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歯科医師が、患者の水平位埋伏智歯(親不知)を抜歯する際に、下顎骨骨折と舌神経損傷等を生じた場合において、因果関係の存否と診療上の過失の有無を問われた事例

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(1)歯科医師が、患者の水平位埋伏智歯(親不知)を抜歯する際に、下顎骨骨折と舌神経損傷等を生じた場合において、因果関係の存否と診療上の過失の有無を問われた事例. 判例研究. 歯科医師 が、患者 の 水平位埋伏智歯(親不知)を 抜歯する際に、下顎骨骨折と舌神経損傷等を生じ た場合において、因果関係の存否と診療上の過失 の有無を問われた事例 富山地判平成19年1月19日 (認容) 平17 (ワ) 272号損害賠償請求事件 一部認容・確定 判例時報1986号118頁. 根本 晋一 第 1 事実の概要 平成 16 年 10 月 19 日(火) 患者 X(当時 53 歳 女性 自動車部品製造会社において打刻業務に従事)は、奥歯の 疼痛のため、Y1 個人歯科医院に来院した。歯科医師 Y1 は、画像診断のうえ、 右下 8 番の第三大臼歯(1)、すなわち親不知・智歯の水平埋伏(2)が疼痛の原因 と診断し、X に対し、これを抜歯する旨を告知した。その際、抜歯に伴う危険 性、つまり、下顎骨骨折や舌神経損傷に起因する知覚麻痺等を生じる可能性が ある旨を説明しなかった。また、歯科助手はおらず、Y1 単独ですべての診療 を行なっていた。 21 日(木) 17 時~ 21 時 Y1 はへーベルを用い(3)、 「かなりの力を入れ」て、歯牙を丸ごと抜歯した。 169.

(2) 横浜国際経済法学第 19 巻第2号(2010 年 12 月). 抜歯そのものは完了し、 「明日、また来てください」と指示した。因みに、水 平位埋伏智歯については、歯牙分割してから歯冠と歯根を別個に除去するのが 一般の術式である(4)。 同日 21 時以降 抜歯後まもなくして、X の患部に、 疼痛・右頬腫脹・右側オトガイ(頤)部(5) と右側舌尖部に麻痺、という各症状が発現し、開口困難に陥った。 同月 22 日(金) X は、症状が改善されないことから職場を欠勤した。Y1 歯科医院へと通院 し、疼痛等を愁訴したが、Y 1 は「徐々によくなります」と発言し、消毒治療 のうえ、 「明日、また来てください」と、再度来院の指示をした。 同月 23 日(土) X は職場を欠勤のうえ通院し、疼痛等を愁訴したが、Y 1 は「徐々によくな ります」と発言し、消毒治療のみを行なった。 同月 24 日(日) Y1 歯科医院休診。X も勤務なしのゆえ、自宅療養をなし経過観察をしてい た。この頃の症状は、 開口すると痛みあり、 しなければ我慢できる程度であった。 同月 26 日(火) ・27 日(水) X の疼痛等は変わらず、軽快しなかったが、やむを得ず出勤した。 同月 28 日(木) X は、訴外市民病院の歯科を受診し、担当歯科医師に症状を説明した。画像 診断の結果、抜歯した第 3 大臼歯が存在していた右下 8 番付近の下顎骨に顎変 位、すなわち 1cm を超える齟齬が認められ、骨折の事実が判明した。X は即 日入院措置となり、整復固定術を受けた。 11 月 12 日 170.

(3) 歯科医師が、患者の水平位埋伏智歯(親不知)を抜歯する際に、下顎骨骨折と舌神経損傷等を生じた場合において、因果関係の存否と診療上の過失の有無を問われた事例. 歯科医師 Y1 は死亡した。 12 月 19 日 X は、常食摂取可能な状態まで回復したので、同病院を退院した。同時に強 い痛みを伴う開口訓練(リハビリ)を開始した。 平成 17 年 8 月 2 日 同年 5 月 10 日以降、症状が現状以上には回復せず、症状固定と診断され、 リハビリを終了した。リハビリの効果により、知覚麻痺の範囲は縮小するも残 存した。X の主観としては、固形物の摂食に時間がかかる、呂律が回りにくい、 無味感等の味覚異常を覚えており、訴外市民病院による後遺症診断は、軽度発 語明瞭度の低下、咀嚼機能低下を認めている。 症状固定後における X の付随的事情 抜歯後、Xについて、下顎骨骨折を惹起するような外力を受けた事実はない。 また、抜歯前と比較して勤務態様・稼働率・収入に変化はない。 X は提訴の準備として、故 Y1 に代わる相続財産管理人の選任を申し立て、 Y2 が管財人として選任されたことから、X は、Y2(相続財産法人)を相手取り、 自らの後遺障害は等級 9 級 6 号に相当し、労働能力の 35 パーセントを喪失し たとして、これに基づく後遺障害逸失利益と後遺障害慰謝料、併せて入院治療 費や休業損害、相続財産管理人選任手続費用や弁護士費用などの、合計 2171 万 3396 円について、債務不履行および不法行為に基づく損害賠償請求の訴を 提起した。その後、保険会社 Y3 が被告として補助参加した。 Y3 と故 Y1 の間には、歯科医師賠償責任保険契約が締結されており、故 Y1 の損害賠償義務が肯定された場合、Y3 保険会社が当該保険契約の履行として、 X に対する損害賠償義務を履行しなければならないことから、被告側に補助参 加したものである。 以後、Y3 が主体的に、被告としての訴訟活動を行なった。 171.

(4) 横浜国際経済法学第 19 巻第2号(2010 年 12 月). 第 2 争 点 抜歯行為と下顎骨骨折との因果関係 下顎骨骨折についての過失 舌神経損傷についての過失 画像診断懈怠についての過失 損害額算定の基礎としての後遺障害等級の認定如何. 第 3 判決要旨(過失肯定) 1 一部認容 合計 1069 万 4799 円の範囲で、X の損害賠償請求を一部認容する。その余の 請求は棄却する。. 2 因果関係 抜歯行為と下顎骨骨折との因果関係に存否につき、故 Y1 が選択した抜歯術、 下顎骨骨折の部位と状態、抜歯後訴外市民病院受診までの間における X の容 態、その間において、故 Y1 の抜歯行為以外に X の下顎骨骨折を惹起するべき 原因が存しないこと、などの事情を考慮すると、因果関係を肯定するべきであ る(6)。. 3 過 失 (1) 下顎骨骨折 X の智歯は埋伏智歯であり、歯牙をまるごと抜歯することは難しい状況で あったと認められる。すると、故 Y1 には、歯槽骨の切除、それでも抜歯が困 難であれば歯牙分割をするなど、下顎骨に必要以上の外力を加えることなく抜 歯する注意義務があるにもかかわらず、かような注意義務を怠り、X の歯牙を 丸ごと抜歯した結果、下顎骨骨折を惹起している。すると、故 Y1 には、骨折 の結果について過失があるというべきである。. 172.

(5) 歯科医師が、患者の水平位埋伏智歯(親不知)を抜歯する際に、下顎骨骨折と舌神経損傷等を生じた場合において、因果関係の存否と診療上の過失の有無を問われた事例. (2) 舌神経損傷 舌神経は、下顎骨のなかを、右下 8 番の第三大臼歯(親不知・智歯)の歯根に 接する形で走行している。すると、智歯を抜歯する際に、抜歯に必要な外力を 加えたに過ぎない場合であったとしても、なお舌神経を損傷し、知覚麻痺等の 神経学的な異常所見を発現する可能性がある。そして、X の症例においては、 歯根と舌神経の位置関係は「非常に接近」した状態であったと認められる。す ると、故 Y1 には、抜歯に伴う危険性の説明をなし、X による、抜歯術施行に 関する承諾を得る義務があるというべきである。 また、埋伏智歯ではない智歯の抜歯に際してさえも、なお舌神経を損傷しな いよう、慎重に器具を操作するべき注意義務があるところ、X の症例において は、歯根と舌神経の位置関係は「非常に接近」していたのであるから、とくに 慎重な操作をなすべき注意義務がある。それにもかかわらず、故 Y1 は、かよ うな注意義務を怠り、X に対して既往の危険性を説明することなく、また承諾 を求めることもなかった。 さらには、故 Y1 が、X の症例につき、歯根と舌神経の位置関係は「非常に 接近」した状態であったことを認識していたと認めるに足りる事情はなく、か ような認識不足から、却って必要以上の外力を加えて抜歯した結果、舌神経損 傷という結果を惹起したのである。すると、故 Y1 には、舌神経損傷の結果に ついて過失があるというべきである。 (3) 画像診断懈怠 X は、抜歯後の経過観察において、疼痛や腫脹等を愁訴し、実際にも、かよ うな症状が発現していたと認められる。このような場合、故 Y1 に、消毒剤の 塗布などの対症療法を施す義務があることは格別として、それを超えて、ただ ちにレントゲン撮影などの画像診断をなし、下顎骨骨折を発見する義務があっ たのか否かについて判断すると、智歯抜歯後の余後として、一定期間、このよ うな症状が発現することは一般にあり得ることであり、また、その後軽快に向 173.

(6) 横浜国際経済法学第 19 巻第2号(2010 年 12 月). かうこともあり得ることなので、故 Y1 の指示による、22 日と 23 日の再来院 の時点においては、いまだ対症療法の実施と経過観察に付せば足り、ただちに 下顎骨骨折を疑い、画像診断をなす義務はないというべきである。 ゆえに、故 Y1 には、両日において未だ画像診断をなす義務はなく、これを しなかった結果、下顎骨骨折を発見しなかったことについて過失はないという べきである。. 4 損 害 損害額算定の基礎事情として、軽度発語明瞭度の低下は認められるが、発後 不能な語音はないこと、咀嚼機能低下についても、リハビリにより開口障害は 消失していること、顎関節異常と不正咬合、および味覚異常についても、医学 的所見は認められないこと、などから、X の後遺障害を等級 12 級相当として 437 万 5863 円と認定した。これに入院治療費等の実費、休業損害、入院通院 に伴う慰謝料、後遺障害に伴う慰謝料、後遺障害逸失利益などを合算し、冒頭 の額において X の損害賠償請求を認容した。. 第 4 評 釈 1 本判決の意義・位置付 抜歯は、歯科医学・歯科医療における口腔外科に属するが、インプラントの ような、先端的かつ高度な技術を必要としないので、個人医院レベルにおいて 日常的に施術されている。そして、施術例が多いぶん、抜歯そのものは奏功し たとしても、しばしば上下顎骨骨折や、舌神経・三叉神経・オトガイ神経の損 傷などの事故を伴うことも事実である。しかし、歯科領域における手術は一般 に、医科におけるそれと異なり、ただちに生命にかかわることが少ないことか ら、悪しき結果が発生したとしても、完治をめざした治療の続行、あるいは示 談などにより、訴訟に至る前に解決するケースが多いので、歯科医療過誤独自 の判例理論は未だ形成されていない。 174.

(7) 歯科医師が、患者の水平位埋伏智歯(親不知)を抜歯する際に、下顎骨骨折と舌神経損傷等を生じた場合において、因果関係の存否と診療上の過失の有無を問われた事例. 本判決は、提訴前に、被告歯科医師が死亡したため、原告が相続財産管理人 の選任を申し立て、相続財産法人を相手取り、提訴したため(なお、事後的に保 険会社が補助参加) 、その後における Y1 の歯科医師業務への影響等を考慮する必. 要がなかったこと、また、過去に類似事例に関する責任否定判決が存在し、勝 敗の見極めが判然としなかったことから、和解の機が熟さず、判決に至った数 少ない事例である。しかも、被告歯科医師の診療について、原告側が複数の注 意義務違反を指摘したので、下級審ながら、確定判決により抜歯に関する注意 義務・医療水準を判示した貴重な先例である。. 2 検 討 (1) 抜歯行為と下顎骨骨折との因果関係 因果関係の存否認定は、過失認定と重なる。つまり、過失認定は、結果予見 可能性と予見義務違反の有無ないし程度、そして、結果回避可能性と結果回避 義務違反の有無ないし程度、という二つの要件が備わっているのか否か、とい う見地からなされる。そして、後者の要件、つまり結果回避可能性(仮に、別異 の方法を選択していれば、悪しき結果を回避できたであろう、という関係)の認定は、不. 作為の因果関係の存否の認定そのものであることから、因果関係を独自に論じ る実益は余りないといわれている。民事医療訴訟における訴状や答弁書、準備 書面なども、一般に、因果関係論を過失論に収斂して構成するのが通常である。 本判決も、下記(2) (3)という一連の注意義務違反を認定しているが、それは、 とりもなおさず、不作為の因果関係(仮に、これらの注意をしていれば、このような 悪しき結果は生じなかったであろうという仮定的関係。本件に即していえば、故 Y1 が歯牙 分割をしてさえいれば、下顎骨を骨折しなかったであろう、という関係)を肯定している. ことに他ならないのである。 本判決が因果関係の不存在をとくに判示した意味は、被告 Y3 が、X の抜歯 時より訴外市民病院を受診するまでにインターバルがあることに着目し、真実 疼痛が我慢できないのであれば、もっと早く受診していたであろうことから、 175.

(8) 横浜国際経済法学第 19 巻第2号(2010 年 12 月). X の骨折が、抜歯後における何らかの事情により惹起された可能性を否定でき ないとして、とくに事実関係を争ったからである。ゆえに、被告 Y3 による、 かような主張がなかったとすれば、裁判所は、この点に関する判示をしなかっ たであろう。 (2) 下顎骨骨折についての過失 本判示は、歯科医師が抜歯術を施行する際、診察中の症例について、如何な る術式を選択することが、歯科臨床医学の実践に合致するのかという、抜歯に 関する一般的な医療水準を判示したものである。つまり、術式選択を誤り、悪 しき結果を生じさせると過失をとられるという意味において、歯科医師の抜歯 に関する行為規範を明らかにしたといえる。本件に即してみると、故 Y1 は、 歯牙を丸ごと抜歯するという術式を選択したのであるが、この方法は、垂直位 埋伏智歯(歯牙が正立している状態)に適応とされる術式であり、X の症例、つま り水平位埋伏智歯(横倒し。横向きのまま進んできた第 3 大臼歯が第 2 大臼歯に突き当 たり、正立できなくなった状態)に適応とされる術式ではないことになる(つまり、 本判決の論理によると、Y1 には術式選択上の過失あり、という結論になる) 。. 当裁判所が判示した、抜歯に関する歯科臨床医学の実践、つまり医療水準に 鑑みると、故 Y1 は、歯牙を丸ごと抜歯する方法をとるべきではなくて、まず 歯牙分割をなし、 歯冠を除去し、 それから歯根と歯槽骨の間にへーベル(エレベー ター)を挿入し、これを回転させ、歯周靭帯を切断してから歯根を抜去するべ. きであった。もちろん、症例の多様性から截然と術式を区別できるわけではな いので、水平位であったとしても、歯牙分割しない場合もあり得よう(例えば、 後出の昭和 57 年判決など) 。. なお、裁判所の事実認定からは明らかであるが、原告 X が主張していない ため、とくに判断されなかった事実について検討してみると、まず、裁判所は、 本件抜歯に要した時間につき、およそ 2 時間と認定しているが、歯科臨床にお いては、智歯の抜歯につき、智歯の埋没位、つまり垂直位・水平位・逆位のい 176.

(9) 歯科医師が、患者の水平位埋伏智歯(親不知)を抜歯する際に、下顎骨骨折と舌神経損傷等を生じた場合において、因果関係の存否と診療上の過失の有無を問われた事例. ずれなのかにもよるが、術式が適応を誤っていなければ、抜歯に要する平均時 間は 20 分程度、早ければ数分であり、予約時間の設定も、30 分~ 1 時間程度 である。すると、2 時間経過ということは、平均的な治療時間を著しく超過し ているので、術式選択上の過誤の存在を補強する証拠資料となる。 つぎに、埋伏智歯は一般に抜歯が困難であることから、個人歯科医院が紹介 状を作成し、大学病院等へ送ることもある。かような転医(転院・転科)義務も また、抜歯術における医療水準より派生する付随的義務ということができる。 すると、故 Y1 が、症例の難易度を見誤った結果、水平位埋伏智歯を安易にそ のまま抜歯するという見込み違いを犯し、大学病院等に転医させるべき患者を 転医させなかった点に過失を認めることも可能と考える(つまり、故 Y1 は、正確 な着手前診断を行なうべきであったという意味) 。. くわえて、医師や歯科医師には、医学の進歩に合わせて漸次向上する医療水 準に対応するため、日々研鑽に励む義務があるところ、故 Y1 は、身近な症例 である抜歯適応例につき、術式選択を誤るという比較的初歩的な失敗をしてい る。すると、この点に研鑽不足なる過失を認めることも可能と考える。 さらに、裁判所は、故 Y1 が X に対し、抜歯に伴う危険性を説明していない と認定しているので、少なくとも抜歯そのものについては X の承諾を得てい ることから、故 Y1 の専断的治療行為ではないものの、インフォームドコンセ ント(説明と同意の原則)がなされていないので、故 Y1 の説明義違反なる過失 に起因する、X の術式選択の自由・機会の喪失という自己決定権侵害(7)を認 めることも可能と考える。 以上述べてきたことを総合とすると、本判決における事実認定と過失認定の 意味は、抜歯適応の各症例を分析し、各々に適応する術式を決め、それを各症 例についての原則的な医療水準となし、歯科医師の術式選択上の過失を認定す る基準として確立した点に、先例的価値があると考える(8)。. 177.

(10) 横浜国際経済法学第 19 巻第2号(2010 年 12 月). (3) 舌神経損傷についての過失 本判示は、抜歯の際における、歯槽骨内を走行する神経に対する注意義務を 医療水準として明らかにしたものである。注目するべき点は、歯科医師に対 し、着手前診断において患部を画像診断し、歯根と舌神経の距離・位置関係を 正確に把握する義務を課した点にある。本判決は、X の症例については、 「非 常に接近」していたことを理由に、 「とくに」慎重な施術を要求しているので、 この点に関する医療水準は一律ではなくて、症例に応じて変わり得る相対的な 水準であると捉えている節が窺われるからである。つまり、難しい症例であれ ばあるほど、注意義務も高度化するという見解であろう。また、 「非常に接近」 していることが判明した場合には、転医義務を生じ得ることも、術式選択上の 過失の場合と同じと考えてよかろう。 (4) 画像診断懈怠についての過失 本判示は、抜歯の余後における、歯科医師の画像診断義務を医療水準として 明らかにしたものである。注目するべき点は、経過観察中、患者に患部の疼痛 や腫脹などの症状が発現していたとしても、それが、待ったなしの激痛、ある いは異常なほどの腫脹であれば格別として、そうでない限り、これを骨折や神 経損傷の予見義務、つまり画像診断義務と直結させる必要のない最低期間を明 らかにした点にある。つまり、抜歯後ミニマム 3 日程度であれば、画像診断義 務はないのである。 かりに、ミニマムの制限がないとすると、抜歯に伴う疼痛等は例外なく生じ ることから、歯科医師は、抜歯余後のルーチンとして画像診断をしなければな らなくなり、偶々骨折等の悪しき結果が生じたとすると、この点についての過 失を常にとられかねない。このような結論が酷に失することは、おのずから明 らかであろう。. 178.

(11) 歯科医師が、患者の水平位埋伏智歯(親不知)を抜歯する際に、下顎骨骨折と舌神経損傷等を生じた場合において、因果関係の存否と診療上の過失の有無を問われた事例. (5) 損害額算定の基礎としての後遺障害等級の認定如何 医事判例に限られず、交通事故や労災に適用等に関する判例においても、争 点とされることであるが、後遺障害逸失利益の算定方法如何の問題がある。当 該判示は、その算定の基礎となる逸失利益の意味について明らかにしたもので ある。本件において、X は後遺障害等級 12 級相当と認定され、後遺症の存在 が公的に認定されている。問題は、判決時において、抜歯前後の収入に差異は ないので、得べかりし利益が認められないことである。 この点につき、本判決は、逸失利益を形式的に捉えることなく、例えば、現 在の勤務先を維持する場合、あるいは勤務先を変えて同じ業種に就く場合で あったとしても、後遺症が現に存在し、日常生活に支障がある以上は、現在の 収入レベルを維持できるとは限らないこと、また、転職したとしても、職種 が狭められるなど、将来の時点において、逸失利益を生じる可能性を否定でき ないと解し、実質的な逸失利益の存在を認めた。そして、抜歯後も減少してい ない X の年収を基礎として計算し、労働能力喪失率を 14 パーセントとして、 437 万 5863 円と算定したのである。この論点に関する本判決の意義は、形式 的な逸失利益が存在しない場合であったとしても、なお、現在の収入を基礎と して逸失利益を算出できる余地を認めた点にあるといえよう。. 第 5 類似判例の検討  ─抜歯後に下顎骨骨折等が判明した事例をめぐって─ (9) 1 東京地判八王子支部平成元年 4 月 26 日(過失否定). 前提事実に違いがあるようである。埋伏智歯の状態(垂直・水平・逆)につい ての認定はなされていないが、本稿において評釈した平成 19 年判決において 故 Y1 歯科医師が取った術式と同じ方法、つまり歯牙分割することなく単体で 抜歯していること、要した時間は 1 ~ 2 分であること、などの事実関係を前提 とすると、智歯以外の歯牙と同様に抜歯が容易であり、必要以上の外力がかか りにくい垂直位であったと推測される。しかも、患者に疼痛等が発現したのは、 抜歯後 2 時間を経過し食事をした際であること、疼痛のため被告歯科医院に再 179.

(12) 横浜国際経済法学第 19 巻第2号(2010 年 12 月). 通院した際にも、開口異常や顎変位等は認められなかったこと、などの事実が 認定されているからである。それゆえに、抜歯行為と下顎骨骨折の因果関係を 否定したのであった。なお、因果関係が否定されたことから、過失についての 判断はなされていない。難しい症例ではなかったぶん、平成 19 年判決と比較 すると、判示事項も相対的に簡潔である。ゆえに、平成 19 年判決と比較する 実益は余りない。. 2 東京地判昭和 57 年 12 月 17 日(過失否定)(10) 前提事実は似ているが、法律構成に違いがあるようである。前提事実につき、 埋伏智歯は水平位であり、平成 19 年判決と同じである。被告歯科医師が採用 した術式についても、歯牙を単体として抜歯した点、およびへーベルを用いて 歯周靭帯を切断し、最終的にかん子でつまみ抜歯した点については同じである。 しかし、歯槽骨の切削につき、器具の先端に小さいボール状のヤスリが付いて いて、これが高速で回転するカーバイドバーを用いて電気的に細かく切削する のではなく、骨ノミを歯槽骨に当てながら、槌で叩く術式をとっていた点にお いて異なる。この点のみ異なり、結果として下顎骨骨折を惹起した点において は同じである。 この判決は、骨ノミを使用した場合であると、カーバイドバーを使用した場 合であるとを問わず、歯科医学的に承認されているどのような術式をとったと しても、抜歯術には骨折を生じさせる定型的な危険性があるので、かりにこれ を発生させたとしても、責められない場合もあり得るとして、被告歯科医師の 過失を否定した。理論構成については判示されていないので審らかではないが、 不可抗力、あるいは刑法における許され危険の法理の如く、危険性はあるが、 その社会的有用性のゆえにやむを得ない、という考え方を採用したとでも解す るほかあるまいか。この判決の論理によると、平成 19 年判決において、もし Y1 が死亡することなく、診察経過が明らかになったとしたら、過失を否定さ れていた可能性もあるように思われる。ゆえに、平成 19 年判決と比較する実 180.

(13) 歯科医師が、患者の水平位埋伏智歯(親不知)を抜歯する際に、下顎骨骨折と舌神経損傷等を生じた場合において、因果関係の存否と診療上の過失の有無を問われた事例. 益がある。 もっとも、この判決は、被告歯科医師の術式選択上の過失を否定した代わり に、原告患者の疼痛の原因を探らなかった過失を認定し、慰謝料を認めた点が 注目される。つまり、診療そのものは歯科医師の裁量と絡むので、過失をとる ことが難しいのみならず、また、むやみに過失認定をすると萎縮医療を招来す るおそれもあるが、このような、単純な事実の存否にかかわる過失認定は、既 往の弊害もないので、妥当な解決手段であると考えるからである。. 第 6 本判決の射程 民事・刑事の医療過誤事件を問わず、両者に共通する特色であるが、診療経 過を明らかにするためには、カルテや看護日誌、救急活動記録票などの診療録 等の書証のみならず、被告担当医師・担当歯科医師に対する被告本人尋問(民 事。刑事では被告人質問)や、患者や同伴していた遺族に対する原告本人尋問(民 事。刑事では証人尋問) 、そして看護師らコメディカルに対する証人尋問における. 証言が、極めて重要な証拠方法となる。もちろん、証言内容は齟齬することの 方が多いので、立証過程において、原告と被告、および双方の証人に対する主 尋問と反対尋問が繰り返され、攻撃防御が尽くされる結果、前後矛盾が判明す るなどして証言の信用性が崩されるなど、次第に、真実であろう事実関係が見 えてくるのである。 これを本件訴訟についてみるに、 「第 1 事実の概要」において記載したよ うに、Y1 は X の提訴前に死亡しているため、診療経過に関する証拠方法は、 X に対する原告本人尋問と、故 Y1 が残したカルテのみであった。そのため、 カルテに記載のない事実は、故 Y1 は、行なっていないと認定するか、あるいは、 X の証言より認定するほかなかった。すると、被告不利な証拠資料ばかりが証 拠方法として採用されることになるので、補助参加人 Y3 保険会社が、訴訟追 行に相当難渋したことは容易に想像がつくことである。そして、裁判所の事実 認定を、真実に近づけることが難しくなることも、また想像に難くないことで 181.

(14) 横浜国際経済法学第 19 巻第2号(2010 年 12 月). ある。 その現れとして、例えば、故 Y1 が、本件について術式選択上の過誤を犯し ていたとしても、 その他の事例においては、 少なくとも平均的な歯科医師であっ たとすれば、抜歯に際して、裁判所の(やむを得ない)事実認定のごとく、抜歯 する以外のことを一切説明しないことがあり得るのかどうか、また、智歯の抜 歯が大変であることは周知の事実であるにもかかわらず、患者が抜歯のやり方 について知ろうとすらしないことがあるのかどうか、疑問を払拭できない。か りに、X が、 掛かりつけであった故 Y1 を信用していたから、 というのであれば、 再度故 Y1 の診察を受けたはずであるが、却って訴外市民病院にセカンドオピ ニオンを求めていることと矛盾するとの批判を受けるであろう。 さらにいうのであれば、現在の歯科臨床においては、着手前に、患部をデジ タルカメラで撮影し、それをパソコンに落とし、歯科医師みずからが診療録の 一部として保存するとともに、それを診療席の前のディスプレイに大きく映し 出し、患者に閲覧させてから、歯科医師と患者が協同して術式選択をするこが 一般化しているが、本件においては、患部、つまり水平位埋伏智歯の画像が存 在したのであろうか? かりに画像が存在しないとすると、着手前の患部の状 態が判然としないことになる。埋伏智歯が水平位であったといっても、完全に 水平ではないことから、実際にはどの程度であったのか、今となっては不明で ある。歯槽骨からの露出状態についても、同じく不明である。ガイドバーで埋 伏智歯の周囲の歯槽骨を切削した際、どの程度抜歯が容易化されたのかについ ても、やはりわからない。かりに一見して容易化されたとすれば、歯牙分割を 行なわないという選択もあり得た、つまり、故Y 1 の選択が医学的に正しかっ た可能性を否定できない(例えば、前出の昭和 57 年判決など)。けだし、類似・同 様の症例はあるが、ひとつとして同一の症例はないので、適応する術式も臨機 応変に変わり得るからである。 裁判所の事実認定によると、故 Y1 は、平均的な歯科医師であれば誤るとは 思えない術式選択上の過誤を犯したことになるが、かりにその程度の知見と技 182.

(15) 歯科医師が、患者の水平位埋伏智歯(親不知)を抜歯する際に、下顎骨骨折と舌神経損傷等を生じた場合において、因果関係の存否と診療上の過失の有無を問われた事例. 術力であったとすれば、いわゆるリピーター歯科医師であったといわざるを得 ない。Y1 の過去の診療履歴は、それほどまでに拙劣であったのだろうか。Y1 が死亡した今となっては、もはや知りようのない事実である。 ゆえに、本判決は、各抜歯術に関する医療水準を個別に明らかとなし、また、 逸失利益の解釈について実質説を採用するなど、内容的には先例的意義のある 判例ではあるが、診療経過について不明瞭な点が残り、また、控訴されること なく一審のみで確定している点を斟酌すると、決して事例判決ではないものの、 その射程はやや狭められるであろう。 【註 釈】 註(1)永久歯は全部で 32 本存在する。歯科医療における、その位置関係については、上顎 を「上」 、下顎を「下」と呼び、向かって右側上を「右上」 、同じく左側上を「左上」 、 左についても同じく「左上」 「左下」とする。そして、奥から 3 本を大臼歯といい、 奥から順に、第三大臼歯(8 番) 、第二(7 番) 、第一(6 番)と数える。そして、そ れよりも手前の歯牙については、第一大臼歯(6 番)の次から順に、5 番、4、3、2、 1 と数える。これを、右上・右下、左上・左下と組み合わせ、呼称・表記する。 註(2)要するに、歯牙が横倒しのまま、粘膜組織内に埋没している状態。因みに、智歯は、 横倒しのまま奥から生えてきて、第二大臼歯の手前で立ち上がるのが正常な生え方 である。 註(3)抜歯の際に、歯茎と歯槽骨の間に差し込み、これを回して歯周靭帯を切断すること により、抜歯を容易にするための器具。歯牙を浮かすことからエレベーターと呼ば れることもある。 註(4)智歯の抜歯は、それが「逆位」であれば最も難しく、次に「水平位」 、それから、智 歯以外の歯牙の抜歯と術式が変わらず、単体で抜歯可能なのが「垂直位」 (正立・直 立)である。なお、水平位埋伏智歯に適応する術式は、次のようなやり方、つまり、 下顎孔伝達麻酔の後、粘膜骨膜弁を切開し、埋伏していた歯牙と周囲の歯槽骨を露 出させ、カーバイドバーを用いて歯茎付近の歯槽骨を切削し、へーベルを挿入しや すくする。その後、ダイアモンドバー(歯牙等を切削するため、高速で回転する棒 状の電動器具の先端に取り付ける刃先)を用い、歯冠を歯根から切り離して除去し た後、残存する歯根部にへーベルを差し込み、これを歯茎に沿って廻し、靭帯を切 断し、歯根を除去する(なお、これをつまむ目的でかん子を用いることもある) 。そ の後、掻爬と骨整形を行い、必要があれば、粘膜を縫合する術式である。 183.

(16) 横浜国際経済法学第 19 巻第2号(2010 年 12 月). 註(5)下顎の、向かって右側寄りの先端部付近 註(6)医療過誤訴訟における因果関係の証明の程度については、 判例理論が形成されている。 医療過誤訴訟の場合、それ以外の訴訟における証明の程度と異なり、やや低くても 足りる。つまり、後者については、民訴法における「証明」 、つまり裁判官に、ある 事実の存否について確信を抱かせる程度、あるいは、合理的な疑いを差し挟まない 程度にまで高められることを必要とするが、前者については、その程度に至る必要 はなく、 「…一転の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全 証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果を招来した関係を是認し得る高度の蓋 然性を証明」すれば足りると解されている(最二小判昭和 50 年 10 月 24 日民集 29 巻 9 号 1417 頁。東大病院ルンバールショック患者死亡事件判決) 。 註(7)土屋裕子「医療訴訟にみる患者の自己決定論の展開と展望」 ジュリ 1323 号 135 頁(有 斐閣 2006 年) 、若松陽子「歯科医療過誤訴訟の課題と展望 新しい医療の指針を求 めて」28 頁「医療過誤訴訟の到達点」 (世界思想社 2005 年) 、中村 哲「医療訴訟の 実務的課題─医師と患者のあるべき姿を求めて─」48 頁(判タ社 2001 年) 、平沼高 明「医事紛争入門」86 頁(労働基準調査会 1997 年) 、医師の裁量については、前掲 平沼 142 頁、新見育文「医師 と 患者 の 関係」加藤一郎=森島昭夫編著「医療 と 人権 医師と患者のよりよい関係を求めて」83 頁(有斐閣 1984 年) 、町野遡「患者の自 己決定と法」1 頁(東大出版会 1986 年) 、 医師からみた患者像について、 星野一正「医 療の論理」 (岩波新書 1991 年)113 頁「賢い患者になるには」など 註(8)医療水準および、これから派生する義務としての、医師や歯科医師の転医(転院・ 転科)義務と研鑽義務については、判例理論が形成されている。医療水準は、医科・ 歯科の医療過誤事件の理解にとって非常に重要な理論なので、詳しく解説する。医 療水準とは、医療過誤における過失の認定基準、つまり、当該診療に際しての注意 義務の内容である。医療水準に関する判例理論については、1995(平成 7)年を境 に、従前の考え方と新しい考え方に分けることができる。従前の考え方に関するリー ディン グ ケース は、東大病院輸血梅毒感染事件 で あ る(最一小判昭和 36 年 2 月 16 日民集 15 巻 2 号 244 頁) 。本件は、同病院で受診した患者が、子宮筋腫治療手術の 際に輸血を受けたころ、輸血用血液の職業的給血者が梅毒スピロヘータのキャリア であったため、患者が梅毒に罹患し、後遺症も遺残した結果、離婚やむなきに至っ たので、給血を担当した同病院勤務医と同病院の経営主体である国を提訴した事案 である。裁判所は、 「…いやしくも人の生命及び健康を管理すべき業務(医業)に従 事する者は、その業務の性質に照らし、危険防止のための実験上必要とされる最善 の注意義務を要求される」と判示し、 勤務医が給血者に相当な問診をしていれば( 「身 体は大丈夫か」とのみ訊いたのでは不充分) 、血液検査証明書(陰性)交付後に給血 者が売春婦に接していた事実を知り得、梅毒感染を予見できたとして、勤務医の過 184.

(17) 歯科医師が、患者の水平位埋伏智歯(親不知)を抜歯する際に、下顎骨骨折と舌神経損傷等を生じた場合において、因果関係の存否と診療上の過失の有無を問われた事例. 失を肯定した。以後、医師の注意義務は最善注意義務と呼称されるようになり、判 例理論として確立したが、 「最善」なる文言の具体的な意味内容は明らかにされてお らず、抽象的な義務にとどまっていた。この点を具体化したのが、未熟児網膜症高 山日赤事件である(最三小判昭和 57 年 3 月 30 日判タ 812 号 177 頁) 。本件は、1969 (昭和 44)年に発生した事故であり、いわゆる未熟児として出生した患者を哺育器に 収容し、38 日間にわたって酸素投与を施したところ、網膜静脈迂曲による網膜症の 兆候が現れたため、ステロイド投与による対症療法を施したが効果が見られず、失 明の危険を回避するため、患者を、当時の最先端治療法とされていた光凝固法を実 施可能な他院に転送した。しかし、既に右眼は治療不可能(オーエンスⅤ期) 、左眼 は同治療法の適応時期を徒過しており(オーエンスⅢ期の晩期) 、左眼のみ同治療法 を実施したものの効果はなく、結果として両眼を失明するに至った。そこで、患者 側が光凝固法を実施可能な他院への転医措置の遅滞等を理由として、同病院の経営 主体である日本赤十字を相手取り提訴した事案である。裁判所は、 「…(最善)注意 義務の基準となるべきものは、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水 準である。 」と判示し、当時における光凝固法の実施例は合計 6 例(専門誌 2 例・学 会誌 4 例)のみであったことを根拠に、光凝固法は一般眼科開業医はもとより、大 学病院などの総合病院レベルにおいてすらも一般的に施行すべき水準に達していな かったとして、高山日赤病院の転医義務を否定した。この判例は、医療水準なる概 念を初めて用いた判決であり、判旨の字義通り、医療水準を超える注意義務はない ことを意味し、具体的には、診療当時の医療水準に照らし、悪しき結果を予見し得 なかったことがやむを得なかった場合は(結果予見可能性の不存在) 、そもそも結果 予見義務もないことになり、過失の有無を論じる前提を欠くと考えるものであった。 既往のような一連の流れの集大成が、未熟児網膜症昭和 47 年事件である(最二小 判平成 4 年 6 月 8 日民集 49 巻 6 号 1499 頁) 。本件も、未熟児網膜症に関する判例で あり、哺育器に収容し酸素投与を施した患者につき、未熟児網膜症を疑い、眼底検 査を実施したが、異常なしとの診断を下し、後に白内障と診断し、点眼薬による治 療を行っていたところ、患者側が、他院の医師より白内障ではなく未熟児網膜症で あるとの確定診断を得て、他院にて治癒を目指したが、結局失明に至った事案である。 裁判所は、 「…医師は、患者との特別の合意がない限り、右医療水準を超えた医療行 為を前提とした、緻密で真摯かつ誠実な医療を尽くすべき義務まで負うものではな く、その違反を理由とする債務不履行責任、不法行為責任を負うことはない。…(被 告医師に対し、原告患者に)光凝固法等の受療の機会を与えて失明を防止するため の医療行為を期待する余地はなかったのである。…(原判決は)結局、本件医療契 約の内容として、同医師に対し、医療水準を超えた医療行為を前提とした上で、緻 密かつ誠実な医療を尽くすべき注意義務を求め、その義務違反による法的責任を肯 185.

(18) 横浜国際経済法学第 19 巻第2号(2010 年 12 月). 認したものといわざるを得ない」と判示した。本判決は、医療水準と患者の期待権 の関係に言及した初の判断であり、被告医師側については、診療契約上の最善治療 義務は診察当時における医療水準の限度で履行すれば足り、これを超える術式を採 用する義務を否定し、原告患者側については、医療水準を超えた治療方法が採用さ れることまで期待したとしても、斯かる期待は法律上保護されない(即ち、慰謝料 請求の対象とならない)ことを明らかにしたものである。従来までの考え方に基づ く一連の判例は、経験科学としての医学の本質や専門家としての医師の裁量を尊重 しており、妥当な内容と評価できるが、以下のような批判を受けた。即ち、過誤か 否かが問われている医療行為が、診療当時の臨床医学の実践レベルの枠内にあれば、 悪しき結果発生についての過失責任は常に否定されることになり、医療水準を高め るための努力義務、例えば、医療契約上の債務として医師の研鑽義務を観念するこ とが困難となるほか、医療水準を、より低い方向(開業医レベル)で一律に同じと 捉えることになり、例えば、開業医に先端的知見を求め、これを有する大学病院等 に患者を転送する義務(転医義務)を観念することも困難である、という批判であっ た。確かに、 本判例を根拠とする医療側の主張として、 「…大学病院であるからといっ て、一般開業医よりも重い注意義務を負うわけではない。 」あるいは、 「…高度な治 療法が一部の医療機関で行われていたとしても、他の医療機関において、これを実 施する義務を当然に負うものではない」などの主張が散見されたことは事実であっ た。このような従来の考え方に対し、新しい考え方の嚆矢は、未熟児網膜症姫路日 赤事件である(最二小判平成 7 年 6 月 9 日判タ 1571 号 51 頁) 。本件も未熟児網膜症 に関する判例であり、昭和 49 年 12 月、哺育器に収容し酸素投与を施した未熟児患 者につき、網膜静脈迂曲による網膜症の兆候が現れたが、その発見が遅れ、光凝固 法を適時に実施しなかった結果、失明は免れたものの、両眼の視力が著しく減弱(0・ 06)した事案についての判断である。裁判所は、医療水準は全国一律であるとする 従来までの解釈を事実上変更し、 「ある新規の治療法の存在を前提として、検査、診 断、治療などに当たることが診療契約に基づき、医療機関に要求される医療水準で あるかどうかを決するについては、当該医療機関の性格、所在地域の医療環境の特 性等の諸般の事情を考慮すべきである。右事情を捨象して、すべての医療機関につ いて要求される医療水準を一律に解するのは相当でない」そして、 「…予算上の制約 等の事情により、その(光凝固法の)実施のための技術・設備等を有しない場合は、 …これを有する他の医療機関に転医させるなどの適切な措置を採るべき義務(があ る) 」と判示した。姫路日赤事件と、 高山日赤事件および昭和 47 年事件の判断が異なっ た理由であるが、主たる理由は、未熟児網膜症の罹患時期、すなわち事件発生時期 による差異による。1975(昭和 50)年 8 月、当時の厚生省特別研究班は、 「未熟児網 膜症の診断および治療基準に関する研究報告」と題する報告書を公開し、光凝固法 186.

(19) 歯科医師が、患者の水平位埋伏智歯(親不知)を抜歯する際に、下顎骨骨折と舌神経損傷等を生じた場合において、因果関係の存否と診療上の過失の有無を問われた事例. の有用性を一般化したため、裁判所は、この時点を医療水準の確定時とみて、判断 を区別したからである。もっとも、姫路日赤事件も本報告書の公開以前の事件なの であるが、時期的にも本報告書の公開時期と近接しており、医療水準の完成期にあっ たといえ、また、当時の姫路日赤には、光凝固法の有用性を知悉した小児科医が複 数在籍しており、眼科との連携を図っていた事実を認定しており、開業医レベルよ りも高レベルの医療水準を要求しても酷ではないとの配慮があったものと推測され る。また、姫路日赤事件判決は、医療水準の相対性を肯定したと解釈し得ることから、 末端の医療機関に勤務する医師の研鑽義務を認める余地を示したものといわれてい たが、本判例に続いたペルカミンS事件は、医療機関の研鑽義務を認めることを前 提に、 その義務違反を肯定した(最三小判平成 9 年 2 月 25 日民集 29 巻 9 号 1417 頁) 。 その事案であるが、患者が腰椎麻酔薬ペルカミンSを用いた虫垂炎の切除手術を受 けた際、麻酔管理の方法として、担当医師が看護師に対し、同薬添付文書(効能書) の注意書き(2 分間隔の血圧測定)と異なる、当時における一般的な医療慣行であっ た 5 分間隔の血圧測定を命じたところ、注入後 4、5 分の時点で意識レベルや血圧の 急激な低下、呼吸不全などの症状が発現し、その結果、虫垂炎の手術は成功したも のの、患者に重篤な後遺症が遺残したというものであった。裁判所は、 「…医療水準 は、医師の注意義務の基準(規範)となるものであるから、平均的医師が現に行っ ている医療慣行に従った医療行為を行ったからといって、医療水準に従った注意義 務を尽くしたと直ちにいうことはできない。…医師が医薬品を使用するにあたって 文書(医薬品の添付文書)に記載された使用上の注意義務に従わず、それによって 医療事故が発生した場合には、これに従わなかったことにつき特段の合理的理由が ない限り、当該医師の過失が推定されるというべきものである」と判示し、平均的 医師が現に行っている医療慣行は必ずしも医療水準とはならないこと、医師は、現 状にとどまることなく、新しい医学的知見を求めて常に研鑽し、医学界全体の医療 水準の底上げに務める義務があることを明らかにした。つまり、医療水準は、医師 の注意義務の最高限度を示す概念から、その最低限度を示す概念へと質的な変化を 遂げた、と解する余地を生じたのであった。なお、民事医療過誤訴訟において形成 された医療水準の理論は、刑事医療過誤の領域においても、ほぼそのまま妥当する と考えられている(甲斐克則 「基調報告 医療過誤刑事責任における注意義務違反 について」明治大学法科大学院シンポジウム「医療過誤刑事責任~注意義務の明確 化をめざして」 2006 年 4 月 28 日) 。 註(9)判タ 714 号 207 頁 註(10)判タ 495 号 153 頁. 187.

(20) 横浜国際経済法学第 19 巻第2号(2010 年 12 月). 【参考文献】 山川一陽 「医療事故の概念とそれによる医療機関 ・ 医師の責任」 伊藤文夫=押田茂實編著「医 療事故紛争の予防・対応の実務─リスク管理から補償のシステムまで」 3 ~ 13 頁 (新日本法規 2005 年) 岡島芳伸「歯科医療における二、三の問題 ─歯科医師の説明を中心に」日本法学 59 巻 4 号「契約法をめぐる諸問題 篠原弘志教授古稀特別記念号」191 ~ 213 頁(日本大 学法学会 1994 年) 若松洋子「歯科医療過誤訴訟の課題と展望 ─新しい医療の指針を求めて」3 ~ 18 頁、19 ~ 37 頁、38 ~ 109 頁(世界思想社 2005). 188.

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参照

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