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オルタのサクロ・モンテとその礼拝堂装飾

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(1)

キーワード:

オルタ、サクロ・モンテ、アッシジの聖フランチェスコ、芸術家、礼拝堂装飾 Keywords: Orta, Sacro Monte, St. Francis of Assisi, Artists, Chapels Decoration

Summary

The Sacro Monte of Orta located in the province of Novara, Piedmont, is a complex devotional dedicated to St. Francis of Assisi, one of the most revered saints in the Catholic world. It was also registered as a UNESCO World Heritage Site in 2003 as one of the nine Sacri Monti. This complex has already been briefly introduced and mentioned in books and papers in Japan, along with other Sacri Monti, and reported in the media. However, as far as I can tell, there is no paper that outlines the process of its formation and the decoration of chapels by taking up the complex of Orta alone.

In this paper, as part of the author’s overall understanding of the movement of artists between Sacri Monti and the actual situation of collaborative decoration work at that time, I tried to grasp the overall picture of the Sacro Monte of Orta, especially the painters and sculptors involved in chapels decoration.

First, in Chapter 1, I gave an overview of the process from the conception of the Sacro Monte of Orta to the start and completion, referring to the main figures involved in each period. Then, in Chapter 2, after touching on the original concept of the chapels, I clarified what kind of architects, painters and sculptors were involved in the construction of each chapel and its decoration along the current pilgrimage course, and I created a list at the same time. Then, in the final conclusion, I organized and the overview and the points to be clarified by the work in Chapter 1 and 2.

オルタのサクロ・モンテとその礼拝堂装飾

The Sacro Monte of St. Francis of Orta and the Decoration of its Chapels

関根 浩子

Hiroko SEKINE

崇城大学芸術学部美術学科教授

Professor, Department of Fine Arts, Faculty of Art, Sojo University

(2)

する。そして最後の結語において、1、2 章の概観や作業による解明点を整理した い。

1. オルタのサクロ・モンテの構想 から完成までの経緯と経過

本章ではまず、オルタのサクロ・モンテ の構想から完成までを概観するが、その建 造は 3期に分けられるように思われる。1 期はオルタの自治都市が建造の意向を表明 した 1590年から 1630年頃までのマニエリ スム様式が際立っている時期、次いで2期 は 1630年頃から 17世紀末頃までのバロッ ク様式が支配的な時期である。そして 3期 は、後期バロックや新しいロココ様式を自 由に融合させている 17世紀末から 18世紀 末までの時期である。

なお、A. マルツィ氏が『オルタ・サン・

ジューリオ サクロ・モンテの建造現場』

(Orta San Giulio La Fabbrica del Sacro Monte,

a cura di A. Marzi, Centro Studi Sistemi Ambientali della Fondazione Giorgio Amendola, Mappano- Torino, 1991, p. 134)に掲載

している 1580

~1700年までの歴代ノヴァーラ司教とオ ルタの建造現場で建造、制作に当たった主 要な彫刻家や画家たちの一覧表に加筆、修 正を施した表(表1)を作成した。併せて 参照されたい。

1-1

 第

1

期(

1590

年~

1630

年頃)

建造の請願・主題

オルタのサクロ・モンテは、1583年に オルタの自治都市がサン・ニコラオ山上に 修道院と礼拝堂を備えた新たな建造物の建

造を公式に請願したことから始まる。同所 にはすでに歴史的に古いサン・ニコラオ聖 堂が建っており、15世紀のピエタの木彫 像が崇敬されていた。オルタ出身の公証人 エリナ・オリーナは、1583年に先行する 1538年7月22日にこの聖母像が「汗をか き、色を変え、瞬きする」のが目撃された と語っているが、その後も奇跡や数多くの 治癒例が続き、人々をこの山に惹き付けて いたという(3)。つまり、このサクロ・モ ンテはすでに信仰を集めていた場所に具現 された施設であったと言える。

オルタの住民の建造の表明については、 それに先行して、たまたまオルタ湖岸に立 ち寄ったノヴァーラのサン・バルトロメ オ・ディ・ヴァッロンブローザ修道院長ア ミーコ・カノービオ(?

-1592

年)が、山 から見える光景の美しさに魅了され、住民 や同地の支配者たちにサクロ・モンテと修 道院の建設計画を投げかけ、彼らから同意 を得ていたとされる(4)。さらにこの表明 については、およそ 1世紀も前から、クー ジオのように遠い地域からさえ信徒や巡礼 者を引き寄せていたヴァラッロのサクロ・ モンテの宗教上、また、おそらくは経済活 動上の名声と評判が影響した可能性が指摘 されている(5)

また、この総体をアッシジの聖人に献じ ることを提案したのは、1584年にヴァ ラッロのサクロ・モンテのキリストの墓へ の最後の贖罪の旅を終えてミラノに戻る途 中、サン・ジューリオ島に滞在したミラノ 大 司 教 聖カ ル ロ・ボ ッ ロ メ ー オ(在 位 1564-1584年、1584年没)で、その時彼は 同席したカノービオに聖フランチェスコが

ピエモンテ州ノヴァーラ県(管区として もノヴァーラ県)にあるオルタのサクロ・

モンテは、アッシジの聖フランチェスコ、

すなわちカトリック世界でもっとも崇敬さ れている聖人のひとりに捧げられた巡礼施 設であり、2003年には他の 8 つのサクロ・

モンテとともに群としてユネスコの世界文 化遺産に登録された。

このサクロ・モンテは、オルタ市民が住 む石灰岩でできた岬に聳える高さ約400m の丘の上にある。この高所は、湖やサン・

ジューリオ島、オルタ市街、そしてかつて は草地や果樹園が斜面を占めていた段々畑 状の傾斜地に面しており、その例えようも ない風景上の立地ゆえに選ばれたに違いな い(1)

同所は元来、オルタの自治都市が指名し た一群の名士の中からノヴァーラ司教が選 んだ人物を構成員とする「教会財産管理委 員会」によって管理(2)されていた。そし てこの委員会が、この宗教的総体の建造と そのメンテナンスに、布施や寄進によって 集められた資金を提供していた。これに対 し、20世紀初頭からは、サン・ニコラオ 聖堂に隣接する修道院に居住するフラン チェスコ会士(当初はカプチン会士が居 住)が、この巡礼地を宗教的に管理するこ とになり、司教区が公式に撤退し、教会財 団管理委員会も解散したため、サクロ・モ ンテの管理は、山の所有者であるサン・

ジューリオの自治都市と、聖堂を司祭する フランチェスコ会士(小さき兄弟会士)に のしかかった。そこでピエモンテ州は、礼

拝堂と巡礼コースを、周囲の自然環境との 緊密な相互関係を保ったまま保護すること に決め、財団を設立した。そしてこの財団 によって、この総体の歴史的、宗教的、ま た森林的遺産を保護、保存、評価する目的 で、1980年に「オルタのサクロ・モンテ の自然保護区」が創設されたが、この州立 の財団は、1980年以降は、オルタのサク ロ・モンテの文化的、教育的、科学的享受 の奨励を目的のひとつとする行政委員会に 指揮されることになった。こうして同財団 には技術者や行政官、監視員が配属され、

現在も彼らが、大部分は州の資金で総体

(礼拝堂や植栽)の修復やメンテナンスを 行っている。

このオルタの総体については、日本で も、その他のサクロ・モンテ群とともにす でに書籍や論考中で簡略に紹介、言及さ れ、メディアでも報道された。しかし、同 施設を単独で取り上げ、その成立過程や礼 拝堂装飾を概説した論考は管見の限りまだ ない。そこで本稿では、稿者が進めるサク ロ・モンテ間における芸術家の移動や共同 制作の実態などに関する全体的把握の一環 として、このサクロ・モンテの全体像、と りわけ礼拝堂装飾に携わった画家や彫刻家 たちの把握を試みる。

まず 1章では、オルタのサクロ・モンテ 構想から着工、完成までの経緯を、それぞ れの時期に関わった主要な人物に言及しな がら概観する。次いで 2章では、当初の礼 拝堂群に関する構想に触れた後、現在の巡 礼の行程に沿いながら、各礼拝堂の建造と その装飾に関わった建築家や画家、彫刻家 を可能な限り明示し、併せて一覧表を作成

(3)

する。そして最後の結語において、1、2 章の概観や作業による解明点を整理した い。

1. オルタのサクロ・モンテの構想 から完成までの経緯と経過

本章ではまず、オルタのサクロ・モンテ の構想から完成までを概観するが、その建 造は 3期に分けられるように思われる。1 期はオルタの自治都市が建造の意向を表明 した 1590年から 1630年頃までのマニエリ スム様式が際立っている時期、次いで2期 は 1630年頃から 17世紀末頃までのバロッ ク様式が支配的な時期である。そして 3期 は、後期バロックや新しいロココ様式を自 由に融合させている 17世紀末から 18世紀 末までの時期である。

なお、A. マルツィ氏が『オルタ・サン・

ジューリオ サクロ・モンテの建造現場』

(Orta San Giulio La Fabbrica del Sacro Monte,

a cura di A. Marzi, Centro Studi Sistemi Ambientali della Fondazione Giorgio Amendola, Mappano- Torino, 1991, p. 134)に掲載

している 1580

~1700年までの歴代ノヴァーラ司教とオ ルタの建造現場で建造、制作に当たった主 要な彫刻家や画家たちの一覧表に加筆、修 正を施した表(表1)を作成した。併せて 参照されたい。

1-1

 第

1

期(

1590

年~

1630

年頃)

建造の請願・主題

オルタのサクロ・モンテは、1583年に オルタの自治都市がサン・ニコラオ山上に 修道院と礼拝堂を備えた新たな建造物の建

造を公式に請願したことから始まる。同所 にはすでに歴史的に古いサン・ニコラオ聖 堂が建っており、15世紀のピエタの木彫 像が崇敬されていた。オルタ出身の公証人 エリナ・オリーナは、1583年に先行する 1538年7月22日にこの聖母像が「汗をか き、色を変え、瞬きする」のが目撃された と語っているが、その後も奇跡や数多くの 治癒例が続き、人々をこの山に惹き付けて いたという(3)。つまり、このサクロ・モ ンテはすでに信仰を集めていた場所に具現 された施設であったと言える。

オルタの住民の建造の表明については、

それに先行して、たまたまオルタ湖岸に立 ち寄ったノヴァーラのサン・バルトロメ オ・ディ・ヴァッロンブローザ修道院長ア ミーコ・カノービオ(?

-1592

年)が、山 から見える光景の美しさに魅了され、住民 や同地の支配者たちにサクロ・モンテと修 道院の建設計画を投げかけ、彼らから同意 を得ていたとされる(4)。さらにこの表明 については、およそ 1世紀も前から、クー ジオのように遠い地域からさえ信徒や巡礼 者を引き寄せていたヴァラッロのサクロ・

モンテの宗教上、また、おそらくは経済活 動上の名声と評判が影響した可能性が指摘 されている(5)

また、この総体をアッシジの聖人に献じ ることを提案したのは、1584年にヴァ ラッロのサクロ・モンテのキリストの墓へ の最後の贖罪の旅を終えてミラノに戻る途 中、サン・ジューリオ島に滞在したミラノ 大 司 教 聖カ ル ロ・ボ ッ ロ メ ー オ(在 位 1564-1584年、1584年没)で、その時彼は 同席したカノービオに聖フランチェスコが

ピエモンテ州ノヴァーラ県(管区として もノヴァーラ県)にあるオルタのサクロ・

モンテは、アッシジの聖フランチェスコ、

すなわちカトリック世界でもっとも崇敬さ れている聖人のひとりに捧げられた巡礼施 設であり、2003年には他の 8 つのサクロ・

モンテとともに群としてユネスコの世界文 化遺産に登録された。

このサクロ・モンテは、オルタ市民が住 む石灰岩でできた岬に聳える高さ約400m の丘の上にある。この高所は、湖やサン・

ジューリオ島、オルタ市街、そしてかつて は草地や果樹園が斜面を占めていた段々畑 状の傾斜地に面しており、その例えようも ない風景上の立地ゆえに選ばれたに違いな い(1)

同所は元来、オルタの自治都市が指名し た一群の名士の中からノヴァーラ司教が選 んだ人物を構成員とする「教会財産管理委 員会」によって管理(2)されていた。そし てこの委員会が、この宗教的総体の建造と そのメンテナンスに、布施や寄進によって 集められた資金を提供していた。これに対 し、20世紀初頭からは、サン・ニコラオ 聖堂に隣接する修道院に居住するフラン チェスコ会士(当初はカプチン会士が居 住)が、この巡礼地を宗教的に管理するこ とになり、司教区が公式に撤退し、教会財 団管理委員会も解散したため、サクロ・モ ンテの管理は、山の所有者であるサン・

ジューリオの自治都市と、聖堂を司祭する フランチェスコ会士(小さき兄弟会士)に のしかかった。そこでピエモンテ州は、礼

拝堂と巡礼コースを、周囲の自然環境との 緊密な相互関係を保ったまま保護すること に決め、財団を設立した。そしてこの財団 によって、この総体の歴史的、宗教的、ま た森林的遺産を保護、保存、評価する目的 で、1980年に「オルタのサクロ・モンテ の自然保護区」が創設されたが、この州立 の財団は、1980年以降は、オルタのサク ロ・モンテの文化的、教育的、科学的享受 の奨励を目的のひとつとする行政委員会に 指揮されることになった。こうして同財団 には技術者や行政官、監視員が配属され、

現在も彼らが、大部分は州の資金で総体

(礼拝堂や植栽)の修復やメンテナンスを 行っている。

このオルタの総体については、日本で も、その他のサクロ・モンテ群とともにす でに書籍や論考中で簡略に紹介、言及さ れ、メディアでも報道された。しかし、同 施設を単独で取り上げ、その成立過程や礼 拝堂装飾を概説した論考は管見の限りまだ ない。そこで本稿では、稿者が進めるサク ロ・モンテ間における芸術家の移動や共同 制作の実態などに関する全体的把握の一環 として、このサクロ・モンテの全体像、と りわけ礼拝堂装飾に携わった画家や彫刻家 たちの把握を試みる。

まず 1章では、オルタのサクロ・モンテ 構想から着工、完成までの経緯を、それぞ れの時期に関わった主要な人物に言及しな がら概観する。次いで 2章では、当初の礼 拝堂群に関する構想に触れた後、現在の巡 礼の行程に沿いながら、各礼拝堂の建造と その装飾に関わった建築家や画家、彫刻家 を可能な限り明示し、併せて一覧表を作成

(4)

芸術家たちが作成した図案を検査した(10)。 彼は「質の高い芸術」を選ぶよう薦め、と りわけ物語られている場面と聖典やフラン チェスコ会の諸原典との整合性、信徒に とっての場面の明瞭性や理解の容易さに留 意していた。従って芸術家たちは、出来事 を正確に物語り、この上ない自然さで場面 を描写して、信徒たちの琴線や感受性に触 れることを目指さなければならなかったの である。

さらに、オルタ・リヴィエラの封建領主 でもあったバスカペは、しばしばサン・

ジューリオ島の自身の館に滞在していたこ ともあり、個人的に第3堂「アッシジの司 教に世俗の財産を委ねるフランチェスコ」

を寄進してもいる。この時点で、オルタの サクロ・モンテに対する彼の関心と存在は 政治的意味も帯びたと言える。

礼拝堂建築・堂内の設営・芸術家

第1期の礼拝堂群の建築は、ルネサンス 末期の建築か、ペルージャの建築家ガレ ア ッ ツ ォ・ ア レ ッ シ(1512-1572年)が ヴァラッロのサクロ・モンテのために作成 した図面の研究を通して刷新された地元の 伝統的建築を手本にしていた。そして、

ヴァラッロにおけると同様、信徒(観者)

の空間と彫刻群が配されている空間とを隔 てるために、鑑賞用の穴が開いた木製の格 子が設置された。

礼拝堂内の設営も、ヴァラッロのサク ロ・モンテの影響を大いに受けていた。彫 刻は極めて親密で控え目なリアリズムが特 徴で、壁画は優美で当世風にされているも のの、叙述的で明瞭である。この時期にオ ルタのサクロ・モンテに作品を提供したの

は、ミラノやノヴァーラで頭角を現してい た彫刻家クリストフォロ・プレスティナー リ(1573-1623年)や 、画 家ジ ョ ヴ ァ ン ニ・バッティスタ・デッラ・ローヴェレ

(1560-1627年)とその弟ジョヴァンニ・ マウロ・デッラ・ローヴェレ(1575-1640 年)のフィアミンギーニ兄弟、ピエル・フ ランチェスコ・マッツケッリ、通称モラッ ツ ォ ー ネ(1573-1626年)と い っ た大 画 家、そしてジャコモ・フィリッポ(17世 紀に活動)とベルナルド・フィリッポ(不 詳)のモンティ兄弟のようなオルタの画家 であった。

タヴェルナ、ヴォルピとオルタのサクロ・ モンテ

バスカペの後継者であるノヴァーラ司教 タヴェルナ(在位1615-1619年)と

V.

ヴォ ルピ(1619-1629年)、G. P. ヴォルピ(1629- 1636年)も、このサクロ・モンテの建造 現場に対する厳格な規制を維持した。彼ら の選択の基準もバスカペのそれと同じで、 例えばヴォルピは「淫らで下品」という理 由で第4堂の寓意像に衣を纏わせている。 場面の表現についても、バスカペ同様、聖 史に忠実であるよう指示した。

他方で、芸術家は継続して採用されな かった。プレスティナーリやフィアミン ギーニ兄弟は 1610年代まで制作した後、 オルタを去った。その後はヴァラッロの建 造現場に目が向けられ、1630年代以降、 ヴァラッロと同じ働き手、すなわちジョ ヴァンニ・デンリーコ(1559-1644年)と メ ル キ オ ー レ・デ ン リ ー コ(1573-1642 年)の兄弟、並びに彼らの助手がオルタに 呼ばれて彫刻制作に当たった。壁画につい 体験した贖罪のテーマを提案し、その数日

後にはさらに同地のカプチン会修道院長と ともに表現する場面のテーマを選んで彼に 示したという(6)

建造の開始

オルタの自治都市による建造表明後、サ クロ・モンテの建造に決定的に弾みをつけ たのは上述のカノービオであった。彼は人 文科学や神学に通じたノヴァーラの貴族 で、教会関係からの収益によって裕福でも あり、この事業に資金面で関わって 1590 年における修道院建造の口火を切った。同 修道院はやがて、カプチン会士はもちろ ん、キリストの墓の礼拝堂や聖フランチェ スコに関係する第18堂から第20堂までを 受け入れることになる。

一方、この修道院自体と、キリストの

「まねび」を鍵として聖フランチェスコの 生涯を36、次いで縮少して33(7)の場面で 物語らせようとした当初の構想の起草者 は、ノヴァーラ出身のカプチン会士で建築 家でもあったクレート・ダ・カステルレッ ト・ティチーノ(1556-1619年)であった。

彼は 16世紀末のロンバルディアに近い環 境で文化的形成を遂げた人物で、ペッレグ リーノ・ティバルディ(1527-1596年)の 弟子あったと推測(8)されており、建造さ れた修道院の最初の修道院長に任命され て、カノービオと緊密に協力しながら建造 作業に着手していく。クレートのプロジェ クトは礼拝堂を順序よく並べることを想定 したもので、それらの礼拝堂は湖に面した 突端の斜面全体を最大限活かした巡礼コー スを備えていた。そしてその外観は、16 世紀の対抗宗教改革全盛期に聖カルロとノ

ヴ ァ ー ラ司 教カ ル ロ・バ ス カ ぺ(在 位 1593-1615年)を通して刷新、再配列され たヴァラッロの最古のサクロ・モンテを手 本としていた。クレートが 1600年代のい つまでオルタにいたかは不明であるが、こ のオルタの山の外周上のほとんどすべての 礼拝堂、すなわち傑出した 10 の礼拝堂は 彼が建造の監督を行ったとされる(9)。 バスカペとオルタのサクロ・モンテ

ノヴァーラ司教バスカペは、トレント公 会議の規定を適用させようと、聖カルロが 導いたミラノ教区で展開されていた活発な 文化的論争に参加した他、イメージを利用 して文盲の信徒に聖典を広めようと、個人 的にもイメージの正しい活用法について熟 考していた。

このような中で、サクロ・モンテ群は、

共通の宗教性を導き、信徒を教育するため の特別の道具、すなわち教理享受の道具と された。バスカペがノヴァーラに赴き、教 区の聖職者に対し、信心の場で実践される すべてのことを彼に委ねるよう厳格な指導 を行ったことは偶然ではなく、彼は、ヴァ ラッロとオルタのサクロ・モンテに対して きわめて用意周到にこうした指導を具体化 した。彼は、オルタについては、すでに最 初の3堂が建造済みであった1593年から携 わり、丘の上に網のように礼拝堂を配した クレート起草の複雑な行程を個人的に検 証、修正した。バスカペが主に必要と考え たのは、①物語の明瞭さや、②語るべきエ ピソードの正確な連続性、そして③徒歩で なされる巡礼ルートの容易な流れ、であっ た。彼はまた、礼拝堂内で示すべき場面に ついても指示し、そうした指示に基づいて

(5)

芸術家たちが作成した図案を検査した(10)。 彼は「質の高い芸術」を選ぶよう薦め、と りわけ物語られている場面と聖典やフラン チェスコ会の諸原典との整合性、信徒に とっての場面の明瞭性や理解の容易さに留 意していた。従って芸術家たちは、出来事 を正確に物語り、この上ない自然さで場面 を描写して、信徒たちの琴線や感受性に触 れることを目指さなければならなかったの である。

さらに、オルタ・リヴィエラの封建領主 でもあったバスカペは、しばしばサン・

ジューリオ島の自身の館に滞在していたこ ともあり、個人的に第3堂「アッシジの司 教に世俗の財産を委ねるフランチェスコ」

を寄進してもいる。この時点で、オルタの サクロ・モンテに対する彼の関心と存在は 政治的意味も帯びたと言える。

礼拝堂建築・堂内の設営・芸術家

第1期の礼拝堂群の建築は、ルネサンス 末期の建築か、ペルージャの建築家ガレ ア ッ ツ ォ・ ア レ ッ シ(1512-1572年)が ヴァラッロのサクロ・モンテのために作成 した図面の研究を通して刷新された地元の 伝統的建築を手本にしていた。そして、

ヴァラッロにおけると同様、信徒(観者)

の空間と彫刻群が配されている空間とを隔 てるために、鑑賞用の穴が開いた木製の格 子が設置された。

礼拝堂内の設営も、ヴァラッロのサク ロ・モンテの影響を大いに受けていた。彫 刻は極めて親密で控え目なリアリズムが特 徴で、壁画は優美で当世風にされているも のの、叙述的で明瞭である。この時期にオ ルタのサクロ・モンテに作品を提供したの

は、ミラノやノヴァーラで頭角を現してい た彫刻家クリストフォロ・プレスティナー リ(1573-1623年)や 、画 家ジ ョ ヴ ァ ン ニ・バッティスタ・デッラ・ローヴェレ

(1560-1627年)とその弟ジョヴァンニ・

マウロ・デッラ・ローヴェレ(1575-1640 年)のフィアミンギーニ兄弟、ピエル・フ ランチェスコ・マッツケッリ、通称モラッ ツ ォ ー ネ(1573-1626年)と い っ た大 画 家、そしてジャコモ・フィリッポ(17世 紀に活動)とベルナルド・フィリッポ(不 詳)のモンティ兄弟のようなオルタの画家 であった。

タヴェルナ、ヴォルピとオルタのサクロ・

モンテ

バスカペの後継者であるノヴァーラ司教 タヴェルナ(在位1615-1619年)と

V.

ヴォ ルピ(1619-1629年)、G. P. ヴォルピ(1629- 1636年)も、このサクロ・モンテの建造 現場に対する厳格な規制を維持した。彼ら の選択の基準もバスカペのそれと同じで、

例えばヴォルピは「淫らで下品」という理 由で第4堂の寓意像に衣を纏わせている。

場面の表現についても、バスカペ同様、聖 史に忠実であるよう指示した。

他方で、芸術家は継続して採用されな かった。プレスティナーリやフィアミン ギーニ兄弟は 1610年代まで制作した後、

オルタを去った。その後はヴァラッロの建 造現場に目が向けられ、1630年代以降、

ヴァラッロと同じ働き手、すなわちジョ ヴァンニ・デンリーコ(1559-1644年)と メ ル キ オ ー レ・デ ン リ ー コ(1573-1642 年)の兄弟、並びに彼らの助手がオルタに 呼ばれて彫刻制作に当たった。壁画につい 体験した贖罪のテーマを提案し、その数日

後にはさらに同地のカプチン会修道院長と ともに表現する場面のテーマを選んで彼に 示したという(6)

建造の開始

オルタの自治都市による建造表明後、サ クロ・モンテの建造に決定的に弾みをつけ たのは上述のカノービオであった。彼は人 文科学や神学に通じたノヴァーラの貴族 で、教会関係からの収益によって裕福でも あり、この事業に資金面で関わって 1590 年における修道院建造の口火を切った。同 修道院はやがて、カプチン会士はもちろ ん、キリストの墓の礼拝堂や聖フランチェ スコに関係する第18堂から第20堂までを 受け入れることになる。

一方、この修道院自体と、キリストの

「まねび」を鍵として聖フランチェスコの 生涯を36、次いで縮少して33(7)の場面で 物語らせようとした当初の構想の起草者 は、ノヴァーラ出身のカプチン会士で建築 家でもあったクレート・ダ・カステルレッ ト・ティチーノ(1556-1619年)であった。

彼は 16世紀末のロンバルディアに近い環 境で文化的形成を遂げた人物で、ペッレグ リーノ・ティバルディ(1527-1596年)の 弟子あったと推測(8)されており、建造さ れた修道院の最初の修道院長に任命され て、カノービオと緊密に協力しながら建造 作業に着手していく。クレートのプロジェ クトは礼拝堂を順序よく並べることを想定 したもので、それらの礼拝堂は湖に面した 突端の斜面全体を最大限活かした巡礼コー スを備えていた。そしてその外観は、16 世紀の対抗宗教改革全盛期に聖カルロとノ

ヴ ァ ー ラ司 教カ ル ロ・バ ス カ ぺ(在 位 1593-1615年)を通して刷新、再配列され たヴァラッロの最古のサクロ・モンテを手 本としていた。クレートが 1600年代のい つまでオルタにいたかは不明であるが、こ のオルタの山の外周上のほとんどすべての 礼拝堂、すなわち傑出した 10 の礼拝堂は 彼が建造の監督を行ったとされる(9)。 バスカペとオルタのサクロ・モンテ

ノヴァーラ司教バスカペは、トレント公 会議の規定を適用させようと、聖カルロが 導いたミラノ教区で展開されていた活発な 文化的論争に参加した他、イメージを利用 して文盲の信徒に聖典を広めようと、個人 的にもイメージの正しい活用法について熟 考していた。

このような中で、サクロ・モンテ群は、

共通の宗教性を導き、信徒を教育するため の特別の道具、すなわち教理享受の道具と された。バスカペがノヴァーラに赴き、教 区の聖職者に対し、信心の場で実践される すべてのことを彼に委ねるよう厳格な指導 を行ったことは偶然ではなく、彼は、ヴァ ラッロとオルタのサクロ・モンテに対して きわめて用意周到にこうした指導を具体化 した。彼は、オルタについては、すでに最 初の3堂が建造済みであった1593年から携 わり、丘の上に網のように礼拝堂を配した クレート起草の複雑な行程を個人的に検 証、修正した。バスカペが主に必要と考え たのは、①物語の明瞭さや、②語るべきエ ピソードの正確な連続性、そして③徒歩で なされる巡礼ルートの容易な流れ、であっ た。彼はまた、礼拝堂内で示すべき場面に ついても指示し、そうした指示に基づいて

(6)

壁画では、17世紀末から 18世紀初めに かけて、ロンバルディアの画家ステファ ノ・マリア・レニャーニ(1660/61-1713/15 年)が第16堂に洗練されたロココ様式を 導入した。次いで、ミラノの画家フェデリ コ・フェッラーリ(もしくはフェッラーリ オ)(c. 1714-1802年)が 18世紀中頃に第 14堂に軽やかでエキゾティックなロココ 様式の壁画を手掛け、第12堂では 1772年 にアローナ出身のジョヴァンニ・バッティ スタ・カンタルーピ(1732-1780年)が国 際ロココ風に壁画を描き直している。そし て 18世紀末のミラノ出身のリッカルド・

ドニーノ(生没年不詳)による第15堂の 壁画の全面描き直しをもって終わる。

彫刻では、18世紀中頃にロンバルディ アの彫刻家カルロ・ベレッタ、通称ベレッ トーネ(1690-1765年)が第14堂に後期バ ロックの見事な群像を制作したことが特筆 される。

なお、18世紀末以降の新たな礼拝堂と 先行する幾つかの建物の修復には、早くも 新古典主義の手本の参照が見て取れる。

1-4

 建造に使用された技術・素材

ここで、フィリッピス女史の 1994年の 案内書の解説(12)を参考に、建造や装飾に 使用された技術や素材についても一言して おく。

サクロ・モンテ群の建造現場における建 築や彫刻、絵画の様式上の手本が、歴史 的、文化的な変化や芸術家自身の経験、移 動によって多様ではあっても、伝統から推 測され、また、その土地で幾世紀もの間入 手可能とされた技術や素材に変化はほとん

どない。

まず石材であるが、オルタでは礼拝堂の 屋根には、主にオルタ湖(おそらくオイ ラ)の洞窟から採取された花崗岩のプレー トが用いられた。また、装飾や建築的細部

(アーキトレーヴや柱、付柱、敷居など) に用いられた石材も、建設現場の経費につ いて記している 17世紀の帳簿から、少な くとも一部はバニェーラのセリッツォとオ イラ(いずれもオルタ湖に隣接する地域) といった地元産の大理石であり、しかもそ れらは湖を介してオルタに運ばれたことが 判明している。壁の石材は、ブッチョーネ などの地元の採石場から調達された。教会 財産管理委員会は、採石場として利用され ていた複数の土地を直に購入してもおり、 例えば 1689年には、石の洞窟がある第14 堂の下の土地が購入された。

次いで木材であるが、礼拝堂の屋根の木 製の梁には栗や樫材が使われているが、そ れらはサクロ・モンテの斜面や山中に成育 していて、いつでも入手できた。

また、壁体や床面、漆喰のためのモルタ ルについては、近くのペスコーネ川で採っ た砂が使われた。

さらにテラコッタ用の粘土は、オルタよ り数キロ上方にあるメズマ山のカオリナイ トの採石場から採取されており、少なくと も初期の礼拝堂群のテラコッタ像について は、同所の粘土が用いられていたと推測さ れている。

続いて彫刻像の焼成については、彫刻家 たちがそこで安定して建設現場を運営でき るよう、カノービオ礼拝堂に隣接する建物 内1606年に窯(現存)が造られ、17世紀 ては、モラッツォーネの軌跡上で、アント

ニオ・マリア・クレスピ、通称ブスティー ノ(1590-1630年)と、クリストフォロ・

マルティノーリ(もしくはマルティノーリ オ)、通称ロッカ(c. 1599-1663年)が雇用 された。前者はオルタやボルゴマネーロ、

ロマスコで活躍した画家、後者はヴァル セージア出身で、彼もまたヴァラッロの建 設現場から来た画家であった。

1-2

 第

2

期(

1630

年頃~

17

世紀末)

17世紀の 40、50年代には、建造や設営 作業が遅滞し、管理運営も乱れ、管理者の 責務が同じ一族に限定されたままとなった ため、時のノヴァーラ司教トルニエッリ は、1648年には、オルタのサクロ・モン テの管理を根本的に再組織する必要を感じ ていた。そしてこの頃、同じように巡礼の 行程をバロック的な見世物として再提示す る動きが表面化し、作業が再開されて、第 9堂と第10堂が完成された。あるサクロ・

モンテの制作現場から別のサクロ・モンテ の現場に移って彫刻や壁画を制作する職人 的エキスパートの形成傾向が益々明らかと なったのもこの時期のことであった。

建築については、伝統的なヴァラッロの サクロ・モンテの他、17世紀初めに着工 され、当時はまだ建造中であった新しい ヴァレーゼの例が手本とされるようになっ た。

壁画においては、バロック様式ないしは 趣味は、カルロ・フランチェスコ(1609- 1662年)とジュゼッペ(1619-1703年)の ヌヴォローネ兄弟(パンフィーリともよば れ、すでにヴァレゾット(11)の山で活動)

が第10堂と第17堂で制作した際に導入さ れた。彼らは、ロンバルディアの手法と、

ローマやジェノバヴァ、ヴェネツィア、さ らに同時代のヨーロッパの新しい認識とを 統合した複雑な文化の代弁者であった。さ らに、ヌヴォローネ兄弟のほか、アントニ オ・ブスカ(1625-1686年)やヴァレーゼ 出身のジョヴァンニ・バッティスタ(1643-

1718年

?)とジロラモ(1658-?)のグラン

ディ兄弟も壁画の制作に当たっている。彼 らはいずれもロンバルディアで修業し、

ヴァレーゼのサクロ・モンテでも制作に当 たった。

次いで彫刻では、17世紀後半にはディ オニジ・ブッソラ(1615-1687年)が主役 となった。彼は、数多くの礼拝堂に最初か ら関与した他、既存の礼拝堂に新しい人物 像を加えたり、17世紀初めの幾体かの群 像を自身の新しい像と交換したりしなが ら、そのダイナミックで身振りが演劇的な 作品によって場面をいっそう誇張した。ま た、重い木製の格子窓をごく薄い鉄柵に替 え、群像と建物や観者との関係を根本的に 刷新した。彼は、オルタだけでなくヴァ ラッロやドモドッソラ、そしてヴァレーゼ でも制作に従事しており、サクロ・モンテ 間を移動して制作に当たったという意味で も、この時期を象徴する芸術家であった。

1-3

 第

3

期(

17

世紀末~

18

世紀末)

この時期には、建築では 17世紀末に第 13堂、第16堂、第17堂が建造され、18世 紀中頃には第14堂が姿を現した。また、

1772年には第12堂が改築されて前廊が設 けられた。

(7)

壁画では、17世紀末から 18世紀初めに かけて、ロンバルディアの画家ステファ ノ・マリア・レニャーニ(1660/61-1713/15 年)が第16堂に洗練されたロココ様式を 導入した。次いで、ミラノの画家フェデリ コ・フェッラーリ(もしくはフェッラーリ オ)(c. 1714-1802年)が 18世紀中頃に第 14堂に軽やかでエキゾティックなロココ 様式の壁画を手掛け、第12堂では 1772年 にアローナ出身のジョヴァンニ・バッティ スタ・カンタルーピ(1732-1780年)が国 際ロココ風に壁画を描き直している。そし て 18世紀末のミラノ出身のリッカルド・

ドニーノ(生没年不詳)による第15堂の 壁画の全面描き直しをもって終わる。

彫刻では、18世紀中頃にロンバルディ アの彫刻家カルロ・ベレッタ、通称ベレッ トーネ(1690-1765年)が第14堂に後期バ ロックの見事な群像を制作したことが特筆 される。

なお、18世紀末以降の新たな礼拝堂と 先行する幾つかの建物の修復には、早くも 新古典主義の手本の参照が見て取れる。

1-4

 建造に使用された技術・素材

ここで、フィリッピス女史の 1994年の 案内書の解説(12)を参考に、建造や装飾に 使用された技術や素材についても一言して おく。

サクロ・モンテ群の建造現場における建 築や彫刻、絵画の様式上の手本が、歴史 的、文化的な変化や芸術家自身の経験、移 動によって多様ではあっても、伝統から推 測され、また、その土地で幾世紀もの間入 手可能とされた技術や素材に変化はほとん

どない。

まず石材であるが、オルタでは礼拝堂の 屋根には、主にオルタ湖(おそらくオイ ラ)の洞窟から採取された花崗岩のプレー トが用いられた。また、装飾や建築的細部

(アーキトレーヴや柱、付柱、敷居など)

に用いられた石材も、建設現場の経費につ いて記している 17世紀の帳簿から、少な くとも一部はバニェーラのセリッツォとオ イラ(いずれもオルタ湖に隣接する地域)

といった地元産の大理石であり、しかもそ れらは湖を介してオルタに運ばれたことが 判明している。壁の石材は、ブッチョーネ などの地元の採石場から調達された。教会 財産管理委員会は、採石場として利用され ていた複数の土地を直に購入してもおり、

例えば 1689年には、石の洞窟がある第14 堂の下の土地が購入された。

次いで木材であるが、礼拝堂の屋根の木 製の梁には栗や樫材が使われているが、そ れらはサクロ・モンテの斜面や山中に成育 していて、いつでも入手できた。

また、壁体や床面、漆喰のためのモルタ ルについては、近くのペスコーネ川で採っ た砂が使われた。

さらにテラコッタ用の粘土は、オルタよ り数キロ上方にあるメズマ山のカオリナイ トの採石場から採取されており、少なくと も初期の礼拝堂群のテラコッタ像について は、同所の粘土が用いられていたと推測さ れている。

続いて彫刻像の焼成については、彫刻家 たちがそこで安定して建設現場を運営でき るよう、カノービオ礼拝堂に隣接する建物 内1606年に窯(現存)が造られ、17世紀 ては、モラッツォーネの軌跡上で、アント

ニオ・マリア・クレスピ、通称ブスティー ノ(1590-1630年)と、クリストフォロ・

マルティノーリ(もしくはマルティノーリ オ)、通称ロッカ(c. 1599-1663年)が雇用 された。前者はオルタやボルゴマネーロ、

ロマスコで活躍した画家、後者はヴァル セージア出身で、彼もまたヴァラッロの建 設現場から来た画家であった。

1-2

 第

2

期(

1630

年頃~

17

世紀末)

17世紀の 40、50年代には、建造や設営 作業が遅滞し、管理運営も乱れ、管理者の 責務が同じ一族に限定されたままとなった ため、時のノヴァーラ司教トルニエッリ は、1648年には、オルタのサクロ・モン テの管理を根本的に再組織する必要を感じ ていた。そしてこの頃、同じように巡礼の 行程をバロック的な見世物として再提示す る動きが表面化し、作業が再開されて、第 9堂と第10堂が完成された。あるサクロ・

モンテの制作現場から別のサクロ・モンテ の現場に移って彫刻や壁画を制作する職人 的エキスパートの形成傾向が益々明らかと なったのもこの時期のことであった。

建築については、伝統的なヴァラッロの サクロ・モンテの他、17世紀初めに着工 され、当時はまだ建造中であった新しい ヴァレーゼの例が手本とされるようになっ た。

壁画においては、バロック様式ないしは 趣味は、カルロ・フランチェスコ(1609- 1662年)とジュゼッペ(1619-1703年)の ヌヴォローネ兄弟(パンフィーリともよば れ、すでにヴァレゾット(11)の山で活動)

が第10堂と第17堂で制作した際に導入さ れた。彼らは、ロンバルディアの手法と、

ローマやジェノバヴァ、ヴェネツィア、さ らに同時代のヨーロッパの新しい認識とを 統合した複雑な文化の代弁者であった。さ らに、ヌヴォローネ兄弟のほか、アントニ オ・ブスカ(1625-1686年)やヴァレーゼ 出身のジョヴァンニ・バッティスタ(1643-

1718年

?)とジロラモ(1658-?)のグラン

ディ兄弟も壁画の制作に当たっている。彼 らはいずれもロンバルディアで修業し、

ヴァレーゼのサクロ・モンテでも制作に当 たった。

次いで彫刻では、17世紀後半にはディ オニジ・ブッソラ(1615-1687年)が主役 となった。彼は、数多くの礼拝堂に最初か ら関与した他、既存の礼拝堂に新しい人物 像を加えたり、17世紀初めの幾体かの群 像を自身の新しい像と交換したりしなが ら、そのダイナミックで身振りが演劇的な 作品によって場面をいっそう誇張した。ま た、重い木製の格子窓をごく薄い鉄柵に替 え、群像と建物や観者との関係を根本的に 刷新した。彼は、オルタだけでなくヴァ ラッロやドモドッソラ、そしてヴァレーゼ でも制作に従事しており、サクロ・モンテ 間を移動して制作に当たったという意味で も、この時期を象徴する芸術家であった。

1-3

 第

3

期(

17

世紀末~

18

世紀末)

この時期には、建築では 17世紀末に第 13堂、第16堂、第17堂が建造され、18世 紀中頃には第14堂が姿を現した。また、

1772年には第12堂が改築されて前廊が設 けられた。

(8)

の第8堂)、IX(現在の第9堂)、X(悔 悛者の第三会)、XI(現在の第10堂)、

XII(現在の第

11堂)、XIII(現在の第12

堂)、XIV(アッシジにおける最初の総 会)、XV(現在の第13堂)、XVI(清貧 の称 揚)、XVII(奇 跡の説 教)、XVIII

(最初の研究機関の創設)、XIX(祈祷 中の変容)、XX(誘惑に対する勝利)、

XXI(現在の第

14堂)、XXII(無条件の

従順)、XXIII(報いられた貞潔)、XXIV

(崇敬された単純さ)、XXV(現在の第 15堂)、XXVI(聖痕の真正性の証明)、

XXVII(現在の第

16堂)、XXVIII(生前

の軌跡)、XXIX(現在の第17堂)、XXX

(荘 重な葬 儀)、

XXXI(現 在

の第18 堂)、XXXII(現在の第19堂)、XXXIII

(現在の第20堂)

2-2

 現在のサクロ・モンテ

次いで、現在のサクロ・モンテの状況を 巡礼コースに沿って見ていく(表2参照)。

なお、各礼拝堂に描かれている壁画の諸場 面の主題については、紙幅の都合上ここで は割 愛し た 。そ れ ら に つ い て は 、

E. D.

Filippis; F. M. Carcano, GUIDA AL SACRO MONTE DI ORTA, Riserva Naturale Speciale del Sacro Monte di Orta, Novara, 1991 に詳し

いので参照されたい。

礼拝堂の巡礼ルート

サクロ・モンテの入口は、オルタの広場 からサンタ・マリア・アッスンタ教区聖堂 を通って墓地(20)の脇を進み、サクロ・モ ンテへと至る、ゆったりとしたシデの並木 が特徴の歩行者用コースの終点にある。こ の導入路は、元来、オルタから山に至る唯

一のルートであった。

入口の拱門・泉・聖フランチェスコの小礼 拝堂

ヴァレーゼのサクロ・モンテの同時代の 建築の影響を受けた拱門は、1648年まで に建造され、1666年にはブッソラの聖フ ランチェスコ像が頂部に配された。聖人像 の下のアーキトレーヴには、ラテン語で

「ここでは整然とした礼拝堂の中にフラン チェスコの生涯を見ることができる。あな たがその作者を知りたいと思うなら、それ は愛だと分かるであろう」という銘文が刻 まれている。

拱門の近くにある泉も、ヴァレーゼのサ クロ・モンテの泉に近い様式で 17世紀中 に具現されたと考えられる。

聖フランチェスコの小礼拝堂も 17世紀 の間に建造されたと考えられ、カルロ・フ ランチェスコ・ヌヴォローネが壁画を描 き、ブッソラが聖フランチェスコ像を制作 した。次いで 1862年には、現在ではほと んど識別できないものの、ノヴァーラ出身 の画家アンドレア・ミッリオ(1803-1890 年)が当初の壁画を補完し、そこにダヴィ デ像と聖パオロ像を描き加えた。

1

堂:フランチェスコの誕生

この礼拝堂では、難産で死の苦しみを味 わっていた母親が、戸口に現れたひとりの 巡礼者(天使)の助言によって馬屋に運ば れると、たちまち不安や死の恐怖から解放 され、フランチェスコを無事に産み落とし たという、奇跡的な状況下で起こった聖フ ランチェスコの誕生の様子が語られてい る。

この第1堂はクレートの設計で1592年に 初めにはオルタのサクロ・モンテで粘土成

形され、同所で焼成もなされていた。しか し、17世紀末には事情が一部変化し、後 述するように、第19堂の 1683年制作の ジ ュ ゼ ッ ペ・ル ズ ナ ー テ ィ(1650-1713 年)の彫刻群は別の場所で成形、焼成され た後、オルタを経て山上のサクロ・モンテ へ運ばれている。つまり、17世紀末には 彫刻を設置しなければならない礼拝堂が少 なくなっており、同じ場所に数カ月ないし は数年に亘って彫刻家やそのチームを抱え ておくことは、実際的、経済的にも適切で はなく、結果的に作品を他所へ注文して制 作させ、オルタの山へ送らせたのに違いな い。それは 18世紀半ばに制作された第14 堂のベレッタの彫刻群についても当てはま る(13)

2 .現在のオルタのサクロ・モンテ の 巡 礼 コ ー ス と 各 礼 拝 堂 の 建 築・装飾・芸術家の概要

続いて本章では、現在のサクロ・モンテ について概観していくが、それに先立って クレートが構想した礼拝堂群について触れ ておきたい。

2-1

 クレート構想の礼拝堂群とそれらの 主題

1章1節でも述べた通り、クレート神父 構想の礼拝堂群は、36堂から 1609-1611年 の間に 33堂に縮少されたが、A. F. マン ツィーニ神父は、クレートはキリストの年 齢に従って 33堂を想定し、それらのうち 実現されたのは 20堂と入口の拱門、泉、

小礼拝堂、3 つのオラトリオ、井戸のみ で、実現された20堂には900の壁画が施さ れ、376体の彫刻が設置されたとしている

(14)。実際、1624年に制作された木版画 や、オルタのサン・ニコラオ修道院の古文 書館で見出され、2008年に刊行された

『オルタのサクロ・モンテの古の案内書』

(15)中で紹介された、同修道院の修道士の 執筆と思われる 2 つの手稿(1 つは 17世紀 末から同世紀末(16)、もう 1 つは 1690年よ り後(17)と推測される)、さらに 1686年に ミラノで出版されたフィリッポ・バリオッ ティの『オルタ地区の聖フランチェスコの サクロ・モンテのフランチェスコ会的愉 悦』(18)などを参照しても、列挙、解説さ れている礼拝堂は 33堂である。ちなみ に、それらの案内書に先行するエジディ オ・ダ・ミラノ神父作と推測されている 1628年執筆、1630年刊行の『フランチェ スコ会的な諸場面の神秘的見世物』では、

言及されているのはわずかに12堂のみ(19)

で、比較ができない。しかし本稿では、カ ノービオがカプチン会総会長に宛てた 1592年の記述を根拠に、クレートが構想 した礼拝堂は当初は 36堂で、17世紀の 10 年前後に33堂に縮少されたと考えたい。

なお、古い案内書に言及されている 33 の礼拝堂とそれに対応する現在の礼拝堂の 番号を挙げておけば、以下のようになる。

具現されなかった礼拝堂には当初想定され ていた主題を括弧内に付記する。

I(現在の第

1堂)、II(現在の第2堂)、

III(現 在

の第3堂)、

IV(現 在

の第4 堂)、V(現在の第5堂)、VI(現在の第 6堂)、VII(現在の第7堂)、VIII(現在

(9)

の第8堂)、IX(現在の第9堂)、X(悔 悛者の第三会)、XI(現在の第10堂)、

XII(現在の第

11堂)、XIII(現在の第12

堂)、XIV(アッシジにおける最初の総 会)、XV(現在の第13堂)、XVI(清貧 の称 揚)、XVII(奇 跡の説 教)、

XVIII

(最初の研究機関の創設)、XIX(祈祷 中の変容)、XX(誘惑に対する勝利)、

XXI(現在の第

14堂)、XXII(無条件の

従順)、XXIII(報いられた貞潔)、XXIV

(崇敬された単純さ)、XXV(現在の第 15堂)、XXVI(聖痕の真正性の証明)、

XXVII(現在の第

16堂)、XXVIII(生前

の軌跡)、XXIX(現在の第17堂)、XXX

(荘 重な葬 儀)、

XXXI(現 在

の第18 堂)、XXXII(現在の第19堂)、XXXIII

(現在の第20堂)

2-2

 現在のサクロ・モンテ

次いで、現在のサクロ・モンテの状況を 巡礼コースに沿って見ていく(表2参照)。

なお、各礼拝堂に描かれている壁画の諸場 面の主題については、紙幅の都合上ここで は割 愛し た 。そ れ ら に つ い て は 、E. D.

Filippis; F. M. Carcano, GUIDA AL SACRO MONTE DI ORTA, Riserva Naturale Speciale del Sacro Monte di Orta, Novara, 1991 に詳し

いので参照されたい。

礼拝堂の巡礼ルート

サクロ・モンテの入口は、オルタの広場 からサンタ・マリア・アッスンタ教区聖堂 を通って墓地(20)の脇を進み、サクロ・モ ンテへと至る、ゆったりとしたシデの並木 が特徴の歩行者用コースの終点にある。こ の導入路は、元来、オルタから山に至る唯

一のルートであった。

入口の拱門・泉・聖フランチェスコの小礼 拝堂

ヴァレーゼのサクロ・モンテの同時代の 建築の影響を受けた拱門は、1648年まで に建造され、1666年にはブッソラの聖フ ランチェスコ像が頂部に配された。聖人像 の下のアーキトレーヴには、ラテン語で

「ここでは整然とした礼拝堂の中にフラン チェスコの生涯を見ることができる。あな たがその作者を知りたいと思うなら、それ は愛だと分かるであろう」という銘文が刻 まれている。

拱門の近くにある泉も、ヴァレーゼのサ クロ・モンテの泉に近い様式で 17世紀中 に具現されたと考えられる。

聖フランチェスコの小礼拝堂も 17世紀 の間に建造されたと考えられ、カルロ・フ ランチェスコ・ヌヴォローネが壁画を描 き、ブッソラが聖フランチェスコ像を制作 した。次いで 1862年には、現在ではほと んど識別できないものの、ノヴァーラ出身 の画家アンドレア・ミッリオ(1803-1890 年)が当初の壁画を補完し、そこにダヴィ デ像と聖パオロ像を描き加えた。

1

堂:フランチェスコの誕生

この礼拝堂では、難産で死の苦しみを味 わっていた母親が、戸口に現れたひとりの 巡礼者(天使)の助言によって馬屋に運ば れると、たちまち不安や死の恐怖から解放 され、フランチェスコを無事に産み落とし たという、奇跡的な状況下で起こった聖フ ランチェスコの誕生の様子が語られてい る。

この第1堂はクレートの設計で1592年に 初めにはオルタのサクロ・モンテで粘土成

形され、同所で焼成もなされていた。しか し、17世紀末には事情が一部変化し、後 述するように、第19堂の 1683年制作の ジ ュ ゼ ッ ペ・ル ズ ナ ー テ ィ(1650-1713 年)の彫刻群は別の場所で成形、焼成され た後、オルタを経て山上のサクロ・モンテ へ運ばれている。つまり、17世紀末には 彫刻を設置しなければならない礼拝堂が少 なくなっており、同じ場所に数カ月ないし は数年に亘って彫刻家やそのチームを抱え ておくことは、実際的、経済的にも適切で はなく、結果的に作品を他所へ注文して制 作させ、オルタの山へ送らせたのに違いな い。それは 18世紀半ばに制作された第14 堂のベレッタの彫刻群についても当てはま る(13)

2 .現在のオルタのサクロ・モンテ の 巡 礼 コ ー ス と 各 礼 拝 堂 の 建 築・装飾・芸術家の概要

続いて本章では、現在のサクロ・モンテ について概観していくが、それに先立って クレートが構想した礼拝堂群について触れ ておきたい。

2-1

 クレート構想の礼拝堂群とそれらの 主題

1章1節でも述べた通り、クレート神父 構想の礼拝堂群は、36堂から 1609-1611年 の間に 33堂に縮少されたが、A. F. マン ツィーニ神父は、クレートはキリストの年 齢に従って 33堂を想定し、それらのうち 実現されたのは 20堂と入口の拱門、泉、

小礼拝堂、3 つのオラトリオ、井戸のみ で、実現された20堂には900の壁画が施さ れ、376体の彫刻が設置されたとしている

(14)。実際、1624年に制作された木版画 や、オルタのサン・ニコラオ修道院の古文 書館で見出され、2008年に刊行された

『オルタのサクロ・モンテの古の案内書』

(15)中で紹介された、同修道院の修道士の 執筆と思われる 2 つの手稿(1 つは 17世紀 末から同世紀末(16)、もう 1 つは 1690年よ り後(17)と推測される)、さらに 1686年に ミラノで出版されたフィリッポ・バリオッ ティの『オルタ地区の聖フランチェスコの サクロ・モンテのフランチェスコ会的愉 悦』(18)などを参照しても、列挙、解説さ れている礼拝堂は 33堂である。ちなみ に、それらの案内書に先行するエジディ オ・ダ・ミラノ神父作と推測されている 1628年執筆、1630年刊行の『フランチェ スコ会的な諸場面の神秘的見世物』では、

言及されているのはわずかに12堂のみ(19)

で、比較ができない。しかし本稿では、カ ノービオがカプチン会総会長に宛てた 1592年の記述を根拠に、クレートが構想 した礼拝堂は当初は 36堂で、17世紀の 10 年前後に33堂に縮少されたと考えたい。

なお、古い案内書に言及されている 33 の礼拝堂とそれに対応する現在の礼拝堂の 番号を挙げておけば、以下のようになる。

具現されなかった礼拝堂には当初想定され ていた主題を括弧内に付記する。

I(現在の第

1堂)、II(現在の第2堂)、

III(現 在

の第3堂)、

IV(現 在

の第4 堂)、V(現在の第5堂)、VI(現在の第 6堂)、VII(現在の第7堂)、VIII(現在

(10)

制作に従事した。

3

堂:アッシジの司教の手に世俗の財産 を委ねるフランチェスコ

第3堂では、フランチェスコが馬と自身 の衣服を売って貧者にその売上金を与え、

裸同然で家から逃げてアッシジの司教の面 前に赴き、驚く公衆と父親の前で、自身の すべての所有物や遺産のすべてを厳かに放 棄した場面を表現している。この後フラン チェスコは、司教が自身のために用意して くれた身体を覆う布を十字架状に裁断して 衣を作ってまとい、脇をベルトで締め、足 は裸足のまま、すべてを神意に委ねたとい う。

この礼拝堂は、既述のように、バスカペ の個人的な依頼と資金提供で、1596年か ら 1613年までの間にクレートの設計で建 造されたものであった。古典的で厳格な様 式のファサードも同時期に完成されたが、

その様式は、聖カルロ(バスカペは彼の親 密な協力者)がミラノ教区の宗教建築のた めに定式化したものと一致していた。バス カペは、他の礼拝堂群に対して以上に几帳 面に第3堂の建設作業を監視し、表現内容 やそれらの壁体への配分方法、さらにイ メージの完成時に設置する訓戒内容まで指 示した。また、この礼拝堂には、木製の格 子窓を付けて改造したヴァラッロのサク ロ・モンテの当時の解決策が留められてい る。格子窓には覗き穴が開けられ、上方に は光を調整する鉛枠のガラス戸も嵌め込ま れているため、格子窓の奥に配された彫刻 群が見えるようになっている。

彫刻群は、この施設の建造の初期にプレ スティナーリが制作したもので、1608年

には早くも完成されていた。ちなみに古い 案内書(22)では、アッシジの司教像がバス カペの容貌に似ていることが指摘されてい る。一方、壁画はフィアミンギーニ兄弟が 制作に当たったが、その完成はおそらく 1613年に先行してはいなかったと考えら れる(23)

4

堂:ミサを聞くフランチェスコ

この礼拝堂では、フランチェスコがミサ の最中、イエスが弟子たちに与えた「金も 銀も得てはならない」(マタイ 10, 9)とい う福音書の忠告を司祭が朗読するのを耳に した際、それらの言葉が自身に対して個人 的に語られているように思い、わずかな布 施を入れていた財布を即座に遠くへ放り投 げ、以後、金銭を嫌悪し、それを不名誉で 最悪の災いとみなすと誓った場面が表現さ れている。

この礼拝堂は、15世紀のヴァルセージ アに見られる建築様式を再び採用し、ク レート設計で、教会財産管理委員会が集め た資金により 1608年から 1613年までの間 に建造された。彫刻群は、プレスティナー リのチームによって 1616年一杯までに制 作されていたが、礼拝堂に設置されたのは 1618年より後のことであった。壁画も、

G. F. モンティによって 17

世紀の 10年代ま

でに完成されたに違いない。この礼拝堂の 設営には、ヴァラッロでガウデンツィオ・ フェッラーリ(c. 1417-1480年)が提示し た壁画と彫刻との相互補完性が見て取れ る。つまり、ミサを聞いているテラコッタ 製の一群の信徒像と、壁体の下層にアフレ スコ(湿式法)で描かれた敬虔な人物たち とは、相互補完的で不可分な関係になって 着工され、当初はフランスとスペインにい

るオルタ出身のブリキ職人と煉瓦職人から なる同業組合、次いで自治都市オルタから 資金提供を受けて建造された。同堂のファ サードは、19世紀にノヴァーラの建築家 パ オ ロ ・ リ ヴ ォ ル タ(1817-1873年)に よって新古典主義様式で造り替えられた。

1615年に完 成し た壁 画は 、サ ン ・ ジューリオ島の大聖堂にも作品が幾つか残 されている地元の画家

G. F. モンティ(同

サクロ・モンテで 1610-20年代に活動)が 制作したものである。また、1617年内に 完成された彫刻群の作者は、ミラノ大聖堂 の建造現場から来たプレスティナーリであ る。彼は、1593年から 1615年までの間の オルタのサクロ・モンテ建造の真の指揮者 と言えるノヴァーラ司教カルロ・バスカペ に、その控え目で黙想的な語りの手法が気 に入られ、重用された彫刻家である。1618 年には、木製の格子窓の上方に、エミリア 州出身のカミッロ・プロカッチーニ(1561- 1629年)が描いた《降誕》の油彩画が設 置(現在はサン・ニコラオ聖堂内)され、

聖フランチェスコをキリストの模倣者とみ なす解釈が強調されていた。その油彩画 は、キリストと同様に廐の中で生まれた聖 フランチェスコの誕生の場面の対位法的表 現と言える。

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堂:サン・ダミアーノ聖堂で磔刑像が フランチェスコに語りかける

この礼拝堂では、まだ青年であったフラ ンチェスコが、裸同然の敬虔なひとりの兵 士と出会い、自身の豪華で新しい衣服を兵 士に与えた後、しばらくして馬で田舎を散 策していたある日、荒れ果てたサン・ダミ

アーノ聖堂で十字架上のキリスト像の出現 の幻視を体験し、「フランチェスコよ、

行ってわたしの家を修復しなさい。あなた が見ているように、それはまったく崩壊に 瀕しているではないか」と、語りかけられ ている場面が表現されている。ちなみに 17世紀末の古い案内書(21)には、この礼拝 堂では、聖処女マリアの連祷を唱えれば、

金曜日ごとに 100日の免償が得られると記 されている。

この礼拝堂は、バスカペが創設した教会 財産管理委員会に届いた布施によって、

1606年から 1609年までの間に建造された。

ファサードは、同じ頃建造された他の部分 と同様、ヴァラッロのサクロ・モンテのた めにアレッシが設計した建築の影響を受け て、オルタの修道院長であったクレートが 設計したものである。

彫 刻は 、ま ず 、プ レ ス テ ィ ナ ー リ が 1607年一杯までに6体制作した。次いで17 世紀後半に、現存していたプレスティナー リ制作の 5体(磔刑のキリスト像と 4体の 天使像)に、ブッソラが、聖フランチェス コ像(先行の像の場所)と馬丁、犬、馬の 像を付加した。ブッソラもミラノ大聖堂の 建設現場で活躍し、ローマの盛期バロック の芸術的清新さに通じた彫刻家であった。

堂内の壁画は、物語的で明瞭、優美な手法 や豊かで中庸を得た細部描写が特徴のフィ アミンギーニ兄弟の作品であり、右壁の下 方の巻紙上には 2人の署名と 1608年10月9 日の年記が残されている。彼らもまた、ロ ンバルディアの主要都市で頭角を現して有 名になった芸術家で、バスカペの支援を受 けながら、数年に亘ってサクロ・モンテで

図 1:E. D. Filippis, I  SACRI MONTI, Lavis  (Trento), 2019, p. 44 の平面図を稿者が加筆・ 修正 図2~21:稿者撮影 【謝 辞】                    本稿は JSPS 科研費 18K00177(研究代表) の助成を受けて行った研究成果の一部である。 ノヴァーラ司教の在任時期とオルタのサクロ・モンテにおける主要な建築家・彫刻家・画家の活動時期 1期2期3期 年代15809016001020304050607080901700 ノ
図  版
図  版
図 10   第 9 堂 キアラの着衣式 彫刻:  G. デンリーコ、 G. フェッロ  1642 年頃        D. ブッソラ  1661 年より後 壁画: ロッカもしくはヌヴォローネ父 子  1642 ~ 1648 年図6 第5堂 フランチェスコの最初の弟子たちの着衣式彫刻:C
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参照

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