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十世紀の画師たち―東アジア絵画史から見た「和様 化」の諸相―

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(1)

十世紀の画師たち―東アジア絵画史から見た「和様 化」の諸相―

著者 増記 隆介

雑誌名 美術研究

号 420

ページ 1‑30

発行年 2016‑12‑19

URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006086/

(2)

十世紀の画師たち 一 十世紀の画師たち

︱ ︱

 

東アジア絵画史から見た「和様化」の諸相

 

︱ ︱

増   記   隆   介

一、本稿の問題意識 二、十世紀までの画師たち 三、十世紀の画師たち 四、呉道子様式からの脱却 五、入宋僧がもたらしたもの

   おわりに

     一、本稿の問題意識

  一つの著名な挿話から始めたい。

  建 長 六 年 ( 一 二 五 四 ) に 成 立 し た、 橘 成 季『 古 今 著 聞 集 』 巻 十 一「 為 成 一

日が中に宇治殿の扉の絵を画く事」には、次のようにある。

  為 成、 一 日 が 中 に、 宇 治 殿 の 扉 の 絵 を 書 た り け る を、 宇 治 ど の ( 筆 者 注=藤原頼通、九九二〜一〇七四) 被

仰けるは、 「弘高は絵様をかきて、

一夜なをよく案じてこそかきたりしか。いかにかく率爾にはかくぞ」と

なん仰せられける。常則が書たる獅子形をみては、犬ほへにらみて、お どろきけるとなん。        ( 『日本古典文学大系』 本)

  これが、現在の平等院鳳凰堂の扉絵に見られる様式上の微妙な差異を意識

することで語られ始めた説話である可能性については、本稿で述べていくこ

ととなるが、ここには、時間をかけて下絵を用意し、慎重に作画にあたった

巨勢弘高 (?〜九九九〜一〇二三〜?) を評価する藤原頼通の絵画観が表明さ

れている。

  これは、わが国独自の絵画観だろうか?   この二者を対比する挿話のもと

と な っ た の は、 晩 唐 の 朱 景 玄『 唐 朝 名 画 録 』 の 以 下 の 記 事 で は な い だ ろ う

)(

( 。

  ( 前 略 ) 又 明 皇 天 宝 中 ( 七 四 二 〜 五 六 ) 、 忽 ち 蜀 道 の 嘉 陵 江 水 を 思 う。

遂に呉生に駅駟を仮して往きて写貌せしめ、回るに及ぶの日、帝その状

を 問 う。 奏 し て 曰 く、 「 臣 に は 粉 本 な し、 並 び に 記 し て 心 に 在 り 」 と。

後に宣して大同殿に於いてこれを図せしむ。嘉陵三百余里の山水、一日

にして畢る。時に李思訓将軍あり、山水に名を擅にす。帝また大同殿に

(3)

美   術   研   究    四   二   〇   号 二

於いて図せと宣す。月を累ねて、方に畢らんとす。明皇云う「李思訓数

月の功、呉道子一日の迹、皆な其の妙を極めり」と。 (『画品叢書』本、読み下しは筆者、以下同じ)

 

  玄 宗 皇 帝 ( 六 八 五 〜 七 六 二 ) が 蜀・ 嘉 陵 江 の 光 景 を 呉 道 子 に 描 か せ よ う と

したところ、呉道子は、実景を確認するため馬を馳せた。帰るに及び、皇帝

がその様子を粉本で示すように命じたところ、呉道子は「わたしの粉本は心

の中にあります」と答え、一日にして胸中にある三百余里の山水を大画面に 描き出した。同じ頃、 李思訓は、 数ヶ月かけて同じく大同殿に壁画を描いた。

玄 宗 皇 帝 は、 「 李 思 訓 が 数 ヶ 月 か け て 描 い た も の も、 呉 道 子 が 一 日 で 描 い た

ものも、ともに絵画の妙を極めたものだ」と高く評価したというのである。

  余談にわたるが、 この画家自らが実景を確認したという伝説は、 『明月記』

承 元 元 年 ( 一 二 〇 七 ) 五 月 十 六 日 条 の「 兼 康 来 た り て 云 ふ、 名 所 の 事、 伝 々

の説を以て書き出だし難し、 明石、 すま、 幾ばくの路に非ざれば、 罷り向ひ、

各 々 其 の 所 を 見、 絵 様 を 書 き 進 め む ( 後 略 ) 」 と い う、 わ が 国 後 鳥 羽 院 に よ

る最勝四天王院障子絵制作の折の兼康による須磨・明石の実景確認という行

為をも遠く規定していると思われる。ただし、兼康はしっかりと「絵様を書

き進」めようとしているが。

  呉道子の素早く躍動する線描で描かれた山水と、李思訓の濃彩による細密

な山水とが一つの建物の中に対比的に展開する様は、まさに絵画の妙を極め

た も の で あ っ た だ ろ う。 た だ し、 史 的 な 事 実 と し て は、 開 元 六 年 ( 七 一 八 )

に 卒 し た と さ れ

)(

( (『 旧 唐 書 』 巻 六 〇 ) 、 初 唐 に 活 躍 し た 李 思 訓 と 盛 唐 の 呉 道 子

が天宝中に同時に彩管を揮ったとするのは難しい。そして、およそ、三百年

後のわが国においては、呉道子に連なる素早く描く画風は、高く評価されな

かった。そこには十世紀末における巨勢弘高という優れた画家の登場が、わ

が国の絵画評価のありようを変容させたということがあるようだ。

  ま た、 『 古 今 著 聞 集 』 の 最 後 に 唐 突 に 常 則 の 獅 子 の 話 が 出 て く る が、 こ れ

は、まるで生きているように描いたという点で呉道子に連なる。後述するよ

うに、たとえば呉道子が描いた菩薩は目を転じて人を見ると言われ

)(

( 、驢馬は

垣根を踏み破り、また龍は、その鱗が震え動いたという

)(

( 。そして『唐朝名画

録』の対比を敷衍するならば、弘高の絵は、李思訓の様式に連なるものであ

挿図 ( (伝)展士虔筆 遊春図巻 北京・故宮博物院

(4)

十世紀の画師たち 三 ったと言えるだろう。   その李思訓を含む、七世紀後半から八世紀初めの初唐の山水画様式を伝え る作例としては、元・湯 垕 『画鑑』が「展子虔の山水を画くの法は、唐の李

将 軍 父 子、 多 く 之 を 宗 と す 」 (『 画 品 叢 書 』 本 ) と す る よ う に、 隋 の 展 子 虔 筆

の 伝 承 を 有 す る「 遊 春 図 巻 」 ( 北 京・ 故 宮 博 物 院、 挿 図

() が あ り、 そ の 一 部

を 拡 大 し た ( 伝 ) 李 思 訓「 江 帆 楼 閣 図 」 ( 台 北・ 国 立 故 宮 博 物 院、 挿 図

() が

ある

)(

( 。前者を見ると、横長の画面を大きく斜行する川を挟んで、近景と遠景

が展開する。遠景には高山が配されるが全体に地平線を画面の最上方に設定

した平遠な景色が展開する。

  弘高はこのような山水図を描いたのだろうか?

  こ こ で、 も う 一 つ の 史 料 を あ げ て お き た い。 北 宋・ 米 芾 ( 一 〇 五 一 〜 一 一

〇七) の『画史』には、

馮永功、字は世勣、日本著色山水あり、南唐また命じて李思訓となす。 (『画品叢書』本)

とあり、十一世紀末頃の宋の地に日本の着色山水図があり、これは、十世紀

半 ば の 南 唐 ( 九 三 七 〜 九 七 五 ) の 時 代 に は、 李 思 訓 の 作 品 と 見 な さ れ て い た

というのである。

  このことは、いま述べた、弘高の作品が李思訓に連なるという想定をある

程度補完するものと言える。

  『宋史』日本国条によれば、

入宋僧 ・ 奝然の弟子 ・ 嘉因が端拱元年 (九八八)

に再度入宋した際に「倭画屛風一双」を太宗に献上しており、わが国の着色

の 大 画 面 山 水 図 は 確 実 に 宋 に も た ら さ れ て い た。 こ の こ と は、 『 宣 和 画 譜 』

巻十二「日本国」に「その国の風物、山水小景を写す、設色はなはだ重く、

多く金碧を用いる。その真を考えるに、未だ必ずしもこれあらず。ただ、彩

絵の燦然たるを欲するのみ」 (『画史叢書』 本) と記述され 「海山風景図   一」

および「風俗図   二」が著録されることとの関連を想起させる。

  さ て、 南 唐 は 十 世 紀 の 後 半 に 金 陵 ( 現 在 の 南 京 ) に 都 を 置 き、 現 在 の 江 蘇

省 に 所 在 し た 国 で あ り、 『 画 史 』 の 記 述 か ら は 嘉 因 に よ る 献 上 に 先 行 し て、

遅くとも十世紀半ばには、長江を遡り、わが国の着色山水図が彼の地に流入

し、 それは、 初唐の李思訓を想起させる作風を示していたということになる。

一 方、 同 時 期 に 南 唐 の 中 主・ 李 璟 ( 在 位 九 四 三 〜 九 六 一 ) に 仕 え た 董 源 の 着

色山水図は『図画見聞誌』巻三董源の項に、

  董源、字は叔達、鍾陵の人、南唐に事え、後苑副使たり、善く山水を

画く。水墨は王維に類し、着色は李思訓の如し、兼ねて工みに牛虎を画

く ( 後 略 )                                           

  ( 『 画 史 叢 書 』本 )

挿図 ( 江帆楼観図 台北・国立故宮博物院

(5)

美   術   研   究    四   二   〇   号 四

とあり「着色は李思訓の如し」と評価された。この二者に共通の様式を想定

することは可能だろうか。

  そ の 董 源 の 最 も 優 れ た 伝 承 作 品 で あ る「 寒 林 重 汀 図

)(

( 」 ( 黒 川 古 文 化 研 究 所、

挿 図

() は、 上 方 へ と 水 面 と 汀 を く り 返 し、 そ の 中 に 寒 林 の あ る 丘 陵 が 点 在

す る。 そ の 構 成 は、 た と え ば、 十 二 世 紀 半 ば の「 源 氏 物 語 絵 巻 」 東 屋 一 ( 徳

川美術館、 挿図

() の画中の障子に着色で描かれた水辺の風景に近い。 そして、

それは、山岳や丘陵、人物の大きさを殆ど変化させず、群青による彩色を遠

景にのみ用いることと樹木の高さの変化のみによって水と丘陵の広がる平遠

の 景 色 を 表 現 す る 十 二 世 紀 末 の「 山 水 屛 風

)(

( 」 ( 神 護 寺、 挿 図

() へ と 連 な る。

細部に着目すれば、 水辺の丘陵の片側の斜面にのみくり返し叢林を配する 「寒

林 重 汀 図 」 ( 挿 図

() と 同 様 の 構 成 が「 東 屋 一 」 の 障 子 絵 ( 挿 図

() に も 共 有

されていることが認められる。さらに近景の汀に葦を描くことも両者に共通

す る 重 要 な モ テ ィ ー フ で あ る

)(

( 。 ま た、 「 寒 林 重 汀 図 」 の 画 面 の ほ ぼ 中 央 に あ

らわされた片側を水、もう一方を林のある小山で囲まれた建物が見え隠れす る 様 ( 挿 図

() は、 「 山 水 屛 風 」 第 四 扇 手 前 に 描 か れ た 同 じ く 水 と 小 山 で 囲

ま れ た 山 陰 の 住 ま い ( 挿 図

9) を 想 起 さ せ、 前 者 を 反 転 す る こ と に よ っ て こ

の二者の主要なモティーフと配置とが、おどろくほど一致することに気づか

なくてはならない。

  ここに、わが国におけるやまと絵の成立と五代の中国江南における着色山

水図の展開との関係を考え得る余地を措定できるだろう。

  そ し て、 こ の こ と は、 「 源 氏 物 語 絵 巻 」 の 画 中 画 が、 こ の 絵 巻 が 制 作 さ れ

た十二世紀半ばではなく、 後述するように 『源氏物語』 の中で高く評価され、

挿図 ( (伝)董源筆 寒林重汀図 黒川古文化研究 所

挿図 ( 源氏物語絵巻 東屋一 徳川美術館 

Ⓒ徳川美術館イメージアーカイブ /DNPartcom

(6)

十世紀の画師たち 五

挿図 ( 山水屛風 神護寺

挿図 ( 寒林重汀図(部分)

挿図 ( 寒林重汀図(部分) 反転画像 挿図 ( 源氏物語絵巻 東屋一(部分) 徳川美術館

Ⓒ徳川美術館イメージアーカイブ /DNPartcom

挿図 9 山水屛風(部分)

(7)

美   術   研   究    四   二   〇   号 六

十世紀における絵画様式の変容を決定づけた飛鳥部常則や物語の舞台となっ

た一条朝に活躍した巨勢弘高の画風を意識したものである可能性をも示すの

ではないだろうか。

  本稿は、南唐にわが国の着色山水図が流入したであろう十世紀における日

本 絵 画 の 様 式 展 開 を 当 該 期 の 画 師 を め ぐ る 史 料 を 用 い て 概 観 す る も の で あ

る。

  九世紀後半から十世紀は、日本絵画が唐の様式から徐々に離れ、独自の様

式を得る、従来「和様化」と呼ばれている現象が起こった日本絵画史上重要

な 時 代 で あ る が

)9

( 、 天 暦 五 年 ( 九 五 一 ) の 醍 醐 寺 五 重 塔 初 層 壁 画 以 外 に 制 作 時

期の明らかな作例はない。よって、十世紀前後の絵画作例および当該期の史

料を用いてその様相を描き出す必要があるが、本稿では特に画師をめぐる史

料に注目した い

)((

( 。

  つまり、画師に対する評価の変遷を辿ることによって、その間の様式の変

化を復元しようとする試みである。その際に、画師に対する評価をわが国独

自のものと見る見方を一度放棄したいと思う。なぜなら、すでに見たように

当該期の中国においては、画史、画論といった絵画や画師をめぐる様々な批

評が成立しており、そのような書物に見られる絵画や画師に対する評価のあ

り方が、わが国の絵画や画師の評価にも色濃く反映されていると見なされる

からである。また、具体的な作品のレベルにおいても当該期の日中双方の山

水画に様式の近似を認め得る可能性があることはこれまでに述べた通りであ

る。

  つまり、本稿は、第一に画師の評価の変遷を同時期の中国における画師の

評価の変化と対応するものとして捉える。そして、第二にそのような変化を 生み出した具体的な作品レベルでの原因の一つを中国から渡来した文物に求 めてみたい。モノだけがわが国にもたらされたのではなく、モノをめぐる画 師 の イ メ ー ジ や 評 価 基 準 も 同 時 に も た ら さ れ た と 考 え た い と い う こ と で あ

る。

     二、十世紀までの画師たち

  ここでは、わが国十世紀の画師を考える前提として、十世紀以前の二人の

著名な画師とその評価について、簡単に触れておきたい。二人とは九世紀前

半 か ら 末 に 活 躍 し た 百 済 河 成 ( 七 八 二 〜 八 五 三 ) と 巨 勢 金 岡 (?〜 八 六 八 〜 八

九五〜?) である。

  まず、 百済河成は、 『文徳実録』仁寿三年 (八五三) 八月壬午条の卒伝に、

  散位従五位下百済朝臣河成卒す、 (中略) 武猛に長じ、 能く強弓を引く、

大同三年(八〇八)左近衛となる。図画を善くするをもって、しばしば

召見せらる。写すところの古人の真、及び山水草木等、みな自ずから生

けるがごとし、昔宮中にありて、或人に従者を呼ばしむ。或人、未だ顔

容を見ざるに拠って辞す、 河成すなわち一紙を取りて、 その形体を図す、

或人、 遂に験を得る (後略)         (『国史大系』 本)

  とあり、本来は左近衛に所属する武官であったこと、その描く肖像、山水、

草木が「自ずから生けるがごとし」と評価されるものであり、特に写貌に長

じたことが語られる。

  そ の よ う な 生 け る が ご と き 写 実 性 は、 『 今 昔 物 語 集 』 巻 二 十 四「 百 済 川 成

飛騨工挑語」 に「大キナム人ノ黒ミ脹死タル臥セリ、 臭キ事鼻ニ入様也 (中略)

(8)

十世紀の画師たち 七 恐々ヅ寄テ見レバ、 障紙ノ有ルニ、 早ウ、 其死人ノ形ヲ書タル也ケリ (後略) 」 (『 日 本 古 典 文 学 大 系 』 本 ) と 記 さ れ た、 飛 驒 の 匠 を 驚 か せ た 迫 真 的 な 死 体 の

描写にもあらわれている。

  次に巨勢金岡については、まずその地位が注目される。菅原道真『菅家文

草 』 巻 一 に は、 「 巨 先 生 に 乞 う 画 図 に 寄 す 」 と 題 す る 詩 が 収 載 さ れ る が、 題

には「時に先生、神泉苑監たり、たまたま遊覧を許さるによりて、これを乞

い て 献 ず 」 (『 日 本 古 典 文 学 大 系 』 本 ) と あ り、 金 岡 が 神 泉 苑 監、 つ ま り 天 皇

の庭園を管理する職にあったことが知られる。これは偶然であろうが南唐の

董源のことを想起させる。先にも触れた『図画見聞誌』巻三董源の項によれ

ば、 「 董 源、 字 は 叔 達、 鍾 陵 の 人、 南 唐 に 仕 え、 後 苑 副 使 た り 」 と あ り、 同

じく庭園を管理する「後苑副使」の職を奉じていたからであ る

)((

( 。

  さ て、 金 岡 は、 『 江 次 第 抄 』 第 五 に よ れ ば、 元 慶 四 年 ( 八 八 〇 ) 大 学 寮 の

先 聖 先 師 像 を 唐 本 に よ っ て 描 い て い る が、 こ れ は 天 平 七 年 ( 七 三 五 ) も し く

は、 天 平 勝 宝 六 年 ( 七 五 四 ) に 唐 よ り 帰 国 し た 吉 備 真 備 が 請 来 し た 画 像 に 基

づくとさ れ

)((

( 、このことは、金岡が呉道子をも含む盛唐の人物画の様式を習得

し た こ と を 物 語 る。 宮 島 新 一 氏 は、 安 田 靫 彦 旧 蔵「 孔 子 像 」 ( 重 要 文 化 財、 東

京 国 立 博 物 館 ) に そ の 画 風 の 一 端 を 探 ろ う と 試 み ら れ て い る

)((

( 。 そ の 他 の 画 業

と し て は、 『 菅 家 文 草 』 巻 二 に、 仁 和 元 年 ( 八 八 五 ) 藤 原 基 経 五 十 賀 屛 風 を

描いたとさ れ

)((

( 、また『日本紀略』によれば、仁和四年九月勅により御所南廂

の 東 西 障 子 に 弘 仁 以 降 の 鴻 儒 像 を 描 い た こ と が 知 ら れ る

)((

( 。 さ ら に『 菅 家 文

草 』 巻 五 に よ り、 寛 平 七 年 ( 八 九 五 ) 源 能 有 五 十 賀 屛 風 を 描 い た こ と 等 が わ

か る

)((

( 。

  さ て、 そ の 画 風 に つ い て は、 『 古 今 著 聞 集 』 巻 十 一「 仁 和 寺 御 室 に 金 岡 が

画ける馬近辺の田を食ふこと」に、   仁和寺御室といふは、寛平法皇の御在所なり。其御所に、金岡筆をふ るひて絵かける中に、ことに勝たる馬形なん侍なる。其馬、夜ゝはなれ て近辺の田を食ひけり。なにものゝすると、しれるものなくて過侍ける 程に、件の馬の足に土つきて、ぬれ〳〵とある事たび〳〵におよびける 時、人々あやしみて、この馬のしわざにやとて、壁にかきたるに馬の目 をほりくじりてけり。それより眼なくなりて、田食事とゝまりにけり。

という仁和寺御室に画いた馬が夜な夜な絵から抜け出す話が収載されるが、

これは、河成と同様にその生けるがごとき躍動感のある画風を示唆する。こ

の 挿 話 は、 『 宣 和 画 譜 』 巻 二 呉 道 玄 の 項 に 記 さ れ た「 ( 前 略 ) 道 子、 驢 を 僧 房

に画くに、一夕、籍を踏み破り 迸

はし

る声を聞く」を彷彿させるものである。

  と こ ろ で、 本 稿 の 論 旨 か ら は 外 れ る が、 周 煇 ( 一 一 二 七 〜?) 『 清 波 雑 志 』

巻五には「江南の徐諤、画牛を得る。昼は欄外に噛草し、夜は則ち帰りて欄

中に臥す。持ちて以て後主煜に献じ、煜は闕下に貢ず。太宗、群臣に示すに

俱 に知る者なし。惟だ僧賛寧曰く「南倭の海水或るとき減ずれば則ち灘磧に

微露あり。倭人方に諸蚌を拾う。腊中に餘泪数滴あり、之を得て色に和して

著す物、則ち昼隠れ夜顕わる。沃焦山、時に或風に撓み飄に撃たる。忽ちに

石の海岸に落つるあり、これを得て滴水し色を磨き染める物、則ち昼顕れ、

夜 は 晦 し 」 と 」 (『 唐 宋 史 料 筆 記 叢 刊 』 本 ) と あ る。 な お『 宋 人 軼 事 彙 編 』 巻

二一にはこれに続いて「諸臣皆、以て無稽となす。寧曰く「張騫海外異物記

に見ゆ」と。杜鎬、 三館の書目を検するに果して六朝旧本に之を載せる」 (中

華書局本) という記述がある。

  全体としては希覚賛寧 (九一九〜一〇〇二) の博識を宣揚する内容であり、

わが国十二世紀半ばの後白河法皇の近臣・信西の博識ぶりを想起させるが、

(9)

美   術   研   究    四   二   〇   号 八

こ こ に は、 「 諸 蚌 」 を 干 し た も の の 抽 出 物 を 絵 の 具 に 混 ぜ る こ と に よ っ て、

昼間見えずに夜は見えるという蛍光塗料のような顔料ができるという。それ

が「倭人」がなすことであるのも興味深い。また、沃焦山から海に落ちた石

を使って磨いた顔料で染めた物は、昼見えて夜は見えなくなるという。画家

の筆力によって表出されたと見なされてきた絵画の生命感を画材によって説

明しようとする絵画観は興味深い。

  さ て、 十 一 世 紀 の 藤 原 明 衡 ( 九 八 九 〜 一 〇 六 六 ) 『 新 猿 楽 記 』 に は、 「 六 郎

冠者は、絵師の長者なり。墨絵、彩色、淡作絵、丹調、山水、野水、屋形、

木額、海部、立石、屛風、障子、軟障、扇絵等の上手なり。手早く筆軽く、 ま こ と に 天 の 与 ふ る 業 な り。 若 は 金 岡、 弘 高 が 再 び 生 ま れ 来 れ る か 」 (『 東 洋

文 庫 』 本 ) と あ り、 金 岡 の 画 風 が「 手 早 く 筆 軽 く 」 と い う も の で あ り、 や は

り、盛唐の呉道子風を体現したものと見なされていたことが推察される。た

だし、ここに弘高が同様に評されていることには留保が必要であろう。この

ことは、画風の実態を離れても画聖・呉道子という枠組みで高い評価を与え

るという絵画観が一方で強固であったことを物語るのであろう。

  ま た、 金 岡 の 山 水 に つ い て は、 一 条 兼 良 ( 一 四 〇 二 〜 八 一 ) 『 花 鳥 余 情 』 所

引の 『雅兼卿記』 に天永元年 (一一一〇) の大江匡房の 「金岡は畳山十五重、

広高五重也。今案、 墨の濃淡をもて遠山の山をあらはす也」 (『国文註釈全書』

本 ) と の 著 名 な 評 言 が 記 録 さ れ て お り、 峨 峨 た る 山 水 の 景 を 山 容 を 上 に 積 み

上げるような描き方であらわしていたことが想像される。それは、先の董源

の着色山水図とはその様相を大きく異にするものであり、 それは、 たとえば、

ボ ス ト ン 美 術 館「 法 華 堂 根 本 曼 陀 羅 」 ( 挿 図

(0) や 正 倉 院「 騎 象 奏 楽 図 」 ( 挿

(() 、「 明 皇 幸 蜀 図 」 ( 台 北・ 国 立 故 宮 博 物 院、 挿 図

(() 等 の 盛 唐 期 の 山 水 画

を学んだものであったろう。また、中央に河水を挟み、彼此両岸をあらわす

「一水両岸」の構成を基本とするこれらの山水表現から想起されるのは、延

挿図 (0 法華堂根本曼陀羅 ボストン美術館

挿図 (( 騎象奏楽図 正倉院

(10)

十世紀の画師たち 九 久元年 (一〇六九) 秦致貞による法隆寺旧蔵 「聖徳太子絵伝」 (東京国立博物館)

の 第 十 面 の 中 国 衡 山 を 描 い た 場 面 で あ り、 ま た 応 徳 三 年 ( 一 〇 八 六 ) の 高 野

山 金 剛 峰 寺「 仏 涅 槃 図 ( 応 徳 涅 槃 図 ) 」 ( 挿 図

(() の 山 水 表 現 で あ ろ う。 こ こ

では特に「応徳涅槃図」を取り上げたい。

  「 応 徳 涅 槃 図 」 の 画 面 上 方 に 展 開 す る 山 水 の 構 成 に 注 目 す る と、 左 手 に 霞

を隔てた高い山の頂があらわされ、そこから右へと視線を移動させると、流

れの激しい川が広がり、中央奥には低い向こう岸が、さらに右手にはつがい

の鹿のような獣のいる花木の茂る岸が広がる。このように左手に高山、そこ から右へと低い水流を展開する構成は、敦煌莫高窟第一七二窟の文殊渡海図 の 背 後 に 広 が る 山 水 ( 挿 図

(() や「 騎 象 奏 楽 図 」 の そ れ を 想 起 さ せ る も の で

あり、盛唐山水画の様式を確実に踏まえている。

  また、釈迦の枕辺に集まり、穏やかな表情を見せる菩薩衆とそれ以外の激

しい悲嘆にくれる仏弟子衆を対比的にあらわす図像については、北宋の邵博

『 邵 氏 聞 見 後 録 』 巻 第 二 十 八 の 鳳 翔 府 開 元 寺 の 開 元 三 十 年 ( 七 四 二 ) の 識 語

を有する、呉道子の釈迦八相図の記載が参考となる。

挿図 (( 明皇幸蜀図 台北・国立故宮博物院

挿図 (( 仏涅槃図(部分) 高野山金剛峰寺

挿図 (( 敦煌莫高窟第 ((( 窟 文珠渡海図(部分)

(11)

美   術   研   究    四   二   〇   号 一〇   鳳翔府開元寺大殿の九間の後壁に呉道玄、仏の始生、修行、説法より

滅度に至るを画く。山林、宮室、人物、禽獣は数千万種、古今天下之妙

を極む。仏滅度の如きは、 比丘衆 躃 踊哭泣し、 皆、 自勝せざるがごとし。

飛 鳥 走 獣 之 属 も ま た 号 頓 之 状 を な す。 独 り 菩 薩 淡 然 と し て 旁 ら に あ り

て、平時の如くほぼ哀戚之容なし。あに以てその能く   死生の致すを尽

くさざらんや。 曰く画聖もむべなるかな。 その識に開元三十年と云う (後

略)         (『全宋筆記』 本)

  呉道子の万能性を誇示するように、山林、宮室、人物、禽獣のすべてを巧

みに描き出すことが記されているが、さらにその端然とした菩薩の図像は、

「応徳涅槃図」と共通し、如来の常住を説く『大般涅槃経』の深い理解に支

えられていることをも指摘する。よって、 「応徳涅槃図」の図像については、

盛唐期の記憶を深く宿したものと言える。その記憶は山水表現にも色濃く残

されているであろう。そうであれば、逆に「応徳涅槃図」の山水表現に呉道

子 の そ れ を 認 め る こ と が 可 能 で あ り、 呉 道 子 の 山 水 表 現 が、 「 法 華 堂 根 本 曼

陀羅」や「騎象奏楽図」のそれに近いものであったこととなる。

  以上で見たように、九世紀の二人の画家の画風は、八世紀半ば、盛唐の呉

道子のそれに比しながら高く評価されるものであった。

      三、十世紀の画師たち

  さて、この二人の画師に続いて、九世紀から十世紀の移行期に活躍した画

師として、巨勢相覧があり、金岡の子の世代にあたる。また、その子供に、

公 忠、 公 茂 (〜 九 五 四 〜 九 七 〇 〜) の 兄 弟、 孫 に 深 江、 ひ 孫 に 弘 高 (〜 九 九 九

〜 一 〇 二 三 〜) が あ り、 そ れ ぞ れ 十 世 紀 半 ば、 十 世 紀 後 半、 十 世 紀 か ら 十 一 世 紀 の 交 に 活 躍 し て い る。 そ し て、 公 忠 と 公 茂 の 同 世 代 に 飛 鳥 部 常 則 (〜 九

五四〜九七二〜) がいる。

  まず、 巨勢相覧の活動時期については、 昌泰三年 (九〇〇) 『大間成文抄』

第 四 に「 昌 泰 三 年   讃 岐 少 目 従 八 位 下 巨 勢 相 覧   画 師 」 (『 史 籍 集 覧 』 本 ) と

の記録がある。 その画風については、 『源氏物語』 (寛弘五年=一〇〇八以前) 「絵

合 」 に「 ( 竹 取 の ) 絵 は 巨 勢 の 相 覧、 手 は 紀 貫 之 (〜 九 四 五?) 書 け り。 か む

屋紙に唐の綺を陪して、赤紫の表紙 ・ 紫檀の軸、世の常のよそおひなり。 (中

略 )( 宇 津 保 の ) 白 き 色 紙、 青 き 表 紙、 黄 な る 玉 の 軸 な り。 絵 は 常 則、 手 は 道

風 (八九四〜九六七) なれば、 今めかしう、 をかしげに、 目も輝くまでみゆ」 (『日本古典文学大系』本) とあり、 飛鳥部常則の「今めかしう、 をかしげに、

目も輝くまでみゆ」という画風と対比的に「世の常のよそおひ」であると評

価され、ひと時代古い様式であると見なされているが、具体的なありようは

明らかにし得ない。

  こ れ に 次 ぐ 世 代 の 巨 勢 公 忠 に つ い て は、 ま ず、 『 日 本 紀 略 』 後 篇 三 に 天 暦

三 年 ( 九 四 九 ) 十 二 月 坤 元 録 を 詠 じ た 詩 に あ わ せ、 采 女 正 巨 勢 公 忠 に、 屛 風

八帖を描かせてい る

)((

( 。『江談抄』 巻四によれば、 この屛風の書は 「今めかしい」

と さ れ た 小 野 道 風 で あ り、 「 並 び に 当 時 の 秀 才 也 」 と さ れ、 評 価 の 高 か っ た

こ と が 知 ら れ る

)((

( 。 ま た、 『 古 今 著 聞 集 』 巻 十 一「 巨 勢 公 忠 自 画 の 屛 風 に 必 ず

署名せし事」によれば、屛風の隅に署名をしたことが知られ る

)((

( 。

  そ の 公 忠 の 弟 と 見 な さ れ る 巨 勢 公 茂 ( 望 ) に つ い て は、 同 じ く、 『 古 今 著

聞集』巻十一「常則公望大上手小上手の事」に次のようにある。

  小野宮のおとゝ(藤原実頼、 九〇〇〜七〇) 、 ついたち障子に松をかゝ

せんとて、常則をめしければ、他行したりけり。さらばとて、公望をめ

(12)

十世紀の画師たち 一一 し て か ゝ せ ら れ に け り。 後 に 常 則 を め し て み せ ら れ け れ ば、 「 か し ら 毛

芋に似たり。他所難なし」とぞ申ける。常則をば大上手、公望をば小上

手とぞ世には称しける。

  公望が描いた松を常則が「かしら毛芋に似たり、他所難なし」と評したこ

とが記され、またこれをうけて「常則をば大上手、公望をば小上手とぞ」世

に称したとされる。このことから、この二者が同時代に競うように活躍して

いたことがわかる。

  ところで、この「毛芋」に似た松について、宮島新一氏は東京国立博物館

「 十 六 羅 漢 図 」 の 第 四 尊 者 や 第 十 一 尊 者 の 松 ( 挿 図

(() に 見 ら れ る 墨 線 で 松

葉を強調した表現に近いものであった可能性を指摘されている

)((

( 。後述するよ

う に 本 図 に つ い て は、 永 観 元 年 ( 九 八 三 ) に 入 宋 し た 奝 然 請 来 の 十 六 羅 漢 図

に基づく画像と見るのが妥当であり、そうであれば、北宋初期における羅漢

図の一様相を伝えるものとなる。宮島氏は、この新奇さが常則から批判され た要因であり、巨勢派の新たに請来された宋画に対する貪欲な姿勢のあらわ れであるとされる。技法的に見れば、この松は白録の裏彩色を主体とし、表 面からは粗い緑青を薄く刷いて松葉をあらわす墨線を彩色で覆わないように 描 か れ て い る。 「 つ い た ち 障 子 」 も 絹 本 で あ っ た 可 能 性 が 高 く、 裏 彩 色 の 技

法 が 用 い ら れ て い た こ と も 考 慮 す べ き で あ ろ う。 た だ し、 「 毛 芋 」 と い う 批

評からは、その松葉の線描が「十六羅漢図」のそれよりもさらに繊細な、か

細いものであったと推察した方が良いだろう。

  宮島氏の指摘を認めれば、 『古今著聞集』 の著名な 「此弘高は、 金岡が曾孫、

公 茂 が 孫、 深 江 が 子 な り。 公 忠 〈 公 茂 兄 〉 よ り さ き は、 か き た る 絵、 生 た る

物のごとし、 公茂以下、 今の体には成たるとなん。 (後略) 」という評言の「生

きたる物のごとし」という評価が前代以来の呉道子に連なるものであり、一

方「今の体」の成立には、宋代絵画が関与していたということになる。ただ

し、冒頭に述べたように、この間の変化には、盛唐の呉道子の様式から初唐

の李思訓様式への回帰という現象も想定されるのであり、そうであれば、当

該期の五代から北宋絵画における唐画受容の様相をもあわせて検討しなけれ

ばならないだろう。

  そこで注目すべきは、 (伝) 李思訓 「江帆楼閣図」 の松の表現に 「十六羅漢図」

と共通しつつより繊細な松葉の表現が認められることではないだろうか。ま

た、 「 十 六 羅 漢 図 」 第 十 五 尊 者 幅 に あ ら わ さ れ た 山 中 の 景 は、 左 側 に 懸 崖、

右側に三段に落ちる滝を描くが、これに近い構成が平等院鳳凰堂壁扉画のう

ち 東 側 扉「 上 品 下 生 図 」 左 扉 上 方 に 認 め ら れ る。 「 十 六 羅 漢 図 」 の 水 波 表 現

が平等院鳳凰堂壁扉画と共通することが高崎富士彦氏によりつとに指摘され

ているが

)((

( 、後述するように「十六羅漢図」の原本と目される奝然請来本が藤

原道長周辺に伝来していたことを想起すれば、このような新たにもたらされ

挿図 (( 十六羅漢図のうち第十一尊者幅(部分) 

東京国立博物館

(13)

美   術   研   究    四   二   〇   号 一二

た山水表現が鳳凰堂の絵画に取り入れられていても決して不思議なことでは

ない。

  そ し て、 「 十 六 羅 漢 図 」 第 一 尊 者 幅 の 背 景 に は、 山 水 屛 風 が 四 扇 分 あ ら わ

さ れ て い る ( 挿 図

(() 。 図 様 が 明 ら か な 右 二 扇 分 を 見 る と、 山 頂 が 少 し 角 張

った峰が右から左へと連なりながら高まる。ただし、その連なりは、二三重

に重ねた程度のなだらかなものである。また山の手前には、白い水面もしく

は雲が広がり、その手前の岸には松と見られる木を含む樹木が数本あらわさ

れる。宮島氏は、 この山容に北宋 ・ 燕文貴の山水図の受容を、 手前の松には、

李成へのつながりを指摘される

)((

( 。卓見であるが、 全体の構図、 山容の構成は、 こ れ ま で に も 何 度 か 触 れ て き た ( 伝 ) 展 子 虔「 遊 春 図 巻 」 の そ れ に 思 い の ほ

か酷似する。幾分角張った山容が峰を連ねるのは 「遊春図巻」 とは異なるが、

そ の 形 態 は、 北 宋・ 開 宝 二 年 ( 九 六 九 ) 呉 越 国 王・ 銭 弘 俶 に よ っ て 奉 先 寺 に

建 立 さ れ、 景 祐 二 年 ( 一 〇 三 五 ) に 霊 隠 寺 に 移 座 さ れ た 東 西 経 幢

)((

( ( 霊 隠 寺 門

前 に 現 存 ) や 杭 州・ 白 塔 ( 杭 州 白 塔 公 園、 挿 図

(() 等 の 基 台 部 側 面 に あ ら わ さ

れた山岳文等、呉越国周辺における石造文物の山岳表現に近似している。ま

た、輪郭線の内側を白く線状に残して内側に淡墨を面的に施すが、白線状の

塗 り 残 し は 後 に 触 れ る 荊 浩「 匡 盧 図 」 ( 台 北・ 国 立 故 宮 博 物 院 ) に 見 ら れ る も

のであり興味深い。

  さて、この時代に最も評価された画師は、この「大上手」飛鳥部常則であ

っ た よ う だ。 常 則 に つ い て は、 ま ず、 天 暦 八 年 ( 九 五 四 ) 十 二 月、 村 上 天 皇

宸筆の金字法華経ほかの表紙絵を描いた画師として記録にあらわれる

)((

( 。そし

て、 藤 原 行 成『 権 記 』 長 保 元 年 ( 九 九 九 ) 十 月 三 十 日 条 に「 倭 絵 四 尺 屛 風 の

色紙形を書く (故常則絵、 歌は当時左丞相以下、 これを詠む) 」 (『史料大成』本)

とあることからこの年までには没していたようである。

  そ の 画 風 に つ い て は、 先 に 引 い た『 源 氏 物 語 』「 絵 合 」 に「 白 き 色 紙、 青

き表紙、黄なる玉の軸なり。絵は常則、手は道風なれば、今めかしう、をか

しげに、 目も輝くまでみゆ」 と最新の様式を示す画風として評価されている。

史実としては、 藤原実資 『小右記』 長和二年 (一〇一三) 三月三十日条に 「冷

泉 院、 神 泉 苑 絵 図 ( 故 常 則 画 ) 」 を 道 長 が「 は な は だ 優 美 の も の 」 と 高 く 評

価していることが記録される

)((

( 。つまり、道長の目に馴染んだ都の光景を常則

が描いた図は、優美なものと見なされた。道長の優美という評価は、彼の脳

裏 に、 『 菅 家 文 草 』 に 記 録 さ れ た 同 じ く 神 泉 苑 を 描 い た 金 岡 の 屛 風 の イ メ ー

ジがあり、そこからの様式の変化を見据えた上でのものであったのではない

挿図 (( 十六羅漢図のうち第一尊者幅(部分) 東京国立博物館

挿図 (( 白塔基台部山岳文 杭州白塔公園

(14)

十世紀の画師たち 一三 だろうか。   し か し、 そ の 十 年 後、 『 栄 花 物 語 』 巻 二 十 御 賀 の 治 安 三 年 ( 一 〇 二 三 ) 十

月 の 記 述 に は、 「 為 氏、 つ ね の り な ど が 書 き た ら ん、 古 体 な る べ し。 弘 高・

頼祐などが書きたらん、猶飽かぬ所あるべし」とあ り

)((

( 、常則の作品はすでに

「古体」であると見なされている。この急激な評価の変化の背景には、巨勢

弘高の台頭があったように推察される。

  また、先に触れた常則が描いた獅子について「常則が書きたる獅子形をみ

ては、犬ほへにらみて、おどろきけるとなん」と生けるがごとき獅子であっ

たとされることは、まるで金岡や呉道子が描いた畜獣画に対する評価のよう

であり、山水画以外の画題において常則が有した古様な側面が垣間見える。

  さて、この次世代である巨勢深江については、その画風を示すような史料

は遺されていない。ただし、公忠・公茂から弘高への様式変化のただ中にお

いて、画力はあまり評価されないながらも前者を評価しつつ後者の台頭にも

対応せざるを得ない彼の状況や故実に詳しく冷静な性質が、 先にも引いた 『雅

兼卿記』における天永元年の大江匡房の以下の評価からわかる。

  深 江 は 弘 高 よ り は そ の 名 を 得 ず。 し か る に か の 時 に 屛 風 売 り の 人 あ

り。深江これを見て弘高を召して見せしむ。弘高云く「劣るなり」と。

深江曰く「しかれば、 この野筋、 汝かくはかきてんや」と。弘高云く「敢

えてせず」と。また曰く「この岩の淡き、また及ぶべきか」と。弘高よ

く見てまた敢えてせざる由を称す。深江曰く 「これは公忠の絵なり」 と。

「かの人、屛風を画く毎に定めてその裏に署す」と。仍りてこれを放ち

これをみれば、ところに已にその名あり。時の人謂う、深江はよくこの

道を知りたるなりと。金岡は畳山十五重、広高五重也。今案、墨の濃淡 をもて遠山の山をあらはす也。

  こ こ で は、 「 野 筋 」 や「 岩 の 淡 き 」 と あ り、 山 水 画 に 限 定 し た も の と み な

せるが、弘高の「劣る」 、「敢えてせず」という言葉からは、弘高の目に、公

忠の山水の画風がもはや時代から遅れた参考にならないものと映ったことを

示していよう。ただし、公忠と公茂との間にもその差異はすでに認められて

いたのであり、 「公忠よりさきは、 かきたる絵、 生たる物のごとし、 公茂以下、

今の体には成たるとなん」という言葉にそれは端的にあらわれている。弘高

も公茂の山水図に対してであれば、これほど強い拒否反応は示さなかったの

でないだろうか。ところで「生きたる物のごとし」という言葉は、これまで

に 見 て き た よ う に 呉 道 子 か ら 巨 勢 金 岡 へ と 連 な る 評 価 に 近 い。 と す れ ば、

「岩の淡き」という具体的な作風を示す言葉は、公忠の山水画が筆力のある

線描を生かすように彩色を淡く施すものであったことを示唆しており、これ

に対峙する弘高のそれは、彩色に重きを置いたものであった可能性が高いだ

ろう。さらに、弘高には、水墨を面的に用いるという新たな技法が取り入れ

られていたことも推察されるが、この点については後述したい。また、この

挿 話 の 後 半 の 屛 風 裏 の 署 名 の 記 述 は、 『 図 画 見 聞 誌 』 巻 六「 秋 山 図 」 に 記 さ

れる絵絹の縫い目に署名した後蜀・黄筌、黄居寀父子の逸話を彷彿させるこ

とも付言しておこ う

)((

( 。

  さて、その弘高は、十世紀の掉尾に登場する。藤原行成『権記』長保元年

( 九 九 九 ) 八 月 二 十 三 日 条 に は、 巨 勢「 広 貴 」 を 召 し、 不 動 尊 像 を 描 か せ た

ことが記され る

)((

( 。そして、 明治三十一年 (一八九八) に焼失した 「性空上人像」

(円教寺旧蔵) は、 『権記』長保四年八月十八日条に「花山院より召し有りて

参 入 す。 勅 有 り て 曰 く、 書 写 の 聖 の 影 像、 広 貴 に 之 を 図 せ し め よ と 」 (『 史 料

(15)

美   術   研   究    四   二   〇   号 一四

大 成 』 本 ) と あ る 画 像 に 相 当 す る と 見 ら れ、 そ の 模 本 ( 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 )

は、巨勢弘高の作風を偲び得る唯一の作品であり、細く連綿とした線描に特

徴 が あ る。 有 賀 祥 隆 氏 は、 長 保 三 年 ( 一 〇 〇 一 ) の「 線 刻 蔵 王 権 現 像 」 ( 西 新

井 大 師 総 持 寺 ) の 繊 細 優 美 な 線 描 に 弘 高 の 画 風 を 認 め ら れ る

)((

( 。 こ の 細 く 連 綿

とした線描は、後述するように南唐や呉越国の絵画の線描にも共有されるも

のである。また 『栄花物語』 巻六 「かがやく藤壺」 には、 弘高が歌絵を描き、

行成が歌を書いた冊子を一条天皇が大いに気に入られたことが述べられてい

)((

( 。平田寬氏は、弘高の高い評価の背景には、冊子等の小さな画面に描かれ

た歌絵といった新しいジャンルの絵画制作に長けていたことがあると指摘さ

れている

)((

( 。このことは、彼の山水画における濃彩とも関わるものであり、そ

れ は、 「 源 氏 物 語 絵 巻 」 の 画 中 画 に 近 い も の で あ っ た の で は な い だ ろ う か。

さ ら に『 栄 花 物 語 』 巻 八「 は つ は な 」 に は、 寛 弘 六 年 ( 一 〇 〇 九 ) 頃、 道 長

の女・妍子のために弘高が描き、行成が書を記した屛風と為氏・常則が描き

道風が書した屛風を対比して優劣がつけ難いと述べている

)((

( 。

  そ し て、 そ の 山 水 は、 「 金 岡 は 畳 山 十 五 重、 広 高 五 重 也 」 と さ れ た こ と は す で に 述 べ た。 と こ ろ で、 従 来 あ ま り 注 目 さ れ て い な い が、 「 今 案、 墨 の 濃

淡をもて遠山の山をあらはす也」とあることは重要であろう。これを「今案

ずるに墨の濃淡をもて遠山の山をあらはす也」と読めば、弘高の五重の山の

うち遠山を墨の濃淡であらわしていたということになる。ここに五代から北

宋の水墨山水図の早い受容を認めることは早計であろうか。このような点に

大江匡房がことさらに注目したのは、匡房の時代には、遠山にも彩色を用い

るのが常であったためであろう。このことは、遼代十世紀後半の葉茂台七号

遼墓より見出された 「山水図」 (遼寧省博物館、 図

(() が、 弘高のそれとは逆に、

近景の山に水墨を用いるのに対して遠山には白群による淡青色を施している

ことを想起させる。このことは、彩色による遠山表現がきわめて強固な絵画

的伝統を負うものであり、その伝統が、北宋周縁の遼およびわが国の双方で

共有されていたことを示すものに他ならない。そうであれば、そのような伝

統的な絵画観を放棄するような、水墨の面的な表現による遠山の表現は、や

はり外来の新しいものであったと見なせるであろう。そこに弘高の優れた進

取性を認めたい。

  また、 仮に 「今案」 を 『兵範記』 仁安三年 (一一六八) 七月四日条にある 「以

代 々 本 様 加 今 案 」 (『 史 料 大 成 』 本 ) の よ う に 熟 語 と し て、 匡 房 と 同 時 代 の 山

水表現のことと理解すれば、 十二世紀初頭のことになる。 いずれであろうか。

先に述べたように董源「寒林重汀図」と神護寺「山水屛風」の意外な近似を

認めるのであれば、弘高の時代に江南の水墨山水図の受容が行われていても

決して早すぎるということはないし、そうであれば、十五重から五重への変

化に江南の山水画様式が関与したと想定することも許されるだろう。

  以上で見てきたように、わが国の十世紀における絵画様式の変容は、呉道

挿図 (( 山水図 葉茂台遼墓出土 遼寧省博物

(16)

十世紀の画師たち 一五 子に連なる「生けるがごとき」絵画からの脱却の過程であったと言える。た だし、 その変化の軸は、 山水画の様式にあったようであり、 「生けるがごとき」

という評価は山水画には当てはめ難い。しかしながら、山水画がその評価の

中心に位置しはじめるということ自体が、唐宋変革期における水墨山水図の

勃興、および絵画の中心的ジャンルが道釈人物画から山水画へと移行すると

いう五代から北宋初期の絵画状況を如実に反映したものと見なすべきなので あろう。   そもそも平安時代初期の山水画における呉道子様式の受容については、聖 武 天 皇 ( 七 〇 一 〜 五 六 ) 所 縁 の 正 倉 院 宝 物 の 画 屛 風 に あ ら わ れ た 呉 道 子 様 式

が、 嵯 峨 天 皇 ( 七 八 六 〜 八 四 二 ) に よ る 正 倉 院 の 屛 風 沽 却、 す な わ ち、 弘 仁

五 年 ( 八 一 四 ) 九 月「 蓬 萊 山 水 図 」 以 下、 三 十 六 帖 の 画 屛 風 と 白 石 鎮 子 十 六

枚を買い上げたことによって宮中に入り、唐絵の成立に大きく関与したこと

によるものであると考え、その見通しを別稿で論じた

)((

( 。そして、本稿では、

わが国九〜十世紀の山水画については、呉道子に見られる速筆からの離脱と

濃彩細筆の重視、および盛唐の山水画における高さを強調したそれから初唐

風 を 復 古 し た よ う な 遠 く 広 が る 山 水 形 式 へ の 移 行 に あ る と 見 な し た。 そ し

て、そこには董源に代表される江南の山水図の部分的な受容も認めることが

できる。この二者がともに 「李思訓」 に近いとされたことも故なしとしない。

  そして、 それは、 具体的には、 先程来取り上げている、 初唐様式を示す (伝)

展士虔「遊春図巻」 、南唐の董源「寒林重汀図」 、平安時代後期の「源氏物語

絵 巻 」 東 屋 一、 「 源 氏 物 語 絵 巻 」 関 屋 ( 徳 川 美 術 館、 挿 図

(9) 、 神 護 寺「 山 水

屛風」と連なるものである。そのことは、たとえば、横長の画面の左に水景

をあらわし、右側上方に丸みを帯びた遠景の高山を配しつつ、その手前の狭

い空間に近景までの丘陵や林を描き、さらにその中に徒歩や騎馬の人物を散

在させるという「遊春図巻」の構成と同様のものが「関屋」にも認められる

ことに端的にあらわれている。 また、 画面下方が大きく損なわれているため、

近 景 の 図 様 に つ い て は 明 ら か に し 難 い が、 天 喜 元 年 ( 一 〇 五 三 ) 「 平 等 院 鳳

凰堂壁扉絵」のうち南面の「下品上生図」および北面の「中品上生図」は、

神護寺「山水屛風」と近い平遠の景を主とする表現を有しており、弘高のそ

れを偲び得る。一方で、 東面の 「上品下生図」 (挿図

(0) および 「上品中生図」

挿図 (9 源氏物語絵巻 関屋 徳川美術館 

Ⓒ徳川美術館イメージアーカイブ /DNPartcom

(17)

美   術   研   究    四   二   〇   号 一六

については、それぞれの画面左側および右側手前に山を何重にも重ね深遠な

山容をあらわす。それは、唐代の富平県唐墓の墓室西壁にあらわされた「山

水 屛 風 壁 画 」 ( 挿 図

(() の 山 容 を 幾 分 和 ら げ た も の に 近 い。 つ ま り、 鳳 凰 堂 の東側扉絵は、 盛唐の山水表現に連なるものであり、 それが、 奝然請来の「十

六羅漢図」の山水表現と関わることはすでに指摘した。また、後述する藤原

道長周辺に伝来した「天台山図」もこれに関わることが想定されるのだが、

挿図 (0 鳳凰堂壁扉画のうち上品下生図 平等 院

挿図 (( 山水屛風壁画 富平県唐墓

挿図 (( 山水屛風 京都国立博物館

(18)

十世紀の画師たち 一七 これらの諸点については本稿の最後で考察したい。 そして、 付言するならば、

このことが冒頭で述べたように為成に呉道子イメージが重ねられたことと関

わるのではないかとも思われるのである。

  つまり、この時代の山水画の様式については、一つの様式が中心となり、

一斉にその様式に変化したという直線的な状況をあまり想定しすぎない方が

良いようだ。それは、鳳凰堂の東面壁扉画と時を同じくして東寺旧蔵「山水

屛 風 」 ( 挿 図

(() の よ う に 初 唐 の 様 式 を 示 す ( 伝 ) 展 子 虔「 遊 春 図 巻 」 の 表 現

を遠景に取り入れながらもそれを拡大し、平遠の景をも兼ねるような表現を

画面後方に展開する作品の存在していることが示唆するところである。

  では、以上で述べたような十世紀における絵画様式の変化は、わが国固有

の現象なのだろうか。そうであれば、冒頭に想定した、南唐絵画とやまと絵

山水との関わりは単なる偶然ということになる。以下、この点について検証

しよう。

     四、呉道子様式からの脱却

  さて、本稿で考察する十世紀という時代は、唐の滅亡に伴う東アジア世界

の混乱と再編が、北宋王朝の成立とともに収束を迎えるという激動の時代で

あった。すなわち、 中国では天佑四年 (九〇七) 大唐帝国が滅び、 建隆元年 (九

六 〇 ) 、 趙 匡 胤 ( 北 宋・ 太 祖 ) に よ る 宋 王 朝 の 成 立 に 至 る 間、 中 原 に 五 つ の 王

朝 が 交 代、 周 縁 に は 十 の 国 が 群 立 し た ( 五 代 十 国 ) 。 東 北 部 の 渤 海 は わ が 国

の延長四年 (九二六) に滅亡する。また朝鮮半島では、 わが国の承平五年 (九

三五) に新羅が滅亡、翌年高麗が半島を統一する。

  唐の滅亡後、いわゆる五代十国の時代において、その後の東アジア絵画史 の展開から注目されるのは、後蜀、南唐、呉越国の絵画であ る

)((

( 。

  その理由としては、 第一に北宋初期の都 ・ 開封における絵画が、 建徳三年 (九

六 五 ) 、 こ れ ら の う ち で 最 も 早 く 宋 に 降 っ た 後 蜀 の 画 家 た ち に よ り 揺 籃 期 を

送ったことがある。その蜀の地には盛唐以来の絵画様式が残されていた。

  た と え ば、 八 世 紀 半 ば の 安 史 の 乱 の 折 に 都・ 長 安 か ら 入 蜀 し た 画 家 と し

)((

( 、大慈寺に行道僧図を描いた盧楞伽、画馬に巧みであった韋偃、王宰家が

あ る (『 益 州 名 画 録 』 巻 上、 『 唐 朝 名 画 録 』) 。 そ し て、 周 知 の よ う に 三 武 一 宗 の

廃 仏 の う ち、 会 昌 五 年 ( 八 四 五 ) 以 降 の 唐 武 宗 ( 在 位 八 四 一 〜 四 六 ) 、 そ し て

顕 徳 二 年 ( 九 五 五 ) 以 降 の 後 周 世 宗 ( 在 位 九 五 四 〜 五 九 ) の そ れ に よ っ て、 関

中、中原の寺院壁画を中心とした唐代の仏教絵画の多くが破壊されたものと

想 像 さ れ る が、 こ の 間、 中 和 元 年 ( 八 八 一 ) 黄 巣 の 長 安 侵 入 に よ っ て 僖 宗 が

入蜀する。この折には、 「三時山」を描いた張詢、 『益州名画録』巻上で、唯

一「逸格」とされた孫位が入蜀した。また、黄巣の乱に続く混乱の中で、花

鳥画家 ・ 光胤等が入蜀し、さらに天佑三年 (九〇六) には、趙徳玄 (元徳)

が隋唐の名画を携え蜀に入っ た

)((

( (『益州名画録』巻上) 。

  『益州名画録』巻上・趙徳玄の項には、

  蜀、二帝の駐蹕、昭宗の遷幸によりて、京より蜀に入る者、将に図書

名 画 到 る。 人 間 に 散 落 す る も の 固 よ り 亦 多 し。 ( 中 略 ) 徳 玄、 将 に 梁 隋

及び唐、 百本の画を到る。 或は自ら模搨し、 或はこれ粉本、 或はこれ墨跡、

秘府より散逸するにあらざるなし。本より相伝して蜀に在り。まことに

後 学 の 幸 い 也 。                                      (『 画 史 叢 書 』本 )

とこれらの古画が蜀の画家たちによって学ばれたことを記す。そして入蜀し

(19)

美   術   研   究    四   二   〇   号 一八

た画家たち自身もこの地に唐中央の画風を伝えた。たとえば、北宋初期に活

躍する黄筌は、蜀において 光胤に「竹石花雀」の画法を、孫位に「画龍水

松 石 墨 竹 」 等 を 学 ん だ と さ れ る

)((

( (『 益 州 名 画 録 』 巻 上 ) 。 こ の よ う に 皇 帝 に 伴

い長安、洛陽等の中央の画家が蜀に入ったことにより蜀の地に唐中央の絵画

様式が移植された。一方で唐末の廃仏や五代の混乱によって長安や洛陽の寺

院の多くが退転し、そこに描かれていた多彩な壁画が失われた。そして北宋

が成立し、その都に新たに寺院が建設された時に、その手本となり得たのは

蜀に遺る絵画であり、その制作にあたったのは、黄筌など、それらを学んだ

蜀の画家たちだった。

  すなわち、それは唐中央の絵画様式に連なるものであり、画史類の記述か

ら特に道釈人物画の多くは、呉道子様を留めるものであったと予想される。

た と え ば、 敬 宗 の 宝 暦 年 間 ( 八 二 五 〜 二 七 ) に 成 都 お よ び 長 安 で 活 躍 し た 蜀

出 身 の 左 全 は、 「 仏 道 人 物 に 妙 工 た り。 宝 暦 中、 声 宇 内 に 馳 す。 成 都 長 安、

画壁甚だ広し。多く呉生の迹を倣い、 頗るその要を得る」 (『図画見聞誌』 巻二)

と さ れ て い る。 し か し な が ら、 こ れ に 次 ぐ 開 成 年 間 ( 八 三 六 〜 四 一 ) に 活 躍

し た 范 瓊、 陳 皓、 彭 堅 は「 同 時 同 芸 」 (『 図 画 見 聞 誌 』 巻 二 ) と さ れ な が ら

も、 後 二 者 に つ い て は「 お お む ね 呉 道 玄 の 筆 を 宗 師 と す る 」 (『 益 州 名 画 録 』

巻 上 ) と 記 さ れ る の に 対 し、 范 瓊 の み を そ う 位 置 づ け て は い な い。 こ れ は、

「三人中范瓊、 年歯低しといえども、 手筆冠と称する」 (『益州名画録』巻上)

と 范 瓊 が 少 し 年 若 で あ り な が ら も、 『 図 画 見 聞 誌 』 巻 二 に お い て も「 范 を 神

品となし、陳、彭を妙品となす」とされるように、時に陳皓、彭堅より高く

評価されていることと合わせ、そこに呉道子様から離れようとする新たな画

風が成立し、これを評価する動きがあったことを示すものと推察される。

  さ て、 開 封 八 年 ( 九 七 五 ) 十 一 月、 金 陵( 江 寧 府 ) が 北 宋・ 呉 越 国 の 連 合 軍により陥落し、南唐が宋に降ったことによって、南唐後主李煜等が王室の 文 物 と と も に 開 封 に 入 り、 昭 慶 等 の 道 釈 画 に 優 れ た 宮 廷 画 家 も こ れ に 従 っ

た。これによって、北宋絵画の様式形成の第二段階として、新たな江南の絵

画様式が開封に流入する。

  南唐における代表的な画家としては、先ず周文矩や王齊翰が想起される。

また 「仏道鬼神を工に画いた」 (『図画見聞誌』 巻二) 曹仲玄や陶守立、 そして 「仏

像 を 攻 め、 尤 も 観 音 に 長 じ 」 ( 劉 道 醇『 聖 朝 名 画 評 』 巻 一 ) 、 後 に 開 封 に 入 っ

た昭慶がある。唐中央の様式を濃厚に留めた後蜀の絵画に対して、彼らのそ

れはどのような様式によるものであったのか。

  ま ず、 周 文 矩 は「 行 筆 痩 硬 戦 掣 」 と さ れ る「 顫 筆 」 を 用 い、 「 呉 曹 之 習 に

堕 せ ず、 一 家 の 学 を 成 す 」 (『 宣 和 画 譜 』 巻 七 ) と さ れ る。 ま た 曹 仲 玄 は「 始

め 呉 を 学 ぶ も 意 を 得 ず、 遂 に 迹 を 細 密 に 改 め、 自 ず か ら 一 格 を 成 す 」 (『 図 画

見聞誌』巻二) とされ、また『宣和画譜』巻三に、

  ( 前 略 ) 嘗 て 建 業 仏 寺 に お い て 上 下 座 壁 を 画 く、 凡 そ 八 年 就 か ず、 李 氏その緩を責める。周文矩に命じ之をくらぶるに、文矩曰く「仲 元

ママ

の絵

上天の本様たり、凡工の及ぶところにあら。故に遅遅たることかくのご

とし」と (後略)

とあり、曹仲玄がその作画に多くの時間を要したことが知られる。それは、

その完成度の高さと合わせて本稿の冒頭に述べた李思訓の作画態度および巨

勢弘高のそれとを彷彿させる。これらのことから南唐の仏教絵画が、速度感

のある行筆と華やかな肥痩に特色を有する呉道子のそれから離れ、細線によ

る繊細なものに変化していたことが予想される。たとえば、 周文矩の 「顫筆」

(20)

十世紀の画師たち 一九 は、そのイメージをわずかに伝えるであろう (伝) 周文矩「文苑図」 (北京 ・

故 宮 博 物 院 ) 等 か ら、 呉 道 子 様 が 有 す る 筆 線 の 動 勢 の 名 残 を 丁 寧 に 引 か れ た

均一な細線の中に込めたものであったとも考えられよう。さらにこの線描が

遠く巨勢弘高へと連なる可能性があることは先に指摘した。

  そして、先に北宋に降り、その画院の主流を形成しつつあった後蜀出身の

画家たちによってもこの南唐の絵画が学ばれ、新たな絵画様式が形成されて

いった。このことは、たとえば、蜀出身の趙元長が太祖の命により「王齊翰

応 運 国 宝 羅 漢 を 模 写 せ し め、 そ の 法 を 探 り 得 た 」 (『 聖 朝 名 画 評 』 巻 一 ) こ と

等が端的に示していよう。

  と こ ろ で、 南 唐 に 先 立 つ 太 平 興 国 三 年 ( 九 七 八 ) に は、 呉 越 国 が 北 宋 に 版

図 を 奉 じ、 国 王・ 銭 弘 俶 ( 九 二 九 〜 八 八 ) も 開 封 に 入 っ た。 呉 越 国 に つ い て

は、その仏教国としての歴史叙述が豊富であり、かつ都であった杭州には慈

雲嶺や烟霞洞、霊隠寺等に当該期の多くの石彫が現在まで残されているのに

反し、後蜀、南唐に比して絵画に関する記録は著しく乏しい。このため、こ の折にどのような画家たちが銭弘俶に従ったかは明らかではない。また、呉 越国における絵画様式についてもにわかには明らかにし難いが、仏教絵画に 限 っ て 言 え ば、 わ が 国 に 現 存 す る「 白 描 応 現 観 音 図 」 ( 大 東 急 記 念 文 庫、 挿 図

(『 別 尊 雑 記 』 巻 十 二 )、 「 白 描 童 子 経 曼 荼 羅 図 」 (『 別 尊 雑 記 』 巻 三 ) 等 が 呉 越 (() 、「白描阿閦如来図像」 (『別尊雑記』巻三、仁和寺) 、「白描金翅鳥王図像」

国 由 来 の も の と 考 え ら れ る

)((

( 。 い ず れ も 繊 細 な 線 描 に 特 色 が あ り、 「 応 現 観 音

図」や「童子経曼荼羅図」の衣文には、鋭く繊細で、触れれば指が切れそう

な「すすきの葉」のごとき息の長く切れのある線描を認めることができる。

  また、部分的なものであるが「金翅鳥王図像」の画面の四分の三を占めつ

つ奥行きを明示しない海波の表現や「応現観音図」の周囲の二十四応現をあ

らわした背後の土坡と見られる表現には、やまと絵のそれを思わせる山水表

現の一端があらわれていよう。 特に顕徳三年 (九五六) の「宝筺印陀羅尼経」 (安

挿図 (( 白描応現観音図 大東急記念文庫

挿図 (( 宝筺印陀羅尼経 安徽博物院

参照

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図版出典

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統制の意図がない 確信と十分に練られた計画によっ (逆に十分に統制の取れた犯 て性犯罪に至る 行をする)... 低リスク

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