思っていま す。つまり、教える側が意図してあれこれ準 備したとしても、そこで何と相互作用し(体 験し)、どのようなことを省みるか(経験する か)というのは、結局のところ主体自身にあ る程度任されていると解釈することができる のです。つまり、そこに教育という営みの 1 つの限界点があるかなと思っています。逆に この体験までをもコントロールしようとする と、おそらく体験の本来の良さや豊かさがな くなってしまうのではないかと感じています。 この辺の話を整理したり、教育にも限界点が あるということを認めて教育活動を行うこと も必要かもしれません。そのようなことも少 し考えています。 【野外教育の発展について】 最後の話題として、学会の肥大化に伴う問 題の噴出についても考えてみたいと思います。 野外教育学会が今後どのように発展していく かは分からないですが、参考までに関連学会 として日本体育学会の動向をご紹介します。 日本体育学会は今年(2021 年)の 4 月か ら名称が変わり、日本体育・スポーツ・健康 学会になります。名称変更の背景には、研究 対象、研究目的、研究方法のいずれもが多様 化してしまったことが挙げられています。つ まり、教育の範疇である体育あるいは体育学 という名辞では、学会の全体像をカバーしき れなくなってきたことが第一の理由のようで す。この名称変更について私自身が懸念して いることは、HP に公開されている趣意書に 書かれているように、名称及び目的は不断に 省察され続けなければならないという点です。 つまり、学会の名称や目的は、今後もずっと 考え直し続けなければならないとされている のです。少し疑問に思うことは、では誰が考 えるのか?ということです。学会が発展して いった先に、誰かが考えてくれるのか、誰が 考えていく必要があるのか、ということを真 剣に考えなければならないなと感じています。 この問題を考えるにあたり参考になる論考 を発表した人物として、スペインの哲学者で あるオルテガ・イ・ガセットがいます。『大衆 の反逆』という本の著者として有名ですが、 この本の中でオルテガは科学の発展の背後に 必然的に起こる問題を提起していますので、 75 それを簡単にご紹介します。オルテガは科学 の発展によって、現代には総合的な教養を失 った科学者が誕生していると述べています。 ここでいう現代というのは 1930 年当時(オ ルテガが生きていた当時)の現代です。科学 の進歩のためには科学者が専門化すること、 要は研究領域を狭めることが必要になります。 そして研究の領域を狭めなければならなかっ たがために、科学者は科学の他の部門との接 触を失うとされます。つまり、哲学であれば 哲学の方向を突き詰めて行き、バイオメカニ クスであればらバイオメカニクスの方向に行 き、この状況が進むことで全体的な解釈がで きないような科学者が誕生してしまうのです。 このように科学の専門化によって、科学者は 総合的な教養を失ってしまっているのだとオ ルテガは言っています。 また、オルテガはここから更に話を進めて、 でも科学というのはそもそもそういう仕組み だから仕方がないということも言っています。 どういうことかというと、科学者が実験室に 閉じこもって自分の狭い視野の中だけで新し い事実を発見したとしても、それが結果とし ては科学者自身がほとんど知りもしない科学 全体を進歩させることに繋がるというのです。 私たちは科学の全体像を把握せずとも、自分 の興味に応じて目の前の研究対象に関する研 究をしているのですが、これが結果として、 知らず知らずのうちに科学全体を発展させる ことに繋がっているということです。そして オルテガは、科学が持つそのような特徴によ って「無知な知者」と彼が表現するような、 特定の分野については詳しく知っているけれ ど全体像は知らないという「無知な知者」を 誕生させてしまったと述べています。 私はオルテガが述べている科学と科学者を 自分自身に置き換えてみたときに、研究者と して考えなければならない事柄が見えてくる と思っています。例えば、体育学の発展のた めには、研究者1 人ひとりが専門化する必要 がありましたが、それは結果として他の部門 との接触の機会を失うことになりました。体 育学の研究者が各々の目の前の研究課題を解 明することで体育学は発展してきているけれ ども、実は体育学の全体像が把握しきれなく なっている可能性があります。オルテガの表 現をすれば、私たちのほとんどが「無知な知 者」になってしまっている可能性があるとい うことです。 また、次代の再編を担う研究者が果たして 存在し得るのかについても、個人的には若干 の不安を覚えています。体育学の全体像の把 握は難しくなる一方で、体育学の発展のため には専門化の傾向を止めることはできません。 体育学の世界に総合的な見方ができる教養人 としての研究者がいなくなってしまったとし たら、将来的に新たな体系を作り出すことが できなくなってしまう可能性があるというこ とを危惧しています。そのため、これからの 研究者には、自分自身が取り組んでいる目の 前の研究課題と同時に、学会や学問の全体像、 体育学会だったら体育学、野外教育学会だっ たら野外教育の全体像を把握していくという 努力が求められるのかもしれないなと考えて います。 最後の問いかけです。オルテガが示したよ うに学問は発展しようとすればするほど細分 化していく、つまり研究方法を厳密に組み立 てたりとか、研究対象を細かく絞ったりとい う細分化をしていくことが求められます。こ れに関して野外教育は現在どういう状況なの でしょうか、野外教育に携わる先生方は研究 の細分化に対してどのような考えをお持ちな のでしょうか。体育と野外教育との関係も含 めて、そのようなところもお話をしてみたい なと考えています。 文 献 久保正秋(2019)巻頭エッセイ いま、体育 教師に求められる哲学的思考.体育科教育,

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67(11):9. オルテガ:寺田和夫訳(2002)大衆の反逆. 中央公論新社. 佐藤臣彦(1993)体育哲学の可能性―形式的 および内容的アプローチ―.体育原理研究, 24:67‐72. 苫野一徳(2019)ほんとうの道徳.トランス ビュー.

参照

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