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メディア・リテラシーとリテラシー : メディア・リテラシーは日本語教育に何をもたらすか

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(1)Ⅰ ふり. 美. 正. 目合 ﹃. メディア. す. ら た. チし. も を 何. Ⅰ. 育 教. シ本. ラロ. テは. リ ︶. とシ. ロラ. シテ ラリ. テ ・. リア [ キーワード ]. リテラシⅠリテラシⅠ日本語教育、 国語教育、 反省. ,性 ここ 1, 2 年の間に急速に、 国語教育界におけるメディア ,リテラシー導入の試. みが活発になり、 実践者がその 成果をまとまった 形で世に問うまでになってきて いるⅢ。. 国語科のこうした 活発な展開と 対比すると、 同じ日本語の 教育Ⅰ学習であ. る日. 本語教育では、 メディア,リテラシ 一にたいする 取り組みはまだまだ 不十分と言. わざるをえない。 筆者は以前からメディアのあ り方に深い関心をもってきたが、 留学生にたいするクラスでメディア・リテラシー. を 1 学期間通して. 行ったのは、. 2000 年度後期の日本事情クラスが 初めての試みだった㈲。 私の知る範囲では、. 日. 本語教育においてメディア・リテラシーを 全面的に展開しているクラスは 他には ほとんどないようであ る。 この間、 韓国や中国で 開かれた国際研究集会をはじめとして、 い くつかの研究 集会で日本語教育にメディア・リテラシー とるのざして、 「メディア・リテラシー. と. を 積極的に組み 入れる呼び水となるこ. 日本語教育」をテーマとする 研究発表を. 行ってきた。 それらの場で、 多くの日本語教育者の 関心と共感を 得ることができ た 半面、. 納得しきれないものが 残るといった 感じで受け止める 向きもあ ったこと. は事実であ る。 後者が感じたと 思われる中心的な 疑問点を私なりに 整理すると、 「なぜ日本語教育でメディア・リテラシー. な行. うのか. ?. 」、 つまり「ことばの 教. 育 Ⅰ学習とメディア・リテラシ 一にはどのような 根本的な接点があ るのか」とい ぅ. 点に集約されるように 思える。 本稿では、 こうした疑問に 答えることをめざし. て、 「メディア・リテラシーは、 いかに日本語教育をゆたかにするか」を いきたい。. 一 37 一. 探究して.

(2) その探究にとりかかる 前に、 「日本事,削 クラスと「日本語」クラスとの 1 学期間をあ. 関係に. ついて一言述べておきたい。. 私が上述のように. てて、 留学生たちに 対. してメディア・リテラジーを. 実践してきたのは「日本事, 削 クラスにおいてであ. っ たが、 私自身は近年、 「日本事情」クラスと「日本語」クラスを. べき要素はなくなってきていると. 考えている。 1990 年代にいくつかの「日本事情」. クラスで展開されてきた「文化リテラシー」教育㈲は、 取り組まれるべきだからであ. となり. ぅる. 本質的に分かつ. る。 その意味で、. 日本語クラスでも 同様に. 「文化リテラシー」教育の 重要な 核. メディア・リテラジー 教育はこれからの 日本語クラスにおいて 重要な. 教育要素になるだろう。. 役割を果たす. 本語教育へのインパクト. 1. メディア。 リテラシ)の 、. 私は 1 年前の論考の 中で、 メディア・リテラシ 一の日本語教育へのインパクトを 「教育内容、 教育方法、 教育効果」の. 3. 点にわたって 概観してみた " 。 まず、 そこ. での議論を再論することから 考察を始めたい。 教育内容という 点でいえば、 日本語教育の 教育内容はにとば」であ るが、 の「ことは」は. 一定の文脈. 生きた表現としては 常にすでに「テキスト」としてあ る、. ( コンテクスト ). そ. つまり. の中にあ り、 「ことばを理解する」とは「文脈の. 中で,. テキストの意味を 読みとる」ことなのであ る。. ここでの「テキスト」を、. これまでのことはの. 教育のように、 文字. ( や肉声 ). テキストというように 限定せず、 音声・映像メディアのもたらす 表現も「テキス ト. 」として十全に「読み 解いて」いこうとするならば、 必然的にメディア・. ラシーが必要となってくるのであ では、 なぜメディアの. リテ. る。. 表現の「読解」が、. ことばの教育Ⅰ学習の 中で取り組ま. れなければならないほど 重要になってきたのだろうか。 それは、 端的に言って 、. メディアが私たちの 生きる世界の 中にあ まねく深く浸透してきているからであ ことばを教え. / 学ぶ意味が、. この時Ⅰ犬を. 生きる者として、 他者とコミュニケージ. ぶく土台 として必要な コ. ン し. 、. 自己を表現していく 力 を養. しているメディア ノ. 表現とのくつきあ. う. る。. るとするならば、 現代社会に浸透 習得することはことはを 教え / 学. ことにあ. い 方ノを. 事柄とも言えるだろ. 一 38. 一. う.

(3) この点については、 メディア・リテラ シ と リテラシ一の 関係の考察として、 後に議論をふかめて い くことにしよ. 第二に、 教育方法という 点でも、 日本語教育はメディア・リテラシーから 学ぶ 点が多々あ る。 メディア・リテラシ 一においては、 教師が一方的に 知識を詰め込 む 型のクラス活動ではなく、 学習者がメディアについての 自分の経験・ 知識をも そこでは、 教師. でな 中に のと 習こ 学る. 豆す 相徹 な に れ割. そ役 の. 発タ. を一. 者ア 習フ. る. 学 ﹁. てす し援. 触 る. をス 、心セ 関口 題プ. のい. う. 梵文. 、 「学習者中心」のクラス 活動が基本となっている。. 問く. 解る. 者て 習し. は. 学決. とに学び合. 80 年代後半にカナダで 試みられたメディア・リテラシ 一の教育実践の 結晶とも い ノ. う. べき『メディア・リテラシー』. (. リベルタ出版、 1992 年 ) に盛り込まれた メデ. ア く 読解 ノ をめぐる多種多様なタスクのあ. クをいかに「学習者中心」のクラス. りようは、 日本語教育におけるタス. 活動に結びつけていくかを 考える際の格好の. 資料集とも言えるだろう。 第三に、 メディア・リテラシーが 目標としている「教育 / 学習効果」は「多様 な 価値観の承認」と「批判的・. 主体的市民の 育成」だが、 この点はまさに 日本に. おける日本語教育の 現在的課題と 直結している。 日本語教育がせまい 意味での. だ. とばの教育」に. 自問することなく、 日本語学習者のおかれている 状況に目を凝. らすならば、 日本語教育関係者は、. 日本社会において「覚国人であ. ること」の 意. 味 をさまざまな 問題局面で見つめて い く勇気をもっ 必要があ るだろう。 また、 外. 国人学習者が、 日本社会が強いがちな「画一化」傾向と、 外国人へのステレオタ イ ブ. をはね返していけるような「市民」としての 主体的な強さを 獲得する手助け. も、. 日本語教育の 課題としてうかびあ がってくるのではないだろうか。. 外国人学習者へのメディア・リテラシー は 、 学習者を現代社会を 生きるコミュ ニケーション 主体として鍛えていくだけでなく、 日本のメディアのあ りように 対 して異文化のまなざしからの る「白人崇拝」. 批判を対置してく 作業にもつながる。 CM 等におけ. や 、 旅行番組やト 一ク番組における 諸外国へのステレオタイプの. 拡大再生産、 さらにはニュース 等における外国人差別報道 人による犯罪の. 増加」を吹聴するような 報道が目につく 一 39 一. ). (例えば、. 近年、 「中国. に対して、 マィノリテ.

(4) ィ. であ る外国人学習者からの 異議申し立ての 有効なチャンネルが 切り開かれるべ. きだろう " 。 そうした. メ. ディア・アクセスの 基礎教養が日本語教育の 中で提供さ. れることの意味は 大きい。 以下では、 ここで多少、 敷桁しつつ再論した 論点のうち、 第三点を「市民的 教 養 」という 視 ,点、 で捉え返したのちに、 第一点を「メディア・リテラシーとリテラ シー」という 問題椿市Ⅱのもとに. 論点、を深めていくことにしよう。. ためには、 具体的な授業実践を 提起してタスクやクラス. 第二点を深める. 活動の有効性を. 問. う. 作業. が必要だが、 今回は割愛する㈲。. 民的 教養」の核としてのメディア。リテラシー 2002 年度から始まった「日本留学試験」の「日本語」科目シラバスの 鍵 概念は 「アカデミック・ジャパニーズ. ( 大学で学習 /. 生活するために 必要な日本語 力 ). とされている " 。 シラバスは 、 「アカデミック・ジャバニーズ」なるものの. ついての明確な 規定をほとんど 示し得ていないが、 「アカデミック. 」. 内実に. 、ジャバニーズ」. という問題提起そのものは 評価できる。 考えるとき、 日本の大学で. 私見では、 「アカデミック・ジャパニーズ」について. 学び始める高卒者が 平均的に備えている「市民的教養」の 内実について ことが重要であ. 考察する. る。 大学での教育は、 教養教育においても 専門教育においても、. 学生がそうした「市民的教養」をもっていることを. 前提として成立していると. 言. えるからであ る。. 構情で をなえ 会要ぅ. 調査・探究し、 なんらかの解決を 見けだ 議論し、 共同で探究するためのコミュニ. 自分が見いだした 解決法を的確に 表現する九等が. こうして「市民的教養」の. 自立的に生. 現し生. ケーションカ、. 問題について. |に自. しうる力、 他者とそうした. こ確 的や. その問題について. よ. 発見し、. そ. てな. し様る 指多え. 括、で 包 やと を調﹂ 力知一 能的シ 的本ぅ 知基テ な の り 要め報 必た情 ほろ ﹁ めする. 解と 理み. 報. 切実な問題を. い情う. 「市民的教養」とは、 現代社会において「市民」として. う. た く. き道. ここで言. 内実を分析的にかぞえあ. 高卒者が「平均的に 備えている教養」とは 言え. 一 40 一. げていくと、. 含まれるだろう。 必ずしも日本の そうした.

(5) 「教養」の基礎は 習得しているという 前提のもとに. 大学教育がすすめられているの. は事実だろう。 「アカデミック・ジャパニーズ」の 育成が大学での 日本語教育の 課題となると. するなら、 上述の「市民的教養」の 内実を探究し、 その土台を酒養することが、 少なくとも大学における 日本語教育には 課せられることになる㈹。 こ う言. うと 、 それは日本語教育にたいしてあ まりに過大な 要求を つ きつけるこ. とになると思. う むきもあ. 育 全体の教育目標であ. るかもしれない。. 「市民的教養」の. 育成は、 大学の教養教. って、 留学生にたいする 日本語教育だけでとても 担いうる. ものではない、 というのは確かに 正論であ る。 しかし、 先に述べたような、 外国. 入学習者が日本社会でおかれている 状況への深い 共感的理解に 根ざした日本語教 育こそが、 彼らがこの社会を 生きていくために 必要な「市民的教養」の 内実をき ね. め、 その核心をなす 教育を実践していく 潜在的な力を 有しているのであ り、. 力を有効に実践するべきであ る。 また、 グローバリゼーションが. 本語教育はその 進展している. 日. 現代社会においては、. 「市民的教養」のかなりの. 部分が地球的規模で. 共有されている 面があ る。 したがって、 日本語教育はそうした 共有された「市民. 的. 教養」の「翻訳」をいかに. すべての「市民的教養」を. 有効に行うかといった 面に限定されるところもあ. り. 一からカバーするわけではないという 点にも注意を. 促. しておきたい。. 外国人学習者がこの 日本社会を生きる. 力をはぐくむ 日本語教育を 展望するうえ. で、 メディア・リテラシ 一の導入はきわめて 重要な意味をもっている。 それは、. メディア・リテラシーが「情報化社会」と 呼ばれる現代社会に 地球的規模で 共通 する課題に応える「市民的教養」の 核 に 世界的にみると、 ラ 整備の格差は. ( コア ). をなすものだからであ る。 たしか. デジタル・ディバイドといわれるような「情報化」のインフ. 厳然として存在しているが、 例えば、 テレビのニュース 映像のよ. うに、 マクルーハンの 言う「地球 村 」を現双させてしまっているメディア 現象も いろいろな局面で 見られる。 その意味で、 メディア・リテラシーはバローバルな 「市民的教養」であ. グローバル. な. るとともに、 日本語教育という 多様な文化背景をもとに、. 「教養」が学習者のローカルな 文化基盤と相互作用を 起こし、 「バロ. 一 カル 9IocaI な知 へと鍛え上げられていく 」. その. 可能性をもあ わせもっていると 言えよ. 一 41 一.

(6) つ @ さて、 「市民的教養」としてのメディア・リテラシーが、 なく. にとばの教育Ⅰ学習」という. 殻を破ることを 促す側面を有しているという. 点も重要であ る。 1980 年代後半のカナダでは、 リテラシーを 学校教育に導入する の 教師たちの取り. ぅ. 日本語教育にいやおう. 「英語 ( 国語 ). の教師がメディア・. えで最も熱心に 取り組んできた」が、. ことは. 組みは「主として 技術面に限られてきた。 今後は、 メディア・. テクストに盛り 込まれている. ィ. デオロギⅠ経済的、 政治的、 歴史的要素という. 重要な側面に 取り組んでいかなくてはならない」。 鋤 、 とカナダのメディア・リテラ 、ン 一連動は反省している。. この反省は、 ことばの教師が 陥りやすい 陥 穿を的確に. 描いている。 ことはの教師はともすれば「ことはの. 教育Ⅰ学習」という「. ( ことは. の ) 技術面」の指導に 集申しがちだからであ る。. せっかくメディア 表現を素材としながら、. その言語的局面 は がりに目がいって. しまっているのでは、 「木を見て森を 見ず」ということになってしまう。. メディア. 表現とのくつきる ぃガンを 「市民的教養」として 捉え返すためには、 そうしたせ まい枠を. う. ち破って 、. 「. ィ. デオロギⅠ経済、 政治、 歴史」という、 より広い社会. 科学的な枠組みのもとにいでたつ 勇気が必要であ る。 CM. というメディア 現象を. 分析するためには、 当然のことながら、 「メディアは 商売と密接な 関係にあ 「メディアはものの 考え方. (. イデオロギⅡと 価値観をつたえている」、. は社会的・政治的意味をもつ」というメディア・リテラシ. まえていなければならない。. る」 、. 「メディア. 一の基本的概念㎝を. 踏. メディア・リテラシ 一に取り組むことは、 文学・語. 学 畑 出身者の多いことはの 教師に、 社会科学的な 理解の訓練をせまるという. 知的. な 風通しのよさを うな がすことになる。. 3 。 メディア。 リテラシ)とリテラシー く リテラシーンとは 文字通りは、 「読み書き能力」を 表しており、 メディア・リ テラシーという 場合のくリテラシーンは、. 聴覚、 視聴覚メディアのあ. りよ. う. 写真、 電話、 テレビ、 映画などの視覚、. を考えると、 字義通りの意味ではなく、 地楡. と. して使われていることがわかる。 そこには、 コンピュータ・リテラ ン 、 という用. 語からの影響があ る、 と 言われており、 コンピュータ・リテラシーがコンピュー. 一 42 一.

(7) タを 自由に使いこなせる 能力を表すのと 同様に、 メディア・リテラシ. ディアの表現様式を. とともに、. 熟知して、. 一には、. メ. メディアからの 情報を批判的・ 主体的に摂取する. メディア表現を 自由に使いこなせるという 意味合いがあ. る。. しかし、 メディアと「メディア・リテラシー」との 間には、 コンピュータと. ら. 「コンピュータ・リテラシー」との 関係とは違って 、 「リテラシⅡが 単なる地楡. |. と どま. ない本質的な 意味をおびてくる 局面があ るように 思、える。 では、 メデ. ィア ・リテラシーは く リテラシー ノ のあ りよ. う. に、 どのような本質的働きかけを. しているのだろうか。. 3一. Ⅰ. 「メディア・リテラシーとリテラシー」の. 関係にかんする 国語教育研究者. の 議論. まず傍証的事実としては、. メディア・リテラシ 一に積極的に 関わる教師にこと. ばの教師が多いという 興味深い事実があ る。 この点は、 メディア・リテラシ 一先 進国であ る、. ヵ. ナダ、 イギリスだけでなく、 90 年代半ばから 急速にメディア・. テラシーが進展したアメリカにも. リ. 見られる現象であ りⅢ、 また、 冒頭で指摘した. ように、 日本においても、 近年、 国語教育がメディア・リテラシーを 積極的に取 り 入れようとしてきている。. しかし、 ことはの教育が、 なぜテレビ、 ラジオなどの 映像・音声メディアをも. 教育の対象としてくりこなのかという 点についての 国語教育研究者の 議論は必ず しも明快ではないように 思える。 中村 敦雄 (2001) は 、 に れまでの国語教育界では、 国語の授業とは、 教科書に 書かれた言葉. ( 文字言語 ). きかせてきた」と、. を対象とした 学習であ るという窮屈な『常識』が 幅を. 国語教育界の「常識」を. 批判する。 そして、 近年の「. 音声言. 語 重視」の取り 組みが定着してきたことを 評価し、 それを一歩すすめて、 「映像、 メディアを含めた 総合的なコミュニケーションに 取り組むことの 必要性を強調」 している。 「国語科を『言葉だけの 教科』ではなく、 『言葉を中核とした 教科』と とらえ、 メディアの進歩に 対応した学習活動を 行. う 」ことによって、. 国語科を. 「,情報化時代を 生き抜くのに 必要な力を育てる 教科として前進」させることができ る (,2, 、 というのであ る。. 一 43 一.

(8) 中村のこの議論は、 「音声言語重視」という 国語科の近年の 認識と、 メディア・ リテラシ一の 導入を結びつけている 点は興味深いが、 国語科がなぜ 映像表現まで とりこむのかという 肝心の点についての 説明としては、 の育成を指摘するにとどまっている。. 口清報 他時代を生きる 力」. 中村は、 「国語科としてのメディア・リテラ. 、ン 一のあ り方」を論じた 箇所で、 視覚的な情報を 言葉として把握する「言語化 能 力 」と、 伝えたいことを. 視覚的な情報として 表現する「映像化能力」の 相関性を. 指摘し、 「映像化能力」がなぜ 図画工作や美術といった 教科の課題でなく 国語科の 課題なのかという 点については、 映像を制作する 際にも「メモや 台本を書くとい う過程が含まれている」. し. 、 写真のキャプションなどの 読みとりには「説明文」. 読みとりの手法が 重ねられる、 と説明する。 しかし、 こうした説明だけでは、. 「言. 語化能力」と「映像化能力」の 真の相関性が 解き明かされているとは 言えないだ ろ う。. 井上 尚美. (2001) は、 1950 年代の国語教育には「新聞の 読み方」等のメディア. 教育が含まれていたし、 メディア・リテラシ 一において重視されるクリティカル な 思考についても、. 一部ではあ ったが、 「批判読み」といった 実践があ ったと指摘. する。 批判的思考・. 論理的思考を 育てる要素を. 国語教育に導入することを 一貫し. て訴え、 自ら実践してきた 先駆者の指摘として 耳を傾けるべきものではあ るが、. 国語科の課題がどのように. 映像の「読みとり」と. 旧来の文字「読みとり」という. 接点をもつのかという. 肝心の点については、 井上の議論も、 映像についても「 映. 像の文法」というよ. う. に「文法」と 平行する現象が 見られることを 指摘するにと. どまっている. 佐藤洋一. (2002) は、 国語科におけるこれまでのメディア・リテラシ. の 「最大の実践的な. 問題点は、. プレゼンテーション 能力 J といった基礎・ 基本. 『話す・聞く. 『読む・書く. ( 基礎学力 ). /. 関 わる. 一実践 例. ( コミュニケーション. ( 文学・論理的な. 能力・. 文章の言語技術教育Ⅱ. が『学び方・ 評価二リテラシー コの 学習として. きちんと踏まえられていない」点にあ. ると批判する㎝。 そして、. ラシー教育の 実践 例 をそうした国語科が 養. う べき「基礎学力」と. メディア・. リテ. 対応させる授業. 構想、を示してみせる " 。. 佐藤の構想は、 一見、 メディア・リテラシ 一の教育目標を 整然と国語科の 教育. 一 44. 一.

(9) 目標と対応させているように. 見える。 しかし、 上記の指摘にあ る「コミュニケー. 、ンコ ン能力」や「プレゼンテーション. るぃ はしばしば佐藤がとりあ. 能力」、 「論理的な文章の 言語技術教育」、. げる「情報リテラシー. ( 情報の発見・. あ. 理解、 課題の. 探求、 情報の選択構成、 発信交流といった、 情報を的確に 生かすための 一連の過 程に必要な能力をさす ) 」は 、 先の中村の「国語科常識」批判に 見られたよ まさにこれまでの 国語科「常識」が 軽視ないし無視してきた「ことはの 域 であ. う. に、. 教育」. 領. り、 むしろ「音声言語重視」やメディア・リテラシー 導入等の新しい 動き. の中で触発されて 浮かび上がった 教育領域なのでないだろうか。 メディアがあ まねく浸透した ,情報化社会の中での「コミュニケーション. 能力」. や「,情報リテラシⅡのあ り方を根底から 考えるためには、 メディア・リテラシ 一と. ( 文字 ). 議論は. 、. リテラシーとの 関係を掘り下げて 考察していく 必要があ る。 佐藤の. 、ン ンプルな学習モデルの. 構築 や 、 ワークシート. ( 評価カード ). の提示 と. いった授業実践に 役立つモデルを 提示することに 力点がおかれており、 メディ ア. ・リテラシー. と 伝統的なリテラシ. 踏み込んではいない。. 一の連関と相互作用という. 根底的な問題系に. こうした点で 参考になる佐藤の 指摘は、 テレビ CM の分析. においても、 国語科における「説明文・. っている」㈹というものだが、. 文学の情報リテラシーが 基礎・基本にな. この点は、 メディア表現を「テキスト」としてく. 読む ノ という過程についての 私の指摘と重なるものとしてみることができる。 それでは、 メディア・リテラシ 一先進国であ るイギリスのことばの 教師たちは、 メディア・リテラシー ろ. とことはの教育との 関係をどのように 位置づけているのだ. うか 。 菅谷明子 (2000) は、. 化を理解すること」、. 「英語 ( 国語 ) の目的 は 、 自分が身を置いている 文. 「メディアは 子どもの世界の 中心を占めているため、. 授業で教える 必要があ る」という、 ことばの教師の 説明を紹介している. 国語の " 。 この. 点は、 「ことはを教えⅠ学ぶ 意味は、 この時代を生きる 者として、 他者とコミュニ ケーション. し、. 自己を表現していく 力 を養うことにあ る」という、 第 1 節で私が述. べた点と通じており、 共感できる。 しかし、 そうした概括的な 把握を示すだけで は 、 メディア・リテラシー. と 伝統的リテラシ. 一の相関の探究という 課題には十分. 答え得ていない。 佐藤が指摘しているように、. これまでのメディア・リテラシー. 紹介文献は、 メディア・リテラシ 一先進国であ るイギリス、 カナダのことはの 教 一 45 一.

(10) 帥 たちがなぜメディア・リテラシ 一に積極的に 取り組んできたのかという いての理論的根拠を 十分にとらえてこなかったきらいがあ. 点につ. る㈹。. メディア・リテラシ 一先進国での、 そうした理論的蓄積と 対 時 するのは今後の 課題として、 以下では、 「メディア・リテラシー. と. リテラシ一の 関連」にかんする、. 現在の私なりの 考察を示しておきたい。. 3一2. テキスト「作者」としての. デイア「制作者」. メ. まず第一に、 第 1 節での議論の 敷 街 だが、 メディア. 育 Ⅰ学習がテーマとするテキストを. リテラシーは、 ことはの 教. 音声・映像メディアまで 拡張することになる。. ことはの教育 / 学習は、 音声・映像 く テキスト ン に対して、 文字テキストのく 読. 解ノ の手法を類比的に 駆使して、 声 ・映像テキスト. く 読解. 固有のく文法上があ. 表現は台本やナレーションといった 表現技法としても いる面もあ. ノを 試みるわけであ. ることは確かだが、 音声・映像メディアの 場合も多いし、. 文字テキストを 土台としている. 論説文、 小説、 戯曲といつた. るので、. もちろん、 昔. る. 文字テキストの. 手法を基礎として. 文字テキストの 読解技法が有効な 局面もあ ることは確かだろ. う。 しかし、 この点は、. 音声・映像テキストも. 文字テキストを 媒介としているこ. とが多いから、 文字テキスト 読解が応用できるという. 指摘だけでなく、 音声,映. 像テキスト く 読解 ノ はどのように 文字テキスト 読解と関連してくるのかを 具体的 に 探究する必要があ るのではないか。 そして、 こうした探究は、 必然的に 、 昔 ・. 映 像 テキスト く 読解 ノの 技法が文字テキスト 読解にも大きく 影響を与えて ぃ ・. 声. るという、 逆の作用にも 向けられなくてならないだろう。 ,。, 。. また、 メディア表現をくテキスト. ン. として捉えることばの 教育Ⅰ学習は 、. 「テキ. ストには作者がいる」というテキスト 論の基本的事実をみすえることによって 、. おのずからメディア・リテラシ 一の根本をなす 点を押さえておく 必要があ. ろう。 つまり、. そのく作者. いかにく現実そのもの ノ であ る. テレビニュースなどのメディア. ノ のように見えても、. カ メ. とに切り取られ、 編集され、. シ. 洞察に立脚することになるという. そうしたメディア. ディレクタ一等によって、. く あ. 表現が. テキスト. ンは. る問題関心のも. 「構成された 現実」を提供しているにすぎないという. 点への洞察であ る。. 、. 6 4.

(11) 3 一3. 音声言語・文字言語・ 映像言語の関係性. 第二に、 メディアというくテキストンへの 着目は、 音声や映像のコミュニケー 、ンコ ン カ の再評価、 吟味を促すという. 点が重要であ る。 先に、 国語教育研究者の. 中村が、 近年の国語教育における「音声言語重視」の 動きとメディア・リテラシ 一 評価とを結びつけていた 点や、 佐藤が「話す・ 聞くⅠ 関 わる」といった 音声言. 青苔による「コミュ ニケーション 能力」を国語科の「基礎能力」として、 メディ ア. ・リテラシー 教育の土台にす え ていた点が思 、 ぃ起 こされる。 オン グ の豊穣な 射. 程を展望する. 問題提起の書、. 『声の文化と 文字の文化』. (. 藤原書店、 1991 年、. 1982 年 ) が、 電話、 ラジオ、 テレビといった「二次的な 下げることによって、. あ. 原書. 声の文化」の 衝撃を掘り. らためて「声の 文化 Oral 吋 と文字の文化 Literacyとの違い. についてのわれわれの 理解が開かれた」㎝と 述べているよ. う. に、 「二次的な声の 文. 化」であ るメディア表現のく 読解 ノ 作業は、 文字リテラシーを 掘り下げる作業を. 促すのみでなく、. 「声の文化」つまり「話す・ 聞くⅠ 関 わる」という、 われわれの. 音声コミュニケーションのあ. り方への深い 反省にもいざなうのであ る。. さいわいオーディオ・リンガル・メソッドと においては、. 「話す / 聞く」. 力 を養. 実用主義の影響の 強い日本語教育. う 努力は国語教育よりはるかに. 蓄積されてきて. いる。 しかし、 「話すⅠ聞く 力 」こそがことはの 教育Ⅰ学習の 根幹であ るという オ 一 ディオ・リンガ. ノレ. ・メソッドの 主張は実証的な、 あ るいは教室現場での 追跡調. 査による検証を 十分に蓄積されることもないままに、 コミュニケーション 重視を. 調うコミュニカティブ ,アプローチとの対 時のもとに、 プラクティカルに 折衷さ. れるままになっている。 には、. しかし、 両者の問題提起を 発展的に受け 止めていくため. 「聞き / 話す カ Oral 吋 」と「読み. /. 書く 力 Literacy」の深い関連を. の. 探究する. 必要があ るし、 ことはによって 他者と関わる「コミュニケーション 能力」の内実 をきね めるためには、 オン グ のたてた問題系を「二次的な 声の文化」のあ りよ う 探究にまで戦線をひろげた 踏査が必要となろ. う. そして、 そうした踏査にとってメディア・リテラシーは 格好のフィールドとな る. だる. 一 47 一.

(12) 3一4. 「リテラシー」の「反省性」. 第三に 、 「リテラシー」という. 概念の「反省的意味合い」とでもいった. したい。 「文字の文化」をめぐるオン が他者とのコミュニケーションの 「書く /. グ の考察が示しているよ. う. に、. 点に注目. 「話すⅠ聞く」. 場に成立する 間主観的な行為であ るのに対して、. 読む」は 、 多くの場合、 孤独な内面的作業であ る。 「リテラシー」は 、 対. 象を自己から. 切り離して、. 試みに、. 内面化するという. 「言舌しことば. 働きをともなっている。. Orality」と「リテラ. シ. ( 書きことは ). との対照に、 いくつかの「コミュニケーション 環境」のあ. L れerac い. りようをかさねてみる. と、 次のようになる. 自明,性. コミュニケージョン 環境. 反省性. ことば. 話しことは. ことはの習得. 第一言語. 第二言語. メディア環境. メディア. メディア・リテラシー. 文化環境. 文化. 文化リテラシー. コンピュータ. Ⅹコンピュータ 輯群党. 上の表の中で、. 「自明なコミュニケーション. に習得している 能力であ. リ 一一、 アフン 一. り、. コンピュータ・リテラシー. 能力」とは、. いわゆる「自然言語」と. 幼少時に無自覚のうち. 称される第一言語の「話し. 典型的なものだろう。 それに対して、 「書きことは」であ るⅡテ ラシー」は、 入学双に自宅で 習得したものであ れ、 学校で習得したものであ れ、. ことば」がその. ものごころついてからの 意識的な努力の 成果であ る。 ただ、 上述のオン のように、 すでに習得したものにとってはⅡテラシー」は あ. るかのよ. う ) な 」能力となってしまう. テラシー」の「自明性」を. 圧倒的に「自明. 点に注意を要する。 オン. 揺り動かしたのは、. グ の指摘. グ. (で. によれば、. 「. リ. 「二次的声の 文化」であ る音声・映. 像メディアであ り、 「リテラシー」の「反省性」を 全体的に捉え 返すためには、. メ. ディア・リテラシーが 有効なのであ る テレビ、 映画などの映像メディアの 見方や、 ラジオ、 電話などの音声メディア 0 間き方も無意識のうちに 習得してきているという. 一 48 一. 点で、. 「話しことは」的な. 自明.

(13) , 性をもっているのに 対して、 メディア・リテラシーは、. その無意識的な 能力をさ. まざまな枠組みのもとに 意識的に捉え 返す作業であ ると言える。 これと対比的に. 見ていくことができるのが、. 白文化と「文化リテラシー」の. 関係であ る。. 「文化リ. テラシー」とは、 冒頭で指摘したとうに、 近年の「日本事情」論で 顕揚されてい る 概念であ. り、 力 ルチュラル・ギャップに 典型的にあ らわれるような 異文化接触. の葛藤的場面を 克服し、 他者の文化との 相関のもとに 自らの文化を 変容させつつ 自覚化していくプロセスをさしている。. 「すでに習得されたことは」と「これから 習得することば」とⅠ う よ. ぅ. |. 吾. 語 能力を総体的にとらえたときには、 第一言語が「自明の 能力」であ るのに対し て 第二言語は第一言語の 干渉的影響をうけつつ 意識的・反省的に 習得していく 「反省的能力」と 言えるだろう。 こうした点においても、 第二言語教育であ る日本. 語 教育がメディア・リテラシーから. 学べる点が出てくるま. う. に 思、える。. 一番 下 にあ げたコンピュータとコンピュータ・リテラシ 一の関係には、 こ うし 現在のところないという 点は、. た 「自明の能力の 反省・ 内 化」という含意が. 3. 節の. はじめの議論で 指摘した通りだろう。 現在の「コンピュータ・リテラシー」概俳 は、 単にコンピュータを 活用できる能力を 表しているにすぎない。 しかし、 近 い 将来、 コンピュータが 偏在し、 コンピュータを 使うことがテレビのりモコンを 操 作 することと同じ 感覚になったときには、 一. 現在、 メディア・リテラシーがインタ. ネット・リテラシー という形でサイバー・スペースの 問題 構制 にも守備範囲を. ひろげているように、 メディア・リテラシーと 同じ意味での「コンピュータ・. リ. テラシー」が 必要になってくるだ る. メディア・リテラシーが「クリティカル. c「 itical」という用語を 愛用する (22)のは、. 「リテラシー」のこうした「反省,性 」から来ているとも リテラシ一でいう「クリティカ 批判したりすることではなく、. ツレ. 言えるだろう。 メディア・. 」とは、 単にメディアをけなしたり、 否定的に. Ⅱマス. ( 大衆Ⅱとしてではなく、. 社会を生きるひとりの 市民として、 メディアの『意味』を. ディア. 社会・政治・ 経済・ 文. 化の文脈で主体的に 読み解く」。, 姿勢をさしている。 そして、 こうした自立した 舖. 市民としての「主体的読み」を 促すために、 メディア・リテラシーが 導入として よく行. う. タスクは、 メディアと自己との 関係を問い直す 作業であ る。 この作業に 一 49 一.

(14) いて捉え返す. よって 、 例えば、 テレビといった「自明なメディア 環境」を自己との 関わりにお 姿勢が育まれる。 メディア・リテラ. 態度には、 対象と自己との 関係を認識論的に に 、 近代社会における. 「クリティカル」. のいう. シ. 問い直す. な. 批 平川 ) ととも. ( 『純粋理性. 自立した市民の 倫理の確立をめざした㎝ 実践理性批判Ⅲ. カントの「批判的思考」が 遠くひびいているようにも 思えるのであ る。 以上、 テキスト論における 作者概念によるメディア・リテラシ 一の「構成され た 現実」理解、 「二次的な声の 文化」としてのメディア. と文字言語」、. 理解を通じての「音声言語. 「映像言語と 文字言語」の 深い相互作用の. 追究、 「リテラシー」概俳. の 「反省性」への 着目という 3 点において、 メディア・リテラシー. と. リテラシ一の. 関係性にかんする 探究の礎石を 並べてみた。 注. 1) 井上 尚美. ・中村 敦 雄編『メディア・リテラシーを. 育てる国語の 授業. 明治図書、. コ. 2001 年、 浜本 純逸序 Ⅰ由井はるみ 編著『国語科でできるメディア・リテラシー. 学習』明治図書、 2002 年、. 佐藤洋一編著『実践・. 国語科から展開するメディ. ア ・リテラシー 教育』 2002 年、 F 国語教育 2002 年 1 月号 -テラシ一の授業開発日明治図書を. 2). その授業記録と. 考察は、. 世紀の「日本事情」 J. (. 特集・メディア・. リ. 参照。. 門倉正美「メディアを 思考. ( 志向・試行 ). する」『 21. くろしお出版、 2001 年 ) にまとめた。 2001 年度、 2002年. 度の 「日本事情」クラスでもひき 続き、 1 学期間すべてにわたってメディア・. リ. テラシー教育を 行ってきている。 筆者のメディア 論、 メディア・リテラシー 論 ほ ついては、 門倉正美「メディア 論」 (杉田地 編 『現代の思想』. 「メディア,リテラシ 一の世界」 凡人社、 2002 年 ) 、 ア. 「テレビの力を. 総合的日本語教育を. F. 、 1996年 ) 、. 文化を結ぶ日本語教育. 口. /. 孝徳 秦 編. 32巻、 1997年 ). や 、 細川. 日本語クラスで 考える」. ( 水谷修. 求めて』国書刊行会、 2002年 ) を参照。. 3) 川上郁雄「日本文化を 英雄. ( 細川英雄編『ことはと. 金港堂. 書く」. ( 『宮城教育大学紀要』第. 日本語教育は 何をめざすか』. (. 明石書店、 2002年 ). などのクラス 活動を主. に 念頭においている。. 4) 注 2 であ げた、 門倉「メディア・リテラシ 一の世界」 pp,15㌔157 一 50 一.

(15) 5) 日本におけるメディア・リテラシ. 一の先駆者であ る鈴木みどりは、 日本のメデ. ィア環境のもとでメディア・リテラシ. 一に取り組むには、 「マイノリティ 市民の. 視座からのアプローチ」が 重要であ る、 と指摘している ィァ ・リテラシーを 学ぶ人のために. コ. ( 鈴木みどり. 編. 『メデ. 世界思想 社 、 1997 年、 p.34)0. 6) 授業実践 側に ついては、 注 2 であ げた、 門倉 (2001) 、 門倉 (2002a) 、 門倉. (2002b)を参照。 7) 「日本留学のための 新たな試験」調査協力者会議『日本留学のための 新たな 試 験は ついて. 渡日双人学許可の 実現に向けて』. 2000 年 8 月刊参照。 なお、 この. 報告書は、 日本留学試験の 実施機関であ る日本国際教育協会のホームページ (h ㏄p ゾ/www.ai. 円. ・. or.jp/examination/e 廿 u 姐 s 一 repo れ html) からダウンロードでき ・. る。. 8) 私は、 こうした「市民的教養」は、 ボランティア 日本語教室で 日本語を学ぶ 外 国人学習者にたいしても、 彼らが日本社会で 生きていくために 基本的なところ で 必要になっているものだと. 思っている。 したがって、 ボランティア 日本語 数. 育 においても、 学習者にとって 必要な「市民的教養」の 内実をき ね め、 それを 言語能力のレベルに 応じた形でいかに 提供していけるかを 探究していく 必要が あ ると考える。. 9) カナダ・オンタリオ 州 教育省 編 『メディア・リテラシ. 一一 マスメディアを. 読. み 解く』リベルタ 出版、 1992 年、 原書 1989 年、 pp.21-22. 10) 回書、 pp.g-10 11) 司書、 pp.21-22、 および菅谷明子『メディア・リテラシⅡ. (岩波新書、. 2000 年 ). 参照。 Ⅰ. 2) 注 1 であ げた、 『メディア・リテラシーを 育てる国語の 授業 J Pp.l1-12. 13) 司書、 第 2 章 14) 注 1 であ げた、 『実践・国語科から 展開するメディア・リテラシー. 教育』. 15) 司書 p.48 16) 司書 p.74 17) 菅谷明子『メディア・リテラシー. J. pp.22-23. 18) 上掲『実践・ 国語科から展開するメディア・リテラシー 一 51 一. 教育』. p.45. p.17.

(16) 19) 例えば、 読書論、 読者論を探究している 和田敦彦は、 「読書行為自体がこ た テレビ視聴をはじめとする. うし. 諸 メディアのもたらす 受容構造の中で、 常に改編. されつつあ る出来事なのだと 考えるべきだろう」Ⅳメディアの 中の読者』ひつ. じ書房、 2002 年、 p.69) と、 メディア く 読解 ノが 文字読解に及ぼす 影響に着目. する必要を指摘している。 20) W 一 J. オ ング『声の文化と 文字の文化山藤原書店、 1991 年 、 p.8. 21) 以下の「リテラシ 一のく反省性 と 機能」. ( 『日本語学 2002 年Ⅰ0. 発 的な議論を展開している。. 同号. ノ 」については、. 見城武秀「メディアの 役割. 特集メディア・リテラシー. とことは醸が 触. ただし、 見城の議論に 接する前から、 「リテラシ一. のく反省性 ノ 」については、 筆者は 2002 年. 2. 月、. 6. 月の研究会で 同趣旨の研究 発. 表 なしてきている。 ちなみに、 上掲『日本語学特集号』は、 テーマの設定から. 大いに期待して 読んだが、 見城の議論以覚はあ まり参考にならなかった。 22) メディア・リテラシ 一の原則を明示したものとして、 スターマンの「メディア・リテラシ. よく引かれるレン・ マ. 一の ¥W の基本原則」では、 c htical 「 という語が. 5 回使われている。. 23) 鈴木みどり 編 『メディア・リテラシー を 学ぶ人のために』世界思想 社 、 1997 年 、 p.4. 一 52 一.

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