サイコドラマと私 : 偶然の出会いが必然に
著者 磯田 雄二郎
雑誌名 人文論集
巻 65
号 2
ページ A29‑A40
発行年 2015‑01‑30
出版者 静岡大学人文社会科学部
URL http://doi.org/10.14945/00008091
サイ コ ドラマ と私 一偶然 の出会 いが必然 に一
磯 田 雄 二郎
は じめに
本論 は ,「 偶然 の出会 い力泌 然 に Jと い う副題 をつけてい る。筆者 には今 でも 記憶 に残 ってい る最終講義がある。東京大学医学部 で病理学の教鞭 を とってお られた所和夫教授 の最終講義で ,筆 者 が教養学部 1年 生 の ときの講義である。
どんな素晴 らしい話 をされるのだろう , どんな新 しい治験 を出 して くれ るだろ うと張 り切 って詰 めか けた ところ ,先 生が持 って こられた風 呂敷包みか ら出て きたのは驚ぃた ことにメガネであった。三角のメガネ ,四 角のメガネ ,丸 いメ
ガネ ,星 型のメガネ ,あ らゆる形のへんて こりんなメガネが出て きた。そして
,先生 が どのよ うに して これ らのメガネを見つけ , どうい うふ うに作 り上 げたか とい う話が続 いた。病理 の教授 であれ成 どの ように人間の細胞 が病気 になっ てい くのか とい う生物学的 な話 をす るはずであ るが ,講 義 はとうとう最後 まで メガネの話 で終 った。 そ して最後 に先生 は ,普 段で きずにいた一番話 したかっ た話 を最終講義でで きて良 かった と言われ ,帰 られた。先生 の普段 の授業 は全 く憶 えていないが ,そ の授業だけは今で も鮮明 に記憶 に残 ってい る。先生 とメ ガネ ,そ れは誰 もが人生 において必要 とす る必然 の出会 いであ り ,筆 者 にとっ てそれはサイコ ドラマ との出会 いだったのではないか と考 える。
異文化 との出会 い―映画『 王様 と私』
Margaret Landonが 1944年 に発表 した
/」ヽ 説 ス勧 α
απ′滋 膨ィ グ
Siα″ "(ア ンナ とシャム王 )を 原作 として ,1951年 に初演 された Rodgc6&Halnmerstelの ミュージカル作品をアメ リカで 1956年 に リメイク した「王様 と私」 (【 ng alld I)
とい う有名 な映画がある。この作品は 1951年 に Gertrude Lawenceと Yul Brynner
が演 じ ,映 画では Deborall Kerrと Yul Bryllncrが 演 じている。映画 のポスターに
は ,タ イ の風 習 に従 い裸足 でダ ンス を踊 る ところが描 かれてい る。女性 は若 き 日の Deborah Kerr,男 性 は ,本 名 がYuliF BoJsovich BHnerと い う ,ロ シ アの ウ
ラジ オス トック の生 まれ のYul Brynnerで あ る。 この映 画 は ,ア カ デ ミー作 品
賞 ;監 督賞など 9部 門にノミネー トされ ,作 品賞は逃 したものの ,Yul Brynner がアカデミー主演男優賞を ,衣 装の Irene Shararは アカデミー衣装デザイン賞
,美術のけ le R Wheeler,」 ohn DeCuirら はアカデミー美術賞を ,そ してミュー ジカル映画音楽賞 ,録 音賞を含めて5部 門でオスカーを獲得した名画の一つと いえよう。
映画 は ,タ イの王邸 のラーマ 4世 に仕 えたアンナ・ ローラン ドンとい うイギ リス人 の女性 が ,三 様 を説得 してタイ王室 に民主主義 を導入 してい く物語 であ る。非常 にエスノセン トリックであ り ,西 欧中心的な考 え方であるとい う点で
,現在では若千 の問題が指摘 されている。 しか し ,お 互いに違 ったものがぶつか
りあってい くとい う視点や両者 の葛藤 ,そ して両者 の間で様 々な感情 の うごめ きが起 きるとい う トランスカルチュアルな視点で捉えると ,今 で も非常 に大 き な意義 をもつ映画であると言える。 この物語 は ,あ る意味 ,近 代のアジア世界
が一様 に抱 え込 まなければいけなかった矛盾 の表現 であるとも考 えられ る。同 様 に , 日本で も富国強兵 が叫ばれた明治時代 に ,文 部大 臣の森有ネしは , 日本語 をやめて英語 を使用 しなければ 日本 は世界 に伍 していけない と主張 した。 そ う した矛盾 が この映画 には表現 されてい る。 しかも ,タ イの伝統のではな く西欧 の とい う点 には違和感があるものの ,そ れ をダンス とい う非常 に優雅 な方法で 乗 り越 えてい くのである。 この映画のポスターにはそうした希望が込 め られて いるとみ ることもで きるだろ う。先述 した ように ,Deborah Kerrは 靴で伝統的 な長ぃ ドレスであるが,Yul Brynnerは 裸足で伝統的な衣装 を着 こんでいる。 こ こには両者 のぶつか り合い とお互いの理解 ,そ して葛藤 を乗 り越 えてい く努力 とい うものがみえて くるのである。
サイコ ドラマ と私
『 ]様 と私』でアンナがラーマ 4世 と出会 ったように ,一 人の引っ込み思案 な
日本人である筆者 が ,い かにして極 めて表 出的な方法論 であるサイコ ドラマの
実践者 となったか とい うことについて論 じてい きたい。サイコ ドラマは治療法
の中で も非常 に自己表現的 な治療法 とい う点が評価 されてい る。サイコ ドラマ
と私 の物語 ,そ れ は本 当に偶然の出会 いか ら始 まる。 その偶然の出会 いは ,だ
んだん と必然 となってい く過程 として捉 えることがで きるのではないだろうか。
ある意味では ,サ イコ ドラマ との偶然 の出会いを通 じて ,私 とい う人間 はアイ デンティティを確立 させていった ともいえる。 E五 kson,EH(1902‑1994)が 提 唱 した 自我同一性 ,ア イデンティティの確立のために ,サ イコ ドラマに出会 う べ くして出会 った ともいえる
,サイコ ドラマの祖師 Moreno,JL
ここでサイ コ ドラマの歴史 を簡単 に紹介す る。サイコ ドラマは,MorcnO,」
Lに よって開発 された集団を利用 した治療法である。 Morenoは 1889年 5月 8日 に生 まれ ,亡 くなったのも1974年 の 5月 14日 なので ,か な り図 ったように して 自分 の人生 を決 めてい るところがあるように思われない こともない。集団精神 療法 の定義 は集団の力動 ,あ るいは心性 を利用 して ,集 団の成員 の治療的 な変 化 を目指 す ものであるとされている。
Morcnoは ,元 来個人 よ りも集団に親近感 をおぼえた人物 であ り ,ウ ィー ン大 学在学中 には ,市 内の公園で子 どもを集 めて,̀お 話 ごっ こ 'を していた。 これ は ,子 どもたちの話 をさいて ,そ れをみんなで演 じる とい うものであった。 そ れだけではな く ,売 春婦 の互助組合 を組織す ることにも携わっていた。互助組 合 は ,病 気や妊娠 , ときには強盗 にあった り ,客 と トラブルのために殺 された りと ,非 常 に多 くの危険 と隣 り合わせ の生活 を送 っていた彼女 らが ,互 いに助 け合 ってい くための組織であった。例 えば ,子 どもがいれば母親 がいな くなっ た後 に生活 してい くための基金 をつ くる , といった活動 を行 つていた。彼 の活 動 は ,大 正時代以降に 日本 に少 しずつ広 ま り ,筆 者 が学生時代 に盛 んに行 われ たセ ツルメ ン ト活動 の先駆 ともいえる。
当時の Morcnoの 肖像画 が残 ってい る。若 き日の Moreno(図 1)は 顎 がそげ
てい るが ,後 にはもっ とふ っ くらとして くる。顎がふ っ くらしていて楕 円形 の
顔であったフロイ トとは対照的である。彼 は身長が 192セ ンチもあ り ,こ んな風
貌でウィー ンの街 中を闊歩 してお り ,周 囲が近寄 りがたい雰囲気であったろう
ことが想像 され る。図 1は ,カ ナダのサイコ ドラマティス トであるMa五neau,R
の著書 厖εοめ
Zιη M∝ ο ヱ∂θθ―コθ %"(Maineau,R,1989)に 収録 された若 き
日の Morenoの スケ ッチである。 これは有名 なスケ ッチで ,後 年 の Morenoと 比
べると ,同 一人物 とは思 えないほど風貌 が異 なっている。図 2・ 図 3は,Morcno
の著書 の扉絵 の裏側 に掲載 されている彼 自身 の写真 である。年齢 を重 ねて頭髪
は薄 くなってきているが ,鋭 い顎のラインは若 き日のMorenoを 思わせ る。
Morenoに ついては映像 も残 されてお り,イ ンターネット上ではサイコドラマ を行つている彼の姿を観 ることができる (https■ m、 youtube coS、 atChPv=
zvgnOVfLn4k)。 サイコ ドラマで母親 に会いに行ったス トー リーを演 じている ところである。その中で注 目すべきは ,何 度も彼が「サイコドラマだから」 と 繰 り返 し語つている点である。 これは現実の世界ではなく ,あ なたのサイコ ド
ラマであるということを強調 しているのである。さらに ,彼 が非常にディレク
ティプに関わつている点である。映像では ,MOrenoが 参加者に有無を言わせず に演 じさせていることが窺える。私たちは ,現 在ではMorenoの ようにディレク ティプに関わることはない。 Morenoが それほどディレクティプに関わったこと がどういう意味をもつていたかということについては , もちろん私たちがさら に検証 していかなければならないが ,そ うした議論 とは別 に , この映像 を観 る とMorenoと いう人物の人 となりがよく伝わって くる。
サイコ ドラマの誕生―ジョルジュとパルバラ
Moremが サイコ ドラマを始めた根拠は ,写 毬ι ″滋畑わ″″ο "(Fox,」 ,1987)の 中に収録されたMorenoの 自伝 に出て くるジヨルジュとパルバラのエピソー ドと してよく知 られている。このエピソー ドは ,Morenoの 助手であつたジョルジュ が ,当 時看板スターであったバルバラという非常に清楚な美人 と恋に落ち ,つ
いに結婚することで始 まる。 ところがバルバラは実生活ではとてもヒステリッ クな女性であつたため ,ジ ョルジュは悩み ,Morenoの ところに相談に訪れる。
Morenoは ,あ る時 ,新 間に載っていた汚れ役で ,お 金の問題で対立 して客に殺 される娼婦 という役 をバルバラに演 じさせ る。その日 ,パ ルバラは普段演 じな
いような嫌な役を演 じてカリカ リして ,ま た八つ当た りされるのではないかと
,帰宅 したジョルジュはとても心配をしていた。 ところが ,彼 女が怒 りや悲 しみ
といったネガティプな感情 を舞台の上で表現すればするほど ,実 生活では落ち
着いていつた。それを見たMorenoは ,今 度はパルバラにジョルジュとの夫婦関 係の問題をみんなの前で演 じることを提案 した。すると ,驚 いたことに実生活 での夫婦関係の問題は解消 して ,仲 良 くなっていつた。それだけではなく ,興
行的にも大成功 となった。約 60人 収容できる劇場に , これまでは十数入 しか入 らなかったにも関わ らず ,そ の ときは 90人 もの観客が入ったといわれている。
人間 というのは他人の秘密 ,ス キャングラスな面を探 りた くなるという癖があ
るように思われる。マスコミでスキャンダルをあれほど多 く取 り上げることに は ,そ うした人間の心理が関係 しているのかもしれない。ここで重要なことは
,ただスキャンダルを演 じたということではなく ,そ ういうことを人前で演 じる ことに意味があったという考え方である。そこに ,実 は治療的な重要な意味が あるというのがサイコ ドラマの最 も基本的な理念 となっている。
私 という人間がサイコ ドラマに出会 うまで
ここで ,サ イコ ドラマと出会った私 という人間について述べる。 1%8年 8月 29日 ,豊 橋 と田原の中ほどに位置する愛知県渥美郡杉山村 (現 在の豊橋市杉山 町 )で 生を受ける。当時は家庭出産が当た り前で ,助 産師に取 りあげられた。
両親 も助産師も子 どもは一人だと思い込んでいたらしくて ,母 親が一人生んで ホッとしていたところに ,助 産師からもう一人いると言われて大騒 ぎになった そうである。一人であれば男の子の名前も女の子の名前もきちんと考えていた が ,一 人ではな く二人だったために ,壮 一郎 と雄二郎 という ,頭 に輩行 (順 番 を示す言葉 )を つけるというとても安易なや り方で名前を決めた , と母親 自身 が語っていた。中学生の頃には ,「 あんたら一人の予定が二人生 まれたものだか
ら ,お むつが足 りな くて困ったよ」 と母親がよく言 うのを耳にしていた。
こうして ,筆 者は父圭二 ,母 あさの間に一卵性双生児の第二子 として出生 し た。父親は婿養子であり ,筆 者の代まで四代 ,女 児ばか りが誕生 してきた家系 であった。初めて男児が , しかも二人も生 まれたのである。祖父にしてみれば よくやったということになるのだろう。筆者は祖父から
,「この家の竃の下の灰 までお前たち二人のものだから」 とよく言われたものである。
幼稚園時代 のエピソー ドとして ,よ く母親が語 っていたことがある。母親は
,豊僑女子師範 (現 在の愛知教育大学 )で 幼児教育を学んだ , とても頭のいい人
であった。そのため ,幼 児教育について素養があ り ,子 どもはほめて育てなけ ればだめであるなど ,色 々なことをよく言っていた。 しかし ,実 際には幼稚園
児の筆者に 100ま での順唱 と逆唱をやらせていたそうで ,随 分教育熱心だったよ うである。そんなとき ,兄 は 1か ら 100ま で ,100か ら 1ま で ,前 に出てやるの
に ,筆 者は引っ込み思案で ,兄 の後ろの見えない ところで ,何 もしないでいる。
そんな筆者 をみて母親は , この子は頭が悪いのかなと心配 していたが ,問 題を
出してみるときちんと答えるので安心 したそうである。 こんな風 に比較される
ので ,兄 弟 とい うのは大変なものである。
小学校 に入学 し ,筆 者の人見知 りは一層強 くなった。小学校 3年 生のときに はクラスで不適応を起 こし , 1週 間に渡 り不登校 となった。 この経験から ,不
登校になっても短期間であれば大丈夫であると ,自 分の経験を基にして自信 を もって言える。 この ときの記憶はしっか り残 っている。すったもんだの末に
,担任教師がよく働 きかけをして くれて無事クラスに戻 ることができた。その頃 の筆者は , どうも担任からいつも目をつけられている子 どもであったように思 う。掃除当番 をせずに叱られた り ,授 業をまじめに受けないと文句を言われた りすることがあった。授業中には外ばか り見ていたそうである。 こうした筆者 の態度について ,授 業参観のときに担任が母親に文句を言ったところ ,「 あの子 はずっと先まで勉強 しているので ,先 生の言 うことが分かって ,つ まらないか ら外を見ているんだと思います」と返 したとのことで ,母 親 もすごい人である。
筆者 自身もよく憶えているが ,小 学校低学年の頃のいい思い出はない。
小学校 4年 で ,父 親の仕事関係 もあ り横浜に転居 ,小 学校 も転校することと なる。横浜で高校 まで過 ごしたと言 うと ,元 町や港の見える丘公園があってい いですね と言われることが多いが ,筆 者が住んでいた横浜は二俣川 という自動 車学校のある所で ,山 の奥であった。相模鉄道 という砂利鉄道があり ,そ の沿 線で何 も華やかな所はなかった。伊勢佐木町にも 30分 以上かけて出るしかない。
周 りは雑木林ばか りであったため ,そ れまでは経験のなかったカプトムシの採 り方だけは熟達 した。
ここでは片道 30分 前後の雑木林の中を徒歩で通学することになった。兄は非 常に社交性があり ,自 力で友だちを作 り ,登 校 していたが ,筆 者はそれができ ないでいた。 この時だけはとても焦 り ,寂 しさ ,心 細さで必死になった。たま たま転校 してきたす ぐ近 くの団地に住んでいる同級生の男の子になんとか声を かけ ,一 緒に帰ることにな り ,ホ ッとしたことを憶えている。 この体験 を通 し て, この頃からようや く人前に出ることをためらわなくならた。 とにか く世の 中というのは自分でやらなければ何も変わ らない , ということを体験せ ざるを 得なかった。 しかし ,自 分の都合で人 とくっついた り ,離 れた りする癖は変わ らず ,友 だちがほしいときには友だちのところに行 くが ,自 分が本を読んでい たいときは知 らん顔 しているというようなところもあり ,あ まりいい性格とは いえない小学生であった。
中学校 は近所の公立学校で軟式テニスに熱中し ,高 校 は同 じく近在の県立希 望ケ丘高校に進学 した。電車に乗るのが面倒 くさくて ,ほ とんど毎 日 1時 間 く
らい歩いて通学 した。医学部への進学を希望 してお り ,受 験勉強に専念するた
めに運動部をあきらめて文芸部に所属 し ,部 長 も務めた。筆者の代から ,文 芸 部の伝統 として文化祭で演劇をするようになった。筆者 としては ,特 に演劇を ということではなく,と にか く人 目を惹 くことをやってみたいという一心であっ た。 また ,校 長が男女共学であ りながら男女別 クラス制をとると言いだしたこ とに大反対 し ,抗 議運動を組織 したことも ,高 校時代の記憶に残るエピソー ド である。 この時は兄弟で一緒に運動 し ,二 人が手を組むととんでもないことが 起 きると両親 も教師もみんな共通 して思っていたようである。
1967年 に東大理科Ⅲ類に入学 ,駒 場の教養学部のキャンパスに通 うことにな る。入学後 , 1年 半で学部封鎖が行われて ,東 大 は東大間争に突入 していった。
そのきっかけは ,粒 良事件 といわれる事件であった。熊本に宣伝活動 に出かけ ていた粒良 という東大医学部の自治会学生が ,学 部長 を殴ったという理由で退 学になる。 しかし ,そ の後学部長が殴 られた時 ,彼 はその場所 にいなかったこ
とが明らかになった。 この時 ,彼 の足取 りを調べたのが ,水 俣病研究で有名な 高橋眺正 と原田健―であった。二人は現地熊本へ赴 き ,彼 の足取 りを詳 しく調 査 し ,東 大医学部の教授会に彼の冤罪を主張 したが ,教 授会はこれに取 り合わ なかった。 これが騒動 とな り ,学 部封鎖 ,東 大闘争へ と突入 してい く。
これに筆者 も大 きく関わってい くこととなる。筆者のクラスはクラス討論を 経てス トライキを可決 し ,断 固闘争に入った。 このとき筆者は ,い ない人間が 処分されるということは論理に合わない ,論 理的でなければならない医学部で なぜ非論理的なことが通ってしまうのかと ,教 授会の判断に強 く反対を主張 し た。 自宅でも , これはおかしいと ,兄 や両親 と激論 したことを今でも憶えてい る。みんな ,お かしいのに仕方ないと言 う。筆者 は ,お かしい処分 をしたので あれば処分を撤回すればいいだけの話であ り ,学 部長を殴った人間は別 にいる のだから ,そ れはまた別 に判定すればいいだけだと主張する。 しかし ,両 親 も 兄も意見が異なるので ,よ く大喧嘩になったものである。
こうした闘争の高揚も 1969年 に終わ りを迎える。特に法学部 , ここには筆者
の兄 も先頭に立っていたが ,法 学部が卒業できないと国家の一大損失であると
され ,正 常化が図 られた。そうした中 ,筆 者のクラスだけは最後 まで闘争態勢
を解 くことはな く ,授 業粉砕闘争を続けた。当時 ,筆 者はクラスの自治会委員
であったこともあるが , そのためにある雑誌に遅れてきた全共闘 と椰楡された
こともある。結局 ,最 終的には全クラス正常化 し ,筆 者 も闘争 を続けてもどう
しようもない ということで勉強に復帰 した。その後 は ,テ ニス と社会活動にほ
とん どの時間を費やした。午前は授業に出て午後 は実習 ,そ の後は午後 3時 く
らいか らテニスをする。 もちろんナイター設備 な どな く ,夕 方 日が沈 むまでテ
ニスを して ,そ れか ら家へ帰 って また勉強する とい う忙 しい生活 であった。社 会活動 としては ,前 出の高橋眺正氏 の指導の下 に ,筆 者 ら 4人 の仲 間で ,サ リ
ドマイ ド被害者 の支援 のための医療研究会 を立 ち上 げた。 この活動 を通 じて
,親友 と言 える友 だちを得 た。一人 は小児科 ,一 人 は整形外科 ,筆 者 は精神科
,もう一人 は内科へ とそれぞれの道 を選択 した。
精神科の選択 ,そ してサイコ ドラマ との出会 い
当時のクラスメー トたちは筆者 が精神科 を選択 した ことを意外 に思 ったよう である。 当時 ,精 神科 と小児科 は一番闘争が激 しかった ところで ,医 局 も闘争 態勢 にあったため ,運 動 と関わ り続 けるならこのいずれか しか選択肢 はない と されていた。つ ま り ,い ずれかを選ぶ とい うことは ,あ る意味運動 を続 ける と い うことであった。筆者 自身 としては不思議 はないが ,周 りか らす ると不思議 だった ようである。 また ,筆 者 は高校卒業前頃か ら脳 に興味 をもち ,研 究 を し たい と思 っていた。在学中に小脳 の研究者で後 に文化功労者 とな られた伊藤正 男先生 の下で小脳 の研究 をさせ て もらえた ことが大学 に入学 して一番 の幸せ で あった といって も過言ではない。 もし脳研や神経内科 に進んでいた ら ,脳 の研 究 を続 けていただろう。
この ようにして精神科 で医師 としての道 を歩む ことになった。研修 医の 1年 目 ,週 に 1日 ,三 浦三崎にある初声荘病院 にアルバイ トとして行 くことになっ た。 そ して , この病院の副院長 だったのが増野肇先生である。
増野先生 は ,東 京 の開業医のお子 さん として出生 され る。 しか し ,お 父様 が 開業医 として夜遅 くまで働 く姿 をみて ,自 分 はあんなふ うに働 くのは嫌 だ と思 っ たそうである。お母様 はク リニ ックを継いでは しい と思 われていた ようである が ,結 局 は千葉大学文学部英文学科 に入学する。高校 の頃か ら演劇が大好 きで
,演劇 をや ろ うと ,演
bllをや るならや は リシェイクス ピアだろ う ,シ エイクス ピ
アや るなら英文学 だろ うと考 えての ことであ り ,入 学後 は劇 団 に入団 し ,演 劇 活動 に打 ち込んでいたそうである。 ところが ,在 学中にお父様 が急逝 され ,お
母様 か らのかな り強い説得 によ り医師になるとい う決心 をされて慈恵医科大学 に再入学 し ,医 師 にな られた。
若 い頃 ,増 野先生 はアルバイ トで多摩川病院 に行 ってお られ ,そ こで 自殺 の
研究で有名な大原健士郎先生 と出会 う。大原先生 は様 々な論文 を読んでお られ
,その中に Morenclの 論文 を見つけられ
,「増野 くん ,増 野 くん ,そ ういえば君 ,演
劇 に興味があると言 っていたね」 と ,増 野先生 にサイコ ドラマを紹介 し ,論 文 を渡 されたそ うである。それか ら増野先生 はサイコ ドラマに夢中になってい く。
30代 に入 つて初声荘病院の創立者である福井東一先生 と出会 い ,冨 」 院長 に urI
された増野先生 は ,そ こでサイコ ドラマを始 める。
筆者 は ,最 初 か らサイコ ドラマに興味があったわけではなかった。筆者 とサ イコ ドラマ との出会い は ,初 声荘病院での初 めての当直の 日であった。副院長 の増野先生か ら「今 日は当直 だ よね ,君 , じゃあ
l段だね」 と声 をか けられた。
この病院での当直 は初 めてであ り ,忙 しいのかそ うでないのか もわか らない筆 者 は
,「いや ,僕 ,ち ょっ と当直なもので ,忙 しいか どうかわか らないです」 と 応 えると ,「 暇 ,1限 。大丈夫。だか ら今 日 ,僕 がサイコ ドラマ とい うのをや るか
ら出ないか」 と誘われた。 その ときはサイコ ドラマではな く ,心 理劇 と言われ ていた。筆者 もわ りとミーハ ーな ところがあ り ,何 で も声 をかけられ る とす ぐ 飛 びつ く悪 い癖 がある。 「ハイハイ ,わ か りました ,お 役 に立て るな ら」 と参加 す ることにした。サイ コ ドラマ も心理劇 も何 も知 らない ままに参カロした。 ち ょ
うど舞台が始 ま り ,主 役 の方がお父 さんに外泊 を したい とお願いす る場面 だつ た。 Morenoと 同 じで ,増 野先生が「じゃあ ,磯 田先生 ,お 父 さんをや って くだ さい」 と言われた。サイコ ドラマを何 も知 らない ,何 をやっていいのかわか ら ない ,何 が起 きるのかわか らない ,そ んな人 を引っ張 り出 して きて父親役 をや
りなさい と言われ る。 しかも ,筆 者 は この主役 になっている方の ご家族 に会 っ た ことも一度 もない。何 がなんだかわか らない ,急 に外泊 したい と言われても どう応 えていいのかわか らない状況 の中に放 り込 まれて しまった。 こんな風 に して ,サ イコ ドラマに毎週 のように参加することになった。時々は看護師や ソー シャル ワーカー とケースの議論す る方 が楽 しく ,さ ぼった りもしたが。ただそ の時 は ,誘 われたか らとサ イコ ドラマ に参加 し ,面 白い ことは面 白いけれ ど
,正直 自分の ライフワークに しようとは全 く思わなかった。 それで もなぜ参加 し たのか と言 うと , この増野肇 とい う人 に惚 れたか らである ,面 白い人 だな と。
増野先生 には ,Fronlm Reichlnam,Rや いわゆる対人関係学派 と呼 ばれ る人 たち の本 を紹介 していただ くな ど ,た くさんの ことを教 えていただいた。増野先生 についてい くつ も りで ,サ イコ ドラマ に参加 し続 けたので ある。 そのため ,ア
ルバイ トを辞 めるときも ,慈 恵医科大学 に増野先生 の研究会 にご一緒 させて く
ださい とお願 い に行 った。 「 じゃあ ,サ ィコ ドラマの研究会 を月 に 1回 慈恵で
や って るか ら来 る
?」と言 って もらえたので ,「 ハイ ,行 きます」 と言 って参加
し始 めた。 そして ,筆 者 もまた夢中になっていったのである。
サイコ ドラマ との出会 いの意味
サイコ ドラマに夢 中にな り分 かった ことは ,サ イコ ドラマをや ることで
,「私 は私の自由度 を高めて ,私 とい うものを解放 し ,対 人緊張か ら解 き放 たれていっ た Jと い うことである。海外へ出て外国の人 とディスカ ッシ ョンし ,英 語で喋 り ,つ いには英語でサイコ ドラマをディレクシ ョンす るようになった。 こんな 風 になるなど自分で も考 えた こともなかった。英語 は様 々な理 由があって自信 があったものの ,デ ィレクシ ョンや るな どとて も怖 くてで きなかったはずであ るが ,そ れがで きるよ うになった。 デ ィスカ ッシ ョンもで きるようになった。
そして最後 にはニュージー ラン ドまで行 き ,オ ース トラリア・ ニュージーラン ド・ サイコ ドラマ協会 で試験 を受 けて ,サ イコ ドラマティス トの資格 を取得 し た。 自分 自身 の能力が外国 にい くたびにわかるのである。 自分 の能力 をいかに 発揮 し ,発 揮 されて ,私 とい うものが開いてい くか とい うのがわかるのである。
つま り ,サ イコ ドラマ と私 の出会 いは偶然であったが ,私 に とってはサイコ
ドラマが私 を選んで くれた とい う感覚 なのである。私がサイコ ドラマを選 んだ のではない。む しろサイコ ドラマの神様 が私 を選んで くれたのである。つ まり
,最初の出会 いが偶然 であった として も ,そ れを深 く追求す ることによって ,人
は自分の人生 と出会 うことがで きるようになる。 ここで述べたい ことは ,一 つ
の ことをコツコツや ってい くことこそが ,実 はその人があることによって選 ば れる一番の証拠 になる とい うことである。諦 めず ,た とえそれが少数派 であっ ても ,そ れをコツコツや り続 けることによって人 は自分の人生 とい うものを発 見することがで きるのではないか とい うことである。 そう考 えると ,所 先生 に とってのメガネの意味が浮か び上 がって くるのである。所先生 はメガネに選 ば れたのである。筆者 はメガネに選 ばれるとい うことも素敵な ことだ と思 う。 そ れは必ず しも生活 の糧 とな らな くて もいいのである。 その ことで ,そ の人 が
,自分が自分だ とい うアイデンテンテイを見 出す ことがで きた とした ら ,そ れは
素晴 らしいことだ と思 うのである。私 はた また まサイコ ドラマ とい う技法 に出
会 い ,サ イコ ドラマ に選んでいただいた。筆者 はサイコ ドラマの神様 にいつ も
心 から感謝 を捧 げている。
おわ りに
振 り返 ると ,静 岡大学へ赴任す るのが決 まった とき ,筆 者 が師事 し ,筆 者 を オース トラ リア・ ニュージーラン ド・ サイコ ドラマ協会 の正会員 として受 け入 れて くれたMtt Clayton氏 に話 を した ,今 度 フィール ドを変 えて ,臨 床 か らむ しろ教育の方 を仕事 の場所 にしようと思 うと。彼 は ,そ れ はお前 に とって素晴 らしい こと ,お 前 は新 しい可能性 を拓 くのだ と言 って くれた。 その言葉 は今 で も私 を支 えて くれている。これか らは再 ぴ臨床 の場 に戻 ってい くことになるが
,私の新 しさ ,新 しい可倉レ性がさらに拓 けて くれば と願 ってい る。 そ して ,静 岡 大学 の学生の皆様 に とって も同 じことを願 っている。皆様 にとって も新 しぃ可 能性 が拓 けて くること ,そ れ を期待 したい。
引用文献 Fox,J(1987)T″ ´ Essι π″α′ル
̀ο
″″ο f″ 7滋 zgs Oπ Psyaο ′π″ら cЮ η
]ι´ 励ο妨 α″′ Spο π滋″み Ncw York Spぬ 導 cr Pub CO(磯 田雄二郎 (監 訳)(2000).
エ ッセンシャル・ モレノー 自発性 ,サ イコ ドラマ ,そ して集団精神療法ヘ 金剛出版
)MaⅡ neau,RR(1989)滋 ε οι
ιθ り
]ιο ″π 01θ θθゴθ %:Д 夕 滋′″げPッο″ο′ %″ 4
Sο
ο
Jοπι′ りろαπ′ε″ ο″ p Psν ι ″ο′ ″ι″ ¢
p夕̀′
″ι ´″ ″α
̀′
0″