﹁ホンモノのゴッホ﹂は日本に何をもたらしたのか?一三 要旨 昭和三三年︑日本で初めてのファン・ゴッホ展が開催される︒明治末期の白樺派による紹介いらい︑日本の文化人は日本にもたらされた複製画やファン・ゴッホの日記を通じてこの画家をこよなく愛し︑独特の人生論的で精神主義的な﹁ゴッホ神話﹂を創り上げていた︒﹁ホンモノのゴッホ﹂の到来は︑この日本的な﹁ゴッホ神話﹂に影響を与えずにはいなかった︒この展覧会では︑美術の専門家によって︑本物を見るという体験が特権化され︑その体験を経ていない従来の文学的な解釈や病理学的理解が否定され︑とくに︑白樺派︑小林秀雄︑式場隆三郎が批判の対象となったのだった︒ただ﹁見る﹂という体験だけによって︑約半世紀に亘って練り上げられてきた思想的な美術理解が否定される︒この展覧会は︑戦後の日本の西洋美術受容の方向を決定づけ︑さらには西洋美術の語り手の資格を一変させてしまった︒受容史上︑きわめて大きな意味を持つ出来事であったと考えねばならない︒ はじめに
昭和三三年秋︑日本で初めての本格的なファン・ゴッホ展が東京国立博物館で開催された︒オランダのクレラー・ミュラー美術館が所有する油彩画五六点と素描七〇点を展示したこの展覧会は︑四十一日間の会期中に約五〇万人の観衆を集める成功を収める︒主催した読売新聞社をはじめとして︑各種メディアはこの展覧会を大々的に取り上げ︑美術雑誌は次々と特集を組んだ ︵1︶︒天皇・皇后両陛下も展覧会を見学した︒この年の﹁美術界の一ばんの大きなエベント﹂︵針生一郎︶であった ︵2︶︒ 木下長宏の著書﹃思想史としてのゴッホ﹄︵平成四年︶によれば︑ファン・ゴッホの名と作品は︑白樺派が紹介した明治末期以来︑日本の文筆家や美術家にこよなく愛されてきた ︵3︶︒なかには﹁ゴッホ巡礼﹂を果たしてフランスやオランダで作品を実見した者もいたが︑大半はオリジナルの油彩作品を見ることなく︑複製画や欧文文献を通じて︑作品を理解し︑憧憬を抱きながら独自のファン・ゴッホ観
﹃人文コミュニケーション学科論集﹄十四号︑一三-二九頁
「 ホ ン モ ノ の ゴ ッ ホ 」 は 日 本 に 何 を も た ら し た の か ?
昭 和 三 三 年 の 「 フ ィ ン セ ン ト ・ フ ァ ン ・ ゴ ッ ホ 展 」 を め ぐ っ て
( 前 編 )
藤 原 貞 朗
© 2013
茨城大学人文学部(人文学部紀要)藤原 貞朗一四 を育んだ︒およそ半世紀に及ぶ複製画受容のなかで日本人は独特のファン・ゴッホ観を形成した︒木下はこれを﹁ゴッホ神話﹂と呼ぶ︒ そんな﹁ゴッホ神話﹂が形成された日本に︑昭和三三年︑ファン・ゴッホの本物の作品がまとまって来日したのである︒この年に七十三歳を迎えていた武者小路実篤は﹃朝日新聞﹄に﹁実現された五十年前の夢﹂と題するエッセイを寄稿し︑﹁ホンモノのゴッホ﹂の来日を祝福した ︵4︶︒しかし︑﹁ホンモノのゴッホ﹂は︑日本人が形成してきた﹁ゴッホ神話﹂に解体を迫りはしなかっただろうか︒少なくとも変更を促したのではないか︒複製画しか知らなかった日本の美術愛好者たちは︑本物のファン・ゴッホの油彩画を前にして︑どのような態度を示したのか︒本稿は︑この問いに答えてみたい︒ ﹃思想史としてのゴッホ﹄において︑木下長宏はこの展覧会にも触れ︑奇妙にも﹁思想的な事件はなにも現れなかった﹂と分析している︒﹁すでに日本人のゴッホ観は定型を備えて﹂おり︑﹁地ならしされた﹂言論の枠内を﹁さまざまな人の言葉がとびかっただけ﹂だという︒だが︑半世紀も憧憬を抱き続けてきた画家の作品の初来日に当たって︑﹁思想的な事件﹂が何もなかったというのは異常な事態ではないか︒かりに木下の言う通りであるとするならば︑むしろ︑何ら新たな思想が生まれなかったこと自体が︑きわめて重大な事件ではないだろうか︒これについて︑木下はこう結論づけている︒﹁︿本物﹀がかたまってきたために︑かつて︿複製﹀を見てあれほどに語りえてきた言語の自由を失ってしまった︒これが︑事件の 真相ではないか﹂︑と ︵5︶︒日本における半世紀のファン・ゴッホ受容の歴史を思想史として捉え︑精緻な分析の末に木下が出したこの結論は重く︑異論はない︒しかし︑それでも︑まだ幾つかの疑問は解消されずに残る︒たとえば︑昭和三三年度の﹁美術界いちばんのエベント﹂だったこの展覧会に際しては会期中の一〇月から一二月の三ヶ月間に新聞・雑誌に寄稿されたファン・ゴッホ展の論評は百本を下らず︑講演会も数十本の単位で行われている︒木下に言わせるならば︑﹁さまざまな人の言葉がとびかっただけ﹂で︑なんら新たな思想を形成しはしなかったのだが︑それならば︑﹁言語の自由を失った﹂論者たちは︑思想とは異なるいかなる水準において︑そして︑いかなる目的をもって︑これだけの大量の言葉を生産し︑消費したのだろうか︒こうした問いに答えながら︑﹁ホンモノのゴッホ﹂が﹁ゴッホ神話﹂を形成していた日本に︑何をもたらし︑そして︑何を奪ったのかを明らかにしたい︒
(一) ファン・ゴッホ展をめぐる「感想」
まずは展覧会評を整理しよう︒各種新聞・雑誌に発表された百本近い論評を概観すれば︑二つの注目すべき傾向があることがわかる︒
﹁ホンモノのゴッホ﹂は日本に何をもたらしたのか?一五 ①﹁ホンモノを見ないと駄目﹂〜︿ゴッホ神話﹀から︿ホンモノ神話﹀へ〜 ひとつは︑実物を見ないと美術作品を真に理解することはできないという主旨の論評である︒この展覧会に費やされた言葉において︑この種の﹁感想﹂が最も多い︒たとえば︑展覧会初日の特別公開に招待された詩人の草野心平は翌朝の﹃読売新聞﹄に次のコメントを残している︒﹁絵は複製で見るのではダメだということをこんどほど感じたことはない︒色もボリュームも複製とは段違いで全く圧倒された ︵6︶﹂︒また︑フランス文学者の中島健蔵は﹃藝術新潮﹄において︑﹁ほんものの力強さは︑とても複製ではわからない﹂と述べ︑﹁ほんもの﹂の絵の迫力に圧倒されたと報告している ︵7︶︒そして︑この中島の言葉を紹介した雑誌記者はこうコメントを付け加えている︒
事実︑こんどきたゴッホの作品は予想以上になまなましいし︑あの奔放︑的確なタッチは生半可な印刷ではとうてい捉えることのできないものだ︒近代絵画を印刷で見ることはなかなかむずかしいといわれているが︑ゴッホのように鮮烈な表現はとくに・・・という感が深い︒
本物の油彩画に触れた感動を率直に伝える言葉であろうが︑いずれの感想も複製画に言及している事実に注目したい︒すなわち︑二人の言葉の要点は︑かつて複製画によって理解していたファン・ゴッ ホのイメージが︑本物を見る体験によって覆されたと報告することにある︒かつての﹁ゴッホ神話﹂を否定し︑それに代わる﹁ホンモノ神話﹂とでも形容すべきものが︑この展覧会に現れるのである︒ 定評ある美術雑誌だった﹃藝術新潮﹄の記者がここで実物を見る体験を特権化したことに端的に表れているように︑この種の感想は美術の専門家にも蔓延し︑今回の展覧会評の主要なクライテリアを構成する︒たとえば︑展覧会を主催した東京国立博物館の館長だった富永惣一がこの種の感想を繰り返した︒美術雑誌﹃みづゑ﹄の臨時増刊﹁ファン・ゴッホ﹂号において︑富永は﹁語られてきたゴッホの姿﹂と本物の﹁ゴッホの作品﹂との間には﹁食い違い﹂や﹁断層がある﹂と主張する︒前者は﹁あまりにも悲劇的な英雄として大きく描かれている﹂のに対し︑後者は﹁明快な歓喜﹂︑﹁明るさ﹂と﹁爽やかさ﹂が表現されているというのである︒ゆえに︑この﹁断層﹂を明示する﹁この展覧会は新しい問題をいくつか提供するに違いない﹂と述べるのだった ︵8︶︒主催者が複製画体験とホンモノ体験のギャップを問題とし︑それを確認することがこの展覧会の意義だと言ったのである︒ホンモノ体験の絶対化が主要なクライテリアだったと本稿がみなすゆえんである︒じっさい︑富永の見識に追随する言葉が他の専門家にも多々みることができる︒たとえば﹃美術年鑑﹄で昭和三三年の美術界を総括する対談をした和田伊都夫と針生一郎は︑ファン・ゴッホ展を話題にして次のような言葉を交わした︒
藤原 貞朗一六 和田 ファン・ゴッホといえば︑すごく原色の強い華々しい絵だと思い込まされていたのが︑実際に見ると柔らかい感じなんです︒ 針生 みんなそのスイートなところにおどろくらしい︒︵中略︶僕も非常にスイートなんで驚いたな ︵9︶︒
気鋭の批評家として名を売っていた針生一郎でさえ︑作品の様式や内容には触れず︑かつての複製画体験と今回の体験の﹁食い違い﹂の話題に終始した︒また︑﹃美術手帖﹄一二月号では︑国立近代美術館の次長だった今泉篤男と写真家の土門拳らの座談会を掲載したが︑そのタイトルは﹁考えていたゴッホと見たゴッホ﹂である︒﹁見たゴッホ﹂の部分が大きく太字でレタリングされている ︶10
︵︒
②﹁ゴッホはもはや現代の人に非ず﹂〜 ﹁ゴッホ熱﹂の消失 もうひとつの注目すべき論評の定型は︑ファン・ゴッホの現代性を否定するものである︒こちらは多数派ではないが︑ゴッホ礼賛一辺倒でない否定的な論評も少なからずあったのが︑戦後のファン・ゴッホ受容の大きな特徴である︒たとえば﹃美術手帖﹄一二月号の座談会で土門拳は︑ファン・ゴッホの作品には﹁今日のわれわれの生活感情とか︑美意識に訴える問題意識がない﹂と述べ︑その現代的価値に疑義を呈した︒﹁中学時代﹂は﹁ゴッホなしでは夜も日もあけないという時期を通過﹂したが︑やがて﹁ゴッホというやつはじきに飽きる﹂ことに気づき︑この展覧会で﹁今日的な課題﹂が欠 如していることを確認したというのである ︶11
︵︒当時︑土門は四九歳︑中学時代といえば大正末期のこと︑日本の文化人がファン・ゴッホに熱狂した時代だった︒やがて熱狂は収まり︑あらためて冷めた眼で戦後初めての展覧会を眺めたということだろう︒ 同種の論評は美術史家の矢代幸雄にもみられる︒展覧会に捧げられた言葉ではないが︑昭和二七年の講和条約発効の年に戦後初めての再渡航をした矢代は﹁久しぶりのゴッホ巡礼﹂を行い︑その思いを翌年刊行した﹃ゴッホ・ルノアール・梅原・安井﹄にこう書き記した︒
久しぶりのゴッホ巡礼を畢って︑私の結論はどうであったか︒私のゴッホに対する興味は切実に蘇生し︑彼の稀有なる天才は︑今の私を感激させてやまないが︑そこが面白いところで︑美術の時代性を︑今度くらい通観したことはない︒ゴッホはもはや現代の人に非ずして︑一時代前の人である︑という厳然たる認識である ︶12
︵︒
当時六二歳だった矢代はこの旅行で﹁戦争後の長い間︑世界の動きから切り離されて︑日本はそれだけの時代のずれがあると初めて気がついた﹂という︒木下長宏が﹃思想史としてのゴッホ﹄の最終章︵﹁跋﹂︶で言及しているように︑ファン・ゴッホに心酔した第一世代の美術家の多くは︑昭和十年代にはファン・ゴッホを﹁卒業﹂ないし﹁廃立﹂したという︒土門や矢代も︑同じ流れに属するとみて
﹁ホンモノのゴッホ﹂は日本に何をもたらしたのか?一七 よいだろう︒ 昭和三三年といえば︑ファン・ゴッホの没後︵一八九〇年︶からすでに半世紀が過ぎていた︒昭和二七年には生誕百年を迎え︑オランダでは回顧展が︑日本でも複製画展が開かれていた︒彼の芸術を﹁卒業﹂した土門や矢代ならずとも︑現代的な意義に疑義を抱く日本の美術家は少なくなかった︒当時三〇歳にして戦後日本の抽象絵画を牽引していた山口勝弘は︑展覧会の感想として︑ファン・ゴッホの﹁作品は過去のもの﹂であり︑﹁現代にまでつながる問題﹂は認めることができず︑﹁作家としての僕に何ものも与えてはくれなかった﹂とコメントしている ︶13
︵︒同じく当時三十代の抽象画家であった田中岑も︑ファン・ゴッホの﹁炎はもう消えた﹂ものであり︑作品には﹁失望﹂しかしなかったとコメントした ︶14
︵︒ 先の矢代の言葉に暗示されるように︑戦後の日本の美術界は︑﹁世界の動きから切り離され﹂た戦中・戦後の後れを取り戻すべく︑同時代の欧米美術に強い関心を向けていた︒戦後初めて欧州から作品を借り受けて展覧されたのは︑マルケやドラン︑ピカソ︑マチスら︑二〇世紀の存命中の画家の作品だった︵昭和二五年八月の現代世界美術展︶︒昭和二六年にはマチスとピカソの展覧会が開催された︒同年にはパリのサロン・ド・メの出品作を中心とした現代フランス美術展も開かれ︑同時代の絵画が広く知られるところとなっていた︒若い前衛画家たちには︑今さらファン・ゴッホでもないだろうという意見も案外多かったのだった︒ (二) 「ゴッホ神話」と「日本のゴッホ」の解体
以上︑昭和三三年のフィンセント・ファン・ゴッホ展での特徴的な感想を二つ挙げた︒ここであえて﹁感想﹂と言ったのは︑木下の﹁思想的事件はなにも起こらなかった﹂という分析を受けてのことである︒つまり︑﹁思想﹂と呼ぶべき深く考え抜かれた見識ではなく︑主観的かつ直感的に語られた言葉だという意味である︒しかし︑私は︑木下のように感想が思想へと深められなかった事態を否定的に捉えようとは思わない︒なぜなら︑昭和三三年の論者たちは︑あえて思想を退け︑直感に優位を与えるという選択︑すなわち︑本物を見るという視覚的で直感的な体験を優先し︑複製画受容によって神話的に練り上げられてきた思想を否定するという選択を取ったのではないかと思われるからである︒ 前節でみたように︑この展覧会では多くの論者が本物の油彩画を見た体験を特筆したが︑単にその感動を伝えたかったわけではない︒﹁見たゴッホ﹂によって︑従来の﹁考えていたゴッホ﹂を否定しえたがゆえに︑本物体験を特権視したのだった︒戦後の論者たちの本物重視の態度の裏には︑名だたる思索者たちが練り上げた﹁ゴッホ神話﹂を否定したいという意志が強く働いていたといえるのではないだろうか︒ファン・ゴッホの現代的意義を否定する見解も︑﹁ゴッホ神話﹂解体という点では一致していると言えるだろう︒こう考えるならば︑見る体験を提供した昭和三三年の展覧会
藤原 貞朗一八
は︑日本におけるファン・ゴッホ受容の歴史を大きく変える重要な出来事だったといわねばならない︒戦後の論者は︑ただ﹁ホンモノを見た﹂という体験だけを根拠にして︑半世紀をかけて伝説化した﹁ゴッホ神話﹂の語り手たちからファン・ゴッホについて語るという行為を奪い取ることに成功したのである︒少々結論を急ぎすぎたが︑本節では︑昭和三三年の展覧会によって︑かつての﹁ゴッホ神話﹂がどのように否定されたのかを詳細に分析しよう︒ たとえば︑版画家の吉田穂高︵当時三二歳︶は︑ファン・ゴッホはあくまでも﹁十九世紀末の偉大な人間﹂であり﹁今更︑純粋にカンバスに向って︑来る日も来る日も油絵具をベタベタ塗りたくる﹂意味はないと断じ︑次のように述べている︒
︹今回の展覧会会場からは︺﹁白樺﹂以来の日本におけるゴッホ︑式場ゴッホ︑炎の人︑要するに今まで日本に紹介されていたゴッホが︑何か片寄った不自然な姿をもっていた云々の声がきこえる︒これはともかく大変いいことだ ︶15
︵︒
﹁式場﹂とは︑大正七年に﹃ファン・ホッホの生涯と精神病﹄を上梓し︑戦中戦後に最も活躍したファン・ゴッホ研究者である式場隆三郎のことである︒﹁炎の人﹂とは昭和二六年に劇団民藝が上演してヒットした﹃炎の人 ヴァン・ゴッホの生涯﹄︵三好十郎脚本︶を指す︒﹁日本に紹介されていたゴッホ﹂を︑白樺も式場隆三郎も三好十郎も同じくすべて﹁片寄った不自然な﹂ものと否定する乱暴 なコメントだが︑当時はこうした言い方がまかり通った︒昭和三三年の展覧会を分水嶺として︑それ以前と以後とが分断されているのである︒ 過去の﹁ファン・ゴッホ神話﹂として批判の対象となった人物をもう一人ここに付け加えることができる︒文芸評論家の小林秀雄である︒たとえば︑針生一郎は︑先に触れた﹃美術年鑑﹄の対談でこう語っている︒
武者小路実篤から小林秀雄あたりまで︑だいたいファン・ゴッホというと難行苦行をして︑芸術のために精進しているというイメージがあるのじゃありませんか︒あいつはやはりこわさなければいかんな︒もっと健全なものでしょう ︶16
︵︒
小林秀雄は昭和二六年に﹃藝術新潮﹄誌上に﹁ゴッホの手紙﹂を連載し︑翌年に単行本を上梓していたが︑ファン・ゴッホの語り手としては戦後派である︒白樺派と同類にみなすわけにはいかない︒それにもかかわらず︑針生は︑白樺も式場も小林もかつての﹁ゴッホ神話﹂の創造者として十把一絡げに批判する︒﹁ホンモノのゴッホ﹂到来以前の語り手はみな同じ過ちを犯していたと言うのである︒なぜ︑この三者は名指しで批判されねばならなかったのか︒彼らに向けられた批判の意味と目的は︑じつのところ︑各々に対して異なっていた︒批判の論点をここで詳細に検討したい︒
﹁ホンモノのゴッホ﹂は日本に何をもたらしたのか?一九 ①﹁白樺ゴッホ﹂ 白樺派︑ないしその代表者としての武者小路実篤の名は︑明治末期から昭和初期にかけての日本におけるファン・ゴッホ理解︑さらには﹁ゴッホ熱﹂の象徴的存在として︑今日よく知られるところであり︑本稿で何度も言及している木下長宏の著作でその功罪が検討されている︒よく知られるように︑白樺派の活動を通じて西洋の文芸が日本に紹介され︑日本の近代文学も美術も西洋の強い影響下で進展した︒今日では︑それはもはや文学史や美術史の常識であり︑歴史的事実として認知されているといえよう︒今さら目くじらを立てて白樺派の運動を非難したり︑また逆に熱狂的に心酔する人もいない︒ 白樺派を歴史的な研究対象として客観視する見方は︑おそらく︑︵少なくとも美術界においては︑︶昭和三三年のファン・ゴッホ展あたりを契機として生まれてくるのではないかと考えられる︒注目すべきは︑戦後の美術批評界で活躍していた徳大寺公英が﹃三彩﹄に発表した論文﹁日本におけるファン・ゴッホ〜白樺派を中心に﹂︵昭和三三年一一月︶である︒実物を見た体験から得た感想を披露するだけの文章が並ぶ﹁ゴッホ展特集号﹂のなかで︑日本のファン・ゴッホ受容史を主題とした徳大寺の論考は異彩を放っている︒内容を紹介しよう︒徳大寺はまず武者小路がファン・ゴッホを自らの﹁理想の人の生涯につくりかえた﹂と指摘する︒じっさい︑武者小路はファン・ゴッホを﹁トルストイの卒業生﹂と呼び︑﹁人生と自然の調和にむかっている偉大な天才﹂と定義したが︑それは自らの 人生論的な理想そのものであった︒一方︑徳大寺によれば︑武者小路のゴッホ熱に﹁すぐに伝染﹂した柳宗悦は︑ルイス・ハインドのポスト印象派論を下敷きにして︑ファン・ゴッホを﹁表現画家中の表現画家﹂にして﹁人格的意力のシンボル﹂とみなした︒ゆえに︑日本では︑ファン・ゴッホの絵画は﹁自己の為の藝術﹂にして﹁赤裸々な個性の藝術﹂と解釈され︑﹁宗教的色彩をおびた人格主義的な美学﹂で﹁屈折﹂したファン・ゴッホ像が創出された ︶17
︵︒こう徳大寺は見事に分析してみせた︒この論文は︑美術批評というよりは︑資料に基づく歴史研究というべきで︑今日の受容史研究の嚆矢といってもよい︒昭和三〇年代の知識人は︑白樺派をすでに歴史的存在として客体化することもできたのである︒ 初めてのファン・ゴッホ展が開かれた昭和三三年︑武者小路実篤も柳宗悦も存命中だったが︑前者は七三歳︑後者は六九歳の老境を迎えていた︒彼らは展覧会をどう眺めたのだろう︒武者小路は二本の文章を新聞に寄稿した︵柳のコメントは残っていない︶︒ともに展覧会が開幕して間もない十月二二日に発表されたもので︑見学した感想が記されている︒まず﹃朝日新聞﹄に寄せた﹁ファン・ゴッホ展をみて 実現された五十年前の夢﹂では︑副題にある通り︑憧れ続けた作品の数々を半世紀を経て実見できた﹁夢﹂のような感激が綴られている︒興味深いことに︑彼もまた本物の油彩画は﹁複製の色づき﹂と﹁まるでちがった﹂ものだったと述べた ︶18
︵︒しかし︑だからといって自らが創出した﹁ゴッホ神話﹂が間違っていたとは言わない︒本物を見ることによって﹁僕達の概念的なゴッホが︑一段
藤原 貞朗二〇 と深み﹂を増し︑﹁いまさらに感心させられる﹂と言うのみである︒より印象的なのは﹃読売新聞﹄夕刊の記事である︒読売新聞は識者による出品作品解説を連載していたが︑その七回目に武者小路が登場し︑︽郵便配達夫ルーラン︾について語った ︶19
︵︒武者小路はまず︑この作品が﹁画集で僕たちにはなじみ深い人﹂だった述べ︑﹁はじめてその一枚にふれ︑絵があかるくあざやかなのに驚いた﹂と本物と複製の違いに言及する︒しかし︑彼はこう続ける︒﹁正直に言って僕にはこの絵のよさについて批評は出来ないのだ︒ただ兼ね兼ね見たいと思った本物にお目にかかれて︑満足したのである︒いいわるいを言う気になれず︑ただぼんやり︑ルーランにまけないお人よしの顔をしてこの絵を見ている内に︑段々うれしくなって来たのである﹂︑と︒要するに︑武者小路は批評を放棄した︒本物と複製の違いに驚きながらも︑他の批評家たちに同調することも︑あるいは反論を述べることもしなかったのだった︒ この展覧会において︑戦後世代の美術家たちが﹁白樺以来の日本におけるゴッホ﹂神話の﹁屈折﹂をこぞって話題にすることができたのは︑武者小路や柳が﹁批評は出来ない﹂と沈黙したからだともいえる︒沈黙の真意は分からない︒しかし︑確かに言えるのは︑当時の美術雑誌や新聞などマス・メディアは︑二人の沈黙を︑あたかもかつての﹁ゴッホ神話﹂の敗北であるかのように受け止めたということである︒繰り返すように︑﹃読売新聞﹄や﹃藝術新潮﹄は﹁ホンモノのゴッホ﹂と﹁ゴッホ神話﹂の違いに繰り返し言及し︑一般来場者の感想として︑﹁今まで日本に紹介された︑あまりに人生論 的なゴッホ観がなにか無意味のように思われる﹂だとか︑﹁ゴッホ藝術を理解するために︑あまりにも遠廻りをしすぎたし︑末梢的なことばかりを教えこまれていたと思う﹂といった︑明らかにかつての﹁白樺ゴッホ﹂を批判するコメントを掲載したのだった ︶20
︵︒昭和三三年の論者は︑白樺派のゴッホ理解を︑もはや︵歴史化すら可能な︶過去の﹁誤った﹂ものにすぎないものと認識していたのだった︒
② 小林秀雄のゴッホ 一方︑小林秀雄のファン・ゴッホ論への批判は︑白樺批判とは異なる意味を持っていた︒小林がファン・ゴッホ論を初めて発表したのは昭和二三年一二月のことで︑﹃藝術新潮﹄に﹁ゴッホの手紙﹂を連載したのは昭和二六年︑その単行本が出たのは昭和二七年のことである︒すでに名声を得ていた文芸批評家だったとはいえ︑ファン・ゴッホについては戦後の書き手であった︒白樺のように過去の人ではなく︑同時代人であった︒ しかし︑すでに見たように針生一郎は﹁白樺から小林まで﹂とひとまとめにして批判的な言葉を投げかけた︒同じ座談会で針生はこう続けている︒﹁小林秀雄はカラスのいる風景で︑私がファン・ゴッホに打たれたのか︑ファン・ゴッホが私にとりついたのか︑ヘタヘタと座りこんだというけれども︑あの絵は比較的よくなかったな︒小林秀雄の見方は一種の芸術美談だと思うのですね ︶21
︵﹂︒今泉篤男も同じように︽烏の群れ飛ぶ麦畑︾への小林の論評を問題視し︑次の
﹁ホンモノのゴッホ﹂は日本に何をもたらしたのか?二一 ように述べている︒
小林秀雄さんは感激したけれども︑あの絵はゴッホの中ではそんなにいい絵じゃないと僕は思っている︒僕はその麦畑に行って見たがあのとおりなんですよ︒あれだって即物的写生でね︒そっくりですよ ︶22
︵︒
東京での展覧会には件の︽烏の群れ飛ぶ麦畑︾は出品されていないにもかかわらず︑わざわざこの作品を例に出して小林秀雄を批判する︒明らかに︑小林のファン・ゴッホ論は批判すべき対象として強く意識されていたのである︒小林のゴッホ論のいかなる点が問題であったのか︒いかなる理由と目的のもとに︑彼らは小林を批判したのであろうか︒ 残念ながら︑小林への批判は︑座談会やエッセイで軽く語られるだけで︑周到な論考はいっさい書かれていない︒論者たちは︑あたかも暗黙の了解のごとく︑小林のゴッホ論を否定するだけで︑どこに問題があるのかは語っていない︒ゆえに︑ここでは小林のファン・ゴッホ論を分析して︑そこから彼らの批判の理由と目的を推量するしかない︒ 小林秀雄のファン・ゴッホ論についても︑木下長宏が綿密な分析を行っている︒木下によれば︑小林は﹁日本近代を生きた文学者だからこそ得ることのできた着想﹂によって︑﹁ゴッホの手紙﹂を上質の﹁告白文学﹂と理解し︑ファン・ゴッホ研究を﹁文学﹂ない し文芸の領域へと﹁引き上げた﹂︒フランス語版のファン・ゴッホ書簡集をあたかも詩集のように深く読み込み︑机上の﹁複製のゴッホの絵﹂から﹁ゴッホといふ人間﹂を理解しようとした︒こうした見方が︑﹁決定的にその後の現代日本人のゴッホ観を縛ってしまった﹂のだと木下は言う ︶23
︵︒ ただし︑ここでも重要なのは︑小林もまた︑武者小路のように︑ファン・ゴッホ論を書いたときには︑本物の油彩画を一点も実見したことがなかったという事実である︒とくに今泉と針生が言及した小林による︽烏の群れ飛ぶ麦畑︾の論評は︑この点においてきわめて重要な意味を持っている︒すなわち︑小林は︑昭和二二年に東京都美術館で開催された﹁泰西名画展覧会﹂において︑この作品の複製画を見て衝撃を受け︑ファン・ゴッホ論の連載を開始した︒本物を見るという体験ではなく︑複製画の体験が小林の出発点であり︑かつ核心部にあった︒有名な一節だが︑引用しておきたい︒
先年︑上野で読売新聞社主催の泰西名画展覧会が開かれ︑それを見に行った時の事であった︒折からの遠足日和で︑どの部屋も生徒さん達が充満していて︑喧噪と埃とで︑とても見る事が適わぬ︒仕方なく︑原色版の複製画を陳列した閑散な広間をぶらついていたところ︑ゴッホの画の前に来て︑愕然としたのである︒それは︑麦畑から沢山の烏が飛び立っている画で︑彼が自殺する直前に描いた有名な画の見事な複製であった︒尤もそんな事は︑後で調べた知識であって︑その時は︑ただ一種異様
藤原 貞朗二二 な画面が突如として現れ︑僕はとうとうそのまえにしゃがみ込んで了った︒︵中略︶僕が一枚の絵を鑑賞していたという事は︑余り確かではない︒寧ろ︑僕は︑或る一つの巨きな眼に見据えられ︑動けずにいた様に思われる ︶24
︵︒
このエピソードを通じて小林が言わんとするのは︑本物の﹁名画﹂であっても﹁喧騒﹂の中では鑑賞に適わないということ︑そして︑その反動として︑たとえ複製画であっても︑人生を変えてしまうような感動的な芸術体験があり得るという主張である︒ついでながら︑小林の文章を信じるならば︑このときまで︑小林は︽烏の群れ飛ぶ麦畑︾を複製を通じても知らなかった︑つまり︑ファン・ゴッホ通ではなかったということも付け加えておこう︒ こうした小林の持論を理解するならば︑昭和三三年に今泉や針生などの美術批評家たちがなぜ彼のファン・ゴッホ論を批判したのかが推察できるだろう︒小林は︑本物か否かは︑芸術体験の問題としては大した違いはないとした︒本物を見るという体験を絶対視した昭和三三年のクライテリアから逸脱する主張を︑小林は行っていたのであった︒じっさい︑小林には︑明らかに複製画による芸術体験を肯定する意図があった︒先のエピソードのすぐ後に︑彼は﹁文学は翻訳で読み︑音楽はレコードで聞き︑絵は複製で見る﹂芸術体験のあり方を擁護し︑﹁翻訳文化という軽蔑的な言葉﹂を発する本物崇拝者たちを強く非難した︒曰く︑﹁生きる為に︑あれこれの退っ引きならぬ形で与えられた食糧﹂として芸術を受け止めることだけ が重要なのだ︑と︒さらに︑昭和二五年の﹃藝術新潮﹄での青山二郎との対談においても︑小林はファン・ゴッホに対する持論を展開し︑そのなかで︑美術の専門家たちは本物を見て有難がっているが︑それはただ﹁自分の職業が感心させる﹂に過ぎない︑と断じている ︶25
︵︒ 小林秀雄は単行本﹃ゴッホの手紙﹄を上梓した昭和二七年一二月に初めての欧州旅行を果たし︑オランダでファン・ゴッホの油彩画を実見する︒ファン・ゴッホ生誕百年にあたるこの年︑出品数三百点を越える回顧展が当地で開かれていた︒だが︑小林は﹁本物﹂を目前にしても持論を曲げずにこう言う︒﹁私はかつて複製で︑彼の絵を見た時の感動を新たにしたが︑かつて見たものは不完全な画面であったが︑それから創り上げた感動は︑感動というものの性質上︑どうしようもなく完全なものであったと思った ︶26
︵﹂︒さらに︑﹁私の持ってゐる複製は︑非常によく出来たものだが︑この︹本物の︺色の生々しさは写し得ておらず︑奇怪な事だが︑その為に︑繪としては複製の方がよいと︑私は見てすぐ感じた﹂と書いたのだった︒ 文芸評論家にここまで言われて︑美術の専門家が黙っているわけにはいかない︒昭和三三年の小林批判は︑美術批評家による小林のゴッホ論への反論と見るべきだろう︒先に紹介した座談会で︑今泉篤男が︽烏の群れ飛ぶ麦畑︾について︑﹁小林秀雄さんは感激したけれども︑あの絵はゴッホの中ではそんなにいい絵じゃないと僕は思っている﹂と述べたことを思い出そう︒これは︑小林が複製画しか見ていないから判断を間違った︑と言っているに等しい︒小林批
﹁ホンモノのゴッホ﹂は日本に何をもたらしたのか?二三 判は︑一面において︑複製画受容に対する批判でもあった︒美術批評家たちは︑本物の油彩画を見る機会が到来したことを絶好の機会と理解し︑︿小林秀雄は絵を見ていない﹀︑あるいは︑︿絵を見る力がない﹀と批判の言葉を発したのだと考えてよかろう︒ むろん︑だからといって小林秀雄の人気は失墜したわけでなく︑三三年の展覧会でも開幕の二日前に読売新聞社の企画で講演会が開かれるなど︑特権的な語り手であり続けている ︶27
︵︒しかし︑小林︵そして彼に代表される美術の専門家でない文化人たち︶の役割は相対的に低かったと言ってよい︒既述の通り︑美術雑誌はこぞってファン・ゴッホ展の特集号を組んだが︑そこには︑富永惣一︑土方定一︑今泉篤男︑嘉門安雄などの美術館関係者や学芸員︑あるいは針生一郎や瀬木慎一︑徳大寺公英︑中山公男などの美術評論家・美術史家︑そして︑多数の画家による﹁感想﹂や解説が並んだ︒美術の専門家の言葉が幅を利かせたのである︒これは昭和三三年のファン・ゴッホ展のきわめて重要な特徴である︒おそらく︑﹁本物﹂の作品が大量に来日することによって︑それについて語り得るのは美術をよく知る﹁本物﹂の専門家だという認識が強く意識されたのではないか︒本物の到来によって︑本物について語る美術の専門家という集団が︑新たにファン・ゴッホについて語る特権を得たのである︒彼らによる小林秀雄批判は︑本物を絶対化することで語る権利を得た専門家集団の登場を暗示する︑ひとつの大きな事件であったように思う︒ ③ ﹁式場ゴッホ﹂ 昭和三三年のファン・ゴッホ展において︑最もネガティヴな批判に晒されたのは︑かつての白樺派でも︑小林秀雄でもなく︑戦前・戦後を通じてファン・ゴッホ研究者として活躍していた式場隆三郎であった︒式場についても︑木下長宏は昭和七年の大著﹃ファン・ホッホの生涯と精神病﹄︵聚楽社︶を詳細に分析し︑ゴッホ神話形成に多大な影響をもったことを明らかにしているが︑戦後の仕事についてはほとんど触れていない ︶28
︵︒しかし︑昭和二〇年から昭和三三年までの間に︑式場は︑戦前の著作の改訂版や翻訳も含めて︑ファン・ゴッホに関わる出版物を四二冊も刊行する当時最も著名なファン・ゴッホ研究者であった ︶29
︵︒精神科医であった式場は︑﹁ファン・ゴッホを自殺に追い込んだ精神異常の究明﹂を研究の核とし︑その人間性と人生から作品を解明することを目指していた︒ たしかに︑表面的には式場隆三郎への名指しの批判はそれほど目立っていない︒先に引いた吉田穂高の言葉︵﹁式場ゴッホ﹂が﹁何か片寄った不自然な姿をもっていた﹂︶があるくらいである︒しかし︑暗に式場の功績を貶める記事は枚挙にいとまがない︒たとえば︑展覧会前日に主催者の﹃読売新聞﹄は識者による座談会を掲載し︑参加者の岡本太郎の﹁作品を見ると気が違っていたとは考えられない﹂という言葉を要約し︑﹁あくまでも健康的な作品﹂と見出しを打った ︶30
︵︒式場が研究の中心とした﹁狂気﹂や﹁精神病﹂と作品との関係を最初から全面否定する姿勢を示したのである︒この傾向は︑宮本三郎﹁狂気への逆説﹂︵﹃毎日新聞﹄一〇月二二日︶や小野
藤原 貞朗二四 忠弘﹁狂っていないゴッホ﹂︵﹃三彩﹄一一月号︶にも顕著となっている︒これらの記事においても︑式場の病理学的解釈への批判は︑単に﹁本物を見る限り︑病理と作品は関係ない﹂という直感的な﹁感想﹂に終始している︒﹃藝術新潮﹄が次のような一般客の﹁感想﹂を特筆大書したことに︑それは象徴的である︒曰く︑﹁精神病患者のゴッホを知らなくては︑彼の藝術は正しく理解されないのか︒ゴッホ藝術を理解するために︑あまりにも遠廻りをしすぎたし︑末梢的なことばかりを教えこまれていたと思う﹂︑あるいは︑﹁ゴッホといえばかならず口にでる精神異常の影︑それは少しも認められなかった︒それどころか︑私は画面に彼の人間にたいする温かい思い遣りが感じられてうれしかった ︶31
︵﹂︒ こうした大衆的メディアの反応に式場隆三郎は深く傷ついたに違いない︒戦中・戦後の式場は︑日本の文化復興を願って︑S・ポラチェック作﹃焔と色︵ゴッホ伝記小説︶﹄の翻訳︵昭和一六年︶やI・ストーン作﹃人生の情熱﹄の翻訳︵昭和二六年︶︑あるいは︑評伝画集﹃ヴァン・ゴッホ﹄︵新潮社︑昭和二九年︶︑﹃炎の自画像﹄︵新潮社一時間文庫︑昭和三〇年︶といった一般向けのファン・ゴッホ伝を数多く手がけていたからである︒戦後の式場の活躍は著作物に止まらなかった︒昭和二五年にアラン・レネによる映画﹃ゴッホ﹄の上映会を日本全国で開催したのを皮切りに︑翌年は劇団民藝のファン・ゴッホ劇﹃炎の人﹄に積極的に関与し︑松阪屋デパートで複製画を中心としたファン・ゴッホ展を開いた︒さらに昭和二八年には﹁生誕百年記念ヴァン・ゴッホ展﹂を丸善で組織し︑﹁文献 五〇〇点︑大判原色複製で額に入つたもの百五十点︑資料百点﹂を出品︑展覧会は空前の成功を収め︑最終日には一万人近い観客が押し寄せる事態にもなった︒展覧会にあわせて︑ラジオやテレビでドラマも制作され︑戦後の﹁ゴッホ・ブーム﹂と称される現象となった︒そしてその渦中にいた式場は︑ブームの立役者として時の人となる ︶32
︵︒ このように︑昭和三三年の展覧会の直前までは︑﹁ゴッホといえば式場﹂と一般に認知され︑さらには﹁ゴッホ人気﹂以上に式場の人気が勝っていたとすらいえる状況だった︒昭和三三年のファン・ゴッホ展の成功の背景には︑戦後の式場の活躍があったといってよいかもしれない︒観客の誰もがファン・ゴッホの複製画を知り︑複製と本物を比較しえたのはひとえに式場のお陰である︒それにも関わらず︑展覧会に式場隆三郎の活躍の場はなかった︒たしかに最小限の敬意は払われ︑東京展の﹁名誉委員﹂に名を連ね︑読売新聞主催の連続講演会のトップバッターに抜擢されてはいる ︶33
︵︒だが︑展覧会に直接的に関与できず︑武者小路と同様に﹁過去の人﹂として処遇された感があった︒五年前の生誕百年祭ではイベントの中心にあってマスメディアに頻繁に登場した式場の顔が︑今回は全く見えない︒本稿でも取り上げたように︑展覧会を話題にした座談会が盛んに行われたが︑式場は座長を務めることはおろか︑参加すらできていない︒とりわけ奇妙なのは︑こぞって特集号を出した美術雑誌︵﹃藝術新潮﹄一〇・一一・一二月︑﹃みづゑ﹄臨時増刊︑﹃三彩﹄一一月︑﹃美術手帖﹄一一・一二月︶に︑式場は一文も寄稿していな
﹁ホンモノのゴッホ﹂は日本に何をもたらしたのか?二五 い事実である︒美術の専門誌が式場を敬遠︑ないし無視したことは明らかである ︶34
︵︒ 式場の人気に対する単なるやっかみもあったろう︒積極的に︑複製画展や伝記執筆やテレビ・ドラマ制作で活躍する式場への対抗心が美術の専門家になかったとはいえまい︒日本を代表するファン・ゴッホ研究者とはいえ︑式場は精神科医であり︑美術史家でも美学者でもなかった︒美術の専門家たちには︑展覧会を開いて︑式場に一泡吹かせたい︑そんな意気込みもあったろうと想像される︒ 興味深いことに︑この展覧会における式場の存在の希薄さは︑一部のメディアの話題になっている︒この展覧会の特異な点は︑開催に至るプロセスが幾つかの雑誌の特集記事となっていることである︒たとえば︑﹃藝術新潮﹄は﹁ゴッホ展をめぐる争奪戦︑ゴッホ展交渉白書・読売朝日争奪の記﹂︑﹃週刊読売﹄は﹁七年がかりのゴッホ展﹂と題する長文のゴシップ記事を掲載し︑普通は語られることのはばかられる展覧会の舞台裏を話題にしている ︶35
︵︒これらの記事によれば︑主催者の読売新聞が展覧会の計画を立てたのは八年前の昭和二五年に遡る︒しかし︑戦後処理の問題や中東の動乱を理由に交渉は難航する︒昭和二九年に一旦交渉が成立するも︑昭和三一年のスエズ動乱により︑展覧会は無期延期となる︒困難の連続だったがゆえにゴシップ記事となりえたわけだが︑展覧会が暗礁に乗り上げた昭和三二年春の出来事として︑﹃藝術新潮﹄の記事は﹁ゴッホ展をめぐる暗流﹂を紹介し︑そこで式場隆三郎に言及している︒遅々として進展しない読売新聞の企画に業を煮やして︑式場がスイ スの画商フェリックス・ティコティンと組んで︑朝日新聞に別のファン・ゴッホ展の企画を持ち込んだというのである ︶36
︵︒記事は書く︒
チコチンに協力している式場隆三郎の噂は相当にひろがっていた︒式場は言うまでもなく︑ゴッホ研究者として著名である︒その式場に︑ゴッホ展をやるのになんの相談もしなかったというのが︑ここ数年来︑かれにはおもしろくないことであったらしい︒︵中略︶また︑式場自身もゴッホを日本へもってきたい一心からか︑ぼくがオランダへいって交渉してきてあげようか︑ともちかけたこともあった︒読売が式場のそういう協力をのぞまなかったのは︑式場個人の力を信用しなかったか︑独自の立場であくまでやりたかったからか︒︵中略︶その式場に︑それじゃ︑ひとつ朝日に協力してやろうとする気持ちがおきたのも当然かもしれない︒
あくまでも噂であり︑真偽は不明である︒しかし︑ここでの問題は︑式場が自分抜きで計画が進められたファン・ゴッホ展を﹁おもしろくない﹂と感じ︑計画に横槍を入れたかのように報じられていることである︒記事はさらに式場の計画と交渉過程を細かく書いている︒結局︑式場の計画は実現していないので︑記事の趣旨は式場の介入を茶番劇として紹介することにあったといってよい︒ この記事から浮かび上がるのは︑展覧会を主催する新聞社の争い
藤原 貞朗二六 である︒読売新聞は敗戦直後から美術展活動を積極的に行い︑昭和二二年の泰西名画展以来︑マチス展とピカソ展︵昭和二六年︶︑ブラック展︵昭和二七年︶などを次々と実現していた︒一方︑出遅れた朝日新聞も昭和二九年にルーヴル美術館所蔵品による﹁フランス美術展﹂を実現し︑﹁規模といい︑入場者数といい︑あらゆる意味で︑戦後十年間の最大の美術展﹂と評価される成功を収めた ︶37
︵︒﹁ゴッホ展をめぐる争奪戦﹂の背景には激化する新聞社間の展覧会誘致活動があった︒式場隆三郎は朝日新聞とのつながりが深かった︒先に触れた昭和二五年の映画﹁ゴッホ﹂の上映会は︑式場が所属する﹁フランスの会︵フランス文化の会︶﹂の主催だが︑この会は朝日新聞文化事業団を後援につけていた︒昭和二八年の﹁ゴッホ生誕百年祭﹂でも︑朝日は講演会や展覧会を支援していた︒このとき︑すでにファン・ゴッホ展の計画と交渉を進めていた読売新聞は︑式場の活動を一切報じていない︒こうした経緯を確認すれば︑昭和三三年の一連の式場パッシングの背景には︑新聞社のしがらみが作用していたことが分かる︒ しかし︑これだけでは︑美術専門誌が式場隆三郎を無視した理由を説明できない︒式場に対する批判にはもうひとつ大きな理由があったと考えられる︒ よく知られるように︑式場隆三郎は軽度の知的障がいを持つ山下清とその作品を戦後に広めた立役者でもあった ︶38
︵︒戦前から貼絵の天才児童として山下は注目されてはいたが︑成人した戦後は日本各地を放浪し︑一時は行方不明にもなっていた︒式場は朝日新聞の記者 と協力して︑昭和二九年に放浪中の山下清を捜索して探し出し︑彼の放浪記や画集を出版する︒このとき︑山下は式場が支援したこともあって︑﹁日本のゴッホ﹂と呼ばれ︑世間に再び知られることとなった︒昭和三一年から三三年にかけては︑山下清作品展を主要都市や地方で開催して大成功︑﹁山下清ブーム﹂をもたらしていた︒ 山下清の貼絵は爆発的な大衆的人気を獲得したが︑美術の専門家には認められなかった︒たとえば︑先述の昭和三三年の﹃美術手帖﹄の座談会でも︑土門拳と今泉篤男の間で次のような会話が交わされている︒
土門 ゴッホの絵にはしくじりがない・・・描きはじめたら最後まで迷わずに憑かれたように描きまくって・・・ちょうど日本の山下清みたいに︑・・・・︒ 今泉 ・・・しかし土門さん︑山下清といっしょにしちゃいけないね︒︵笑︶ 土門 原画を見て山下清とは少し違うということはわかったけれども ︶39
︵︒︵笑︶
土門は﹁日本のゴッホ﹂と呼ばれて人気を博していた山下清を比較に挙げたのだが︑今泉篤男はそれを一笑に付す︒今泉は昭和三一年に山下清が作品展で話題になったときも︑単なる﹁社会面の画家﹂︵すなわち︑知的障がい者ゆえにマスコミに騒がれる人物︶としてしか山下を評価していなかった ︶40
︵︒通俗的人気を得た山下清はさらに
﹁ホンモノのゴッホ﹂は日本に何をもたらしたのか?二七 昭和三一年頃から大衆雑誌に頻繁に登場し︑昭和三三年一〇月には︑彼を主人公とする劇映画﹃裸の大将﹄︵堀川弘通監督︑小林桂樹主演︶も公開された︒ちょうどファン・ゴッホ展が開催された時期である︒美術界は︑芸術家というよりは芸人のように大衆的人気に支えられた山下の作品を認めようとはしなかったのだった︒ こうした状況のなかで︑山下を支援していた式場隆三郎も︑美術界から︑ある意味で敬遠される存在となりつつあった︒昭和三三年六月に﹃藝術新潮﹄に発表された荒正人の﹁山下清よ︑どこへゆく﹂と題する記事は衝撃的な内容で︑﹁なぜ式場隆三郎は山下清の猿まわしになっているのか﹂と名指しで糾弾されている︒﹁猿回しの猿のような境遇﹂にいる山下は﹁もうこの辺で︑マスコミから引退﹂させるべきで︑それは﹁式場隆三郎の名誉のためにも必要﹂だと主張した ︶41
︵︒式場は︑美術界が敬遠する山下を売り出した人物として︑昭和三三年頃には美術界から冷たい対応を余儀なくされる立場にあった︒それゆえに︑美術雑誌はファン・ゴッホ展に際して︑式場に近寄らなかったと推察できる︒ 昭和三三年の式場隆三郎に向けられた批判は︑戦後の美術界において︑ファン・ゴッホ展がいかに大きな意味をもつ出来事であったかを暗示している︒五年前の昭和二八年にはファン・ゴッホの複製画展によって美術界からも評価された式場が︑まったく正反対に否定される存在となる︒また︑﹁日本のゴッホ﹂山下清は︑昭和三〇年には式場の監修のもとに新潮社から﹃山下清画集﹄を刊行したのだが︑その三年後には︑同じ新潮社の雑誌﹃藝術新潮﹄で美術家の 質を不問にするような記事を突きつけられる︒あたかも﹁本物のゴッホ︵の作品︶﹂の到来によって︑﹁日本のゴッホ﹂も︑そして複製画展も︑偽者ないし贋物扱いされ︑美術界から追放される運命にあったかのようである︒この展覧会は︑木下長宏のいう﹁思想的な事件﹂にはなりえなかったかもしれないが︑美術界においては︑きわめて甚大な価値観の転換を引き起こす契機となったと言うべきではないだろうか︒︵後編に続く︶
注
︵
︵ ファン・ゴッホ展﹂︶︑﹃民藝手帖﹄一〇月号など︒ づゑ﹄︵六四二号︑一一月︑臨時増刊ファン・ゴッホ号︶︑﹃三彩﹄︵一一月﹁特集 ﹃美術手帖﹄︵一一月﹁ファン・ゴッホ展記念号﹂︑一二月﹁特集 ゴッホ展﹂︶︑﹃み 1︶﹃藝術新潮﹄︵一一月﹁特集 ゴッホ展を観て﹂︑一二月﹁特集 ゴッホ展余録﹂︶︑
︵ い﹂と述べている︒ 展が開かれているのですが︑こんどのファン・ゴッホ展にはとても及びもつかな の展覧会でしょう︒いままで︑マチス︑ピカソ︑ブラック︑ルオーと西欧の名画 針生の言葉を受けた和田伊都夫も︑﹁ファン・ゴッホ展が一九五八年度では最大 2︶﹃美術年鑑﹄︑昭和三三年一二月︑対談﹁一九五八年 美術界の問題をめぐって﹂︒
︵ 3︶木下長宏﹃思想史としてのゴッホ 複製受容と想像力﹄︑學藝書林︑平成四年︒
︵ 聞﹄昭和三三年十月二二日︒ 4︶武者小路実篤﹁ファン・ゴッホ展をみて 実現された五十年前の夢﹂︑﹃朝日新
︵ 5︶木下︑前掲書︑二三七ページ︒
︵ 6︶﹃読売新聞﹄昭和三三年一〇月一四日︒
︵ 7︶﹁ゴッホ展余禄﹂︑﹃藝術新潮﹄昭和三三年一二月︑二八八ページ︒
︵ 一一月︑六ページ︒ 8Vincent van Gogh︶富永惣一﹁﹂︑﹃みづゑ 臨時増刊ファン・ゴッホ﹄昭和三三年 帖臨時増刊 美術年鑑﹄︑昭和三三年一二月︑一〜一〇ページ︒ 9︶和田伊都夫・針生一郎︵対談︶﹁一九五八 美術界の問題をめぐって﹂︑﹃美術手