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中国語にはなぜ二種類の疑問文があるか?* 「日曜言語学」のすすめ(その2)

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(1)

「日曜言語学」のすすめ(その2)

藤井 文男

Abstract

The interrelationship between the two types of di面uncUve question in Manda血 Chinese is investigated from both synchronic and diachronic points of view.

Applying fundamental structural principles consequently, it is pointed out that the both types represent two allomo叩hic constnlctions of one and the same syntactic

mechanism, both functionally as well as stnlcturally. It is, thus, not at all surprising

that they are not co−occurrent with each other in one and the same sentential COnStrUCtiOn.

Furthermore, it is programmatically argued that language might be char一 acterised as a kind of biological entity in the sense that it is always trying to compensate organs loosing their productivity with an innovation in order to keep the whole organism functionally in tacし

1.発端  最初の疑問(共起しない疑問のマーカー)

中国語に於いて平叙文から対応する疑問文を導くには,出発点となる平叙文の文末に,中国 語文法で「語気詞」と呼ばれる品詞に属し,いわゆる 疑問の助辞 として機能する「嘱?」

を付する:

(1)a.張三買書。      張三は本を買います。

b.張三買書嘱?     張三は本を買いますか? (「終助詞疑問」;(≠2b)

この文法的オペレーションを施した結果,出発点となる平叙文にはなかった表現が現われ,

純粋に「鳴?」によってのみ「疑問文」という文法のカテゴリーがマークされることから,機 能的には日本語に於いて疑問文が疑問の終助詞「か?」によって導かれるのと同じ現象だと考 えていい。

中国語にはしかしながら,こうした 終助詞疑問 とは異質のメカニズムによる,別個の 文法的オペレーションが,やはり平叙文から対応する疑問文を導く手段として存在する:

(2)a.張三買  書。    張三は本を買います。  (ニ1a)

b.張三買不買書?    張三は本を買いますか? (「選択疑問」;41b)

『人文学科論集』33,pp.67−88.      ◎2000茨城大学人文学部(人文学部紀要)

(2)

機能的には,肯定表現と否定表現を質問者が並べて述べ,相手にどちらかを選ばせる,とい う「選択疑問」の形をとる,ある意味では極めて一般的な疑問文の形式だが,出発点となる 平叙文の動詞が否定の助辞である「不」を介して反復されるところから,中国語の学校文法 などでは「反復疑問」とも呼ばれるものである。

ここで,(2b)に於いて 動詞が否定の助辞である「不」を介して反復される としたが,

これは既に「言語学的解釈」の領域に属するものであり,純粋に理論的な観点からは, 平叙 文の動詞に「不買」という疑問の助辞が付加される ,と捉えることも当然ながら可能ではあ

る。しかしながら,そうした解釈が説得力を持たないものであることは,単に常識的にそう 考えられるだけでなく,次の例のように具体的に反例が挙げられることから,理論的に排除 されるべき筋合いのものであることを確認しておくことは,言語学を経験科学として捉える 上で,言語学に関する方法論上,すなわち科学論的には極めて重要な意味を持つ,と言わね

ばなるまい:

(3)a.張三費  書。   張三は本を売ります。      ●

b.*張三費不買書?   ( 張三は本を売りますか? )   ((≠2b)    ■

c.張三責不責書?    張三は本を売りますか?    ((ゾ3b)    ●       o

確かに,この例では正に 常識的 に動詞が反復されていることが判るが,中国語に於いて,

(1)で挙げたような,藤井(1997)で言うところの particulary operation が平叙文から疑問文 を導く統辞原則の根幹だとすれば,やはり(2)に於いても「不買」は否定の形で 反復 さ れた動詞ではなく,新たに 付加 されることにより,偏に「疑問」をマークする,文法上 のマーカーであると捉えること自体,理論的には全く整合性を欠くものではあり得ない。

さて,中国語にはこのように二種類の疑問文が存在することが判ったわけだが,この二種 類の疑問文はお互いにどのような関係にあるのだろうか?結論的に言うと,両者は一種の

free variations と見なしていいように思う。英語やドイツ語・フランス語などのヨーロッパ 系の言語では,ここで問題にしている「選択疑問文」に対しては,Yes!/No!やこれに相当す

る,一般に「副詞」として品詞分類される語彙によって答えるのが一・般的であり,日本語な どでも「はい」「いいえ」で答えられなくもないが,日本語ではどちらかと言うと,疑問文で 提示された動詞を肯定か否定の形で反復する方法も,疑問文に対する応答文としてある種の 普遍的な統辞原則に叶ったものであることを感じるのは,何も筆者だけではあるまい。

この点に関し,中国語は日本語以上に後者の統辞原則に対して忠実に反応し,肯定の答で も否定の答でもほとんど例外なく,疑問文で用いられる動詞を,他動詞の場合は目的語を切

り離すことによって反復する:

(3)

(4)A:張三買書囑?     張三は本を買いますか?     (=1b)

B:買。         はい,買います。        (ニ5B)

B :不買。        いいえ,買いません。      (=5Bり

英語のyes/no,日本語の「はい」「いいえ」に相当する「是」「不是」という表現もなくはな いのだが,そもそも「是」自体,英語のbe動詞に相当する繋辞であって,品詞としては同様 に「動詞」と見なされ,疑問文が名詞構文以外の時の応答としてはあまり一般ではない。

いわゆる「反復疑問」に対しても,応答の方法は全く同じである:

(5)A:張三買不買書?    張三は本を買いますか?     (=2b)

B:買。         はい,買います。        (ニ4B)

B :不買。        いいえ,買いません。      (=4Bり

このことは何を意味するか?もちろんのこと,答え方が同じだからといって疑問文自体が同 義であることが理論的に100%保証されるわけではないが,全く同じコンテクストで(4A)が

(5A)とinterchangeableであり,その答え方までが同じであることを勘案すれば,両方の疑問 文自体,互いに free variation の関係にあることを推論するのは,至って自然なものと言え るのではないだろうか?確かに,微妙な点で両者に違いの出るコンテクストが存在すること は確認されているが((∫LゴTHOMPSON l 979),少なくとも我々が以下で問題にする範囲内で は,両方の疑問文は同義であると捉えておいても理論的に支障を生ずることはないはずであ

る。

さて,上で触れた中国語の「反復疑問」だが,その答え方が肯定か否定の動詞であること を考えると,疑問文自体がその両者を抱合することから,ある意味では疑問文の プロト・

タイプ と捉えられなくはない。中国語は,その意味でこの統辞原則に非常に忠実たらんと する言語のように見えるわけだが,実はこの種の「反復疑問」は,何も中国語の 専売特許 ではない。英語などに於ける,いわゆる Tag QuestiOlf と呼ばれる構文も,多少は構造上の 差異を示すが,基本的には肯定と否定を同一の疑問文で重ねているわけだし,日本語ではあ

る意味で中国語と全く同様に動詞の肯定形と否定形を並べて相手にどちらかを選択させる疑 問文が活用される。すなわち,いわゆる「終助詞疑問」の:

(6)a.太郎は本を買います。      ((ヅla)

b.太郎は本を買いますか?       (41b)

の他に,単なる(2a)の構造的な模倣である:

(4)

(7)a.太郎は本を買います。       ((≠2a)

b.?太郎は本を買います,買いません?         (42b)

自体は若干の問題があるものの:

(8)a.太郎は本を買うの。       ((ヅ2a)

b.太郎は本を買うの買わないの?       (42b)

というふうに言えば,完全に自然な 反復疑問 が導かれる。問題のある(7b)にしても,肯 定と否定の問に少々ポーズをとり,それぞれを上がり調子のイントネーションで発話すれば,

かなり自然な疑問文として理解できるのではないだろうか?更に日本語では,いわゆる「終 助詞疑問」と 反復疑問 という二種類の文法的オペレーションを同時に施しても全く問題

はない:

(9)a.太郎は本を買いますか?       (ニ6b)

b.太郎は本を買います買いません?      (=7b)

c.太郎は本を買いますか買いませんか?         (ニ6b+7b)

確かに,敢えて(9c)のように聞かなくても,(9a)もしくは(9b)だけで十分,疑問の意は伝わ る,ということはあるにしても,(9c)という構文が非文法的である,ということではない。

しかしながら,中国語に於いては,(9c)に相当するはずの(10c)は,単にredundantであ るとかのレベルではなく,完壁に 非文法的 な構文と評価されてしまうのである:

(10)a.張三買書嘱?     張三は本を買いますか?     (=lb)

b.張三買不買書?    張三は本を買いますか?     (=2b)

c.*張三買不買書囑?  ( 張三は本を売りますか? )   (ニlb+2b;(≠9c)

これは,どうしてか?日本語の例からすれば,喩え同機能を導く文法的オペレーションが二 種類の異なったメカニズムを用いたとしても,両者が普遍的に共起不能というわけでは,少

なくとも理論的にはないはずである。確かに,日本語と中国語では文法的に構造が全く異な るわけだから,日本語で可能な共起関係が中国語でも同様に言えるわけではもちろんないが,

具体的に「終助詞疑問」と「反復疑問」が中国語に於いて共起できないのであれぼ,その理

由は必ず文法的・体系的な,日本語(に於ける当該の文法的オペレーション)との構造上の違

いに由来している,と考えられるはずである。少なくとも機能的には,両方のメカニズムは

両言語とも同様のものと認められ,日本語では両者が全く問題なく共起しているからだ。

(5)

以下では,中国語に於ける統辞構造上のこの irregularity の解明を通じ,言語学的言語研 究を理論的に展開するに際して中心的な意味を持つ「経験性」の問題を,科学論的な観点か

らprogrammaticに探ってみたい。

II.混沌(理論化への模索)

構造的な観点からすれば,前節で挙げた(10c)に於いて,いわゆる「終助詞疑問」と「反復 疑問」が共起しないのは,そもそも「疑問の語気詞」というカテゴリー自体が何らかの理由

によって「反復疑問」のメカニズムと共存し得ないのではないか,とするのが最も手近に考 えられる理由かもしれない。

しかしながら,この捉え方が説得力を持つための条件である,上述の「何らかの理由」の 解明を待つまでもなく,問題の「疑問の語気詞」というカテゴリー全体が「反復疑問」とは 共起不能であるとする仮説自体,残念ながら現実のデータからのサポートを受けることがで きないことが容易に判明する。中国語には「嘱?」以外にも「泥?」や「噌?」など数種の疑問 の語気詞があり,言わば 純粋 に「疑問」をマークする「嘱?」とは同じパラダイムを形成 しながらも様々なニュアンスを伝える modality とも言えるカテゴリーをマークするが,次 の例で見るように,問題の「ロ馬?」以外は,懸案の「反復疑問」とは完壁なcompatibilityを示

すのである:1)

(11)a.張三買書。      張三は本を買います。      (ニ1a)

b.張三買書呪?     張三は本を買いますか?     (げ10a, lb)

c.張三買不買書咤?   張三は本を買いますか?     (げ10c)

つまり,語彙上のカテゴリーとしての「疑問の語気詞」全体が問題なのではなく,結局は

「ロ馬?」の持つ,何らかの個別の特性が「反復疑問」との共起上で支障をきたす,と解釈する しかないのである。

いわゆる「反復疑問」と「終助詞疑問」の,中国語に於ける非共起関係についてこれまで議 論してきたわけだが,上でも暗示しておいたように,その原因が構造的なものであるとすれ ば,(10c)に於いて「鳴?」が「不買」と共起できないのは,いわゆる「反復疑問」という構 文は,実は二っの単文が重ねられた後に共通項が部分的に省略された,言わば「複文」とも 言えるものであり,そうした複文構造の何らかの要因が問題の「共起」を妨げているのでは ないか?という推論は十分,考え得るものである。かくなる上は,この種の複文構造は是非

とも吟味しておかねばならない。

(6)

そもそも,問題の「反復疑問」という構文は,ほんとうに肯定否定の両単文を重ね合わせ たものなのか?このこと自体,まだ確認されているわけではないが,作業仮説として,取り あえず 省略 されたと目される目的語を再構してみたい:

(12)a.張三買   不買書? 張三は本を買いますか?       (ニ10b)

b.?張三買書  不買書?( 張三は本を買いますか? )         ((≠12a)

c.張三買書還是不買書? 張三は本を買いますか?それとも買いませんか? (げ12a)

(12b)が示すように,目的語をも反復した場合は(12a)で挙げた 純粋 な「反復疑問」に比 べ,acceptabilityは明らかに下がってしまう。しかし,(12c)のように,日本語の「それとも」

に相当する接続詞「還是」を介すことで,複文  より具体的には主語のみ省略された複文 構造  は再び完全に文法的となるのである。

このことは一体,何を意味するか?接続詞「還是」があれば,(12c)に於いては二つの単文 が連結した複文が生成されている,という解釈は妥当であろうが,接続詞を欠いた(12b)は

複文 であるという確固とした証拠はどこにも存在しない,と理解しなければなるまい。こ のことは,一般に目的語の「書」までが省略されていると解釈される(12a)に於いても同様 であり,両者とも複文ではなく,単文として機能することを物語っていると理解すべきなの ではあるまいか?目的語はだから,(12a)に於いて 省略 されているのではなく,逆に

(12b)が単文であるにも拘わらずに目的語が不必要にも 反復 されているからこそ非文法的 と判断される,と考えられるのである。

このように,いわゆる「反復疑問」が構造上,複文ではなく,対応する「終助詞疑問」と 同様,単なる単文,或いは何らかのメカニズムで 拡張 された単文だとすれば,(10c)の非 文法性を理論的に複文構造とゴ疑問の終助詞」との非親和性に求めるわけにはいかなくなる。

しかしながら,少なくとも日本語に於いては,(9c)の文法性からも窺えるように,問題の

「反復疑問」に複文的要素を認めざるを得ないなど,この解釈を完全に無視するわけにもいか ないので,以下では念のため,中国語に於ける複文構造と「反復疑問」の関係をもう一度,

洗い直してみたい。

(12c)で見たように,複文構造に於いて目的語が反復されても,接続詞「還是」が両方の単

文の間に挿入されれば文法性は損なわれなかった。では,その状態で疑問の終助詞「囑?」が

付加されたらどうなるか?我々の議論の出発点となった,接続詞「還是」を欠く(10c)では

無論,非文法的となるが,接続詞が存在する場合でも「反復疑問」は次の例のように,いず

れも完全には文法的とならない:

(7)

(13)a.*張三買    不買書嘱?   (=10c)

b.?張三買書嘱還是不買書囑?   ((≠13a)

c.*張三買  還是不買書鳴?   (413a)

それどころか,日本語では完全に文法的だった(9c)に構造的には完壁に対応するはずの

(13b)も100%文法的とはならない。常識的に考えれば,それぞれの単文が文法的なのであれ ば,両者を並列の接続詞で連結した複文は,日本語の場合と同じように,多少は回りくどい 言い方になりはしても,自動的に文法的になって然るべきはずである。一体,どうなってい るのか?もちろんのこと,(10c)のように,疑問の終助詞を否定形の部分のにみ付加した言い 方は日本語に於いても:

(14)a.*太郎は本を買います買いませんか?

b.*張三買不買書鳴?

非文法的となるのに対し,日本語では文法的に問題の残る,疑問の終助詞が前半の単文にの み付加された複文では:

(15)a.?太郎は本を買いますか買いません? ((≠15b)

b.張三買書鳴還是不買(書)?     (全15a)

のように,目的語が省略されようがされまいが,対応する中国語では完全に文法的となるの である。このことは,問題の「鳴?」が,日本語の「か?」などと同様,構造的には「終助 詞」であることからしても,極めて特異な現象としなければなるまい。

こうして,中国語に於ける「終助詞疑問」と「反復疑問」の共起関係の問題は,複文構造 に関しての議論を中心に,ますます混迷の度を深めていく。この混沌から,我々は如何にし て抜け出れば良いのか?

lll.「現場百遍」  基本に忠実に(構造上の「等価」とは?)

「現場百遍」とは,未解決の犯罪を解く鍵は必ずその犯罪現場に何らかの形で残されているも

のであり,その鍵を読み解くためには何度でも現場に足を運び,犯罪捜査の基本に立ち返っ

て問題点を一つひとつ洗い出していくことを言って,捜査に携わる現場の刑事にとっての鉄

則なのだそうだ。如何に巧妙に仕組まれた犯罪とて,所詮は人間の所作。理に叶わない超自

然的な現象であるはずがなく,時間はかかるにしても手がかりを一一つひとつ積み上げていく

(8)

ことにより,その犯罪の全貌は必ず浮かび上がってくるはずだ,ということなのだろう。

だとしたら,特定の言語現象の示すコトバの謎についても同じことが言えるのではないだ ろうか?一見,どんなに不可思議に見える言語現象であれ,如何なる自然言語であっても intersubjective speech communicationの手段として機能する,という 普遍的 な特質と,最 終的にはlinearlisationという,やはり 普遍的 な制約の下で体系化された構造を持っこと から,我々にとって言語学が経験科学である以上,それは当然のことなのかもしれない。要 は,何事も「基本に忠実に」ということなのだと思う。

上で問題にしてきた,中国語に於ける「終助詞疑問」と「反復疑問」の非共起性,具体的 には,(10a)と(10b)とが共に文法的なのにも拘わらず,両方のメカニズムが並立する(10c)

はなぜ非文法的になってしまうのか,という統辞現象上の 謎 に遭遇した時,真っ先に脳 裏をよぎる 解決法 は,単にLつの文中に,ふたつの同機能の文法的オペレーションは 必要ではないのではないか?」という,正に直感的とも言える,ごく 自然 な発想だった。

しかも,単に両方のメカニズムの共存が「必要ない」ということと,それが文法的に「禁止 されている」ということの根本的な違いから,(10c)の非文法性を理論的に解明するには,最 終的には両メカニズムの共起は,中国語に於いては文法体系の根幹からして,つまり「構造 的」に禁止されている,ということを証明しなければならないものであることを我々は確認 してきている。我々にとって「基本に忠実になる」ということは,こうした認識を出発点に して 謎 の解明をはかる,ということなのではないだろうか?具体的にはだから,(10c)に 於ける疑問の終助詞「囑?」と「不買」が 構造的に「等価」である ということを理論的に 証明すればいいことになる。

この両者が,単に「疑問文をマークする」という 機能上 のみならず,真に 構造的 に「等価」なのであれば,当然ながら両方を構文上で入れ換えても同様に文法的になるはず である。つまり:

(16)a.張三買  書鳴?   張三は本を買いますか?     (=lb)

b.張三買不買書?    張三は本を買いますか?     (ニ2b)

という,両方のメカニズムが単独に用いられている二つの文で,例えば疑問の終助詞「嘱」

の位置に機能的には等価関係の明白な「不買」を置いても,結果として生成される文は「鳴」

の場合と同様に文法的になって然るべきである:

(17)a.張三買  書嘱?   張三は本を買いますか?     (ニ16a)

b.張三買  書不買?  張三は本を買いますか?     (417a)

我々の予想は,(17a−b)で示されるように,正に的中する。すなわち,疑問の終助詞「嘱」と

(9)

機能的 に等価関係にある「不買」は,やはり 構造的 にも,つまり 文法的 にも等 価であることがこれで確かめられるのである。ということは,構造主義言語学の基礎的教え によれば,疑問文をマークする形態素は「ロ馬」と「不買」という二つの 異形態 を持っ,

ということになるわけだ。つまり,異形態は同一コンテクストでは出現し得ない、という理 由から(10c)は非文法的となる,と説明できることになる。

取りあえず,これでL件落着」となるはずだが,問題の「鳴」と「不買」がほんとうに 構造的 に「等価」なのだとすれば,(17)とは逆に「不買」の位置に「嘱」を配置した場 合にも,同様に文法的にならなければならないはずである。我々の懸案の「謎」には既に

結果 が出ているので問題は片づいているわけだが,念には念を入れて,この点についても ハッキリさせておきたい。

ところが,この操作を施すと:

(18)a.張三買不買書?    張三は本を買いますか?     (=16b)

b.*張三買囑 書?   ( 張三は本を買いますか? )   (げ18a)

というように,(17)からの予想は完全に裏切られ,結果は完壁な非文法的な文となってしま う。ということは,(10c)に於いて「囑」と「不買」が共起しないという言語事実を 説明 する理論を構築するために設定した,問題の両表現が構造的に等価である,とする我々の

「仮説」自体,修正を余儀なくされている,ということになってしまうのだろうか?

ここで我々は,理論構築上の岐路に立たされる:ひとっは,問題の仮説を放棄し,最初か ら新たな仮説を立て直す方法。そしてもうひとつは,具体的に(18b)が非文法的となるのは,

問題の「ロ馬」と「不買」が構造的に等価でないからではなく,これから特定すべき何らかの 別の要因のよるものと想定し,既存の仮説を救おうとする方針、となろう。そして,我々の 先ず進むべき道が,この問題の場合,理論的に後者となること,何ぴとたりとも異論はある まい。喩え(18b)の非文法性の理由を別途,特定しなければならないにしても,前者の場合 は逆に,(18a)の文法性を既存の仮説に頼ることなく説明できなければならない,という責任 から免除されることがないだけでなく,加えて(10c)の非文法性に対する理論を支える仮説を 新たに立てなければならないからである。常識的に考えても,こうした新たな道を探るのは,

最初に立てた仮説に基づく理論が完全に活路を見失った時点になってからでも遅すぎること はないはずだ。

こうして,我々の進むべき方向が固まり,差し当たっては「鳴」=「不買」という,構造的

な等価関係を前提とする仮説を堅持することになったわけだが,疑問の終助詞「鳴」は,い

わゆるparticulary operationを施す手段として機i能するわけだから,出発点となる平叙文が如

何なるものであってもinvariantであるのに対して,出発点となる平叙文に使われる動詞を否

定形にした「不買」は,どんな平叙文が対応する疑問文を導く際のinputとして用いられるか

(10)

によって当然ながら変化し得るものである。にも拘わらず,問題の「嘱」=「不買」という関 係が満たされると言うことは,一体どういうことなのだろうか?

数学的に考えれば,否定の助辞である「不」は何れにしてもinvariantであることから,上 の等式が成り立つ条件は,可変の動詞表現が機能・構造的にゼロに等しいとき,即ちあって もなくても何ら意味を持たないこと,ということになる。ならば,いっそのこと,動詞表現

「買」を(17b)から切り取ってしまったらどうか?すると何と:

(19)a.張三買書囑?     張三は本を買いますか?     (=lb)

b.張三買書不?     張三は本を買いますか?    ((≠17b,19a)

文末に「不」だけを付した文も,疑問文として完壁に成り立つのだ。つまり,文末の「不」

も「鳴」と同様,疑問の助辞として機能する,ということが判るのである。その意味で,以 下の3文は機能上,言わぼ 同義 であって,いわゆる free variations の関係にあること

になる:

(20)a.張三買不買書?    張三は本を買いますか?     (ニ2b)

b.張三買  書不買?  張三は本を買いますか?     (=17b)

c.張三買  書不φ?  張三は本を買いますか?     ((ヅ20b)

この三種の疑問文の分布を歴史的・方言上の観点から探ってみると,具体的には(20a)が口 語・書面語ともいちばん新しく,次に(20b)が続き,(20c)は標準語では口語表現としては多 少archaicな響きを持ちながらも書面語としては一般的ではなく,どちらかと言うと 俗語 に近い文体とされる。っまり,我々が問題にしてきた「反復疑問」のプロト・タイプは

(20c)であり,現代語,特に今世紀になって全土に普及した「國語」もしくは解放後の「普通 話」と呼ばれる標準語で一・般的な(20a)は,文末の「不」に出発点となる平叙文の動詞表現 をそのまま文末でコピーした(20b)を経由して成立したもの,というふうに理解することが できるのである。

では,こうした言語変化の背景となるのは何か?ここではやはり,ある程度は想像を逞し くしてspeculationを試みるしかない:(20c)から(20b)の 動詞コピー は,文末に於ける

「不」が如何に構造的には「疑問の助辞」として機能していても,その原義である「否定の副 詞」であるという 原義 が失われたことはなかった,ということに尽きるのではないか?

実際,殿・周の甲骨文の昔から春秋戦国の上古漢語の時代,下っては六朝・階唐の中古漢語 を経て近代現代語に至るまで,口頭語書面語を問わず「不」は一貫して否定の副詞として極 めて安定した機能を示し,常に後続する動詞と共に用いられ続けてきた。時代と共に「虚字」

と呼ぼれる文法表現が目まぐるしく変遷を遂げるのが中国語語法の一一般的特徴であることを

(11)

鑑みれば,否定の副詞「不」の安定性は正に特筆に価するかもしれない。とすれば,喩え

「反復疑問」のプロト・タイプが(20c)のような単一で文末に用いられた「不」だったとして も,それがやがては動詞表現を従えるようになっても,その際だった 副詞性 からして一 向に不思議ではない。

しかしながら,文末で「疑問の終助詞」的機能を果たすのが「不」だけでなく,動詞を 伴った「不買」のような複合表現となると,ここにひとつの大きな動きが起こる:問題の

「不買」は語彙のカテゴリーからすると,もはや虚字ではなく,れっきとした 動詞句 とい う解釈が成り立つのである。そして,中国語に於いては,動詞(句)の定位置は文末ではなく 古来より目的語の直前なのである。特定の「虚字」あるいは 文法的機能語 として文末に 現われる表現は,その 素材 が動詞表現であって,文中の動詞表現と密接な関係を保つも のは,ほとんど例外なく(本)動詞に引き寄せられる,というのが中古漢語以来,中国語の 様々な方言を包み込んだ大きなdriftの波だった。このdriftに 巻き込まれ て発生したの が,(20a)というinnovationである:

(21)乱 張三買  書不買?  張三は本を買いますか?    (=20b)

b.張三買不買書?    張三は本を買いますか?     (ニ20a)

繰り返すが,このdriftに引き込まれたのは動詞表現だけであって,しかも例外がない。だか ら,文末で 疑問の助辞 として機能するようになった否定の 副詞 「不」も,本文からコ ピーされた動詞を従えて,最終的に全体のカテゴリーが 動詞 と判断されるようになって 初めてadvanceしたのであって,例外的ないくつかの方言を除けば否定の 副詞 「不」が単 独で目的語に前置されることはない:2)

(22)a.張三買  書不?   張三は本を買いますか?     (ニ20c)

b.*張三買不 書?   ( 張三は本を買いますか? )   (げ18b)

逆に,中古漢語までに文末に出現した表現が動詞成分であれば,上でも暗示したように,

近代漢語の時期までにその文法的機能の如何に依らずに目的語に前置されるようになるのが 問題のdriftだから,そうした例は枚挙に逞がない:例えば,文末で 完了のマーカー とし    て機能していた(古典語の)「 」を代替する形で登場した「了」は,最初は無論,文末に現

われるが,そもそも動詞表現である「了」は中古漢語から近代漢語への移行期に問題のdrift に遭遇し,現代語に於いては基本的に本動詞の 語尾 として機能する:

(23)a.†張三買 那本書了。  張三はその本を買いました。   (421a)

b.張三買了那本書。   張三はその本を買いました。   ((≠21b)

(12)

また,現代語では一種の 派生語尾 として機能し,非常に生産的な動詞表現も,中古漢語 ではやはり文末に位置していた:

(24)a.†張三焼那本書悼。  張三はその本を焼き捨てた。   (421a,23a)

b.張三焼悼那本書。   張三はその本を焼き捨てた。   (421b,23b)

こうした観点からすれば,なぜ(18b)に於ける「不買」を「嘱」で代替した(18b)が非文法 的となるのか,ほぼ明らかになったと見ていいだろう:

(25)a.張三買 書囑?    張三は本を買いますか?     (=lb)

b.*張三買嘱書?    ( 張三は本を買いますか? )   (=18b;(≠22b)

つまり,疑問の語気詞「嘱?」は「終助詞」なのであって,問題のdnftに遭遇する可能性の ある「動詞」では,そもそも最初からないのである。ということは即ち,(18b)が非文法的で あること自体,構造的に「鳴」=「不(買)」が成り立っ,という仮説に対する反例とはならな い,ということに他ならない。

ここで,これまでの議論から導かれた認識をまとめてみたい:

中国語に於いて,いわゆる「反復疑問」と「終助詞疑問」の両メカニズムは共起することが ないが,その理由として,構造的に「嘱」=「不(買)」という等価関係が存在する,という仮 説を立てる。つまり,文法のカテゴリーとしての「疑問」をマークする単一の形態素に属す,

二っの 異形態 である「鳴」と「不(買)」が同時に同一コンテクストで現われていること が(18b)が非文法的となる理由である,と捉えるのである。

本節「現場百遍」では,言語分析の基本的手法に忠実になることにより,一見すると無脈 絡であるかのように見える二種類の疑問のマーカー「口馬」「不(買)」の間に 異形態 という 関係を仮説することで,(10c)で挙げたような,一種の統辞論的irregularityを解明する道筋 を確認することができた。ここまでホシを追いっめれば,あと打つ手はただひとつ,疑問文 の文末で 疑問のマーカー として機能する「ロ馬」と「不」が,真に疑問をマークする単一 の形態素に属す 異形態 であることを証明することだけである。

@      マ

lV.急旋回  ジキル博士とハイド氏(「囑」の正体を追って)

我々は,中国語文法に於ける「ジキル博士とハイド氏」の正体を追い求めている。疑問の終

助詞としての「鳴」と「不」は,ほんとうに同一・の形態素に属す二つの 異形態 なのだろ

(13)

うか?上でも確認したように,正に終助詞の典型でもあるような「口馬?」,今だに副詞として のカテゴリー性を色濃く示す,否定の助辞としては極めて安定した「不」。単に 品詞 とし ての属性の違いを越え,視野を周辺の統辞現象に広げれば広げるほど,以下でも触れるよう に両者の隔たりは大きく見えるようである。

比較対照するのは次の:

(26)a.張三買書鳴?     張三は本を買いますか?     (ニ1b)

b.張三買書不?     張三は本を買いますか?     (ニ20c)

であるが,このペアーだけをいくらジッと眺めていても解決策は見出だせまい。上でも暗示 したように,現代語では語気詞の代名詞とも言える疑問の終助詞「嘱?」は,その正書法的 grapheme自体がそもそも人工的な所作の産物であり,解放後の文字改革まで「噺」「歴」な

ど様々な表記がなされており,現在でも共和国以外の華人社会では未だもって統一的な正書 法は存在しない。結局,どの表記を用いても意図されているのは疑問をマークする{ma}と いう形態であって,現代語だけからはその語彙的語源を推察することはできない。

中古からの文献に依れば,{ma}の前身は「無」であることが明らかになる。つまり,現代 語の(26a−b)に対応する中古語の形態は:

(27)a.†張三買書無?     張三は本を買いますか?     (426a)

b.†張三買書不?     張三は本を買いますか?     (426b)

ということになるわけである。文末に於いて疑問の終助詞として機能する「無」と「不」。も う,お判りだろう_。現代語では縁もゆかりもないような顔をして 無関係 を装ってはい るが,その昔,疑問の終助詞「嘱」も,反復疑問のマーカーである「不」と同様,ある意味 では典型的な「否定の助辞」だったのだ。つまり,現代語に於ける「終助詞疑問」v∫.「反復 疑問」といった対立など存在せず,疑問文とは即ち「反復疑問」そのものだったのである。

もちろんのこと,こうした「(反復)疑問」のマーカーが,古典語の「邪?」や「耶?」を置 き換えるような形で登場したことは想像に難くない:

(28)a.†張三買書邪?     張三は本を買いますか?     ((≠27a−b)

b.†張三買書耶?     張三は本を買いますか?     (427a−b)

そしてだからこそ,これらの否定の助辞はまず最初,語気詞の定位置である文末に現われた

のである。

こう考えると,いわゆる「反復疑問」と「終助詞疑問」の両方のメカニズムが混在する非

(14)

文法的な(10c)は,構造的には次のペアーのいずれかに相当することになる:

(29)a.*†張三買書無不?   ((≠31a−b)

b.*†張三買書不無?   ((ヅ31a−b)

ここで,否定の助辞「無」と「不」は単に機能的のみならず構造的にも当然 等価 という ことになるはずだから,(10c)を発話するということは取りも直さず:

(30)a.*†張三買書無無?   (431a−b)

b.*†張三買書不不?   ((≠31a−b)

を発話することに他ならない。日本語で言えば,さしずめ:

(31)a.*太郎は本を買いますかか?

b.*太郎は本を買うの買わないの,買うの買わないの?

とでも言うことになり,これらが非文法的となるのは常識の域を超えるものではあり得まい。

っまり,前節で我々が立てた仮説から予想されるように,問題の「鳴」と「不」は,やはり 同一の形態素に属する二種類の「異形態」だったことが,これで証明されるのである。

残る問題はただひとつ,では何故,現代語に於いては両者は部分的には全く異なった構造 的コンテクストで現われるのかを究明することであろう。

文末で疑問をマークする「不」が副詞としての特性を堅持したため,後に主文中の動詞表現 をコピーして従えるようになったことは既に述べた:

(32)a.†張三軍書不?     張三は本を買いますか?     (ニ26c)

b.張三買書不買?   張三は本を買いますか?    (=26b)    ●       ●

これに反し,動詞という語彙的カテゴリーの特性から,文末に位置しても統辞法上,安定し た機能性から既に中古の時代には「無」の否定動詞としての語彙的機能を喪失し,言わば

完全 な「疑問の終助詞」として文法化していたと推察される,もう一方の 異形態 の 辿った道筋は,片方の「不」とはおよそ似て似つかないものとなった:

(33)a.†張三買書無?     張三は本を買いますか?    (げ32a)

b.*†張三買書無買?   ( 張三は本を買いますか?)   ((≠32b)    ●       ●

(15)

言うまでもなく,主文中の動詞がコピーされる基盤は元より存在せず,自分自身,既に「疑 問の終助詞」として文法化していることから,上で触れたVV−Contractionとでも呼べるよう なdriftからは外されることになる:

(34)a.*張三軍  書嘱章? ( 張三は本を買いますか? )   ((ヅ21a)

b.*張三軍囑軍書?   ( 張三は本を買いますか? )   (げ21b)

ちなみに,副詞である「不」などに比べ,動詞という語彙的カテゴリーの 文法的安定度 は,例えば次のように上で問題にしてきた領域とは別の現象からも窺い知ることができる:

「張三買書鳴?」という疑問文に対しては:

(35)a.買。         はい,買います。        (436a)

b.?買書。      ( はい,本を買います。 )   ((≠35a)

のように,肯定では動詞だけを答えるのが普通で,通常は目的語は省略され,否定でも同様 に動詞だけが繰り返されるだけだが:

(36)a.不買。        いいえ,買いません。      ((≠35a)

b.?不買書。      ( いいえ,買いません。 )   ((≠35a,36駕36c)

b.?不φ。       ( いいえ,買いません。 )    ((≠35亀36a,36b)

のように,否定の副詞「不」だけになると,少なくとも書面語では文法性がかなり下がって しまう。3)こうした例も,これまでの議論を側面からサポートする好例と言えよう。

さて,これまでの議論を綜合してみると,出発点となった(10c)の非文法性は,次のス テップで 導かれる ことになる:

(37)a.*†張三買  書無不? (=29a)      ●

b.*†張三軍  書無不買?((≠32b)

c.*†張三買不買書無?  (421b)    ●       ●

d.張三買不買書鳴?  (ニ10c)    ●      o

上で見たように,「疑問をマークする」という意味では(単一の)形態素に属す二種類の 異 形態 「司馬」と「不」を同一のコンテクストで抱合する(37a)はそもそも非文法的である。

(37b)に於いて,文末で疑問の助辞として機能しながらも,元来が副詞である「不」は,主文

中の動詞をコピーして直後に従える。この「不買」は,全体のカテゴリーが動詞であること

(16)

から,上述のdriftに伴い,前進して本動詞「買」の直後に位置する(37c)。既に「疑問の終 助詞」として 文法化 している「無」は,否定動詞という語彙的機能を失っていたことか

ら表記上も「無」と書き表す基盤を欠き,現代では助辞を示す「口篇」と音を示す「馬」と を形声文字的に造字した「鳴」で書き表されるようになるが(37d),理論的にも出発点とな る(37a)が既に非文法的であることから,結果として(37d)自体も非文法的である。

同様に,基底に置かれる「無」と「不」の位置関係が逆になった:

(38)a.*†張三買  書不 無?      (=29a)

b.*†張三買  書不買無?      ((プ32b)    ●      ・

c.*張三買不買書  囑?       (=10c)    ●      ●

も同様に(10c)と全く同じ結果をもたらす(38c)。

これで,我々の 謎 も解明されたわけだが,もうひとつハッキリしなかったのが,いわ ゆる「反復疑問」の否定文に対する対処の仕方であろう:

(39)a.張三 買  書。   張三は本を買います。     (=2a)

b.張三 買不買書?   張三は本を買いますか?     (=2b)

この例が示すように,出発点となる平叙文は「反復疑問」の場合,肯定形しか許容されない ように見える。実際:

(40)a.張三不買書。    張三は本を買いません。   ((≠39a)       ●

b.*張三不買不買書?  (張三は本を買いませんか?)  ((≠39b)     ●      ●

c.*張三不買 買書?  (張三は本を買いませんか?)  ((ヅ39b)     o       ・

のように,出発点が否定文の場合,問題の「反復疑問」は形成できないのが判る。これは,

どう理解したらいいか?この点,いわゆる「終助詞疑問」であれば,こうした問題は一切,

起きない:

(41)a.張三不買書。     張三は本を買いません。    (=40a)

b.張三不買書囑?    張三は本を買いませんか?    ((≠40b−c)

疑問の終助詞「嘱」の 前身 である「無」が,対応する「反復疑問」のマーカーである

「不」と同様に否定の助辞であることを鑑みれば,やはり「嘱」の場合も否定の平叙文に対し

ては疑問文を導けない,と考えるのが自然なのではないだろうか?

(17)

V.大団円   変身 のメカニズム(「鳴」の 文法化 について)

全ては,既に上で触れた「文法化」@㎜aticalisation )という概念に集約されていると思う。

そして実際,既に中古漢語の末期には「無」は疑問の助辞として文法化され,少なくとも文 末に於いては否定の助辞としての機能を失っていたために,否定文に対しても問題なく「疑 問」という文法のカテゴリーをマークできたのだと考えられるのである。つまり,古典語に 於ける疑問の語気詞である「邪?」もしくは「耶?」を,その文法的ステータスを含めて完全 に代替するに至ったのである。我々にとっても馴染みの深い,中国語に於ける疑問の終助詞

「嘱?」が否定文でも問題なく用いられること自体,その 前身 が否定の助辞である「無」

であったことを鑑みれば,本来の 否定詞性 を放棄したと捉えない限り,説明のしようが ないのだ。否定文が Tag Question の一種である中国語の「反復疑問」と共起し得ないこと は,現代中国語に於いても否定の助辞としての機能を保持し続けている「不」を用いた(40b一 c)が非文法的であることからも鮮明に窺い知ることができる。

古来からの否定の助辞であった「無」が中古漢語の時代以降は徐々に生産性を失い,やが ては主に擬古的な表現でしか使われなくなっていった経緯は,何も文末に於ける反復疑問の マーカーとしての用法に限った特殊な現象ではなく,肯定の「有」に対応する,純然たる

「否定の動詞」としても,次第にその地位を「没」に譲り渡していくのである:

(42)a.OC†張三無銭。    張三はお金がありません。

b.MC 張三没銭。    張三はお金がありません。

少なくとも北方方言をベースに確立した現代中国の標準語である「普通話」に於いて,(42a)

は極めてarchaicであり,いずれにしても口語では(42b)が用いられる。こうした 交代劇 の背景に潜むものは何か?

ここでキーワードになるのが,いわゆる「方言分布」ということになるのだと思う。まず,

次の例を見て頂きたい:

(43)a.Pek.張三没銭。    張三はお金がありません。

b.Cant.張三無銭。    張三はお金がありません。

というように,(42a)で示される北京語の現代口語表現では完全に廃れている「無」という所 有を表わす動詞も,広東語のような南方方言では現代口語でも中古漢語と同様,全く問題な く用いることができる。つまり,当時から基本的に変化していないのである。このことは,

文末に於いて「語気詞」のステータスを持ち,反復疑問を導くマーカーとして「無」が用い

られる場合も全く同様であり,後述するように語気詞の表記は正書法的には完全な規範が形

(18)

成されていないことや方言問の完全なる一致も見られないことから簡単には比較できない場 合も多いが,例えば閾南語(福建語・台湾語)のように:

(44)a.Pek.張三  買書鳴? 張三は本を買いますか?

b.Min.張三(有)買書無?4) 張三は本を買いますか?

中古漢語の世界からそのまま抜け出してきたような語法をそのまま用いる方言も存在し,北 方方言をベースに発展したから現代中国の標準語「普通話」に於ける「囑?」は,明らかに innovationとして位置づけられるべきであることが判るのである。一体,如何なる要因がこの 両方言群を分けることになったのか?

ここに非常に興味深いパラレル現象がある。それは,疑問の語気詞「ロ馬」の前身である

「無」の語音の方言分布で,大ざっぱに分けると:

(45)a.Pek.「無」wU b.Cant.「無」m6u

のように,北方で[w−]という摩擦音,南方では[m−]という鼻子音というようにかなり明確に 分かれ,しかもその分布は,所有を表わす動詞「有」の否定形異形態「没」或いは「無」の 分布とほぼ等しく重なるのである。

これが偶然の一致であろうはずがない。つまり,現代中国語「普通話」に於ける疑問の語 気詞「鳴」がその前身である「無」から 文法化 のプロセスを経て成立した経緯について 次のようなシナリオが描けるのではないか:

日本語に於ける「無」の漢音[mu]や朝鮮語の読音[mu1からしても,これらの地域に漢字文 化をもたらした当時の中国語である中古漢語に於いても,この「無」の語音は[mu1であった

と再構するのが定石であろう。このm一をイニシャルに持つ南方方言に対し,北方方言では 後に肝>v−/w一なる音韻変化が起こるわけだが,それまでに文末で選択疑問をマークしてい

た「無」は,既に相当の度合いで「疑問の語気詞」として文法化していた。つまり,文末に 於ける「無」は「疑問」をマークする単なる 記号 としてしか機能しなくなっており,少

なくともこの位置では否定の原義がほとんど薄れてしまっていたのではないか?

南方方言ではその状態が今日まで引き継がれたのに対し,上述の音韻変化を経た北方方言 では,否定の助辞「無」の語音自体までもが当初のm一を放棄したとあっては,疑問の語気 詞と否定の助辞「無」との関係はますます疎遠になってしまう。前節でも触れたように,件 の語気詞を「無」と表記する必然性は,北方方言では全くなくなり,解放後の共和国に於い て文字改革が実施に移されるまで,ma?の語音を有す疑問の語気詞の表記法は,実際にも

「歴」や「臓」など,様々な試行錯誤が繰り返された:

(19)

(46)a.張三買書ma?    脹三は本を買いますか?

b.張三買書磨?     張三は本を買いますか?

c.張三買書嚥?     張三は本を買いますか?

疑問の語気詞として機能するのは漢字ではなく,ma?という語音そのものだからである。表 記に際しても,要は当該漢字がその語音を持ちさえすればいいわけで,誰が前身の「無」を 思い浮かべよう?(46b−c)のどれを採っても全くもって単なる 当て字 に過ぎず,現代中国 に於ける正書法で採用された「鳴」に至っては,文法的な機能語もしくは語気詞であること を暗示する口偏に,maという語音を示す「馬」を 労 として付加した疑似「形声文字」

を採用した,という経緯は前節でも触れたとおりである。文法上の要として役割を担う 機 能語 に於いては,漢字という文字に比して語音が如何に重要であるかを端的に示すもので,

所有を示す「有」の対としての「無」がその座を追われ,やがては「没」に取って代わられ るのも,偏に「没」(m6i)は北方方言に於いても中古漢語末期からの音韻変化に巻き込まれず,

否定の助辞として機能してきた,以前の「無」と同様のm一をイニシャルに保持し得たから,

と考えられるのである。

Vl. エピローグ

これで全てが明らかになったと思う。古典語に於ける語気詞「邪?」「耶?」に代わる疑問文生 成のメカニズムとして登場した「選択疑問」。これをマークするために用いられたのは「不」

と「無」という,共に「否定」を意味した助辞だったが,本来の品詞の違いから,前者がそ の副詞性を強く残したがためにやがては主動詞をコピーして繰り返すようになったたことか ら,構造的に「反復疑問」としての性格を打ち出したのに対し,後者は既に早い時期から

「疑問の語気詞」としての性格を強め,特に現代中国語の標準語の基盤を築いた北方方言に於 いては「無」自体が音韻変化により語気詞として定着していた形態からの乖離が甚だしく なったことで,既に始まっていた「文法化」のプロセスにはますます拍車がかけられた,と いうふうに,両者の隔たりは現在,極めて大きくなっている。一見した限りでは,両者が同 じルーッを持っ 兄妹構造 とはとても思えまい。

しかし,いわゆる「種の保存」に関し,生命活動に於ける生物の自律行動上の 掟 は厳 格である。(10c)のような兄妹の 婚姻関係 は,如何なる場合であれ,到底容認され得な い。こうした,言語の「生態的自律行動」とも言えるような統辞原則が,現代中国語(普通 話)に存在する二種類の疑問文生成メカニズムの行動様式を制御している,とさえ考えられ

るのである。

上でも繰り返し触れたように,いわゆる「反復疑問」は上古漢語に於ける「終助詞疑問」

(20)

を代替して登場した,言わば 傍系疑問 に過ぎなかった。しかし,時代が下るにっれ,上 述の音韻変化を経験した北方方言群では,そうした「傍系」のメカニズムをベースとしなが らも,やがてはほぼ完壁な, 由緒正しい 「終助詞疑問」の クローン を生み出すに至る。

言語体系の持つ「生態的特質」の為せる業なのか,我々の興味は正に尽きないものがある。

しかしながら, クローン は クローン 。やはり,ある種の「偽物」或いは「替え玉」

であることに変わりはない。その正体を捉えるべく,我々は知恵の限りを絞ってきた。今回 は結果的に,いわゆる「終助詞疑問」の正体を暴き,首根っこを押さえることができたが,

相手が 生体 である限り,次々とトリックを労して我々に挑戦してくることは想像に難く ない。推理小説に於ける刑事や探偵と同様,我々の犯人探しの旅はこれからも休むことなく 続くことになろう。そしてそうすることにより,言語学は日一日とその最終目標に向かって 前進を続けるのだ。言語学をすすめる所以である。

VII. 応用問題 (是非,チャレンジしてみて下さい1)

疑問文生成のメカニズムに関し,中国語にはもうひとつ,不可解としか言えないような統辞 現象が見られる。

標準中国語に於いて,いわゆる「現在形」の平叙文を対応する「完了形」に変換するには,

動詞の直後に完了をマークする「了」を付加する,という文法的オペレーションを施す:

(47)a.張三買 那本書。   張三はその本を買います。

b.張三買了那本書。   張三はその本を買いました。

更に,そうした完了形の平叙文を対応する疑問文に変換するのに,本稿で扱ったような「反 復疑問」のオペレーションによるとすれば:

(48)a.*張三買了不買了那本書? ( 張三はその本を買いましたか? ) b.*張三買 不買了那本書? ( 張三はその本を買いましたか? ) c.張三有没有買 那本書?  張三はその本を買いましたか?

d.*張三有没有買了那本書? ( 張三はその本を買いましたか? )

(48a)もしくは(48b)のようになって然るべきはずだが,実際には両者とも非文法的になって

しまう。文法的なのは(48c)で,反復されるのは出発点となる平叙文の動詞表現「買了」で

はなく,平叙文には存在しなかった「有」という,全く新しい表現となるのである。本稿を

通じて得られる認識によれば,完了形に於ける「反復疑問」では,常識的には現在形に於け

(21)

る動詞「買」の完了形である「買了」が否定の助辞「不」を介してコピーされ,(48a)のよう に「買了不買了」となるか,或いは現在形の反復部分「買不買」が全体として完了化されて

(48b)のように「買不買了」となるはずなのに,(48a)に対応する反復疑問が(48c)となってし まうとあっては,誰にも予想がつくものではない。こうした irregularity の背景には何が潜 んでいるのか?

反復される「有」に挟まれる「没」の意味や,ある意味で 特殊 なその使用分布など若 干の情報が必要とはなるが,それ以外は本稿で得られる認識を積み上げていくだけで,この 現象の「謎」は問題なく解決できるハズ。中国語の先生やネイティブ・スピーカーから情報 収集するにしても,上掲の例文を構文上から分析したものを示してもらわずに,是非とも自 力で問題解決に当たって欲しい。必要となる情報を特定して頂ければ,筆者も当然ながら御 質問にはお答えするので,e−mail等で接触してきて欲しい。御健闘を祈る!

*本稿は,1997年5月31日に岩手大学人文社会学部に於いて開催された,第5回「言語人文学会」春期 研究発表会の席上で口頭発表した研究に加筆したものだが,取り上げた研究対象としては,筆者が岩手 大学人文社会学部に勤務していた1987年当時の演習科目「欧米言語論演習」の授業に於いて題材として 扱ったものに遡る。具体的な演習内容については藤井(1990)を参照されたい。

1)ここで挙げた「泥」には疑問のマーカー以外にも用法があるが、いわゆる「語気詞」として機能し て疑問文に用いられる点では「鳴」と同じパラダイムを形成する、と捉えることができる。

2)上海を中心とした呉語地域では、(22b)もしくはこれに対応する方言形式は標準語とは異なり、文法 的に何ら問題がないという。

3)口語ではしかし、この形も比較的、多用される。

4)ここで、括弧内の「有」は文法的には助動詞的なステータスを持つが、構造的に必須ではなく、省 略されることもある。そうしたことから、現段階ではspeculationの域を出ないが、文末の「無」に 対するアナロジーから、後世になってから付加されたものと捉えることも十分に可能である。

引用文献

藤井文男(1990),『言語への挑戦  昭和63年度「欧米言語演習」より  』,盛岡:岩手大学人文 社会科学部

(1997),「英語の文法は、平叙文から疑問文を導くに際し、如何なるオペレーションを施す か?  日曜言語学のすすめ  」,『言語と人間』1,pp.169−188.

LIITHoMPsoN(1979), The Pragmatics of Two Types of Yes−No Question in Mandarin and Its Universal Implications , in:Pα1フεr3〃01η漉815焼R89ゴoηα1ルf88伽8{ザ 加C痂cα80・乙腕9庸 c 30c 4y, PP.

197−206.

(22)

筆者のe−mailアドレス:fumi@mito・iPc・iba「akLacjP

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