18世紀前半ロシアにおけるマニュファクチュア工場労働者の補充と技能工養成について : ウラル・シベリヤの鉱工業地帯を中心に
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(2) 21. 18世紀前半ロシアにおけるマニュファクチュア工場労働者補充と技能工養成. 18世紀前半にマニュファクチュアの急速な発展がみられるが,それは主として国家経 済の必要から,政府の側からする押しつけの結果,いいかえれば政府が主導的にマニュフ ァクチュアの育成につとめた結果にほかならない。そしてそこでは,自由な雇庸労働によ る生産形態ではなく,もっぱら政府のたす桝こよって強制的な立法の規制によって,いわ ゆる経済外的強制によって駆り集められた農奴労働による生産形態が支配的であり,資本 主義的生産形態のマニュファクチュア経営がまだ散発的にしかあらわれていない段階であ る。. 18世紀中頃までのマニュファクチュア経営のうちで,資本主義的である 「そこでは,商人が作業の とみなしたのほ,商人経営の木綿マi=エファクチェアだけで, レーニンは,. 一部分を,自分の道具を雇庸労働者とによっておこなっていたが---他の部分は,彼の ために仕事をするクスタ-リ(註・家内工業者)農民の道具によって,彼の材料でおこな っていた与)+と述べている。. ロシアのマニュファクチュアほ,農奴農民の労働を主要な拠り所とした生産形態にその 特質があったのであり,その典型をウラル・シベリヤ地方のマニュファクチュアに見るこ とができる。レーニンは農奴解放直後のウラルの鉱工業を次のように特徴づけている。 「この地域では,幼稚で古くさい技術,土地にしばりつけられた住民の人身的隷属,強固 な身分上の伝統,独占,その他がまといついている前資本主義的な旧習をみうけることが できる4)+ 「ウラルにおける『労働組織』の基礎には,ずっと以前から,農奴制度がよこた わっていた。. ---・・しかしヨーロッパ資本主義が萌芽的にしか発展していなかった時代に ウラルがこのように高い地位にあがることをたすけた。そのおなじ農奴制度ほ,資本主義. が繁栄する時代にほ,ウラルをおとろえさせる原因となった8)+ウラル・シベリヤの鉱工 18世紀80年代か 業地帯は, 18世紀初頭ピョ-トル大帝(-一世)によって形成され, ら飛躍的な発展を遂げ, 19世紀初頭には銑鉄の生産高がイギリスを抜いて世界第一位に なったが, 1840年代になると急速に衰えていったのである.このようにウラル・シベリ ヤを発展させかつまた衰えさせたのは,レーニンの指摘のように農奴制に基づいた生産形 態そのものであった。. さて,本稿では,ドルジーニソのいう「資本主義的構成体の萌芽+時代,とくにピョトル大帝の時代から18世紀前半におけるマニュファクチュアの発展の過程での工場労働 者の補充と技能工の養成の問題を,ウラル・シベリヤの鉱工業地帯の発展をみていくなか で論じていきたい。. 〔1〕はじめに,ロシアの工業の発展を概観しておく必要がある。 キーチフ・ルーシ時代と呼ばれる12-1S世紀になると,. 「都市手工業者の種揮はあき. らかに増大し,いくつかの都市でのそれは60以上をかぞえるにいたった。. 13世紀に. 紘,その技術や様式のうえで独自のものをもつ,いくつかの新しい手工業中心地がつく りだされ6)+そして多数の新都市があらわれてきた.都市は,領主の城を中Jbにつくら.
(3) 22. 佐々木. 弘. 明. クレムり. れ,その内城の周辺の城壁と濠に囲まれた地帯に商工住民の居住地-ポサード(商工城下 町)が形成され,そこほ共同体を成していた.ポサードは修道院の周辺にもつくられた. ヴオテナ. また世襲領や修道院のなかに,スロボダ(工人部落)と呼ばれる農民の衆落がつくられ, はじめほもっぱら額主の需要をみたしていただけであったが,やがて自由手工業者として その製品を市場のためにつくるようになっていった。 しかしながら,その後二世紀にわたる「タタールの観+は,ロシアの経済発展に大きな 打撃を与え,ポサードもスロボダも廃止され,手工業は衰退した。 14世紀末ごろになって,ようやく商工業が再び活発化し,発展をみせるようになった。 金銀細工などの技術が復活し,銅鋳造所や鏡,大砲などをつくる大型鋳造所があらわれ, 採塩工場の新しい堀さく法が生み出され,水力検閲(水車)が工業に用いられるようにな ったり,また建築技術も急速に発達していった8'。ポサ⊥ドとスロポダも立ち直り,住民 の数も増加し,領主たちもそれらの創設に力を入れるようになった。とくにスロポダは, 15世紀のなかばにほ, 286を数えるようになり○),またモスクワには外国から招かれた聴 工のスロボダもあらわれている。. 16世紀のはじめごろから中央集権国家体制が形成されていくとともに,経済交流が活 発化し,国内市場が組織化され,商品・貨幣関係が進むにつれ,商工業はますます発展を みせていった.都市の手工業者の種薫別i,. 210に達し,そのうちで食品関係-パン,莱 千,クワス,など-が多かったが,ラシャ職エ,麻布織工,皮革工,製靴工,裁縫師, 帽子工,故工,刀剣工,甲工,鍛冶工,鉄延工,鍵工,錫引工,金銀細工師,などであっ た10'。このような職種の増大は,社会的分業も進めていった。しかし,ロシアにおける中 央集権国家体制の形成ほ,農奴制の確立という封建的諸関係のなかですすめられ,社会的 ソボールノエ・ウt7>}エー.=エ. 分業も不十分なままであった。例えば,. 1649年の会議法典に商業を営む人々とし. て,コサック,兵士(砲兵,龍騎兵など),手工業者(大工,鍛冶工など),農民そして商 人が列挙されており11',またノ1701年のモスクワ店舗一覧表によると, 16,857戸のうち 42・2パーセントにあたる6・894戸は,農民,手工業者と兵士によって営まれていた12), ということにもみられるように,農民,手工業者そして兵士などの直接生産者が市場向け. の商品として作り,自ら商っていた。農民は手工業を,兵士は農業あるいほ手工業を,と きには専業的に,ときには副業的に営んでおり,それぞれが判然としたものではなかっ. た。都市の手工業者にしても,毛皮工,皮革工や金銀細工師など少数のを除いて独立的工 匠とはいいがたく,職種の分化が進んできたとはいえ厳格に専門化したものではなかっ た。その上ツェフ(同業組合)の組織化もはとんどみられず,徒弟制度もはっきりしたも のはなくむしろ因襲的であり,手工業者の多くはその日暮しの貧民層であった。. 1722年 にピョ-トルが都市にツェフの組織化を試みたが不成功におわり,ロシアの手工業は,都 クスクーt). 市よりも農村の家内制手工業が成長を続け,. プロムイセル. 18世紀末までに零細な農民小営業として広. 汎に普及していくのである。 16世紀から17世紀にかけて各地に工業の中心地が形成されるようになる。鉄鋼がモ スクワとツーラの周辺,製塩がカ-マ地方など,ポッタ-シ(炭酸カ.)ユーム)がニージ.
(4) 18世紀前半ロシアにおけるマニュファクチュア工場労働者補充と技能工養成. ェ・ゴロドスクの付近など,皮革がニージェ・ノヴゴロドなど,亜麻布がトヴェリ ̄とモス クワなど,硝子がモスクワなど,であった。ウラルシベリヤ地方でも1620年代には鉱石 の採掘がおこなわれている。また1628年に最初の高炉が使用され,ツーラでは水力が利. 28. 用され,. 1680年ごちからマニュファクチュア的経営形態がみられるようになってくるの. であるo最初のラシャ・マニュファクチュア工場は1684年に現われたといわれる1さ). 17世紀中頃からマニュファクチュア工場が増加をみせていくが,これらは,ツーラやウ ボヤーl)ン. ゴースチ. ラル・シベリヤの鉄や鋼などの官営工場のはか,大貴族,修道院そして大商人などが経営 するものであった。大商人企業の代表としてほストロガノフ家があげられる。ストロガノ フ家の祖先は14世紀に農民であったが,. 16世紀末にロシア最大の製塩業老となり,製塩. のほか,ポッタ-シ,製鉄,などの工場を各地に所有し,はかに原毛の売買や漁業を営み, それらでは約1万人の雇庸労働者と5千人の農奴農民が働いでいたといわれ,そしてその 商業活動はロシア国内はもとより外国にまでおよび,当時の商業ブルジョアジーの典型で あった。大貴族企業としてモローゾフ家があげられる.モローゾフ家は,. 17郡に300の. 村と1万人の男子農奴農民を所有する世襲領主であって,国内最大のポタ-シ工場で多額 の利益をあげていたほか,鉄鋼,皮革,火酒,煉瓦,麻布,小麦粉,などの製造工場を有 していた。このはかには,アル-ンゲリスクのバジェニン家の造船工場が知られている14)0 17世紀のマニュファクチュア工場における技能労働力は,雇庸労働がもちいられ,戟 酬ほ貨幣で支払われていた。官営工場でほ外国人職工の使用もみられた。農奴農民の労働 力が多数用いられていたが,彼らには,頁祖の代りとして補助的雑役労働が課せられてい た。. 〔2〕ピョ-トル大帝の治世になると,政府の側からなかは強制的におしすすめられた 工業化政策の結果,マニュファクチュアは著しい発展をみせるようになる.ピョ-トルに ロシアの工業化を急がせた直接?動因ほ,当面していた戦争(アゾフ海出兵,スエーデソ との北方戦争)そのものであって,軍事力の整備強化との深い関わりなかでマニュファク チュアが促進された。. ピョ-トルの治世の初めの数年間に,軍需工業を中心として,各地に大規模な官営のマ 1700年から1704年のあいだに,鉄や鋼など ニュファクチュア工場が建設されている。 の金属工場と兵器工場一北欧にオロネッ(現在のベトロザヴォドスク)工場,南のヴォ ロネジにリベツク工場とクジミソスク工場,東のウラル・シベリヤ地方にネビヤソスク工. 場,カメソスク工場,ウクト-ス工場,アラパエフスク工場,など-が次々に建設さ れ,ツーラも兵器工場として整備拡充された。とくにツーラの工場からほ,兵器工と鍛冶 工が各地に新設の工場の技能要員として派遣された。また陸海軍に供給するための帆布や 麻やラシャの生産をする工場がモスクワ郊外に設立された。そのほか,硝子,硫黄,追 船,製紙,印刷など各種の官営工場も建設された。ことに海軍力の増強との関係で,造船 に力が注がれ,ピョ-トルの治世の終りまでに,タヴロフ,ペテルブルク,レ-ヴェリ,. クロンシタット,カザソ,アストラ-ンの各都市に存在した。.
(5) 24. 弘. 佐々木. 明. ピョ-トルは,軍需を結びついた工業を中心に官営のマニュファクチュア工場の建設を すすめていったが,それと同時に貴族や商人などに私営工場の建設を奨励し,国庫から無 利子の貸付や無償還の補助金を支出したり,免税措置を講じたり,独占権を付与するなど の特恵を与えた。そしてさらには,官営工場を無償で,奨励金までつけて個人に譲渡し た。例えば,. 1702年にウラルのネビヤソスク工場をニキータ・デミドフに譲渡している。. デミドフは,. 17世紀末にツーラの鍛冶工から兵器工場主となり,政府に兵器類を廉価で. 納入するなどで富を築いたが,ネビヤソスク工場の譲渡を受けてからほ,ウラル・シベリ ヤの各地に鉄や銅などの金属工場を建て,この地方で最大の工場主となった。ピョ-トル ほ,工業振興のために特恵約手段を用いただけでなく,押しつけ的な強制手段も講じてい る。例えば, 1712年に,官立のラシャ工場を某商人に譲渡するにあたって, 「自ら希望し ない時には,強制的にも引き渡し,工場に対する年額は軽くして彼らが安楽にその仕事を 営むことができるように+することを命じている1与). こうして,ピョ-トルの治世以前には約20のマニュファクチュア工場が存在していた だけであったが,彼の治世の終り(1725年)には約200になっていた18)o これほどマニ ュファクチュアが急成長をみせたのは,上述のように政府の手で上からのなかば強制的な 工業化政策によるものであったが,それを可能にしたのは,ピョ-トル以前までの手工業 や商業の発達,国内市場の形成,など不十分とほいいながらマニュファクチュア発展の条 件があったからであって,政府の側からの一方的なマニュファクチュアの人為的育成の結 果とみることほ正しくないであろう。ピョートルは,それまでに存在していた工業を発展 させ,また新しい工業を導入していったのであり,それまでのマニュファクチュアの中心 地を復興し,また新しい中心地をつくっていったのである。 ピョ-トル以後も,マニュファクチュアは着実な発展をみせている.キリーpフは, 1762年にマニュファクチュア工場が984存在していたとしている。. (工場数については. 650から700のあいだが多い1丁))。. ソ連の研究家のあいだでもまちまちであるが, 軍需関係のマニュファクチュアは次第に衰退し,代って軽工業,主としてラシャ,棉, 麻布などの繊維マニュファクチュアが発展しており,とくに1750年代から1760年代に かけてから工場が急増している。その中心はモスクワとペテルブルクで,. 1765年の統計. によると,ラシャ工場-88(1,231磯台),網工場-57(2,081壊台),麻布工場-67(7,285 横台)がロシアに存在していた18)0 軍需工業の衰退は.鉱工業の発展を妨げなかった。北方戦争の終結(1724年)後,と くに鉄製品は輸出の重要な品目となり,鉱工業は発展を続け,なかでもウラル・シベリヤ ほ鉱工業の中心として急速に成長していった。ロシアで,. 1725年に80万プ-ド(1プ-. ドは16.38キログラム)の銑鉄を生産したが(同じ頃イギリスでは104万プ-ド生産), 1740年にはその生産高が2倍の153万プ-ドに達し,イギリスの105万8千プ-ドを 凌ぐほどになっている19).輸出高においても1740年代に銑鉄ほ60万プ-ドとロシア全 土の金属生産の80パーセントにのぼっている20)0 ウラル・シべ1)ヤの発展のテンポは17$0年代になって急となった。. 1731年から1740.
(6) 25. 18世紀前半ロシアにおけるマニュファクチュア工場労働者補充と技能工養成. 年のか、だに,官営工場が10,私営工場が12,建設されたo. 1740年代に入ると官営工. 場の建設は減少し, 1750年までにウラル・シベリヤに合わせて67の工場が存在している 41が私営工場である21'。この頃ウラル・シベ1)ヤ地 が,そのうちの26が官営工場で, 方は,ロシア全土の鉄の生産の65パーセント,銅の生産の90パ-セントを占めるよう になった望2'.ウラル・シベリヤにおいて私営工場の発展が著しいが,その大部分はデミド フ家,バターシェフ家,モソ-ログィ家の所有で,私営工場における全生産の75パーセ 1785-1786年に23の工場を所有 ントを越していた.なかでもデミードフ家が最大で, していたが,. 1750年には34にふえており,工場の生産の3分2は輸出していたといわ. れる望S). ⅠⅠ. 〔1〕ピョ-トル大帝の工業政策ほ,基本的には,それまでのロシアの工業の発展を基 にし,それをさらに一層発展させていったものであった。すでに「ロシアの工業ほ,ロシア 本来の手工業や家内生産のなかにしっかりとした板をもちていた+のであり皇4',ポサード やスロボダなどの手工業,そして農村における家内工業の技術は一定の水準に達していた。 しかしながら,マニュファクチュアの発展にとって,大きな障害として労働力の不足と 1649年の会議法典以後農奴制度が強化・確立されて いう問題が現実に横たわっていた。 ゆき,そして「農村-の商品・貨幣関係の侵入はゆるやかにしか進んでいなかった+ので あっでI),農村住民の分化が抑制されていたのである.その結果として都市も十分に発達 することができず,その住民の全人口に占める割合は取るに足りないものにすぎなかっ た.. 1724年においても都市人口は,全人口1,400万のうち3パーセソト(32万8千人). を占めているだけであった皇6)0 工業の発達をロシアにとって焦眉の急とみなしたピョ-トル政府は,各種部門における 熟練した技能労働力,また燃料の木材の伐採や運搬,原料や鉱石の運搬,製品の輸送やそ の確保,そして技能労働者の養 のほかさまぎまな雑役労働に必要な大量の補助的労働九 成という大きな問題に直面し, i,かもこれらを同時に解決してゆかねばならなかった。農 奴制度は,自由な雇庸労働力の成長にとって強いブレーキとなっていたのである0 ピョ-. h/レは,. 「自由雇庸労働力が農奴労働力に優越することをしっていた+が27),義. 奴御慶下のロシアにあっては,必要な自由雇庸労働力を十分確保することは不可能であっ た。そこで彼は,経済外的強制手段で,いわば農奴制度そのもののなかに抜け道を見い出 し,それを逆用することによって,労働力を補充・確任し,マニュファクチュアの促進を 因っていったのである。. とはいえ,初期においては,ピョ-トルが自由雇庸労働力の使用に重きをおいていたこ とは留意しておく必要がある。 彼は, 1696年に,シベリヤに鉱脈の蹄査といくつかの実験工場の設立の目的で学術探 険隊を派遣したが,この工場に雇庸労働者を100-150人引き入れるよう命じ. またその. ためにトムスク市からライ麦の粉,燕麦のひきわり,塩およびパン焼工を徴集することそ.
(7) 26. 佐々木. 弘. 明. して「賃金を内金として国庫からパンを彼らに与えること+あるいほ原価で売ること,杏 命じているのである28'.またオpネ-ツ工場の建設のた捌こ近隣の村から農民が集められ たが, 1702年に1人1日につき6ジェ-ニギ(1ジェ-ニギは半コペイカ銅貨)が支払 われ,そして農民の徴集の文書には「労働する人々の雇庸+と記されている加'. 当時ロシアにおいて自由雇庸労働者の大部分を成していたのは,おちぶれた手工業者, 自営の水呑百姓,兵士や職にありつけない僧侶の子弟,逃亡した農奴農民,浮浪人,乞食 であった。ウラル・シベリヤにおいては,入植者が自由雇庸労働者の出所であった。ウラ 16世紀以後に征服された新しい土地であって,政府はこの未開の ル・シベリヤ地方は, 地の開発のために,耕地を有利な条件で分与し-3-4年間返済開始時期の猶予および 納税義務の免除,また年貢の軽減(収穫の5分の1,中央ロシアでほ2分の1が普通であ つた)など-,入植者を引き寄せてきた。入植者は,国有地農民,兵士,水春百姓や浮 浪人のほか多数の逃亡した世襲領地などの農奴農民たちであった。ウラル山脈・東部の2 つの村では, 1695年に住民の80 ′く-セントが逃亡農民であったといわれるBO'。たとえ 逃亡農民であっても,はじめのころは政府も蘇認的態度をとり,耕地を分与している。ピ ョ-トルは,これらのウラル・シベリヤの住民を工場に引き入れようとした。しかし,人 口そのものが希薄であり,その上住民の大多数は農業によって生計を,十分でないとはい え,保持することができたので,賃金の低い工場に好んで行くものは少なかった。 〔2〕スエーデン戦争の開始(1700年)ほ軍需の拡大を必要とし,軍需関係のマニュ ファクチュアエ場の建設が急テンポで進められていったが,それにともない労働力の需要 も急速に大きくなり,自由雇庸労働力でこれを充たすことは到底できず,ピョ-トルは, すでに17世紀の官営工場で行なわれていたことだが,農村の工場への登. プI)ピースヌイ. 録などの経. 済外的強制手段に訴えざるをえなかった。 ウラル・シベリヤの官営工場に,村里と農民の登録が次のように行なわれている。 ネビヤンスク工場に,. 1699年に15の大村が登録され,. 1700年にはシべ.)ヤの各地か. ら徴集された農民1,671人が送り込まれている。カメソスク工場には,. 1700年に2つの. 大村と2つの村落の1,040戸が登録されている。ウクト-ス工場にほ,. 1702年に工場建. 設に9つの大村,そして操業開始とともにさらに6つの部落が登録された。アラパェフス ク工場には,. 1704年に8つの大村が登録されている。この時期にほかにもいくつかの官. 営エ場が建設され,村里や農民の登録がなされているが,これらの工場のはとんどは間も なく閉鎖されている81)0 村里と農民の登録ほ,その後も続けられ,その度合もますます強められている。ウクト 1718年に2つの大村と2つの部落の1,006戸が登録され, -ス工場に, で,登録農民数が6,525人に達している。アラパエフスク工場でほ, 登録農民数が5,112人となっている。. スヴュルドロフスク)の工場に,. 1719年の調査. 1719年の調査で, 1721年に建設に掛った-カテリソブルグ(現在の. 2,000人の農民,. 700人の馬持ち農民と約500人の大. 工が送りこまれ,操業開始とともにさらに5?の大村の農民4,774人が登錬されている。.
(8) 27. 18世紀前半ロシアにおけるマニュファクチュア工場労働者禰充と技能工養成. 1726年の資料によれば,ウラル・シベリヤの官営工場に登録された男子農民の数は, 26,067人にのぼっているのである82)0. 農民だけでなく,乞食や浮浪人もマニュファクチュア工場に強制的に送りこまれた。そ 「過ちを犯かした女や娘+を工 してさらに苦役の受刑者も同様であった。ピョートルは, 場に送って矯正することをたびたび命じている。. 1722年オランダ人タメス(あるいほタ. ムセン)の経営するモスクワの麻布紡績工場を訪れた待従補ベルフゴーリツは,日記に, この工場にほ「女たちが働いている。彼女たちは,刑罰として10年またはそれ以上,そ してなんにんかは永久に,紡織工場に引渡されている:彼女たちのいく人かは,鼻を削が 1780年代には,シべ1)ヤに沈刑の判決を受けたものすべて. れていた+と書いている83)0. をシベリヤの諸工場に送ることが命じられている。 〔3〕技能労働者もまた自由雇庸によってではなく,`経済外的強制によって補充されて いった。. 「自分の. 17世紀以来兵器工業の中心となっていたツーラ兵器工場の鍛冶工と兵器工が,. 工具をもって,妻子とともに+新しく建設された各地の工場に強制的に送られていった。 1705年にオロネ-ツ工場に100人,をはじめボロネジ,プ大コフそしてウラル・シベリ ヤに合計280人の鍛冶工と兵器工がツーラから送られている34). 1706年に,. オロネ-ツの工場には,さらに多数の鍛冶工が全国から集められている。. 1都市につき5人ずつ,妻子. すべての都市から「500人の腕利きの働きものの鍛冶工を,. とともに----鍛冶に必要な一切の道具を携えて,永住できるように,共同体から十分な 支援を受けて,送ってよこすこと+を命じており,さらに兵器廠から180人の鍛冶工が 送られ,全部で680人の鍛冶工が強制的に送りこまれた紬). ネビヤソスタ工場にもモスクワ近郊の技能工が集められているo マスチエ-)I,. が送られてきたが,その内訳は,熔鉱の親方1人と聴. 1700-1701年に43人. *'ドマスチエ-〟. 工,大工の親方2人と職工1 モロトゲオイ. 人,兵器の親方1人,鍛冶の職工3人,石炭の親方3人,大槌の親方4,採鉱の職工7 人,その他となっている86).ウラル・シベリヤのこのほかの工場にも,ツーラやモスクワ. などから技能工が強制的に送られたが,. 1720年代になると主としてオロネ-ツ工場から. 送られてきた。. マニュファクチュアの発展は,技能工の需要を一段と高めた。ウラル・シベリヤのマニ ・ゲソニソは,技能工の不足を兵士によ 「トボリスクに駐屯の部隊ほほとんど何もしていない--.-・-. ュファクチュア工場監督官の地位にあったヴェって補なおうとした。彼は,. ただ益もなく横臥しているだけだ+として新設の工場にトポリスクの部隊の兵士を編入す ることの許可をツァーリに願い出た。その結果トボリスクの部隊に徴兵された新兵のう ち, 1721年に54人, 1723年に58人,の合計153人が工場に登録 1722年に41人, されている87)0. 〔4〕このように農奴制皮下において工場労働力の補充・確保はきわめて大きな問題で.
(9) 28. 佐々木. 弘. 明. あったが,これは商人などの私営工場においては一層深刻であった。. 商人工場主に工場のために農村を購入する権利を与えた1721年の勅令ほ,労働力の補 充・確保のいわば抜け道であった。これは,世襲領主(貴族)にのみ与えられていた農奴 占有権を,商人などの非貴族層にまでひろげたものである。もっともこれには「これらの 農村が永久にその工場と分離することがないように+という条件がつけられており,また 農民ほその所有者にではなく工場に緊縛されたのであり,所有者は,工場を分割したり, 農奴を切り離して売買する権利を有してはいず,農民の工場労働使用の権利を有していた *'センシオンナヤ. にすぎなかったのである。こうした工場は,農奴占有マニュファクチュアと呼ばれてい る38)o. 1721年の勅令は,必要な工場労働力を獲得しまた訓練する機会を商人などの非貴族工 場主にひろげた。しかしながら,この勅令ほ彼らを満足させるものではなかった。第一 に,農村の購入ほ,工場の生産と関りのない土地や建物を含んだ価格であったて工場主に 多額の出費を要球したので大規模にほ実施されることはなかった。第二に,農村の購入 紘,工場に最も必要な人間-技能工を必ずしも含んではいなかったし,その上,村の住 民の過半数ほ労働力として使用できないもの-幼児,老人,病人や虚弱者そして女たち であったのである。. 1767年の報告によれば,. 179の私営工場に21,286人の農奴が登録. されていたが,実際に工場労働に従事していたのは8,832人(39パーセント)にすぎな かった昌9)0. 〔5〕商人などの非貴族工場主は,高くつく農村の購入よりも,もっと安く農奴農民を 手に入れようと努めた。 彼らの労働力は,乞食,浮浪人,自由職人,出稼ぎ農民そして逃亡した兵士と農奴農民 など,自由な雇庸によるものであった。 ウラル・シベリヤでは,逃亡農民が労働力の最大の補給源であった。デミドフ家のネビ ヤンスク工場でほ, 1717年に516人の労働者が数えられたが,そのうち308人(約60 パーセント)が逃亡農民であるとみられ40),また1780年代初めには, 1291人の労働者 のうち, 1248人が農民でその大部分が逃亡農民であるといわれている41).逃亡農民は官 営工場においてさえ雇用されている。. 1726年の調査で,. -カテリソプルクで189人,ウ. クト-スで88人,その他で20人の逃亡農民が見つけられている42)0 逃亡農民の数は,. pシア全土で1719-1727年に約20万人,. 1727-1742年に32万 7千人にものぼったといわれ,政府は,逃亡農民を捜索し,元の土地や主人のもとにつれ 戻すことを繰返し命じたが,その効果はあまりあがらなかった。 工場主にたいしてほ,逃亡農民の雇庸を禁じている。しかし,逃亡農民を隠匿し,彼ら の窮地に乗じて低賃金で雇庸する工場主が跡を絶たなかった。もっとも政府も,不足の技 能労働力の確保のために矛盾した命令を発している。 1722年に,工場で働いているもの を「これらの工場を荒廃させないために,強制的に送り返さないこと+を命じており,普 た同じ年にピョートルは, 「エ場から徒弟と労働者を,彼らが何人であろうと,たとえ逃亡.
(10) 29. 18世紀前半ロシアにおけるマニュファクチュアエ場労働者補充と技能工養成. 着であっても,引き渡さないこと+を命じているのであが3).そしてこれ以後,逃亡農民 のうちで,技能労働に就いているものについては,その元の主人に賠償金を支払えば工場 の所有とすることを許している。つまり工場主に個々の農奴の購入権さえ与えていったの であり,これほ1721年の勅令と矛盾している。工場主が貴族と並んで農奴占有権を獲得 し,逃亡農民は,工場に緊縛され,いまや主人が工場主に代ったことを意味した。 17$2年に,政府は,工場主にたいして労働者の実態調査を命じたが,その際人頭税の 支払いを兵役の義務を免れているもの(逃亡した農民と兵士や浮浪人など)の名簿の提出 を強要した.その結果,デミードフ家所有の工場で,該当者が全部で2万5千人以上も見 っけられている48).これらのもののうちで,主人の判明したものについては即刻返還が命 じられ,それ以外のものについては納税と兵役の義務が課せられた。この措置にたいし, デミードフは,政府にたいし,これらのものにほ少なからぬ量の技能を教えこんでいるの で,兵役にとらないことと元の主人-の返還を免れるようにと嘆蘇書を送っているoはか の工場主たちからも同様の嘆願が次々となされ,政府は,これらの要溌を入れ, 年に塀次技能を有している労働者と妻子をそれぞれの工場に登録しているo. 1738-35. 1786年の勅令によって仕上 こうして技能労働者の工場農奴化が進められていったが, 「現在,工場の近くに居住し,工場に所属していて, げられたのである。その第一粂で, 単純労働にあるものでほなく,なんらかの技能の訓練をされたものはすべて永久に工場に 「これから先,これらの工場で,永久に工場に譲渡された上 在ること+そして第2粂で, 記のものの子弟を親方にまでするた捌こあらゆる技能を訓練すること+が規定されてい る。自由雇庸の親子や職工,逃亡農民の技能労働者はもとより,その子弟もまた同時に工 マスチエルストすオ ヴエ_チノ. オトダンメイエ. 場に登録され,彼らは「永久に譲渡された職工+と名づけられた。これら以外に 訓練中の徒弟,さらには親類縁者を有せぬ者,私生児,孤児,洗刑著そして町や村でぶら ぶらしているものたちもすべて工場に登録されてしまった。雑役的な補助労働にある逃亡 (出稼義 農民については,元の主人に返還し,この韓の労働には族券を有した「自由人+ 氏)を雇用することを規定している。また工場主にはこれら労働者を裁判し,徴罰する権 利をも与えており,この勅令は,工場主に貴族と同等の権利を事実上与えたのであるWo しかしながら,こうした動きにたいして,農奴所有の特権を商人などの「卑しい者+た ちと分ちもつことを好まなかった貴族は,工場主の農奴所有の権利を奪い返えそうとし, また一方では,自分の特権を利用して工場経営にのり出すものがふえていったoやがて貴 族の側の攻勢によって,商人などの非貴族の農奴所有の権利に制限が加えられていった。 1752年の勅令で,非貴族の工掛こ購入される農奴数が工場の規模と設備によって制限さ れ,そして1762年には非貴族の農村購入それ自体が禁止されてしまい,非貴族の農奴所 有の権利をすっかり失うことになった。その後,非貴族の失われた権称も1798年に回 1802年に近隣の農村以外の購入 復されたが,大規模な農民移動が生じたことなどから, が禁止された。 非貴族の農奴所有権が制限されていくにともない,貴族のマニュファクチ且ア進出がふ えている。貴族の工場は,世襲領工場と呼ばれたが,労働力(農奴)にこと欠かず,賃金.
(11) 30. - 佐々木. 弘. 明. を支払う必要もなく・原材料の調達も容易で,資本をあまり必要としなかった。世襲領工 場は・ピョ-トルの時代に全工場の8パーセントでしかなかったが,. 1760年代以後急速. に増加していったヰ8). 〔6〕 1740年代ごろから・農民の出稼ぎが増加しているo彼らほ,農奴農民であった. ので・村を離れて働きに出るためにほ,共同体を領主の承諾を得て,役所から代価を払っ /<スボ)i,I. て旋券をもらわなければならなかったo族券を所持しないものは,逃亡者とみなされた。 出稼ぎ農民は・自分の領主にたいし,自分の村においては農奴農民であり,雇庸主にたい しては自由な賃金労働者であった。こうした出稼ぎ農民が,ロシアの自由雇庸労働者のは とんどを占めていくのである。出稼ぎ農民は,非黒土地帯やモスクワなどの貨幣による貢 納地代の支配的な地域が多かった。例えば,ヤロスラーヴュリ県でほ,旋券の発行数が, 1788年に58,700枚,. 1798年にほ78,700枚以上となり,成人の農民人口の約19パー. セントが出稼ぎに出ていった。モスクワ県では,. 1799年に約48,900枚の旋券が発行さ. れ,成人の農民の10パーセントが出稜に出ていた4T)o. 18世紀後半から出稼ぎ農民が著しい増加をみせるとともに,自由雇庸労働者の割合が 高まり(ウラルを除き,. 1769年に全工場労働者45,700人のうち39%を自由雇庸労働者 が占めている48'),ロシアのマニュファクチュアに資本主義的諸関係が形成されていくこ とになる。. しかし,ウラル・シベリヤでほ,自由雇庸労働者の割合はきわめて低く(1760年代で も自由雇庸労働者は全体の1′く-セントにみたなかった49)),依然として経済外的強制労 働が支配的である。この状況ほ19世紀に入ってもみられる。例えば, 1805年の特別命 令によって,技能工を,新兵徴募の方式で集め,終身労働者として妻子ともども強制的に 住みつかせることが許された。. ネプレメン3rイラポートヱク. 1807年に,. 「終身労務者+の制度がつくられたが,これ. は登録農民のうち,工場に必要なものを終身労務者とし,それ以外のものを工場労働から. 解放させるというものであったoペルミ,トポリスク,アヤトカ,カザソ,オレンプルク の各県全体で217,115人の登録農民のうちで,終身労務者として17,850人が工場に残 されたbO)0. このようにいつまでも経済外的強制労働力に依存しなければならなかったところにウラ ル・シベリヤの鉱工業が1840年以降裏返してゆくことになる最大の原因のひとつがあっ たのである。 ⅠⅠⅠ. 〔1〕ロシアのマニュファクチュアの発展にとって,労働力とりわけ技能労働力の確保 ならびに養成ほ,最も重要な課題であった。技能労働力の確保のた捌こ,ピョ-トル大帝 以来,ツーラやモスクワなどから技能工を強制移動させるなどさまざまな方策が講じられ ていたことは前節でみたとうりである。. 技能労働者の養成の問題は,その確保にもまして大きかったが,ピョ-トルは,当初か.
(12) 31. 18世紀前半ロシアにおけるマニュファクチュア工場労働者補充と技能工養成. 1696年にトムスクの学術探険隊に,. ら重大な関心を示している。. 「読み書ききができるも. のでもできないものでも,いかなる身分にあるものでも,経験によってなんらかの技術が. あれば,希望するものに鉱石の溶解や銀の加工などあらゆる業を教えこ′むこと+を命じて 「少し いが1).また1702年にネビヤンスク工場をデミドフに譲渡するに際して,彼は, ずつ(工場の仕事を)習得し, ・--自分の労働で家財をつくろうと望んでいるものには, 大いに教え込むこと+という命令を添えている82).. 18世紀になると,マニュファクチュアの分業化が進み,それにともない生産技術の専 ツエフ. 門化も進んだ。ウラル・シベリヤでは, 成っていたが,. 18世紀初めひとつの工場ほ9つの専門工場から. 1720年代には32から成っていった。例えば大槌工場ほ,. 7つの専門工. 場の分業で,精鉄,たたみこみ,延坂,ブ1)辛,切断,圧延そして製鋼という工合に分か れている。生産工具にしても,. 17世紀に90点であったものが,. 7倍以上もの680点を. ふえている8き)。熔鉱炉のふいごを運転させたり,大埠の上下運動や責孔磯の回転などに, 水を動力源とした機械装置が用いられるようになっていたが,工場そのものは,手工業的 技能を集約した大工場であった。従って分業化は,専門技能の分化と高度化をともない, 技能労働者の量的供給のみならず質的供給をも必要としていった。 〔2〕ピョ-トル以来18世紀前半を通じて,技能労働者の養成のためになされた方策 として,外国人職工によるロシア人の技能訓練,ツェフの組織化,学校による準備教育, 工場による養成,があげられる。. ヨーロッパ各地から非常に多くの親方や職工などが招かれ,ロシア中の工場にばら撒か れた。彼らは,ロシアの技能労働力の補充のためと同時に,ロシア人職工の養成のために 招かれたo. ピョ-トルほ,彼らに「あらゆる隠し立てなしに勤勉にロシアの人々を教える. こと+を義務づけている84)0 オロネ-ツ工場に,. 1704年にデンマ-ク人など16人の外国人-8人の銃砲製造工と. 6人の刀剣撰製造工そして2人の職人の息子-が送られてきた.. 1708年までに,いろ. いろな理由で解雇されて6人が残った。この年1人がロシアで「生活を希望しない+と帰 国を願い出たが, 「契約にしたがって教えること.・・-・・・・その上で自由が与えられる+と彼 につけられた生徒が技能を習得した1710年にやっと帰国が許された。外国人職工に要求 されたのは,生産することよりも彼らの技能の伝授であった。結局工場に残って生涯を送 ったのは2人だけであったが,その1人デートル・カールクは非常に熱心にロシア人に教 17鴨年までに14人の生徒に技能を与え,生徒ほこの年には親方となっており,彼. A,. ほさらに24人の生徒を教えている印)o. 1716年にべテルプルクに設立の壁布工場に, 染物匠が送られてきた。. 4人のフランス人-3人の織匠と1人の. 8年後の1724年になると4人の織匠のうち3人ほロシア人で,. 1人がフランス人,また染物匠はすべてロシア人になり,授かに59人の徒弟がいた86'。 技能労働力の禰充と養成の目的で外国人職工を招き入れようとする債向ほ,ピョ-トル の死後にも引き続いてみられる。ウラル・シベリヤ工場監督官ゲソニソは,外国人職工の.
(13) $2. 弘. 佐々木. 練達を要請して, 1726年に,. 明. 「親子-外国人ほ,ロシアに比らベて,はるかに多くのそし. て良質の鉄製品をつくることができる。. --そして彼らからロシア人が学ぷことができ. ち+と述べている附)0 多数の外国人がロシアに招かれたが,彼らみんなが腕が良く,ロシア人に熱心に教えて いたわけではなく,いい加減な人間も少なくほなかったし,技能工の養成という面で十分 な成果があげられたかどうか疑問である。しかも外国人の捧給はロシア人と比較してはる かに高かった。 174畠年にオロネ-ツ工場の3人の溶鉱徒弟が,外国人と引けを取らない 仕事をしているので彼らの俸給をあげてくれるよう求めている請願書がある。この徒弟の ひとりほ,. 「17年間にわたって,採鉱,洗鉱,精錬そして鉱石の溶解に必要なあらゆる仕. 辛+に従事してきたのに,外国人親方からは徒弟としての扱いしかされず,. 1日に1ルー. プル50. コペイカの俸給(サクソニア人の親子は17ルーブル3S コペイカ) である。こ れでは妻子を養えず,妻子は「世間を放浪し,慈悲にすがって養われている。 私にしても 外国人の高 その地位が低くて,堪え難い屈辱感を味わっている+と訴えて,さらに彼は, 「サクソニア人の仕事+ を彼らロシ い俸給が製品の価格を引き上げているのであるから, ナウーカ. ア人に引き渡すよう要求し,. 「なんらの欠陥も落ち度もなく自分の科学によって+すべて. の仕事を成し遂げてみせると断言し,俸給と等級の引き上げを嘆願している88)。 〔2〕. ピョ-トルは,手工業者を組織することによって,その技能の向上をはかるとと. もに,そこに技能労働力を養成させ供給させようとした。それが,. 1722年から実施され. た,すべての都市の手工業者のツェフへの強制加入である。 ア1)チエルマン. ツェフに加入の有資格者は,親方だけで,彼らのなかから組合長が選出される。親方 ほ,職工と徒弟を所有する権利が与えられる.親方になるには,組合長のところで行なわ れる技能試験に合格しなければならない.親方と組合長によって,商品のすべてに組合の 賂印が押され,品質の悪いものは廃棄するように命じられ,、また賂印のなものを売買した 場合にほ罰金が課せられそして組合から除名される。一人前,つまり親方になるまでに最 低7年間の技能訓練期間が定められていた。 1722年に,モスクワでツェフに加入のため,. 6,261人が出頭してきたが,それには,. なめし皮職人,靴屋,皮革工,仕立屋,帽子屋,金銀細工師,鍛冶屋,刀剣工,パソ屋な どが入っていた。これらから$2のツェフがっくられたが,親方の資格を与えられたのは 3分の1以下の1858人だけであった59).. しかし,その後ツェフの組織化はあまり進まなかった。 1780年代の初めに,ロシア全 土でツェフの組合員数は1万5千人にすぎなかった81)。ツェフを通じて,マニュファクチ ュア工場.に,自由意志で,または強制的に技能工が送られたと思われるが,その数ほ決し て多くほなく,ピョ-トルの企図ははとんど実現されなかったのである。 〔3〕技能労働者の養成を組織的に行なおうとすると,学校が必要となってくるo -トルは,学校以外の施設として,. 1708年にモスクワに「浮浪人のための労働の家+杏. ピョ.
(14) 18世紀前半ロシアにおけるマニュファクチュア工場労働者靖充と技能工養成. 建ててさまざまな技能を習得させることを命じたり,. 33. 1724年にも,モスクワや他の都市. に私生児の収容施設をつくって技能訓練を施すことを命じたりしている61)0 技能労働者の養成のための準備教育をはっきりと目的とした学校は,まず造船工場から つくられていった。. 最初の学校は, 1708年にヴォロネジ近くのタグロフに建設された海軍工廠につくられ たロシア語学校であるoはじ捌こ生徒として90の若い龍騎兵が集められ,教師として工 1708年に学校に,教科書が 場の製本工1名を数学航海術学校の学生2名があてられた。 「職工の教育のために-・・.・・・・綴字書49冊---・・アズプカ300冊-・・・・・・詩編88冊---日読祈席書100冊--・-算数48冊+逮られ,ほかに「石盤+が購入されていることか ら卜読み書きと算数の初等普通教育を内容としていた。とはいえ,算数の教科書は,価格 から判断すると,この年数学航海学校の教師マグニッキーによって刊行された『算数,即 ち数字の科学』と思われる。この教科書は,算数,幾何,三角法そして天文学の基礎知識 を内容としたものであるが,この時代では高度なもので,むしろ教師用指導書として使用 されることが多かったといわれる。その冊数からいってこの学校では生徒も使用したと思 われることから,生徒ほ,四則算の初歩的内容だけでなく,幾何など将来直接に役立つ専 門的内容まで教えられたと思われるのである¢2)0. 1710年代後半から各地に海軍工廠が設立されるにつれて,ロシア語学校の数もふえ制 度化されていった。. 1719年に,海軍工廠の「すべての職工に読み書きを教えること+を命じたピョ-トル の勅令に従って,ペテルブルク,クロンシタット,レ-ヴュ1),などの海軍工廠のなかに ロシア語学校が設立されている88)。 ペテルプルクには,すでに1717年にロシア語学校が開校していたが,海軍工廠は勅令 をうけて,改めて「大羊,水夫,鍛冶工ならびに他の職工の子ども兄弟や姻戚者にロシア 語の読み書きと計算を教えること,そしてこのために16才以下のものを+当局まで知ら せることを命じた。登録簿によると,. 16才以下は187名で,木摺工の子弟6人,指物工. 5人,大工112人,挽材工2人,鍛冶工20人,帆布織工8人,紡織工12人,ボイラー 187人のうち半数はすでにロシア語学校に行っており, 「書く 工2人,その他であった. 「日読祈帝書を学んだもの+-80 「詩編を学んだもの+-17人, ことを学んだもの+-8人, 人, 「アズプカを学んだもの+-49人,が含まれている。結局このうちから,読み書き能. 力があると認定されたものや能力的に不適格とみなされたものや病人が除かれた。そして 27人と小貴族や兵士の子弟も入 登録外の近隣の職工で自発的に入学した「自由な生徒+ 学し,合わせて176人となり,そのうち156人が職工の子弟であった。算数がほとんど 教えられていなかったため,. 1720年1月に数学航海学校から二人の学生が送られ,算数. と幾何を教えることになったが,. 1人ほ9月に死亡し,. 1人ほ10月に失綜してしまっ. た64)0. レ-ヴェリにつくられた学校は,もう少し程度が高く,ロシア語学校と数学航海学校の 1719年の報告では,航海学と読み書きのクラスがあり,. 中間的な内容といわれている。.
(15) 34. 弘. 佐々木. 明. 航海学クラスに「メルカトール航海図法-1人,浅海航海術-3人+そして読み書きクラ スに「綴りを学んでいるもの-27人,日読祈肩書-15人,アズブカー3人+の合計66 人が在籍していた。しかし,航海学クラスの4人は,やがてペテルブルクの航海アカデミ ヤに送られてしまい,このクラスはなくなってしまった86).. 1722年に,. 「海軍工廠規則+が制定され,その2章60条で「大工ならびに他の職工の. 子弟に,将来良き織工になることができるように,読み書き,算数そして簡易な幾何を教 ・えなければならない。このために特別の学校を有すること+と明確に規定され,海軍工廠 に,ロシア語学校の設立と職工の教育が課せられたのである.ピョ-トルほ良き職工は,. 読み書きや計算の知識を有し,その上両脚器を自由に使いこなし,簡単な図面をひくこと ができ,作業能率を高める力を身につけることまで求めていたといわれる86).. 規則は,私有の造船工場にも適用され,. 1722年にべテルプルクの私有造船工場監督局. に付属して,私有工場の子弟を対象にロシア語学校が開設された。開設後しばらくの間 ほ,読み方と書き方だけで,算数と幾何は教師がいないため教えられていない。この学校 で, 1726年までに81人が学んでいる6ア'.また監督局の管轄下にあった自由大工部落の オフト村にも,. 1726年にロシア語学校が設立されている。はじめは大工の孤児に読み書. きを教えていたが,その後両親のある子どもも含むようになった。この村では,. 1724年. に7才から15才の子ども312人のうち「読み書きのできる老が25人+であったが,. 1732年にほその数が79人になり,学校にほ52人が在籍していた88). 1722-1723年に航海アカデミヤにロシア語学校と計数学校が付設されたが,これらほ, アカデミヤの準備教育でほなく,職工の準備教育を目的としていた。 1724年暮に生徒が 164人いたが,アズブカのクラスに40人,日読祈藤吉に29人,詩編に17人,書き方 に22人,算数に51人,幾何学に5人,となっている89)。. これらのはか1720年代に,カザソ,アストラ-ン,セストロレーツクの海軍工廠にロ シア語学校がつくられ, 1782年の資料では,全体で, 645人の職工の子弟が学んでい たTO'.さらに1730年代後半にアル-ソゲリスクとタガンロークにも学校ができた. 鉱工業における技能工の養成のための学校としては,. 1714年にツーラの兵器工掛こつ くられた学校が最初と思われる。ここには,ロシア全土から「鍛冶出身の若者が兵器技能 の習熟のた捌こ+集められたといわれる71)0. 1716年には,オロネ-ツ工場に学校が設置. されている。この学校ほ,実科学校的で,専門技術者の養成を目的としていたように思わ. れる。ここでほ,その以前から,鉱業工場の指導的任務に予定された官吏などに鉱業の専 門教育を施したり,数学航海学校の下級官吏出身者12人に,熔鉱。鍛冶,タービン,な ど,技術を習得させたりしている。学校の開設時に,小貴族の子弟人が送られてきたが, この掩か各地から兵器工の子弟や工場内の職工の子弟などが加えられるようになり,学校 の定員も100人となった。読み書きのほかに算数,幾何,砲術,鉱業が教えられてい たT皇).. ウラル・シベリヤに学校がつくられるようになるのほ, タチ-シテェフが就任してからである。. 1720年に工場監督官にヴェ・.
(16) 35. 18世紀前半ロシアにおけるマニュファクチュア工場労働者補充と技能工養成. タチ-シテフェは,ウラル・シべ')ヤにあるすべての工軌こ学校を設けて,技能工の準 「低い職工から高等の技術者にいたる 備教育をしようと計画した。彼の意図した学校は, までの各人に有益でかつ必要な+知識と専門の技能をつけてやることを目的においてお りア8),彼は三段階のシステムを構想している。すなわち,基礎的知識を与える二段階の学 6才-12才まで-そして「技術を手仕事の理論的 校-言葉の学校と算数学校で5・ プロイズヴオットヴエンノエオブチエーこエ. 生. ・実践的教育のための タケ-シテェフは,. 産. 教. 育. -12才から約2年間-である.. 1721年にウクト-ス工場に言葉の学校と算数学校,クソグール工. 場に算数学校,アラパェフスク工場に言葉の学校,と4校を開設した。しかし翌年にはタ チ-シテェフは,デミードフとの不和がもとで解任された。 タチ-シチュフの後任者ゲソニンは,ウラル・シベリヤの鉱業中心地として建設された -カテリソプルクに学校をつくったが,この学校にウクト-スとクソグールの学校を統合 し,その定員を100名とした。 1727年末に, -カテリソプルクの学校には85人の生徒 1784年になると多少変 がおり,言葉の学校に66人,算数学校に19人が数えられたo 化がみられ,生徒数96人のうち,言葉の学校に64人,算数学校に32人となってい る74)。ゲソニンほ,はかにほ学校をまったくつくらなかった.. 1734年に,タチ-シチェフが再び監督官に就任した。彼は,. 1787年まで在任し,この. 間,技能工養成の問題に精力的に取り組んでいる。 学校が,ペルミなどのウラル地方のほかクラスノヤルスクやイルクーツクのようなシベ リヤ地方の工場に建てられ, 1737年までに合わせて2つの算数学校と8つの言葉の学校 1737年に654人-エカテリソプルクに284人, がつくられたのである.生徒数は, 他の学校を合わせて870人-となり,翌年には676人にふえているT古)。タチ-シチュ フは,生徒数を1,000人にまでふやそうとし■たが,実現できなかった。 -カテリソブルクの学校の生徒の社会的構成をみると,職工の子弟が55パーセントを占 ラポートニキ. め,労働者の子弟が16.5パーセント,兵士の子弟が11パーセントで残りの17.5パー セントは僧侶,下級吏員や農民などから成っている78)。職工以外の子弟が目立っている が,それは当時官庁などにおいても読み書きのできる下級吏員の不足が深刻であったこと によるo. エカテリソブノレクの学校の卒業生は, 1728年から17昏7年までの9年間に,職. 工として工場に向けられたものが76人,書記などの下級吏員として工場に向けられたも のが60人となっている77)o. ウラル・シベリヤにおける学校の発達ほ,タチ-シチュフの構想通りには進まなかっ 6-12才の職工の義務教育化を実 た.彼は,官営,私営のすベての工場に学校を設けて, 現させようとしたが,官営工場に10校設立されたにとどまった。私営工場には工場主の 側からの強い抵抗にあって,. 1校もつくられず,希望者を官営工場の学校に送ることで妥. 協しなければならなかった。また学校が設立された工場にしても,ほとんどは第一段階の 言葉の学校しか有していない。第二段階の算数学校は,教師の不足のた糾こつくられなか った。彼自身「算数と幾何の教師を--・-・不足のため--・-すべての工場に定めることが できない+と書いている78).彼の構想に近い学校-第一段階から第三段階までの課程の.
(17) 佐々木. 36. 弘. 明. ある-紘-カテンプルクの学校だけであった。 第三段階の教育,すなわち生産教育については,若干の説明をする必要がある。生産教 育ほ,算数学校での一般的教育(幾何学と三角法など)と工場における専門的教育(親方 タチ-シチェ のもとでの技能の訓練や専門的知識)を結びつけようとしたものであったo 「幾何学を学ぶ年令になったら,彼らを即座に労働に向け,なんらかの仕事に熱意. フは,. を懐くようになったら適当な職に就かせ,実際の労働にたいして月60カペイカずつ支払 うこと,学問が終るまでのあいだ,彼らを昼食後に労働に従事させ,昼食までは学校で勉 強させること+としているT9)。工場の親方には,. 2名ずつの生徒がつけられ,. くとも1時間教えることが義務づけられている。生徒には,. 1日に少な. 「石を切断し,彫むこと+,蘇. 盤,指物やはんだ付のような技能の訓練がなされるが,それは,生徒が「手職の技術に慣 れるだけでなく・---応用できる+ようにならなければならない。さらに生徒は,専門的 理論の知識も習得しなければならないとし,次のものをあげている.鉱物学-鉱石の種 類の識別,含有物の分析などの実験,機械学-各種機械の構造の理論と実際の運転,建 築学-建築の理論と堅牢で択適で美しい建物をつくる技術,そして建築や他の科学そし. て技能の助けとな右製図とスケッチ80'。生産教育は,タチ-シチェフによれば,職工「自 身の利益のため+そして「工場の利益のため+のものであり,これによって職工は「彼に ふさわしい技術を身につける+ことができ,工場ほ新しい生産技術によって「生産を高め る+ことができる81)。生産教育を終えた生徒については,タチ-シテェフは,. 「親方のと. ころの徒弟や労働者の地位があいているところに----ほかのものに優先して送り,その 俸給を与えること+を命じている82)。 このように,タチ-シェフほ,技能工の養成に努めたが,専門の教師の不足が彼を悩ま した。彼は,科学アカデミヤから工場に派遣されてきた教師は, 「ラテソ語以外には,物 理,数学,地理のような必要な科学には熟達していない+と不満の意を表わし,アカデミ ヤにたいし「化学,機械学,天文学そしてできれば地理学にも通じている+教師を派遣す るように要請している。また,石造建築の専門家の派遣も要請したが,科学アカデミヤの 管轄内に一人の建築家しかいないという理由で受け入れられなかったのである88)。このよ うに,当時のロシアにほ,科学アカデミヤにおいてさえ,専門家が足りないという状態で あった。その意味からいえば,タチ-シテェフの技能工養成の構想は,時代に先んじた画 期的な読みであった,と同時にそのためにその実現は非常に困難であったといえる。それ でも,タケ-シチェフの指導下のウラル・シベリヤの学校は,例えば-カテンプルクの学 校を出たイヴァソ・ヤコープレフは,やがて銅の溶解の親方となり,後にアラパェフスタ 工場の支配人の要織についたように84),ロシアの鉱工業の発達に少なからぬ貢献をしたの である。. 〔4〕工場における技能工の養成についてほ,はとんど知られていないo. 1720年代に. なると,親方-職工-徒弟一見習,と徒弟制的な形馨が,工場にみられるようになってい ることから,工場内の親方のもとで,見習工からはじまって一定年数にわたって技能が仕.
(18) 37. 18世紀前半ロシアにおけるマニュファクチュア工場労働者補充と技能工養成. 込まれて一人前になるという,養成形態が一般的になっていったと思われる.多くの場 令,相続的であって,技能工の子弟が親の技能を習得していった。しかし実際はほかの社 会層の子弟が,見習工や徒弟に強制的に投げ入れられることが多かった。ことにウラル・ シベリヤで典型的にみられたが,登録農民が,補助的労働にでほなく,工場内労働に向け 1717年に,オロネ-ツ工場では,農民が られ,徒弟として技能訓練をさせられている。 大槌の親方のところで16人,他の親方たちのところで14人,働いている如)。また政府 紘,. 「登録農民と工場から,釈. 1725年に,ウラル・シベリヤの工場に例外的措置として,. 兵をとらないこと--・・・彼らを工場労働にさし向けそしてあらゆる技能を教え込むこと+ と命じている88)0 兵士もまた強制的に職工に仕上げられていった。兵士といっても,もとは徴兵された農 民であったが,彼らは徴兵されると25年の兵役を義務づけられていたので,進んで工場 に行くものも多かったo 1780年代になると,徴兵されたものが,軍隊ではなく,工場に 直軽に送られて職工として養成されることが多くなっている。人口調査のなかに,. 「兵卒. に,水夫に,職工にとられた+という記録がしばしばみられ,工場にとられた職工と軍隊. にとられた兵士と同じ意味をもつようになってきたのである8T)o ほかにほ,逃亡農民や浮浪人なども職工として養成されたことはすでに述べたが,これ ら以外に,注目すべきことは,世襲領主が,農民の子弟を工場に技能習得のために送り込 んでいることである。領主は,自分の農奴農民の子弟のなかから職工に向いていそうなも の一大部分は孤児から-を選びだして一人前になるまでのあいだは彼らの扶養以外に は一切の支払いを受けないという契約で,工場に送った。一人前になると,これらの農奴 農民ほ,そこの工場で職工として留まったり,他の工場に移って働らかされたが,彼らの 賃金は,工場から領主に直接に支払われ,後らには一銭も支払われなかった88)0. このようにいろいろな形で,工場のなかで技能工の養成がされたが,最後につけカ口左る ならば,. 1730年代になると,技能労働者の不足の深刻化とともに,年少者に補助労働だ. けでなく技能労働を強いるようになってきたということである。当局からは,工場には,. 満15才以上のものを使用するようにという達しが出ていたが,それ以下の年令の子ギも が,官営,私営を問わず,工場内で使用されていた。あるドイツ人の記録によると,ニ ジェ・タギ-ル工場の針金製作所では仕事の大部分を10-15才の子どもが遂行してお り,またネビヤソスク工場では,. 7-8才の子どもが鋼でさまぎまな容器を製作してい. た89).ウラル・シベリヤでほ,年少労働の便用はかなり一般化していたoタチ-シテェフ が,私営も含むすべての工場に6-12才の子どもの教育の義務化を図ったが,この年令. の子どもはすでに重雫な労働力であるという理由で,強い抵抗にあって実施されなかっ た.工場主デミードフは,鉱山者に,. 6-12才の子どもは,. 「労働に従事しており,鉄鉱. 石や銅鉱石を採掘している所では-・.-・鉱石を運んだり,あるいは親方のところに手職の 見習-に行き,そして父親の跡をついで技術を引き受ける+のであって,この年令の子ど もを「学校の中に隔離して+しまうなら「工場の経営を続けていくことが不可能となるだ ろう+と訴状を送り91),鉱山省は,それを受理し,みずからの達しを破り,年少労働を認.
(19) $8. 弘. 佐々木. 明. めてしまったのである。. 1 2 3 4 6 6 7 8 10 11 12 13. 240貢o 田中陽児,米川哲夫訳編 ロシア史の時代区分(上)有斐閣,暗33, 同前 72貢。 195-196京. レーニン全集 第8巻,大月書店, 同前 519貢。 同前 509-510京。 同梅香 ロヱア史の時代区分(上) 25-26貢。 同前 81貢。 37-38貢。 9)同前 1)ヤシチエンコ,山下義雄訳 ロシア経済史 原書房 昭46復劾218貢. 封建農奴制ロシアにおける商人資本未来社1956 ヤエフツェススキ-,石川郁夫訳 同前 38貢。 Jerome. Blumo. New. Lord. Jersey. 1972. p.. Peasant. and 160.. in RtlS8ia. from. the. 16. 前掲書 封建農奴制ロシア紅おける商人資本 35-36貢. ク1)ユーチエフスキー,外務省調査局訳 ロシア史第4巻 PoccH兄IIP広rleTPe B.B. Ea¢eHrayC rlePBOM爪ocEBa. 17. Ibid. 18. 前掲書. 19. Ta凹Xe. 20. A.州.. 14 15. 21) 22). Lord. PoccHJI. CTP.. TaM. Xe. in Russia. from. Press. LTD.. ¢opMHPOBaHHe. 1972. 32。 294。. p.. century. nineteenth. 36. B. PoccHH. (ⅩⅤⅠⅠ-ⅩVIII B・B・)爪ocKBa. TAN. 24) 25) 26) 27) 28) 29) 30) 31) 32) 33). 前掲書 ロシア史の時代区分(上) 同前166貢。. Xe. Lord. and. Peasant. Xe. ¢oph4叩OBaHEe. でa仙. Xe. 亡Tp. 2490. ら. cTp.. 2800. TaM. Zee. cTp.. 284-288o. TaM. Xe. cTp. 311ト1乱2。 JI.ど. 6ecl(POBfIOrO. 1700-1914.. Printed. in Great. Britain. by. (ⅩⅤⅠⅠ-ⅩⅤⅠⅠI B・B・) cTp・. PoccHH. 401-405。. 254貢。. in Russia. TaMユRe. noÅ.pejL.. B. IIPOJIeTaPHaTa. ロシア史の時代区分(上). TaM. of Russia. p. 27.. 23). 前掲書. the. cTP・. 401o. Anchor. Ibid. to. ninth. rlepBOh4爪ocIくJ3a eTp・ rrPH口eTpe ¢opMEPOBaHEe rrPOJleTaPFaTa. CTp. 4040 Falkus The lndustrialization. M.E.. the. 120京o. 目黒書店,昭20, 1955. century. nineteenth. 封建農奴制における商人資本。. naHEPaTOBa. 1963. the. Peasant. and. to the. ninth. 63貢.. PoecHH. from. the. to. ninth. the. 60貢。 (ⅩⅤⅠⅠ-ⅩⅤⅠⅠI B・B・) cTp・. XpecTOMaTⅢ見rIO. Ee=OPHH. nineteenth. centry. p.. 281.. 279.. CCCP. XVIII. 1968. B・爪ocKBa. 43・. 34. cTp. TAN. Xe. 35. Tab4. Ⅹe. CTP.. 269.. 36. TAN. Xe. CTp.. 2850. 87. TaM. Xe. 38. TaM. Xe. CTP. 315. XpecTOMaTH5I. 39. Ibid. 40. TaM. Xe. and ¢oph4叩OBaHf(e. 41. Ta仙. Xe. CTp.. 42. TaM. Xe. 48. TaM. Xe. CTP. 419. XpecTOMaTH5I. Lord. ¢opMEPOBaHHe. Peasant. B. IlpOJIeTaPHaTa. Ilo. HCTOpHH in Russia. CCCP. XVIII. from. ⅢpOJteTapklaTa. PoccEH. the B. ninth PoccEE. (ⅩⅤⅠⅠ-ⅩⅤⅠⅠI B・B・) cTp・. B・. CTp・ 96-97. to the nineteenth. century (ⅩⅤⅠⅠ-ⅩⅤⅠⅠI cTP・ 300.. B・B・). 4200. ⅡO. ECTOptlH. CCCP. XVIII. 249.. B・. CTP・. 327o. p.. 321..
(20) 39. 18世紀前半ロシアにおけるマニュファクチュア工場労働者補充と技能工養成 44. TaM. Xe. ◎opM甲OBaftHe. rIPOJleTapHaTa. 45. Tah4. Ⅹe. XpecTOMa刊はE[O. 46. Ibid. HCTOPHH in RtlSSia. Lord. Peasant. and. Poce孤(ⅩVII-ⅩVIII). B. CCCP. XVIII the. from. B・. ninth. a.B.). CⅢp. 327-333。 to the nineteenth. 424.. cTp.. p.. Century. 297-. 298。 47 4$ 49. 前掲書 封建農奴制ロシアにおける商人資本56貢o 荒又重雄 ロシア労働政策史 恒星社厚生閣1971 lbid. Lord. Peasant. and. 50. 前掲書. 51. TaM. 】鑑e. 52. TaR4. Ⅹe. cTP・. 290.. 53. TaM. Xe. oTp.. $07。. 54. 前掲書. 55. TaM. Xe. 56. 57) 58) 69) 60) 61) 62). the. 26貫o to the. ninth. nineteenth. p.. century. 324o. ロシア労働政策史72貢。 ¢opM叩OBaMHe. PoccE広(ⅩⅤⅠⅠ-ⅩVIII B・B・) cTP・. a. rIPOJIeTapHaTa. 279.. ロシア史113貢.. TAN. Xe. ¢opMHPOBaHHe. TAN. Xe. TAN. Xe. CTp. 411-412. PoccH兄r[PE rleTPe. Ibid. Lord. 前掲書 rl.爪. cTp. TAN. 64. Ta泌. 65. A.A.. ロシア史115貢。 ≪PyccKHe I皿OJtht? rlpH. the. nineteenth. l iSCoBeTCKaSI. p.. century. rleEarOrEⅨa?. 1945. 302.. No.ト2. Xe Xe. Xe. 38-39.. CTp.. 6ypoB. TaM. 口epBHe. PoccmI宅CoBeTCEa兄ne且arOr孤a≫. a. EapO且Ⅱue皿t(OJ]H. 1958. No.. 6. Xe.. TaM光e TaM. i:PyccKHe llIKOJIH?ⅢPH nepHe. Xe. C・n・. neTPe B. 項PycctくHeⅢKOJIH≫ ⅡpI壬IleTp. I cTp. PoccHHe IつTP.. 41. CTP. 41.. 11S・. 1976 CTP. 18。 B rIOCJIeⅡeTpOBC虻Oe BPeM5I爪ocKBE 爪aTepHaJIH ceccHⅢ, JIeTHIO pen. HaytIHOfi ⅡOCB且qeHHO点250 1na6aeBa OtlepEH HIEOJILI A Pea.爪.¢. HCTOpEH rle且ara柑tZeCEO丘MhlCJlオHaPOJIOB zl. hlocEBa 1973 CTP. $1。 XVIII XIX B.-ⅢepBa兄rIOJIOBHHa I(HHra. B.r.. rloR.. I皿EOJIH. HaPOREh[e. nyⅡⅡoB. IloE.. No. neTpe. to. 411。. 37.. CTP. TaM. A.A.. CTIt・ 40-41。 ⅡepBOM in Russia from the ninth. Peasant. and. (ⅩVII-XVIII B.a.) cTp.. PoccHH. B. l7POJleTapHaTa. napE6ox. 118.. CCCP. 78). from. a PoccEH 申opMHPOBaf[宜e rIPOJleTaP滋aTa (ⅩⅤⅠⅠ-ⅩVIII B・B・) cTP・ 251-254. nOMeqHtfht( B.A.申eAOpOB EPeCTblIHe paHO‡Ia PoccHE qeI打PaJIhl10 ⅡPOMhtⅢJleI‡FOrO XIX 1974 cTP・ 276o EOHIla XVIII-ⅡepBO孟HOJIOBHHht B・爪ocIくBa. 63. 66) 67) 68) 69) 70) 71) 72). in Russia. BypoB 6 CTP.. a. PoccI壬H. AHaHheBa. IlepBh(”. yCTaB. 4:CoBeTCKa兄rleAarOr狐a≫. pyCCEO丑HaPO且HO丘凹EOJIt't. 120-121o. 74) 75) 76) 77). TaM. Xe. Et[Hra. Ta仙. Ⅹe. ◎opMHPOBaHHe. TaM. xe. Iくmra. Ta仙. Ⅹe. cTp. 25.. 78) 79) 釦) $1) 82) 83) 84) 85) 86). TaM. xe. nep払虎ycTaB. TaM. xe. CTP.. 128o. TaM. Xe. cTp.. 1280. TaM. Ⅹe. cTp.. 127。. Ta泌. Ⅹe. Ta泌. xe. cTp・ 129o ¢opMオPOBa耳tle. TAN. Xeo. TaM. xe. CTP.. TaM. xe. cTp.凱6。. B. B. 273.. PoccHⅢ PocHH. B. rIOCJIeIIeTPOBeKOe BpeMSI CTp・ 23. B PoccHH (ⅩVII-ⅩⅤⅠⅠI. CTP.. 408o. (ⅩVII-ⅩⅤⅠⅠI B.a.) CTP.. 412.. ⅡPOJteTaPHaTa B. a.a.). ⅡOCJIeⅡeTPOBCKOe. BpeM兄CTP.. pyCCIく0丘HapOAEO良ⅢKOJtb. ⅢpOJIeTaPEaTa. B. PoccHH. CTp・. 24。. 127.. 1966.
(21) 40. 87) 8S) $9) 90). 佐 々木 TaM. Xe. CTP.. 4130. T良M. Xe. CTp.. 42B.. TAN. Xe. CTP.. A.A. ⅩVIII. BypoB. 明. 一弘. 412o B・H・. TaT瓦ⅡleB-B叫AaIO叩政見Ae兄TeJIh. B・雀CoBeTCEa5I口eAarOrHEa≫. 1961. No. 5 cTp.. IIPOCBeuTeEHB[ 115o. ⅡePBO畳. ⅢoJIOBHFra.
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