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ヲ格補文標識「の」、「こと」の使い分け : 仮説 設定のプロセスとその意義

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ヲ格補文標識「の」、「こと」の使い分け : 仮説 設定のプロセスとその意義

著者 渡辺 ゆかり

雑誌名 三重大学日本語学文学

7

ページ 78‑67

発行年 1996‑06‑02

URL http://hdl.handle.net/10076/6501

(2)

ヲ格補文標識「のJ、●rことJの使い分け

一仮説設定のプロセスとその意義一

凄堅辺ゆカヽり

1.はじめに

補文標識「の」、「こと」の使い分けを意味論的に説明しようと試みた研究 に、伽no(1973a)、久野(1973b)、Jo5epbg(1976)、Akat5ula(1978)があるが、

いずれにおいても説得力のある説明は見られない。

これらの先行研究におけるアプローチにおいては、補文と補文標識を選択す

る動詞の意味については考慮されているが、人間申認知のメカニズムに関して

はほとんど考慮されていない。

そこで、本稿臥 このような認知のメカニズムをも考慮に入れた認知論的な 枠軌みから、補文様歳「の」、「ことJの使い分けを説明する仮説を設定し、

従来のアプローチでは説明のつかなかった言語事実を説明することを目的とす

る。

なお、先行研究においては、ヲ格を形成する「の」、「こと」を中心に考察 されているので、本掛こおいても考察対象をヲ格を形成する「の」、「こと」

に限定し、先行研究におけるアプローチと本掛こおけるアプローチとの相違を 明らかにする。

2.先行研究

伽no(1973a)は、次の(1)、(2)のような表現例をあげ、「Fのjは五感(ま

たは六感)のいずれかによって直接的に知覚される具体的な動作、状態、出来 事を表し、一方Fこと』はより抽象的な概念を表す。(E仙01973a:221)」とし

ている。

(1)(=Kuno(1973a)'s(23a))

私はジョンがマリーをぶつ の/*こと を見た。

(2)(=Kuno(1973a)'s(24b))

私はジョンに 働く *の/こと を命じた。

しかし、伽叫(1973a)のこのような意味規定で臥例えば、次の(3)において、

「の」が選択されることを説明することはできない。

(3) 太郎は、旅行に参加する ノ/*コト をキャンセルした。

何故なら、補文の表す事態は「キヤ・ンセルする」という行為が遂行されるこ

(3)

とによって五感で知覚される可能性が全く無くなってしまうからである。

次に、知的意味を損なわないで「の」と「こと」とを交換することのできる 動詞について考えてみる。

Josepbs(1976:34、卜344)は、感情的な反応を表す動詞の中には「の」、「こ と」の交換が可能な動詞も存在するが、これらの動詞が直接的に経験した出来 事に対して即座に生じる心的反応を表している場合は、「直接仙rect)」を表 す「の」しか選択することができないとしている(注1)。

Josepbぶの指摘するように、「喜ぶ」という動詞が直接的に経験した出来事 に対して即座に生じる心的反応を表している次の(4b)においては、「の」しか 許容されない。.

(4)a.(場面:花子のいたずらがばれ、職員室に呼び出されて教室を出て 'いく花子を一郎は簿しそうに見ている。)

一郎臥花子が先生に叱られる■ノ/コト を喜んでいる様子だ。

b.(場面:一郎は、花子が先生に叱られるのを見て嬉しそうにしてい る。)

一郎は、花子が先生に叱られる ノ/*コト を喜んでいる様子だ。

・しかし、Josephslま、・(4a)のような場合に、何故、「の」、「こと」のい ずれもが許容されるのかについては説明していない。

「期待する」という動詞もまた知的意味を損なわないで「の」、「こと」を 交換することができるが、Kuno(1973a:221)は、次の(5)において「の」を選択 した場合軋「こと」を選択した場合よりも「ジョンが来る」ことに対する主 体の確信が強いとし、主体の確居の強弱から「の」、「こと」の使い分けを説 明している。

(5)(=Euno(1973a)'s(26a)、(26b))

マリーはジョンが来る の/こと を期待していた。

Joseph5(1976:336‑33さ)、Akatsuka(1978:186‑187)もKuno(1973a)と同様の見 解を示しているが、次の(6)、(7)のように補文が「ない」という否定形で終わ っている場合は主体の確信の強弱とは関係なく、「こと」が康先されるふ

(6) 花子は、太郎が来ない 門ノ/コト を期待していた。

(7) 花子は、明日雨が降らない 門ノ/コト を期待していた。

知的意味を損なわないで「の」と「こと」とを交換することのできる動詞に は、他に「知る」という動詞がある。

久野(】973b:141)は、次の(8a)の補文は「具体的な動作、出来事を表す命題 でもあり得るし、又、抽象化された概念を表す命題でもありうる」ので「の」、

「こと」のいずれも選択することができるが、(8b)の補文は「抽象的概念でし かありえない」ので「の」を選択することはできないとしている。

(4)

(8)(=久野(1973b)の(17))

a.太郎はコロンバスがアメリカを発見した の/こと を知らなか った。

b.太郎は人間が羽のない二本足の動物である *の/こと を知ら なかった。

しかし、(8b)においても「の」は許容される。また、久野(1973b)は、(ぬ) の補文が何故「具体的な動作、出来事を表す命題でもあり得るし、又、抽象化 された概念を表す命題でもありうる」のかについては全く触れていない。

最後に、「の」は選択しないとされてきた動詞について考えてみる。

Kuno(1973a:220)は「命令を表す動詞はrこと』節をとることはできるが

Fの』節をとることはできない」として(2)の表現例をあげ、その理由につい

ては「命令される行為は、まだ五感によって知覚されるはずはないからである」

としている。

また、Jo5epb5(1976:333二334)も、Kuno(1973a)と同様、「命令」を表す動詞 は「こと」は選択するが「の」は選択しないとし、その理由については「望ま れている未来の出来事(すなわち埋め込ま、れた補文の表す出来事トは、命令ま

たは要求がなされる時尉こおいてはまだ実現していない」からであるとしてい

る。しかし、次の(9)、(10)のように「の」を許容する場合もある(注2)。

(9) 母は、今日に限って、洗濯物を取り込む ノ/コト を弟に命 じた。

(10)母は、今晩同窓会で帰りが遅くなるので、鉢植えに水をやる ノ/コト を私に命じて出ていった。

Kuno(1973a‥221)、Jo5epbs(1976)は「考える」としナう動詞も「こと」は選択 するが「の」は選択しないとしているが、Akatsuka(・1978:185)も指摘している ように「の」を選択することが可能な場合もある。

(11)私は、この仕事を一郎に頼む *ノ/コト を考えた。

(12)私は、明日試験の合否が発表される ノ/コト を考えると心配で たまらない。

ただし、‑Akatsukaで臥何故、「の」が許容される場合があるのかについて は具体的に説明されてはいない。

以上、先行研究における問題点を指輪してきた。

次節においては、補文標識「の」、「こと」の使い分けを説明する新たな仮 説を設定するにあたり、補文標識か否かに関係なく名詞句を形成する「の」、

及び、「こと」の用法には共通の原理が働いているとの予測のもとに、名詞句

を形成するが神文標識としての資格は持たない「の」、「ごと」の用法につい

て考察していく。

(5)

3.補文標識としての資格を持たない「の」、「こと」

3.1.「の」

次の(13)、(14)の「の」は、発話場面において話者と聞き手の間で共通に意 識されているあるカテゴリーに属する「もの」の中から、話者によって選び出

された、より下位のカテゴリーに属する「もの」を指示している。

例えば、(13)の「の」は、発話場面において話者と聞き手の問で共通に意諭 されているあるカテゴリーに属する「品物」の中から、話者によって運び出さ れた、より下位の「もう少し安い品物」というカテゴリーに属する「品物」を 指示している。また、・(14)の「の」も、発話場面において話者と聞き手の間で 共通に意識されているあるカテゴリーに属する「もの」の中から、話者によっ

て選び出された、より下位の「途中まで書いたもの」、というカテゴリーに属す る「もの」を指示している。

(13)もう少し安い ノ/*コト はありませんか。

(14)途中まで書いた ノ/*コト を持ってました.

「の」は、この他、次の(15)‑(17)のように分裂文においても用いられ、述 帝の中に現れている名詞が指示している「人」、「時間」、「場所」と同一の

「人」、「時間」、「場所」を指示している。

(15)花びんを割った ノ/*コト は私です。

(16)荷物が届く ノ/*コト は明日です。

(17)事故があった ノ/*コト はその場所です。

以上の考察により、(13卜(17)の「の」は、「もの」、「人」、「時間」、

イ場所」といった「実在」を指示するのに用いられているということができる。

従って、補文標識の「の」についてもある世界についての「実在」を指示し ている可能性が示唆される。

3.2.「こと」

江田(1987:68)は「『名詞+のこと』を目的格補宙として使う場合、共に使 われる動詞は思考作用、発話行為、一部の感情表現の動詞である。」と述べて

いる。

江田の指摘の通り、心的行為や発話行為を表す述語動詞は次の(18卜(20)の ように「名詞+のこと」の形の補語をとるが、心的行為や発話行為を表さない 述語動詞は次の(21)のように「名詞+のこと」の形の補語はとらない。そして、

(18)‑(20)における「子供のこと」は述帝動詞の表す心的行為や発話行為の対 象として、主体の脳裏に浮かんだ「子供」に関連する何らかの「事柄」を表し

ている。

(18)子供のコトを考える。

(6)

(19)子供のコトを話す。

(20)子供のコトを悲しむ。

(21)*子供のコトをたたく。

また、連体修飾節の底として用いられている次の(22)t(24)の「こと」も、

発話行為や心的行為の対象として主体の脳裏に浮かんだ「事柄」を表したり、

当然行うべき行為について主体が脳裏に描いた「青写真」を表している。

例えば、(22)の「こと」は「話す」という行為の対象と・して「太郎」の脳裏 に浮かんだ「事柄」を奉し、(23)は、「思い出す」という行為の結果、主体の 脳裏に浮かんだ「事柄」を表し、(24)は、主体が脳裏に描いている「やるべき」

行為についての「青写真」を表している。

(22)太郎が話した コト/*ノ はほとんどでたらめだ。

(23)悲しい コト/*ノ を思い出す。

(24)やるべき コト/*ノ はやった。

以上の考察により、(18卜(20)、(22卜(24)の「こと」は、人間の脳裏に浮か

ぶ「事柄」や脳裏に描かれる「青写真」等の「心的表象」を指示するのに用い られているということができる。

従って、補文標識の「こと」についてもこのような「心的表象」を指示して いる可能性が示唆される。

なお、人間の脳裏に浮かんだり、描かれたりする「心的表象」臥認知心理

学においてイイメージ」と呼ばれているものに相当する。

従って、今後は「心的表象」という蕃の代わりに「イメージ」という帝を用 いることとするが、「イメージ」そのものが何であるかについての定義は、水 島・上杉(1983:3)の指摘するように「理論的な立場によっても異なってくる」

し、また、「その研究者や理論家が主としてどのような種類のイメージを、ど のような側面からみているかによって違ってくる」ものである。

本毒削こおいては、認知者の認知様式を決定付けている認知者の「主観」(注 3)との関係から、「イメージ」とは、認知者が自らの「主観」を基に世界を 規定した結果、認知者の脳裏に形成された「心的表象」であり、世界の有り様 に関する認知者の「主観」が映し出された「心的表象」であると定義する(注 4)ム

次節では、認知者の「主観」が認知者の認知様式をとのように決定付けてい るのかを具体的な認知現象に照らし合わせながら見ていくことによって本稿に おける認知論的な枠組みを明らかにした後、このような枠観みから、神文標識

「の」、「こと」の使い分けを説明する仮説を設定する。

(7)

4.本稿における認知論的搾乳みと仮説 4.1.認知者の「主観」と諾知様式

私たちは、現実とされている世界だけではなく、夢や空想の世界等、様々な 世界の有り様を自らの「主観」に基づき規定する能力を持っている。

例えば、私は、現前する事態を目のあたりにして「妹はテレビを見ており、

母は日本茶を飲んでおり、…」といったふうに規定していくこともできるし、

また自分の望む将来を想像して「発明家になり、一大発明をして、億万長者に なって…」といったふうに規定していくこともできる。

しかし、いずれの場合においても、‑これらの規定が私の「主観」に基づいて いることに変わりはない。従って、私が目のあたりにして規定した事態が、実

際には、「妹はファミコンダームで遊んでおり、母は白湯を飲んでおり、‥・」

といった事態である可能性が全くないとはいいきれない。また、自分の望む将

来を規定す早場合においても、その時その時の自分の価値観によって規定の仕

方は異なるものなのである。

また、規定される世界というのは、規定を望む者の意図や関心によって焦点 化されるものである。

例えば、私が今日の前にいる友人Aに「昨日の晩は何していたの。」七尋ね たとする。その時私が規定を望んでいる世界は私の何らかの意図または関心に より、「昨日の晩の友人Aの行動の有り・様」に焦点が絞られている。

さらに、私たちは規定されたまたは規定される世界の「実在」を自らの「主 観」に基づき疑い得ないものとして確定したり、場合によっては意図的に、ま たは、故意に「実在」を仮定したりする。

例えば、目の前にあるりんごを見て「りんごがあるから食べよう。」と言っ た場合は、話者はりんごの「実在」を自らの信念に基づき疑い得ないものと確 定している。一方、何もないテーブルを指し「ここにりんごがあったら、食べ ずにはいられないだろう。」と言った場合は、話者はりんごの「実在」を意図 的に、または、故意に仮定し、その場合の結果を予測しているものとみてよい。

4.2.仮説

以上、認知者の「主観」と認知様式との関係を見てきたが、このような認知 者の「主観」と認知様式との関係性から、本稿においては、次のような認知論 的枠組みを設定する。

「本稿における認知論的枠軋み」

(A)世界の有り様は、認知者の「主観」に基づいて規定される。

(B)規定される世界は、規定を望む者の意図や関心によって焦点化され

(8)

る。

(C)世界の「実在」は、認知者の「主観」に基づき疑い得ないものとし て確定されたり、意図的に、または、故意に仮定されたりする。

そして、このような枠組みから、「の」、「こと」の使い分けを説明する次 のような仮説を設定する。

「補文標識rのJ、Fこと』の使い分けを説明する仮説」

「の」は、認知者によって規定されたまたは規定される世界の「実在」

を捨示する。

「こと」は、ある世界の有り様について認知者が所有する「イメージ」

を指示する。

次節では、2節で問題となった表現例を説明するのにこの仮説が有効である か否かを検証していく。

5.補文標識「の」、「こと」の硬い分け 5.1.「キャンセルする」

2節では、(3)において「の」が許容される理由を説明するのにKuno(1973a) の意味規定が有効ではないこ'とを見た。

しかし、本稿の仮説に基づ桝ま、次のような説明が可能とな卑。

(3)の補文の表す事態は、主体が「キャンセルする」という行為を遂行する 以前に予定していた行為である。このことは、主体が「キャンセルする」とい

う行為を遂行する以前においては、補文の表す事態の「実在」が主体によって 確定されていたことを意味する。しかし、補文の表す事態の「実在」は、主体 が「キャンセルする」という行為を遂行すると、消去されてしまう。

従って、「キャンセルする」という行為は、「(A)主体が疑い得ないものと して確定していた事態のF実在』を主体自身の意志で消去する」行為であると いうことができる。

以上の考察により、(3)において「実在」を指示する「の」が許容され、

「イメージ」を指示する「こと」が許容されないのは、「キャンセルする」と いう動詞が(A)のような行為を表しており、(A)の行為はある世界の「実在」に 対して遂行されるからであるということができる。

5.2.「喜ぶ」

2節では、「感情」を表す動詞が直接的に経験した出来事に対して即座に生

(9)

じる心的反応を表している場合に軋「の」しか許容されないことを見たが、

何故、このような場合には「の」しか許容されず、それ以外の場合には「の」、

「こと」のいずれもが許容されるのであろうか。

私たちの「怒り」、「悲しみ」、「喜び」という感情はある世界の「実在」

を直接経験するとともに生じうるものである。例えば、地下鉄で足を踏まれた とたんに「怒り」が発生し、大好きなべットが息をひきとると同時に「悲しみ」

の感情が湧き起こり、宝くじが当たっていたことを知ると同時に「喜び」を感 じる。

また、感情というものは必ずしもある世界の「実在」を直接経験しなくとも、

未来や過去において自分がある世界の「実在」を経験する場面を思い出したり 想像したりする場合にも生ずる。

例えば、昨日、地下鉄で足を踏まれたことを思い出して再び怒りを感じたり、

大好きなべットが息をひきとった時のことを思い出して再び悲しみが湧き起こ ったり、・宝くじが当たる場面を想像して胸をわくわくさせたりする。

このように「感情」というものはある世界の有り様についての「イメージ」

を思い浮かべることによっても発生するのである。

従って、以上のような感情の発生の仕組みより、(4a)における「喜び」とい う感情は、主体である「一郎」が「花子が先生に叱られる」という「イメージ」

を想像し、「花子が先生に叱られる」という事態の「実在」を擬似的に経験し

た結果筆じたということができる。

すなわち、(4a)における「喜ぶ」という心的行為は、想像により作られた

「イメージ」に対して遂行されているとみなすこともできるし、同時に、疑い えないものとして確定された世界の「実在」に対して遂行されているとみなす こともできるのである。

従って、(血)においては、「喜ぶ」という心的行為の対象として、ある世界 の「実在」を指示する「の」と、「イメージ」を指示する「こと」のいずれも

が許容されることとなる。

一方、(4b)におけろ「喜び」という感情は、(4a)のように補文の表す事態に ついての「イメージ」を想像することによって発生するのではなく、補文の表 す事態の「実在」を直接経験することによって発生する感情である。

従って、.(4b)においては、「喜ぶ」という心的行為が、主体である「一郎」

が補文の表す事態の「実在」を経験することに強く動横づけられているので、

ある世界の「実在」を指示する「の」しか選択することができないのである。

5.3.「期待する」

伽血0(1973a)、Josepbs、Akat5ukaでは、(5)における「の」と「こと」軋

(10)

補文の表す出来事が実現することに対する主体の確信の強弱によって使い分け られているとされているが、(6)、(7)では、主体の確信の強弱に関係なく、

「こと」が優先されることはすでに2節で見た通りである。

しかし、本稿の仮説によれば、次のような説明が可能である。

(5)の「期待する」という行為には、ある事態Ⅹは、「(A)主体にとって好ま しい事態」であり、尚且つ、「(B)実現する可能性はあるがr実在jが確定し ているわけではない」ので「(C)Ⅹの実現を廣う」という心的行為と、(C)であ るので自分の廣望を満たすために「(D)ⅩのF実在Jが五感で知覚される時を 待つ」という行為が含まれている。

この(C)と(D)のふたつの行為のうち、(C)の心的行為は、その行為が遂行さ れる直接的な動機の中に(B)という動機が含まれているので、5.2.で見た「喜 ぶ」という心的行為とは異なり、主体の脳裏碇浮かんだイイメージ」に対して だけ遂行される心的行為であるということができる。

一方、(D)の行為は、その行為が遂行される直接的な動機の中に(B)という動 機は含まれてはおらず、また、この行為は、Ⅹの「実在」を五感で知覚するこ

とを目的とした行為であるので、ある世界の「実在」に対して遂行される行為 であるということができる。

従って、(5)は、「期待する」という動詞が表す(C)と(D)のふたつの行為の 意味のうち、(C)の行為の意味に焦点が置かれている場合は、,「イメージ」を 指示する「こと」が選択され、(D)の行為の意味に焦点が置かれている場合 は、ある世界の「実在」を指示する「の」が選択されるということができる。

次に、(6)、(7)について考えてみるが、(6)、(7)の補文は、(5)の神文と異 なり、「ない」という否定形で終わっている。従って、(5)の補文は、ある一

時点において生起した事態、すなわち点として据えられる事態を表すが、「な い」という否定形で終わる(6)、(7)の補文は、ある一定期間、また臥永遠に 継続する事態、すなわち、疇として据えられている事態を表す。

、先に、(5)の「期待する」という動詞の表す行為に臥(C)と(D)の行為が含 まれていると述べたが、(D)の行為というのは、点として据えられている事態 の「実在」に対して遂行される行為であって,幅として据えられている事態の

「実在」に対して遂行される行為ではない。

従って、(6)、(7)の場合は、補文が頼として据えられている事態を表し七い るので、・「期待する」という動詞の表す行為の中に(D)の行為が含まれている とはみなしがたい。

以上のような理由により、(6)、(7)においては、一(C)の行為の対象となる

「イメージ」を指示するイこと」が鹿先されるのである。

(11)

5.4.「知る」

2節では、(8a)において「知る」という動詞が「の」、「こと」のいずれも

選択することのできること、及び、その理由についての久野(1973b)の説明が 説得力に欠けていることを見た。

本稿の仮説によれば、次のような説明が可能となる。

(8a)の「知る」という動詞臥「(A)知識、情報といった『イメージ』を所 有する」という行為を表している。

また、このような知歳、情報といった「イメージ」は「実在」の確定してい る事態についての「イメージ」であるので、(A)の行為が遂行◆されたというこ とは、同時に「(B)ある事態のF実在jを疑いえないものとして確定する」と いう行為も遂行されたことを意味する。

つまり、(8a)の「知る」という行為には、(A)と(B)のふたつの行為が含まれ ているのである。

従って、(8a)は、「知る」という動詞が表す(A)と(B)のふたつの行為の意痍 のうち、(A)の行為の意味に焦点が置かれている場合には、(A)の行為の対象と

して「イメージ」を指示する「こと」が選択されることとなる。また、(B)の.

行為の意味に焦点が置かれている場合には、(B)の行為の対象としてある世界 の「実在」を指示する「の」が選択されることとなる。

5.5.「命じる」

Kuno(1973a)、Jo5epb5で軋「命じる」は(2)のように「こと」は選択する が「の」は選択しないとされているが、2節で見たように、(9)、(10)におい ては「の」も許容される。

本稿の仮孟削こ基づけば、「命じる」が何故「こと」しか選択できない場合と

「のJ、「こと」のいずれもが選択できる場合があるのか臥次のように説明

することができる。

まず、「の」が許容されない(2)と「の」が許容される(9)、(10)との意味的 な共通点について考えてみると、いずれにおいても「命じる」という行為の中 には、「(A)ニ格の人物に対してあつらえ望む行為についてのFイメージjを

こ格の人物に伝達する」という発話行為が含まれている。

従って、(2)、(9)、(10)において「イメージ」を指示する「こと」が許容さ れるのは、(2)、(9)、(10)の「命じる」という動詞の表す行為の中に、(A)の 行為が含まれており、(A)の行為は「イメージ」を対象としているからである

ということができる。

次に、(2)と(9)、(10)との意味的な相違点を考えてみると、(9)、(10)は、

それぞれ「今日に限って」、「今晩同窓会で帰りが遅くなるので」の存在によ

(12)

り、「(B)神文の表す行為がもともとこ格の人物以外の誰かの仕事であった」

ことがほのめかされているが、(2)には、このようなほのめかしは存在しな い。そして、(9)、(10)の「命じる」という行為が(B)のようなコンテクストの もとで遂行された場合は、(A)の行為だけでなく「(C)ニ格の人物以外の誰かに 帰属していたある行為のF実在』をこ格の人物に帰属させる」という行為も同 時に成立することとなる。

つまり、(9)、(10)については、(8)のようなほのめかしの存在により、「命 じる」という動詞の表す行為の中古こ、(A)の行為に加えて(C)の行為が含められ ることとなるのである。

従って、(C)という行為は、ある行為の「実在」に対して遂行される行為で あるので、(9)、(10)においては、r命じる」という動詞が表す(A)ど(C)のふ たつの行為の意味のうち、(C)の行為の意味に焦点が置かれている場合には、

ある世界の「実在」を拇示する「の」が選択されることとなる。

5.8.「考えるJ

Kuno(1973a)、Josepbsでは、「考える」は、「の」を選択しないとされてい るが、2節では、その反例として(12)が存在することを見た。

何故、(11)においては「こと」しか許容されず、(12)においては「の」、

「こと」のいずれもが許容されるのであろうか。

(11)、(12)のいずれにおいても「考える」という動詞は、思考活動を表して いるが、(11)と(12)とでは、異なるタイプの思考活動を表している。

(11)において用いられている「考える」という動詞は、「(A)何かの目的の ための手段を思案する」という思考活動を表している。そして補文は、(A)の ような思考活動の結果、脳裏に浮かんだ代案の内容を表している。

従って、(12)の「考える」という動詞は、(A)の思考活動の結果、脳裏に浮

かんだ代案としての「イメージ」を指示する「こと」を選択するということが できる。

一方、(12)において用いられている「考える」という動詞は、「(B)F実 在jの確定しているある事態についてのFイメージjを脳裏に思い浮べる一」と いう思考活動を表している。

従って、(12)の「考える」という動詞も、(B)の思考活動の対象として脳裏 に浮かんだ「イメージ」を指示する「こと」を選択する。ただし、(12)におけ る「イメージ」は、(11)の「イメージ」とは異なり、主体によって「実在」の

確定されている事態についての「イメージ」である。従って、(B)の思考活動 を遂行するということは、同時に「(C)ある事態のF実在Jが確定しているこ とを意識する」という行為も同時に遂行されていることを意味する。

(13)

包2)

つまり、(12)の「考える」という行為には、(B)の行為に加えて、(C)の行為 も含まれているのである。

従って、(12)は、「考える」という動詞が表す(B)と(C)のふたつの行為の意

味のうち、(C)の行為の意味に焦点が置かれている場合には、(C)の行為の対象 としてある世界の「実在」.を指示する「の」が選択されることとなる。

6.おわりに

以上、本掛こおいては、補文標識「の」、「こと」の使い分けを説明する仮 説を認知論的な枠組みから設定し、従来のアプローチでは説明のつかなかった 言語事実をこの仮説を用いて説明してきた。今後は、より多くの表現例につい て詳細に分析を行い、この仮説の妥当性を検証していく。

注1)Josepbs(1976:34ト344)は、このような現象を統語論的に説明してい るが、(4)のように着用論的に説明す.ることも可能である。

注2)(9)、(10)において「の」を許容するかしないかについてはゆれが見

られたが、.少なくとも(2)の表現例より臥許容度は高†1ものとみなさ れる。

注3) 本稿においては、「主観」ノという番を、「認知者の主体的なものの見 方、考え方」という意味で用いているのであって、「認知者の姦意的な ものの見方、考え方」という意味で用いているのではない。

注4)「知覚像」、・「残存像」といった、認知者の「主観」とは独立して生 じる「心的表象」は、本稿においては「イメージ」とはみなさない。

【引用文献・参照文献】

Akatsuka McCaYley,N.1978.dAmotherlook at L)0,koto,◆and to:Episte7nOlogy and complementizer choiceihJapanese.P pTOb)emes)L))apaL)eSeS

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江田すみれ19即.「『名詞+のこと』の意味と用法について‑「について」と のかかわり‑」『日本語教育』・62号

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参照

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