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國策として見たる我が滿洲農業移民(三)-香川大学学術情報リポジトリ

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寛二 序 説 第二 満洲農業移民の必要性 讐二 滝洲農兼移民の可能性 以上前々餅抱戟 第四 瞞洲農共移民計室樹立の必粟と其の大要 A 鴻洲農薬移民計老樹立の必要 玉 瓶洲農染移民計適の大要 以上前躾掬我 第五 閲洲嘩業移民の沿革 A 繍洲番肇以前に磨ける備洲農業移民 一濁立守備除哺期兵移民 二 愛川村移艮 三 大連農事株式曾証移民 第十三巻 男三鰐

国策芋して見たる我が清洲農業移民二ニ︶

松 崎 賓 攻

︵こ二四︶ こ八

(2)

四 東臨勧業株式曾辻珍鳥 £ 蒲洲事攣以後に於ける滴洲農染移民 仙 天照国務二民 二 天理村移民 三 城路線局移民 四 鏡泊拳固移民 第 五 滴洲盛業移民の漕革 A 満洲串攣以前に於ける満洲農乗移民 我が滴洲農葵移民の史的考察を試るに雷って、筆者は兜づ読者諸彦の注意を喚起したき嘉のあるのを認ある のセある。それは満洲率攣を契碗として、浦洲閲の諸事情が表したるのみならす、日満爾固の政治的・経済 的壷事的・文化的諸関係が緊密となり不可分関係にまで進み、我が政府や国民大衆の清洲囲に封する関心が高ま ト同時に正しき認識も深まつて釆た。従って我が封満政策が積極的に計賓され葦施されるに至り、更に其の時分 から我が国内に於ては窮乏農村の匡救問題・過剰人口間轟・問防問題・日藩ブロック経済確立問題等が盈要性を 増し、之等開聞揚解決の蒜として滴洲農柴移民大量送致の必要と可能上が強く叫ばれるに至ったのである。加 之浦洲事璽後に於ては、我が浦洲移民の方針・計宜等も以前のそれとは着るしき相異を示し、移民の形式も数量 ● 国策とLて見たる我が浦洲膣巣移民 ︵ここ五︶ 二九

(3)

第十三啓 発王威 ︵二こ六︶ニ も婿叉移民自身の精神迄も“欒し・てしまつたといふことである。それ政に移民の濁革も満洲轟欒を墳として其の 前後に分って述べることが通常でもあり叉便宜でもあると信やる次第である。依って彗づ満洲寄弊以前に於明る 濁洲盤柴移民から叙述するこまとする。簡ほ鼓に附言しにきは、我が浦洲食費移民に於ける朝鮮人移民は歴史も 古く、既に清朝医療藩時代に今日の間島省即ち間島地方が僅かに鴨緑江・岡椚打の流れを隔てゝ接近してゐでし かも土地が肥沃ぢるにも不拘人口が稀滞であつた関係から、相常多数の鮮人が移住し農共に従事してゐたので ● あつで、同地方の水田は殆んどすべで彼等の閑費になつたのである。降って明治初年には漸次共の数を増し他に 明治二十三年に朝鮮に非常な凶作が起つにので、間島地方へ進出しで活路を開かんとするものが多くなつ/た。共 の複軌鮮の統治者も鮮入滅洲移民の必要性を認めて、其の保護奨拗施設に努力するに至ったので、移付の敦は急 激に増加の傾向を現し、従って同地方に於ける絆人の教最も目覚しく勢〃も加はり、彼等の農業上に於ける地位 は重要となつて釆たのである。 右の如くであるから鮮人の滅洲への進出の沿革を詳細に考察することは帝義あることでもあり、叉興味もある ことであると考へるけれども、今鼓には之を省思し只内地人の満洲農薬移民の史的考察にため其の大計哲左に記 、述する事としたといふことである。 仙 曙立守備隊満期兵移民 我が内地人が州別的に満洲に盤東移民として入植した者は、明治時代にも相常数にじつてゐることと恩ふけれ

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ども・囲慣移民としては大正三年に七名の者が同地に這入つにのが其の噸央である。それは満餞が其の鋳造薄緑

の守備にあたってゐた例の弼立守備隊の満期兵から希望者を募り、優良者を選抜して浦餓附属地に農紫綬密着と

して移住せしめたのであつて、之を猫立守備隊満期兵移民と呼んでゐるのである?爾来瀾鋳では大空バ年迄引絞

き年々此の軽、の移民を同地方に送り、其の敬三十四名に及んだのである。この敬は今日の大桑移民に比すれば僅

少であり、論やるに足らぬ経であるけれども、之が我が満洲農業集囲移民の億駆をなしたといふ鮎で意味があ

り、叉注意もせねばならぬ事と思ふのである。次に前後凶年問に入植せしゆに員数及貸地面積を示せば哀の如く

である。

猫立守備隊満期兵移民数

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ま血反以下切槍とす

満讐は之が巌初の試みでもあり、且つ集困移民の国家的意義の重要性富考へ、移民の資金不足の嘗情を考

慮し、彼等の便雷管其の成功嘉する雷に冨保警加へたのである。即ち常時同地方に於ける地代は戊

● 常りニ・手燭位を普通とんてゐた不拘、僅に六十鏡といふ法外に穿い代地で貸興したのみならや、警・任宅

の遊撃長峯慧田の買入等に聾する資金として三百聞蓬を年八分の利率で融通毒し、しかも之聖二年間据讐

十ケ年の年賦償警する便宜さへ輿へたのである。それにも不拘早くも大正お年に四人の退新着を巴たの嘉

めとして、爾舛年空退耕者の横田を見るに至り1現凝は僅に十七戸の埋留者に過ぎざる有様であるから、此の移

民は不成功に終ったと晋は誇ればならぬ状態となつたのは埋念警とである。今退新著警年度別に乗せば次

の如くである。

年度 別退耕音数

弟十≡巻 第三覗 ︵二こ八︶ ≡二

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然てば右述べたるが如く滴繊が移民ポ封もて保護助成したるに鴻かゝ成らす、好結果を収めることが出来行か ったのは何故であるか︵識者の之に封する解答は必やしも由二ではないけれども、其の主なるものを摘録すれば 次の如くである。 1 移民が堅葦・磁融不動なる精神を有せサー淫千金を夢みて虞両目に働かなかったデー 2.移民が満洲車偶に相通せや農事経営が下手であり且っ鎮紡が放漫に流れたること 以上こつは此の移尺に限った事ではないが、将帥の緊張を欠ぎ不買面目な生活をなし、その上経営上の密約に 乏しく技術が幼経であって、しかも家計上緊縮生酒が出来ない櫻では何れの地に行つでも成功の田釆ないのは常 然と言はなければならぬq従来幾多の移民が失敗したのはかゝる理由が多分に春慶してゐたからである。それ故 に政府も此の郵に顧る研があつて、近年の移民選抜に常つでは之等の鋒封に注意を彿ふ上に、更に鵬定の訓練を 行っで眞面目堅葦なる精神を把墟せしむるに努めてゐるのである。 3 農車線皆の伐紡があがらなかったこと、即ち経済的に見て利潤が少かつたこと 今鼓に同移民の農事総督に於ける収支合計並に収益百年慶別に示せば次の如くである。 観簸とんこ見たる我が蒲洲農染移民 燭立守備験満期兵移民支益表 ︵盟位随︶ ︵こ一二九︶ ≡≡

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右の表に依れば仙経営嘗りの利益は最高七首五十九図七餞最低百三十八囲五十践であつて、反常りのそれは前 者は三園八十錦後者は僅に六十九鏡である。然しながら最高利益をあげたのは昭和二年であつて、此の年迄に眈に 追跡者の全部が出てしまつでゐるから、後に残った著は経験を積んだ眞面目に働く老計りであるといふ革質を知 らなければならぬ。史移民の借入れた土地の地代が普通反懲り二鹿乃至二囲位のもの牢六十銭といふ小寂で借り てゐたといふ鋸も考へなければならぬと思ふ。若し之を普通の地代を沸って借入れるなれば殆んど牧益なきか、 或は欠損を生すう結果となるであらう。晋ふ迄もなく特殊の目的を以て経営せられる公益的寄菓ならば収益の多 少の如きは殆んど考慮に入れる必要はなく、場合に依っては年々欠損となつても之を関摸耗螢せねばならぬもの 河田博士 同上苛 間 大 正 三 年 四 年 同 五 年 同 六 年 七 年 間 昭 和 こ 年 第十三寧 第 三輩 牧守雄高 支 出 塊 額 〓ニ貫 ∴〇・こ五。四二 九四〇〇七四 ﹁、一四≡●六八 二五四六●四八 ﹁六五≡●五八 二、二〇六・九五 収 入 塊 根 劇、五六〓・〓ニ i、〇七九・二四 一、〓九ニT五九 T、九六五。〇九 こ、二四≡・〇五 こ、九六大・〇二 差 引 塊 高 五〇〇・七仰 山三八・五〇 ∵四九・九仙 四一八・六一 五入九・四七 七五九・〇七 尿 管 痍 高 こ・五〇 〇・六九 〇・七五 二。〇九 こ。九九 ≡・八〇 ︵こtニ〇一︶ 三四 調査戸数

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もぁる筈である。然るに利潤追求を自的とする企菜経営にありては、利潤の多少、欠損の有無多少といふことは 企業者にとつて最も重安性のめる問題である。特に小資本の企柴にありては利潤率が低いとか、欠損を生すると かいふことLは企発着にとつて、劇大苦痛であり企菜辟螢を鳩糖することが不可能になり易いのである。亜敢に述ぶ る0移民の蕾む農業は小規模なるものであト、叉移民の資力は乏しいのであるかち、以上記しに様な饉少の収益 では経営を拗楽してしまふのは止むを得ざる次鴇である。 註 二 愛 川 村 移 民 愛川村移民は和栗穂が洲内の官有地を利用して邦人に永田経営をなさしめる焉めに行った移民であつて、大正 閏年の春命州附近の大塊家屯に入棺せしめたのが靭である。関東療ではその準備として大聖二年から移民の住 宅・巣食の建築、井戸・共同作菜皆の建設、土地亜理・道路・墳防・濯漑排水工事等に着手し、翌四年暑完成を 見るに至つて、移民送致を賓施したのである。此の移民は最初十九戸四十八人であつて、山口煩から十八戸四十 六人、新潟脂から劇戸二人が選抜されに。而しで閲東磨から移民に封して家屋を脂ハヘにり、農具を貸したりしに ばかりでなく、指導員を派適して農事絆螢法や技術上の指導を行ったり警察官を駐在せしめて移民の保護や治安 の維持に懲らしめにけれども、早くも同年末迄に大部分即ち十六戸の退新著を出してしまふといふ始釆であつ て、全く失敗に節しにのである。其の翌年再び長野解から十戸、新潟解から二戸、闊同株から二戸、計十三戸を 移住せしめたが、爾米年々離脱者が積出し十両年度現在に於て僅かに七戸を増すに閣まるといふみじめさであ 闘集とLて見たる我が漏洲農薬移民 ︵二≡叫︶ 三五

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第十三巷 第 三鶉 る。其の移動は次の如くである。

愛川村移民移動表

河田博士”同上寄 〓ハ貰 右の如き結英を見るに至った原因は次の如くである。 1 初期に於で濯漑用水が不足した馬めに取種が不良なりしこと 摘東舷砿於て像致准漑用水路を携って慣いにけれども、水禽不足と水路不便なりし焉ゎに作物栽培上水の不足 甚だしく、途に収穫高が律に示すが如く水門尺常り燐に州斗七升、柵作反骨官二斗六升といふ全く橡閉に反した 少量の収穫をあげたるに過ぎなかったので、移民の離析上の苦痛甚だしく将来に封する希望を失ふに至り前述の 計 十 七 六 五 四 n 同同同同大 年 正 度 移 年 年 年 年 年 動 入 桶 戸

三11!三 九

敬 主星 去 声 数 玉 −−・ニ 五 一 六 カ セ 八 ○ 五 三 ︵仙二二二︶ ≡六

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如き多数の退新著を出したのである。其の後に於でも年々雑感水不足の蔑めに、移民が苛んで屑るので関東厳に

於ては大正十三年から畢非工事を起.して地下水を利用することとしたる上に、濯漑設備にも改良を加へることと

し、昭和二年之が完成を見るに至ったので、近華では比の不便不利が除去されにから漸次作付面稗も牧鱒尚も増

加の傾向を示すに至ったのである。年度別作付面種並に収穫高は次表の如くである。

愛川移民作付両横及牧穫高表

大 正 四 年 同 八 年 回 十 二 年 昭 和 二 年 同 ≡ 年 同 四 年 同 五 年 同 大 年 間 七 年 蛸簸として見たる我が痛洲農染移民 面積牧鹿高 ︵二≡ニ〇 ≡七

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河尉博士 同上書一七貰 本表に依って見れば聾非工事完成の昭和二年以外牧橙高は入相初期に比すれば増加したとは言ふものの、決し で補足し得べ.薄程度には達して居らぬ。蘭って農民は負倍が加はり何等かの救済策を試ぜざれば到底立ちゆかぬ 事情が明になつて来たので、普局に於ては昭和十年五月に餅伶地金部を如⋮慣で下付し、月つ共の00部皇軍却する ことを認めるに空つだので、爾来農民の控臍にも幾分かの飴裕を生する様になり、漸く弼読経皆がⅢ来る状態と なつて凍土から、現在球留する者は賂釆に封する希望も持ち得る様になり元気付いて働けることになつたのであ る0 2 生活條件の激欒に堪へ得なかつにこと この移民は前記の除隊兵移民と異つで全部が内地から進柏した着であり、しかも何等溝洲の事情に附する像備 智識も字\其の琴偶にも曙かつた上に訓練さへ受けて屈なかつたのであるから、移住地に於ける人柄風俗はも とより、生満株式も鵬切内地のそれとは飴程興って居にので不便不自由が多く、その上経済的喋迫も 初志を箕徹し得ざるものが拡出してきた鐸である。既に前批等に於ても鰐詮した如く移任者は換め移住地に於け る諸事情、畠弟経営方式等に関する智識を持ち、堅賛なる精神を贅か二足の訓練を受けて置くことが紙製に必要 である。然るにこの移民達は之等の詳翫に於て欠ぐる研が多かったことは失敗の血因であると冨はなければな らぬ。 第十三怨 第lニ賠 ︵二ニー四︶ 三八

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3 移住者に着驚勤勉奮励努力の将帥を欠ぎにること この瓢は除隊兵移民に就て述べにと同様の欠鮎である。移民の中には聖をして居て成功がしたいといふ糾った 思想を抱いてゐにものが多かった。ゝ斯くの如き考へでは内地に居てさへ、叉如何なる職共に従事しても成功し得 ざることは燦を見るよりも明でぁる。鞭難は汝を玉にすとか奮闘努力は成功の基であるとかいふ金言を忘れたも のである。 ま 此の移民の移住地を愛川村と科するは、最初の移民が主として山口螺変宕村と川下村から出たので、之等出易の南村 名に因み、その顕字こ字を取つて愛川利と命名したので.ある。香川願出易の移民地を野川村、和姦川檻出易の移住地 を紳奈川村と栴ナるが如きも其の山例である。 三 大蓮農事株式禽敢移民 大連数寄株式愈敢は昭和馳年に創立せられた愈敢であつて、共の資本金劇千筒型第一〓凹沸込末百哉鱒︶は金額 を藩紡が出資してゐるのであるから、純然たる満織傍系命敢である。本敢は関東州及び満餓附屠地に本邦内地人 を移民せしめんが馬めに設立せられたのである。而して最初の計茸では五年間に民有地を二千五首町歩買収する 外、官有地二千五百町歩を排下又は借入をなして鼓に釣五首戸を移住せしめんとした。而して自作農たらんとす る者に勤しては、右買収地を移民に譲渡し二軍苫り六町歩乃至十町歩、平均約八町歩を所弔せしめる方針であつ た。顛の代金は八分の∵を究づ吏彿はしや、残椒ほ隼五分の利率で貸付け五ケ奉据置き・二十ケ年々蹴の償還方法 圃鹿として見たる我が・蒲洲農染移民 ○〓ニ五︶一二光

(13)

第†芸巻 第≡鮮 ︵こ≡ハ︶ 四〇 を純じたのである。又小作人にらんとする者七勤しては十ケ年契約で戯緋サしめたのである。合計は右の如き便 骨右㌫興ヘ七のみならす、渡航費補肋三百聞以内、家屋建築費、緊井工事費等の緬助九百圃以内計†二百囲以内の 補助をなす外、山千圃迄の貸金哲も資行したのであるから、移民にとつては好都合ではあつたけれとも、しかも 椅ほ敢少限度に於て自作放たらんとする者は千数百園、小作農たらんとする老と郷も数百園の資金を調達せねば ならぬのであるから、食肉なる移民にとつては之東の資金を用意することは決して容易なことではない。 然る主食赦の計憲は預定通りに遊行せられなかった。愈軒に於て移民驚施に党だち、移住適地を驚地据沓して みると官有地には農薬鮭瞥に通する土地が少なく、焉めに討喜通りに二千五同町歩を得ることが不可能であると いふことが明になつたので∵僅かに其の五分の山即ち五百町歩の貸下げを受けたに過ぎなかった。粍つて民有地 買入面積を像定より増加サる必要を見るに薫り、遮に三千七竃七十町歩の買収を驚毎したのである。かくて土地 北ハ他の準備が番ったので愈々移民を茶菓することになつたが案外通常なる應寡恕が少なく、−昭和花年移民途致を 始めてから二言年間に僅に七十二戸の移仕をなさしめたに過ぎぬ。斯かる不結英であつたのと、満洲事欒の勃 賛、輝いて満洲固め猫立がありて土地痴租問蔑も解決し其他の事情も﹂欒し、討雷撃吏を必恕とするに至ったの で、周和七年以来移民の募集を中止し現在に及んでゐる状態である。戯らば如何なる珂山によりか\る戒跨不良 を見るに登っ七か。 ﹂ 移民が資金を充分に調達し得芳かつたこと

(14)

経済的に患まれて僧ない移民希望者が最少限度千数百凰の資金を調速することは決して容易ぢ柴ではない。特 に昭和二年我が周内に金融恐慌が起って以奔、同七・八年に至る迄は義経碑界の不況は金開的に及び幾豪の困 窮は橡想外に甚だしかつた。それ故に農民救済必要論が各地で高唱せられ、政府常局や遷府轡‖嵩其の他自治国 醍等に於て其の封葦樹立と其の遂行に懸命の努力が注がれるに至ったのである。斯くの如き経臍界不況時代に此 の移民が募集せられたのであるから、資金調達が意の如くならなかったのは濫し常然とも碧こやう。それ故に途 に移民を希望しっゝも資金不足の薦めに志を達し得なかった著も多々あり、叉移炸はしたものゝ資金不充分な馬 めに経営者の如くならざりし著も多かったのである。 2 倉敷の土地譲渡慣格が高過ぎたこと 食酢が移民に譲渡した土地の憫格は平均反雷り首鼠であつた。之は貧乏な移民にとつては決しで安.い他段とは 言へない。若し八町歩を買入れたせすれば八千固を要し其の八分の㌻曾即時支排ふを嬰するが故に千囲を現金で 支出せねば蒐ら硫。蔑顔七千園に封しては年五分の利子を支排はなければならや、五年を控過すれば二十ケ年年 賦で慣退をも始めなければならぬのであつて、仙方に於ては彼等が用意した資金の大部分を固定してしまはなけ ればならぬことになり、他方に於ては土地代年賑償還の焉めに年々多額の資金を必要とすることとなるから、彼 等にとつては移堅剛に資金の調達に苦しむ計りでなく、入相後に於ても経営上利益が柏督多額に上らぎる限り資 金の調達に苦労しなければならぬのである。 陶貸として見たる我が蒲洲農発移民 ︵二≡七︶ m〓

(15)

3 入植後経常意の如くならや負債を生じにること

右にも述べたるが如く移民は故初から負債をなすもの多く、而も入柿常初水宰富あつたら、経常に不馴れであ

ったりした得めに凶作となり収支倍はぎる有様であつて、従って負債増加の止むなきに寧り其の箪墜に堪へ得す

排過者が続出しにのである。

3 嬰比重轟に網され集団維螢の賓を凝げ得ぎりしこと

農民は多く保守主義者であり埜蓋鶉着である。之は単に日本農民についでのみ言ひ得る特質ではなく、世界

何れの薗の農民についても言わ得る農民共通の事柄であるC荏し農民は自然を相手とし殆んどすべてが鼠弼企来

者として自家労資に依ってのみ豊栄経営が行はれて釆た多咋の慣行から自然的に輩生し仁特質であらう。然るに

移昆の初期に於ては薬園作嘉をなさねばならぬ事項が甚だ多いにも不拘、前記の如き≒轟を持ってゐる彼等には

改め哲思想を冷て螢陶作美の精帥定ハ存共粂の精神、常人融和の精帥が移民生活に最も必要なる所以を知らし

め、之等の精神を充分加療せしめて置くことが必嬰である。然るに、彼等にはか1る準備教育が施されでゐなか

った革め︼に、依然として保守辛義軍璽芸読者たる農民と山て移住したのであるから、集国粋皆の精華を蓼げ

∵㌣ ることが出兼す、従って移民初期に必要なる建設事菜が固備に進行廿す、引いては各自の経常の峨踏も良好なら

ぎる結果となつでしょつたのである〇

四 東亜勒菜株式合計移民

琴十三巻 審≡㌧畢 ︵こ≡八︶ 四二

(16)

兎亜勧業株式合祀は拍東洲及び備鋳租借地以外の地方に於て農薬控螢・移民の募集・農産物の加工等の啓発を 経営する目的を以て、大正十年十二月に資本金二千簡閲を以て興安南省−通達煤鍔豪店に設立せられたのである が、設立後軌道意の如く進展せす途に昭和四年に一千萬に減資するの止むなきに至った。而して此の合計は満洲 ㌦1 に水聖二千首七十二町歩飴、畑地十二環七千四十六町歩飴、其他十三常七千六百七十川町歩飴等の辟螢をなして ゐるのであるが、満洲国威立以前にありては土地商租樵其他に封する支那官民の喋迫が甚だしかつた焉めに、邦 ふ山 人内地人を移民せしめること困難であつにから、滅入や朝鮮人をして其の山部を耕作せし掛るに過ぎなかった。 それ敵に我が内地人移民事業として考察すれば失敗に経ったと言は甘ければならぬ。 以上を要するに浦洲寄堅剛に於ける我が滴洲農柴移民は何れの機関に依って恕施せられたものも皆小規模であ り且つ成績恩はしからすして観策的見地から考察すれば和んど諭するに足らぬもの計bではあるけれども、歴史 的に見れば興味のあるものであり、之等の移民に封する経験が後に行はれた移民に封して薯霹なる参考資料を興 へにといふ鮎に於て重螢なる意義を持つと忍ふのである。 お 浦洲事欒以後に於ける洒洲農業移民 一天 原 図 移 民 天脛園移民は小坂凡庸氏が東京市深川院に経常せらる∼天照国労働窟牧容閉に多数の失柴者を版容しでゐるか ら、その脚部を満洲濃紫移民としで迭致せんとす牒提唱に依って密行された移民であつて、移任者はその部落を 畏として見なる我が繍洲農薬移民 へこ三九︶ 四≡

(17)

本来は拓渉要覧昭和十鵬年版忙伐る0 詰 本移民は入柾の年昭和八苦は作付簡積仔±十天地に及び高窄大草菜箸克とし小字小攣。ソ蒜も栽 培し、其の鱒麓南開百七十七姦に及び2を慣格に換算して≡千ぬ妄言十四矧飴の所得を牧あ、之に穀巽讐

弟十≡巻 第三祭

︵二四〇︶ 四四

天脾村と蓋したので雪。此の移雷管については束京市及び闘志の援助量けで警。畢謬民に選定

した宥を昭和七空ハ月に関東州の金州馬家屯に創立した訓練所に於て二筆問移民として必要なる特殊の訓練をな

し⋮後、同八年=方に東亜勒柴株式愈敢の所有にか∼る通遼農場内の北餞家店といふ桝に二十八名を移住せし ゅで同赦の小作撃らし買のである9而し→それ以釆昭和十−年痘年†十方名乃至十七名計九十力名を入梅 せしめたが死亡者・退去者等も出で・十=空域産に於て六十四名の残留者がある。北ハの異動は次の如くである。

天照飼移民異動表

昭 和 入 年 年 度 引 ブ 十 年 十一年 異 動 入 相 堵 歎 九 − 七 盟 セ セ 八 退去及死亡者数 ○ 九 規 留 讃 教 /ヽ ‘ ̄ −■ ̄小 ■■‘− −・・ 四 ≡ 五・七 九

(18)

りの牧人を合せて四千四督六千三選の線収入と管、之より農薬癒鹿啓二千六霊十三囲讐差引き、喜八

百九園の利雷撃げることが出来、之よ晶に算費、覇金返済金等を壷引き結局純利飴金百三十四閲詮となら

山人懲り四囲傲を純益として得たことになる。

註 劇天地は我が七反二畝佐官る。

今試みに昭和八年度に於ける作付衝撃収穫高等を琴寄れば次の如くである。

天照園移民穀賛歌穫表

圃籠として見たろ我が藤棚儀典移民 ︵二四膚︶ 四五

(19)

第十二惑 第三戟 次に収支の詳細を示せば次表の如し。

天昭園移民の砲和八年度に於ける収支表

収 入 の 部

農耕資金返済金 経 雑 穀 叡 食 修 小 飼 静 穏 計繕作料啓雷管 計収 稗 箕 収 収 数 資 料 螢 空 費 支 発 出 費 人証入 入 九二ニ・八こ の 部 二ハ三・五五 八九七・六七 七四三・五入 二七〇。0〇 四八・二ニ 家具・光熟二狂 雑 現 金 公 魂 費 固定資本斌年債鍍金 金 一、〇七五●〓○ 二ハ;至大 六〇〇。0〇 四、≡〓八・八四 二、六五三●六四 こ九;六〇 五四・〇六 劇五;〇五 二二㌻00 ≡、四六四・六九 嵐九八●六四 四〇〇・〇〇 四、四六二王二三 ︵単位囲︶ へこ四二︶ 四六

(20)

﹁右に依りて知らる∼が如く、㌻∧苫の純益注凶風穴十叫銭にして極誓小撃はあるけれとも、入植後第毒 に於て純管収め得≡いふことは注目に値する。尤も生計費金額が;年に千七十汽凰二十鎮、山息写にす

れば三十八園川十鏡と管て甚だ僅少であるが、更に食費だけに就て見れば後顧九召士二囲八十二餞、一人常り

農 染 農 染 線 一 人 富 農 家 の 利 農 米 所 待 致 引 生

農耕資金返済金

組 純 利 益

仙 人 嘗 純 利 金 本衰は河田博士 同上啓 二八東1二九貫 註 難聴入は軍除馬櫓及び貨物邁迭にょる牧人なり。 国策とLて見たる我が鴻洲農薬移民 併 組 皆 目一 寿

収 支 差

収 入 数 金 利 益 金 四、四六≡・ニ〓ニ 二、六五三・六四 ﹁入〇九・六九 六四・六三 ︵員数〓入︶ ﹁八〇九・六九 ﹁C七五。二〇 六〇〇、00 〓ニ四。四九 四●八一︵員数こ入︶ ︵二四ここ 四七

(21)

三十二讐十三警官百八餞九誓いふ小額に過ぎぬのであつで、か∼る生活水準の低い生活をなしたわば こそ前述の如き利益を馨げたのであるから、今言に表芸嘉すなれば欠損と富ねば誉ぬ。か∼る低慶

の生誓栗長く輯け得るや否やは疑問である。そは兎も角としで蘭書露民は比較的順調なる牽展をなし、

作付面積も収穫高も共に増加しっ∼ありて漸次弼姦として成功するものとの期待がかけられるに至った。左に

昭和十毒慶に於ける農耕成績々示して本項を閉づることゝする。

天照園移民の昭和十一年に於ける穀簡収穫表

第十三啓 発≡渋 ︵二四四︶ 四八

(22)

二 天理柑移民

此の移民は天理教帝年令が其の信者から優秀なる者を選抜して満洲に移住せしめ1信者を以て健全なる縫村を

建設せんが絡めに行りたものである。岡倉では昭和八年八月ハルビン郊外阿什河々時の城チ屯附近に兼職勃発称

式合歓の所有地約千三百町歩を買入れ、玄に岡倉敵の草によ♭で昭和九年五月から中央部落建設工事を行は←め

其の完了を㌢ちて問丸年十盲に塵高砂犀四十三豪族二百五名を移住せしめたものであるが、それ以釆年々入

絶者温和者ふありて異動はあ・つたけれどもサー年現在に於て六†二戸三再三十名の碑留があつて可成の成績を革

■ げてゐるのである。次に昭和十年に放ける本移民の盛典経螢の成績を元jん。

天理村移児の昭和十年睾於ける営農威儀豪

囲錐として見たる我が輔洲農弗移民 其 陸 高1東 大 小 作 耕∴ 積 面 町 劇〇九●八〇 ・山 ∵九・二〇 七七●凹六 四二・〇八 、一三七・八五 二斎0〇一 四則 鵬〇四〇 ︵こ因五︶ 四九 石 丸血四・六≡四 ÷、こ〇八・五六〇 八八三・〇四四 大劇〇・一六〇 幽七≡ユニ五 こ四則〇八七〇 四、〓ニ二・三九≡

(23)

本来は拓移要璧 昭和十岬年版忙依る

有衷の外忙流失五十五町歩の耕作あり。

天理教野本部では此の移民には大いに力を注ぎ年々膚胡の経費を支出して之が牽展を助成する告ハに、牌釆之

が掘張を腐り土地の買収・倉俺・農合・陳学舎等の建築十餞遣、欒堅朋の建設、新部落の設定等に倒する計在を

梯て着々之が蟹行を進めてゐるとのことであり、しかも宗教心の厚い移民の集合であつて、他の移民と異った目

的ぉも有レてゐるのであるから、将釆獲辰の見込が充分あるも、のと思ほれ一そ

三∵餞路.盛局移

餓路線局移民は以上蓮ペたる緒魔初診寓守其の遜を精兵にしてゐるのであつて、浦洲輯繊路線局が岡城滑組の

治安哲雄持せしめると共に∵霹常関空をなき竜め澄田的を以で・、.蘭鋳の縦糸員を漕繰各地に小部落を迫り繊揖薬

紘に服しながら盛栄経螢脅なきしめ十年後ほぼ弼立自賛せしめ▲んとしたもめセある。依づで批め移民は餓路自瞥

移民とも稗す・ペきでみゃでへ特礫の任紡が嘩ぺちれてゐをめである・ごJの移民は嗜和牛年に奉山線女蒐河、率曹

操口前巣山頭、払北綾瀬化、騎強練車重、四挑銀白城苧の大筋節に六十九戸嵩三十六名を移住せも・めた。而して

毎慕二重に京開銀駿河、義盛線小城二兼濱線淡城讐顔路線山市、洗洲紐安達▲、北架線龍銭、京白組紫崗函七箇

所穏宵三十五戸三百鬼ヰ±名、±年間に合計〓百四声頭首八十八名を入植せしd㌣にの.であつで︰之等め移尿に封

しては毎月手首とし・て次表堅祁すが如き手首を支給する外、〓戸首約十町歩の土地を無償で貸興し、その上家屋

東十三令 弟≡戟 ︵二四六︶ 五〇

(24)

家畜、農具、種子等をも輿へ促籍を加へでゐるのである。 鋳路線塙移民毎月支給草笛

昭和十二年度に於ては更に計鼓を拭大し新しく十倍村を設立し、此所に二百ニ‡戸を造る預先になってゐる。

祖 鏡泊拳固移民

韮に筆者が錬泊園移民と稲するは鏡泊畢園出身者かちなる移民を富ふのである。︰鏡泊拳固は机出悌・剛氏が中心

指導者となり、昭和七年十月書林省寧安願鏡泊湖畔の松乙溝に設定せられた拳固であつて、満洲移民の指導的模

範的人物を養成し、其の卒業者を以て理想的移民村を建設せんとの目的を有してゐるのであるが、共の規模は小

さい。十数名の職員と二百名内外の園生を有するに過ぎぬ。卒発生に封しては軍閥の附展地十町妙乃至二十血歩

図集として見たる我が柘洲農発移民 ︵二四七︶ 玉山

(25)

第十三合 算≡戟 ︵こ四八︶ 五粛一 を永代貸興し農業を経営せしめる方針である。か∼る移民養成礫紺が外地に設けられたることは、我が移民開業 途行上にも有意議である。我が政府に於ても之を助成する必蟄を認め、昭和十年虔に於て一馬囲の補助金を交附 し其の語族を期待してゐたのである。然るに不幸にも山田氏が匪賊の襲撃を受けで教書せられたぎにゆ革園の指 導的中心人物を失ひ、叉尊貴連行上思はぎる焚障を生やるに至り、昭和十年十一月第二回卒発生を渕だして移住 せしめたる後は生徒の募集を中止するの止むなきに至った。残念と冨ふべきである。 以上を聾するに石越べた各軽の移民は、満洲事欒以前のものは勿論、同率欒以後のものと難も何れも其の規模 が小であり、移民の素質も劣り、外部からの後援も少なかったので、移民を必要ならしめた内外に於ける各種の 牡問題を直接解決する程の大なる効果は期待が出来なかつた。従つて開策としての移民間鴎といふ親鮎から考察 すれば重要性も少い鐸である。然るに次に述べんとする拓汚省自衛移民は以上のそれとは諸種の鮎に於て特質を 掩ってゐる。即ち此の移民は我が政府が移民開発の見稚から樹立した浦洲農業移民計憲に基いて遮行されたもの であつて、梶つで其の規隠が大であり、集囲移民の原則により移民の資格を定めて優秀者を選抜し、其の上山定 の訓練を施し、忘蒜補助金庖琴n√鷹巣脛鹿の清武か港間常盤活に登る蜃指導員を況して指導せしめ、移民が 塵めて計宜的、細緻的に行はれたのである。尤も此の移民以外のものにありでも或は篭め若干の訓練の行はれに るものもあり、補助金の交附象れ符るもの.もあり、叉経営方法や農業技術なとの指導が行はれたることもあるけ れど藩、何れも柘務省自衛移民に此すれば不徹底であう、不充分であると富はねばならぬ。経って移民の威粘か

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ら見ても予概し七拓務省白街移民が良好稔るに反し、てそれ以外のものは瓜はし∼エはかった。為れ故に吾人は此の 移民に対しては特に興味ぉ持ち蓋欝性を認めねばならぬと考へるの.であつで、そめ将来に・対しても犬なる期待を 持ってゐる次第であるから、次眈に於て此の問題に放て叙述したいと老へてゐる。 ︵昭和十ニ毒六月二十日稲︶ ︵未琴︶ 屈麓として見たる我が繍洲農蕪移民 へこ拘九︶ 嵐≡

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