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本田康雄

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1Jノー

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︑戯作﹂とは今側では﹁江戸時代︑和漢の伝統的な文学に対し︑

俗文学特に小脱顕︑即ち魏本・黄表紙・液落本・滑稽本・人柵本の

総称L︵広辞苑︶と考えるのが普通であり︑それらの作品の作者が

即ち可戯作者Lであるとされている︒﹁俗文学﹂といっても特に徳

川塒代の後期︵宝暦・以後︶の小説やその作者を戯作・戯作者と称

する択である︒

雌史を測っておえてみると︑爽際に﹁戯作Lと銘うつた作砧が現

れたのは︑宝脚期の江戸で丈阿が自作の革璽紙に可丈阿戯作Lとい

う署名を川いたのが始まりであるとされている︒しかし︑その﹁戯

作﹂が社会的な通川摺となり可戯作者﹂という言葉が生れる為には

その極の作品や作者の量的な噌加が必要であった︒

その怠味で戯作の商品化が完成し︑職業としての戯作者が出現す

るという天明期末・寛政期初の新耶態はまさに吾人の所捌司戯作L

可戯作者Lの誕生の契槻として︑その弧の文学の木質を容易に左右

式亭三馬ノート

l職業としての戯作者への道I

し椰る蛎態として必察する必要があろう︒

職業としての戯作新を考える瑚合︑則李が﹁近阯物之本江戸作背

部刺﹂で次の様に述べている躯が注目される︒

﹁・⁝..⁝寛政に至りて京伝蝿琴のみ︑殊に年々に行はれて︑部数

︑一万余︵華愛紙I兼者注︶を売るより︑商質駕鳳諏三郎︑蝕屋

喜右衛門と相謀りて︑初て草ざうしの作に潤華を定めたり..⁝.L

︵作者部麺︶

これによれば︑職莱としての戯作者の成立は山東京伝に於て始め

*1て可能となった槻である︒

この点は︑明治堀年七″︑仮名顛稗文︑条野な人が段部打に提出

した﹁箸作道齊き上げLをみても同概で︑京伝以来職業として成立

した戯作が近頃は衰え︑現在︑戯作を業とする者は彼等両人其他両

三名のみ︑である事情が述べられている︒

右の二例によっても察せられる様に職業としての戯作または戯作

者を考える場合︑その始祖としての京伝の存在が先ず大きく浮び上

って来る︒寛政六年刊・茂炎紙﹁天通浮世出娘操﹂︵三冊︶を以て

本田康雄

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文蝋に礒甥した式事三馬の馨作活動を検付するに当っても︑京伝を

始祖とする︑職業としての戯作調Lの発生という小冊は愈大である

と思われる︒この期の戯作界にあって︑三鴎という作家が如何故る

特色を有したか︑その荷った役割に就いて考えてみたい︒

寛政の改革の識政策の一環として寛政二年十月二十七日には出版

取締令がしかれ︑草隻紙の中の楓刺物︑澗溶本零がその面接の対象

となった︒

﹁榔物の儲に付き前々より厳敷叩渡候処いつとなく狐に机成峡︑

何に不寄行小改候而維本絵戴紙瀬迄も︑風俗の為に不相成狐ケ間

倣鞭等勿論無用に候﹄

という町触れが地本間屋行事に申渡されたのであるが︑この鞭は

この秘の出版物がこの年頃を中心として盛んに刊行されたことを自

ら紙っている訳で︑製本が間に合わず表絲と綴じ絲とを添えて売り

*2出すこともこの頃行われたという︒

就中︑﹁文武二道刀石通﹂︵明賊熾榔三二作・天明八年刊︶司蝿

鵡返文武二通し︵恋川赤町作・寛政元年刊︶は流行を極めたらしく

可近世物之本江戸作者部顛Lは前者に就いて﹁赤本の作ありてより

以来かばかり行はれしものは削代未聞の班也Lまた司大半紙摺りの

袋入にして︑二三月頃まで市中を売あるきたり︵流行此前後二鋪に

勝るものなし︶Lと︑その評判を伝えている︒

この作品の為︑両者は相次いで特めをうけ︑客三二はその戯号・

狂号を綴って戯作の筆を絶ち︑春町は﹁当時世の風聞に白川侯へ召

されしに︑葬町猫臥にて辞して参らず︑此年寛政元年﹂︵作背部

類︶に孜した︒

又︑禰落本方面では周知の徹に︑山東京伝が寛政室年刊﹁溌仕

懸文叩﹂︑娼妓紹麗﹂︐﹁青楼昼之世界錦之褒﹂の三作の為︑地本間

屋行事二人︑板元・篤屋篭三郎と共に︑町奉行鹿野河内守の取謝べ

を受け

﹁去年制止ありける趣に従ひ奉らず︑遊里の鞭をつ時り︑刺へ段

訓本と錐して印行せし耶不好なりL

との将を受け︑地水間胤行邪二人は軽巡放︑板元・鮒峨載三郎は身

上半減の閏所︑作将低蔵︵求伝︶は手鋼兀十川に定められた︒︵作

若部瓢︶

しかし︑この取締にも拘らず︑板木︑貸本歴等に利の多い涌落本

の刊行はやまず︑寛政八九年の頃には四十二菰に上る新版が出され

たので町奉行所の吟味をうけ︑件の新板四十二梱は勿鐵︑古板でも

洲落水のみは絶板に附された︒その版元の多くは賃木賦で各遇料三

凹文に附され︑襟林滞林消兵衛は身代半減の上関所︑襟物間尿吹総

凪利兵術は両犯の故を以て幟追放に附された︵作蒋部瀬︶

そして︑この間草盤紙の刊行が年を迫うて盛んになって行った躯

が知られるのであって︑その一つの表れとして前述の様に京瞳・蝿

琴への澗筆料が定まった事が挙げられる︒

しかし︑著作による収入が︑作家の生活の資の全部を賄った訳で

はなく︑有名な京伝・馬琴・三鰐にしても他に収入を得る道があっ

た事は周知の通りである︒︒*3寛政二年の秋︑脇浮が京伝の群へ入門を乞いに来た時︑京伝は﹁草

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11.噂J J J

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式亭三馬の文壇登場は︑その微な出版界の情勢︑戯作者の増加と

いう事と切離して考えられないが︑ここで彼の作粁としての成長の

仕方を考えてみたい︒

三脇の伍紀については︑すでに蹄研究将に述べられているが︑そ

の中で彼の作将としての人生を方向ずけた珊椚としては次のいくつ

かの邪実が挙げられる︒

①父親・菊地茂兵術が板木師であった邪︒この点に就いて﹁戯作

六家撰﹂は可八丈烏為朝大明神の刺官・菊地壱岐守の妾眼の男子で

械木師となり菊地茂与衛と称したLとし︑可作者部類Lは簡単に司三

鴎は板木師菊地茂兵衛の子也﹂と紹介している︒

三鰐自身も︑司式亭雑記L巻末で門弟・古今亭三烏の奇禍事件を

述べる際可⁝..⁝・三島は予が父の預り居る艮屋に住居する故︑予がザ

実家は蛾に地天と騒助せり.::.:.﹂﹁⁝・⁝:︵三崎はl誰者注︶

浅草Ⅲ原町一丁目堺駄といふ獺店に仕す⁝⁝⁝四年己来没年Ⅲ臓町

三丁目家主茂兵術店に住す⁝⁝⁝Lと実父の名を出して勝り︑彼の

父が︑少くともこの記事の香かれた文化八年の馴までは三脇の生れ

た浅草田原町に依然として住んでいた事が察せられる︒父子の間栖

に就いては︑三馬と不和であった馬琴が 霊紙の作は世を波る家業ありてかたはらになぐさみにすべき物なり今時鴨なる作蒋脅然り..⁝・⁝し︵蜘蛛の糸巻︶と教えているが︑これも戯作のありかたを示すのと同時に草鰹紙執蛾による収入の不安定さをも薄えさせる意見である︒

︑...⁝⁝そが中に一蛎賞すべきは︑批親茂兵術も酒を鴫むにより︑

月拡に酒賎として南無三片づつおくる小数年た上ざりしとぞ⁝⁝﹂

︵作考部獺︶と妃しているが晩年まで親交あったと考えられる︒尤ばん腿りも禺奉は特に︑︵茂兵衛は始終三照と同居せず︑別宅に花て剤瞬を

職にしたり︶﹂と但し書きを附しているが︑これは茂兵衛の宗が異

母弟によって継がれた為であったと考えられる︒

*4②式事雑記・文化八年の条に︑三馬の弟︑石渡平八死去の逼事が

あり︑その経歴を説明して﹁四日市書林上総屋利兵衛後改石渡利助

家に仕︑後年三浦屋平八京へ養子Lとある︒この上総屋利兵衛は寛

政年間の澗蒋本禁止令にかかり︑再犯の故を以て朏喰町の霄林問屋

蒲林消兵術と共に帷追放に附され︑芯渡利助と潅潴したが敬年を総

て赦され再び上総膿利兵衛を堵乗って元の勘所に従ったものであ

る︒︵作蒋部期︶

父の板木師茂兵衛に加えて︑三燭と等しく書郷に奉公した錐の存

在は彼の文鯉透場と合せて考察さるべきであろう︒

③三馬自身の文雛を調べてみると︑幼少の頃から木石町四丁冊の

*5書閏翫月堂︵堀野屋仁兵衛︶に丁稚奉公し︑年季が満ちて後︑山下

町御門外の杏林万屋太治右衛門︵剛香堂︶の婿播十となったが災・早世したので離縁となりl作肴部蹴・戯作六歌挑1日本稿十九

本6文柵町で古本瀬を商う小店を開きその域から戯作したがl戯作六

京撰11文化三年の押出火に樅り︑本澗町四丁H新通に転鵬したI

式事雑記︒

やや勺ひ文化七年には本町二丁目︵上木戸より二冊目︶へ転宅して仙方延寿丹売蕊店を開きl式事雑記l以後この売薬業を家業として実

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子鹿之助︵文化九年生・式亭小三期︶に低えている︒賜琴は

﹁戯槻をもて旅を典せし者は︑求伍と三塒のみ︑束伝は子なし︑

弟蹴山が代りて店を継ぐに及びて蠅衝・礎包の売買を廃したり︑

三蹄はその子に至りて父の生業を改めず︑因て思ふ︑身後の福は

三馬︑束伝に勝れり⁝・・⁝・﹂︵作者部斌︶

と汗しているが︑売薬業は戯作と同様熟心に鴬まれ︑﹁江戸の水L

を姑めとする三脇自身の工夫になる薬を加えなどして成功している

微である︒

当時の戯作者の生き方を示す例として司嘘鳴秘妙Lには︑﹁..⁝.

⁝或側︑京伝は隅琴に向って︑書店又は武家への奉公をす上めたc

馬琴は邦間又は講釈師になりたい︑と轡えたので︑輔間になりたい

という不心得を諭し︑講釈師はよかろうとその場で本無しで実演さ

せた︒⁝⁝Lという意味の紀那があり︑また同じく束伝が叫琴に向

って司琳哩紙の作は枇に家業ありて傍らに慰みにすべき物⁝⁝⁝し

︵蜘蛛の絲巻︶と数えた小は前述の通りである︒

就れも︑戯作者の処世の仕方を其体的に低える記班であるが︑こ

れに照らしてみると︑幼い時から書難に丁稚奉公し︑同じく書難の

婿餐子となり︑古本類を商う小店を開き︵前出︶︑広告宣伝と切難

して考えられない薬腿を開くという三馬の生き方は︑代表的な戯作

将︵例えば作将部調掲戦の︶中でも雌も寄林︑出版と雑の深い︑む

しろ僻林の中で生い立ったともいうべき人生であった︒

而も︑父は板木師︑弟は蕎林上総犀利兵衛家に仕え︑又︑妻は香

林翫月堂主人の妹︵式亭雑記︶であった︒この様に考えてみると︑

三蝿がすでに幼少の頃から︑出板ということと結びつけられていた 卵が︑彼の戯作肴としての幾期を神色ずける必筑の条件として川提せられるのである︒

④三期は自らの戯作修業に耽いて

﹁己幼きころ伯母なるもの其大守公の奥殿に牡へまゐらせければ

おりノ︑伯母へ対面のため奥殿へ至るごとに好む所なれば傍にあ

りおふ冊子をとり鮠むを其序へ米あはす仕女たちこの意は鰯にも

似笂なく許を銃ことの拙からず今の腿よりかく文才に長じたれば

俊はいかなる荷にかならんずらんなどいはれしが十三五鰻の唖ま

でに数歩の戯曲本をもこと人︑く覧蝸し十六七蝋のころ戯作の志

あり十八蟻にして独立にて始めて⁝⁝⁝L︵戯作六家撰︶

処女作﹁天道浮世之出星操﹄︵黄表紙︶を著した次第を語ったと伝

えられている︒事の典疑は別として︑三馬が熱心に戯作や戯曲を鮠

んだ邪が察せられる︒その処女作を作る際司⁝⁝⁝伐湛るにも食の

柧より手をいだして欄を成たり⁝⁝⁝L︵戯作六求撰︶とあるが︑

三蝿こそは︑戯作が好きで︑戯作を勉強し︑遂に白分で作る梯にな

った︑いわば戯作青年毎とも称すべき人物であったと思われる︒

この時代の多くの作者がそうであった様に三鳩も澱表紙﹁天道浮

枇出拙操し︵三冊︶可人間一心覗枠操﹂︵二冊︶−1寛政六年刊I

を以て戯作淵としての第一歩を踏み出した︒

前蒋は︑すでに古くから指捕されている穣に黄表紙界に新風を創

った山東京伝作可心学早染草L︵寛政二年刊︶の趣向によったもの

であるが︑﹁心学早染草Lは当時の心学の流行に棹さして鏡者の大

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20

欲迎を受けた作で︑京伝は同様の趣向で翌寛政三年に﹁人間一生胸

算川L︑・同五年に︑勘恐袋紺〆響玉﹄を刊行している︒

三馬がこの作を模倣した事は︑天帝の支配下にある暫里と悪里と

が戦い︑最後に善里が勝利を縛るという筋香きや︑また︑司心学早

染草﹄中に魂を知る歌として引用されている可木九からに火三つの

山に土一つ七つは金と五水りやうあれ﹂をそのま上使ったりしてい

る点で明砿であるが︑しかし︑天上界を芝居に見立てた作品として

は︑垂生狂言に図んだ芝全交作司浮枇操九面十面し︵寛政四年刊︶

があり︑全交・三嶋の関係から推しても何淳かの影辨があったもの

と思われる︒

この作品には一鮎して地口・駄栖落が鯉樹であり︑また文中﹁⁝

⁝⁝其の名を二八品と呼び︑まだ部長住みの風来育ち︑楚れが実の

天竺浪人⁝⁝・・・Lと天竺浪人・風来山人と号した平賀源内を指すか

と思われる祇落を記し︑同椴に︑儒道の心がけのある縛星たちの会

話の中に﹁⁝・⁝・・これさ︑無駄をのたまふな︒先生はねぼけさっし

やらぬから耳が早い︒⁝⁝⁝Lと狂詩に於て潅惚先生と号した大田

南畝を酒落ている点が注目される︒源内に関しては別に可.⁝・⁝・油

をとられるのは︑エレキテルで火を取られるよりつらうおつすよ⁝

⁝・・gと彼の発明品・エレキテルの噂をも記している︒

可まだ初簿台の御凹兄縛に︑廻らぬ懇の操狂言・・⁝⁝︒Lと序文に

ある通りの処女作であるが︑特徴としては︑首尾一筒して地口・駄

活落が多いという事は一見︑明瞭であろう︒

同じく寛政六年に可人心覗替操﹂︵二冊︶が刊行されている︒こ

*8れは可かんだの八丁ほり﹂の辺に住む式山や馬二郎を主人公とする

作品で︑その椛想は︑

災次郎はある日︑いきちよん大通神から服明鏡を授かる︒その速

眼鍵でみると客と女郎の腹の中︑火の車の中で蹴っている人間の

阿呆さ︑嫁姑のいがみあっている棟︑持参金つきの嫁の高捜な腹

の中︑それに鼻毛を伸している亭主の腹の中︑放蕩息子とその一

家の模棟︑助六と意休を天びんにかける女郎の心等を覗くことが

出来︑その眼中の梗概が画説きされる︒

これは後に﹁榊魎人心覗機関﹂︵二冊・滑稽本・文化十一年刊︶へ

脱化する趣向であるが︑この服明鏡というのは可児外白禅利し︵宝

勝八年刊・介辨卉純草子︶に川いられた司思兄鏡Lの換倣と忠はれ

ヂ︵︾◎

因に︑﹁見外白押利﹂は京北山陰に草庵を結ぶ主人公が山神より

授つた可思見鏡Lにより蟻の世界︑龍の都︑宙公の舎︑極楽︑地裁

天狗の棲処を一々覗く趣向であり︑この﹁思見鏡﹂は宝燐十三年刊

一風流志道粁伝﹄︵風米山人署︶中に使用されている﹁羽扇﹂の原

拠となったとみられる︒

しかし︑三塒は戒接には﹁十四噸傾城脱之内﹂︵三冊・芝令父・

北千句寛政五年刊︶によったのではなかろうか︒

*川打名な全交の本作品は︑漢方腹の人身解剖卿﹁十四繩総和鵬抄﹂

によって︑傾城の服の中を︑人間に見立てた源臓の仇きで例解︑説

明しているのであるが︑三馬はこの趣向を利用したと思われる︒

自らを擬した司式田や馬次郎﹂なる人物を登場させた点等は︑お

そらく︑﹁京伝憂世之酔醒L︵三冊・寛政二年︑山東京伝︶に於て

壷甥人物﹁京伝Lが一角仙人から仙通丸を授り通力を得て自由自伍

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寛政九年には﹁芝全交夢寓言﹂︵三冊︶が刊行された︒すでに寛

政六年に芝全交の追謹記﹁芝全交腹内﹂︵一冊・芝山人虚呂利︶が

刊行されているがや本書もまた全交追蒋の意企を有するものである

ことは︑序文の磐堀の簡所に﹁芝全交戯作欲追静Lとあるので知ら

れる︒内審は︑芝全文が睡っている巾に彼の魂ともろこしの司蝿況公

の魂とが入れ緋り︑途蝋に全交は智忠考となって︑草鰹子に心学のこ

ころをひいて子供達へ勧めたので有名になる⁝⁝というのである︒

本作の序文は三鰐の全交観を示している梯であって︑その部分を

示せばけ魔しぜんこうわせつするとうぼんつれご凸を可人間舞台有二澁臓狂言一・・⁝・⁝蓋全交訳二噸唐溌液言︷鰊し麿耗ぃ麹嶬誌や輔蕊診謹︐蝿漉蕊翰舞て而

そ3Lのゆめのごてうにねむりうきょとあか肥んのむかし︐■︑なさんね1軍紙夢睡二五牒ゞ五阯界去二赤本摺昔一⁝︽..﹂とある︒この文翠は全交の作品の中でも特に﹁十四側城阪の中し︵ 寛政七年には司碁大平記白巧噺﹄︵三冊︶が四季山人の署名で刊行さ拠翌年には︑この後篤﹁建嶬灘敵討白石噺L︵二冊︶が刊行されている︒これは賜亭勝馬が主となって作った浄刑璃司溌畷窯碁太平妃白石噺﹂︵淡水九年正〃二側初演・江戸外把服︑紀上太郎・容描熊・島亭購蝿・三祁蝋・作︶の筋書きを紹介している作品で後述する駕鴎との側係が忠はれる作である︒ の遊びをする趣向によるもので︑処女作﹁天通浮世出塁操﹂﹁人間一心覗僻熱﹂両作品とも京伝模倣の傾向は否定しがたい︒ 危︾

的出︶をとりあげて︑それが可赤本の昔々Lつまり寵幼の為の絵本

的性絡から抜け川した功紙を述べている械である︒

本文中でも﹁古学の喜三二︑葬町先生︑とうじりうこうの山本先

︵全交は山本氏︑通称藤十郎I轆打注︶なとはまことにきんらい

のたいさいでござるLと述べているし︑後述する﹁稗史憶説年代記﹂

に於ても﹁名人戯作者六家撰﹂中の一人として喜三二・春町・万象

亭・通笑・三和と共に名を挙げている点から見て︑全交を安永四年

刊︑金々先生栄花夢﹂︵群町作︶によって起ったとされている大人

向きの硫物としての黄爽紙作品の出現の功労肴の一人として認めて

いる械である︒

同年に︑唯緬大悲智懇話﹂︵三冊︶の作がある︒椛想の冊子は︑仏

︵円通と称する︶に可ちかいのいと﹂というものがあって︑人間

をそのほうびき縄の如きもので操って居られる︒こLに善田屋の

性兵衛という大商人のひとりむすこ︑今年廿五賎の芦次郎はおめ

でたい人間で出入りの侭蒋の悪井馳杯︑稀頭の欲兵術などに欺さ

れ股藩に野を持ちくずす︒円通はこの棟を御覧になって︑w次郎

の勘道を汁らわれる︒勘通された芦次郎はやつとめがさめ︑そこ

で円通はこの一家のものを染めておさとしになる︒

本文中に可此ごろりうこうするしんがくのせんせいLに頼んで芦次郎

から油をしぼって貰う場面が出て来るのをみても分る様に︑全体と

して心学の教理をやさしく普及しながら話しを進めて行って居り︑

卿頭と終りの部分に三鵬が近所の仏椴︵円通︶に頼んで草要子の趣

向の秘を設えて賀うという趣向を加えて作を錦めている︒

この作品は明かに天明五年刊・寛政五年再刊﹁江戸生艶気押焼﹂

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IIJ

L

寛政十年には︑凹部の黄表紙と一部の漸落本を刊行している︒

侃鰈共跡幕婆道成寺L︵三冊︶は災唄所作鞭可京鹿子娘道成寺L

と﹁洲脇太郎Lの背噺とを知合せた趣向であるが︑﹁京腿子娘泥蝿

汁﹂︵克政三年・芝全交︶・可麺睡洲宮刑鉢木L︵寛政工年・山来

京仏︶沖の趣向が少くとも三隅の作品へのヒントを与えたと忠われ

デ︵︾⑨

訊哩鶏趣磨浄頗理心照子﹂︵三冊︶は例によって心学を通俗的に ︵京戯作︶によったもので︑その盗場人物も﹁艶気押焼Lの艶二郎・帖制井思腿という太鼓灰蒋︑︐の変宅である邪が分る橡になって居る︒

同年刊︑司識聯人廉箇﹂︵三冊・享和二年︑﹁御覧説孝雄Lと

改迦再版︶の巻末に

可とうづくゑの四角四面にかたことまじ里のちん蕊んかん故人に

なりしかはらけ町︑かの全交子が妙作のむだなしゆこうをふミだ

いとしつうのまねするさぎならでさぎとはふとひつらのかハ︒﹂

と芝全交を雑んでいる聯が述べられているが︑内容は四書五経の

文字をも塔ったものを出して︑それにあて幟る放蕩︑不孝︑癖の邪

件を剛ときし︒﹁⁝⁝⁝同じくハ此むだ本のまねをせず只まつすぐに

さへ行けば六ちんのちまたにまよハず正路に出る堺安し.⁝..⁝Lと

いうのであり︑明かに寛政二年刊・京伝作﹁跡京伝予跨﹂の趣向

によったものである︒

絞文の﹁百年に経典余師あり︒嘘八百年を経て傾伝ヨシノ︑と点

首あり⁝・・⁝.Lとあるのはそのことを示しているかと思われる︒

L

応用して人間の喜怒哀棄の生活誌相を戯剛化したものであり︑

有濡鶏服破脳嚥曲﹂︵三冊︶は︑赤本以来の世の中が塊けてさっ

ぱり闘子の処くなった慨物共が棚淡し︑人間を化かす工夫をするが︑

江戸から上って来た狸が相談をもちかけられて大磯の邸を準俄す

る︒そこでさん人︑人間を化すが︑段後に市川白猟に捕えられてさ

とし戒められる︑という筋寄きであるU

鍬誌榊吾妻街道女敵討﹂︵三冊︶は三崎にとってはじめての

〃敵肘物々であるが︑﹁敵討義女英し︵寛政七年刊・南杣笑楚満人

作︶に始まった︑当時の〃敵対物々の流行に純さした作品とみられ

ヂ③︒

版元の︑上に可当祥も何がな趣向と存侠へ共下手作折の綴ゆへ幸

ひ去ル御ひゐきしやれきらひやぽ好の御方さまよりの御難にまかせ

至てきまじめなる敵対取紐泰入御覧候地口瀬一向無御座候得共晶又

まじめ好の御方々織御評判偏奉希上候Lとあるが︑しかし︑内容

に於ては他作に見られない新奇さが狙われている様で︑例えば︑

最後の敵討ちの場面はうおやのかたき師匠のかたきしせうのやうし

のかたきおぢのかたきおと上のかたきサアーときにおち合たしん

しやうにせうふノーLと逓斌の敵対に仕組んで湘落ているのであ

ア︒◎

三崎が敵付ものを嫌う台湖は附所にみられ︑呈一総闘訓歌字尽L

︵三冊・文化二年刊︶には﹁侍繊敵対のかたことをやめて弊三二︑

券町伝来の瀞本にくだけたまへと︑おのが川へひく水かけるん⁝﹂

と記しているし︑また﹁敵討安達太郎山﹂︵五冊・文化三年刊︶の

巻末では可⁝⁝.:私儀独立って十八才の春よりけさくしやとなり当

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23

年雫二十一才迄十四年が間むだ本ばかり軒述いたし侠処近来かたき肘

のさうし大きにおこなハれいづかたの板元も敵肘の本ばかりたのミ

申候間当年よん所なく敵対の本少々懸案仕侯..⁝・⁝L﹁ァ上モゥし

ゃれたくてj︑くちがむごノ︑いたしますLと書いている︒

同様の事は司親静膀膏蕊︐﹂︵三冊・文化二年刊︶の序文に就いて

も喬い僻るが︑司式亭雑記﹄でも司・・⁝⁝・おのれ三馬徽討のさうし

は蛾ひなりしが︑西宮のす上めにまかせて︑嘩耐躰露T始て敵討絵さ

うしを細み︑⁝⁝⁝⁝﹂︵文化七年︶と犯しているので︑敵肘草紙

雌い︑は三脚の木青であったと思われる︒

従って︑三塒としては︑流行に随って敵対物を著しながらも︑自

らが木米可斑一三︑奔町伝来の青本﹂︵前出︶のくだけた涌落・滑

驍を偲怠とする戯作者であることを瞳伝する必要があった︒そし

て︑礪突︑序文や書込みで峨々その点を吹聴し︑雲碓唯品全体に就い

てみても可汎御鵬膏然しの如きは自ら﹁⁝・⁝・・老実ばかりの鍵輌紅

ては︑紋作桝の戯の字へ対して面目なしと我怠を立ぬく戯作の彼郷

..⁝・⁝油滞と老爽と両方の桃内股えくつたべた⁝・⁝・・し︵序文︶と

称している通り︑〃湘藩を職り込んだ倣肘もので︑艇初から︑

﹁群二二の天道大福帳よりこのかたけさくしやがせつなくなると

天道さまをどうぐにするが近年のはやり也L︵三・ウ︶

と記して︑天道棟︑お星さまが人間一人一人の運を司っている様が

画かれ︑戯作的趣向となっている︒

二期は臨竹に戯作者的姿勢を示しながら︑苦手の敵対ものを作り

姑め︑而も成功したのであって︑後年の﹁砺太郎強悪物纈雌︵文化

三年︶司吃又平名価助匁﹄︵伺・五年︶線は暁者の大歓迎を受けて この年・寛政十年には︑はじめて涌落本司跡認辰巳州首Lを書い

ている︒この作では︑これまで誰れも画かなかった深川古市場を取

扱い︵鯵頭深話・序文︶︑いわば滴落本界の穴を狐うことによって

成功している︒

寛政十一年にはいって︑三脇は一測打名になった︒同年作の茂災

紙吸潔侠太平記向鉢巻L今耐︶の縦禍邪件が起ったからである︒

﹁作者部顛︲|によればこの作は前年の一瀞純二稀組の火消人足禅

の闘争の趣きを綴ったもので︑この為よ組の人足幾名かが入牢し︑

裁許の日︑西宮新六は過料︑人足は出牢赦免された︒作者︑三鰐も

罪を蒙り︑各め手鎖五十日で赦免された︒

この事件によって三脇が愈々有名になった鞭は﹁作者部麺L﹁戯

作新六家撰﹂の述べる通りで︑特に﹁作新部剛Lは三期が芝全交の庭胆か襲瑞を断念した瑚曲として︑この郡件によって﹁三期の急号騨に恥

がしくな﹂つた聯を挙げているのである︒以後︑三冊の耕作活動は

調子にのり﹁..⁝・⁝かの郡よりして愚名ますl︑商く近頃に至り稲

太郎の一作大に行れしより幸にして年々評判つよく批人にもてはや

さる坐事になりにきといはれつ﹂︵戯作六家撰︶と述べられている

通り︑年を追うて戯作者としての名を高めてゆくのであるが︑寛政六

年の文現登場以来︑この可侠太平記向鉢巻Lまでの鮒作品に於て︑

彼の戯作者としての態庇・特質はその大部分が表れていると思われ

るのである︒

(9)

24

彼の文瀦を商からしめた湿蕊稗史侭脱年代把し︵三冊・自面・

享和二年刊︶巻末の可名人戯作者六宗撹﹂に於て三鵬は祥三二・群

町・万象亭・通笑・全交・三和の六名の文人を紹介している︒また︑

同巻末に掲戦された有名な可名作青本略記﹂二十三部も︑春町・八

部︑蔓一三・七部︑全交・六部︑万象亭・一部︑三和・一部︑と︑

通笑を除く五名の名人戯作者の作品で占められている︒但し苦きに

﹁共外大当り挙げて数へ難し︒別して万象︑通笑の部は大全にゆず

る︒しとあるので︑木米ならばこの六大家全貝に就いて全部の作品を

水弛棚仙しようという腫企が察せられるのである︒

この︑ハ求撰Lは︑当時の戯作蒋観︑少くとも三期自身の戯作群

観を端的に水していると思われる︒三脚はこれ郡の文人述を戯作者

の模範と巧えていた棟で湿溌罐親緋膀膏薬﹂︵三冊・豊広画・文

化二年刊︶中でも

﹁・⁝?⁝高がくささうしの作者だからはらはしれてゐやすあんま

りとけおどしにちんぷんかんはやめなせへそれだから敵打に世を

うばはれた喜三二.春町・全交・月池︵万象亭l轆者注︶・三

和と此五大家を洲合してかいてゐれは間述なしさ⁝⁝⁝L

と︑︑務作背本略氾Lに挙げた通大永を掲げている︒︐

一体︑飾炎紙は恋川赤町作︑金々先生栄花夢﹂︵二冊・自画︶に

よって始り︑以後︑莱笠紙は大人の蝿賞の対象となったと云われて

いるが︑これは草型紙史上劃期的な蛎械であった︒

赤本以米の伝統的な修業を積んだ草愛紙画工・作者達が却って通

三崎は先達の戯作者達と実際にはどの程度の交渉があったのだろ

うか︒

一番交渉が深かったと思われるのは烏亭焉馬で﹁式亭雑記Lにも

﹃焉潟老人狂歌碑Lに就いての記があり司三馬友とし善︑Lと記し

ている︒抑々︑﹁三蝿という戯号そのものが瀦鳩に因んだものであ

る叩は周知の皿りで︑可みづから云︑我は腓米子の才を荘ひ︑鳥辛

子に忘形の友とせられしより︑三和塒蝿の・一宇を取りて三蝿と悪す

るとぞL︵作将部顛︶という説明や︑また

﹁⁝⁝斯いふそれがしは︑十年此かた戯作巻のとLまじりする雑

魚作者しかも此道ふるつはものとよばれたる三和の三の字︑焉馬 けられ︑素人の恋川春町及び彼の協力群であった朋減堂再三二が大欲迎を受はた鞭に就いては︑当時の出版界の状勢や拙者の勤向から説明されねばならないが︑ともかく出版部数の多い莱塑紙界に起った珈件なのでその影瀞の大きさが察せられる︒

三期の調う﹁名人戯作者Lとは︑春町以下この草興紙界の新風を

支えた人達であった︒即ち︑駿河小島藩士・倉橋寿平︵春町︶︑秋

田佐竹侯江戸留守居役・平沢平格︵喜三二︶︑幕臣・森島中良︵万

象亭︶︑水戸藩狂言師・山本藤十郎︵全交︶︑和泉屋源蔵︵恋米三

和︶︑小倉屋小平次︵市場迩笑︶罪の人々がそれである︒

三蹄はその作中にこの人々の名前を掲げ︑己の旅印としているの

であるが︑この小は三期自身の戯作将としての態度を知る為に好察

する必要があると思われる︒

、 心 凸 ノ 、

(10)

25

勝則は天明六年四月︑桜川慈悲成竿と共に向冊堆朋の武蔵股梱三

の剛学で耕紙の会を開き︑このため落舗中興の祖と称せられている

のであるが︑この邪に就いては三潟も﹁稗史侭説年代記﹂︵前出︶

巾に幹に記紋している︒

草盤紙と落語・小咄し︑は相互に影韓を与えながら発展したもの

であるが︑三馬の場合は特に焉馬を通して落語界と交渉したのでは

なかろうか︒ 享和二年には本所一シ目橘際尼上町京屋に於て︵細拙物理︶︑駕燭の遮脚の賀が催されたが︑三潟は難つた文人逓の文章を錐めて翌文化元年司狂冨繍語﹂という中本を刊行している︒本書は森樅万象の序文︵署洛は風来山人述︶・焉馬の報条文染・集った人達の可談洲楼塒蝿六十初度を寿く狂文L・四方歌壇真顔六の字づくしの文・三馬の狂箇紬語序文・三鰐報条文集から成る︒本書によればこの賀霊への参加者中に大田甫畝︵狂文の署名は牛門無宅子となっているが︑︑細推物理Ll南畝岡記−1中に伺槻の狂文があるので大田南飲作の狂文と思はれる︒︶狂歌堂四方其顔︑六棚側・石川雅削︑符獺挙災机︑山束束候︑鞭があった聯が知られる︒ の蝿の字そのひあはひの桃の木といふ紳号を郷たる式事三馬⁝L︵狂#萄語・十大人を寿く辞︶

という望隅自身の文素によって砿められる︒

また川述の通り寛政七年から八年に亙って司恭太平氾白澗噺L︑白

巧噺後捕﹂︵前川︶を刊行している︒

駕鰐の莱愛紙に典醐の校合︑序肱の文軍が多い小に就いては山口

*咽剛氏が桁滴されているが︑馬琴の﹁近世物之本江戸作者部類Lには

三馬と典顔との関係が述べられて居り︑三馬が狂歌を真顔に学んだ

率︑また真顔も司其己を敬するを欣びて︑﹂常に人に向って三馬の才

を賞した事が記してある︒真顔l焉蝿トー三馬︑間の交渉が考え すでに指滴されている通り︑彼の代表作蝿浮世風呂初踊L三冊・文化六年刊︶の序に

可.:・・⁝.一夕歌川磯剛のやとりにて三笑亭可楽が落譜を川例の能

弁よく人淵に通じておかしみたぐふべき物なし僻かな共趣向術に

十分一を述たり傍に併鮴ありて番とおなじく感笑して勝たりしが

忽ち例の欲心発り此錨湯の賭しにもとづき柳巷花街の更を宿きて

俗躯におかしみを剛補せよと乞ふ・⁝⁝・・し

とある鞭によって︑浮枇風呂Lが三笑亭可楽の落揺によって椛想さ

れたものである半が分る︒

また︑﹁酩酊気質L︵二冊・文化三年刊︶は桜川慈悲成門人で物

真似の名人であった桜川蕪幸に与えられたものであった︒その序文

には

﹁此の苓作は素より一夕の泄戯にて︑桜川甚幸に与へしを︑書鰍

の謡めによりて小冊とせり︒希はくば催孝が身振にて見給へ︑作

意顕はれて含笑又挑むに勝る⁝⁝⁝L

と迅俄されている︒

藩蹄の影稗は呈朏の作品の水髄にまで及んでいるのであって︑そ

の愈味で駕則との関係に沸慰する必饗があると思われるのである︒

(11)

I

26

られる︒

一一蔦が︑平賀ぶり﹂の狂文罐聴いている聯に就いてはすでに先述碍川の述べられたものがあり︑拙稿もあるので宿路するが︑例えば﹃狂

言紺雑し︵前出︶の序文に於いても

﹁⁝:⁝.故人風来紙駕蛍の口湖に倣い︒月池の先生が風調を幕っ

在下は︒.⁝⁝・亡

と風米ばりの狂文を書き︑また﹁麻疹戯言L︵小本・一冊・享和三

年刊︶は完全な︑源内の狂文の模倣である︒三鳩が一・・⁝・⁝学問は

なけれども才壬なれば︑自序などを綴るに能く故事を取まはして︑

漢学稀の如く恩はれたり:.⁝﹂︵作考部類︶と擁されているのは︑

この半間ぶりの狂文によるところが大であるが︑彼は特に二世風来

山人である裁羅万象と交渉があったと忠はれるので︑万象を通じて

風来山人の影審を受けたと好えられるのである︒例えば︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑可.⁝..⁝処則虚をもって実につたへ︒火をもって雌にしめすの戯

作新だましゐ︒⁝⁝⁝﹂︵闘訓歌字尽・文化二年・傍点飛新︶

﹁.︒⁝・⁝せつしやも此ゑぐミのやうならよほどひまらしうござる︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑がせうのものをせうでおめにかけたいなかノーげさくなどハいた

すひまがござりませぬ⁝⁝⁝L︵親響膀膏薬・文化二年・同右︶

などに示されたこけおどしの戯作論も︑実は森羅万象作﹁田舎芝居L

︵酒落水・天明七年刊・享和元年︑中本に改装して再刊︶の序文に

よるものであったと恩はれる︒その序文には︑

可⁝⁝⁝正の物を正で御目に感ずして︒しかも正の物の如く兇す

るを上乎の芸と云っぺし︒戯作も亦然り︒実を以て尖を絶すは火

鉢なりし虚を以て実の如く寄成は戯作なり︒⁝⁝し︵川舎芝隅︶

三冊と運全交との側係に就いてはその鵬塔問瑚をめぐって︑これ

まで蹄研究杏で述べられているが︑芝全交社中には前述の万象も届

た訳だし更に強剥されていいのではなかろうか︒

三馬の全交製名に就いて︑馬琴は可⁝⁝⁝寛政の季に芝全交が残

せし後の全交たらんと欲せしに︑障ることありて果さず︑とかくす

る程に彼火消人足闘争の一件より三馬の名号暴に喋がしくなりしか

ば︑初念を絶にきと云Lと述べている︒﹁全交たらんと欲﹂したと

いうのはこの間の事愉を正しく謡っていると思われる︒

軍製紙作品に於て影等関係を指滴することは麺似の趣向の作品が

多数ある場合が多いので困難であるが︑全交作﹁鼻下艮物招﹂︵三

冊・寛政四年刊︶・﹁白腱大明神御渡叩﹂︵三冊・寛政通年刊︶は三 とあり︑これが︑戯作逓の硫諭L;であると述べている︒この戯作猫は災に遡れば万象の師であった平釘源内の咽えたものであったらしく︑随飛﹁一括一宙﹂︵大田燗畝藩︶によれば︑源内に小脱の茜き棟を群れたところ︑

可⁝⁝⁝蝿渓︵源内I兼満推︶が日︑小魏は戯れごとなれども

実馴を踏み不申候てはあさとく川へ候夫も書の値により候僻へば

針を棒に云ひなすは虚の虚なり霧を締とするは虚の実なり棒を棒

にして削りて途ふは実の虚なり棒を棒にて遣ふは実の実なり都て

小説は霧を棒にて造ふ膿にて然るくし﹂

と群えたという鞭である︒この戯作論は戯作界に関する限りでは源

内が鴫えはじめたものと考えられるが︑それが森羅万象を経て三鴎

に伝わっている点が据滴Ⅲ来るのである︒

I

(12)

27

三鵬自身の生活を考えた場合︑可戯作Lと﹁売薬店Lの経蛍とが

問題になるが︑戯作の執兼は三嶋の生業であって︑彼の人生は戯作

と切離しては考えられない︒勿論︑仙方延野丹売薬店の姪岱は︑や

がて彼の瑛巣として実子・式亭小三期︵虎之助︶に伝えられる斌大

な仕塀であったが︑それさえ﹁⁝⁝⁝且脱の三鴎が売薬をもて︑家

をおこしたるは︑戯作の虚塩によりて也︑か上ればその後子の三脇

も亦戯作をもて枇に知られなほ共蕊店もおとろへず・・・⁝⁝﹂︵作者

部煎︶という鰐琴の評言が明かにしている様に﹁戯作の虚名Lと﹁

売薬﹂とは一連らなりの仕事で︑戯作者として有名になることが即

ち売薬店の経営の成功を得ることであった︒

三燭が独創になる一︲江戸の水・︸の宣伝の為に刊行された﹁江戸水

幸噺﹂︵合巻・三冊・文化九年刊︶中にも

可.︒⁝⁝.然るに関東筋は式事の取次にて︑浦国へ売出す︑勿論昔︒︒︒◎︒○︒O⑨︒︒cより悶々あまた取次所はあれども︑戯作御ひいきの御恩沢にて︑唖︾︾⑨﹄︒⑥︒○○昔にまさる薬の売尚...⁝⁝L○︒︒○⑥⑥ご仁⑥p︒︒︒◎可.⁝・・・・・戯作の御ひいき強き御蔭にて︑御邸の御女中雛方は︑別 馬の可日本一痴鑑﹂︵三冊・卒和元年刊︶及び司打抑弾﹂︵合巻・一冊・文化六年刊︶に於て棋倣されているし︑また前述の鮫に寛政六年刊のユ賜作﹁人Ⅲ一心覗将縦﹄もその前年に出た全天作﹁十四傾城服之内Lの影窯を受けたものとみられる︒

更に寛政九年には全交追響のた砂﹁芝全交夢寓齊Lを刊行してい

*油

チ︽︾︒

して御押ばんよろしく︑御懇意械方へ御吹聴遊ばす故︑いよノー

江戸の水j︑と大押判.⁝⁝..﹂︵傍点蛾蒋︶︒

と肥して勝り︑三期に於ける﹁戯作Lと﹁充漿Lの関係が知られる

が︑更に︑本寄巻頭には﹁江戸の水Lの瀦板を掲俄し︑その説明と

して﹁江戸町ノ︑ゑさうし店小間物店又は鬮卜︑にいたるまで此か

んばん差出し有之侯もとよりよろしき方にて御もとめ可被下候Lと

あり︑﹁ゑさうし店﹂﹁小間物店Lと﹁売薬業Lとの親近性が感じ

られる︒

前述の通り︑三馬の伝記を管見すれば︑三馬自身及び親族を含め

て﹁番蠅﹂業と深い関係を打する郡が知られるのであり︑特に三燭

は書林万屋太治右衛門を去って以後︑文化三年群の出火に樅るまで︑

側木柵十九文柵町で古本噸を商う小店︵戯作六家撰︶を開き︑その

剛から戯作を始めているのである︒

彼の求業となった︑仙方延寿丹売莱府Lは文化七年十二川︵式事

雑記︶に始められたとしても︑﹁戯作Lと司商圭鈩とを一巡りとし

た彼の生活の仕方はすでに戯作開始の頃に出来上っていたと考えら

れる︒

この様な生き方は︑山東京伝にその身近な前例を見出すことが出

来る︒即ち︑前述の通り︑寛政二年の秋に司草隻紙の作は世を渡る

家業ありてかたはらになぐさみにすべき物﹂︵蜘蛛の糸巻︶と鴻琴

に教えた京伝は寛政三年︑官の将めを受け︵前出︶たが︑翌寛政四

年夏斗但典溌業なきをもて︑遮に生涯の媒をなさむと欲してL︵伊

波仏毛乃紀︶両国柳橘万八楼に於て︑番伽会を典行し︑その収納金に

僧財を加へて︑寛政五年春︑京橋銀麗一丁目に紙烟草入煙禰店を開

(13)

いた︒

この求伍店売出しの脱帖︵町々へ配った広告文・寛政六年︶に

﹄︲⁝⁝.・・扱又泓方の粟腿を委尋恭るに︑店は商人心は阻粁︑密く

手は総帥のごとくにて︑鴫郷は作将に似たり.⁝⁝・・﹂

と挨拶しているのが注胤されるが︑この繊な状態はまた三蝿にもそ

のまま当恢ると考えられるのである︒

ただ︑この時三十三歳の京伝には︑すでに草隻子画工・作者とし

ての長い閲歴と独檀場を得た酒落本界での華かな活動の経験があっ

た︒天明期文壇に於けるこの偉才の活遜に︑我々はやがて職業とし

て成立した戯作者の始机としての摸索と縞歴をみうると同時に︑・寛

政源年に於て﹁京伝店﹂という形で定まった彼の生活の姿に︑初代

の所捌︑戯作打Lとしての完成された生活態度を見出すのである︒

天明期迄の錐愛紙作肴を考える時︑その遊戯的・趣味的態度に於

て﹁⁝⁝⁝肚に求莱ありて傍らに慰みにすべき物なり︑今時崎る作

粁特然り⁝⁝⁝﹂︵前川︶という求伍の発訂が思い合される︒その

場合︑可三十九蟻に蕊るまで京伝は米穀の位を知らず︒⁝..⁝﹂︵伊

波伝毛乃迅︶という悶琴の宮葉によって京伝の宿裕な現遇が察せら

れるとすれば︑少くとも﹁慰みLに戯作をなしたという意味で︑彼

自身をも︑またこの﹁今時鳴る作者﹂の中に含めて言ったものと解

せられる︒

その駿な京伍が再度の特めに逢い︑己の生き方を自覚した時可⁝

⁝・・・産裳なきをもて︑遂に生涯の謀をなさむと欲して﹂︵前出︶撰

んだのが紙烟草入煙脅店であった︒以後︑この商売と﹁戯作Lの執

旅との両村一連らなりの生活が定まって行くのであって︑ここに我

証一 式亭雑砲・巻頭・文化七年︵一八一○︶脹午六月の条に︑三十八文見せLという商売の流行の棋棟が述べられている︒四シ辻︑橘拙などにむしろを敷いた店を柵えて小冊物類を鰐天に並べ︑三十八文均一の価で商ったのがそれで︑その売斑に﹁なんでもかでもよりど

*Wって三十八文あぶりこでもかな綱でも三十八文.⁝・⁝・京伝でも三鰐

でもよりどって三十八文云々﹂とあるので︑立寄ってみたところ︑

三年以前からの古板になった絵盤紙d合巻の聯であった︒これは隻

紙問屋のばらし物を仕入れて侭いて︑小間物問屋からおろし売りし

たものだ︑と三脇は税明している︒

この穂の店に耽いては︑文化八年末の三川の条にも氾維されてい

て︑可十九文十八文︑或は十三文十二文など大安光の商人﹂︵式事

雑紀︶が多く出来たとあるが︑この鵬が一つの新らしい商売であり︑

然もその販売品の中に︑司令巻懲ざうしを枇に流行させしは︑予が

一生の祥と忠へば老後の忠ひ川いさぎよく侍り﹂︵同雑記︶という

誇り高い自作の合巻維鎚紙の古板が求伝の作と並べてあったので︑

是非共︑巻頭に記して綴く必要があったのであろう︒

寛政六年刊の黄表紙﹁天道浮世山里操Lに始まる三蝿の文燕活動

も以後︑黄表紙・酒落本・滑穂本・合巻・読本と時流に乗って展開

され︑この文化八年頃には江戸の文壇に確間たる地位を確立してい

たと判断される︒

右の式事雑記の妃鞭は︑敢て想像を附け加えれば︑かつて古木願を

商った経験︵前出︶を持つ三脇が︑熟知した通の新商売を︑この文 々は三馬の生活の前例を見出し得るのである︒

(14)

I

化八年当塒の戯作界の成功背としての塊地で肥したもので︑彼れの

戯作活動の喪而を端的に僻っているのである︒

馬琴の三照に対する評細は低かったが︑﹁手逃は搾信にて拙から

ず︑画は学ばざれども頗る出来者たり︑学問はなけれども才子なれば

自序などを綴るに能く故事を取まはして︑漢学者の如く思はれたりL

︵作者部類︶とか︑また﹁然れども其才狂歌には足らざりけるに

や︑聞えたる秀逸は一首もなし︑まして狂詩などは作り得ず︑俳諮

の発句すらせざりし歎︑一句だも兄たることあらず︑か入れば純粋

の戯作将也︑明の州薙制が所州才子杏を鮠ざるの畑なるべし︐﹄︵作

考部類︶と︑三鰐が才子である点を柵棚している点が注脚される︒

三馬の実子・式亭小三鰯に対しても﹁忠ふに京伝京山は兄弟にて︑

共に戯作に名た又るすら珍しき事なるに三鴎は二世の戯作者也︑

抑いかなる因果ぞや︑是前代未聞の奇事ならずや︑︒⁝⁝:後の三

馬を知らず︑いまだ其戯作を兇ざれども必是才子なるくしさはれ年

猫わかければにや︑一秘も戯作に尤けきものなく︑出監の祥れある

よしを聞く小を得ざるのみL︵作者部類︶と︑皮肉な擬凋の巾にも

﹁才子Lを強蝿しているのである︒

学問はないが才子である︑純粋の戯作者︒つまり戯作だけの人で

ある︑という鳩琴の評言は︑本来︑身分も満く︑学問・教養を修め

た人々の余技としての慰みであった﹁戯作Lの本質を考えた場合︑

正しく酷押であった︒

確かに︑三鯛が秩序だった学問・教誕を修めた形跡はなかったが︑

然し︑書も画も狂歌も狂文も巧妙にこなし︑そしてこの期の﹁戯作L

に於てはそれ丈で充分であった︒﹁戯作垂智としてもそれ丈で不便 は感ぜられなかった︒

そして︑これらの鞭を三卿が充分に自覚して鵬た戦は︑例えば

﹁⁝⁝⁝戯作者の素意はさるむづかしきものにあらず貴君今より

戯作をなして心を慰んとのおもひあらば源氏一部の諦釈をもらさ

ず聡にも及ばず源氏のことも水溌伝の事もすこしづ土間はづりし

ことあらは似つこらしきことをとりなして知たるふりに書んこそ

戯作者の専らとする所なれば⁝⁝⁝戯作者の服といふものはたx

腿台店の売物にひとしく手褒劒うちたる牌肺子蒐哨のⅢ楽もⅢは

ぜもなんでも凹文四文とり雑ておかんこそ本怠なれ⁝⁝L︵戯作

六京撰︶

と語ったと伝えられているところによって明腺である︒

裕福な町家に育ち︑多彩な趣味生活の中に盤かな數祷を身につけ

る駿会に恵まれた山東京伝や︑元々武家の出身で武士としての修養

を修め︑京伝によって戯作界へ登場した沌沢周琴と三燭を核べてみ

る時︑我々も亦︑馬琴が︑多分その誇り商い自らの学問と修餐の上

に立って酷群する﹃純粋の戯作稀L︵前出︶なる式亭三蝿を兇川す

のである︒

そして︑三鳩以後︑この微な︷純粋の戯作者Lが紬川しやがて文

域の大勢を占めるのであってみれば︑我々は三馬という人間︒及び

その可戯作者Lとしての生活態度に京伝や鴎琴︑Iそれ以前の戯作

者は勿論であるがlに見られない新しさをこそ認むくきであり︑

そして︑その三蝿の新らしさこそが︑﹁純粋の戯作春﹂︵前出︶と

して馬琴に軽侮されながらも後代にI場合によっては︑馬琴自身

*鴫に対してさえl大きい影轡を与えたとガえるのが班しいであろう︒

(15)
(16)
(17)

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