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図書館というトポス(2)

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Academic year: 2021

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図書館というトポス(⚒)

清 水

Library as Topos: A Sociology of Knowledge (2)

SHIMIZU Manabu

神戸女学院大学 文学部 総合文化学科 教授 連絡先:清水 学 [email protected]

(2)

図書館は知の集積所として、分類と秩序の象徴でありながら、人類の文明史に一定の位置を占めて きた。そこにはさまざまな知識の、その物質的形態である書物の、収集・保存・管理・分類・配列・ 展示・利用というそれぞれの機能が、各時代・地域に応じて託されてきた。 もちろん制度としての図書館をめぐる文化史や知性史の研究は少なくない。本稿で扱うのはそのよ うな制度史でなく、むしろひとつの「社会的表象」としての〈図書館〉のありようである。ひとがそ の社会あるいは日常を「図書館」のように整序し秩序化するとき、そこで実際におこなわれているの はなにかという知識社会学的問いが焦点となる。 この課題に接近するため、実在する図書館空間のみならず、「図書館小説」という想像的空間が利 用される。文学社会学の手法によって「図書館小説」を読むことで、図書館についての社会的イメー ジが読み解かれる。イメージとしての図書館もまた、いうまでもなくひとつの制度であり、建造物で ある。それは世界のなかに場所を占める。しかしその空間は、秩序と混沌の異種混淆的な本質をあき らかにするものだろう。この過程を経て提起されるのは、日常的表象である「ユートピア」としての 図書館から、「ヘテロトピア」としての図書館への視点の転換である。(本稿はその後半部となる) キーワード:図書館、文学社会学、社会秩序、組織化(整理)、ヘテロトピア Abstract

Library has been a locus for human civilization, physically or ideally: a representation of <knowledge> and <order>. This paper proposes “library as topos” from the perspective of Sociology of Knowledge. The social imagery of library may be represented in fictional libraries as well as in real architectures. We shall see some of the “library fiction,” namely fictional works that make some reference to libraries. Procedures in Sociology of Literature may be useful in this respect. We will depict “Social Imagery of Library” as Heterotopic (as M. Foucault used) rather than Utopic.

This is the second part of the article following the first part in the previous issue. This part consists of (3) The Logic of Labyrinth and (4) In This Librarizing World.

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(承前)

⚓ 混沌としての秩序、あるいは迷宮の論理

文学の長い歴史のなかで〈図書館〉は、秩序や合理性の隠喩として機能してきた。正当にも こう指摘しながら、ラドフォードは続ける。「利用者はふつう、必要とするテクストや情報が 図書館で手に入ると確信している。しかし、テクストの所在をあきらかにするため越えねばな らない曲がりくねった道程を前に、怖れと不安の感覚が引き起こされるだろう」1)。ここにい たってわれわれは、史上もっとも有名な空想の図書館に接近する許可を得る。いうまでもな く、ボルヘスの綺想によって生みだされた短篇のなかのそれである。 みられたような、まさに「天国」としての図書館や書店が存在する一方で、この作家の提示 するイマージュは、「天国」がもしかするとその対極にあるものの別名でもありうることを示 している。「バベル」とよばれるこの建造物を訪問するかぎり、楽園を図書館のように想像す ると口にした作家の思い描いていた空間は、われわれが単純に想像するそれからほど遠い姿で 造形されていたことを思い知らされるのである2) 神話上の塔と同じ名でよばれる図書館は、無数の書架と閲覧室、それらをつなぐ無数の回廊 から構成され、書架に収められているのはすべて同じ大きさ、同じ頁数、同じレイアウトであ るがまったく同じ内容のものは二冊とない、ありとあらゆる可能性を汲み尽くした書物たちで ある。「宇宙」とも形容されるこの建造物には、上下の階をつなぐ螺旋階段はもちろん、寝室 や手洗まで常備されていてあたかもひとつの住居のようである。じっさい司書とよばれる住人 たちは、そのなかに生まれそしてそこで一生を終える。 (他の者たちは図書館と呼んでいるが)宇宙は、真ん中に大きな換気孔があり、きわめて 低い手すりで囲まれた、不定数の、おそらく無限数の六角形の回廊で成り立っている。ど の六角形からも、それこそ際限なく、上の階と下の階が眺められる。回廊の配置は変化が ない。一辺につき長い本棚が五段で、計二十段。それらが二辺をのぞいたすべてを埋めて いる。その高さは各階のそれであり、図書館員の通常の背丈をわずかに超えている。棚の ない辺のひとつが狭いホールに通じ、このホールは、最初の回廊にそっくりなべつの回廊 や、すべての回廊に通じている。 このイマージュは、多くの読者の想像力を刺激しつづけてきた。不可思議な建造物の図像化 やヴァーチャル体験を提供する試みはウェブ上にもあふれ、その喚起力の強さを物語ってい る。もちろん創作に携わるものにおいてはなおさらで、洋の東西を問わず、多数のオマージュ のかたちでその反響が谺している。試みに一節を引用するなら、山尾悠子の幻想小説「遠近法」 のなかで、この図書館=宇宙は「腸詰宇宙」として再構成される3) 《腸詰宇宙》(とその世界の住人は呼んでいる)は、基底と頂上の存在しない円筒形の塔の 内部に存在している。その中央部は空洞になっており、空洞を囲む内壁には無数の環状の

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回廊がある。回廊は一定の間隔を置いて、円筒の内部に無限に存在する。どの層の回廊も 完全に一致した構造を持っており、この秩序は、塔の上下いずれの方向にむかって仔細に 検討していっても、変化することはない。 ジュリオ・ロマーノによるトロンプ・ルイユの天井画にも擬される、この世界にもとうぜん 多数の住人がすまわりこの世ならぬ綺想が繰り広げられるのだが、いまはその詳細を追いかけ ていく余裕はない。いずれにせよ「バベル」のイマージュに魅せられたものたちは、そこに何 らかの秩序だった〈宇宙〉を感じとらざるをえないのだ。 問題なのは、この宇宙=秩序の性格である。どうみてもこの無限の、無際限の秩序は、およ そその対極として映る。たしかにボルヘスの「図書館」は、その詳細な描写にもみられるよう に、一方で〈秩序〉の具現化であった。しかしそれは、まさしくそうであるがゆえに、究極の 〈混沌〉を指し示しているようにもみえる。というより、そこに描きだされているのは秩序と 表裏一体の混沌なのではないか。 たとえば1998年に開催された展覧会に寄せて、中村敬治はこう語っている。「世界のモデル としての図書館、あるいは世界を図書館として描いている」この小説においては、「整然とし てはいるが、決して出口を見つけることのできない、迷宮的な、非合理的な建築」としての図 書館が存在し、その「万巻の書を集めた、世界としての図書館という発想は、世界のすべてが 書き込まれた唯一冊の本というイメージと表裏であろう」と4) 図書館が、選択し排除するための装置なら、そしてそれが分類することの意味であるなら、 この世のすべての書物と知識を内蔵する空間、その無限性はカオスでしかない。ひとつの究極 のナンセンス、ボルヘスそのひとやルイス・キャロルによって言及されていた「原寸大の地図」 が想起されよう。宇宙そのものと寸分違わず合致する「図書館」は、不条理という以上に無意 味ではないか。自分の頭に宇宙が生まれ、最後にはそこに身を投げてしまう男のシュールな顛 末を描いた古典落語「頭山」の映像化で知られる山村浩二が、ボルヘスの図書館と同題のアニ メーションのなかに同様の知的遊戯を表現していたことが想起される5) このようにバベルの図書館がそのじつ、およそ秩序と正反対のものを意味しうることを指摘 するものは多い。「なにしろ、バベルの図書館は、あらゆる知の可能性を蔵している空間なの である。それは、もはや理解不可能な知の集合であって、すべてを有機的に関連づけることな どできはしない。ここでは、知の統一を体現する有機的関連としての系統樹のイメージは、と うに破産してしまっている」。こう述べる原克は、それがむしろ「過剰な知の集積の隠喩」と して、人間に「不可能性」をつきつける存在であり「⼦整理のゆきとどいた完ぺきな図書館⼧ などではありえない」と主張するのである6)。この世にすでに書かれているありとあらゆる蓋 然性の網羅は、情報論的には無である。そしてそこには、この私の人生の成り行きも、そのこ とを指摘するこの文章も、あるいはバベルの図書館について書かれたボルヘスの書物ですら、 知識としてすでに書き記され保管されているというのである。 そうした〈宇宙〉をさまようのは「司書」たちである。ボルヘスの図書館で、司書は巡礼と して描かれる。「図書館のすべての人間とおなじように、わたしも若いころよく旅行をした。

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おそらくカタログ類のカタログにある、一冊の本を求めて遍歴をした」と述懐されている。混 沌と紙一重の宇宙のなかで、生と世界の意味を探求しながら内部をさまよう巡礼たちにとっ て、ただ「一冊の書物」を探しあてそれに出会うことが唯一の問題なのだ。 「バベルの図書館」のもつ魅惑的な迷宮性を強調し、より親しみやすいイマージュに形象化 したのは碩学の記号学者エーコである。その歴史探偵小説に登場する中世の「文書館」は、 ジャン=ジャック・アノーによる映像化の力も得て、本家と同等あるいはそれ以上に人びとを 魅了する装置となった7)。実在するモデルとしてザンクト・ガレンの設計図やメルク修道院図 書館にも着想を得るこの施設は、十四世紀北イタリアの修道院に付設され、一階にある厨房と 食堂、二階にある写本室の上層に位置するものである。内部に吹き抜けを備えた平面上の迷路 構造は、映画化にあたって、書物の置かれた無数の小部屋を入り組んだ階段がつなぐ階層状の 設計になり、いっそうの「迷宮性」を増すこととなった。エーコ自身が口にするように『薔薇 の名前』におけるアルゼンチン人作家へのオマージュは明白で、よりあからさまな探偵小説仕 立てによるエンタテインメントはボルヘス以上のボルヘス性を与えている。 クライマックスに用意されるのは、ワトスンに擬された語り手である見習い修道士のアドソ が、師たるフランシスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムとともに、ついにこの「迷宮」に 足を踏み入れる場面にほかならない。無限に連なるように思われる暗く入り組んだ構造物のな かを、一冊の書物を探して、手にしたカンテラの灯だけを頼りに師弟は迷い歩く。 ひとはじっさい、このウィリアムとアドソのように、現実のなかでもフィクションのなかで もしばしば図書館空間のなかをさまよっている。まさに迷路のように立ち並ぶ書架の間を縫っ て、地下迷宮のような書庫のなかを、目当ての一冊を求めながらうろつく経験はだれにも思い あたるところだろう。創作として二作目となる『フーコーの振り子』においてもエーコは同様 の演出にこだわりをみせ、人気のない夜に忍び込むフランス国立工芸院の、まるで「バロック の ⼦驚異の部屋⼧」と化した展示空間の様子を「想像するのは、じつに楽しかった」と振り返 るのである8) 「バベル」のもたらした数々の反響のなかに、人生あるいは世界の意味に関する遍歴モチー フのいくつかをしばし追いかけてみよう。偶然性の文学的表現を模索した実験工房ウリポの一 員 G. ペレックのいうように、「ボルヘスのバベルの図書館員たちは、他のすべての本を解き あかしてくれる唯一の本を探し求めるが、彼らと同じように、私たちは、完璧なものという幻 影と、捉えがたいものという眩暈のあいだを揺れ動いているのである。完璧なものの名におい て、私たちは唯一の秩序が存在し、それが一挙に知識に近づくことを可能にしてくれると思い こみ、また捉えがたいものの名において、秩序も無秩序も偶然を指す同じ二つの言葉だと考え ようとするのだ〔……〕いずれにせよ、その両者の間にあって、私たちの図書館が備忘録とし て、あるいは飾り棚や物置としても役立っていることは悪いことではない」のだろう9) 諸星大二郎『栞と紙魚子』シリーズの一篇「古本地獄屋敷」では、ボルヘス的強迫は迷宮と しての古書店に形象化し、まるで異空間のような店内を二人の少女がさまよい歩く。巡礼は道 に迷い方向を失い、放浪する探求者や「本の洞窟」の主、餓鬼のような姿の「古本マニアの怨 霊」にでくわす。最後に描かれるのはおきまりの「崩れ落ちる書架の群れ」なのだった10)

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京極夏彦の古書店もまたいくぶんボルヘス風のたたずまいで、「書楼弔堂」は三階建ての陸 燈台のように見え、中央に吹き抜けを備えている。店内の書物たちは「実に整然と並べられて いる」のだが、そのじつどうにも判然としない。「能く見れば考えられぬような並びと品揃え」 で、そこには「何か法則がある」らしいが、「どう云う基準の分類であるのかは計り兼ねる」 というのだ。同様に常人には計りがたい趣の店主の導きにより、自分だけのただ一冊の書物を 探求することやその意義が、各々の人生、その「迷い」と重ね合わされるのだった11) すこし趣向は変わるが『ブレード・ランナー』ばりのタイトルバックにはじまる、とり・み きのコミック『DAI-HONYA』では、地下三階地上二百一階の超大型書店「文鳥堂」が舞台 となる12)。20XX 年、活字文化の衰退により書物が「特殊化」した近未来、弱体化した出版社 や書店を保護する名目で施行された「書店法」の陰で、かえって大資本による出版権や販売権 の独占が進み、非合法化し地下にもぐった同人誌による過激で先鋭な表現も問題化した。「マ ルチメディア世代にとって読書そのものは特別な技能になっていったのに、“本”にまつわる 他の付加価値は肥大し逆に需要は増え」、「いまや本はステイタスであり信仰であり美術品であ りインテリアであり/マニアックな読書家にはドラッグでありそうでない者には投機の対象で あり」という時代設定である。物質的な書物の危機を背景に、利を得た巨大書店とテロリスト たちが暗躍し、本を憎悪するものたちによる「書店犯罪」の増加に応対すべく、書店員ととも に「書店管理官」の存在が必要とされた。 展開される近未来冒険活劇には見応えがあり、かぎりなくサブカル化した書籍文化の行く末 も興味深い。しかしそれ以上に目を奪われるのは、舞台装置としての書店空間そのものだろ う。各フロアに林立する巨大書架、天まで届きそうな壁面書架に整列した『銀河大英雄伝説』 シリーズ全巻、フロアごとに趣向が凝らされた配架設計や什器、それらをつなぐ階段や高速エ レベーター、中央の巨大な吹き抜けをとりまく回廊状の書架、「朗読バー」や銭湯、幻の非常 階段、はては大海原までその内部に存在しているのである。このいまひとつの「バベルの図書 館」において、一大迷宮たる店内での冒険の数々、巨大階段での追走劇というクライマックス は、すでにひとつのクリシェというにふさわしい。パリの新国立図書館書庫の外観を思わせる ような、開かれた書物の形状で屹立する「文鳥堂書店ビル」は、物語の最後にみずからの機構 を働かせ文字どおりその頁を閉じるのであった。 奔放なコミック的想像力の例を重ねるなら、私立麻帆良学園の対岸、学園都市の湖にあたか もヴェネツィア沖サン・ジョルジョ・マッジョーレのように浮かぶ「図書館島」には、「世界 でも最大規模の巨大図書館」があるという。「世界各地から様々な貴重書が集められ」また「蔵 書の増加に伴い地下に向かって増改築が繰り返され」、それはさながら巨大ダンジョンの様相 を呈する。これまた目的の一冊の本を求め、学園「図書館探検部」に導かれながら足を踏み入 れる主人公たちは、さまざまなトラップや坑道、地底湖や螺旋階段をくぐりぬける。「地底な のにあたたかい光に満ちて数々の貴重品にあふれた/本好きにとってはまさに楽園」という 「幻の地底図書室」へも誘われながら、ついに所定の目的を達し帰還を遂げるこの世界観には、 もはや既視感のほうが強いというべきかもしれない13) こうしていくたびも確認されてきたように、種々の物語において〈迷宮〉としてあらわれる

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図書館の形象は、はたして〈秩序〉としての世界観を裏切るただ昏いだけの存在だろうか。そ れをさまようことの意味は、ただ無知蒙昧の無秩序にしか求められないのだろうか。 すでにみたように、われわれは迷うことの楽しさを知っている。中世の図書館へ思う存分に 迷い込んだエーコもまたそのひとりであり、カンディダ・ヘーファーによる美麗な図書館写真 集の序文として再掲された講演のなかで、図書館がなぜ「冒険」の舞台となりうるかを嬉々と して語っている14)。そう、それはまさしく「冒険」であると、当然のようにボルヘスの引用を 長々と続けた後エーコは説くのだった。図書館における幸福とは「その存在を予期しなかった 本」との出会い、その「発見」にある。それは冒険の末に得られる偶然であり、刺激や興奮を ともなう。だがそのためには、実物の並んだ開架の書架がなければならない。著者名順に並ん だカタログでなく、主題別に集められた書物の棚を探索し、探していた本の隣にもう一冊の 思ってもみない本を見つけることができるような、偶然の出会いを誘発する空間が用意されて いなければならないのである。 同様に住友文彦は、蔵書目録カードによる百科全書的モデルに対して、「開架式図書館の書 架の間を行き来する経験」の価値をあらためて強調する。図書館空間をさまようことの意義 は、「目的の書物の隣にある、いわば屑のような書物の背表紙が目に入り、手にとってみるこ との魅惑」にあるのだ15)。ただし彼はこの経験を、将来的な「デジタルアーカイヴ」の夢へと 楽天的に託してしまうのだったが。むしろわれわれとしては、「図書館の理想的機能は古本の 露店にすこしばかり似ているはず」というエーコの主張に依拠すべきだろう。すなわちそれは 「幸運な出会いの生まれる場所」であり、この役割は「書棚が並んだ通廊への自由なアクセス をつうじてのみ実現されうる」というのである。 逆にいうならジュンク堂(神戸市)が先鞭をつけたような、立ち読み(座り読み)を公認な いし黙認し専用のスペースすら設えている書店は、この意味で「図書館的」機能を果たしてく れる。さらには、改築竣工した商業施設に移転し2015年に新装オープンした明屋書店(松山市) のように、オープンスペースを利用しながらそれでいて迷路のように入り組んだ空間設計をも つ店舗も増えてきている。ひたすら実用的に効率よく目指す商品を購入しようとするだけの消 費者にとっては、ただただ非効率で不便な空間でしかないのだろうが、そんな設計がこの店の 売りであることは正式名称をみても理解される。「SerenDip 明屋書店アエル店」の名は、入居 している商業施設「アエル松山」の名と意匠を示すと同時に、この店のコンセプトが「セレン ディピティ」であることを雄弁に物語っているのである16) そうした設計の先駆はしかし、「遊べる本屋」が謳い文句のヴィレッジ・ヴァンガードなの だろう。「編集作業」とよばれる独特の陳列手法により迷路的で宝探し的な店内空間が構成さ れ、「体験型消費」が売りにされる。なにより「ライバルはアミューズメントパーク」という 言葉が、この書店の「冒険」的本質を示している17)。そもそも冒険小説とは、まさに博物館と しての「人体」がその舞台とされる『ミクロの決死圏』などのように、迷宮としての世界を経 めぐり、そこにあらたな秩序を発見し回帰する物語を典型とするものだった。 冒頭に触れた『ベルリン・天使の詩』で有名なシャロウンのベルリン州立図書館(国立図書 館)もまた「劇場的」と称される空間のひとつであるが、迷路のような館内や体験型の空間構

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成はひとつの祖型といえる。そこで「利用者は館内を歩き回るうちに、側面や上方から採光し ているさまざまな空間を体験する」。「たとえば、小さな個人用閲覧室、部屋の片隅に隠された 窪み、高い天井のあるエリア、窓のそばの机、建物の奥行きを見渡せる場所」など「自分に合っ た空間を見つけることができる」のである18)。「ドイツ最大の開架式図書館」であるグリム・ センターに関しても、同じ『世界の図書館』の著者は次のように描写している。すなわち、「開 架式図書館では利用者がぶらぶらと歩きまわり、興味を引きそうな本を棚から取って漫然と眺 め、そんなことがなければ考えようともしなかったテーマに引き込まれることもある。いいか えれば、開架式書架のあいだにいると、人は初めて読書を発見した瞬間を思いだすことができ、 すべての本が目新しく刺激的なものに感じられるのだ」。 ベルリンの天使たちのように、林立する開架のあいだの入り組んだ通路を人びとのあいだを 縫ってそぞろ歩くとき、私たちは W. ベンヤミンの「遊歩者」を思い起こさずにはいられない。 遊歩者にとって、街は博物館であり書物であり図書館であるのだから。「パリは、セーヌ河が 貫流する巨大な図書館ホールである」という一節を敷衍し、松浦はこう強調する。この「十九 世紀の首都」が「巨大図書館とも言える街であったこと」は、しかしベンヤミンにとっては「決 して隅から隅まできっちりと合理的に分類整理された図書集蔵庫ではなく、むしろエロティッ クな暗がりと性的な不意打ちに満ちみちた、収拾のつかないほど混乱した閲覧室であったこ と」を意味していたのだと。まさしく遊歩者ベンヤミンならではの発見であるが、この「遊歩」 の経験ほど、図書館において時間を費やすよろこび、書物による知的空間をさまようよろこび を表現するにふさわしいものはないのでなかろうか19) ふとした瞬間に相貌を変えるふだんの街並みや日常生活のように、迷宮としての図書館や書 物は訪れるたび変容し、体験する各々にとって異なる様相を呈する。こうしたたわいもない日 常的な異世界を緻密に描写することにかけて、S. ミルハウザーの職人芸を凌ぐものはない。 その作品のすべてがいかにもヴンダーカンマー的な綺想にいろどられているが、なかでも 「バーナム博物館」は明白なボルヘス・スタイルによって建造された構築物である20) バーナム博物館にはいくつ部屋があるのか、考えれば考えるほどわからなくなってくる。 それぞれの部屋に少なくとも二つは出入口があり、十二、十四とある場合も少なくない。 どの出入口の向こうにも、さらに多くの部屋、さらに多くの出入口が見える。部屋の大き さはまちまちで、たったひとつの展示物を収めただけの小部屋もあれば、五階分の高さの 天井を持つ大ホールもある。どれひとつとして単純な形をした部屋はなく、凹室があった り壁龕があったり、隅がロープで仕切られていたり、奥が衝立てで隠されていたりといっ た具合である。大きなホールにはカラフルなテントや天幕が張られていることも多い。 だがその描写のなかに示される本家との差異は、やがて決定的な姿をとりはじめる。この建 物の「ひとつの捉えがたいデザイン」は、「見る者の視線を一点から別の一点へとたえず引き まわし、全体のかたちを視界に収めさせない」。その空間は文字どおりアモルフ、あるいは手 の込んだ迷宮といったぐあいで、

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言い伝えられるところによれば、ある玄関から正午にバーナム博物館に入り、かりに午後 三時に同じ玄関に戻ってこられたとしても、もうそのときにはそこは外の街路に通じる出 入口ではなく、別の新しい部屋につながる口になってしまっているという。そしてその部 屋のドアの向こうにも、やはりさらに多くの部屋、さらに多くの出入口がほの見えている のである。 こうしたたぐいの「混沌」や「不可能性」は、けっして「バベルの図書館」には存在しなかっ た。だが、そうであるがゆえに、それは本家よりなじみぶかく、楽しげで、ひとをうきうきと させる。たしかにこの迷宮性は悪夢だが、しかし「バーナム」の名に恥じることなく、なぜか ひとの心を縁日のようにとらえるのだ。じっさい、この町の人びとはただ「そうせずにはいら れない」という理由によって、「何度もくり返しバーナム博物館へ戻ってゆく」。「ある人々に とっては、博物館に足を踏み入れるときこそがもっとも悦ばしい瞬間」であり、「またある人々 にとっては、徐々に道に迷ってしまうこと、ホールからホールへとさまようなかで、もう元に は戻れないのだという思いに捉えられることこそが最高の快楽である」というのである。 心惹かれる館内、その「変化しつづける展示室」の詳細については、案内人にしたがいその 眼で確認していただくのがよい。ひとついえるのは、このとき「バーナム博物館」こそが図書 館や博物館一般の名称であること、つまり「世界」そのものの名前であるということである。 もうひとつ重要な存在はその住人たちである。ボルヘスの図書館同様、この宇宙にも幾種類 もの住人がすまう。警備員、掃除夫、売店の店員、案内係、道化師や飼育係、工事関係者、最 上階の奥まった部屋で亡霊のように過ごす研究員、会計士などなど。なかでも「厳しい戒律」 にしたがって館内に永住する隠者たちは、「博物館の外の世界は幻想であって、真の生は館の 壁のなかでのみ可能なのだと信じている」という。その信念こそが、逆に「外の世界」にいる 「私たちを不安にする」。だから「私たちが私たちの町をもっとも明確に意識するのは、町を離 れバーナム博物館に入場する瞬間」なのである。「博物館がなかったら、私たちは、夢遊病者 のようにぼんやりと人生を通り抜けてしまうことだろう」。 すでにみたように、そうした独特の夢の空間を特有の両義性とともに、近代初期に誕生した 「大閲覧室」という舞台に見いだしたのは松浦だった21)。大英図書館やフランス国立図書館に 具現化されつつあったこの近代的夢想のなかで、吹き抜け式の空間に天窓から差し込む光、開 架式の壁面書架の連なりが織りなす無数の書物の群れ、その背表紙の一覧性が演出する崇高な 劇場空間は、あらたな視覚性のなかに「⼦知⼧ と向かい合った個人の心性に生じる相矛盾し合 う二つの感覚を、それぞれ限界点まで誇張しつつしかも両者の間に或る微妙な釣り合いを作り 出す、絶妙な ⼦装置⼧」として機能していた。「書架に収められている全書物を想像的に所有し ているかのごときファンタスム」のなかに隠された「所有の不可能性のファンタスム」。知へ の接近と追放、その親しさと疎遠さ。ひとが図書室にいるときの、包み込まれる感覚と突き放 される感覚の同時存在はここに由来すると、松浦は正確に指摘するのである。 さらにその廃墟のヴィジョンについても触れなければならない。図書館が自覚しはじめた深 い不能性は、廃墟の感覚と重なる。たとえばルーヴルに陳列されたユベール・ロベールの「廃

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墟化したミュージアムのヴィジョン」は、「図書閲覧室の光景を、まさにその同じ図書閲覧室 に身を置きつつ想像しているベンヤミンの身体感覚に通じ合う」ものである。「パリ国立図書 館の円形閲覧室は、ベンヤミンのまなざしと身体を媒介として捉え直すとき、たとえばデュー イの十進法分類などによって整序された、清潔で合理的な ⼦近代⼧ 的空間からはるかに遠い、 何物ともつかぬかけらが散らばった埃まみれの廃墟として立ち現れてくる」のだから、もはや 図書館を単純な合理性と秩序の隠喩として無邪気に信じることなどできはしない。 秩序を失った空間は、その定義からして熱力学第二法則を体現する廃墟にほかならない。こ れまでたどってきたように、図書館そして博物館には、あらかじめ秩序攪乱的な要素が刻み込 まれている。『薔薇の名前』の目的の場所に待ち構える盲目の修道士ブルゴスのホルヘ、その 策略によって破壊される書物、炎上し灰燼に帰していく図書館のイマージュは、まさに文字芸 術や視覚芸術の世界にとってひとつの強迫とすらよべる定型なのだろう。 同じ運命を演じた歴史上の図書館やフィクションの事例を挙げれば暇がない22)。ほんらい光 と秩序の空間であるはずの図書館が、そのカタストロフ的な結末とともに迷宮の形象のなかに 描きだされる傾向は、オーディエンス側の期待をも反映している。「炎上する図書館」のみな らず、すでにみた動物園における境界侵犯など、その意味ではまさに分類学的秩序の起源とな る植物園(植物学)に触れなければならない。さまざまな生き物が区分され、仕分けされて、 しかるべき檻の中に隔離されつつ配置される動物園のタクソノミーは、ここに由来する。そし てこのリンネ的秩序の静態性のなかに廃墟化の運動を示す「テスト氏」のよく知られた散策は、 『植物園』と題された C. シモンの「混沌を単に混沌そのものとして提示する緻密な迷路のよう なエクリチュール」によって受け継がれるのである23) こうしたひそかな昏き欲望が、ほんらい分類学的秩序のなかには宿っている。村上春樹の図 書館に託されるのも、どちらかといえばそんな下意識的世界である。『図書館奇譚』の薄暗い 廊下はひとを文字通りの地下世界へ誘い、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 の図書館は別世界への入り口として機能する24)。他にも、地下組織のアジトとされる廃図書 館、ときに殺人事件の舞台となり、また破壊され炎上する図書館の数々を私たちは知るだろう。 高校図書館で作戦会議をもちながらヴァンパイアとの死闘を繰り広げる連続ドラマ『吸血キ ラー/聖少女バフィー』を論じる A. エスティルは、フーコーやオルデンバーグの業績にも言 及しつつ「場所としての図書館」を提示する。そこでも、秘密基地としての図書館のもつ異種 混淆性と空間的実在性の意義が強調されるのだった25) その点では図書館は、どちらかといえば原初的な衝動と親和性をもっている。ラドフォード らによれば、「図書館空間の記述が恐怖や不安の感情にいろどられるのは珍しいことではな い」26)。なかば「都市伝説」のように耳にするのは、書店に行くと生理的欲求をもよおすとい う逸話だ。私たちにとって書店あるいは図書館は、そんなふうな「存在」として身近にある。 近年の「書店お泊まり」「図書館ホテル」式の企画の根本にあるのも、こうした原初的欲望と いってよいのではなかろうか。図書館で暮らしたい、書店に泊まりたい、一生そのまま書籍と ともに寝て過ごしたいという、まさしくそれは素朴な「夢」なのかもしれない。 その意味では、図書館を舞台とした青春小説、あるいは人間模様を背景に主役アクターとしての図書

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館を立てた小説として人気を博し、数々の映像化もなされている『図書館戦争』シリーズに描 かれる改変歴史上の図書館は、独特の立ち位置を占めている。そこでは図書館は〈秩序〉の側 でなくその対極、むしろ「公序良俗を乱す」存在として描かれるのである。「メディア良化」 の名のもと検閲行為をおこなう「公序良俗」の側と戦火を交えるのが、この武装化された図書 館なのだった27)。『華氏451度』の衣鉢を継ぐとも評されたこの物語は、明示的な舞台を近未来 におくけれども主題的にはむしろなじみぶかい過去の世界に属する。私たちの知る検閲はいつ も「社会秩序」の名のもとに行われてきた。そこでは、ある面で闇を抱えた「罪深い」図書館 が、自由を意味する闘う存在であるのも当然のことかもしれない。 ボルヘスからの系譜をさらにたどっていくなら、「書物」をめぐるサイバーパンク的意匠が 古くて新しい『BABEL』の物語には、さまざまなオマージュがあふれている28)。作者である 重松成美みずから造本関連の修行を積んでいたパリの国立図書館もそのひとつで、ミッテラン による「グラン・プロジェ」のもと1994年竣工したこの施設の四隅に配置された有名な四冊の 「開かれた書物」の風景は、そのまま近未来都市「ユーロパリ」に残されている。われわれが 「新館」として知るこの建物はいまや「旧館」と称され、代わりに中央中庭部分に新築された 管理棟の、その中枢を占める修復室が電子書籍の情報集積センターと化した図書館施設を支え る。既存の知識すべてが情報化され保存されるという、「ビブリオテック」とよばれる「電子 図書の仮想都市」へのアクセスは、ここから保証されているのである。 その「自己組織化によって生成する書架の複雑な地形からなる、超情報構造体」のなかに、 既存の書籍データ全体の集積が企図される。しかし「パランセプト」とよばれる正体不明のノ イズがそこにまぎれこみ、暴走をはじめる。このノイズがもたらす破壊や混乱と、「世界が利 用するビブリオテックの秩序と安定」のために「修復」せんとするものたちとの対立ではじま る物語は、やがてその対抗軸を決定的にずらし、仮想も現実もすべて「情報」の名のもとに一 元化し世界を再構成せんとする勢力(これこそが当の「ノイズ」の意図でもあった)と、「書物」 やそれがもたらしてきた「知識」や「記憶」の文化を重んじようとするものたちとの戦いへと 様相を変えていくのだった。 最終的に、「電子図書館」という情報秩序の暴力的一元性に対し、「まちがいや新しい解釈」 が生むゆらぎによる「進化」が評価され、「本や文化」が価値づけられることとなる。巻末に 付された解説のなかで三浦しをんは、このことを「書物という物体そのもの」の問題として語 るのだった。現在の国立図書館が書庫として残され、印刷された書物の収められた書架が並び 立つなか昔ながらの肉弾的「戦闘」が描写される場面は、そのまま物質性=身体性へのオマー ジュであり空間性の顕彰とよべるものだろう。 ボルヘス以前、ブリューゲルも描いたような旧約の物語がここでも想起される。ただしここ では、秩序という名の混沌に対しバベル的混乱があらわす人間的世界のあらたな意味が問われ ることになる。「強すぎる光、それは闇」なのだ。 神話における「バベルの塔」の空間的ヴィジョンと「アレクサンドリア図書館」の古代史的 イメージを結びつけたのは、ボルヘスの同国人マングェルだった。言語の多様性とその再集積 をめぐる想像力はボルヘスの綺想に焦点を結ぶ。さらにマングェルは、彼自身の経験を付け加

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える。「数週間というもの、私はそれまで食堂を占領していた何百もの箱の梱包をほどき、空っ ぽの書斎に本を運びこんだ。そして、うずたかく積み上げられてぐらぐらする本の山のあいだ に呆然と立ちつくした。それは垂直に伸びるという点でバベルの塔の野心に似ており、平面に 広がるところはアレクサンドリア図書館の欲望に共通していた。およそ三か月間、私はある種 の秩序を作りだそうとして本の山をかきわけ、朝早くから深夜まで作業をした」29) 秩序を生成するはずの知識の山は、現実には混沌でしかない。かつてベンヤミンが魅了され たのと同じ光景のなかに、秩序と背中合わせの混沌、あるいは混沌としての秩序のイメージが たたずむ30)。こうして図書館小説の多くに描きだされるのは、むしろ迷宮化する秩序とでもよ ぶべき事態であり、体験だったのでないか。さらに重要なことに、私たちの多くはむしろその 迷宮化する姿にこそどうしようもなく惹かれ続けているのである。

⚔ この図書館化する世界あるいはヘテロトピア:場所としての図書館ふたたび

『理想の図書館』と題された書物の「あとがき」にこう語られる。「空想の図書館の、すべて の書物の完成にして終焉としての ⼦書物⼧ は、マラルメにもジョイスにもつきまとった観念 だった。失われた、解読不能の、呪われた ⼦書物⼧、そして、あるときは楽園のように、また あるときは地獄のように魅惑的な迷路としての ⼦図書館⼧ という二つの観念は、文学的テーマ というよりは、むしろまぎれもない現代の神話となったのである」31)。こうして〈図書館〉は、 ひとつの縮図となりながら、その迷宮性のなかに世界の相貌をあらわにする。 『ブヴァールとペキュシェ』の挫折する主人公のなかに、「図書館―百科全書というメタ ファー」にあらかじめ刻み込まれていた挫折を重ね合わせる E. ドナートは、こう述べている。 「図書館がフローベールの小説の二人の不幸な主人公に課すのは、その秩序、その全体性、そ の真理に結局は到達できないという不可能性である。図書館は登場人物たちを――同時に作家 を、そして読者をも――ボルヘスの ⼦バベルの図書館⼧ の語り手によって描きだされる空間と 似ていなくもない迷宮的空間のなかでの終わりない彷徨へと運命づける」のだと32) こうしてみれば、十進分類法的空間のほうこそ、真にわれわれを惑わせる装置なのではない だろうか。図書館の課してくる一方的といってもよい「合理性」や「秩序」は、利用者にとっ てもそうであるとはかぎらない。〈分類〉と〈秩序〉の体系は、想定されるほど秩序だっては いないし、便利なものでもない。そして整然と分類され整理された空間には、あまりに「生活」 が欠けていはしないだろうか。すでにみた七人の司書たちが住んでいたという図書館はどうだ ろう。あるいは今日のショールームやモデルルームのような、「見せる」ことに特化した空間 はまさに「生活感の欠如」の代名詞でなかったか。整形庭園のように整然とした空間は、観賞 されるものではあっても、住みたいと思うものは少ないだろうし散歩にも適さない。住むと は、生活するとは、むしろもっと混沌とした創発的な経験ではなかろうか。 その意味では、そんな生活感に欠けているはずの空間にあえて外部から「生活」を持ち込も うとする営みが興味深く思われる。先にも触れたが、「泊まれる書店」「泊まれる図書館」と いったコンセプトに基づく定期的なイベントや宿泊業態が人気を集め、紹介記事などによれ ば、従来から存在したとみられる利用者側のニーズがこれを支えているのだ33)。たしかに「出

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版不況」「書物の危機」が叫ばれる昨今ではある。しかし刊行される「世界の美しい図書館」 や「美しい書店」のたぐい、観光地での図書館人気、こうした種々の企画など、日常感覚での 「図書館好き」「書店好き」は少なくないのでないかと思わせる。はたしてこれは図書館内に侵 入する〈混沌〉なのだろうか。これらの関心は、なにを反映しているのだろうか。どうやら図 書館が提示しようとする〈秩序〉は、一筋縄のものではなさそうである。 じっさい、きわめて秩序=権力的な装置であったはずのシェンブルンの禽獣園にしても、な かに身を置いてみれば、きわめて迷宮的な魅惑と不安にあふれた空間といってもよかった。か つての皇帝パビリオンは現在カフェレストランとして観光客に開放されているのだが、フー コーのいうような一望監視空間として企図されたはずのこの施設もその眺望も、いざ訪れてみ ればお世辞にも「見通し」のよいものとはいえない34)。他の同様の施設にしても、その中心に 身を置く監視者以外にとっては、ただの迷宮としか現れないのかもしれない。というより、監 視される側の見通しの利かないことこそが、その作動の条件でもあった。もしかすると、ただ ひとりの監視者にとってすら全貌を見通すことは現実的に不可能で、一望性はあくまで仮想的 に想定されるからこそ役立っているだけではないか。 「分かる」ことは「分ける」ことである、としばしば語られる。だがその分けることは、さ ほど分かりやすい営みでないのではないか。分類の空間が社会的出自をもつことを教えてくれ たのはデュルケム=モースである35)。社会=人類学的にいって、分類に基づく諸秩序はひとの 生活や住居から生まれ、各社会の基盤となる。だが、どのような「分類」がひとに安らぎと利 便性を与えてくれるかは、そのさきの問いとして残されている。じっさいには多様な分け方が 同等に存在し、異なる分け方を理解するにはそれなりの手間と労力が必要なのである36) 私たちが秩序正しく清潔に分類整理されている図書館に入り、しかしそれを不便で利用しに くいと感じてしまうことがあるなら、それはこうした理由によるのだろう。したがってベーコ ンやデューイの思惑は、あらかじめ「バベル」的多言語状況のなかに潰えている。だが、こう もいえるだろうか。崩壊する図書館、崩れ落ちる蔵書という、そのイマージュがわれわれを魅 了し喚起するのは、単純な「混沌」でなく「異なる秩序」としてであると。J. コクトーいわく、 「文学における偉大な傑作とは、解体された(en désordre)辞書をおいてない」のだ37) こうしてわれわれは、これまで〈図書館〉を読むことで導かれてきた考察を、あらためて「ヘ テロトピア」の名のもとにとらえなおすことができる。異他的な異種混淆のトポスをあらわす この概念は、ひとまず1967年に開催された建築研究サークルの講演のなかでフーコーによって 提示され、その後ポストモダン地理学による「空間論的転回」のなかで「再発見」されたもの である38)。しかしそのまえに、同じ著者による1964年の論考、すなわちフローベールの作品に 付され発表された文章を参照しなければならない。のちに改稿され「幻想の図書館」と題され ることになったこのテクストは、より明示的な図書館論、書物論を構成している39) 『聖アントワーヌの誘惑』を論じながらフーコーは、図書館を前に夢想にとらわれるとき、 ひとはけっして眠っているのでないと主張する。そうではなく、反対にかぎりなく覚醒してい るのだ。「夢見るためには、目をつぶるのではなく、読まなければならない。ほんもののイマー ジュは知識なのである」から。この「夢」とはいうまでもなく、苦行中の聖者に訪れた、悪魔

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による数々の誘惑のヴィジョンをさしている。山頂の庵で一夜のうちに彼のもとを訪れる神話 上の存在、魑魅魍魎のたぐい、また魅惑的な映像の数々は、まさに一列となって眼前でパノラ マのように体験される。これを「図書館の現象」と名づけるフーコーは、それが理性のまどろ みの導く妄想でなく、反対にかぎりなく知的な活動だというのである。すなわち「この新しい 幻想の場、それは夜でもなければ、理性の眠りでも、欲望のまえに開かれた不確かな空虚でも ない。それは反対に、めざめの状態であり、疲れを知らぬ精神の緊張、学識をともなう熱意、 いっときも注意をおこたらぬ緊張である」と。 ふたたびベンヤミンを想起することが許されるかもしれない。彼もまた十九世紀という時代 に生じた、特有な「夢」の空間について語っていたのだった。当時の社会意識を「十九世紀の 集団的な夢」と形容し、その集合表象を「夢の家」とよんだベンヤミンは、「それはパサージュ、 冬用温室庭園、パノラマ、工場、蝋人形館、カジノ、駅などのことである」と注釈を加える。 未完に終わった『パサージュ論』の断片として、ベンヤミンはそうした夢のかけらのひとつひ とつを丹念に蒐集していくのだった40)。松浦によって「そこから目覚めてしまうにはあまりに も心地良すぎたのではないか」と形容されるこのまどろみは、まさに蔵書を整理しようとしな がらついぞ果たせないままでいる、あのベンヤミンの姿にこそふさわしいものではなかったろ うか。ただしこのイマージュは、この図書館現象は、フーコーのいうとおり夜に見る夢でなく、 まさしく光が見せる夢なのだ。物質性が見せる幻想といってもよい。だからそれは同時に、ベ ンヤミンの企図を忘れずにおくなら、覚醒するための装置でもある。遊歩者はまどろみつつ醒 め、醒めつつまどろむのだ。 このことを踏まえるとき、「幻想の図書館」から「ヘテロトピア」の概念へ移行することが できる。醒めつつ夢見られ、あるいは夢見られつつ醒めている「図書館」の、あるいは「書物」 の現象のなかに、われわれはひとつの異種混淆的な場を発見することができる。ひとはこの社 会のなかで、まどろみつつ同時に醒めることを余儀なくされている。フーコーにとって「ヘテ ロトピア」は、単一の観念的空間と解されることの多い「ユートピア」に抗して発案された、 きわめて現実的で具体的な概念だった。同質的な非場所に対する混淆的な場所性の価値は、た とえフィクションのなかに登場するときでも、それが実在する建築物ないし空間であるところ に発揮されるのである。 建築の領域に関する異色の論考とされることも多いフーコーのテクストだが、すでに身体論 =空間論的に展開されていたベンサムの装置から通底する問題圏は明白である。いくつもの具 体例とともに、博物館や図書館、劇場もまた典型的なヘテロトピアとされる。それが屋根裏部 屋や墓地などと同列に並べられるとき、その具体性は、昨今いわれるような「サード・プレイ ス」としての「心地よい場所」では断じてない。むしろこういってよければ、ベンヤミンのい う「夢の空間」のなかに穿たれた覚醒の契機なのである。 こうした「異他なる空間」としての物質性、その「異種混淆性」が、秩序と整理の合理主義 に対していまひとつの合理性を、いまひとつの整序法を示してみせる。もちろん少なからず実 務的合理性の支配に屈するとしても、なお可能性としての異種混淆性は残される。ユートピア としての観念的図書館に抗して、物質的空間の場所性が発揮されるのである41)

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われわれの社会においてますます進行している事態は、「整理整頓の行き届いた近代博物館 の礎」に基づいて世界を分類し、整序し、展示しようとする「脱魔術化」の営みとして特徴づ けられることが多い。小宮正安のいうように「複数の部屋に蒐集品を分類して展示しようとい う試み」の根本にあるのは、珍品蒐集室的な「奇怪さや神秘性」を捨て、「趣味のよさという 美学や、整理整頓という理性」に基づく「反混沌の意志」なのである42)。たとえばプラハ城の コレクションについて語られるように、こうして「ヴンダーカンマー的なもの」の衰退として 記述されることがらは、蒐集家ならすぐに思い当たることができるだろう。バロック図書館へ のノスタルジーを捨てきれない海野も同様に、王侯貴族の「珍品蒐集室」の乱雑さがやがて「近 代博物館」の秩序へ整序されていき、目録化やカード化の意味する「観念化、記号化」によっ て「バロック的な祝祭性、視覚性」が失われていくという過程を描きだしていた43) だが、さきのフーコーに示唆を得て再考すべきは、「脱魔術化」として形容されるこの空間 がはたして本当に脱魔術化されているかどうかである。たとえばある種の秩序イメージは、ひ とを誘惑し魔法にかけるにじゅうぶんなほど「幻想的」であるのでないだろうか44) それは、静まり返った図書館のなかで、念入りに翼をひろげている、そして列柱をなす書 物、整然と居並ぶ表題、かずかずの書棚は、図書館をくまなくふさいでいながら、他方で は、不可能の世界へとぽっかり口を開けている。空想的なものが宿るのは、書物とランプ のあいだである。もはや人は、幻想的なものを心のなかにもち運ぶのではない。それを自 然界の突飛な出来事のうちに期待するのでもない。それは、知の正確さのなかから、汲み あげられるのだ。 「電子図書館の神話」もまた同様であろう。たとえば図書館学会でマングェルが出会ったと いう若き未来学者のように、実在としての書物の「電子化」にともない、物理的な図書館も不 要になると信じるものは多い45)。しかし、それはいまひとつの「楽園」なのか、似て非なるも のなのか。われわれは、いかなる電子の図書館も、異種混淆的な場所性と無縁でいられないと 主張したい。ちょうど、どんな「デスクトップ」も「散らかる」運命をもっているように。 いまいちどキャンベルの大著に戻り、「世界の図書館建築」を時代区分ごとに通覧する瀟洒 な書物の掉尾に提示される「未来の図書館」像に注目しておきたい。最後の/最新の図書館と して登場するのは、狭義の図書館機能としてはけっして「実用的」といえない、しかし長い「図 書館の歴史」にしっかりと根ざす、「図書館でありながら、同時に遊び場と居間を兼ねている」 存在たる「籬苑書屋」(北京郊外)であった。いわく「訪問客は階下から入り、戸口で靴を脱 いでから、階段を上る。この階段は本を入れる書棚としても使われ、椅子にもなる。上階は小 川と丘陵が見晴らせる部屋の隅の床が一段低くなっていて、坐れるようになっている。客は炉 をかこんで坐り、お茶を飲み、物語に耳を傾け、静かに本を読む」46) たしかに実物としての図書は、大きく重たくかさばり、非実用的な面を多く含んでいる。し かし未来学的情報一元論者にとって「障害」としか映らないこの種の物質性や実在性が、まさ に図書館のイマージュをつくりあげる重要な要素なのではないか。エーコのいう冒険としての

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図書館とはこれである。図書館は開架でなければならない。書店はフロアをもたなければなら ない。「書物から書物、棚から棚、そしてフロアからフロアへの物理的=身体的な移動をすべ て可能にしているのは図書館の物理的空間であり、これがエーコの ⼦冒険⼧ やヒルの ⼦解放⼧ を 形作っている」とラドフォードらは指摘する。「とどのつまり、図書館とは想像力の場所であ る。そして想像力とは一種の遊び――遊び心である」とキャンベルは結ぶのだった47) 場所が関係する=問題になるのはこうしたわけである。「架空の地図」「想像の地誌学」また 「空想建築」「不可能建築」「不条理建築」に関する研究の数々をみよ。想像上の場所、架空の 場所が、しかしどこにも存在しないのでなく、その想像上の実在性によって効力をもつ。この ように記述された図書館の場所性、あるいは場所性のイマージュが、数々の図書館小説を、あ るいは実在する数々の図書館を、魅力的なものにしているのだ。 図書館は「ただ存在する」という言葉を想起するとき、次の一節に耳を傾けたい48) 「世界はメタファーだ、田村カフカくん」大島さんは僕の耳元で言う。「でもね、僕にとっ ても君にとっても、この図書館だけはなんのメタファーでもない。この図書館はどこまで 行っても――この図書館だ。僕と君のあいだで、それだけははっきりしておきたい。」 それは「とてもソリッドで、個別的で、特別な図書館だ。ほかのどんなものにも代用できな い」というのである。図書館とは、何かのメタファーなのでなく、それじたいただそこにある ことでヘテロトピアなのだった。 われわれの関心は図書館のみならず、美術館、博物館、水族館、動物園はもちろん、書店、 古書店、レンタル店、CD ショップ、雑貨屋、ライフスタイル・ショップ、ノヴェルティ・ ショップ、そして遊園地、庭園、テーマパーク、サーカス小屋、映画館など、無数の類似施設 へと及ぶ。ありとあらゆる文化装置が無限に広がっている。そのすべてを扱う余裕はもちろん ないが、しかしそれらの「場所」すべてが現在の消費空間に埋め込まれたヘテロトピアとして、 ユートピアとはまったく異なる時空間へとわれわれを誘い続けているに違いない。 フローベールの二人の筆耕を論じるなかでドナートは、「図書館―百科全書」の主題が、「異 種混淆的な要素の連続体」のなかに位置づけられることを強調していた49)。彼は、いたるとこ ろにみられる「図書館的なもの」と「博物館的なもの」の同一視を斥け、後者の物質的具体性 を強調する。ここに「博物館的」といわれるのは、さきの「ヴンダーカンマー的なもの」の謂 でもあろう。それは「その異種混淆性を介して、図書館―百科全書の均質な表現/表象的空間 に対して完全に他者であるところのものを呈示してくる」50)。したがって重要なのはむしろ 種々のがらくたや骨董品に満ちた博物学的空間ということになる。つまり、「図書館がそのほ んの一項にしか過ぎない連続体を含むのが博物館」だというのだ。 さらにドナートの議論は熱力学的メタファー(すなわちエントロピー)にまで及ぶのだが、 われわれにとってはこれまでとしよう。「フローベール的博物館の顕著な特徴」たる「解消さ れ得ぬ異種混淆性」こそ均質な分類空間に穿たれたヘテロトピアの徴であることを確認したな ら、この小論を閉じることができるだろう。

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図書館的なるものの社会表象をめぐるわれわれの歩みをしばし止め、今宵の宿を求めてみよ う。ヴェンダースのベルリンには、天使たちの住処があった。遠く離れたコインブラやマフラ の美麗な図書館にも、同様に翼ある夜の住人たちが棲みついているという。彼らは人目につか ず夜な夜な飛びまわっては、書物の保存にとって大敵となる害虫を駆除してくれているのだ。 光の図書館にとって異分子たる闇の存在が、その維持管理のため欠かせないものだとでもいう かのように。さて私たちは、図書館にとっていかなる存在たることができるだろうか。 注

1) Radford, G. P., “Flaubert, Foucault and the Bibliotheque Fantastique,” Library Trends 46(4), 1998, p. 620. 2) J. L. ボルヘス「バベルの図書館」(鼓直訳『伝奇集』岩波文庫、1993年、所収)。 3)山尾悠子「遠近法」(『増補 夢の遠近法』ちくま文庫、2014年、所収)。 4)NTT インターコミュニケーションセンター『バベルの図書館:文字/書物/メディア』NTT 出版、 1998年;S. ミュラー(武居忠通訳)『近代のトポグラフィー』創文社、1994年も参照。 5)山村浩二『山村浩二作品集』ジェネオン・エンタテインメント、2003年。 6)原克『書物の図像学』三元社、1993年、p. 91。 7)U. エーコ(河島英昭訳)『薔薇の名前』東京創元社、1990年。 8)U. エーコ「極私的リスト」(和田忠彦・小久保真理江訳『ウンベルト・エーコの小説講座』筑摩書房、 2017年、所収)、p. 185。 9)A. ジョベール(里見達郎訳)「世界としての書物」(『理想の図書館』パピルス、1990年、所収)から の引用。 10)諸星大二郎「古本地獄屋敷」(山田英生編『ビブリオ漫画文庫』ちくま文庫、2017年、所収)。 11)京極夏彦『書楼弔堂 破暁』集英社、2013年;『書楼弔堂 炎昼』集英社、2016年。 12)とり・みき『DAI-HONYA』アスキー、1993年。原案は書店員の田北鑑生。 13)赤松健『魔法先生ネギま!(⚑)』講談社、2003年。

14)Eco, U., “De Bibliotheca,” in C. Höfer, Libraries, Thames & Hudson, 2005.

15)住友文彦「美術館が見た夢:デジタルアーカイヴによるイメージの収集」(『アール』金沢21世紀美術 館建設事務局研究紀要 No. 1、2002)。 16)「不便益」という近年発案された用語が、この思想をよく表現している。川上浩司編『不便益』近代 科学社、2017年など。 17)清水学「ヴィレッジ・ヴァンガード」(遠藤知巳編『フラット・カルチャー』せりか書房、2010年、 所収)。 18)J. W. P. キャンベル(桂英史監修、野中邦子・高橋早苗訳)『美しい知の遺産 世界の図書館』河出書 房新社、2014年、p. 274、p. 314。 19)松浦寿輝『知の庭園』筑摩書房、1998年、pp. 54ff.。ベンヤミンの引用も同書より。 20)S. ミルハウザー「バーナム博物館」(柴田元幸訳『バーナム博物館』福武文庫、1995年、所収)。 21)松浦、前掲書。 22)E. カネッティ(池内紀訳)『眩暈』法政大学出版局、1972年;R. ブラッドベリ(伊藤典夫訳)『華氏 451度』ハヤカワ文庫、2014年;有川浩『図書館戦争』シリーズ、角川書店、2006-07年など。 23)松浦、前掲書、p. 275;P. ヴァレリー(清水徹訳)『ムッシュー・テスト』岩波文庫、2004年;Simon, C.,

Le Jardin des plantes, Minuit, 1997.

24)平野芳信「君は暗い図書館の奥にひっそりと生きつづける」(『国文学解釈と鑑賞 別冊』至文堂、 2008年⚑月号)、pp. 153-60。

25)A. エスティル「地獄に行く」(J. E. ブッシュマン、G. J. レッキー編(川崎良孝ほか訳)『場としての 図書館:歴史、コミュニティ、文化』日本図書館協会、2008年、所収)。

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26)Radford, G. P., M. L. Radford & J. Lingel, “The Library as Heterotopia: Michel Foucault and the Experience of Library Space,” in Journal of Documentation, July 2015, p. 734.

27)有川、前掲書。

28)重松成美『BABEL』⚑〜⚕、小学館 IKKI COMIX、2012-15年。

29)A. マングェル(野中邦子訳)『図書館 愛書家の楽園』白水社、2008年、p. 42。 30)W. ベンヤミン「蔵書の荷解きをする」(浅井健二郎編訳『ベンヤミン・コレクション⚒』ちくま学芸 文庫、1996年、所収);清水学「社会は図書館である」(『三田社会学』第24号、2019年⚗月)。 31)ジョベール、前掲;『現代詩手帖:図書館幻想』思潮社、1981年11月号も参照。 32)E. ドナート「博物室の炉」(『現代思想 特集=博物学のすすめ』青土社、1985年⚒月)、p. 232。ただ し訳文に一部変更を加えている。 33)「ジュンク堂」(丸善ジュンク堂書店)の「泊まれる」「住んでみる」ツアー、「泊まれる本屋」がコン セプトのホステル・チェーン「BOOK AND BED TOKYO」などが先駆。また、E. L. カニグズバー グ(松永ふみ子訳)『クローディアの秘密』岩波少年文庫、1975年も想起したい。 34)近年のシェンブルンが、迷宮経験を誘う「生活混入」型の「行動展示」を最初に実施した施設として むしろ知られていることは、皮肉といえば皮肉なことである。 35) E. デュルケム(小関藤一郎訳)『分類の未開形態』法政大学出版局、1980年。私たちは、その生活に とって便利なように身のまわりの空間を「分類」し「整理」する。建築家もまた、同様の視点に基づ いて空間を設計し、配置する。 36)他者を理解することの困難は、この認識や行動の原理の異質性による。だがまさにその同じものが、 他者の魅力のひとつとなっていることも忘れてはならない。タルコフスキー SF 映画の主題でもある。 37)J. コクトー(渋澤龍彦訳)『ポトマック』河出文庫、2000年。 38) M. フーコー(工藤晋訳)「他者の場所:混在郷について」(『ミシェル・フーコー思考集成X』筑摩書房、 2002年);同(佐藤嘉幸訳)『ユートピア的身体/ヘテロトピア』水声社、2013年;E. W. ソジャ(加 藤政洋他訳)『ポストモダン地理学』青土社、2003年。 39)M. フーコー(工藤庸子訳)「幻想の図書館」(『ミシェル・フーコー思考集成Ⅱ』筑摩書房、1999年)。 40)W. ベンヤミン(今村仁司・三島憲一他訳)『パサージュ論 第⚓巻』岩波現代文庫、2003年。 41)S. A. クレイン編著(伊藤博明監訳)『ミュージアムと記憶』ありな書房、2009年、の諸論考を参照。 42)小宮正安『愉悦の蒐集 ヴンダーカンマーの謎』集英社新書、2007年。 43)海野弘『部屋の宇宙誌』TBS ブリタニカ、1983年。 44)フーコー「幻想の図書館」、前掲。 45)W. F. バーゾール(根本彰ほか訳)『電子図書館の神話』勁草書房、1996年;マングェル、前掲書。 46)キャンベル、前掲書、p. 314。

47)Radford, G. P., M. L. Radford & J. Lingel, op. cit., p. 742.;キャンベル、前掲書。 48)村上春樹『海辺のカフカ』新潮文庫、2005年。 49)ドナート、前掲論文、pp. 234-5.;谷川渥『表象の迷宮』ありな書房、1995年も参照。 50)『言葉と物』冒頭ですでに「ヘテロトピア」の語が登場していたときの文脈でもある。さらに続ける なら、プラド美術館で衆目を集めている展示が、フーコー的な「知の秩序」に欠かせない「ラス・メ ニーナス」(ベラスケス)、その視線の遠近法であることはたしかだが、それと同等もしくはそれ以上 にひとだかりをよんでいるのが、階下にあるボッシュの三連祭壇画、そのボルヘス的といってもよい 「迷宮的」世界であるという事実の意味は小さくないように思われる。 (原稿受理日 2019年⚒月14日)

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