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二言語使用文学者に学ぶ外国語学習の初心と詩心

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(1)

二言語使用文学者に学ぶ外国語学習の初心と詩心

著者 小林 昌夫

雑誌名 Otsuma Review

巻 53

ページ 119‑144

発行年 2020‑10‑01

URL http://id.nii.ac.jp/1114/00006898/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止

http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

[要旨]

(本稿は口頭発表を基にしている1。以下はその折に使用した資料と増補分であり

全体の

6

割は原著引用となる。変則であるが読者諸姉の原著参照の便を優先させた。この

[要旨]を長目にするので,

論述の流れに沿って資料を読んでいただきたい。資料中の[短 評]も解説的に作成した。)

1 .過去数年,さらに短いスパンでは昨年来の英語・国語教育改革,大学入 試改革の経緯や決定(法)に疑問を抱いている。バランスを欠いているよ うに思えてならない。昨年末以来のコロナウィルスにより,問題は遠景に 退いたが,むろん未解決のままである。([参照文献]の阿部,鳥飼著,お よび日本学術会議の 1 報告,2 提言)

2 .一方,筆者は多和田葉子

2

という作家へ長く関心を寄せてきた。変身譚 や神話の扱い,およびその言語観に対する共感が理由となっている。上記 1 は英語教員としての職務に,2 は文学教員としての職責に関係する。

3 .多和田理解のためには,日本語作品だけではなくドイツ語作品をも含め なければ十全とはいえないと考え,長く放置していたドイツ語学習を開始 した。これにより外国語/言語の学習・研究・教育と多和田理解が結びつ いたと感じている。外国語学習入門期の意義もそこに含まれる。

4 .多和田理解に関しては, 氏を「外国語学習者から文学者に転身した作家」

と捉えてみたい。そう理解しても文学者としての才能を貶めることにはな らないだろう。それは,氏自身が実作と思索を通して随所で示しているス タンスだからである(資料 I, II, III)。

 なお, ドイツ語圏からではなく, 英語圏からのモデルを提示するのが「大 妻英文学会」という発表媒体に馴染むはずだが,適当な例がない。むろん 英語の達人は各界にいるが,日本語を母語とし,日英両言語で作品を発表 し, その質量ともに一定水準を越える「現役作家」を寡聞にして知らない。

多和田を持ち出す理由である。

5 .今から 140 年前,鷗外や漱石がドイツ語や英語を通して西欧と格闘して

二言語使用文学者に学ぶ外国語学習の初心と詩心

小 林 昌 夫

(3)

いた少し前に,建国百年,新興アメリカのマーク・トウェインはドイツ語 およびドイツに向かい合っていた。同じ西欧語,ゲルマン語系ということ もあり,日本人による西洋言語・文化の同化吸収熱とは別物だったろう。

ドイツ側も,トウェイン著出版後じきにドイツ語訳を出している。現在と 異なり, 文化的にはいずれの側にもまだ余裕と笑いがあった。 時代は変わっ たけれども,外国語学習時の距離感を多和田は説いている。(資料 I)

6 .トウェインも多和田も対象言語ドイツ語を批判的に見ている。批判的と いうことは否定的ということではない。「批判」を,多和田が馴染んでい るドイツ演劇に倣って「異化」と言いかえてもよい。(資料 I, II, III)

7 .外国語学習においては,母語者

3

の絶対的優位は動かないように感じら れる(専門的には諸説あり)。だが,外国語をも異化することを忘れたく ない。外国語が異言語である以上,「外国語の異化」は重複表現となるが,

母語を軽視するほどの厚遇は控えるべきだという意味である。

8 .母語と異なる言葉への驚きや不思議さは,誰もが入門期にもつ「初心」

や「詩心」である。しかし,中,上級と進むにつれ,これを失う。子ども が大人に「なる」のと同じように,学習者内部でも同化作用が発動するか らであろう。「同化」への志向なしに学習は成り立たない。だが,「異化」

を忘れてはならない。それは,素朴で無批判の,あるいは逆に意図的な同 化促進に対する警戒心を働かせることでもある。トウェインや多和田の外 国語に向かう姿勢は,とくに今日の日本において多数に共有されていると は言いがたい。外国語,とくに英語の指導者に,自分にとっての第 2,第 3 の外国語学習を始めることを勧めたい。初心と詩心を思い出すためであ る。

9 .フランス語・文学出身の内田樹氏や蓮實重彦氏には,トウェインや多和 田と同じ姿勢が見て取れる。日本における英語関係者は外国語学習共和国 の目下の政権与党として,野党党首の言説に耳を傾け,一般学習者にも言 語,母語 外国語という大きな枠組みを,折に触れては示すべきであろう。

(資料 IV)

10 .言語のプロフェッショナル,スペシャリストは,もっとも異化的な作業

に携わっているはずである。だが,そこにも落とし穴はある。「専門知識

を否定するものではないが,専門知識がともすれば領域外の問題を死角に

追いやる」とエドワード W・ サイードは言う。そこでは論点が拡大され,

(4)

サイードは専門家の立ち位置,前提,(意識的,無意識的な)政治性を問 題にしている。先に述べた近年の英語教育論争において,一般市民・学習 者は「話せない」不満の原因を教育制度のせいだとして,政府主導の改革 案に同意する。その気持ちは理解できる。しかし,一部の専門家が批判や 疑問に答えず, 市民の素朴な気持ちを煽るように発言しているのを聞くと,

サイードの知識人論を読んでほしいと思う。(資料 V)

11 .サイードはアマチュアとしての知識人像に焦点を合わせる。サイードか ら直接的な政治性を減じて,文学色を強めると,多和田が文学者に求める エクソフォニズム,マージナリズムにすんなり移行していく。BBC 放送 の伝統あるリース講義の演壇にサイードが立ったのは 1993 年。以後,世 界情勢は激変したが,知識人の在りようにはさらに注意が必要である。サ イードが危惧した専門分化の行程もスピードを速めている。変化の兆しは 見えない。

12 .ここで視点を変え,精神科医中井久夫氏が論じる多重人格

4

[解離性同 一性障害]者と統合失調者の比較を参照する。批評家丹生谷貴志氏の指摘 をもとに,その論を外国語学習・教育に援用してみる。後掲の資料で細部 は確認できるが, 中井氏は多重人格者を葛藤からの逃避者として見ており,

そのため問題の扱いがやや冷淡になっている,と丹生谷氏は解釈する。精 神医学や社会学の分野で,斎藤環氏を中心に「解離」を「分裂」と対照さ せ,時代のキーワードにし,その地位を向上させたこともあった。ポスト モダン的 「解離」 から見れば 「分裂」は浪漫的憂愁を湛えている。しかし,

「葛藤」と「分裂」は常数でもあり,依然として有効であろう。(資料 VI)

13 .あくまで類推であるが,外国語学習者の極北としてのポリグロット[多 言語使用者]を(中井氏,丹生谷氏の理解する)多重人格者のように,分 裂や葛藤を持たぬ者と極論してみる。複数の母語者のひとつが交代人格と して出現するだけだと措定してみるのである。これは,ポリグロットその ものの否定ではない。 ポリグロットあるいは身近な例としての帰国子女を,

(本人たちではなく周囲の一般学習者が)外国語学習の最終ゴール,ある いは憧憬の対象とする気持ちを問題にするのである。その気持ちがあまり に強いと,対象言語の母語者を唯一の同化対象と捉え,いっさいの異化志 向を否定する傾向が生じる。これを批判するのである。

14 .ポリグロットの位置づけの問題だとしてもよい。ポリグロットを 「解離」

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と見るか「分裂」と見るか。「多」のもたらす煩雑を回避して「一」に向 かうか,向かわないか。動物とは異なる意識と言語をもつ人間の条件とし ての葛藤を回避して,言語・国家・文化・自己の安定的同一性に向かおう とするのは,動物でもある人間の行動としては理解できる。だが,これに すべてを委ねるわけにはいかない。サイードが知識人に求め,多和田が文 学者に期待するのは,その反対の姿勢である。(資料 VI)

15 .葛藤やら人間の条件といった表現を持ち出すと,ときに抹香臭くなる。

笑顔が消えそうだ。しかし,葛藤を楽しむ道があり,手段がある。多和田 の指摘は,言語に関する優れて論理的な記述であるが,客観的な記述に留 まらない。(資料 I, II, III)

16 .外国語学習入門期の話にもどる。堅持すべきは,辞書を引き,音と意味 の空間に遊ぶことである (むろん直接の会話, 対話もその空間に含まれる)。

外国語指導者は,自分にとっての「新たな」外国語学習者として。最後に 多和田葉子氏の「エクソフォニー」に倣って,一つ二つの私的体験を書い て結びとする。([おわりに])

[資料]

Ⅰ.ドイツ語文法受容の 2 例──同化型と異化型

[以下の 1,2-1 でトウェイン著への言及を,2-2 で原著を見る。]

1 .同化型:鷲巣由美子『これなら分かるドイツ語文法──入門から上級ま で』(2016)

(1)分離動詞の語順解説(p. 41)

  ...『トム・ソーヤーの冒険』で有名な作家マーク・トウェインも,エッ セイ「恐ろしきドイツ語」で abreisen(旅立つ)を例に,動詞のあとに目 的語やその言い換えや添加成分やらが何行も詰め込まれ,忘れた頃に ab が出てくる,と怒り呆れています。わたしも分離動詞には何度も引っかか りました。でもドイツ語の表現に慣れてくるにつれ,前つづりがくるかど うか,どの前つづりがくるか,ある程度予測できるようになってきます。

(2)名詞の性解説(p. 49)

  ...ドイツ語は,男性,中性,女性の 3 つの性を維持しています。家族

の名称の Vater が男性名詞,Mutter が女性名詞,Kind が中性名詞という

のはわかるとして,家の Boden(床)が男性名詞,Fenster(窓)が中性

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名詞,Tür(ドア)が女性名詞なのはなぜか,確たる答えはありません。

とにかくドイツ語の世界では名詞はすべて性によって 3 つのグループのい ずれかに属しているわけで,ドイツ語を使う場合にはわたしたちもその世 界観を受け入れなくてはなりません。ただし複数では性の区別がなくなり ます。

2-1.異化型:多和田葉子『言葉と歩く日記』(2013)

 外国語を勉強しながら外国語の文法を不思議がり,面白がり,笑う,と いう遊びを意識的に実行している人はあまりいない。アメリカ人の学生に

「ドイツ語文法のどういうところに笑った」と訊いても,なかなか答えが 出てこない。笑うことは馬鹿にすることだと思って遠慮している日本人の 学生ならともかく,funny でみんなを笑わしてくれる子に人気が集まるア メリカなのだから,もっと文法を笑う人がいていい。

 ドイツ語文法を笑った例としては,マーク・トウェインの『The Awful

German Language』という本が有名だ。マーク トウェインの『トム ソー

ヤーの冒険』と『ハックルベリー・フィンの冒険』は小学校時代に愛読し たが,こういう形でこの作家に再会するとは思ってもみなかった。

[短評] 鷲巣氏のように筆者自身も英語教員として長く「慣れ」を説き,対 象言語に含まれる 「世界観」 を伝道してきた。英語で書き創作する意思があっ たら多和田に近づけたのだろうか?

2-2 .異化型:マーク・トウェイン『おそるべきドイツ語』(Mark Twain, The Awful German Language [Die schreckliche deutsche Sprache], 1880)

(1)“Cases”(「格」)

   … For instance, my book inquires after a certain bird – (it is always inquiring after things which are of no sort of consequence to anybody):

“Where is the bird?” Now the answer to this question – according to the book – is that the bird is waiting in the blacksmith shop on account of the rain. Of course no bird would do that, but then you must stick to the book.

(p. 10)[下線部筆者。以下,性,格がいかに厄介であるかの微に入り細 を穿った説明が続く。与格と対格については多和田詩 II. 2. (4)参照。]

[短評]ドイツ語にかぎらず教科書というのは得てしてそうしたものだ(っ た)。(清水義範『永遠のジャック&ベティ』参照)。教育法の発展により,

不自然な文は淘汰されつつある。望ましいことだが,ときどき不条理な例文

(7)

や会話に郷愁を覚える。なお,「ネイティブはそうは言わない」という類の 本が書店に並ぶ。良書もあるようだが,初学者を委縮させるものが多いので はと感じることもある。

(2)“Parenthesis”(「挿入語句」)

   … finally, all the parentheses and reparentheses are massed together between a couple of king-parentheses, one of which is placed in the first line of the majestic sentence and the other in the middle of the last line of it − after which comes the

VERB

, and you find out for the first time what the man has been talking about; and after the verb …. (pp. 14, 16. 対訳書のた め頁が跳ぶ)

[短評]ドイツ語には挿入語句が多く,肝心な動詞や述語がなかなか出てこ ない,長い複合名詞や挿入語句に阻まれた後,やっと動詞が出て意味が確定 されるとはけしからん,とトウェインは怒る。「冠飾句」などは日本文の構 造に近いわけで,日本人はそこまで違和感を持たないはず。持つとしたら英 語の構造になじみすぎたか?

(3)“Separable verbs”(「分離動詞」)

   The Germans have another kind of parenthesis, which they make by splitting a verb in two and putting half of it at the beginning of an exciting chapter and the other half at the end of it. Can any one conceive of anything more confusing than that? These things are called “separable verbs.” The German grammar is blistered all over with separable verbs;

and the wider the two portions of one of them are spread apart, the better the author of the crime is pleased with his performance. A favorite one is reiste ab, − which means, departed. (pp. 22, 24)

[短評]I. 1. (1)で鷲巣氏が紹介していた,「悪名高き」分離動詞に対するト ウェインの不満。英訳例文を省略したが, departed de parted に分けたうえ,その間に 4 5 行も語句が挿入されるとは言語道断という趣 旨。読者爆笑!(以下の II では多和田の異化的詩作を見る。分離動詞に関 しても書いているが割愛する。)

(4)“Personal pronouns” and “adjectives”(「人称代名詞」と「形容詞」)

   …Personal pronouns and adjectives are a fruitful nuisance in this

language, and should have been left out. For instance, the same sound,

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sie, means you, and it means she, and it means her, and it means it, and it means they, and it means them. Think of the ragged poverty of a language which has to make one word do the work of six − and a poor little weak thing of only three letters at that. But mainly, think of the exasperation of never knowing which of these meanings the speaker is trying to convey.

This explains why, whenever a person says sie to me, I generally try to kill him, if a stranger.

    Now observe the Adjective. [以下,単数,複数と 1 格〜 4 格の組み 合わせにより,Mein guter Freund から Meine guten Freunde までの 8 並ぶ。 略]…… Difficult? − Troublesome? − these words cannot describe it. I heard a Californian student in Heidelberg say, in one of his calmest moods, that he would rather decline two drinks than one German adjective. (pp. 24, 26, 30)

[短評]末尾, 英語の decline で「格変化させる」と「断る」を掛けている。

独訳では er wurde eher zwei Drinks ausschlagen als auch nur ein deutsches Adjektiv beugen.” (p. 31)となり, ausschlagen”(断る)と beugen”(語 形変化させる)の 2 語が必要となる。面白さは消える。言葉遊びの翻訳はむ ずかしい。

(5)“Gender”(「性」)

   Ever y noun has a gender, and there is no sense or system in the distribution; so the gender of each must be learned separately and by heart. There is no other way. To do this, one has to have a memory like a memorandum book. In German, a young lady has no sex, while a turnip has. (p. 34)

[短評]鷲巣氏も書いていた世界観の違いによる(?)男性,女性,中性の 名詞(多和田詩 II. 1. (5)参照)に対するクレームである。

 こうして縷々述べてきた観察と批判に基づき,ドイツ語改革案が 8 点にま とめられる。曰く,与格廃止,動詞は先頭に,性は創造主の意志に沿わせる べし,長大な複合語の製造禁止,言い終えたら即口を噤むべきで,金魚のフ ンのような haben sind gewesen gehabt haben geworden sein などカット,

等々。外国語をここまで批判し,しかも笑いを誘って講演を成功させるのは

凡手のおよばぬところ。多和田が言うように「外国語を勉強しながら外国語

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の文法を不思議がり,面白がり,笑う,という遊びを意識的に実行している 人はあまりいない。」

Ⅱ.多和田葉子と(ドイツ語)文法

1 .詩集『ドイツ語文法の冒険』 (Abenteur der deutschen Grammatik, 2010)

より

 第 I 部の 20 篇の詩は,トウェインと共有する文法に対する異化意識を 表現している。[紙幅の関係で / により行分けを示す。詩の破壊であるが やむをえない。]

(1)Die zweite Person Ich

  Als ich dich noch siezte, / sagte ich ich und meinte damit / mich. / Seit gestern duze ich dich, / weiß aber noch nicht, / wie ich mich umbenennen soll.

[短評]“ich は一人称である。二人称の ich とは? ドイツ語の二人称 には敬称 (Sie) と親称 (du) がある。フランス語の vous”, “tu に相当する。

親称に切り替えたとき(“duzen”),自分は前のままの ich なのだろうか?

自他ともに多様な人称表現を使い分ける日本人にしてはじめて,外国語ドイ ツ語を前にこのような問いを発するのだとも言える。関係性の中の自己に敏 感だとも言えようか? なお,つぎの谷川詩同様,一見したところ平易な表 現になっている。童謡や戯詩が想起される。マザーグースやキャロル,リア は知られているが,母語者ではない個人が作詩している点で多和田は異色と なる。なお, 外山滋比古氏は「ワレとナンジの間」(『ことば点描』所収)で,

日本語を 「悪魔の言語」 と呼んだ 「タイム」 の古い記事を話題にしている。「タ イム」の批判はトウェインや多和田とは質を異にするようだ。

[参考]谷川俊太郎「わたし」 (『ことばあそびうた また』所収)

 わたしはわたす / あなたをわたす / あなたへわたす / わたしもり //

 あなたはあなた / あだしのあたり / わたしはわたし / わたしもり

[短評] 「私/渡し」「貴方/彼方」の言葉遊び。「あなた」「かなた」「こなた」

は複雑。第 1 連は「村の渡しの船頭さん」を思わせるが, 2 連「あだしの」

で様相が一変する。「船頭さん」が「三途の川の渡し守」,ギリシャ神話なら

カロンに変身する。平野啓一郎に『あなたが,いなかった,あなた』という

表題の小説がある。

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(2)Die Grammatik der Sommernacht

   Warum steht das Jucken im Singular, / wenn du so viele Mückenstiche hast? / Ist Gott noch Single? / Der Schöpfer zahlreicher Mücken?

[短評] 「夏の夜の文法」! Jucken” (かゆみ) Mücken” (蚊), Singular”

(単数)と Single”(独身)。まず音の連鎖がある。無数の蚊を生み出した 創造主が独身のはずがないという無体な想像。蚊に咬まれた痕から神へは,

いかにも飛躍が過ぎる。だが,もしかして「かゆみ」から「か」や「かみ」

を,そもそも連想しているのではないか。独和辞典は Jucken を「複数な し」とふつうに記述する。なんだか目立つ。これもきっかけか。多和田の連 想癖,辞書参照創作法を考慮すれば,「かゆみ→かみ」もあながち的外れと は思えない。「真夏の夜」にふさわしい奇想! ただし, 「か/かゆみ/かみ」

を解するのは日本語を知る者のみ。

(3)Perfekt

   Es hat geblüht / Und indem ich dir davon erzähle / Blüht es immer noch/ Die Blume ist nicht die letzte Form der Knospe / Da fehlt noch der amtliche Stempel auf dem Staubblatt / Sie hat am Fruchtstiel geblutet/ Und sie blutet weiter, indem ich das sage / Das Perfekt ist eine unvollendete Zeit

[短評] “blühen” (花が咲いている) と bluten” (出血する) は類似の音をもつ。

過去分詞は geblüht と geblutet となり,さらに似てくる。詩人はこれ に気づく (誰でも気づく)。 気づきで止まらず, 詩人は音の類似からストーリー を紡ぎ出す。雄しべと雌しべ。受粉で受精を教えるのは大昔の小学校。だが 類比はいまだ有効。詩は句読点がないが 3 文から成る。第 1 「花が咲いた,

まだ咲いている。」事実の報告。第 2 文,「花が咲いて上がりではない。受粉 が残る。開花=結果ではない。」第 3 文は植物界から人間界に転換。「出血,

そしてまた」 と。第 1 文と第 3 文に, 現在完了形 (Perfekt) と現在形 (Präsens)

が対比的に現れる。最終行,「完了は未完の時だ」と結ぶ。第 2 文,「雄しべ の上に,(雌しべによる)正式印がない」は,雌雄の優位性の逆転も含意さ れているのだろうか? 他の可能性は?

(4)Ein Telefonat mit Zürich

   Ich weiß man muss einer Person im Dativ ein Wort im / Akkusativ sagen

/ An bestimmten Tagen aber wolte ich dich im Akkusativ / dem Wort im

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Dativ sagen / Denn du bist ein Wort, wörtlicher als jedes andere Wort / An jenen Tagen, an denen die Elbe tiefer aussah als / die Alpen hoch gewachsen waren, wollte ich nicht / dich, sondern dir anrufen / So blieb ein Platz für das Wort frei / Aber ich hatte nichts, was ich im Akkusativ sagen konnte

[短評]格変化は人を惑わす。あえて惑う者もいる。辞書で sagen を引く と「他[〔完了〕haben]①《〔3 格〕+〔4 格〕》〔…

3

に…

4

を〕言う, 伝える,

教える」と出る。3 格の「人」に 4 格の「ことば」を言うのだ。詩人はふと 4 格の君に 3 格のことばを伝えたいと思った。「なぜならあなたは言葉だか ら」。電話なのだ。姿は見えない。言葉だけ。あなたは言葉。4 格,対格の あなた。でも,残る空格に何を入れるか分からない…。ちなみに Zürich にも ich が潜んでいる。

(5)Die zweite Person

   Du hast ein Geschlecht. / “Du” hat kein Genus. / Du da! / Meinst du mich? / Ja! / Dann ist dein “Du” heute weiblich. / “Ich” hat kein Genus.

/ Und das ist ein Genuss für mich. / “Ich!” sagt mein Freund, der einen Freund hat. / Er ist ein Ich, wenn sein Mund sich bewegt. / Er ist ein Du, wenn seine Ohren mir zuhören. / Egal ob dich eine Sie oder ein Er lieben, / immer bist du eine zweite Person und geschlechtslos.

[短評]ふたたび二人称。 Geschlecht は「生物的性」で, Genus は「文 法の性」。君は男性だけれど, 「君」という人称代名詞は( du ich も)

無性。 Genuss は「喜び」。無性であることを喜ぶ「私」。結びの 2 行, 「君

を愛すのが男だろうと女だろうと関係ない/君はいつだって二人称で無性な のだから」。生物的性と文法的性の境界で詩人は遊び,思索し,詩作する。

2 .小説『雲をつかむ話』 (2012)より

 今日の西の空は白い鱗に覆われていて, 「いわし」 がひらがなで浮かんだ。

まだ朝早いせいか,いつまで待っても漢字に変換されない。ひらがなの味 も悪くない。火を通さないナマの味。ひらがなで「いわし」と書いてみる と,まるでドイツ語で「ふぉれれ」と書いた時のように口の中で柔らかく 崩れる。フォレレというのは鰯ではなく鱒のことだけれど,頭の中で魚を 介せずに単語同士が互いに結びつき合っている。

 わたしが心の中でひそかに「鱒男」と呼んでいたブレーメン出身の青年

(12)

のことを思い出してしまうのは,今手紙を書こうとしている相手と彼が似 ているからだろう。数ヵ月前,知人に頼まれてハンブルグ市の成人教育セ ンターで日本語集中講座の手伝いをした。中級を受け持っている先生が喉 の手術を受けてしばらく教えられなくなったということで,わたしはアル バイトで代理として雇われ, 週に一度, 大学の授業が終わってからセンター に足を運んだ。その時の教え子の一人が鱒男だった。言葉に対して繊細で かろやかな遊び心を持つ学生の多い中で,鱒男は口が重く,実直で武骨な 印象を与えた。「赤い家の外に出ます」, 「火曜日に, 町から外に出ました」,

「カエルが川から出ました」など,正しさがぎりぎり怪しい例文を作って 文法を稽古するにあたっては,あることないこと文章にしてしまった方が 練習になるのに,鱒男は「わたしは学生です」など最低限の守りの真実し か言わず,しかもそんなことでさえ言うのがばかばかしい,といういら立 ちが声にも目元の表情にも出てしまう。その鱒男が 「出たい」 と言った時,

わたしはどきっとした。前も後もなし, ただ「出たい」と言ったのである。

どこから出たいと言う以前に,とにかく出たいのだ,という切実な気持ち だけが伝わった。

「書く」を例にすれば分かりやすい。学生たちは「書きます」など,い わゆる「ですます形」を初級クラスで覚え,中級クラスでは「書きます」

から「ます」を引き算して,「たい」を足して,「書きたい」と欲望を表現 する。そういう意味では,「書きます」という形は,「書く」という形より も直接的に欲望につながっていく。鱒を取り除いて鯛を入れれば欲望が現 れる。

 そういうわけで鱒男も「出ます」の「ます」を取って「たい」を付け たのだが,それにしても鱒男の「出たい」は突飛で,どこから出たいのか 見当がつかない。「出たい,という文章は間違ってはいないけれど,もう 少し言ってくれないと意味が分からない」とわたしが言うと,鱒男は眉間 に皺を寄せてしばらく考えてから恥じらいもためらいも見せずに,「春が 来ると,出たいです」という文章を作ってみせた。こうなってくるとどこ から出たいのかだけでなく,誰があるいは何が出たいのかまで分からなく なってくる。

「と」を使ってある状況を仮定してから話者の希望を述べるのはまちがい

だと日本語の教科書には書いてある。でもその理由を手早く説明するのは

(13)

難しいだけでなく,わたしにはその瞬間,その文章が間違っているのかど うか,確信がもてなくなった。春が来ると出たい。鱒男は必死でこちらを 見ていた。「春が来ると」という文節を他人の庭の木から折ってきて接ぎ木 した。どうして春なんだ,と呆れてみせたい一方,何か本当に言ってみた い時の文章というのはそういう風な手触りなのかもしれない,とも思う。

 そしてその日の帰り道,気がつくとわたしは口ずさんでいた。春が来る と,出たいです。春が来ると,出るつもりです。春が来ると出ませんか。

春が来ると,いっしょに出ましょうよ。(pp. 23-25)

[短評]生まれて自然にことばを身につけていく母語者とちがって,後天的 な外国語学習者の姿は,ときに母語者にもふしぎな驚きをもたらす。そのう えさらにふしぎなことに,ある種の喜びすら与える。忘れていた幼児期の記 憶が蘇るのだろうか。鱒男が言った「春がくると, 出たいです」を口ずさみ,

ついでこれを活用させ,「出るつもりです」,「出ませんか」と唱えていると きの主人公は,歩行と活用練習の規則的で反復的な心地よいリズムの世界へ と読者を誘いこむ。筆者は童謡の「春よ来い」を思い浮かべる。「あーるき はじめた みーちゃんが おんもへでたいと まっている/はーるよこい  はーやくこい…」

Ⅲ . 多和田葉子の考えるドイツ語,言語,文学

 エッセイ『エクソフォニー』第 1 部「母語の外へ出る旅」(2003)より

(1)母語の外に出ること,外国語を学ぶこと

    それにしても,エクソフォニーという言葉は新鮮で,シンフォニーの

一種のようにも思えるので気に入った。この世界にはいろいろな音楽が

鳴っているが,自分を包んでいる母語の響きから,ちょっと外に出てみ

ると, どんな音楽が聞こえはじめるのか。 それは冒険でもある。 これは 「外

国人文学」とか「移民文学」などという発想と似ているようで,実は正

反対かもしれない。「外から人が入って来て自分たちの言葉を使って書

いている」という受けとめ方が「外国人文学」や「移民文学」という言

い方に現れているとしたら,「自分を包んでいる(縛っている)母語の

外にどうやって出るか? 出たらどうなるか?」という創作の場からの

好奇心にあふれた冒険的な発想が「エクソフォン文学」だとわたしは解

釈した。(略)

(14)

    ある言語で小説を書くということは,その言語が現在多くの人によっ て使われている姿をなるべく真似するということではない。同時代の人 たちが美しいと信じている姿をなぞってみせるということでもない。む しろ,その言語の中に潜在しながらまだ誰も見たことのない姿を引き出 して見せることの方が重要だろう。そのことによって言語表現の可能性 と不可能性という問題に迫るためには,母語の外部に出ることが一つの 有力な戦略になる。もちろん,外に出る方法はいろいろあり,外国語の 中に入ってみるというのは,そのうちの一つの方法に過ぎない。(中略)

    日本人が外国語と接する時には特にその言語を自分にとってどういう 意味を持つものにしていきたいのかを考えないで勉強していることが多 いように思う。すると,上手い,下手だけが問題になってしまう。

    (1「ダカール──エクソフォニーは常識」)

[短評]外国語学習は母語の外に出る方法のひとつである。日本語も単一で はない。方言の強さや魅力は方言詩をひとつ聞くだけで分かる。小説におい ても方言は有力だ。川上未映子は芥川賞受賞作『乳と卵』および昨年刊の続 編『夏物語』で,大阪弁の会話と標準語の語りを交錯させる。直近の芥川賞 受賞作(古川真人『背高泡立草』)は九州方言に溢れ,直木賞受賞作(川越 宗一『熱源』)にはアイヌ,ギリアック,ロシア,ポーランドほかの人種と 言語が出現する。筆者にはこれらの作家たちが,あたかも多和田の『エクソ フォニー』のマニフェストに創作で応え,昨年出版の多和田の小説『地球に ちりばめられて』に応答しているとさえ感じられる。

(2)舌のダンスアート,自由な舌への衝動

    …この辺は言語学的にみると抑揚の存在しない地帯で「橋」と「箸」

と「端」の区別がないのです, という室井さんの作品では, そう言えば,

「タンゴ」が急に「単語」に繋がり,「サンバ」が「産婆」になって意外 な展開をしていくことを思い出した。これは R L の区別が聞き取れ ない日本地方出身のわたしが Brücke(橋) という言葉の中に Lücke (空 白)を発見し,更に,そこから発展させて,異文化間に橋を渡すことよ りも空白を発見することの方が重要かもしれない,などという結論に勝 手に達する思考方法と似ているのかもしれない。自分の育った発音体系 の中では区別がなされない二つの単語 (タンゴ) がくっついて踊り出す。

そこに産婆(サンバ)が駆け付けて,新しいアイデアが産まれる。これ

(15)

は言語移民の特権であって,一見簡単そうに見えるが,一つの言語の内 部に留まる者にはなかなか真似のできない芸だ。(中略)

    生まれたばかりの子にあらゆる言語を話す能力が潜在的に具わってい るというのは素晴らしい。しかし,あらゆる潜在的能力を保っていたら 一つも言葉がしゃべれない。だから,極端に言えば,たった一つを残し て,残りの能力を取り敢えず全部破壊していくのが,母語の修得だとい うことになる。ちょっともったいない気もする。大きくなってから外国 語をやりたくなるのは,赤ん坊の頃の舌や唇の自由自在な動きが懐かし いからなのかもしれない。大人が毎日たくさんしゃべっていても絶対に 舌のしない動き,舌の触れない場所などを探しながら,外国語の教科書 をたどたどしく声を出して読んでいくのは,舌のダンスアートとして魅 力的ではないか。柔軟に, あらゆる方向に, 反り返り, 伸び縮みし, 叩き,

息を吐く舌,一つも意味を形成できないままに自由を求めて踊りまくる 舌,そんな舌へのあこがれがわたしの中に潜んでいる。でも,そんな舌 を本当に持ってしまったら, もう誰にも理解してもらえないことになる。

だから仕方なく半硬直した単言語人間の舌を取り敢えず装って,まわり と意味をやりとりしながら暮らしていく。しかし,その奥には自由な舌 への衝動が隠されているのではないか。

   (6「奥会津──言語移民の特権について」)

(3)「なまり」ということ

    長年その土地に暮らして,会話を重ねれば,いわゆるネイティブ・ス ピーカーと喋り方が似てきて,「なまり」がなくなってくる。しかし,

なまりをなくすことは語学の目的ではない。むしろ,なまりの大切さを

視界から失わないようにすることの方が大切かもしれない。田中克彦氏

の『クレオール語と日本語』を読んでいたら,「発音のみならず,思想

のナマリがなければ,その人はフランスの勉強をする理由はほとんどあ

りません。そしてまた,なまることがささやかながら世界の思想と人類

の文化に貢献する方法なのです」と,「なまること」の重要さが強調さ

れていた。(中略)これらの差異に耳をすませる努力はする。時には俳

優並みの情熱を持って。しかし,それは,自分の「なまり」がいけない

と思っているからではない。自分の育った環境としての音体系の外部に

あるものを知りたいから,馴染みのない音を舌で学び取ろうとするので

(16)

ある。相手に対する好奇心から学び取った外国の響きは「真似」ではな く, 一つの学習の軌跡として「なまり」と共演し始めるだろう。そして,

そのデュエットのバランスは安定することなく,常に変化し続けていく に違いない。(10「ハンブルク──声を求めて」)

[短評]多和田の略歴については注 2 を参照。そのドイツ滞在は延びに延び,

じきに 40 年。その間,旅役者のように世界を回り,講演と朗読をこなすこ 900 回。外国語学習的には 4 (+α)技能の最高度実践者にもかかわらず,

母語者との安易な同化を避け,当初の違和感と距離感を保持している。筆者 が「良識ある外国語学習者」のモデルと見る所以である。「なまり」につい ては上記のとおり。しかし,一方で外国語「指導者」は現実問題として難題 を抱えることになる。 多和田に同意してなまりの意義を解しているとしても,

標準の発音や文法を教えねばならない。「まねる」と「なまる」をどう按配 するか。まずは両極をよく知る必要がある。知れば「脱・なまり」の指導に も奥行きが生まれる。

(4)言葉の分類

    わたしの関心のあるのは,外国語の場合は言葉と脳の関係が違うとい うことと,詩的思考の場合は,わざと言葉の分類と配置を組み換えよう とする努力が見られるということである。たとえば,わたしにとってド イツ語は外国語なので, 「Zelle (細胞)」 「Telefonzelle (電話ボックス)」

は同じ場所に記憶されている。語源的に同じなのだから,別に変ではな い。しかし,ドイツ語を母語とする人の場合は大抵,「細胞」は生物学 の分野,「電話ボックス」は日常生活の分野に分類されている。だから,

両者の間に脳の中で連絡線が通っていない。子供の頃には通っていたこ ともあったかもしれないが,生活に追われ,物事を素早く処理していか なければならない大人になると,消えていってしまっている。

    詩を書く人は,外国人しかいっしょにしないような言葉同士をいっ しょにする。たとえば日本語の口語で,電子レンジにかけることを「チ ンする」と言うが,この間『現代詩手帖』で,平田俊子さんの「レンジ の力」という詩を読んでいたら,レンジに入って生まれ変わって美しく なる狆(チン)の話が書いてあった。それは,二つの「チン」という言 葉が意外にも出逢うのは, 電子が飛び交う場所だということなのだろう。

(13「ソフィア──言葉そのものの宿る場所」)

(17)

[短評]とくに詩人は音に関心を持つ。レンジ音由来の動詞「チンする」と 変身する「狆」を結ぶと譚が生まれる。空想科学小説的。変身譚と近しい多 和田の発想をもつ作家はほかにもいた!

(5)意味から解放された言語

    思えば,フランス語ほど長い時間,意味を理解せずに耳を傾けた言語 はない。そのおかげで,フランス語はわたしの中で「純粋言語」の位置 を占めそうになってきた。そんなことを何年もしているならば,さっさ と勉強すればいいのだが,この状態には捨てがたい味がある。やがて勉 強し始めるようになるのだろうが,それまでの執行猶予期間を大切にし たい。全然理解できない状態や,まだ少ししか理解できない状態そのも のから, どれだけ創作的な刺激を引き出せるか。 (中略) 人はコミュニケー ションできるようになってしまったら,コミュニケーションばかりして しまう。それはそれで良いことだが, 言語にはもっと不思議な力がある。

ひょっとしたら,わたしは本当は,意味というものから解放された言語 を求めているのかもしれない。母語の外に出てみたのも,複数文化が重 なりあった世界を求め続けるのも,その中で,個々の言語が解体し,意 味から解放され,消滅するそのぎりぎり手前の状態に行き着きたいと望 んでいるからなのかもしれない。

    (20「マルセイユ──言葉が解体する地平」)

[短評] 「前理解状態」は創作のみならず学習においても重要だろう。「意味 から解放された言語」は作家なら誰しも持つ見果てぬ夢。

Ⅳ . フランス文学系識者の言語観,文法観,言語教育観

 内田樹氏と蓮實重彦氏の言説を見る。蓮實氏はフランス文学研究者, 文芸 映画評論家。元東京大学総長。内田氏もフランス文学研究を経て幅広い領域 の評論を手がける。 二人の立論が一般的な英語指導者の論と異なる点を見る。

また, その言語観, 言語教育観が多和田葉子に通じている点も確認しておく。

1.内田樹『日本の覚醒のために』 (2017),「IV ことばの教育」より  内田氏の講演は全国高校国語教育研究連合会(2013)のためのもの。多

くの示唆に充ちた講演だが,本稿の主題にあう部分を以下に抜粋する。

(1)市場原理・競争原理が導入された結果,学校教育が荒廃した。(略)

 韓国の英語熱はすさまじい。(中略)韓国人の先生が英語で授業をする

(18)

という奇妙な風景が珍しくなくなってきています。(中略)高級マンショ ンの中には, マンション内公用語が英語であるところがあるのだそうです。

(中略)英語のうまさは口を開いたら一瞬で分かります。ネイティブ・ス ピーカーの英語なのか,中等教育から英語圏に留学して身につけた英語な のか,韓国で韓国人の先生から学んだ英語なのか,すぐに分かる。こうい うふうに口を開いただけで所属階層がわかるような仕掛けのことを verbal distinction「言語による階層化」と呼びます。…『マイ・フェア・レディ』

です。(pp. 207-212)

(2 )日本語では,所属階層によって用いる言語の語彙が違うとか,文法が違 うとか,活用形が違うというようなことはありません。言語運用がダイレ クトに所属階層の記号になるということはない。それはささやかながら日 本社会の「よい点」だと僕は評価しています。(p. 215)

(3 )母語と外国語の最大の違いは何でしょうか。それは母語話者は,言語の ルールを変えることができる,「ネオロジズム(新造語)」の発明が許され るということです。母語以外の言語ではそれはできません。どれほど流 暢に操っても,外国語話者は文法上の破格や,活用形の発明が許されませ ん。ベーシック・イングリッシュというものがあります。イギリスの言語 学者チャールズ・ケイ・オグデンによって考案された基礎語 850 語からな るもので[…以下略]。でも,これは発明者が英語話者だから可能な提案 だったと思います。非英語話者が同じものを提案しても,英語をバカにす るのかという感情的反発を食らって, 一顧だにされなかったでしょう。 (pp.

219-220)

[短評]トウェインはなんと勇敢で無鉄砲であったことか。むろん半分は諧 謔を意図したものだったとしても,内田[や多和田]のように[そして次に 見る蓮實のように]安易な外国語への同化,馴化,追従に懐疑的であったこ とは間違いない。多和田の位置は微妙だ。内田が例外的とする「母語を変え る権利を持つ人」,つまり母語者に限りなく近づいているのか。外国語の攪 乱者に留まるのか。

(4 )英語は国際共通語としてはきわめて有用です。でも, 非英語圏の人々は,

英語を用いる限り,他の誰によっても生み出しえなかった「人類の共通財

産」を生み出すことはできない。「できない」とはっきり断定するのは控

えますけれど,そのためには言語の天才であるか,あるいは英語を母語同

(19)

様に扱えるようになるまでの膨大な学習努力を要する。(p. 229)

[短評]多和田のような作家を意識しているのだろうか。

(5 )[筆者注:江藤淳『近代以前』を紹介後こう続く。]僕たちは外国語を読 むこともできるし,それなりにリーダブルな文章を書くこともできます。で も,外国語によっては,それぞれの言語共同体の「死者たちの世界」に,そ の言語が「つくりあげて来た文化の堆積」につながる回路にはアクセスする ことができません。外国語を用いている限り,その外国語話者たちの「思考 が形をなす前の淵に澱むもの」には触れることができない。けれども,江藤 によれば,文学はその「淵に澱むもの」からしか生まれてこない。(p. 231)

[短評]それゆえ, 外国語は道具でよい, という結論にはたぶん行き着かない。

なぜか? その根拠を,できれば学習者も,そして指導者は必ず考えるべき だ。

(6 )ホメロスや稗田阿礼やラビたちが大量のデータを暗誦できたのは,彼ら が身体の古層において, 死者たちとつながる回路を保持していたからです。

彼らは江藤淳のいう「沈黙の言語」 とともに生きていた。その 「つながり」

というのは叡智的なものではありません。もっとずっと生物的な,身体的 なつながりです。そういうものが僕らの中には確かに存在する。存在しな いのなら僕らが実際にわずかな期間に母語を習得し,外国語を学ぶことが できるというこの能力を説明することは難しいと思う。しかし,今の国語 教育や英語教育は,そういう人間の蔵している言語能力の底知れなさや,

可塑性については,ほとんど何の関心も示さない。ましてや母語のうちに は「死者たちの世界との回路」があるというような話には耳も傾けない。

でも,言語を功利的に,道具的に操ろうとする人たちは必ずその報いを受 けることになると思います。言語を侮ってはいけない。何千年にもわたっ て伝えられてきた言語は死者たちからの贈り物です。われわれはそれを受 け取り,次の世代に伝えていく。先人から贈り物を受け取り,未来の世代 にパスする。そういう流れの中に言語はある。(pp. 247-248)

[短評]講演の結びに近いこの部分は,口調もかなり激しい。内田の主張は

先刻承知だという反論は当然あるにちがいない。そのうえで専門研究や実践

を重ねている,と。言語学,言語教育学,文学は当該問題に関してどこで袂

を分かつのだろう。科学,数学,哲学,文学と,領域が異なれば目的や方法

も異なる。言語の捉え方も変わる。同道できないのであれば,互いの分岐点

(20)

くらいは知っておきたい。

 物理学から文学に方向転換し世界・日本文学全集を個人で編んだ池澤夏樹 の科学啓蒙書や,生物学者福岡伸一の著書,氏が訳した R・ドーキンスなど を読むと(むろんそれ以前にも類書や古典はあるのだが),科学と詩の「あ いだ」を考えないわけにはいかなくなる

5

。人間は,あるいは各学問は何を 目指すのか? 接点は?

2 .蓮實重彦『フランス語の余白に』 (1989)より

 間口を広げすぎた。フランス系にもどる。内田樹氏とは異なる筆法でフ ランス語の学習について論じる蓮實氏の独特の表現と主張を見る。

   ◆この書物は,日本の大学の教養課程でフランス語をはじめて学ぶ人び とを対象とした教科書である。(略)◆この教科書のとりあえずの目的 は,適当に単位がとれれば充分である人びとにとって,フランス語との さして遠からぬ時期に起るだろう訣別を曖昧なものとせず,自分とは無 縁のものと断じ,心おきなく遠ざかりうるための直接の契機となること である。但し,フランス語から遠ざかるのであれば,せめて,英語で外 国人との派手な喧嘩を演じうる程度の語学力だけは,各自,手に入れて おいていただきたい。われわれが外国語を学ぶ唯一の目的は,日本語を 母国語としてはいない人びとと喧嘩することである。大学生たる者,国 際親善などという美辞麗句に,間違ってもだまされてはならぬ。◆にも かかわらずフランス語との訣別を容認しない人びと,または教師の制度 的特権によって彼らを訣別させまいとする人びとにとって,この教科書 はその利用価値をまったく欠いているわけではない。そればかりか,他 の類書には見られない新たな趣向がこらされている。視覚的,あるいは 聴覚的にフランス語へと接近するのではなく,もっぱら手を動かして,

つまり書くことによって肉体的にそれを同化すべく作られているのだ。

◆そのために,各課の冒頭に短いテキストが置かれている。これは正し

い発音で読まれ,意味を正しく解釈される必要のない文章である。そう

されてもいっこうにさしつかえないが,利用者諸氏は,これらの文章を

ただ盲滅法に書き写し,ついには原典を見ずに全文がすらすら書き綴れ

るようになってほしい。それが厄介だというのなら,この部分は授業で

とりあげる必要はない。あるいは,その作業を夏休みなどの長い休暇に

行ってもよい。いずれにせよ,訳すことよりは,これを暗記して書ける

(21)

ようにすることが重要である。◆もちろん,この部分にかぎらず,他の 例文を正しく発音したいという意志は尊重されてもよい。 その場合には,

あたかも自分がフランス人になったように美しく読もうとする必要はな い。美しく読んでもいっこうにかまわないが,それよりも,明瞭に発音 すること。速く読もうとするよりは,むしろ,自分のなまりに誇りを持 ちつつ,はっきり発音すべく心がけること。◆五つの母音に馴れている 現代の日本人にとって,半母音(→ II 10),鼻母音(II 10)を含 めて二十近くあるフランス語の母音を完全にマスターすることは至難の 業である。また,どう努力してもできない人が,教師にも学生にも確実 に存在する。それはむしろ自然なことなのだ。それ故,あまりに神経質 になる必要はない。◆発音と綴字の読み方とを混同しないこと。綴字の 読み方は,努力すれば誰にでもおぼえられる。それを,自分にあった音 で口にすればよい。それができないのは,おぼえる意志がないか,不注 意であるかのどちらかである。従って,この種の困難は,個人的に孤独 に解消されうる種類のものだ。しかし,その際も,知性よりは肉体化さ れた手の動きの反復を活用すること。くり返すが,この書物の特徴は,

視覚だの聴覚だのを経由することなく,直接,肉体を駆使すべく作られ ていることにある。 (中略) ◆巻末に二種類の練習問題がそえられている。

いちおう,それぞれの課に対応してはいるが,その課で学んだ知識のみ で解決しうるものとは限らない。外国語の習得に必要とされるのは,自 分では知らないはずのことがふとわかってしまうという特殊な能力であ る。この能力は,自分では知っているはずのことがふとわからなくなっ てしまうといういま一つの能力とともに,もっとも重要なことがらであ る。日本語を語り,聞き,書き,読む場合にも発揮さるべきこの二重の 資質を欠落させた人間は, 決して言葉を肉体化することはできない。(編 者)

[短評]外国語学習に関するこのような批評的言辞にめったにお目にかかる

ことはない。氏は息の長い晦渋ともいえる文体で知られるが,この序文は親

切に◆で区切ってある。だがアイロニーは十分だろう。しかしこれを,文学

者が使う韜晦や逆説やレトリックとしてのみ捉えるのではなく──その時点

で外国語道具主義と道が分かれてしまう──言葉そのものが文学者を介して

言葉というものの特質を「必然的」に,そして「不可避的」に開示している

(22)

と理解したい。

 武芸や能を修める内田は音読や朗誦を薦め,言語の身体化を強調する。一 方,蓮實も肉体と言い,手で書くことを強調する。多和田は朗誦し,書く。

Ⅴ.サイードの考える知識人像──アマチュアにしてエクソフォニスト  『知識人とは何か』 (Representations of the Intellectual, 1994)の「はじめに」

と第 4 章「専門家とアマチュア」より抜粋。

(1 )知識人にとって問題なのは,ケアリが論じたような大衆社会のありよう でなく,むしろインサイダーとかエキスパート,あるいは通人とか専門家

(プロフェッショナル)の存在である。(p. 9)

(2 )普遍性の意識とは,リスクを背負うことを意味する。わたしたちの文化 的背景, わたしたちの用いる言語, わたしたちの国籍は, 他者の現実から,

わたしたちを保護してくれるだけに,ぬるま湯的な安心感にひたらせてく れるのだが,そのようなぬるま湯から脱するには,普遍性に依拠するとい うリスクを背負わなければならない。(pp. 9-10)

(3 )いまや世界は,かつてないほど,多くの専門家やエキスパートやコンサ ルタントであふれかえっている[からである]。(p. 11)

(4 )…国家への忠誠の圧力,そこからどうしたら相対的に自律できるかを模 索すること,これこそ,私見によれば,知識人の主たる責務である。この 責務を念頭において,わたし独自の知識人観がうまれた──知識人とは亡 命者にして周辺的存在であり,またアマチュアであり,さらには権力に対 して真実を語ろうとする言葉の使い手である。(p. 12)

(5 )ここで論じてみたいのは,知識人の独創性と意志とを脅かすかに思わ れる四つの圧力である。(中略)四つの圧力のうち,最初にくるのは専門 分化(スペシャライゼーション)である。現在の教育制度では,教育レ ヴェルが高くなればなるほど,そのぶん教育をうける者は,狭い知の領域 に閉じこめられる。専門能力をむだと考えることではない。問題は,その 専門能力が,直接的な関心事──たとえばビクトリア時代の恋愛詩──の 外にあるものをみえなくさせ,一般的な教養を犠牲にして,人を特定の権 威なり規範的な考えかただけに迎合させるときであり,そうなると専門能 力は,それに対して支払われる代価にみあわないということになる。(pp.

120-121)

(23)

(6 )[チョムスキーが]合衆国の対外政策を批判的な見地から考察しようも のなら,対外政策のエキスパートとみなされている連中が,その発言をさ えぎろうとする──チョムスキーに,対外政策のエキスパートとしての資 格がないという理由だけで。チョムスキーの議論に対して反論が寄せられ るというのではない。ただ,チョムスキーが容認された論争とかコンセン サスの外にいることだけが問題になってしまうのである。(pp. 125-126)

(7 )専門化とは異なる一連の価値観や意味,それをわたしは<アマチュア主 義>(アマチュアリズム)の名のもとに一括しようと思う。アマチュアリ ズムとは,文字どおりの意味をいえば,利益とか利害に,もしくは狭量な る専門的観点にしばられることなく,憂慮とか愛着によって動機づけられ る活動のことである。

 現代の知識人は,アマチュアたるべきである。アマチュアというのは,

社会のなかで思考し憂慮する人間のことである。(pp. 129-130)

[短評]BBC Radio 4 のリース講演は 1948 年に始まった。爾来 72 年,数々 の碩学・名士が演壇に立っている。サイードが登壇したのは 1993 年。彼の 構えがよく分かるすばらしい講演である。「知識人とは亡命者にして周辺的 存在であり,またアマチュアであり,さらには権力に対して真実を語ろうと する言葉の使い手である。」

Ⅵ.多重人格的外国語学習者と統合失調症的外国語学習者

 丹生谷貴志「『多重人格について』(中井久夫)の余白に」 (2000)より

(1 )医学的概念は知らないが,この点で「多重人格者」は「分裂症」とは異 質のものとされるのではないだろうか。何故ならば,「多重人格者」を総 合的に「一人」として見た場合たしかにその者は人格分裂の中にいるのだ が, 一方で, 各「人格」として見た場合, それぞれの「人格」は独立した,

むしろ普通の私たちの人格にくらべてすら分裂のない自足した人格のよう に見えるからである。(中略)中井久夫氏も次のように書いている。「私の 知るすべての多重人格者の各「人格」には葛藤がない」(同前)。

 そしてむしろ,各「人格」に(各「人格」間にではない)葛藤が存在し ないという点にこそ中井氏は「多重人格者」の病理を見ている。

「健康な人格は葛藤をはらんで変貌する。ロボットのような無葛藤性が

多重人格者を「苦悩なき苦悩」に陥れ,さいなむのである」(同前)。

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