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周作人と日本

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周作人と日本

一比較文化論の視点から‑(Ⅱ) 藤

ノlユヽ

周作人和日本 一臥比較文化唸的双点看‑(Ⅱ)

FuJITA Masashi

〈提網〉

現代文学史上有略培叫倣"二周!,。那是指魯迅和第二↑弟弟周作人。魯迅是中国 現代文学史上頗有名『受人敬重的文豪之一。与之相反,受到"渓貯"判決的周作人 却被社会通忘祥久了。然而周作人是推功五四新文化遠功的先弓区之一,是対村立中国 現代文学的基石出有功的人。周作人年産吋在日本留迂五年学,対日本有深刻的了解, 弓了有美日本(文化)和日本人的文章。本篇檎文似就考察周作人和日本的夫系,拭 桧他的有美日本(文化)和日本人。

キーワード:周作人,日本,《日本管窺≫,「東洋人の悲哀」,「神人和融」

四、周作人の日本論

《日本管窺》は四つある。次に書かれた順にその一つ一つをみていくことにする。

はじめの《日本管窺》(《苦茶随筆》所収)は1935年5月に執筆されたものである。その 中で周作人は日本の「忠君愛国」思想は「国民性とは言えない」と述べ、続けてその証拠と

して日本の中国学者内藤湖南の言を引用して"据浅学家内藤虎次郎悦日本古来克忠孝二億, 至今逐是借用渓漕,有吋"忠"別棟作Tada,原文也只是"正"耳,因此可知返忠君之徳亦 是后起,〜"(「中国学者の内藤虎次郎氏によると日本には古来、忠孝の二語はなく、今でも 中国語を借用しているのであり、時には「思」を訓でTadaと読んでおり、その元の意味は

「正しい」なのである、したがって忠君の徳は又、後に起ったのがわかる、〜」)と述べている が、引用された内藤湖南の言辞は湖南が「日本文化とは何ぞや(その一)」の中で以下のよう に述べているのを指している。「忠孝と云ふ語の如きは、日本民族が支那語を用ゐる以前に如 何なる語で表してゐたかが殆ど発見しがたい。孝を人名としては『よし』『たか』と訓むが、其 れは『善』『高』と云ふ意味の言葉であって、親に対する特別語ではない。忠も『ただ』と訓 むのは『正』の意味で、『まめやか』と云ふ義に訓するのは、親切の意味で是も君に対する特

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別の言葉ではない。一般の善行正義と云ふやうな外に、特別な家族的な並に君臣関係の言葉 としての忠孝と云ふことが、既に古代に其の言葉がなかったとすれば、其の思想があったか否 やが大なる疑問とするに足るではないか。」(16)内藤湖南は京都大学の支那学を確立する上で、大 きな貢献をした人で、広く日本論も展開したが、大正11(1922)年1月5日から7日の『大

阪朝日新聞』に掲載された上記標題の一文から周作人は引用したのである。周作人は『忠君 愛国』は封建及び軍国時代に培われたものであり、日本国の特性ではないと言う(̀\忠君愛国 是封建及軍国吋代所能芥成的,算不得一国的特性,〜")。

では、"日本人古今不変的特性"(「日本人の古今不変の特徴」)は何かと言うと①「現世 思想」②「美の愛好」であると言う。①「現世思想」は"与中国是共通的"(「中国と共通

している」)と言う。(17リ去く、現実を重視する考えのことを言っているのであろう。②「美 の愛好」については詳しく述べていないが日本人の俳語を愛する心、かつての武士の中の 美(18)などを指しているのであろう。それは谷崎潤一郎の『武州公秘話』巻二で描かれる敵 の首に化粧を施す行為や謡曲「実盛」で描かれる、実盛が敵に老齢のゆえに見くびられる のを避けるために白髪を墨で黒く染める行為を指している。

「忠君愛国」は日本の普遍的特徴ではないとする一方で、「万世一系」は「日本の皇位 の古今一貫」のことを指すが、それは"対千国的感情"(「国に対する感情」)を純粋な愛 情にし(筆者注:他国に侵略されたことがないことから祖国への愛が被侵略国家の民より

"剛健盾亘"(「剛直」)である。)"対干君的感情"(「君に対する感情」)を"深厚"(「深い」

「厚い」もの)にした、その意味で「万世一系の天皇」は日本の特徴であると述べている。

周作人がそれを比喩的意味で言ったのかどうかはわからないが、人々の天皇に対する感情 に深い親しみがあることを感じた自らの体験を次のように記している。周作人は明治40 (1907)年頃(大正天皇が皇太子のとき)東京の本郷で皇太子を偶然、見かけたが̀̀警官 忽然叫行人都在路勇粘住,又叫去帽,一繋吋皇太子和太子妃坐了一柄日章釆,挙着手対余 人逐礼,我凪了損保服,覚得真有一家和平之象"(「警官が道行く人を立ち止まらせ脱帽さ せると、皇太子と皇太子妃が馬車に乗ってやって釆て、手を挙げて人々に返礼した。私は、

それを見て敬服し誠に平和の象徴だと思った。」)しかし 《日本管窺〉執筆当時(1935年5 月)の皇室と日本国民の関係は上記と少しく異なると言う。最近の̀̀警辟"(天皇が出入

りするとき、先ばらいが声をかけて通すじをいましめ通行を止めること)が厳しいのは国 民と天皇の間の「信」「愛」をそこなうものではないかと述べている。それはともかく周 作人が(比喩的な意味であれ)「万世一系の天皇」に日本の特徴を見いだし、そこに中国

との大きな差違をみていたことには注意する必要がある。「いわゆる万世一系という事実

について私はその重要性を認め、日本を知るためにはこの事実に注目しないわけにはいか

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ないと思う、なぜなら日本と中国の思想の異なりの原因は大体、そこを起点としているか らである。」(拍)

既述のように日本人の「国に対する感情」は「剛直」だが、中国人の「国に対する感情」

は元、清等異民族支配のために大きな「打撃」を受けているし、その「君に対する感情」

も(周作人は明言していないが)王朝が変転していったのであるから、とても一貫したも のとは成り得なかったであろう。そうした歴史上の事実から日本と中国の相違の根本に周 作人は「万世一系の天皇」を見いだしたのであった。より一般的には日本の「天皇」と中 国の"皇帝"の相違ということを考えたとき、前者が「権威」であるのに対して、後者は

「権力」であるということが言われるが、広くはそうしたことを指しているように思われ る。

周作人は日本人には"単純庸宜"(「純粋で正直」)という長所があるが、逆に"狭随''で

"暴躁"(「気が短い」)という短所もあると言う。("日本人是単純庸宜的国民,有他的好性 鼠但是也有紋点,狭随,暴躁。")また、日本人は中国人が「排日」を言い日本を侮蔑して

いると言うが、日本人が中国でモルヒネを中国人に売っていることこそ̀̀侮日之尤"(「日本 を侮蔑する最大のもの」)ではないかと述べている。更に、留学生が中国へ帰国してから排 日になるのは日本で差別されたからではないかと言う人もいるが、それは日本にいる日本人 と"在中国的日本係民,,(「中国にいる日本人」)の差があまりにひどいからだとしている。

("有一位中将同我淡起杵多留日学生回去都排日,速是什△縁故,他以男一定是在日本受了 欺侮的結果。我税法未必然,以我自己的璧鎗釆悦不曽受辺什△欺侮コ我想迭逐是因男留学

生看近在本国的日本人再看凪在中国的日本怖民的行男的縁故肥,〜,り

この

《日本管窺≫で周作人は「万世一系」の「天皇」(の権威、そして民との間の「信」

と「愛」)に中国の「皇帝」(権力)との相違を見いだし、その「万世一系」の「天皇」の

下での臣民の長所("剛健庸宜""単純庸宜")と短所("狭随""暴操つ を明らかにしている。

つまるところ、ここで周作人は日本人の二面性を問題にしているのではないだろうか。ニ 面性とは換言すれば二重基準(doublenorm)を有することである。それは(マックス・

ウェーバーによれば)「共同体」の特徴の一つである。(他の特徴は「社会財の二重配分 (社会財は最初に当該共同体に配分され、その上で共同体内の各メンバーに再配分される こと)」と「敬度さ」である。)周作人は「天皇」を家長とする共同体の長所と短所を冷静 に見つめていたのではないだろうか。

続く 《日本管窺〉 のこは「日本的衣食住」(《苦竹雑記≫所収)(1935年6月21日)で ある。その中で周作人は日本について愛着を感じたのは個人の性分のゆえと共に"思古之 幽情"(「古への思い」)のゆえであったと述べている。それは日本留学時代、民族革命

‑15‑

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の信奉者であった周作人たちの清以前、元以前の、異民族のものではない文物への肯定的 評価とオーバーラップするものであった。(兄の魯迅も日本留学時代、和服を着て努めて 和風の生活をしていたと言う。)

日本の「衣」については元は中国の模倣であったが徐々に日本化し、今では和式家屋に適 合するものになっているとしている。("日本衣裳之制大抵根据中国而逐新有所変軋万成今 状,蓋与其房屋起居最這合,若以現今和服住洋房中,或以平服住日本房,亦不共通也。,ツ20)

「食」については中国人が温かい食物を好むのに対して日本人が必ずしもそうではない ことを指摘して次のように述べている。"息之対干食物中国大既喜熟思札所以留学生看 了"便当"恐伯克不失痛的。,,(21)(「総じて、中国人は食物に対して温かいのが好きで冷た いのが嫌いであるから留学生が「弁当」を見たらゾッとするだろう。」)もっとも周作人は 故郷紹興に冷たいにぎり飯(="冷大使")を食べる習慣があったことからそれを苦にする ことはなかったと言う。

「住」についても「簡素」な和式家屋を好ましく思っていたようである。「大体、中国 の家屋と西洋の家屋の同じところは華やかさに向いているが簡素には向かないことで、家 をつくるなら、かなりの家具をしつらえなければさまにならない、日本のは家を建て、た たみを敷き、障子をつければ、すぐに住め、何の不足もなく、清らかさを感じる。」("大 抵中国房屋与西洋的相同都是宜子平扇而不宜筒隋,一向房子造成,逐是行百里者半九十, 非是有相当的器具院没不能算完嵐日本則土木功苧,舗席糊宙,即可居住,別売一点不足 而且述覚得清疏有致。"(22))

また日本人の"善子別抒"(「選択の上手さ」)を評価し、唐の時には"太盟,,(「宵宮」) を取らず、宋の時には纏足を、明の時には八股を、清の時にはアヘンを取らなかったこと を挙げている。

以上のように日本に親密な感情を持つ周作人であったが、両国の将来には悲観的であっ た。"我仔細思量日本今昔的生活,現在日本,,非常吋"的行功,我仇明碑地看明白日本与中 国苧克同是並珊並人共衰禍福目前畠是不軌究菟的命遥遠是一致,亜細亜人己柊将治子 劣柿平,念之憫然。"(23)(「日本の今昔の生活、現在の日本の「非常時」の行動を見て思う に、日本と中国はつまるところ同じアジア人なのであり、盛衰幸不幸は今は異なるが、最 後の運命は同じで、アジア人は劣等種になってしまうのであろうか、それを思うと呆然と

してしまう。」)ここからは、たとえ日本が中国を侵略し殖民地にしたところで、その日本

も欧米列強に侵略されて滅びていくのではないかという周作人の悲観的な見方が見てとれ

る。永井荷風の文章を愛し、同じく江戸時代の文化を高く評価した周作人には悲観的、隠

者的雰囲気が漂っているのである。

(5)

《日本管窺之三》(1935年執筆。《風雨談》所収)では「物の文化」と「人の文化」、

「多数」と「少数」、「人情の美」「武士の情」などについて述べられている。

周作人は黄達意や葉呂職のような「親日派」になろうとしたが、彼らのように政治を立 脚点とするのではなく"文化"から日中関係を改善しようとしたと言うのはおそらく正し

いであろう。そして、この《日本管窺之三〉の中で周作人は"文化"について"学術、芸 文"だけでなく対象をより広くすると述べている。なぜなら"学木乞文固然是文化的最高 代表,而低的部分在社会上却根有勢力,少数人的思想畠是合理,而多数人却也就是実 力。"し24)(「学術芸文はもとより文化の最高代表だが、低い部分が社会で勢力を持ち、少数 の思想は理にかなっているが多数の人も実力を持っているのである。」)からであると言う。

そして谷崎潤一郎の『武州公秘話』の中の首級(=敵の首)をきれいに洗い、美しくする 例や謡曲《実盛〉 の白髪を染める実盛の例を挙げ(既述)、"文化,,の対極にある"武"の

中にも"武士之情"(「武士の情」)があるとしているが、それは従来の周作人から見れば 低級な「物の文化」(=軍事力)の中にある逆説的な"武士之情""人情之美,,(「人情の美」)

にすぎないものであった。"損己利人,,(「己を損ない人を利す」)のような高級な「人の文 化」(25)を見ているだけではすまなくなり、上述のような「物の文化」の中にも"武士之情,,

"人情之美"を模索せざるを得なくなったのは日本の中国への武力侵略という背景があっ てのことであろう。周作人は日本人の"武士之情,,̀J人情之美"を取り上げることによって 当時の日本人に注意を喚起したかったのではないだろうか。

ある国の昔の文化を学び、現在のその国の姿を見ると矛盾、失望を感じるものだが、そ れは一つには"古今対岸,,(「昔と今と時が異なる」)のためであり、もう一つには"多寡 数昇"(「多寡、数が異なる」)であるからであると言う。"天下可貴的事物本不是常有的"

(「この世の貴い事物ほ元来、常に存在するということばないのである」)と言う。

そして最後にはやはり悲観論が顔をのぞかせている。"日本文化亦是如此,故非耐寂実 者不能着手研究,如或太熱心,必欲使心中文化与目前事実合一,則結果非矛盾失望而中止 不可。侯芸男学生切目本文学与其背景,常苦与此秤疑問之不能解答∴柊亦只能承伏有好些 高級的文化是辺去的少数軋対干現今的多数是没有什△勢力,此神培絵島頗暗淡少生気, 却是臥自己的望鎗得釆,故禍是誠実克恨者也。"(26)(「日本文化もまたそうで、寂寛に耐え

る者でなければ研究はできないのである、熱心すぎて心中の文化と目前の事実を一つにし ようとしても、結果は矛盾に失望して中止してしまうだけである。私はかつて学生に日本 文学とその背景を講じたが、この疑問に答えられないことに苦しみ、ついに高級な過去の 文化は少数のものであり、今の多数に対しては何の力もないことを認めざるを得なかった。

この結論は暗く生気のないものだが自分の経験から得たもので、うそ偽りのないものであ

ー17‑

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る。」)

周作人は江戸文化に造詣が深く、その文化を深く愛したが「その高級な過去の文化は少 数のもの」であり、「今の多数」には何の力もないと言っているかのようである。また周 作人の言う「高級な過去の文化」の典型である江戸文化について述べる永井荷風の『江戸 芸術論』の第一篇「浮世絵の鑑賞」を引用した《懐東京〉(「東京を懐う」)(1925)は「高 級な過去の」「少数の」「文化」の実態を考える上で注意を引く。荷風の次のような言辞を 周作人は引用している。(27)

而して余は今自己の何たるかを反省すれば予はヴエルハアレン(Verhaeren)の如く 自耳義人にあらずして日本人なりき。生れながらにして其運命と境遇とを異にする東洋 人なり。恋愛の至情はいふも更なり、異性に対する凡ての性慾的感覚を以て社会的最大

の罪悪となされたる法制を戴くものなり。泣く児と地頭には勝つ可からざる事を教へら れたる人間たり。物云へば唇寒きを知る国民たり。ヴュルハアレンを感奮せしめたる生 血滴る羊の美肉と芳醇の葡萄酒と達しき婦女の画も何かはせん。鳴呼余は浮世絵を愛す。

苦界十年親の為めに身を売りたる遊女が絵姿はわれを泣かしむ。竹格子の窓によりて唯 だ茫然と流るゝ水を眺むる芸者の姿はわれを喜ばしむ。夜蕎麦売の行灯淋し気に残る川 端の夜景はわれを酔はしむ。両夜の月に噂く時鳥、時雨に散る秋の木の葉、落花の風に かすれ行く鐘の音、行き募るゝ山路の雪、およそ果敢なく頼りなく望みなく、この世は 唯だ夢とのみ訳もなく嗟嘆せしむるもの悉くわれには親し、われには懐かし。

西洋人とは「生れながらにして其の運命と境遇とを異にする」「東洋人」、「物云へば唇 寒きを知る国民」、「およそ果敢なく頼りなく望みなく、この世は唯だ夢とのみ訳もなく嵯 嘆せしむるもの悉くわれには親し、われには懐かし」と思う日本人、「東洋人の悲哀」の エトスとはそうしたものであった。荷風のそうしたエトスを周作人は「東洋人の悲哀」と 名付けたのであった。(28)既述の《日本管窺之二》の中で述べられた悲観的見方もこの「東 洋人の悲哀」から生じたものであった。

《日本管窺之三》が日本の中国への武力侵略が進む中で書かれたことを忘れてはいけな い。そして、周作人の悲観論は、そのまま現実の暗さを反映しているものであった。周作 人は行動者ではなかった。しかし「東洋人の悲哀」を情調としての悲観論として提出する

ことによって武力侵略の虚しさを述べたかったようにも見受けられる。

間接的でレトリカルなものの言いようは周作人の文章の特徴であるが、もはや直接的な

表現が許される時代ではなくなって釆ていたことも 《日本管窺之三》の表現に影響を与え

(7)

たことであろう。

《日本管窺之四》(1937年6月16日執筆。《知堂乙酉文編≫所収)は意溝橋事件(7月 7日)の3週間前に善かれたものである。

日本人は美を愛すのに、現在の行動は醜い、手先は器用なのに行動は拙い、清潔を好む のに行動は汚い(概略)("日本人最愛美,迭在文学乞木以及衣食住的形式上就可以看出, 不知道男什△在対中国的行功屋得那△不伯丑。日本人又是根巧的,工乞美木都可作凪行 功上的却又那△拙】日本人喜浩浄,到址操堂男別国所克,但行功上又那△艦,有村候卑劣 得叫人悪心。,ツ2〜り、それはなぜであろうかと疑問を投げかけた周作人はその原因、理由を

"反功"(「反発」)に見いだす。"我看日本現在情形完全是一↑反功的局面,分析言之其分 子有二,其一是反中国文化軋即是対干大化革新的反功,其二是反西洋文化的,即是対千 明治維新的反功,也是。"(30)(「日本の現在の状況は全く反動(=反発)の局面で、分析して 言えば、その分子は二つある、一つは反中国文化、即ち大きな変革に対する反発で、その こは反西洋文化、つまり明治維新に対する反発である。」)"在日本的渓文化的圧迫実在太派 重了,明治維新以借用西洋文化成功之后!甲午之役出手一域,打姓了中乱反功文化的反 功便逐漸近行,現在差不多到了絶頂,防備有的失了正雪,便成了如上文所悦的状窓。"(31) (「日本における中国文化の圧迫は誠に深刻で、明治維新が西洋文化を借りて成功してから、

日清戦争で勝ち、反中国文化の反発は徐々に進み、現在絶頂となり、あたかも正気を失っ たようであり、上述のような状態に到ったのである。」)

周作人は「理」を重んじる人である。「理」によって日本の対華侵略行動を説明しよう としたとき、原因として見いだしたのが「反中国文化という反発」(32)であった。抑圧され ていた劣等感(この場合、大国、中国に対する劣等感)の負のエネルギーが攻撃性を伴っ て、その劣等感の原因となるもの(中国)に向けられた結果が日本の対中国侵略行動であ

ると言うのである。この 《日本管窺之四≫が善かれたのは既述のように1937年6月16日 であるが、こうした周作人の日本の「外来文化への反発」という考えは一定の説得力を持 つもののように思える。たとえば1868年の明治維新以来、日本はしばらく欧化の道を突 き進んだが、明治20年代(1888年からの10年間)になると欧化への反省、さらには反 動、反発が起ってくるのである。明治21(1889)年には三宅雪嶺、志賀重昂等によって 雑誌『日本人』(後に『日本及日本人』と名を改める)が刊行され、当該雑誌は欧米追随 ではない、日本の主体性の確立を推進していくことを主張したが、中でも志賀重昂は最も 行動的な論客として活躍した。(33)

志賀重昂の『日本風景論』(1894年、明治27年)は日清戦争の最中ということもあっ て、その国威発揚的な内容、文体は熱狂的に世論に迎えられ、長く、明治を代表する言論

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のひとつとして受け継がれた。〔34)

『日本風景論』は日本の自然美を賛嘆し、その自然美を生み出した要因として、気候、

海流が多変、多様、水蒸気が多量、火山岩が多々、流水の浸蝕が激烈、の四点をあげる(こぅ5) が日本の風景美として志賀が最も強調したのは、火山に代表される秩宕(雄大)という要 素であり、それは従来の日本人の自然観には欠落していたもので、情念的、動的、立体的 な自然美の発見評価をめざした19世紀西欧ロマン派の自然観に由来するものであった。(36)

『日本風景論』は「近代西欧的自然観を伝統日本的意匠でくるんだ文章」であり、この「二 重性」こそが、開明的国粋主義とよばれた志賀ないし政教社の思想的特質にほかならなかっ た。(こう7)

1890年前後の政教社はまだしも開明的国粋主義であったが、1937年の日本はおよそ開 明的とは言えない、ヒステリックな、泥沼的な、狂信的な国粋主義の道を突き進んでいた。

周作人の言う「反中国文化という反発」「反西洋文化」にはそうした狂信的国粋主義批判 を見てとることが可能ではないかと思う。

また、日本の対華行動を理解するもう一つの鍵として日本人の「宗教信仰」があると周 作人は言う。中国の信仰は"功利的"で、その"民l旬信仰畠多是低級而不熱烈者也。"

(「民間信仰は多いが、低級で熱心ではない。」)しかし、日本の民間信仰はそうではなく

"在他∬1的崇拝伐式中往往届出神梵或如柳田国男氏所云"神人和融"的状窓,迭在中国絶 少凪,〜"(3R)(「その崇拝儀式の中でしばしば神がかりあるいは柳田国男氏の言う「神人和 融」があらわれ、それは中国ではめったにないことである。」)続けて周作人は柳田国男の

「祭礼と世間」(:う9)の一節を引用する。「自分は幸いにして、もと村童であったために、祭の 日に渡御を待ち佗びるという、古風な心持に経験がある。今年はどういうものか、神輿が ひどく荒いなどという年がある。そんな場合には路の辻まで行列は釆ておりながら、いつ になっても神輿が見えず、見えたと思ってからも、右へ左へ傾きかかり、これを昇く若い 衆の素足がYになり、Ⅹになり、またWの字になり、「さす」と称してしばしば手の挙 がる限り、高く輿を突き揚げることがある」がこうしたことは中国の神像が外に出て巡る ときには絶対ないと周作人は言う。また神輿の壮丁の心理がわかれば日本の対華行動の意 味がわかるであろうと言う。(40J

周作人が「こうしたことば中国の神像が外に出て巡るときには絶対ない」("迭美事情在 中国神像出巡的吋候是絶没有的,〜つ と言うのは「神人和融」のことを指すのであろう が、中国のシャーマニズムとしての道教ではそういうことはないということであろうか。

元来、周作人は"薩満教"=「シャーマニズム」を憎悪にしていた感があるが、それはシ

ベリア及び中国東北部で行われているシャーマニズムが「宗教以前の魔術」であり、非理

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性の極みであるからであり、「国民を支配しているのはシャーマニズム(=道教)の原始 宗教(巫術)の狂熱」であるからであった。(41)非理性主義のシャーマニズムを批判し、憎 悪する周作人であったが、日本神道の「神人和融」にも不可解なものを感じるのであった。

柳田国男の「祭礼と世論」は1919(大正8)年に東京朝日新聞に掲載された文章である が、要点を引用すれば次のようになる。「神輿が神霊の宿りであることを認めざる人には、

是は全然無用の論であるかも知れぬ。しかし我々は国民の九割以上が真誠に神を崇み、古 式に則って年々の祭典を挙げて居ることを知って居る。之を知りながら神輿を中に立てて、

絶えず行われて来た神と人との感応だけを、無視することは出来ぬ。重くもならぬ様な神 輿ならば、言はば担ぐ甲斐も無いので、郷党道徳の標的として又多数人心の反映として鎮 守の神輿の行動を、仰ぎ視ることも出来ぬやうな事ならば、年に一度の祭の日を待ちに待 ち、神を頼りに苦の世界を渡って行く人々には、是非とも何か他の新しい方法を以て、其 心ゆかしの途を授けてやらねばならぬ。之を要するに、新時代などと言ひながら、政治教 育が不足だからこそ、斯んな石占系統の信仰が、今尚大いに行はれて居るのではあるまい

か」〔42J「神輿問題の一要素、即ち如何な場合に此物が重いかと云ふことは(中略)約めて 之を申せば、祭に仕へる氏子たちが、重くなっても不思議は無いと、思ふやうな時に重く

もなり荒れもする。重く又は重さうに、するのでは決して無かったのである。」(43)っまり、

柳田国男は祭の神輿は、共同体としての村の総意の反映象徴であると考えていたように見 うけられるのである。周作人が「神がかり」「神人和融」が理解できないというのは、「個 人」主義を標模するところから、また中国のシャーマニズムが一方的に利益を上から与え

てくれると考えられる存在であることから、個と「神」の関係が(「和融」という意味で は)断絶していることによるのかもしれない。周作人の言う「神人和融」が理解不可能で あるというのは現状ではそうした意味にとっておくことにする。

周作人の《日本管窺之四》の最後も、やはりレトリカルで悲観的である。"不憧得日本 神道教信徒的精神状悉便決不能明白日本的杵多事情,結果我不得不絶望,声明我不能憧, 上辺所悦的也都是費活,只余迭不憧的一句声明,返一句活却是根有扮値的,或者在我的

《管斎》四編迭是最有扮値的活亦未可知,,。(44)(「日本の神道教信徒の精神状態がわからな ければ日本の諸々の事はわからない、結果、絶望し、わからぬと言わざるを得ない、この 一言が価値あることで、あるいは私の四編の「管見」の中でそれが一番、価値のあること

ばなのかもしれない。」)

(個々の)日本文化については話せても「日本人の国民性」については謎でわからぬ(45‑

と言う周作人はここで《管窺》を終えることにするのであった。

以上、四つの《日本管窺≫を考察してきたが、周作人が文化的「親日派」として日本と

‑21‑

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中国の間の架け橋となるために苦心していたことが窺い知れる。「万世一系」が祖国愛を 純粋なものにし、「天皇」と日本人の間の親愛の情を生じさせているとしていること、ま た、「簡素」な和式家屋を評価したこと、"善子別拝,,な日本人、"武士之情"への高い評価 など日本を理解しようとするところから周作人が見いだしたものであろう。

しかし、結局、最後に日本の対華侵略行動の源に「反中国文化という反発」をみいだし、

日本人の「神人和融」の「宗教信仰」を不可解と言う周作人は《日本管窺≫を終えること になる。そのことばつまりは"物的文化"(=軍事力)に対する"人的文化"の敗北を意 味していたのではないだろうか。(46)周作人は「現実」の中で生きていく人である。「理想」

に殉じる人ではない。

五、結 び

周作人は右派でもなければ左派でもなかった。若い時にはある種の理想主義者で「新し い村」にも興味を持ったが、日本の中国侵略が進む中で自らの道を模索していった。最後 に結論として"柊亦又能承玖有好些高級的文化是辺去的少数的,対干現今的多数是没有什

△勢力"(《日本管窺之三〉)と述べ、「高級な文化」(=「人の文化」)の過去性、少数性、

現実への無力性を言う周作人の胸に去来するものは何であったのだろうか。周作人は日本 人の「純粋性」、生活の「簡潔さ」、「選択の上手さ」を高く評価すると同時にその「狭隠

さ」「気の短さ」("暴躁つ を短所として挙げている。それは天皇を中心とする日本的共同 体の持つ二重基準への批判であったようにも見うけられる。今後、更に、機会があれば周 作人の日本論、日本観についてその中国論、中国観との対比を含めてより詳しく研究して

いきたいと思う。拙稿が中国を知ろうとする人、とりわけ日本にいる人々の中国理解に資 するところがあれば喜びこれに過ぐるものはありません。

【注】

(16)内藤湖南「日本文化とは何ぞや」(其一)

(S.44)『内藤湖南全集』第九巻pp.11‑12 筑摩書房 (17)同(7)書

p.265

(18)《日本管窺之三》で述べている"武士之情"などがそれに当たる。

(19)《日本管窺》同(7)書 p.265"至干所謂万世一系的事実我却承伏其重要性,以男要了解日本 的事情対干送件事実非加以注意不可,因男我想日本与中国的思想有些岐弄的原因差不多就臥送里 出友的。,,

(20)同(7)書

p.277

(21)同(7)書

p.279

(11)

(22)同(7)書

pp.275‑276

(23)同(7)書

p.281

(24)同(7)書

p.286

(25)同(7)書

p.289

(26)同(7)書

p.290

(27)永井荷風『江戸芸術論』第一篇「浮世絵の鑑賞」(S.38)『荷風全集』第十四巻岩波書店

pp.

11‑12

(28)《懐東京》等の中で述べられている。

(29)同(7)書

pp.293…294

(30)同(7)書

P.295

(31)同(7)書

P.296

(32)同(7)書

P.298

原文は"日本反渓文化的反功,,

(33)大久保喬樹(2003)『日本文化論の系譜』中公新書 中央公論社

p.5

(34)同(33)書

p.6

(35)同(33)書

p.7

(36)同(33)書

p.13

(37)同(33)書

pp.15岬16

(38)同(7)書

p.299

(39)柳田国男(1997)「祭礼と世論」『柳田国男全集』3 筑摩書房

pp.205柵206

(40)同(7)書

p.300

(41)銭理群(1994)『周作人論』寓象囲書股扮有限公司

pp.107‑108

(42)同(39)書

p.421‑422

(43)同(39)書

p.422

(44)同(7)書

p.300

(45)同(44)

(46)"人的文化""物的文化"については同(7)書p.289の以下の部分を参照のこと。

"我近来有一神私凪,覚得人糞文化中可以分作両部,其一勉強称日物的文化,其二也同祥勉強地称 日人的文化。凡根据生物本能,利用器械使技能友展,使手争存者,即物的文化,如棺灼及遠等干 爪牙之特別税挨,折返望遠等干耳鼻的特別職敏,干生存上有利,而其効止在損人利己,故在文化 上也只能悦是低級的,与初物相比亦但有量的差昇而非庸的不同也。卓然井不通反自然却加以修改 或市制,其行男頗虎及別人,至少要利己而不損人,又或人己倶利,以至損己利人,若此者男高級的, 人的文化。,,(「私は最近一つの私見を持っており人類の文化は二つに分けられると思っている。

その一つは強いて言えば物の文化であり、そのこは同様に強いて言えば人の文化である。およ そ生物の本能によって機械を利用し技術を発展させ生存競争に役立つようにするのが物の文化 である。たとえば鉄砲、爆弾が遠くまでとどくのは爪牙の鋭く長いのに等しく、遠くまで聞こ え見えるのは、耳や目、鼻の知覚の鋭いのに等しく、それは生存に有利なことであり、その効 は人を損ない己を利することにある、したがって文化上では低級なものとしか言えず、動物と 比べても量の相違があるだけで質の相違はないのである。自然に反するのではなく、修正と節

‑23‑

(12)

制を加え、その行為が他人のことにまで考え及ぶのであれば、少なくとも己を利し人を損なわ ないか、または人も自分も共に利を得、そして最後には己を損ない人を利することになる、こ ういうのは高級な人の文化である。」)

《参考文献》

王仲三箋注(1995)《周作人詩全編箋注≫学林出版社 陳子善編 (1996)《閑話周作人》漸江文芸出版社 孫郁 (1997)《魯迅与周作人》河北人民出版社 銭理郡 (1997)《周作人≫中国華僑出版社

刑緒源編 (1998)《苦雨斎圭一名人筆下的周作人 周作人筆下的名人》東方出版中心 黄開発 (1999)《人在旅途一周作人的思想和文体》人民文学出版社

程光燥編 (2000)《周作人評説80年》中国聾僑出版社 (注で言及したものは除く。)

○ 原文の引用は簡体字表記としたが、読者の便に供するため、書名、中文日訳等では日本で通用

している文字を使用したことを付言しておく。

参照

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