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−藩際経済の一縮図−

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(1)

−藩際経済の一縮図−

西川源一

(2)

(1) 

宮本又次博士編著の「国家勘定録」と「御国家損益本論」の両吉がこのほ ど相次いで清文堂史料叢書第2fiJおよび第7flJとして公刊された口この二E!? については同博士が「国家勘定録」のはしがきで紹介しておられるのでこれ l乙拠るのが便である。即ち同博士によれば

『九州筑後柳川誌の三善席礼著「国家勘定録」ならびに「御国家担益本論」

はともに,私の所蔵にかかるものである。それはまさに幕落体制動揺j切に対 応してなされた一程の時務策であるが,器財政経済に関しての独自の見解を 披歴すると共に,卓越せる当時の社会経済の分析を含んでおり,史実認識の 上からいっても貴重な史料といえようO これでは,いわゆる「国益」思想の

;台頭を如実に示しており,乙とは主として柳川誌のことに屈するにしても,

その段階においての落国家の性格をまざまざと浮彫にしており,ひいては広 く当時,天保期における誌社会一般の動向を推察することが出来るO 主要な その「国家助定録」の方から上梓した る文献のーといえようD 本書はまず,

ものであって,今固まで,写本の形をもって若干の流布はあるかも知れない 乙乙に敢て校訂の上,刊行に踏み切っ たものであるO 幕詰体制劫揺期解明のため,主吏‑なる史料のーであると信ず るが,これが機縁となって各誌における薄日,先党者のこうした時務論,経 済論が相ついで発掘刊行される乙とを期待するo (傍点筆者)最近古古:の 1~

が,いまだ活字になったことはなく,

刻や思想史関係の編者が再刊されることが多いが,すでに「日本経済大典」

「日本経済読書」などに収録されたもののむしかえしが多く,新発抗のもの を刊行されることは少いように思うo

また,

とおり,両吉の史料的価値と刊行の趣旨を直哉簡明に述べられ,

同時士による詳細な解説がそれぞれの巻末に附されてい の内容についても,

この二古はともに,柳川落士,三善問礼によって天保十 O それによると,

三年(1842年)に先づ「御国家担益木治」拾壱迭が,次いで同十五年(1844 年)に「国家勘定 ~~J 八巻が若わされたが,いずれも大部のものであるとこ

ろからか,写本として流布することも少く,永く1DIlM"落主,立花家lと収蔵さ

(3)

れ,現在,九州大学に続かに写本一部を存するだけの秘蔵本であるとの乙と である。従って,両舌については,その存在はもとより,この方面の研究分 野においても,その利用は一部の専門家以外には,殆んど知られる乙ともな かったであろう。ところで筆者は何々,地方史にかかわりをもちはじめて,

近世文書に馴染むうち,島原誌に関係ありと思われる一片の古文芸が,い わゆる「国益」を論じたものであることを知ったが,後述のごとく,独自の 史料として評価するには,多くの疑点もあり,また,他誌にこのような文献 のあることも知らないまま,久しく等閑に附する他はなかった。

しかるに,このたび二苔の上梓によって,初めてその内容に触れるにおよ び,筆者披見の該史料が全く同じパターンに民するものであることに気付い て,大きな~(1;きを党えた乙とであった。宮本博士が「これが機縁となって云 々」の御期待に,その13味ではピッタリの史料ではないかと思われるからで あるO ただ惜しむらくは,三善府礼の粕到な大冊からすれば,全く九牛のー 毛ともいうべき小結に過ぎない乙とであるo

しかもこの史料はその前半の部分に表題が附されて r嘉永六年丑十月,

村町制度, 山崎氏」 とあり, その後半に局するこの史料がそれに合綴され ているD 勿論,これには損益論なり勘定録といった表題があるわけではな く,また作者や製作時点を明らかにしていないうえに,前半の部分とは書体 を全く異にしている。そのような点で史料として確信がもてないまま,僅底 lと収めていたが, 乙乙にいたって, その内容を検するに, 前半をなす村町 制度もその実は倹約令であり, m益論とは無関係のものでないばかりか,当 時の藩社会経済の事情をそれぞれの角度から把えたものであり,これを併せ て一史料として体裁を整えたものと見ることもできるO いま三善席礼の二若 を座右にして, 乙の史料を見た場合,ともに「国益」にかかわる点で一致す るほか,とくに興味深いのは,当日原誌が有明海を囲んで(島原地方では現 在でも肥後や筑後をさして向う地と呼び,共同生活困の;怠を寓している)柳 河落と物資の流通の面でも密接な関係、にあったことが知られることである。

従ってこの史料は単に類型史料であると同時に関連史料としても評価できる ものをもっているo これらの点については後に史料に即して詳述したい。

(4)

なお,同史料の出所は島原市の旧家,山崎氏(その主として地主関係史料 は現在,長崎県立図書館に山崎家文書として収蔵されている)であるが,現 在は渡辺義夫氏の手に帰しており,同氏の郷土史に寄せられる熱芯からよく

これが保存され,その厚;立によって史料に接する椴会を得たものであるO

さて, ~Jl って島原藩史の研究について見れば,すでに多くの先党者,研究 者がおられるが,経済史の面での立おくれが識者によって指摘されており,

今後の研究課題とされているO ところが,島原藩の経済史料はまことに22 たるものがあり,唯一の松平文庫のごときも歴史資料については見るべきも のがなく,その多くはすでに風化政 し,なお旧家等に所在を求めても確認 の機会すら得ることは困難で,その探宗には余程の努力を払わないかぎり不 毛と称しても過言ではないであろうO このような事情を併せ考えた場合,乙 乙に取上げた史料はささやかな記録にすぎないとはいえ,その内容は島原藩 の経済事情に関して可成りの具体的記述を合み,また,その文体から見ても 相当な知識人の作としてよいものであり, fJ:lliな一文献たるを失わないであ ろう。宮本博士の期待される新史料の発掘と称するには,その名に価しない ものではあるが,さりとて此まま放置すればいつの日にか,これすら失われ ることを思えば,この段会に活字にしておくことは是非とも必要であり,筆 者が解読した原史料をそのままここに紹介するだけでも充分芯誌のあること と信ずるD 史料保全の芯味をかね,余り長文でもないので次の(2)にその全文 を掲げるO なお原史料が縦書であること通例のごとくであるが,本誌のスタ イノレに従って1茂吉とせざるを得なかったことをお合み願いたい。

(2) 

御国産他山之品

一米 一粟 ζ 一 大

‑ぷ〈 1) 一大 Si.  一日‑ 一 江 iJ; ー半 一以 一明 471Xkζ  一 白 木 緬 ‑911:J  Jm 

(5)

3 1 1 2 J 4 3

す 号

何千会話&す:五五争

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震え¥:阿鰐

2

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4 i ぞき?

22税(野¥ふ

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みさきよき支持 H?212

出;伊

52M時間

損益論(史料の後半部分〉内容の一部

(6)

一 干 鰯 類 一 酒 の 泊 ー 紅 一 生 一 古 手 類 一牛 J 一 牛 馬 皮 一 山 だ て 他所より入込之品芹出金之分

一呉服糸類 一 布 地 類 一 太 一 古 手 類

一一l1'111  一染 一泊

一薪 ー 材 一 堅 炭 一 石 炭 ー 鉛

一 鉄 ー竹 一苧

一一ク二工b L4 一 薬 ‑:s[  ‑i;草紙塁

一 砂 糖 類 一白 ー瓦 一瀬戸物類 一傘 ‑R古 物 類 一銅細工物 一 銭 物 類 一 荒 物 類 ーさし物類 一塗物器類 一小間物類 一諸職人道具 一民rib  '..v̲  一 馬 道 具 一 金 具 類 ーあい物魚、 一諸干物類 一北国産物 ーこんにゃく玉 一 表 ご ざ 一 竹 の 皮 一乙やし物 一 雛 人 形 一諸国売薬 一扇うち愉類 一皮袋物類

一諸国寺社寄進井自l初穂金 ‑寺院井座頭官職金 一衆人参宮持参金

比外他所より入込の品ma数多と略之

さても自他諸色の出入如比の処兎角に御国産他出のしな少して他所より国 入の品不少強然与何れも相省の品無之況金銀の出入も是に准可申欺然ノ¥当時 正物不融通なるも理りなるへしされノ、国家の哀澗妥に有之俣処自然此{Si~乙拾 おかれ校時は是に過たる恐不可有於妥に今改て上たる人の貴広を以国家栄久 の斗も l~O 規定波為立候ハハ衆人未恐[ù.~可申就ては幽の国益共相成へし手もや と小呈の Irt~ 不及なから無限目白ケ条左に之を顕ス

五穀仕立方之'‑JT‑

当国は五穀共に性合よろし然れとも仕立方不立勿論米杯は元来若取にしてし かも千万足ず ~t上伎作粗略にて依ゆるく依て虫附乱依多し況御杭登セの節直 段合に j副 ~0 侠!日前肥後杯は依作写も以辺只を j{d~1~} は随分立派に有之右殺の したて於成ニハ大坂去ニても両肥州米 lこ准可中然I時は右ニ附銀二三匁位は直

(7)

上り可仕の処是までの佳にてハ年々虫附乱俵の拾り且直段落の損失両校にて ハ過分の買成べし不被為改之ヲしてハ芙大之金銀泥中江拾にことならず候

津方之JJJ

当船津大決井口之津右三ケ所は自他の商船入出の f]院なく随分祭日の地 lこ伎へ 共於江工法ニて乍恐弁利ニ不成の庶も有之趣承及候是までの諸口銭存!なり高十ヶ 年分平均に以二割増を大問屋より定式上納仕様尤おtb}等は大問屋承にて御停 止品之外昼夜勝手次第二被仰付侠ノ、ノ、街]上の御手数少なくして却て上下之大 幸与可申相成然 l乙大湊之伎は別而船utりよろしく:iJ;j所柄与いへとも海底部て 隠瀬多くして不案内の船暗夜風雨の節は難渋すくなからず依之ニ出入之口上 下井白山此三ケ処江常夜灯御免於被為成ノ域住船の去を除衆人相歓申べく尤常 灯料として入津の旅船へ何程つ、つ欺迩上なさしめ玉ひ仮ハハ浪々ハ必ず国j の端共相成べく然に当時津方の風間他方江向てハ甚よろしからず是誠に哀微 を拓の基願日ハ向後旅船難渋之官fJ は格別に在IJ Jr訳たわまる時は当 i~ft の繁目今 に十倍可仕兎角津方繁栄ならずしてハ金銀の融通もおのつから忠政相成可 申侯

他所米之m

御国之御規定として他所米浮揚之儀は来て御停止之処良もすれば心得主主仕者 雌有比儀ハ無拠事与承およひ侠其訳は米少し呆気よろしき時は小拐頭は勿論 中買商人又ハ身元相応之者貝しめ小売を不致依之払底之上愈高直に相成に附 難渋の向或は格別に差困り之者とも不得止事与して御法相背之由然時は正物 他出仕而己ならず第一人気に相拘侠へは自l憐忠、をもって当地米完買の伎は他 所江御払米直段より俵に札三匁上リヲ限に御定被下置候ハハ下一統御仁志之 程奉恐感向後狼之事有之間敷哉ニ俣

紙の木類之手

当国は筆m民主何れも他所より買入之品にて上下共日々無之してハ手かき俣然 に当地ハ堵の外に紙の木程類がんひおふすけかづらおふすけよ日ふし杯与申物 数品当山江相育居伎のよしに附此上宿市己を被為育紙座在J[仕立方成におひて ノ¥莫大之金銀他出いたすましく然時ハおのづから御国中の油となるへし尤出 於育方ニハ何ぞ手間取植物にでも無之路の辺或は民屋四壁にも相育の品l乙候

(8)

へは誓紙座不彼為成共随分国益の基に候へハ是非の儀は御勘厚被為存度事ニ

菜種之事

御国菜種之儀は是まて都而他所出しに相成処今より御停止として右菜程をも って油座御仕立方被為成侯ハハ随分国益の基なるべし其訳ハ筑後辺は当所之 菜種を頁求メあふらにいたし尚又当地江積参俣処何れ相応の利益なくしてハ 右等の事は有まじく勿論油は当地[乙て少々の絞方仕者も躍有与是訟にして述 も御国中入用丈は事足り不申過半他所より買入素り高価の品柄lこ侯へハ右代 金の他出不少事ニ侯

紫根之事

右品は先年御産物如何之訳に哉御取止メニ相成俣由然 l乙近来高価にして年々 諸方より買人の群参少からす依て身元相応之者ハ大体高直の程を考売払之処 身薄之者ハ夫まて保得不申不得止:>JJ=として安売仕のよし就ては向後先年之通 御上之j宝物与被為成御取立之上郡月中程合よろしきの頃入札払被為成右落札 ニ何割引ケ与 ~:y(!乙て元払被仰付ニおひては御迩上納高等も格別加之正物乙と ごとく御上江相納り可申自然当所にて払方難出来の節ハ被御積登セ上方相場 之割合を仰買入直段波為定俣ハハ御損失は決て有之ましく然に当地より紫根 の出高凡年々弐十万斤之平均には相成可申左俣時は斤ニ附札五分ヅツ相掛侯 ても右高にてハ相応の御利益ニ相成可申候

瓦の事

右品之儀は是まて部て他所より入込之処此代金年々他出来手政事ニ伎願日は御 上之貴国をもって当所江瓦焼御仕立被為成伎ハハ過分之出金を止メ可申勿論 当地ハ土性合よろしく却て筑後仕立よりも上品に出来可申趣及永候尤元入等

も格別過分の金百入不中之由兎角他国江出金なきよふ御斗い肝要之事に伎 志ろの木之事

右品之皮専胎桐近只l乙用るの処近来御手船wlJ入用丈ニも手足り不中のよし就 ては御国巾民屋の?立政凡二万粁l乙積り一定に附志ろの木十もとヅツ育方被仰 付に於は盛木之上は一ヶ年に千金の泊を的べし是誠二回栄をなす杭物に候

(9)

遊地開発之事

当国は地面広くして雌山多与材木薪竹何れも他所より買入之品lこて此代年々 出金移しく事ニ伎へは御国中遊地の分野方山辺其土地を見立よろしき所ハ田 畑となし又は竹木或は茶平等を白l仕立をた為成におひては十とせを満ては必国 潤をもよふすべし是第一国家を宮するの基ひに候へハ能々むIlI1JrJi紋為成度事 ニ侠

人数増減之事

御国中西南目筋は田畑少して人数多し故に貧民之者は奉公仕も有り又は為持 之敵国仕者不少掠また北目筋は田畑多して人数すくなくに附たまたま貧民下 作いたし居伎者も兎角勝手よろしき所而己を作故不勝手の処は地主も不行届 おのつから荒地与相成之由是第一国家愁の基ひなるへし依之田畑多村江は西 南之筋余計の人数を分け被追民業出i陪なさしめ玉ひ候ハハ自然与国強くする の計も是肝要の司王ニ伎

呉服糸類之事

右品は兼て上下之身分に応し夫々W:JI制幅ニ相成居佼之処当時は都て心得述の 者不少して良もすれば相背の族佳有之のよし就てハ此代金突大之他出を愁ふ る而己ならず第一御国政を軽んずるに似たり是を此佳ゆるがせなる時は衆人 おのづから扇風に流国家の哀微を拓へし支に今改て十とせの間上下共きびし く御制ふく被仰出津揚は勿論見世方売買たり共自]停止被為成候ハハ過分の出 金をととむるの計儀兎角ひすそ倹約ハ子孫、を起すの基ひに候

(3) 

以 上 の 史 料 を 通 読 し て 先 づ 感 じ と れ る こ と は , そ の 全 信 に わ た り , 随 処 l乙,国益,国の栄え,国の衰j閏等の文字が頻出することであろうO さればこ そ仮りに表題を欠くとはいえ,落宮の形成をはかるための時務策であること は明らかであるO しかし,それにも拘らず内容の検証に先だち,史料の信感 性についてなお残る二,三の不安な点はやはり,予じめ処理しておくことが 必要であろうO その第一点はこの史料が表哀とも表紙をそなえず,いわば裸

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のままであるところから記事の末尾が明確でないことである。これについて は記事の序文に当るところに「小量の思案不及ながら無腹服ケ条左に之を顕 J(傍点筆者)とあり,そしてこれに続く本文が十一ケ条から成っておる ので,乙れによって作者の意関するところはほぼ尽されており,従って史料 としても完結したものとして考えてよいであろう。その第二点は乙の史料の 製作の時点が明らかでないことである。前述のとおり,この史料は嘉永六年 (1853年〉と年号の記載ある「村町制度」と合綴されており,且つそれとは 書体を具にし(前掲写真参照)しかもその内容には製作時点を明確に推定す る歴史事実の記載がないので,厳密に追究すれば作者不詳(作者については 後説)と相侠って全くお手あげというの他はない。しかし,この史料の冒頭 に掲げられた国産品が島原落のものであることは他の史料に徴して明らかで あり,且つ船津,大浜,口之津,白山,北目筋,西南目筋等の地名はまさしく 島原領内である。従ってこの史料が島原藩を対象とした国益論,或は1ft益論 である乙とには一点の疑いもないのである。ともあれ幕落体制哀iliU切におけ る藩国家財政経済の匡救策である以上,柳河藩における「御国家担益本論」

や「国家勘定録」が世に出たのが天保末年のことであることを考応すれば,

乙の両吉との史料的系譜をどう考えるかは別として,この史料の前半部分に 明記された嘉永六年は天保末年とは相隔たる十年後にあたり,いずれはその 前後の作としておいても,さしたる不便はないものと思われるO

さて,この史料は二,三の専門的用語を合むが文章そのものは担めて平易 であり,とくに説明を加えなくても理解できるほどのものであるが,されば といって単に,平板な理解に留まっては史料を活かすことにならないであろ D 宮本博士がいわれるように前掲二百:の刊行を機会に,これを規矩準犯と して比較対照することにより,この史料の評価に新たな便宜を得ることにな ったのは,誠に幸いとしなければならぬ。このような態度なり方法を踏まえ てこの史料の内容を分析し,筆者なりの見解を明らかにしたい。

この史料は先づその目頭に島原誌の国産品として,つまり大坂その仙の中 央市場へ移出した品として24品目を掲げ,これに対して次に,他所から島原 i~ へ移入された品として 48 品目を列挙し,さらに諸国の寺社に対する寄進や

(11)

初穂金,寺院ならびに座頭官職金,伊勢参宮持参金2) など正貨流出の原因と なる事項をこれに加え,とくに移入品についてはその他枚挙に追がない旨を 断っているO ところで当島原地方はキリシタン大名,有馬氏の故地であり,

そのli豆封のあと禁教の立役者となった松企氏は却って島原の大舌し につまづ き,あと収拾にあたった初の譜代,高力氏もその失政を問われて相次で改易 され,難治の地と称せられたところである。このあと当時の島原誌は克文九 年(1669年)三河深泌松平氏(諮代)の忠房が福知山から入部して以来,途 中の一時期を宇都宮城主戸田氏と交替することもあったが,幕末維新時の忠 和(徳川斉昭の子で,将軍皮喜の弟)Iこ終るまでその法政はほぼ順調に推移 した。その表高は島原領凡そ四万石, m地の皇ナト│傾凡そ三万石,合ぜて七万 石と称せられたが,当誌も御多聞に洩れず民業を主体とする後進地域であっ たから,その国産品についても知られるように,移出品の大宗をなすものは 米穀であった。績かに歴代藩主の奨励により粒実と蝋3)が 特 産 物 と し て 移 出され,大いに藩の財政に寄与したといわれており,また特殊な産物として 眼を ~e くのは明容であるが,乙れは雲仙火山で採取されたものが大坂へ廻4) 

送されたものであるo

一方,移入品について云えば,これすべて領内に不足の品,または生産の 不可能な二次製品であり,専ら先進工業化地域からの供給に依存した。乙れ によって移入超過は避けられないところであり,そのため正物,つまり幕府 発行の金,銀,銭等の正貨が流出し,誌の財政経済は由々しい事態に立ちい たるであろうとして,先づ、問題の捉起がなされている。そこでこの点に関し て「御国家損益本論J (以下単に本論と略す)の記事に日を移すと,先づそ の巻之壱のと乙ろで1"国々ノ産物ハ国益ノ広大無量ナノレモノ也」とし,さ らに同巻之七に「御国中ノ産物ハ国用ヲナサシムノレノ物ニシテ大切ノモノナ (中略),国中ニ産スノレ品物ヲ粗抹ニセズ大切ニ取扱ヒテ是ヲ国用トシ,

他邦ノ品物ヲ不用シテ可成丈ハ国中ノ産物ヲ用ヒテ事足ノレ椋ニ可計事也」と 述べて藩内の自給自足を基本としながらも,一方において1"人々己カ身ノ 回リニ備ヘタルモノ,又ハ家内ニ取扱フ日用ノ品物ニ心ヲ付テ見ルヘシ,三 度ノ食事ヲナスノ器物ノ椀,腰ニ帯ノレ所ノ大小ノ万剣,身ニ若シテ暑jJJ冷暖

(12)

ヲ防ノ衣服,其外岡物・唐物等都テ他邦・異邦ノ品ニ非ノレハナシ,仮令高価 ノ品ニテモ買ヒ調へテ金銀ヲ費事多端ナリ,是国損ノ元ナリJ (同巻之七) と述べ,身辺の日常生活にいたるまで移入品への高い依存度についても明ら かにしているO これは当時すでに商品流通が国民経済の規扶ζl拡大されてい たことを示すものであり,いみじくも島原涯の史料が「他所より国入の品不 少雑然与何れも相省の品無之」と発言している乙とと符合するものであるO

そこで当時の仰河誌が他所より移入した品目を「本論」の記事から拾うと,

上方から四国,中国にかけての産物として絹,呉服,綿,木綿,布, 11 塩,珪玉,呉座,鉄,銅,鉛,金,銀,良材,器物,磁器,刀剣,弓,

矢,皮の類 九州の産物として

小倉椴,博多織, JJ巴前焼物,多葉粉,砂糖,紙,塁, iJ芦,格,魚、ノ油,

鯨,雪魚,干官,干魚,塩魚の類,その他家具,雑具,が挙げられてお り,これらを前掲の島原iEの移入品目と対照すれば乙れまた五十歩百歩のJ が深い。このことは当時すでに,これらの特産物を媒介とする全国的な分業 組織が成立し,商品貨幣経済の潮流の中で自給自足の米泣いの経済では,も はやどうにもならなくなったことを示しているD

このような事態に対処するため「本論」の記事はさらに続けて I故ニ産 物ヲ製作シテ国用ヲナサシメント欲セパ品ノ菩悪ニハ不可依,日用他邦ヨリ 求テ仕 7~:ffi 品,雑{,~ニ至迄テ田中ニテ製作ヲナサシメ,共品物ヲ用ヒテ用ヲ 弁スノレ様ニ致皮モノナリ,是産物ヲシテ国家ノ用ヲWJJメ初Jカシムノレノ栄ナ

リ」として移入品の領内代替生産を計り(消極策~医者註) ,さらに「国 益ト可成モノハ国用ヲ使シテ,共余レノレハ不品他邦へ出シテ代替へ利潤ヲ可 得ナリJ(積極策一一筆者註)として,国産品の移出に努めるととが肝要で あるとしているO そして1Yn河誌の場合はとくに槌は国産の筆頭にありなが ら,ただ実を売買するのみで, 5設を絞って日く売只して利益をおさめること を知らず,故にm多くして益少しとし,また菜程,辛子は館中第一のj宝物で あって従来から伎作りで売出したり,れ11に絞り心詰めにし他邦へ船積して利 益を得てきたが,これも絞り方の工夫が充分ではない。従来の杭絞りに代え

(13)

て堅絞りを用うれば,さらに利益をあげることも可能であるとする。席礼は このほか,全巻にわたって綿密な彼の政策論を展開するが,これを要する に,当時の大坂その他の中央市場志向型の藩際経済体制,つまり国産品の換 金化による落財政需要の充足,そのうえ当時すでに恨行化した坂商からの借 財とそれに伴う利米支払などによって生じた事態に反省を加え,封鎖的な領 域経済を踏襲しながらも,一方落経済の主体性を確立して商品貨幣経済に対 処することを何より急務とする基本的認識に立っているD

こ〉で島原落の損益論についてみるに,その論ずるところは,まさしくこ のような観点に立っており,彼比規厄を同じくするものである。全文十一ケ 条の第ーに,五穀仕立方として,島原誌の財源獲得の主たる手段である大坂 廻米を取上げ,当地方では稲の早刈りや乾燥不足のうえに,俵捺えが粗略で あるため虫付や乱俵が多く,そのため大坂市場で肥後や佐賀米にくらべて5) 

見劣りがする。虫付や乱依のロスとあわせて利を失うことが英大であると指 摘し,より有利な商品に仕立てて正貨獲得に貢献させることが必要であると するO 第二は;む経済の窓口というべき津方の迩営について,問屋や番所が行 う日常の取締りや津留などの行政措置はもはや不便が多く,むしろ移出入を 自由化して諸口銭を定式上納させた方が落としても手数が省けて有利である とし,また港湾施設として大夜、(現在の島原の内港に当る)は船がかりはよ いが,暗礁が多いので常夜灯を設置すれば旅船が昼夜を分たず幅挟し,港勢 はさらに股賑を来すであろう,常灯料として迩上金を徴すればこれもー財源 となるというもので,思いきった商業政策の提唱と見ることができるO 第三 は他所米について,その移入はかねて禁止されているが,不作によって米価 が昂騰したときなど,禁をおかして密かに他所米が津揚されるのは余儀ない ことである口しかしこれも荷役関係者や有力者が買しめて小売りに出ないの で,米価は一向に安くならない。これでは他所商人に利を占められるだけで あるから,そのような場合には当地米の他所払に準じ,その価格の三割増で 公定し米価の抑制をやって欲しいというものであるO これと同椋の趣旨に出 たのが第六の紫根のことである口紫根は従前は国の産物であったのが,いか なる事情からか停止になった。ところが近年は高値になって,他所の商人が

(14)

買付にやってくるD 相場の勤きを見て売ればよいのであるが,貧しい農民は それまで待てないので安く買い叩かれる。これでは他所商人に利を持去られ るのでいかにも残念である。やはり従来どおり国産品に取立てて相場を見て 入札払にされたいこと,落としてもそれによって運上金も確保できて有利で あろうとする。ともに他所商人の進出を阻止するための対策として述べたも のであるo

以上はすべて落の商業政策にかかわる提言であるが,次に領内自給をめざ すための品目として,紙,菜程油,瓦,椋椙の皮の生産と遊地の開発による 竹木,薬草等の植栽について述べ,それによって芙大の出資をとどめること が可能であると力説するO とくに柳河落とかかわりをもつのは菜程油と瓦で あり,筑後では当方の菜種を買入れてこれを油に絞り,再び、当地へ積参る が,何れ相当の利益なくしては右の事は有るまじくとし,泊はもともと高価 な品物であるから,当落でも油座を仕立てて領内に自給すれば,央大な代金 の他出を省くことができるD また瓦についても筑後仕立てのものが入込んで いるが,乙れも領内生産ができるのではなし1かとしているO 先に見た柳河落 の国産物にとって,その移出市場のーであった島原藩,つまり?百貨地側の対 応として大変興味深い記述であり, j切せずして落際経済のー縮図を見る思い であるO 次の人数増減のことは,島原領内,南北両地域における民業人口の アンバランスについて述べたもので,市j条の遊地開発の事とともに,土地の 生産力の限界まで利用すべしとするのが論旨であるD 因みに西南目筋とは,

島原の乱によって無人の荒野と化したところであり,舌L後,幕府の移民政策 や高力氏による作取りの移民招致で,大村蕊から走り百姓まで出たことで知

られるが,それが人口の過剰へ推移した事情については切らかでない。

さて,最後の呉服糸類については,このような高級且つ高価な品物は傾内 での生産ができないにも拘らず,上下一般の風潮が幸夫となり,この依では

35大な出資になるので,かねて仰せ付けの節伎の筋をさらに厳しく徹底し,

津揚はもとより,商居の売買もすべて禁止すべきであるとするO 日原}itの倹 約令6)については,前後十八回に及ぷという説もあるが,坐者が入手しえた のはこれらのうち,文化十四年,文政十三年,天保十三年および、前m~~.永六

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年の各史料に留まり,その範囲で確認する他ないが,これらの倹約令で規制 の対象となった品目については,身分に応じた区分やその使用箇所について の細かい規定があるが,先づ呉服糸類について検出すれば。

川越平,さんじ,けんとん,けんちう,紬,金糸,海責,麻, ~(Ë子,芭蕉 布,葛布,毛織,厚板,天鷲紋

などがあり,序でながらその他の物品については,

問屋傘,奈良草履,草緒,雪駄,塗下駄,差下!駄,引摺,高直の染物,金 銀金具,蒔絵付印笥,女髪傍l乙金銀臨甲,其鈴かんざし,びいどろ,金銀 の色絵,上方にて調の仏坦,衣裳雛,

など日用の身装品,調度品について取上げられており,これらの殆んどが他 所からの移入品であったことはいうまでもなし可。これによって見れば, 1: 令は損益論の観点からすれば,最も消極的な受身の,つまり商品攻勢に対す る自衛的性格をもっと同時に,防風に流れては御国政を軽んずることにもな るので,これによって封建的身分秩序を維持する二重の効用を期待するもの であったとしてよいであろう。

以上の分析を通じて総括的にこの史料の位置づけをすれば,三話~m礼の

「本論」が藩国家についての網羅的な損益論であるのに対し,島原落のこの 史料は商業政策を柱とした極めて宗本トなそれであるということができる。そ してこの作者は,この方面の事情に精通した有力な商人階層に民する人で あることが考えられるD その志味では,この史料の原所蔵者である山崎家の 旧藩時代の当主,山崎八六は当時著名な坂商,河内屋利助と取引関係7)をも つほどの御用商人でもあり,折柄, 1台頭した「国益J思恕にも触れたであろ うこと,またその頃,いうところの白‑)tm,柳河8)で三善席礼の国益論がす でに世に問われた事実も,ともに無視することはできないであろう。この史 料はその文体が示すとおり,いわゆる「存寄書」の形式をとっており,恐ら く山崎八六または,その周辺の人の手によって起草されたものではあるまい か口なお,この「損益論」が当時の藩政に何らかのかかわりをもったかどう かは勿論知る由もないが,幕落体1liiJj切における島原誌の経済事情の一面 を反映した員‑重な史料であることに変りはないであろう。なお,蛇足を加え

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れ ば そ れ が 民 間 史 料 と し て 埋 れ な が ら 存 在 し え た こ と は , 大 い に 奇 と す る に 足 る も の で あ り , 冒 頭 に 掲 げ た 両 書 公 刊 の 趣 旨 に 些 か で も 副 う こ と に な れ ば 幸 で あ るD

注1) 産物の名称中,麦安については島原藩庁日記度応四年の条にも北串山村の弥保助 という者から「去jレ六日夜麦安五斗塩ー俵盗難届出侯」の記事がある。また文久三 年IC水車を願出てゆるされた(入江清,島原の歴史〉島原市,田l町家の帳簿lとも麦 支の記誠があり探麦の別称。紫根については芝根とも宛てられ,乾燥したものが染 料として用いられる。布津町飯野の俵屋IC紫根取引の送り状がある。本来寒冷地に 向く作物であり,当地方の山手地域で栽培されたものであろう。半又はハンゲンと 読みドクダミ科の多年平。釘r!~区吐剤。山だてについては山だちの誤りと思われる。

しかしとれば猟師の意味であると乙ろから山立姫つまりイノシシを指したものであ ろう。なお,あい物魚は塩物魚の総称,旧藩時代,城下町の商人lとあい物仲間を組 織させた記事がある。なお笠者がさきに論証した西有家町の須川そうめんが当時ま だ国産品として取上げられていないことを附記したい。

2)  伊勢参宮について島原語庁日記に関係、記事があるので紹介しておとう。 r向山奥 左得門安兼而伊 g~,大神宮江年来宿願有之俣処比度二男向水fli大坂ぷ中戻仕又々被登 俣問実{五同道被登参宮為仕度旨奥左衛門在坂ニ付同席を以siIT書付差出承屈候」

3)  大坂廻米や]武蛾については古田氏,弘化二年, r大坂詰諸党←古J1乙詳細な記事が あるO 日原藩が政問としたのほ党政年間で,当時大坂で}間企七ケ所と呼ばれたのは 薩摩,長?、11,出雲,肥後,大村,佐賀と島原であった。 s1政十一年の控として島原 Jl:茂投の年々廻高は生 g~::i 4150丸 此 斤352025斤で,とのうち800丸は河内屋利助 方へ百拐, 3350丸ほ仰政元屋敷御政入となっている。(傍点住者)

4)  明:(~~については同党主文政二年の記事に,温泉山吉方として,一切 ~L~壱丸,七拾 七斤,代銀定直段六拾四匁宛とあり,右は年々,問屋近江屋五郎兵術が三百五十倍 宛引受けていたが ,!:ii原屋敷の役人から克らに五拾箇増しの引訪方を依頼され,条 件っきで承知したとある。閃辺の箇所を特記すると riDIJ国元山UII珂怒一ヶ年ニ三百 五卜箇仰引受中上来侠処此皮五拾箇相増都合四百箇ヅツ引叉仕椋紋仰向候処(中 略)会所持四荷物相 J73甚当惑仕伐ニ付右増之儀は i~lJ 断も巾上伐得共御回元明磐稼人 之者勝手ニも可役成m故押而仰引受(後略)(傍点竺者)

5)  虫附や乱伎についても同党書の記平l 「鼠喰成者乱依ふけ氷虫入ミ?に相成波方

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難出来分取掠仕直し,内実四斗壱升余ニ計上貫目拾(六〉貫弐百目程ニ致置不申 しては浜方通不申由也,持直し致侯俵直し俣節は斗舛に而立申俣」とある。

6)  島原藩の除約令のうち隼者が披見した史料は次のとおりである。

文化十四年,節除筋被仰出侯ニ付伺向御差図,北目筋御番人ぷ伺

文政十三年改天保元年,御口達書,節倹係箇条書取締向井心得方ケ(原告南日係,

北有馬村

天保十三年,従公義御制禁筋仰出(民ニ付御取締ケ条書

年号欠, gii原村方相続方被仰出 取締筋心得方ケ条苦節前筋ケ条m

7)  坂商河内屋利助と山崎八六の関係を証する史料としては,嘉永七年甲買閏七月十 六日付で河内屋利助から山崎八六あての生地の「御売分仕切」壱通が現存し,また 山崎家の「諸白書控」に同様趣旨の記事三ケ所からその一つを掲げると, r以書付 奉願上候御事 ー酒壱挺右は大坂河内屋利助与申者来而1議事長類等為登方問屋ニ市恕 怠之者ニ御座俣処此節前書之酒為土産送り造申{民処Y4l場不相成柄ニ市恐多奉存候得 共何卒津場御免被仰付被下置候様重々奉願上候己上 山崎八六」とあり 町年寄あ て,町役所へ取次がれている。乙れらによって両者の取引関係が極めて密接であっ た乙とが知られる。

8)  山崎八六が向う地,とくに柳河と常時接触を保っていたととは,同家の弘化五 年,買入売出帳の記事lと柳川,針屋半右衛門より「一切延拾弐京買入十三匁弐 分がへ代百六拾五匁六分相渡」また柳川,由松より「百田紙壱束,小活長弐束,

鼠半切五百枚 〆五拾弐匁五分相波」のほか自主,上敷,元結等の買入をしばしば行 っているととからも知られる。なお,同買入帳にはその他,八代,求磨屋善左衛門 より堅炭三十俵代弐百拾三匁,肥前うれしの,菩太吉より茶碗十三代九匁八 分,肥前人より御神酒びん弐対,井弐ツ 〆代五匁,速くは芸州広島,吉本屋甚助 より筆,塁,九宝,御白粉,若竹呑等の買入なども記載され,これらによって当時 の商品流通の一斑が浮彫りにされており,乙れにたずさわった山崎八六がとの悶の 事情に最もよく通じた商人の一人であったことは明らかであろう。

なお,以上注記した各史料もすべて前記,渡辺義夫氏の捉供にかかるものである 乙とを附記して厚く謝意を表したい。

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