ジェリンスキーの経済改革論
79ジェリンスキーの経済改革論
−ポーランド経済改革の評価を中心として−
三原泰熙
I 序
1960年代に開始されたソ連・東欧諸国の経済改革=経済の計画と管理制度 の改革は必らずLも円滑に進行してはいないようである。
ジェリンスキ,(Janusz G.Zielinski)はこれらの諸国の経済改革の分 析に立脚して,サイバネティクスの視角から補給,情報,刺載,操縦シス テムより構成される社会主義企業システム論,ノヾラメーターと行政命令と いう二つの基本的情報伝達手段の差異にもとづく管理機構(management mechanism)の型の分類,それにもとづく「誘導市場」型と中央計画改善 型という経済改革の2類型,改革の最適順序(optimal seguence)問題の 提起などのきわめて特色ある経済改革論を展開している1)。そして1973年の 著書2)ではポーランド工業の計画と管理システムとその改革が詳細に分析さ
° ° ° ° ° ° °
れている。その分析の対象はポーランドの工業の経済改革であるが,その序文 に述べられているように,ポーランドの工業のみならず東欧諸国の経済改革 に,さらに全世界の人々にもあてはまる,より広く通用できる一般的真理が 追求され3),また経済改革として実施された,あるいは実施を計画された諸 施策の時系列的叙述ではなく,現行の計画と管理の機構の分析,その現実の 機能(functioning)の分析がなされている。党と政府の決定はそのまま実 施されるとは限らないので,提案,育写真と実施とを区別することが必要
4
であるが),そればかりでなく,実行された諸施窪の実際の機能をも分析す
ることが必要であり,その意味においてジェリンスキーのこの研究は大きな
義意をもつであろう。
と は い え , 本 稿 は 紙 幅 の 制 約 上 , ジ ェ リ ン ス キ ー に よ る 計 画 ・ 管 理 シ ス テ ム の 分 析 の 詳 細 を 検 討 す る こ と は で き な い の で , ポ ー ラ ン ド 経 済 改 草 の 推 移 を 簡 単 に ま と め
(n), ジ ェ リ ン ス キ ー に よ る 経 済 改 革 の 有 効 性 の 評 価 , お よ び 管 理 機 構 の 型 , 経 済 改 草 の 類 型 , 最 適 順 序 論 な ど を 基 礎 に し た , そ の 原 因 分 析 を 要 約 し つ つ , 若 干 の ユ メ ン ト を し よ う と す る も の で あ る
o注1)
]anusz G. Zie1 i
nski,
"On the Theory of Success Indicators,
"Economics of Planning,
Vol. 7,
No. 1( 1
967),
do. "On the Theory of Economic Reforms and their Optimal Sequence, "
Economics of Planning Vol. 8,
NO.3( 1
968),
do. "Economics and Po1 i
tics of Econornic Reforms in Eastern Europe, "
Econornics of Planning,
Vol. 9,
No. 1( 1
969). do. Econornic Reforrns in Polish Industry,
1973.なお経済改革論のこれらの要素の関連につ いては拙稿「社会主義企業管理方式と経済改草ージェリンスキーの所論について‑
J
[f創立70周年記念論文集~ (長崎大学経済学部)において簡単にふれている。
2) ]anusz G. Zielinski
,
Econornic Reforrns in Polish Industry,
Oxford University Press,
London. 1973.3)
ジエリンスキーは「ポーランドの経済改革の分析において,より広く適用される 一般的真理
(generaltruth for wider applications)を探求しているJ( i
bid.,
Preface,
P. xix)のであり, さらに経済改草研究の視座について次のように述べている。
n960年以来
Waker教授と私は,分権化を主張するよりもむしろ,
直接経済計算の理論を発展させる乙と,そして集権的システムの『論理~ ,その内
在的限界,部分的改善の可能性の分析にわれわれの注意を向けはじめた。……乙れ
はむしろ戦術的な立場の変化であった。われわれは,[f誘導市場』型の徹底した改草
は近い将来,政治的に受け入れられない,という結論に達した,一一そして不幸に
もその後の事件で正しいと証明された。そのときわれわれには二つの代替案しかな
かった。第ーは,
1960年以前に行なっていたように,仮説的モデ、
Jレの研究を継続す
ることであった。とれは,経済政策問題の論争への積極的参加を制限する乙と,応用
経済学者との接触を失なうこと,いかに部分的で『次菩』であるにせよ,現実の経
済システムの改苦」のための建設的提案を行なう乙とができるという希望をすてるこ
と,に等しい。われわれはこれを拒否した。第二の代替案は,現行の経済紋枯を分
析し,その機能の実現可能な改苔を探求し,主張することであった。われわれはこ
ジェリンスキーの経済改草論
81れを選んだ……。
J(ibid.,
P. xx.)そして1
973年の著書の目的として次の
2目的が挙げられている。
r本書は,まず第
1!乙指令経済の機能と経済改草のメカニ ズムに関して私が現在理解しているものを提示する。第 21乙本書では,
w誘導市 場』モデノレの優位性の議論と『伝統的経済システム』の部分的改善の探求とを結び つける努力がなされる。乙の第 2の目的は,効率の継続的かっ真の向上に導く乙と のできるであろう現行システムの修正はまた,現在の党の機能がそれを実行しそう にないような大きな変化を要求する,という現在の私の確信によるものである。も しこれが正しいとしても,私の意見では,十分に改善された(すなわち,内的に斉 合的な,そして合理的に運営される)伝統的経済システムよりもずっと良好な経済 成果の可能性をもっ『誘導市場』モデノレの議論を推し進めることもできょう。しか しながら,現行システムの改善は,いかに小さくとも,緊急に探求されるべきであ る。というのは,数百万人のわが同胞・東欧人にとって,それは現在においてより よい生活をもたらすからである。
J( i
bid,
P. xxi.傍点は原若者による)。
4)
佐藤経明編『ソ連・東欧諸国の経済改草~
1973,
2頁 ,
L. A. D. Dellin and Hermann Gross,
eds. Reforms in the Soviet and Eastern European Eco‑nomies
,
1972,
PP.156~157. 参照。
E
ポ ー ラ ン ド 経 済 改 革 の 推 移
ポ ー ラ ン ド の 経 済 改 草 は
1956年
10月ゴムノレカ政権の誕生とともに開始さ れ , 以 来
20年 が 経 過 し て い る
oジエリンスキーは
1956年 に ポ ー ラ ン ド は 経 済 改 革 が 必 要 に な っ た 理 由 の 考 察 に よ っ て 経 済 改 草 の 分 析 と そ の 後 現 在 に 至 る 経 済 改 革 の 結 果 を 評 価 す る 視 座 を 設 定 し よ う と す る
Dそ こ で 本 節 で は 経 済 改 革 の 必 要 に 関 す る 公 式 的 見 解 に た い す る ジ ェ リ ン ス キ ー の 批 判 と そ の 後 の 経 済 改 革 の 推 移 に つ い て み る こ と に す る
o(1)
経 済 改 革 の 必 要
1.不 満 足 な 経 済 実 績
一 般 的 に い え ば , 経 済 改 草 は そ れ ま で に 採 用 さ れ て い た 経 済 政 策 が 不 満 足
な 結 果 を も た ら し , そ れ が 主 要 か っ 否 定 的 な 政 治 的 , イ デ オ ロ ギ ー 的 影 評 を
及 ぼ す が 故 に 必 要 と な る
1)。ポーランドの場・合,戦後の復興段階はかなりの
分権的であったことと生活水準の向上・消費の拡大を目的としていたという ことを特徴としていた。しかるに良好に遂行された3カ年計画(1947‑49) に代ってソヴ、ェト型の集権的な計画・管理システムを採用し野心的な集中的 工業化を目標とした6カ年計画(1950‑55)が立てられたoそれは非常に不 満足な結果に終り,その結果,その原因の究明と諸提案が行なわれた(1956
‑57年のポーランド経済モデノレ論争2))0 ソヴェト型の集権的な計画・管理 制度の適用の結果としての不満足な経済実績は束欧諸国では一般に,経済成 長,効率,生活水準という基本的局面に現われため。
ポーランドの6カ年計画の期間における基本的な経済指標およびポーラン ドの国民所得の増加率は第l表,第2表
l
乙示されている。これらの表からみ第1表 ポーランドの6カ年計画 (1950‑1955)の基本指標(1949=100) 1955年計回 1955年実績
国 民 所 得 212 175 忠告 投 資 240 262
ド
(236)本
工 業 総 生 産
258 270農 業 総 生 産
150 113 雇 用 160 156実 質 賃 金 140 104(104‑113)*
1人当り消費 (150‑160) (130‑144戸
*印は推定
Zielinski, Economic Reforms, op. cit., p. 4.
()内は
G. R. Feiwel, Poland's Industrialization Policy: A Cuvvent Analysis,
1971 .
p.238による。
第2表 ポーランドの国民所得の年成長率(1961年価格による) 1950…・・・15.1 1957・・・・・・10.7 1964.…..6.7 1951・・・・・・ 7.5 1958・・・・・・ 5.5 1965・・・・・・7.0 1952・…..6.2 1959・…・・ 5.2 1966・・・・・・7.1 1953・・・・・・10.4 1960・・・・・・ 4.3 1967・・・・・・5.7 1954・・・・・・10.5 1961・・・・・・ 8.2 1968・・・・・・9.。
1955・・・・・・ 8.4 1962・・・・・・ 2.1 1969・・・・・・3.0 1956・・・・・・ 7.0 1963・・・・・・ 6.9
Zielinski, Economic Reforms, op, cit., P. 2より。
ジェリンスキーの経済改草論 83 れば,ポーランドの経済改草の第一波(1956‑58)は, 1960年代の東欧諸国 の場合とちがって,経済成長率の急激な低下によってではなくて,システム の不効率,支払われた大きな犠牲にかかわらず実質賃金を引き上げることに 失敗したことによって惹き起された的O 以下ジェリンスキーの記述を要約す れば次の如くであるO
投資の効果についてO 投資計画の完成率をみると,計回よりも高い投資支 出(第1表参照)にかかわらず, 210の大投資計画のうち6296しか完成せず,
残りのうちで67計画, 3296は着工さえされていなかったO また完成した投資 計回についても,計画生産水準に達せず,その差異は小さくなかった(例:
Nowa Huta製鉄所の場合, 1955年の計画生産高75万トンにたいして実結
32.7万トン,計画の 42タ~)。また建設期間,投資コストの点でも 1946-49年
の実績,あるいは戦前の実絞よりもはるかに悪く,また建設された新工場の 労働生産性も,技術進歩の顕著であった電力,セメントを除いて,すべての 部門で旧工場よりも低かった町。6カ年計画の失敗は実質賃金,生活水準においてー居明瞭であったD 計四 は40%の実質賃金の上昇であり,公式統計は2796の上昇を示したが,最近の 推定では4%と推定された(第
1
表参照)0 し か し こ れ は 侵 先 的 な 高 賃 金 の産業部門(鉄鋼,機械工業)の拡大と高い教育一高収入の職員の増加によ って吸収され,ほとんどの従業員は賃金引上げをうけなかったことを芯味し 7こ6)
このような不満足な経済実績は国民の不満を生み出し, 1956年6月のポズ ナン事件にはじまる社会不安をひき起し,政治的には同年10月にゴムノレカ体 制を成立させるに至った
O
この経済実績は決定的な時点では不可避的に発生 する党内抗争において主要な攻註の武器となり,またイデオロギー的には経 済成長,安定,生活水準の向上における社会主義体制の資本主義体制にたい する侵位性に疑問を投げかけたのである7)。2. 失敗の理由
集権的経済システムの不満足な実続の原因に関する京欧諸国の公式的見解 はほぼ共通して,既存の計四・管理機椛を主たる原因として指摘する8)。そ
れはまた外延的成長と内包的成長という経済成長の型の分類と結合されて,
工業化の初期の外延的成長の段階には必要かつ有効であった集権的システム から内包的成長の局面におけるそれほど集権的でないシステムへの移行とし て経済改革の意義を把握することになる9)。
上述の見解にたいして,ジェリンスキーは次の如く批判的であるoすなわ ち iポーランドの現在の公式的立場もまた経済改草が継続的に必要である 理由を現行の管理械措の欠陥に限定している。しかし,かなりの政治的自由 化を伴っていた1956‑57年のポーランド経済改革の第1段階の聞には 6
カ
年計画の失望的な経済実績の理由は管理機構に限定されず,少なくとも経済 政策の他の4要素,すなわち,全般的成長戦略,計画過程,良業政策,手工 業・サービス業政策を含んでいた10)0J
そして続けて i過去の(そして 現在の)経済政策の批判を管理機構に限定することは政治的に好都合である かも知れないが, しかしこれは過去に不満足な経済実績に加担した他の原因 が取り除かれていることを示唆する。不幸にして,ポーランドでも他の束欧 諸国でもこれは事実ではない11)J
とo ここからジェリンスキーは,ポーランド工業における経済改革の分析を, {j白:理機構のみならず成長政策,計画化 過程,をも含めてお乙なっている12)。
(2) ポーランド経済改草の推移
ポーランドの経済改草は1956年の開始以来,前進と後退,再開,修正など の変化を経験している
O
ポーランドではこの管理制度の変更は「不断の過 程」とみなされ, 1956年以来の過程の連続として把握されている13)が,そ の過程を追ってみれば,その目標と実施において連続性よりも不連続の方が 目立つ14)。ジェリンスキーはポーランド工業の経済改革を次の5期に区分 し15) 第l期と第2期以降との改革の型の変化を指摘している。l. 1956‑58'"'‑'59.改革の開始。 i大綱計画の作成」。
2. 1959 ‑1964
, . . . . . ,
650 中間期。3. 1965‑68.改革の新しい波の開始。 i漸進的改革の時期J0
4. 1968‑70.失敗に終った改革の努力。
ジェリンスキーの経済改草論 85 5. 1971'"'‑',不確実な未来。
ジェリンスキーのこの時期区分は第
2
期を除けば,新たな経済改草の試み の開始によって区切っているにすぎないが,次にそれぞれの改草期に企図さ れ,実施された主要な改革を列挙することによってポーランド経済改革の推 移の概略をみる乙とにする。1. 1956 ‑58,......,590 改草の開始と「大綱計画の作成
J
01956‑58年の改草の特色は,企業を中心とする分権化と民主化,改革の大 綱計画の存在である。
1956‑57に多数の経済学者が改革への諸提案をおこない,いわゆるポーラ ンド経済モデノレ論争が展開され,閣僚会議付属経済会議は1957年に「経済モ デノレ変更の若干の方向に関ずるテーゼ」を提出した16)。 こ れ は 改 草 の 全 般 にわたる基本計画であり,同時に
3 " " " " 4
年の比較的短い期間の移行計四を定 めていた17) このテーゼについて, R. Seluckyは 「 ポ ー ラ ン ド は 当 時 (1968年のチェコ型のような)市場型改草を望んでいなかったoむしろ伝統 的社会主義の枠内で可能な最大限の民主化と分権化を望んだ18)J
と 述 べ て おり,またテーゼは「多数の志見の妥協であり,明確さと斉合性を欠く19)という G. R. Feiwelの指摘があるo妥協の結果であり斉合性を欠くとして も, 1957年テーゼはランゲ,ブノレス等の価値法則の作用範囲の拡大を主張す る見解が基本をなしており20) 基本計画と短期の移行計画をもち,計画実 行の基本単位は相対的に自律的な企業であるというところから,ジェリンス キーは,この期の改平の特徴,一般的性格を「誘導市場モデノレ」あるいは市場 パラメーター型と規定する21)。
実施された大きな改草としては,まず第1
~乙企業の自主性の拡大がある o
1956年11月の閣僚会誌の決定によって,それまで企業が上級管理機関から受 け取った無数の計画指標は基本的な8指標(1.商品生産額, 2.最重要品目の 生産量, 3.総賃金フォンド(外部労働を含む) , 4.利潤または損失, 5.国家 予算へ拠出さるべき利潤額, 6.中央決定される投資配分予算額, 7.資本補修 の財務限界, 8.迩転資本の基準)に削減され22に そ れ と 同 時 に 指 標 の 枠 内 での計四編成の権利,注文を受ける権利,融資のより大きな自由,供給者の
選択などが企業に認められた23)。また1957年にボーナス制度が改定された が,乙れはまったく表面的にすきず,むしろ生産計画遂行への経営者の関心 の集中を新たにしたにすぎなかった24)。
次に1956年初めより自然発生的に形成されていた労働者評議会 (workers' councils)が1956年11月の法律によって党および労働組合とは別の組織とし て承認され,企業長と並ぶ企業の共同経営者の地位とそれに関する多くの権 利を獲得した25)。
第3の重要な変更としては,1948年より管理の集権化と集中的工業化を推進 した国家経済計画委員会が1957年に解体され,閣僚会議計画委員会 (Plan‑ ning Commission of Council of Ministers)が設置され,その活動の力 点は長期計画と計画過程における経済分析におかれ,また,方向としては分 権化と民主化,生活水準の向上のために強制的工業化の速度の低下が示唆さ れた26)ことであるO
このようにして経済改革の第
l
歩がふみ出されたのであるが,企業の自主 性の拡大が管理の基本原理と相対価格の変更なしに行なわれたので,企業経 営の規律は弛綬し,過剰雇用,非承認投資,賃金フォンドの超過支出,過大 な超勤,正当化できない欠勤などが莞延し,贈収賄,枯領,窃盗は普通にみ られ,消費財‑市場でのインフレ圧力,生産財の供給と需要の不均衡と過大な 注文と退蔵による深刻な不足と在庫の蓄積という否定的な現象が現われた。他面では, 1956‑58年には消賀財生産の増加,国民所得に占める投資の割合 の低下と国民の実質所得の向上とが生じた。しかしながら,党指導者と中央 計画者は乙れらの結果を不満足なものと判断し,また下層の経済活動にたい ずる統制を失なう危険に直面して,統制力の回復と反改革の過程が開始され 7
こ
27〉
D改革の後退の第l歩は,1958年における企業連合(industrialassociation) の形成28) 党,工場委員会または労働組合,労働者評議会によって椅成さ れる労働者自主管理会議(workers'Self‑MamagmentConference)の設立と それによる労働者評議会の諸権利の吸収,労働者評議会の執行機関への転化 であった29) 1959年には経済会議が解消し,予定されていた賃金と価格の
ジェリンスキーの経済改革論 87 改定は放棄され30) 1956年に 8に削減されていた企業にたいする計画指令 が徐々に追加されて, 1959年には既に18'"'"'22に達していた31)。また1959年 には1961‑65年の50年計画における成長率と投資の引上げが行なわれた。こ れらは改芋の後退と同時に次の中間期の始まりであるo
2. 1959‑64""""65,中間期。
この期間は一方では理論と応用における改草政策のスローダウン, 1956年 以前の計画・管理方式の多くの特徴の残存,旧方式への漸次的復帰と,他方 では,旧システムの第二次的特徴の多くの除去と前期に実施されなかった改 革措置の導入を特徴とする32)。主要な変更は次の如くであるD
( i )指令的指標の削減。しかし生産高指標は除かれず,労働生産性と賃金 フォンドの計算の基礎として依然として重要であった。そして指標の数は徐 々に増加したD
( ii )経済的刺放の新方法の採用。これは基本ボーナス基金と迫加ボーナス 基金を設定し,前者は四半期ごとに企業の収益性によって計算・算入される が,その支給は総生産高または商品生産高指標の達成に規定された33)。追 加ボーナス基金は個々の特殊成功指標について設定されたoなお, 1964年に は基本ボーナスの計算の基礎と支給の条件が逆になり,計算の基礎として特 殊成功指標について100点を満点とする点数法が実施された。このように総 合的成功指標である収益性が刺戟システムにとり入れられたが,それは特殊 成功指標との組合せによってであり,しかも特殊成功指標を基礎にする刺戟
システムも残されたのである34)
(iii)賃金フォンド計算の
2
方法の実験。労働生産性や賃金フォンド計算 の新しい基準の実験が行なわれた35)。3. 1965‑68, irlYT進的改良の時期。
管理の旧方式への復帰は深刻な経済困難をもたらし,それは1962‑63年に ピークに達した(f112表の成長率の低下をみよ)0 かくして, 1963年より再 ひ、改草への関心が起り, 1964年6月の第4回党大会, 1965年7月党中央委員 会総会によって新たな改草が開始された36)。
この時期の特色は,
( a )
経済改草という複雑な問題の解決は単一の理論的アプローチにもとづいては不可能であるという信念, (b)部分的救済策,
( c )継続
的過程としての改善,( d )
提案された原則を限られた範国での経済的実験によ って検証すること,を強調したことであるo改革の目的は計回と管理方式に 1956年以前より存在する機構の否定的特徴の除去であったD そして改革の主 要項目は, (a)成功指標と物質的刺戟システム,( b )
企業の賃金フォンド額の計 画と調整の方法,( c )
企業と企業述合の財務システム,( d ;
企業の権限の範囲 (拡大) ,( e )
企業述合の役割(拡大) , if)経済計画の期間を2
年に延長する こと,等であった37)。これらの諸改草は遅延戦術,サボタージュによって進まなかったo1967年 7月においても「改平の実際の実施はなおほとんど願望のまま残されてい た38)Jのであり,その目的は実現されなかったo
4. 1969‑70,失敗に終った改革努力D
1968年 3月事件と政治的変動および急速に悪化した経済情勢によって,
1968年11月の第5回党大会は再び経済改革を決議した。新システムは新5カ 年計画の始まる1971年より完全実施の予定で, 1969‑70年には移行期として 新システムの一部分が断片的に導入されたD その改革の中心は,国民経済計 画の編成方法の抜本的改革,投資金融の方法,物質的刺戟の新方式であっ た39)。この改草案の特色はデフレ的,反消賀者であり,賃金上昇と消費を 抑制するための大きな努力が払われた40)。しかし, 乙の改革は1970年12月 の小売価格(特に食料品価格)の引上げに端を発したパノレト海沿岸都市の労 働者の問局的ストライキやゼネスト,それを契機としたゴムノレカ第一書記の 退陣によって完全に実施されることなく徹回されたo
5. 1971'"'‑',不確実な未来。
1971年12月の第6回党大会は, (i)経済改平の必要と分権化された経済 モデノレへの一般的方向, (ii)新モデルは個々にではなく一度に導入される こと (iii)中央計画者の役割の限定, (iV)企業の行動の自由の拡大,等 の基本的事項を確認した41)にとどまった。ジェリンスキーは1972年4月, 党と国家の特別委員会の報告について(i )それは経済改革にたいする体系 的アプローチの必要性の理解の完全な欠除をばくろしていること, ( ii)提
ジェリンスキーの経済改草論 89 案された改善は非常に一般的で伝統的な性格をもつことo (iii)組織的,技 術的,経済的,社会的諸問題の解決の詳細な一般原則を作成するために,政 府は1972年に選抜された経済組織において部分的解決の実施を始めるべきで あると決議が述べていること, (iv) 9カ月の準備委員会の作業にかかわら ずこのような「一般原則」 しか作成できなかったこと, などの諸点から,
「ポーランドの経済改革の将来は不確実であるばかりか暗いJ42)と断じて し1
る
oなお1973年1月より企業と企業連合の経営者の自由と責任の増大を企図し た,財務・会計制度の変更(なかんずくフォンドの繰り越し,借入れー返済 を可能にした) ,指標の数の削減とその型の修正が行なわれた43)というこ とを付記しておくo
上述のポーランドの経済改草の推移をみるとき注目すべき特徴として次の
2
点がある。同) 経済改草の型の変化。
まず,第1期(1956‑58)の,不完全かつ妥協的とはいえ,市場型の全般 的かっ比較的短期の移行期間を措定した改草の型から,中間期の後退を経 て,第3,4, 5期における基本計画を欠く,部分的,断片的,漸進的な,
不断の改善の過程としての改草へという経済改草の型の変化が確認される。
ジェリンスキーは経済改革のこの二つの類型の比較44)か ら ポ ー ラ ン ド の 経 済改草の将来について「不確実かっ暗い」と予測しているD
(8) 経済改草成功のための前提条件の無視
数度の改草にみられる共通点として次の
2
点があり,それらが経済改草の 実行を困難あるいは不可能にした。これは,ジェリンスキーによれば,なか んづく1969‑76年改草において顕著であった基本的な誤りである45)。( i )政治的安定
経済改草成功の政治的前提条件は支配する共産党内のーグループの手に権 力が効果的に確立されていることであるo政治的統一が必要である理由は次 の二つである。
第 11 乙,それは斉合的な改平の設計図を描くための前提条件である。政治 的統ーがなければ,改革の提案は原則として目的の統一性と明確性を欠き,
さらに経済機構あるいはその部分の編成についての政治的妥協は若しく首尾 一貫しないものをもたらすのが通常である。とれは政治的には関係するすべ ての派閥には好都合であるかも知れないが,実際には有効に動かない。
第 2 ~こ,かなりよく設計された改革でも深刻な問題が起ることなく実施さ れることは期待できない。経済改草に不可避的に伴なう諸困難を克服するた めには,党と政府における特別の決定,目的の認識とある程度の公衆の支持 が必要である
Dこれらを達成するためには真に統一された指導者層が必要で ある
oはげしい党内閲争は改平実行に伴なう諸困難にさいして妥協的な解決 をはかり,改辛の斉合性を著しく破壊し,また改革の実行のサボタージュを
もたらす。
( ii)
経済の制約
困難な経済的条件のときには経済機構の変更を開始するな,というととが すべての改草者にとっての格言であるといわれる
o経 済 運 営 の 組 織 の 変 更 は,オーバーホーノレの間でも椴能を止めることはできないので多くの否定的 な効果をもたらす,即ち,成長率の一時的な低下,あるいは投入産出関係の 撹乱,あるいは経営者と従業員の聞の特別な緊張関係。そして改草に反対す る者は警戒し失敗のいかなる徴候をも利用しようと待っている。それゆえ に,改革は逆境的経済条件のもとで開始さるべきでないばかりか,同時に他 面では改草の実行の聞に起るかも知れない,そして当然起るであろう諸困難 を緩和するために,消資財,原材料,部品,外国通貨などの特別の予備が前 以って貯えられているべきである。
これらの経済改草の成功の必要条件とポーランドの経済改革の推移,とり わけ改草を必要した事情とをつき合わせるとき,そこには,ジェリシスキー の指摘するところの,改草の必要と政草の設計との悪循環のみならず多くの 矛盾する諸困難が存在することがわかる(次節参照)
0注1)
J. G. Zielinski,
Economic Reforms in Polish Industry,
op. cit.,
p.1 .
2) G. R. Feiwel, The Economics of a Socialist Enterprise: A Case Studyジェリンスキーの経済改草論 91 of the Po
1 i
sh Firm, 1965, PP. 17,‑.....,22.に主要な論者の主張が要約されている。
3) Zie
1 i
nski, Economic Reforms, op. cit., p.1 .
4) Ibid.
,
PP. 3,‑.....,4.5) See, ibid., pp. 4,‑.....,5.
6) See. ibid.
,
PP. 5,‑.....,6.7) See. ibid.
,
PP. 6,‑.....,8. 8) Ibid.,
P. 10.9) J. Wilczynski
,
Socialist Economic Development and Reforms,
1972. P. xv.五井 ‑ t f E
,I
束欧社会主義固における経済改草の推移とその立五(1 )
J( [f径済学論某j]13迭3
号(1
972)).沢田干一郎「束欧の『経済改草』論J(~神
戸外大論叢j]19~4 号(1968)).
Morris Bornstein, ed. Plan and Market:Economic Reform in Eastern Europe
,
1973. p. 5 ("Introduction" by M.Bornstein)なお Bornsteinによれば.
I
乙の定式化は政治的に好都合である,というのは,共産党指導者が非常に密技なかかわりをもっていた伝統的システムを 非泣することなしに変化の必要を主張することを可能ならしめるからである。それ に代って,異なる条件は経済計画と管理の異なるシステムを要求すると主張され た」と,この論理の政治的立義が解釈されている(ibid.,P. 5)。またこの系 論として,ランゲのテーゼ(都留主人他訳『経済発展と社会の進歩j] (岩波書目,
1945) 24,‑.....,29頁)の前半部分から民間されたところの,
:U~i在的システムは社会主義
工業化の第一段階には必要かっ有効であった,という主張にたいして,ジェリンス キーは.4点をあげて市攻している。要約すれば次の如くである。 (1)伝統的経済シ ステムの経済的効果が時の径過とともに逓減したという争いがたい手宍は,その機 能の最初の時j自には適切であり必要であったという証拠ではない。現在のuFJIi幾f:IJにもかかわらず(それゆえにでなく)かなりの径済成長が述成されたのである。
(2)伝統的経済システムが計四者の選好の効果的な実行のために必廷であったという 証拠ばない。計四者の選好でもおよそ芯閃通りには宍行されなかった。 (3)工業化の 初期における産業基昨夏日の不足はポーランドやチェコスロヴァキアのような国に
はあてはまらない。 (4);~'5皮に発注した京ドイツやチェコスロヴァキアと民業国で未
発注のフツレガリアや jレーマニアの双方において木 1'J:(J!~に同じ tf:f11l i;;'Z i}\: がュ古川された
という事実そのものは経済発展の客間的要請よりもむしろ経済外的要因が作用していたことを示唆する。チェコや東ドイツのような高度に工業化した国がなぜもう一 度「発展の粗放的段階jを通らねばならないかはとの理論の主張者たちによっては まったく説明された乙とはない。 (Zielinski,Economic Reforms,ゐp. cit., PP. 23‑‑‑‑‑27.)との批判についてはまた R. Selucky, Economic Reforms in Eastern Europe: Political Background and Economic Significance
,
1972. PP. 36‑‑‑‑‑37参照。なおジェリンスキーの基本的芯図は,一国の工業化の相異なる 段階には異なる経済政策が必要であるといっテーゼに反駁することではなくて,乙 の場合の適切な政策が伝統的ソヴェト型の管理機f t l I
であったという主張に論駁する ことであった (Zielinski,op. cit., p. 27)。京欧の経済改草の意義について,それを非スターリン化の第2段階とみるGamarnikowの見解があるととを付・記し ておく(L. A. D. Dellin and Harmann Gross, eds., op. ci t., PP. 3
, . . . . . , . ,
7.) 10) Zielinski, Economic Reforms, op. cit., p. 10.各項目の説明については同書10"'13頁参照。 Feiwelによれば,当時,最も有害な要因の一つは過度の集 権化であることに意見が一致していた (Feiwel,op. cit., P. 14)。
11) Zielinski
,
op. cit.,
p. 14.12) Zielinski, Economic Reforms in Polish Industry, 1973の編章別編成は次 の如くである。
序 論
第 l章 改 草 の は じ ま り
第 l部 経 済 計 画 化 の 理 論 と 実 践 第2章 国 民 経 済 の 計 画 化 第 3章 部 門 と 企 業 レ ベJレの計画化
第2部 計 画 実 行 の 管 理 第4章 社 会 主 義 工 業 の 管 理 機 構 第5章 社 会 主 義 企 業 の 情 報 シ ス テ ム 第6章 社 会 主 義 企 業 の 刺 戟 シ ス テ ム 第7章 社 会 主 義 企 業 の 補 給 シ ス テ ム 第 8章 部 門 レ ベ ル の 管 理
結 論
~$9 章
ポーランド経済改草の有効性について。13) M. Madey and Z. Rybicki