石川淳「山桜」をめぐって ― ネルヴァルから秋成へ、あるいはロマン主義の克服 ―
杉浦 晋
*
*すぎうら・すすむ、埼玉大学大学院人文社会科学研究科教授、日本近現代文学
【 要 旨 】 石 川 淳 の 短 篇「 山 桜 」 ( 一 九 三 六 ) に 死 ん だ 女 性 の 幻 影 が あ ら わ れ る の は、 「 わ た し 」 が「 ネ ル ヴ ァ ル の マ ン ト 」 を 想 起 し た こ と を き っ か け =入口としている。それはテオフィル ・ ゴーチェらの回想や、 唯物史観に照応したアーサー ・ シモンズの文学史から石川が受け取った、 ジェラール ・ ド ・ ネルヴァルの「文学的形象」に基づく。それは自殺、 狂気、 夢というロマン的なシニフィエをはらみ、 象徴主義につらなる一九世紀の文学を表象し、 フ ラ ン ス 革 命 後 の 小 市 民 共 和 主 義 者 に よ る ロ マ ン 主 義 文 学 運 動 を 想 起 さ せ る も の で あ り、 長 篇「 普 賢 」 ( 一 九 三 六 ) に も 投 影 さ れ、 小 林 秀 雄、 坂 口 安 吾 な ど も 共 有 し て い た。 そ し て、 物 語 の 最 後 で 幻 影 は 消 滅 し、 あ と に 立 ち す く む「 わ た し 」 が 残 さ れ る。 そ の 姿 は、 こ う し た「 文 学 的 形 象 」 を 克 服 し、 二 〇 世 紀 の 新 し い 文 学 に む か う 決 意 の あ ら わ れ と み な さ れ る。 石 川 は、 そ の た め の き っ か け = 出 口 を、 ま ず ポ ー ル・ ヴ ァ レ リ ー に、 ま た 近 世 文学史の見取図をふまえて上田秋成に認めていた。 キーワード:石川淳 「山桜」 「普賢」 ジェラール・ド・ネルヴァル 上田秋成
『埼玉大学紀要(教養学部)』第55巻第2号、2020年
はじめに
石川淳の短篇「山桜」 (一九三六 ・ 一)のおもなプロットは、かつて深
く関係したのかもしれない京子と再会した「わたし」が、彼女の姿が消
滅するとともに、彼女がすでに死んでいたことを思い出すというもので
ある。再会した京子は、 「わたし」だけにみえる幻影だったことになる。
いわば本作は、幻影を召喚してしまった主人公が、それが幻影でしかな
かったという現実に直面する物語である。
むかしの拙 稿
)((
では、この幻影の成立を、過去と現在、未知と実在とい
う、二つの重なりとしてとらえた。すなわち、過去の京子の残像が現在 にあらわれ、あわせて実在する緋鯉が未知の京子に変身し、両者を「わ たし」が重ねみたとみなした。前者の重なりは、彼女の顔がけっして記 述されないこと、およびその顔を「わたし」がスケッチできないという 挿話が挿入されていることによって、あらわされていた。後者の重なり は、彼女の記述がつねに水にかかわる形容をともなっていること、およ び着物の柄が、魚の鱗のかたちにもみえる「青海波」であることによっ て、ひそかに根拠を与えられていた。 拙稿につづく「山桜」論は、宮下直 子
)((
、水野 尚
)((
、山口俊 雄
)((
の三つを確
認したが、いずれもおもに前者の重なりに注目しており、後者への言及
は乏しい(山口は、そもそも拙稿自体に言及していない) 。そのせいか、
これらはともに本作とジェラール・ド・ネルヴァルとのかかわりを前景
化 し、 拙 稿 で 後 者 の 参 照 枠 と み な し た『 雨 月 物 語 』 就 中「 夢 応 の 鯉 魚 」
の作者、上田秋成とのかかわりの可能性を閑却している。また、水野に
は石川のネルヴァル受容を歴史的に、同時代のコンテクストのなかでと
らえる姿勢がみられたが、宮下、山口にはほとんどみられない。
これらに対して、本稿は二つの重なり、二人とのかかわりをともにふ
まえつつ、本作の分析を敷衍して、石川が生きた時代のコンテクストに
つなげることをめざす。
一
幻影が二つの重なりにおいて成立していると述べたが、両者はプロッ
ト に 沿 っ て、 あ い つ い で あ き ら か に な っ て い る。 「 わ た し 」 は 物 語 の 最
初に、過去の京子との関係への罪悪感(その息子の顔が自分と瓜二つに
みえたため)とともに、夫に「ぴしやり」と打たれる現在の京子と再会
する。そして最後に、やはり夫に「ぴしやりぴしやり」と鞭打たれる実
在の緋鯉をみてふりかえり、未知の京子の消滅に遭遇する。もって正確
には、前者の重なりが幻影の生成にかかわり、後者の重なりはその消滅
にかかわるというべきである。両者は、入口と出口の関係にある。
そ の 幻 影 へ の 入 口 に「 わ た し 」 を 誘 っ た の が「 ネ ル ヴ ァ ル の マ ン ト 」
であった。
さてこのマントといふやつには格別の仔細はなく、かつて読んだあ
る本の中に「ジェラール・ド・ネルヴァルが長身に黒ソフト、黒の
マントをひらひらと夜風になびかせ……」とあつた、それだけのみ
じかい文句が不思議にも体内に沁み入り、あたかもわたしみづから ネルヴァルに出逢つたかのごとくときどきその光景を想ひ見るのだ が、そのおりにはたちまち魔法にかかつたやうにからだが宙に吊り 上げられて、さあかうしてはいられないぞと、じつとこらへるすべ もあることか、真昼深夜のわかちなくあやしい熱に浮かされて外へ 駆け出てしまふといふ、これは何ともえたいの知れぬあさましいわ たしの発作なのだ。
こ の「 発 作 」 に よ り、 京 子 の 家 に む か っ た「 わ た し 」 は、 「 十 二 年 ば
か り 前 」 山 桜 の 下 で 京 子 の 写 真 を 撮 っ た こ と を 想 起 し、 「 先 刻 」 山 桜 の
下にたたずんだときのことを、さらにつぎのように想起する。
わたしは京子の回想といふよりも思ひがけなく写真機の亡霊に取り
憑かれてしまつた。つまり突然たれかがわたしの背後に忍びよつて
例の赤裏の黒布を頭からすつぽりかぶせ、うろたえる眼の先にレン
ズをぎゆつと押しあてでもしたかのやうに、もうわたしは宙にちら
ち ら す る 花 び ら よ り ほ か 何 も 見 え な く な つ て し ま つ た。 [ 中 略 ] わ
たしは頼みの略図を忘れてついまぼろしに釣られつつ、物見遊山に
でも出て来たやうな浮かれごこちになり宛もなくふわふわここまで
迷ひこんだ始末である。
「黒のマント」と「赤裏の黒布」という、同じ「黒」い布が、 「真昼深
夜のわかちなくあやしい熱に浮か」し、 「浮かれごこちに」する「発作」
を、つづけて「わたし」に促している。その「発作」は、ともに死者の
想起にかかわっている。ネルヴァルは首を吊って自殺した。そして、彼
に「出逢つたかのごと」き「光景」が促した「発作」は、死んだ京子の
残像=「写真機の亡霊」=「まぼろし」を召還する。ここでは死者の幻
影が、べつの死者の幻影への入口に「わたし」=読者を導いている。
ところで、 さきの引用部で「ネルヴァルのマント」を述べた「ある本」
の「 み じ か い 文 句 」 の 出 典 に つ い て、 ネ ル ヴ ァ ル に 詳 し い 水 野 は、 「 引
用ではなく、ジェラール・ド・ネルヴァルという名前を実体化するため
に考えられた、石川のレトリックによって生み出された姿と考えた方が
いいだろう」としたうえで、つぎのように述べている。
「 山 桜 」 の 著 者 が ネ ル ヴ ァ ル と い う 名 前 で 喚 起 し よ う と し た 文 学 的
形象は、アーサー・シモンズによって定着された象徴主義の先駆者
としてではなく、現実と幻想の重なりの上に作品を置き、現在と過
去の記憶、夢と現の間で揺れ動く詩人という姿をしていたのではな
いかと考えられる。
この「文学的形象」をあてはめて、水野は本作を読み解いた。先述し
たように宮下と山口は、とくに水野のように歴史的なコンテクストを顧
みてはいない。しかし、後者がそこにエドガー・アラン・ポーを重ねみ
ているこ と
)(
(
を措けば、 両者が本作から読み取った 「自体幻視」 (宮下) 、「死
んだ者も生きていると感じられるネルヴァル的論理」 (山口) といった 「形
象」も、水野のいう「現実と幻想の重なり」に包括されよう。
入口と出口の、二つの重なりを前提とするとき、水野の「重なり」は
前者のみに対応する。もって本稿では、まず水野がふまえた「文学的形
象」の検討をつうじて、入口の輪郭をあきらかにしたうえで、そこから
出口に至る過程の記述を試みる。それは、かつて思いを寄せた、死んだ
女性の幻影が、じつはちっぽけな鯉(恋?)の錯覚にすぎなかったとい
う落ちに、すなわち水野のいう「ネルヴァル的意匠」によるロマン的な
幻影を克服する、 反ネルヴァル的、 反ロマン主義的な結末にむけて、 「わ
たし」=読者を導くものである。
いささか先走ったかもしれない。では、水野がとりあげなかった文献
もふまえつつ、本作で石川が「喚起しようとした」ネルヴァルの「文学 的形象」のオルタナティブを探ってみよう。
二ネルヴァルを形容した 「みじかい文句」 を、 水野が 「石川のレトリック」
だ と 判 断 し た の は、 「 長 身 」 「 黒 の ソ フ ト 」 「 黒 の マ ン ト 」 と い う 三 つ の
「意匠」 がそろった 「ある本」 がみつからなかったためであろう。しかし、
これらがまったく石川の創作だったわけではない。少なくとも原型とな
る形容は、諸文献の記述にしばしばみられる。
や は り ネ ル ヴ ァ ル に 詳 し い 田 村 毅
)((
は、 水 野 も 参 照 し た ア リ ス テ ィ ド・
マリーによる最初の本格的な評伝から、一八五五年一月二六日に発見さ
れた彼の遺体を収容した、モルグの公式記録を引いている。これによれ
ば、 遺体は実際には 「黒い帽子」 「黒の礼服」 を身に着けていたのだという。
くわえて田村は、死の四日後に書かれた、友人アレクサンドル・デュマ
の 「死体がシルクハット (オペラハット) をかぶったままだったという」
記事が、以後「数多くの証言」に踏襲されたことを紹介している。
ま た、 同 じ く 友 人 マ ク シ ム・ デ ュ・ カ ン の
Souvenirs littéraires)(
(
の「 第
七章 幻視者たち」は、自殺の数日前、最後に会ったネルヴァルが「黒
い上着」しか着ていなかったこと(困窮のため「外套」は売り払ってい
た と い う ) 、 そ し て「 私 が 見 た 黒 い 上 着 を 着 て、 高 い 帽 子 を か ぶ っ」 た
姿で深夜に目撃され、翌朝縊死体として発見されたことを伝えている。
すなわち、 帽子と上着の種類、 色の限定の有無を措けば、 「黒のソフト」
「黒のマント」 に類した形容を含む 「ある本」 は、 けっしてめずらしくない。
さ ら に、 デ ュ マ の「 シ ル ク ハ ッ ト 」 、 デ ュ・ カ ン の「 高 い 帽 子 」 と い っ
た 形 容 は、 「 長 身 」 と い う 脚 色( ネ ル ヴ ァ ル は、 水 野、 田 村 が 引 く 旅 券
の記載によれば身長一六八センチで、 「長身」 とはいいがたい) につながっ
た可能性がある。どちらも水野はとりあげていない。
まして重要なのは、これら「石川のレトリック」の原型だったかもし
れない記述が、すべて狂気の果てに自殺したネルヴァルの、遺体の形容
にかかわっていることである。してみれば、 石川が 「長身」 「黒」 「マント」
といった脚色を加えたようにみえることは、自殺した狂気の文学者とい
う「文学的形象」のロマン性を強調するための、 美学的な「レトリック」
だ っ た 可 能 性 が 高 い。 「 黒 の マ ン ト 」 を「 ひ ら ひ ら と 夜 風 に な び 」 か せ
た「長身」には、ぶらぶらと揺れる、ネルヴァルの縊死体が重ねみられ
ていたのであろう。ならば、その幻影と同じ縊死の姿勢を促されたかの
ように「からだが宙に吊り上げられて」しまう「わたし」もまた、自殺
への誘惑に苛まれていたとみなすことができる。
そんな「わたし」は、本作の前後に書かれた小説にも登場する。たと
えば「佳人」 (一九三五 ・ 五)の「わたし」は、 「催眠薬に依つて[中略]
眠 か ら 死 に つ な が ら う と す る や う な 死 に 方 」 で は な く、 「 死 に つ つ 死 ぬ
ことを意識」することを望んでいた。死に至るまで意識の明晰にしがみ
つ こ う と す る、 こ の 切 実 さ か ら は、 「 発 作 」 的 な 意 識 の 喪 失 に よ る 自 殺
への誘惑のつよさが、裏腹に読み取られる。また「普賢」 (一九三六 ・ 六
~ 九 ) の「 わ た し 」 は、 「 黙 黙 と 死 に つ い て 考 へ 」 つ つ、 深 夜 に「 と き
ど き 」 「 突 然「 死 な う 」 と さ け 」 ん で は、 そ の「 こ と ば の 活 力 」 に か ろ
うじて救われていた。
しかし、その学生時代からの親友、庵文蔵は救われることなく、物語
の最後でモルヒネという「催眠薬」による自殺に及んでしまう。 「佳人」
や「普賢」の「わたし」が、そしておそらくは「山桜」の「わたし」も
が、 あやうく回避した自殺への誘惑から、 ついに彼は逃れられなかった。 この意味で、彼は「わたし」のネガティブな分身である。また、早熟な 近眼の文学青年くずれで、アルコールに耽溺する蓬髪美貌の結核患者と いう、通俗的なまでに多くのロマン的な設定を与えられたという意味で は、 過剰にロマン化されたネルヴァル的人物であ る
)((
。そして 「わたし」 (た
ち)は、 物語をつうじて彼に接近し、 かろうじて最後に彼から離脱する。
あたかも彼が体現したロマンを克服するかのように。
なお、こうした「文学的形象」の流布については、さきのデュ・カン の回想が影響した可能性がある。梅比良節 子
)((
が批判したように、そこで
彼は 「終始ネルヴァルを 「狂人」 「病人」 と呼んで哀れ」 み、 絶筆の 「オー
レリア」にさえ「狂気の症例の記録としての価値」をしか認めようとし
なかった。デュ・カンによるこうした印象づけは、蓮實重
彥 ((1(
も批判的に
詳述したように、彼が梅原のいう「実利的、ブルジョア的な精神の体現
者」としてアカデミーに君臨したこともあって、一般的なネルヴァル評
価を導いたとおぼしい。
さらに、やはり学生時代からのネルヴァルの親友、テオフィル・ゴー チ ェ に よ る 回 想
Histoire du Romantisme )(((
が、 と り わ け「 黒 の マ ン ト 」 と
いう「意匠」に即して、こうした方向性をいっそう強化した可能性があ
る。これも水野はとりあげていない。
と き に「 発 作 」 的 に 狂 気 を あ ら わ す 若 き ネ ル ヴ ァ ル を、 「 黒 の 礼 服 」
す な わ ち 燕 尾 服 か ら の 連 想 も あ ず か っ て か、 し ば し ば ゴ ー チ ェ は「 燕 」
にたとえた。まず「一 最初の邂逅」において、彼の来訪は「馴れ切つ
た燕のやうに開け放たれた窓から這入つて来て、小さな叫びを立てなが
ら部屋の周囲を飛びまはり、程なく又出て行く」と述べられている。ま
た「八 ジェラール・ド・ネルヴァル」では、つぎのように夢想に耽る
彼が描かれる。
彼 こ そ 脚 の な い 燕 だ つ た。 全 身 が 翼 で あ り、 [ 中 略 ] 彼 は 行 つ た り 来たりして、思ひがけない角度を作つた唐突な 稲
ジグザグ妻形 を描き、上つ
たり下つたり、 否寧ろ昇つて行つて、 悠々空を飛翔したりして、 [中
略]こんな様子をして夢想に耽つてゐる彼に出会つた時には、私は
唐突な近附き方をするのを差控へたものである。つまり、目をつむ
つたまゝ昏々と睡りながら屋根の縁を歩きまはる夢遊病患者を急に
起した場合のやうに、彼の目を醒まして夢想の高みから墜落させて
はならぬと思つたからである。
「 わ た し 」 を「 魔 法 に か か つ た や う に[ 中 略 ] 宙 に 吊 り 上 げ 」 、 「 あ や
しい熱に浮か」 された 「浮かれごこち」 の 「発作」 に誘う、 「山桜」 の 「ネ
ルヴァルのマント」には、こうした「燕」の「翼」も重ねみられていた
のではないか。
なお、これら奇矯にふるまい、夢の世界に遊ぶ「燕」の比喩を、ゴー チェは先立つ「追悼ジェラール・ド・ネルヴァ ル
)(((
」でも用いていた。こ
の追悼文は、ゴーチェが編集して没後すぐに刊行された、 「オーレリア」
初版を収めた作品集『夢と人生』の序文になったこともあり、広く読ま
れたはずである。そこでネルヴァルの自死は、表題をふまえて「夢が人
生を殺した」と形容され、これを引用した坂口安吾は、エッセイ「牧野
さんの 死
)(((
」(一九三六 ・ 五) で、 ネルヴァルを 「一人の牧野さん」 と呼んだ。
そして、 つぎの「八」の記述は、 この「燕」をいっそう黒々とした「マ
ント」=「翼」に包まれた「烏」に結びつけている。
恐 ら く そ の い ま は の 際 に、 哀 れ な ジ ェ ラ ー ル・ ド・ ネ ル ヴ ァ ル は、
荘厳な瞬間に屡々見られる思想の飛躍によつて、船橋の上で出会つ
た烏、凝然たる預言的な眼付きで彼を呪縛したあの烏のことを思出
したに相違ないのだ。 この「烏」は、ネルヴァルが南方で「宿命から直接彼に送られて来た 不幸の使者のやうに」思い込んだ「烏」であり、彼が縊死した鉄柵のか たわらで羽ばたき、鳴いていたという「烏」でもあった。後者は、前掲 のデュ・カンの回想に登場するし、田村によれば前掲のデュマら、縊死 の現場を訪れた友人たちの証言にも頻出するという。 デュ ・ カンらの形容にくわえて、 このゴーチェの 「燕」 と 「烏」 の比喩は、
「ネルヴァルのマント」 の三つの 「意匠」 就中 「黒のマント」 の象徴性を、
裏打ちした可能性が高い。してみれば、 それらが構成する「文学的形象」
は、自殺、狂気、そして夢という、まことにロマン的なシニフィエばか
りをはらんでいたことになる。
三
以上をふまえるとき、水野が掲げた石川が「喚起しようとした文学的
形象」の後半部は、宮下、山口のそれとともに、大きく修正される。そ
れは 「現実」 「現在」 「現」 と 「幻想」 「過去」 「夢」 の 「重なり」 や 「間」
で、たんに「揺れ動」いたというにとどまらない。狂気にとらわれ、後
者にむかって墜落し、ついに自殺した「詩人」=死人のロマン的な「形
象」であった。まさしく「夢が人生を殺した」という比喩のとおりに。
では「アーサー・シモンズによって定着された象徴主義の先駆者とし
てではなく」という、前半部についてはどうか。
一 九 一 三 年 に 岩 野 泡 鳴 訳 で 出 版 さ れ た シ モ ン ズ の
The Symbolist movement in Literature )(((
に お け る 紹 介 は、 日 本 に お け る ネ ル ヴ ァ ル の 受 容
を決定的に導いた。ネルヴァルの書誌に詳しい井村実名 子
)(((
は、 「ネルヴァ
ル は[ 中 略 ] シ モ ン ズ と と も に 海 を 渡 っ て き た 」 「 つ つ ま し い 無 名 作 家
であったネルヴァルが、このような稀有な書物の最初の章に特別に《象
徴派の先駆者》としての席を与えられ、象徴主義の魅力に幻惑されきっ
た 明 治 末 期 の 詩 壇 に の り こ ん で き た 」 と 述 べ て い る。 あ き ら か な 誤 訳
を 含 み つ つ も、 そ の 影 響 が 中 原 中 也、 小 林 秀 雄 ら に ま で 及 ん だ こ と は、
す で に 指 摘 さ れ て い る。 一 九 世 紀 末、 象 徴 主 義 全 盛 の 現 在 か ら 遡 行 し、
一九世紀前半のロマン主義文学者、ネルヴァルに偉大な「先駆者」とし
ての「文学的形象」を与えた点で、同書は画期的であった。
これに対して水野は、むしろマルセル ・ プルーストにも通じるような、
いわば二〇世紀文学的な「理知」をネルヴァルに認める観点から、こう
した 「文学的形象」 を退けてみせた。山口のいう 「ネルヴァル的論理」 も、
この「理知」とあわせてとらえられよう。
井村によれば、フランスでようやく一九三〇年に「正当な文学史に揺
ぎない席を要求しうる作家」となって以降、水野がとりあげたプルース
トのものなど、 優れた論考があいついだことにもより、 たしかにネルヴァ
ルの「文学的形象」は急速に刷新されていった。いわばデュ ・ カン、 ゴー
チェ、シモンズ的な「形象」から、プルースト的な「形象」へと。そし
て、 い く つ か の フ ラ ン ス 文 学 史 を 参 照 し た か ぎ り で は、 「 無 意 志 的 な 記
憶 の 回 帰 を 再 現 す る
)(((
」 「 プ ル ー ス ト に も 影 響 を 与 え 」 た「 精 神 を 扱 う 手
法
)(((
」 の 文 学 者 と い っ た、 こ の 後 者 の「 形 象 」 は、 第 二 次 世 界 大 戦 後 に、
しだいに日本でも定着していったようである。井村によれば、それでも
「この小作家」への評価は低く、 「東大仏文科スタッフによる『フランス
文学史』 (
1955)にさえも無視され」ていたのだとしても。
しかしながら、その戦後ならばともかく、一九三〇年代の日本におい
て、ネルヴァルの二〇世紀的、プルースト的な「形象」が、ひろく抱懐
されていたとは考えにくい。 た と え ば 小 林 秀 雄 は、 エ ッ セ イ「 様 々 な る 意 匠
)(((
」 ( 一 九 二 九 ・ 四 ) で、
水 野 が 指 摘 し た と お り、 「 狂 詩 人 」 ネ ル ヴ ァ ル を 例 と し て「 写
レアリスム実 主 義 」
を説明した。しかし水野が主張するように、そこに先進的な「理知」を
認 め た わ け で は、 け っ し て な い。 む し ろ ぎ ゃ く に、 「 写
レアリスム実 主 義 」 は「 各
自 の 資 質 に 従 つ て、 各 自 の 夢 を 築 か む と す る 地 盤 」 「 最 上 芸 術 家 の 実 践
の前提」 「安易な領域」にすぎず、 「芸術家」の本当の「困難」は「この
上に如何なる夢を築かむとするかに存する」と述べている。さらに、つ
づけて小林は、そうした「最も精妙なる「 写
レアリスム実主義 」の問題」は、じつ
は「ボオドレエルによつて継承され、マラルメの秘教に至つてその頂点
に達した」 「 「 象
サンボリスム徴主義 」の問題」と一致するとも述べた。
つまり小林は、ここで「 写
レアリスム実主義 」と「 象
サンボリスム徴主義 」をともに克服した
「この上」 にこそ、 今日の 「芸術家」 の 「夢」 が 「実践」 されるべき 「困難」
を 認 め て い る。 「 脳 細 胞 か ら 意 識 を 引 き 出 す 唯 物 論 も、 精 神 か ら 存 在 を
引 き 出 す 観 念 論 も 等 し く 否 定 し た マ ル ク ス の 唯 物 史 観 に お け る「 物 」 」
の今日性を述べた、これにつづく有名なくだりは、こうした認識とパラ
レルである。この「物」とは「芸術家」の「夢」のことでもあろう。
小林はネルヴァルを、ボードレール、マラルメらとともに、克服すべ
き一九世紀文学の範疇に繰り入れている。唯物史観とパラレルに、まさ
にシモンズ的といってよい、リニアな文学史のコンテクストに即してい
たのである。プルーストと結びつけられる以前の、 デュ ・ カン、 ゴーチェ
的な「狂詩人」という形容が用いられたのも、けだし当然であった。
さ て、 石 川 の「 普 賢 」 に、 「 わ た し 」 と 表 裏 一 体 を な す 庵 文 蔵 と い う
ネルヴァル的人物が登場することは先述した。 詩人の伝記執筆という 「こ
と ば 」 に 向 か う「 わ た し 」 と、 「 こ と ば 」 を 失 っ て ア ル コ ー ル に 耽 溺 す
る文蔵 (まことにアイロニカルな命名である) とは好対照であり、 「人生」
と「夢」の対立を表象していた。そして、ほとんど「われわれ」のモノ
ロ ー グ と 化 し た 両 者 の ダ イ ア ロ ー グ の な か で、 「 わ た し 」 は つ ぎ の よ う
にシモンズに言及する。
欠陥。欠陥があればどうしたといふんだ。ひとはそこから花を咲か
せ る ほ か 欠 陥 を 処 理 す る す べ は な い ん だ。 シ モ ン ズ だ か だ れ だ か、
だれでもいい、紙にぱつと花が咲くやうに書けといふ。豚になめら
れたやうに万遍なく出来上つてゐる人間にそんな見事な芸当ができ
ると思ふのか。
最後の一文に、夏目漱石『夢十夜』の「第十夜」の影が認められるこ とには触れな い
)(((
。ここで注目したいのは、右の一節が、シモンズがネル
ヴァルを論じた、つぎの部分をふまえていたとおぼしいことである。後
述する宍戸儀一の訳文を引く。
ところで、ジェラル・ド・ネルヴァルが全世界に先んじて見抜いた
のは、詩は奇蹟であるべきだといふこと、美への讃歌でもなく、美
の叙述でもなく、美の鏡でもない、紙面からふたたび咲き出す美そ
のもの、色、匂ひ、想像された花の形などであるといふことであつ
た。幻想は、すなはち制しがたい幻想は、彼の意志を超えて、もし
くは逆らつて、彼を訪れて来た。しかも彼は、幻想が根であつてそ
の根から花が咲きださなければならないことを知つてゐた。幻想は
彼に象徴を教へた。しかも、彼は、花が可見の形をとるのは象徴に
よつてのみであることを知つてゐた。
詩人の伝記をつうじて、 女性の 「象徴」 に託した 「夢」 = 「美」 = 「花」
をあらわそうと苦しむ「わたし」は、ネルヴァルのように「花」を咲か
せ る こ と が で き ず、 「 讃 歌 」 「 叙 述 」 「 鏡 」 し か 書 け な い 現 状 を 嘆 い て い
る。 ぎ ゃ く に 文 蔵 は、 ネ ル ヴ ァ ル の よ う に「 夢 」 に 陥 り、 「 人 生 」 を 見 失いつつあることに苦しんでいる。そして、ついに両者はモノローグ= ダイアローグのおわりに、お互いの首を絞めて殺しあう。かくして石川 は、 ネ ル ヴ ァ ル の 縊 死 を お も か げ と し て、 「 夢 と 人 生 」 の 相 克 を、 自 殺
=心中(未遂)としてあらわした。
この「普賢」の一場面の演出が、シモンズによる、ネルヴァルのロマ
ン的な「形象」に依拠していたとすれば、これに先立つ「山桜」の「ネ
ルヴァルのマント」も、同様であった可能性が高い。そして、ここから
水 野 が い う「 文 学 的 形 象 」 の 前 半 部 を 真 逆 の 方 向 に 修 正 す る 可 能 性 が、
さらに導かれる。
「普賢」連載開始と同月に発表されたエッセイ「象徴詩とヴァレリイ」
( 一 九 三 六 ・ 六、 の ち「 ヴ ァ レ リ イ 」 の「 二 」 ) の、 つ ぎ の く だ り が、 こ
れを裏づけている。
一 八 八 五 年 と い ふ の は[ 中 略 ] 、 ま さ し く サ ン ボ リ ス ム 発 展 の 道 標
となるものであるが、その拠つて来るところを明かにするためには
十 九 世 紀 中 葉 の ロ マ ン テ ィ ス ム の 精 神 に さ か の ぼ ら な け れ ば な ら
ず、たとへばシモンズはサンボリスムを論ずるにあたつてバルザッ
クからはじめてゐる。
「 サ ン ボ リ ス ム 」 を 考 え る に は「 十 九 世 紀 中 葉 の ロ マ ン テ ィ ス ム の 精
神にさかのぼらなければなら」ないと述べる石川が、この時点までシモ
ン ズ に な ら い、 ネ ル ヴ ァ ル ら ロ マ ン 主 義 文 学 者 を「 象 徴 主 義 の 先 駆 者 」
とみなしていたことは、もはやあきらかである。
なお、ここで「シモンズは[中略]バルザックからはじめてゐる」と
述べていることは、たいへん興味深い。岩野泡鳴訳のシモンズは、ネル
ヴァルを筆頭として、以下リラダン、ランボー、ヴェルレーヌ……とい
う順に、フランスの象徴主義文学者たちを紹介していた。だからこそ井
村は、ネルヴァルが「最初の章に特別に《象徴派の先駆者》としての席
を与えられ」たと述べたのである。そして、これは泡鳴の翻訳が、本書
の初版(一八九九)を底本としていたためであった。これに対してバル
ザック、ゴーチェらの紹介は、初版の内容をそのまま第一部としたうえ
で、 増 補 版( 一 九 〇 八、 一 九 一 九 ) の 第 二 部 に、 は じ め て 加 え ら れ た
)(2(
。
したがって石川は、遅くとも一九三六年までには、もはやシモンズを初
版、泡鳴訳で読んではいなかったことにな る
)(((
。
しかし、たんに増補版の原書で読んだとするのも早計である。という
のも、増補版に基づくはじめての翻訳が、一九三七年に宍戸儀一訳で出
版されてい る
)(((
のだが、同書は原書の一部、二部の構成を解体し、文学者
の生年順に再構成するという、独自の編集をおこなっていた。ロマン主
義、写実主義から象徴主義に発展するリニアな一九世紀フランス文学史
は、 最 年 長( 一 七 九 九 年 生 ) の バ ル ザ ッ ク か ら は じ ま り、 以 下 メ リ メ、
ネルヴァル、 ゴーチェ、 フローベール、 ボードレール……最年少 (一八六二
年生)のメーテルリンクとつづく列伝として、ここにはっきり可視化さ
れたのである。 石川は、 同書のことを知っていた可能性がある。 バルザッ
クを第二部でとりあげた増補版の原書だけを読んだとすれば、 「バルザッ
クからはじめてゐる」というのは、いささか不自然だからである。
宍戸は、同書の「訳者のあとがき」に「特にご尽力をいただいた」山 内義雄らへの謝辞を記している。石川との親密な関 係
)(((
を鑑みるなら、こ
の山内を介して、出版前の同書に石川が触れる機会があったのかもしれ
ない。しかし、そうでなかったにせよ、少なくとも同書の出版は、当時
の石川のまわりで、シモンズ的なコンテクストが(まだ)共有されてい
た こ と を 証 す る。 そ こ で ネ ル ヴ ァ ル は、 た だ 一 人「 特 別 」 の「 先 駆 者 」
ではなくなったものの、他の巨星たちと並べられ、むしろ「先駆者」と しての地位を確かなものにしていた。 くわえて興味深いことに、他方でシモンズは、さらに年少(一八七一 年生)のポール・ヴァレリーを、象徴主義文学者としてとりあげなかっ た。さきの石川のエッセイのタイトル「象徴詩とヴァレリイ」も、両者 に「と」という一線を画したものと解される。それは、シモンズ的なコ ンテクストの延長線上に、水野が示唆したプルーストではなく、ヴァレ リーに二〇世紀文学の可能性を認めようとする、石川の姿勢のあらわれ だったとみなされる。
四当時のコンテクストをとらえるために、シモンズとはべつの重要なテ
クストを、もうひとつ視野におさめておきたい。あらためて石川のまわ
りをみわたしてみよう。
先述したように坂口安吾は、ともに縊死したネルヴァルと牧野信一を
重 ね み て い た。 「 牧 野 さ ん の 死 」 の「 彼[ 牧 野 ] の 一 生 の 文 学 が 自 殺 を
約束された、 自殺と一心同体の、 文学だつた」というくだりには、 デュ ・
カ ン 的 な ネ ル ヴ ァ ル の「 文 学 的 形 象 」 が、 あ き ら か に 投 影 さ れ て い る。
そして、そこに「夢が人生を殺した」という追悼文の一節が引かれたこ
とは、それがゴーチェからもたらされていたことを示唆する。
こ の 一 節 は、 「 牧 野 さ ん の 死 」 と 同 時 期 に 起 筆 さ れ て い た
)(((
、 長 篇『 吹
雪物語』 (一九三八 ・ 七) の副題 「夢と知性」 にもふまえられたとおぼしく、
牧野=ネルヴァルの影響の大きさを証している。同じく牧野に影響され
た石川も、 その死に際してエッセイ「牧野信一氏を悼む」 (一九三六 ・ 五、
の ち「 牧 野 信 一 」 ) を 書 き、 牧 野 を「 ど ん な 小 説 を 書 い て も 詩 に し か な
ら ぬ 作 者 」 「 そ の は て は 詩 に な る ほ か は な く 書 き つ づ け る 作 者 の 業 苦 が
い た ま し い の み 」 と 評 し た。 こ の「 小 説 」 を「 人 生 」 「 知 性 」 に、 「 詩 」
を「夢」に、さらに「死」にも重ねるなら、石川の牧野への評価は、両
者 の 相 克 に「 自 殺 と 一 心 同 体 の 」 「 業 苦 」 を 認 め て い た 点 で、 ネ ル ヴ ァ
ルの「文学的形象」に即して安吾と一致する。してみれば、エッセイ冒
頭の 「牧野信一氏の死はまさしくわたしの血管の中での事件に相違ない」
という吐露は、牧野=ネルヴァル的な「死」=「詩」への誘惑に、石川
もまたとらわれていたことの告白であった。
石川も、安吾と同じく、ゴーチェからネルヴァルの「文学的形象」を
受け取っていたのではないか。 「山桜」における「ネルヴァルのマント」
の「意匠」が、ゴーチェの回想に基づいていたという、さきに示した可
能性のことが、ここであらためて想起される。
ゴーチェの回想は、渡邊一夫によって『ロマンチスムの誕生』と題し
て訳され、中島健蔵の評論「ロマンチックについて」と合冊で、青木書
房 の「 ふ ら ん す ロ マ ン チ ッ ク 叢 書 」 に 収 め ら れ た。 「 山 桜 」 の 三 年 後、
一九三九年一月のことである。この叢書は、シモンズ的なコンテクスト
で「象徴主義の先駆者」とみなされる、一九世紀のロマン主義文学者た
ちの著作を集めていた。中村真一郎が訳した、短篇「シルヴィ」を含む
ネルヴァルの作品集『火の娘』も、一九四一年八月に、やはりこの叢書
に収められた。
本書は、 じつはネルヴァルの回想に終始するものではない。渡邊の 「解
説」の言葉を借りるなら、彼を含む「普通文学史にも取扱はれてゐない
や う な 無 名 の 人 々」 に 光 を 当 て、 守 旧 勢 力 の 妨 害 に 抗 し、 ヴ ィ ク ト ル・
ユゴーの戯曲「エルナニ」の上演を敢行した事件においてピークを迎え
た、ロマン主義文学運動の黎明期を回想したものである。 渡 邊 は、 原 題 の
histoireを、 普 通 に「 歴 史 」 「 物 語 」 で は な く「 誕 生 」
と意訳したことについて、 「解説」でつぎのように述べている。
ロマンチスム運動が如何に当時の青年を熱狂せしめたかを、又この
運動が単に文芸美術の領域内に止まらず、既に人生観世界観の領域
にまで革命的な振動を及ぼしたものであつたことを、本書は明かに
示 し 得 る と 思 ふ の で あ る。 [ 中 略 ] こ の 沸 騰 し た 精 神、 荒 れ 狂 ふ 奔
流こそ、ロマンチスムの精神であり、その青春の姿であつた。かゝ
るが故に筆者は、敢て「誕生」と改題したのである。
こ の「 ロ マ ン チ ス ム の 精 神 」 を「 熱 狂 」 「 青 春 の 姿 」 と し て と ら え る
観点は、戦後の改訂に際して、渡邊が本書を『青春の回想』と改題した
こ と に、 い っ そ う 端 的 に あ ら わ れ て い る。 そ し て 同 様 の 観 点 を 石 川 も、
ま ず 具 体 的 な「 意 匠 」 と し て、 本 書 か ら 受 け 取 っ て い た 可 能 性 が あ る。
たとえば、 つぎの「わたし」と文蔵の「青春」を描いた「普賢」と、 ゴー
チェとネルヴァルを描いた同書「八」の記述との照応は、偶然とは思わ
れない。
・ 夜ごとに誘ひあつてはあちこちのバーに出入しはじめたが、一方わ
れわれの関心は本よりも衣裳のうへに移り、独特の考案に係る変り
型の服をつくらせ、 香水のしぶきの立つ朱裏のマントをひるがへし、
行人のあきれ顔をあざみつつ黄昏の巷を闊歩する有様で、かく汲汲
として酒と虚飾のために努めてやまなかつたのはいつたいどんな情
熱に憑かれていたのであらうか。
・ 誰も彼もが、ルーベンス風の柔かいフェルト帽子だとか、肩にひつ
かけた天鵞絨地のマントだとか[中略]その他あらゆる異国的な衣
裳を附け、何か奇妙な扮装を凝らして、人目を惹かうとした一風変
つた時代に、ジェラールは極めて簡素な、つまり人込みに這入つて
も気附かれまいとしてゐるような、極めて人目に立たぬ服装をして
ゐた。
同書「十 赤
ちよつき胴著 の伝説」などによれば、とりわけ「奇妙な扮装」を
好み、派手な長髪に深紅のチョッキをまとって「エルナニ」事件の伝説
と な っ た の が、 ほ か な ら ぬ ゴ ー チ ェ で あ っ た。 「 普 賢 」 の 文 蔵 が「 ぼ う
ぼうと煤けた髪」で「棒紅」を愛用するのは、ひそかにこの「奇妙な扮
装」 をふまえた 「意匠」 だったかもしれない。かたや実際のネルヴァルは、
こと服装にかぎっては「燕」のごとく、まったく反ロマン的だったよう
だが。また「朱裏のマント」が、 「山桜」の「ネルヴァルのマント」を、
すなわち 「黒のマント」 「赤裏の黒布」 をうけつぐのはあきらかであろう。
してみれば、やはり石川が同書を、少なくともその記述をふまえたべつ
の本を、訳出される前に読んでいた可能性は高い。
さらに、同書がもたらした観点は、こうした美学的なレベルにとどま
らない。渡邊は、ゴーチェたちの運動を「人生観世界観の領域にまで革
命的な振動を及ぼした」と述べていた。戦時下ゆえ表現を抑制したとお
ぼしいこの一節は、戦後の改訂版では「十八世紀に行はれた重大な変革
フランス革命から自然に芽生えた文化運動、精神運動」と改稿されてい
る。すなわち、ロマン主義の文学運動をブルジョア革命と結びつけ、小
林と同様に「マルクスの唯物史観」とパラレルにとらえる観点も、ここ
には明白なのである。
合冊された中島健蔵「ロマンチックについて」は、それをつぎのよう
に説明している。
ロマンチスムに就いて特に注意する必要があるのは、その中に、旧
貴 族 の 没 落 と、 第 三 階 級 の 上 昇 と の 二 つ の 因 子 が あ る こ と で あ る。
文学に於ける此の二因子は、やがて小市民といふ一つの浮動階級に とけ込み、頽廃に向かふ消極面と、権力に憧がれる積極面とを形成 したと云へよう。
唯物史観の明快な図式化である。たとえば「頽廃に向かふ消極面」を
文 蔵 に、 「 権 力 に 憧 が れ る 積 極 面 」 を「 わ た し 」 に あ て は め れ ば、 そ の
まま「普賢」のアレゴリーの説明ともなろう。この「小市民といふ一つ
の浮動階級」の「積極面」の先には、いうまでもなくプロレタリアート
が「権力」を奪取する(のに「小市民」インテリゲンチャが「積極」的
に参与する)未来が予想されている。一九三〇年代後半の、石川のまわ
りのフランス文学者たちは、ゴーチェを介して、このような観点からロ
マン主義文学運動をとらえていた。シモンズ的なリニアな文学史は、や
はりこうした進歩史観と親和性が高かった。
そして、ネルヴァルもその圏内に置かれたといってよい。さきに触れ た『火の娘』を訳した中村真一 郎
)(((
は、学生時代にネルヴァルに傾倒した
お も な 理 由 を、 「 純 粋 芸 術 家 で あ り な が ら、 常 に 現 実 政 治 に 参 与
(ア ン ガ ー ジ エ
)し て い た ネ ル ヴ ァ ル 」 に「 「 政 治 と 文 学 」 と の 相 克 」 を 認 め たからだと、のちに回想している。また澁澤龍
彥 ((2(
も、ネルヴァルら「小
ロマン派」の運動は、 ついに「政治的あるいは社会的な自由の問題」 「共
和主義思想」にまで及んだと述べている。渡邊、中島の所説をふまえる
とき、これらは戦後的な評価とばかりはみなしがたい。そこには戦前の
コンテクストが、さかのぼって透視されている。
渡辺一 民
)(((
は、 一九三七年八月に渡邊が発表したエッセイ 「リテラテュー
ル!」 か ら、 「 も は や「 自 身 の 強 さ 以 外 に 凭 れ る も の は な い 」 に も か か
わらず、なおほとんど希望のない反抗の言葉を語ることこそ文学者に残
された唯一の道だという、まさに悲壮としかいいようのない決意」を読
み取り、それが二年後の同書の翻訳につながったとみなしている。
す で に プ ロ レ タ リ ア 文 学 運 動 は 壊 滅 し、 国 体 明 徴 声 明、 二 ・ 二 六 事 件
から中国との開戦にむかう時期に、一人のフランス文学者によって自覚
されたこの「悲壮としかいいようのない決意」を、石川も共有していた
であろう。たとえば「普賢」の「わたし」が希求する「象徴」が、殉教
者ジャンヌ・ダルクにして非合法革命運動にたずさわる女性であったこ
とは、それを証している。そののち「履霜」 (一九三七 ・ 一〇) 、 「マルス
の歌」 (一九三八 ・ 一)のように、時局に「ほとんど希望のない反抗の言
葉」を投げかける小説が、あいついで書かれ た
)(((
ことも同様である。なら
ば、これらに先立つ「山桜」にも、そのネルヴァルの「文学的形象」に
も、そうした「決意」は込められていたはずである。
五
かくして、 ロマン主義文学者、 ネルヴァルの「文学的形象」には、 デュ ・
カン、ゴーチェ的な狂気と夢にとらわれた自殺者、シモンズ的な「象徴
主義の先駆者」に重ねて、あらたにゴーチェ的な小市民共和主義者とい
うシニフィエが加わったことになる。ただし、これはむしろ渡邊一夫的
とみなすべきかもしれない。
これらを入口とみなすなら、正気を保って現実を生きること、ロマン
主義から象徴主義に至る一九世紀の文学を超えて二〇世紀の文学をめざ
すこと、そして来たるべき革命に参与することが、おのずから出口のア
ブ ス ト ラ ク ト と な る。 「 山 桜 」 は、 そ う し た 出 口 を ア レ ゴ リ ー と し た 寓
話として読まれる。そこにおいてネルヴァルとは、到達すべき出口の理
想ではなく、克服すべき入口の文学者の名であったことになる。
もちろん本作は、一面まことにネルヴァル的な作品である。水野が指 摘するように、死んだ女性のおもかげを主題としている点で、その短篇 「 シ ル ヴ ィ」 を ふ ま え た 可 能 性 は 高 い。 ま た 同 作 に つ い て 入 沢 康 夫
)(((
が 指
摘するような、 語りの現在と過去を往還する「きわめて複雑な時間的場」
が本作にもみられることは、むかしの拙稿で触れた。
しかし、これらはあくまで入口としての側面にすぎない。結びの一文
を引く。
そのときはつと、さうだ、京子は去年のくれ肺炎でたしかに死んで
しまつてゐるのだ、まつたくさうだつたと、ぴんと鳴らす指の音で
鼻づらを打たれたごとく、私の眼路のかぎりにたちこめた霧は今と
ぎれとぎれに散りかけるのであつたが、さてそんなにも明るい光線
の下でまだかたくなに鞭をふるつてゐる善作[京子の夫]の背中の
表情に直面しなければならぬ羽目に立ち至つたかと思へば、ほつと
一息入れる束の間の安息とてはなく、わたしは襟もとがぞくぞくと
してその場に立ちすくんでしまつた。
「シルヴィ」 は、 忘れえぬ女性が既に死んでいたことを 「私」 に告げる、
第 三 者 の 言 葉 で 終 わ る
)(2(
。 か た や「 山 桜 」 の 結 末 に は、 死 の 想 起 の の ち、
残酷な現実に 「直面しなければならぬ羽目に立ち至」 り、 「束の間の安息」
も許されず「立ちすく」む「わたし」こそが残されている。こうした出
口に注目するとき、本作はネルヴァル的な「夢」物語というにとどまら
ない。怪奇な「夢」から醒めて、苛酷な「人生」に「直面」する物語と
いうべきである。
では、そうした出口への導きを、石川はどのような文学者たちに求め
ていたのか。
まず、やはりヴァレリーの名があげられる。エッセイ「象徴詩とヴァ
レリー」 は、 先述したようにバルザックらの 「ロマンティスム」 から 「サ
ン ボ リ ス ム 」 へ の 展 開 を 述 べ、 「 も つ と も サ ン ボ リ ス ト 的 な 詩 人 」 が マ
ラルメであるとしたうえで、 その「ディオニゾス的性格」を述べている。
そ し て、 さ ら に そ れ を 克 服 し た「 ア ポ ロ 的 性 格 」 の 文 学 者 と し て、 「 マ
ラルメのすぐれた弟子」 であるヴァレリーを評価しようとしている。 「ネ
ルヴァルのマント」による「ディオニゾス的」な「発作」を克服するた
めの「アポロ的」な「理知」は、 やはりプルーストではなく、 ヴァレリー
に求められていたのである。なお、いくらかの留保をつけつつも、ここ
で ゴ ー チ ェ が ヴ ァ レ リ ー と 並 び 称 さ れ て い る の は、 「 デ ィ オ ニ ゾ ス 」 た
ちの宴を「アポロ的」にかえりみた『青春の回想』の著者だったからで
あろう。
つぎに、上田秋成の名があげられる。はじめに記したように、いわば
個別のテクスト対テクストのレベルで、秋成の『雨月物語』と本作が照
応 し て い る こ と、 そ の の ち 石 川 が『 雨 月 物 語 』 『 春 雨 物 語 』 の 現 代 語 訳
に取り組んだこと、 さらに戦後に秋成への深い傾倒を語ったことなどは、
むかしの拙稿で述べた。
付け加えるなら、人間と鯉を重ねみて本作の幻影の出口となった「夢
応の鯉魚」のほかに、その入口にこそふさわしいネルヴァル的な物語も
『雨月物語』には多い。たとえば、 再会した義兄が自らの死を告げる「菊
花 の 契 」 、 牡 丹 灯 籠 の 説 話 を ふ ま え た「 蛇 性 の 婬 」 な ど。 就 中、 再 会 し
た 最 愛 の 妻 の 死 が、 第 三 者 か ら 最 後 に 告 げ ら れ る「 浅 茅 が 宿 」 は、 「 シ
ルヴィ」 とよく似ている。本作と 「夢応の鯉魚」 が、 つづけて 『雨月物語』
に収められていることは、入口から出口に至る「山桜」の構成を、石川
に思いつかせたかもしれない。
こうしたレベルを含むコンテクストを、さらに確認しておく。エッセ
イ「短篇小説の構成」 (一九四〇 ・ 三)から引く。 一生うつくしいコントを書きつづけて大往生をとげたといふやうな 仕合せ者は昔から多くは見当らぬ。わるくすると、モオパッサンの や う に 気 が ち が つ た り、 ネ ル ヴ ァ ル の や う に 首 を く く つ た り す る。
秋成が作品の後に長生してゐられたのは、晩年の草稿をわが手で井
に沈めた功徳によるのであらう。
こ の エ ッ セ イ は、 「 フ ラ ン ス 革 命 以 後、 十 九 世 紀 の は じ め ご ろ 」 に は
じ ま る「 短 篇 小 説 」 と い う ジ ャ ン ル の な か に、 「 コ ン ト 」 =「 文 学 」 か
ら「 ヌ ウ ヴ ェ ル 」 =「 ( み じ か い ) 小 説 」 に 至 る 発 展 過 程 を 想 定 し、 そ
の 過 渡 的 な「 中 間 領 域 」 の 様 相 を、 日 本 と フ ラ ン ス を 対 比 し な が ら 説
明 す る と い う、 リ ニ ア か つ パ ラ レ ル な 文 学 史 の か ま え に 基 づ い て い る。
「 十 九 世 紀 の は じ め ご ろ 」 が ロ マ ン 主 義 文 学 運 動 を 指 す の は あ き ら か で
ある。 してみれば、 ここで石川が 「コント」 を書き続けて破滅したネルヴァ
ル(及びモーパッサン)と、のちに生きながらえた秋成を対比したこと
は、 「ネルヴァルのマント」を入口とした「山桜」が、 秋成という出口に、
さらにその秋成を通過点として、 近世以後の「ヌウヴェル」という、 いっ
そう大きな出口にむかって、開かれていたことを示唆している。
と い う の も、 石 川 は こ の 前 後 の 記 述 の な か で、 近 世 の「 短 形 式 文 学 」
を「コント」として概括したうえで、洒落本につづく為永春水の人情本
を「ヌウヴェル」とみなし、これを明治時代に受け継がれた「唯一の遺
産」として評価しているからである。また、戦後の講演の記録ではある
が「秋成私論」 (一九五九 ・ 八)では、 最晩年の秋成が著した『春雨物語』
就中「樊噲」を、山東京傳の洒落本から人情本を経て「後世の近代小説
に 通 ず る 」 「 方 向 」 の 端 緒 と し て 称 揚 し て い る。 石 川 が、 フ ラ ン ス 革 命
と 明 治 維 新 を 遠 く 重 ね み つ つ、 「 コ ン ト 」 か ら「 ヌ ウ ヴ ェ ル 」 へ の、 す
なわちロマン主義から以後の文学への発展を、秋成、京傳、春水の系譜
に認めていたことはあきらかである。
このように社会史と文学の様式史を照応させたインターナショナルな
進 歩 史 観 は、 「 マ ル ク ス の 唯 物 史 観 」 と と も に シ モ ン ズ 的 な 文 学 史 を 受
容した世代ゆえのものだったであろう。なお、こうした近世文学史の見
取図に即して、一九四〇年前後の石川が「今日の小説の書き方」を追究
していたこと、そこに森鷗外の追究が重ねみられていたことは、べつの
拙 稿
)(((
で述べた。
最後に、秋成をゆかりとして、本居宣長とのかかわりの可能性に触れ
ておきたい。いわゆる「日の神論争」において、両者ははげしく対立し
た。それは、天照大神の唯一絶対をいいつのる宣長と、世界の国々にそ
れぞれの神々が存することを主張する秋成との、一言でいえばナショナ
リストとインターナショナリストとの対立であっ た
)(((
。そして、そうした
宣長のナショナリズムを端的にあらわすのが、有名な「敷島の大和心を
人問はば朝日に匂ふ山桜花」という歌であった。
本作の出口が、秋成のほうにむかっていたとすれば、それはこの歌の
克 服 を、 す な わ ち「 大 和 心 」 の 幻 影 の 克 服 を 示 唆 し て い た こ と に な る。
してみれば「山桜」という題名は、本作の入口を的確にあらわしていた
のである。先述した渡邊一夫の「決意」などをふまえるなら、このこと
は(ロマン主義とあわせて)ロマン的なナショナリズムへの「ほとんど
希望のない反抗」という、同時代的なコンテクストにおいてとらえられ
る。山桜と結びついた京子の幻影に、 舞曲 「青海波」 を想起させるナショ
ナルな「優美華麗」さを認めた宮下の指摘も、その圏内に含めることが
できる。
なお、管見のかぎりで、本作のころまでに石川が宣長に言及した例は
みあたらない。のちの戦中のエッセイ「生活と言葉」 (一九四三 ・ 一)で は、 い わ ば 本 作 の 出 口 か ら 入 口 に 退 却 し、 「 合 理 主 義 」 を 退 け て「 皇 朝
の道を宣揚する」 『直毘靈』のナショナリズムを肯定してしまっている。
しかし、戦後の「本居宣長」 (一九七〇 ・ 五)では、あらためて山桜の歌
を「 ま づ い 歌 」 「 泥 だ ら け の 歌 」 と 否 定 し て い る。 さ ら に、 そ れ で も 宣
長のいう 「たましひ」 は、 「やまと」 すなわちネイションの限定を越えて、
ミハイル・バクーニンのいう「魔」すなわち革命のモチベーションにつ
ながるであろうと、あたかも(ネルヴァルとあわせて)宣長から秋成に
むかった本作のプロットをなぞるかのように、アレゴリカルに結論づけ
ている。
国 学 と ア ナ キ ス ム を 無 造 作 に 連 結 す る、 こ の い さ さ か 強 引 な ア レ ゴ
リーは、 石川が戦前から戦後にまで固執していた 「カトリック=コムミュ
ニス ム
)(((
」と同断であろう。このことは、レフ・トロッキーの自伝やニコ
ライ・ブハーリンの粛正について述べたうえで、やはりいささか唐突に
「 わ た し は わ た し な り の 宣 長 認 識 を み づ か ら 定 著 さ せ て 行 き た い 」 と い
う「宿題」の提言で結ばれるエッセイ「読まれそこなひの本――夷齋遊
戯八――」 (一九六二 ・ 五)をも読みあわせて考えるべきだ が
)(((