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繋が りの根拠 -ゲーム理論の基礎 に向けて

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繋が りの根拠 ‑ゲーム理論の基礎 に向けて

行 方 常 幸

1 は じめに

2 距離をあけて区別すること 3 結び付 き ・繋が りのあ りか

3‑1 公私の焦点 一業熟体 3‑2 あいだ としての 自己 3‑3 「聞入」モデル 4 まとめ

参考文献

1 はじめに

商学討究第38巻第 3・4合併号 (1988 3月発行) において,「2人交渉 ゲ ーム にお け る個 と全 体」 と題 して 「個」 を再 吟味 し,交 渉 ゲ ームの簡単 な解 を提示 した。 しか しなが ら,個人 の存在根 拠 を ど こに求 め るか は非常 に難 しい問題 を学 んで お り,簡単 に済 ます ことは出来 な い。 そ こで,本稿 にお いて更 に もう少 し検討 してみ る

鈴木光男 ・武藤滋夫 [l]両氏 によると,「ゲーム理論 の 目的 は,理性 的な人間 が合理的 と考え る基準 に従 って行動 した とき, どのような結果が導かれ るかを 論理的に明 らかにす ることにある。‑・ここで 「理性的」 とい うのは,その思考 と行動が論理的整合性を もってい るとい う意味で‑。われわれ は自律的に行 動す る理性的意思決定主体 をプ レイヤー とよぶ。 この 自由で 自律 的に行動す る

249

(2)

250 43 3 ・4

理性的人間 とい うのが,人間に対 して もつゲーム理論の基本的イメー ジで,そ して社会 はこのよ うなプ レイヤーが複数存在す ることによって成 り立 っている と考え る。 したが って,ゲームは複数のプ レイヤーか ら成 り立つ とい うのが ゲーム理論の出発点である。 このような考え方 は一般 に方法論的個人主義 と呼 ばれ るもので,特 にゲーム理論に限るものではないが,ゲーム理論 はこの こと を強 く意識す ることによって,行動基準 とか,提携 とか,協力 とかい う概念を 生 みだ して,従来の方法論的個人主義を越えた ものにな っている。」 このよ う

にゲーム理論 は2人以上のプ レイヤーと呼ばれ る意思決定主体が関わ っている 状況を研究す る分野である。上 に引用 した内容 は一応 もっともであるが,行動 主体が 1人か ら2人以上 に増加 した ことによ り新たに生 じた基本的な事柄 (と 少 な くとも私 にはそ う思われ る),すなわち, プ レイヤーが どこで どの様 に結

び付いているか,繋が っているか,が間接的に しか考慮 されていないように思 われる。多分, この結び付 き ・繋が りはゲームのルールや利得関数 として表現 されてお り, 自律的に行動す る理性的意思決定主体であるプ レイヤーはそれ 白 身で完結 してお り,その外部で この繋が りを持っ と考え られて きた と思われ . プ レーヤーが企業などの経済主体の場合 はそれ らを結び付 けるのは利得関 数であると考えて もあま り抵抗がないか もしれない1)。 しか し,プ レイヤーが 生身の人間である場合, 自律的に行動す る理性的意思決定主体 としてそれ 自身 で完結 し,結び付 き ・繋が りはプ レイヤーの外部の事 と仮定 して話 しを進めて もよい ものだろ うか ? プ レイヤーの中にプ レイヤー問の結 び付 き ・繋が りを 持 っているよ うには捉え られないのだろ うか ? すなわち,プ レイヤーが生身 の人間である場合,プ レイヤー問の結び付 き ・繋が りの湧 き出る場所,根拠が あまりはっきりしていないと思われ る。そ こで本稿では,プ レイヤ‑‑人間に 限 ってその存在の根拠を探 ることを通 じて,プ レイヤー間の結び付 き ・繋が り の湧 き出る場所,根拠を調べてみ る。

1)現在発生 している環境破壊を考えると,この場合も外部だけで繋がりを持つと考え てよいとは思えない。 しか し,これは大きすぎる問題なので,今後の課題としてお

い。

(3)

繋がりの根拠‑ゲーム理論の基礎に向けて 251

2章 距離をあけて区別すること

我 々は普通 に生活を しているとき,我 々の周 りにある書籍等の物,肉体 とし ての身体,精神等 は別個の物 と考え得 る, と思 って暮 らしている。例えば,読 験の採点で評価をっけるとき,評価 される受験者を 自分に引き付 け過 ぎると, 悪魔的な心や仏心等が活躍 し出 し,公平な判断を行 うのが困難になる。 この起 こり得 る不公平 さを防 ぐために,受験者 と我 々は別個の ものであると考え,隻 験者を対象的に捉え る必要が出て くる。別の例 として正確 さ敏捷 さを要求 され る外科医が手術をす る場合を考えると, この自分以外の物を自分 とは独立 した もの として対象的に捉える方法の重要性 には計 り知れない ものがあることが分 か る。 このように私 という主体 とそれが操作を行 う対象に明確な区別を与え, それぞれ分 けて考え る方法は大変重要でそれの有効範囲は非常 に大 きい。

このように物事を別個の もの として対象的に捉え る捉え方を押 し進めて行 っ た 1つの結果 として,前節で述べたそれ 自身で完結 し自律的に行動す る理性的 意思決定主体 としての 「個」が得 られた と思われ る。中村雄二郎[2]氏 による と,デカル トは有名な 「我思 う,ゆえに我 あ り」の直感か ら出発 して,く精神) と く物体〉 とをまった く違 った存在次元にある二つの別個な実態 としてはっき り区別 したそ うである。そ してデカル トの哲学の働 きの もう一つの,功罪半ば す る忘れ られてはな らない側面 として,研究者個 々人の主観性を科学的な探求 その もの と無関係な ところに置いた こと,位置づけた ことを挙げている。精神 と物体 とが実体的に峻別 され,その結果,人間精神の主体性 (主観性) と自由 が, 自然界を支配す る因果性や決定論や法則性などとまった く独立 して考え ら れることにな った。 これを参考に してみると,デカル トの言 ったこの 「我思 う, ゆえに我あ り」の 「我」 とは皮膚で閉ざされた身体 としての 「我」ではな く,

もっと積極的な意味で,そ こか らあ らゆる物が生 じる根拠 となるような 「我」, すなわち,それ 自身で完結 し自律的に行動す る理性的主体なのであろう しか

し, もし私が この言葉を自分の もの として語 るとす るな らば,その 「我」 は少 な くとも以下のような事を含む :

(4)

252 43巻 3 ・4号 (1) 皮膚で覆われた肉体的な身体。

(2)あ らゆる困難を乗 り越えて 自分で立てた計画は遂行 して行 こうとする

志 。

(3) (2)の様な意志 はあるが現実的には多 くは実行で きないという事実を認 めること,及びそれに伴 う挫折感。

(4) (3)の様なので, 自分が出来ない ことを行 って くれ る他人がいて くれて 良か った と思 う安堵感。

(2)に比べて(3)が少ない場合 は 「我」をそれ 自身で完結 し自律的に行動す る理 性的主体 と感 じられ るか も知れないが,そ うでない私にとって 「我」はそれ 自 身で完結 し自律的に行動す る理性的主体では決 してない。更に, この (3,4) が人間の結 び付 き ・繋が りを産む場所,根拠 に関係するのではなかろ うか ?

以上,た とえ相手が人間であって も,それを対象的に距離をあけて区別す る ことの必要性,及び,それを過度 に押 し進めて,生身の人間をそれ 自身で完結 し自律的に行動す る理性 的意思決定主体 と見 なすの は無理があ ることを述べ た。 しか し,喰 うか喰われ るかの状況が出現す る可能性のあるゲーム論的状況 に,上記の (3,4)を不用意 に導入す ることは現実的に無理である。そ こで 次節ではプ レイヤー‑人間の存在の根拠を探 ることを通 じて,プ レイヤー問の 結び付 き ・繋が りの湧 き出る場所,根拠を調べてみる。

3 結 び付 き ・繋が りの あ りか

本節では結び付 き ・繋が りの湧 き出る場所,根拠を文献を引用 しなが ら調べ てみ る。それは,玉城康四郎氏の 「業熟体」,木村敏氏の 「あいだ」,演 口恵俊 氏の 「聞入 (かん じん)」である。

3‑1 公私の焦点 一業熟体

玉城康四郎氏はわれわれが普通 に頭で行 っている対象的思惟 に対 して全人格 的思惟 (以下で述べ る仏教の三学 (戎定慧)が一体 とな って働 く思惟)の重要 性を指摘 してお られ る。少 し長 くなるが玉城[3氏の述べ るところを引用 してみ

(5)

繋が りの根拠 ‑ゲ ーム理論 の基礎 に向けて 253 る。 ブ ッダの解脱の原点を 「ダ ンマ (紘)が顕わにな る」,すなわち,まった

く形な き生型をその ものが,全人格体に浸透す る, こととし,それへの基本的 な方式 として,仏教の三学 (戎定慧)をあげた後,次のように述べてお られる。

戒 は全生活をコン トロールす ることであ り, コン トロールすれば全身心が静

ぜん しよ う

まって禅定 に入 り,禅定を重ねているうちに,真実の智慧が開かれて くる,つ まりダ ンマが顕わになる, こうした全人格的な営みが,すなわちブッダ本来の 学である。頑 も心 も魂 も,そ して身体 も,全人格体が一体 となっての営みであ 全人格体が一体 となるということは, ブ ッダに従えば業熟体 となることで ある。量 り知れぬ遠 い昔か ら,輪廻転生のあいだに働 きっづけて きた自己自身 の根源態であると同時に,生 きとし生けるもの,あ りとあ らゆるもの,そ して 全天体 もまた参入 しつづけて きた ところの,宇宙共同体の結び目である。業熟 体 は, もっとも私的なるものであると同時に, もっとも公的な ものである 定を重ねれば重ね るほど,か くの ごとき業熟体 となってい く 業熟体 となれば なるほど,高度の リア リティを持っ ものであることがいよいよ明白となる るかかなたの混沌の宇宙か ら,営みつづけてきた, この どす黒い,あ くた, も くたの底知れぬ渦巻が,大禅定のなかでついに凝然たる一個のかたま りとなる

最高度の リア リティである。そ して,知 らず識 らずの うちに,いっのまにかii 里をその もの とな って開かれて ダ ンマが顕わにな りつづけるのであるO 仏道 とは,大宇宙のひだひだに秘め られた,おのずか らなる道が,わが業熟体

に開示 されて くることに外 な らない。」 ここで述べ られている, もっとも私的 なるものであると同時に, もっとも公的なるものである業熟体がわれわれが探 し求めている結び付 き ・繋が りの湧 き出る場所である。玉城氏の別の文献4 参考 に して,業熟体 について もう少 し詳 しく見てお く。 「業異熟 (業熟体)は

にん にん

人の 自体であ り,解脱にかかわる究極的な ものである。人の 自体 とは何か。そ れは,過去世 より相続 している自己の財産であり,遺産であると同時に, 自己 の胎であ り,所依であ り,いいかえれば自己その もの,或 は自己存在の根拠で ある。過去よ り相続 しっつ現在の自己存在を規定す ると同時に,その存在の根 拠 となっているごときもの,それはまさ しく身体 といわれ る。 この身体 は, も

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254 第 43巻 第 3 ・4号

とよ り父母 より生れ,四大種 より成れるものではあるが,通常に理解 され る身 体の概念ではない。初禅か ら四禅を通過 して全人格的思惟 における認知対象 と

してのそれであ り,いいかえれば,心的な全要素がその中に吸収 ・解消 されて いるごとき身体,いわば人格的身体であるといえよう いなむ しろ, さ らにつ きつめて,かか る身体のエ ッセ ンスともいうべ きものである それは, 自己存 在の根拠,あるいは自己それ 自体であ りLなが ら,はるかに自己意識,あるいは 自己性を離れ去 っているものである。以上が,‑業異熟 (業熟体) と しての人 格的身体である ‑ このよ うな人格的身体の源底が,最後 の残 れ るもの と し て,空な らざるもの として,また煩悩の住 として現われてきたのである。それ は,欲 ・生存 ・無明の漏か ら解脱 し,かっ解脱 において解脱せ りとい う智慧が 生 じた後 に,現れているものであるがゆえに,いわば自己な らざる自己の存在 であるといえるであろう このよ うな身体その ものは,主体者において不可惨 透的な もの (思惟のなかに解消 し得 ない もの)であ り,つねに残れるものであ る。それは, 自己存在の源底,超 自己性,かつ リア リティその ものであ り, し たが って,無数の他 己につなが っているばか りでな く,天体その もの,宇宙そ の ものにつなが っているとい うことがで きる。 しか もそれが,絶え間なき全人 格的思惟のなかで,おのずか ら解かれ,おのずか ら鯵透的な ものになってい く のである。」以上を私 な りに纏 めてお く。公私の焦点である業熟体 は全人格的 思惟を通 じて実現 して くるものであ り,われわれが普通 に考え‑られ るよ うな精 神 とか,身体 とかい うものでは決 してな く,それ らをすべて含む もの,それ ら のエ ッセ ンス,それ らの根拠であ り,最高度の リア リテ ィを持つ もの,生型旦 その もの となって開かれてい くもの,全人格的思惟を行 ってい くうちに次第 に 明 らかにな ってい くもの,長 く全人格的思惟 を行 って もいっ も残 るものであ る。 このよ うに,われわれの観点か ら見て結び付 き ・繋が りの根拠である業熟 体は簡単 には捉えがたい,恩議を越えて いる不可思議な ものであるが,宗教的 な観点か らは (または,経験 した者 にとっては)最高度の リア リティを持つ も のなのであろう

私 は全人格的思惟を実行 した ことはないので, この引用内容を 自分の心に収

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繋が りの根拠 ‑ゲーム理論 の基礎 に向けて 255 まりやすいこととして肯 く以外に手 はないのであるが,以上の ことにより,鰭 び付 き ・繋が りの場所,根拠 として,全てのわれわれの奥深 くに眠 っている不 可思議な業熟体を考えることが出来 ると思 う 次節では, もっと経験的な レベ ルで近づ きうるものを検討 してみる。

3‑ 2 あいだとしての 自己

木村敏[5]氏 は 「この地球上 には,生命「般の根拠 とで も言 うべ きものがあっ て,われわれ一人ひとりが生 きているということは,われわれの存在が行為的 および感覚的にこの生命一般の根拠 とのつなが りを維持 しているということで 旦互」 (p.4)とい う仮説 を立て,いろいろな角度か らこの仮説を検討 して

いる

この生命一般の根拠 は通常の ものではないので 「客体 として対象的に認知す ることは不可能であ」 (p.4)り,「合理的 ・客観主義的な 自然科学的方法 に よってその存在を直接 に実証す ることがで きない」 (p.4)が,「われわれが 世界や 自己自身について不断に行 っている実際の経験を,・‑事実のままに説明 するためには,どうして もその存在を仮定 しな くてはな らないようなものなの である」 (p.5)木村氏 はこの生命一般の根拠 との関 りのあ り方,関係 の原 理を 「あいだ」 として捉えている すなわち,「「あいだ」が (は)決 して空間 的な拡が りではな く,む しろ個人や集団が生命の根拠に支え られて世界 と出会 う行為的な原理である」 (p.67)と述べている。そ して,「人間は生物 として, 生命一般の根拠 との 「あいだ」に絶えず関係を持 ち続 けている。この関係 は世 界 との 「あいだ」の瞬間瞬間のノエ シス的2)・実践的な行為的関係を通 して保 持 されている。 この刻々のノエシス的行為 は,そのつど意識の中に認知対象 と

して個 々のノエマ 3)表象を送 り込む。 このノエマ的表象 は,そのつどのノエ シス的行為が全体的な生命一般の根拠 とのつなが りか ら外れないようにこれを 制御す る標識 として役立 っている。‑このノエシス的行為面 とノエマ的意識面

2)生命を もつ有機・体である人 間が,その生命の根拠 に根差 した活動 として世界 に向 かって働いている動的な志向性を表す言葉 (文献 〔5〕p.42)

3)ノエ シス的な生命活動が意識面 に送 り込んだ 「代表者」(文献 【5〕p.43)0

(8)

256 43 3 ・4号

との 「あいだで, ノエ シスが ノエマを生 み出す それ 自体 ノエ シス的な働 き が,人間でい うと主体的 自己の成立す る場面だ とい うことになるだろ う ‑坐 命の根拠 との関わ りであると同時に世界 との出会いの原理であるノエ シス的な 主体が,意識のノエマ面で 自らを 「自己な らざるもの」 としての 「他者」か ら 区別 し, 自らの自己所属性を確保 したときに初めて 「自己」 という概念が成立 す る。 自己の本体 はあ くまで もノエ シス的原理 としての主体なのだけれども, この主体が 自己であるためには 「自己」 とい うノエマ的表象を必要 とす る‑」

(pp.108‑110)と述べている。すなわち,主体 とはわれわれが生命一般の根 拠及び世界 と関る際の行為的な側面であ り,なん らかの理 由で区別 され る必要 が生 じたために,「自己」が成立 したのである。で は, どんな理 由で 「自己」

が成立す るための区別が必要であ ったのだろうか ? それは,「人間は,単 に生 物 として生命的環境 とのあいだに関係を保 ち続 けているだけでな く, 自分以外 の他者たちとのあいだに対人関係を維持 し続けなければ個人の生存を全 うす る

ことがで きない。」(p.111)そのため,「個 々の他者 あるいは集 団的他者 とい う社会的環境 に直面す ることにな り,」 (p.112)この他者 と私 との 「あいだの ノエ シス的な関 りが,私の主体的 自己なのである」 (p.113)このよ うに,礼 会的に生存す る必要性 による他者 との関 りの原理,行為的側面が 自己というこ

とになる。われわれは通常, 自己は固有の固定 した実体であ り,揺 らぎがない と思 っている。 しか し, この裏側 に,生命一般の根拠及び社会的生存に必要な 他者 との生 きた関 りをその都度行 っている働 きがかすかに感 じ取れる。それが ここで言 う自己であろう それで はここに成立 した自己にとって, この他者 と はどのように映 るのだろうか ?

われわれ は生命一般 の根拠 との関 りを維持 して一回 き りの生命を生 きてい る。 この関 り,働 きが私 自身であ り,それが一回 きりでそれ以外 にないとい う 意味で絶対である この絶対がそ っくりそのまま他者 に移 った場合,他者 は不 思議な懐か しさや親 しみを感 じうる他者 として映 るよ うに思われ る。 しか しな が らこのよ うなに こりと笑みが浮かぶ面だけではない。私が生 きてい くために 関 らなければな らない生命一般の根拠 は,最初に指摘 したように認識不可能で

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繋が りの根拠 ‑ゲーム理論の基礎 に向けて 257

ある。 この未知性をその都度その都度既知な ものに しよ うとす る行為が,生命 一般の根拠 との関 りである。 この私にとっての この絶対的未知性 は私の存立に 対す る否定的契機 となり, この未知の未来を何 とか しなければな らない。 この 絶対 的未知性が他者 にそのまま移 った場合 はど うなるだろ うか ? その時,

社会的存在である人間にとっての他者 は,なによりもまず生存競争の相手で あ り, 自己の欲望に対する否定的契機である。私が生命の根拠 との関わ りにお いて 自らの主体的 自己を維持 しようとすれば,私 はそのつど, 自己に対す る否 定的契機である他者を逆に否定 し返 さな くてはな らない。 これはさしあたって は,ノエシス的な絶対的他者性を意識面に送 り込んで これをノエマ的表象に変 え,それによってその他者を私にとっての相対的他者 として自己の支配圏内に 送 り込む, とい う作業 によって達成 され る。」 (p.152‑153)このよ うに他者

は私を否定するもの として映 り,それを逆否定す ることによって私を維持 して いるのである。その際の言語機能にたいす る次の示唆は貴重である。 「ノエシ ス的な出来事の表面だけをノエマ的な記号 に変える言語機能は,他者の無害化 にとって この上な く便利な道具だ ということができるだろう」(p.153)

以上述べたように,自己とは他者 との関 りの原理であるので,われわれの本 題である結び付 き ・繋が りの湧 き出る場所,根拠をこの自己に求めてよいと思 われ る。 しか し,以下の ことに注意 してお く必要がある この関 りの原理であ る自己は固定的な ものではな く,時々刻 々の関 りの中で獲得 していかなければ な らないものであ り,われわれが普通に理解 している自己 (今, これを自分 と 呼んでお く)を背後か ら裏付け,生命を与える働 きを為す ものである。 このよ うに自分を貫いているところに,結び付 き ・繋が りの湧 き出る場所,根拠を想 定で き,簡単 には自分の外部にあるとか内部にあるとかの判断は出来ないが,

自分 と非常 に密接 にかかわ った場所であることだけは確かである

前節では,ある意味で宗教的な角皮か ら,結び付 き ・繋が りの湧 き出る場 所,根拠をわれわれの奥深 くに眠 っている,通常では絶対 に捉えることができ

ない,業熟体に求めた。本節では,経験的な レベルで少 しは首肯可能な根拠 と して,生命一般の根拠及び他者 との関 りの原理である自己を考察 した。次節で

(10)

258 43 3 ・4

は, もう少 し実体化 され まとま りを持 った 「自己」 ‑ 聞入 (かん じん)」 調べてみ る。

3‑3 問人」モデル

溝口恵俊[6]氏 は,社会科学の分析パ ラダイムとして,つね に自律的な態度を とり,主体的に行動す る個人 によってすべての社会事象が構成 され るとい う方 法論的個人主義 と,個人を越えた レベルに実在す る全体社会や集団組織 に有機 的に包摂 された形で個人行動があ りうるとす る方法論的全体主義を取 り上 げ, 両者を共 に個体 と しての くにんげん)を 「個人 (theindividual)とい う存 在 に求めてい る点で は共通 しているとし,「方法論的 く個体)主義」 と一括 し ている そ して,くにんげん)モデルの改変を試み,新たな くにんげん〉モデ ル として 「聞入」を提起 している ( 1参照)。 この 「聞入」においては自主 体 と他主体 との関連性 まで も視野に入れて 自己を客体視す る。 「聞入」 とい う 間柄その ものを体現 した く関係体〉を くにんげん〉モデル として採択す ること によ り社会 システムの構造 と機能 とを分析す るためのスキームとして 「方法論 的 く関係体)主義」を提出 している。演口氏 は図 1を詳 しく説明 していない。

われわれ との関連で言えば,円内が皮膚で覆われた身体を示 し,点線で囲まれ た部分が 自分 と思 う範囲であ り (溝 口氏 は生活空間 と呼んでいる),左 (右) 向きの矢印が両者の関係 (結び付 き ・繋が り)であろう ここで強調 しておき たいことは,破線で囲まれた部分がわれわれの言 うプ レイヤーであ り,「個人 モデルではその外部で関係 (繋が り)を持 ち,「聞入」モデルで は内部で結 び 付 き ・繋が りを持つ点である われわれの興味は 「問人」がいかに説明されて いるかである

溝 口氏の説 明を理解するには仏教の知識をかな り必要 と してい るよ うなの で,更なる理解 は今後の課題 として,今の時点で理解で きていることを もとに 私な りに纏めて説明を試み る。なお,「は じめに」で述べた 「2人交渉ゲーム における個 と全体」での 「個」の再吟味の時に利用 した 「事事無擬」 とよ く似 ていると現時点では思 っている。

さて,図1の 「聞」,Aと 「聞入」Bを考えてみ る。前節で述べたように,

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繋が りの根拠 ‑ゲーム理論 の基礎 に向 けて 259

1 個人」 と 「聞」 4)

自己 (例えば, A) はその成立 に他者 (B)が必要であ った。 Bに依存 して初 めてAAであるのであ る。同様 に,Aに依存 して初 めてBBであ るのであ すなわち,お互 いに他者 な しで は存在 し得 ない。普通 われわれ は, あ る 物 が存 在 して い る時, その物 が それ 自身 の 内 に他 に依存 しな いその もの性 (本質)を持 って そ こに在 ると想定 している。原理的には他 の物 と関係 な く, その物だ けで存在可能であると思 っている。 しか しなが ら,ABは上述の通 り他者 な しでは存在 し得 ない。それで は,ABは如何 なる状態で存在 してい るのだ ろ うか ? 溝 口氏の指摘 によ ると 「依止 と して存在 してい る」 とい う

「ここで 「依止」 という のは,依存 の止 まるべ き拠点, あ るいは 「界」 (一つ

4) 「間柄 としての くにんげん)一 仏教 に探 る新 しい社会科学の基礎 ‑ 」よ り図を 再掲,記号Cを説明の便宜のために追加。

(12)

260 第43巻 第 3 ・4号

の存在のあ りうる,または活 きられるべ き限界であ り境界である)を指 してい そ して, この 「依止」が図 1の Cを含むAとBの生活空間なのである。

すなわち,依存の止 まるべ き拠点 としての 「依止」 として存在 している 「聞入」

は依存関係,結び付 き ・繋が り (1Cの部分)をその内部 に想定 している のである。

以上,「聞入」モデルの説 明を簡単 に行 った。 「聞入」 は別 々に存在 してい るのだが, この 「別 々」はそれ 自身で固有の性質を持 っているという意味での

別 々」ではな くて,依存関係の止 まるとい う意味での 「別 々」である すな わち,「依止」 として存在 してお り,その中に他者 との結 び付 き ・繋が りを既 に含んでいるのである。

4 まとめ

われわれは第 1, 2章で,プ レイヤーが経済主体ではな く生身の人間である 場合 には,ゲーム理論 におけるプ レイヤー観,すなわち,プ レイヤーを 自律的 に行動す る理性的意思決定主体みなす ことには少 し無理があることを示 し,プ レイヤー問の結び付 き ・繋が りの湧 き出る場所,根拠を探 って きた。簡単な図 を用いて, これを纏めてみ る

まず,通常のゲーム理論で仮定 されている自律的意思決定者 としてのプ レイ

ed

プレイヤーAB

に行動する 決定主体

2 自律的意思決定主体 と しての プ レイヤー

ヤーは図2のよ うに現 され るだろ う これ は第 3‑ 3節 の図 1左側 の個人 モ デル と同 じで あ るが, プ レイヤー が固定 した実体 で あ る こと,他者 に 依存せず に 自律 して い る ことを強調 す るた めに, 円内を黒塗 りに した。

生身 の人 間の場合 この図2の よ うに プ レイヤーを捉 え るの は無理 で はな いか, とい うのがわれわれの 出発点

(13)

繋が りの根拠 ‑ゲ ーム理論 の基礎 に向 けて

3 業熟体 としてのプ レイヤー

261

であった。そ こで,最初に検討 したのが第 3‑1節の 「業熟体」である。全人 格的思惟の実践 により図3の下方の業熟体が実現 されて くる 業熟体を太 い線 で示 したが, これは普通にわれわれが実体 として捉え得 ることを示すためでは な く,玉城氏の言 う 「最高度の リア リティを持つ を表現 したっ もりである0 私の業熟体の理解が浅 いためであると思われ るが,公私の焦点である業熟体が あまりに も前面 に押 し出されていて,われわれが通常感 じている私 と他者のあ いだにどう生か されて くるかの糸口が掴めない。そ こで, もう少 し経験的 レベ ルで結 び付 き ・繋が りの場所,根拠を求めたのが第 3‑2節の 「あいだ として の自己」である。

4においてプ レイヤーA, Bは固定 した実体 と して捉え ることが出来ない とい う意味で,点線の円で表現 されている。生命一般の根拠 との生 きた関 りを 現すのが下方か ら上方‑の矢の付いた太 い曲線であ り,他者 との関 りは水平の

(14)

262 第 43巻 第 3 ・4

4 「あいだとしての自己」 としてのプ レイヤー

矢印の付いた太い直線である。 この図4では,結 び付 き ・繋が りの場所,根拠 である太 い線 に強調点あ り, この線の交わ ってい る辺 りが表象で あるプ レイ ヤーである。 この矢の付いた太 い線が図を動的に しているため,図4がプ レイ ヤー間の結び付 き ・繋が りの湧 き出る場所,根拠を最 もよ く表現 していると思 われ る。

これを区別 されたプ レイヤーに強調点を移 して表現 した ものが,第3‑3 の図 1の右側の聞入モデルであろ う。プ レイヤーは通常の存在ではな く,結び 付 き ・繋が りを表す領域Cを含む 「依止」 として捉え られている

以上,図 1の聞入モデル と図 4のようにプ レイヤー問の結び付 き ・繋が りの 根拠をその中に含むプ レイヤーとい うもの も十分考え られ るとい うことを示す ことがで きた。図4の方 は動的であるがゆえに訴えかけるものが多いが,その 反面,固定 された存在ではないので捕え どころがない。図 1の聞入モデルの方 は一応存在を扱 っているとい う意味で取 っ付 き易いが,依存の止 まるべ き拠点 としての 「依止」という側面が忘れ られ るという難点があ りそ うである

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繋が りの根拠 ‑ゲーム理論 の基礎 に向 けて 263

5 終わ りに

本稿では,生身の人間をプ レイヤ‑と した場合 その結 び付 き ・繋が りの湧 き 出 る場所,根拠 を プ レイヤ‑の内部 に想定す ることが可能であ ることを示 し た. しか しなが ら,その時のプ レイヤーは以前の よ うな独立 した, 自律的な意 思決定主体ではない。 といって も,他 に依存 しなければ何 も出来ない惨 めな受 身一方のプ レイヤ‑で は決 してない ことに注意す る必要がある この拡張 され たプ レイヤーが ゲームを行 った ときにど うい うゲーム理論が展 開 され るだろ う? これ は大 きな課題であ る。 この大 きな課題 の前 に取 り組んでおかなけれ ば問題を挙 げることで本稿を終わ ることにす る。

(1) われわれがわれわれ 自身のモデル と して 「あいだ と しての 自己」, また は 「聞入」を採用す ることに肯 き得 る多 くの事例を集めること。

(2) 「あいだ と しての 自己」は関 りであるので,表象面 と しての 「自己」は 境界が唆味で,未知の もの不確かな ものをそれ 自身の中に含む。 この未知 の もの不確かな ものを何 らかの形で掬 い上 げる方法を調べ ること0

(3) 2章 で 「我思 う, ゆえに我 あ り」を私が 自分の もの と して語 る場合 に, 「我」が含むべ き内容 として 「挫折感」,「それを補 って くれ る他人へ の安堵感」を挙げた。 これ らと結び付 き ・繋が りとの関係 を調べ ること。

参 考 文 献

[1] 協力ゲームの理論」,東京大学 出版会,1985(p.1)0

[2] 「臨床の知 とは何か」,岩波書店,1992(pp.20‑22)

[3] 普遍 の智慧 ‑ことばが生 まれっづ く‑」,季刊仏教,no.7,1989(pp.39‑

40)0

[4] 「原始経典における業異熟の究明業思想研究』所収,平楽寺書店,1979(pp.

228‑230)。業熟体 ‑業異熟 (玉城氏の同 じものを表す以前の用語)0 [5] 「あいだ」,弘文堂,1988。本節の引用はすべて この本による。

[6] 「間柄 と しての くにんげん) 一仏教 に探 る新 しい社会科学の基礎,季刊仏教, no.9,1989(pp.67‑75)0

参照

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