エジプトの奴隷制と女性の技術 一女性と技術史教育(3)一
永 島 利 明*
(1990年9月14日受理)
Slavery and Women s Technology in Egypt:
Women and the History of Technology Education(Part 3)
Toshiaki NAGAsmMA
(Received September 14,1990)
は じ め に
日本の義務教育や技術教育のなかではあまり奴隷制生産にふれていないように思われる。リンカ 一ンによる奴隷解放は教えられているものの,アメリカだけの問題として子どもに受取られている。
技術史教材を扱った小・中の学習指導要領にはきわめて少ない。社会科では1951年版の「中学校・
高等学校学習指導要領 社会科編H 一般社会科」に「エジプトのピラミッドや中国の万里の長城 などを作った大昔の大工事は,どんな方法で,どれ位の労力や日数をかけて行われていたといわれ ているか,それぞれは,どんな目的で作られたかを調べて報告する。それでこれらの写真を集めて 展覧する」とあるのみである1)。日本国憲法は「われらは,平和を維持し,専制と隷従,圧迫と偏 狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において,名誉ある地位を占めたいと思ふ」
と宣言している。この隷従の意味することをもっと教育のなかに入れるべきであろう。
女王の楽園
人間は原始社会では共同して労働していたが,生産手段である道具を発明し,改良した。このこ とにより性別と年齢別による分業が生じた。生産用具の改善により,牧畜や狩猟から農業社会が成 立して,社会的分業が生じた。村と村や牧畜を営むものと農業を営む人との間では生産物の交換が 行われるようになった。最初,家畜の私有が行われたが,その後しだいに生産用具は私有になって いった。道具の改善により,人間は自分の生活に必要とする以上の生産物を得ることができるよう になった。私有財の拡大にともない貧富の差が生まれた。
*茨城大学技術科教育研究室.
192 茨城大学教育学部紀要(教育科学)40号(1991)
私有財産が増加してくると,それをますます増大させようとして,部落のあいだで争いがおこり 戦いがはじまる。負けた部落の財産は,勝った部落にうばわれ,人は捕虜となる。捕虜を労働に使 って,富を生ませる。さらに,村のなかで貧富が拡大すると,貧しい家族は子どもを奴隷に売り,
借金や借財が返せなくなると,自分自身も奴隷にならざるをえなかった。こうした奴隷制はエジプ トでは紀元前4000年代の終ごろにあらわれている。
奴隷制社会にはエジプトのように君主制をとるもの,ギリシャやローマのように共和制をとるも のがあった。エジプトの王たちは中央集権制をとり,神格化されていた。神として巨大な墓を作り,
そのため石切りや石組みの技術が発達した。坑道や墓室を石製の巨大な壇にのせることに成功して ピラミッドを完成させた。エジプトの王朝で明確なものは第1王朝(前3100〜2890)から,第30王 朝(前380〜343)まで続いている2)。第18王朝のマカラ・ハトシェプスト(1479−1458)は古代に おける世界最大の建造物ひとつといわれているものをデール・エル・ババリの崖下に残している。
それはハトシェプスト女王葬祭殿である。
この葬祭殿は山を背にしてその景観を利用して建築されている3)。すべて対称的に作られている。
2階のテラスは2つの神殿に通じている。北の神殿はアヌビス神(死者の国の神で山犬の形をし,
ミイラづくりをたすける神)をまつっている。南の神殿はハートル女神(愛と育成の神,牝牛の頭 をもつ神〉にささげられている。西の葬祭殿は岩山ふかく堀り抜かれて,三方が岸壁にかこまれて いる。2階のテラスにはオシリス神(死者をさばく神。死すべき運命をもつ者に永遠の生命を与え る。エジプト人はこの神が介入しないと腐敗すると恐れた)への供えものをささげもつ王妃ハトシ エプストの彫像の列で仕切られ,中央に列柱のある中庭,左右に小神殿,中央奥にかけてくりぬい た小神殿がある。それぞれのテラスの下は柱廊となっていて壁には王妃の伝説を浮彫している。
トトメス2世(1493−1479)と結婚したハトシェプストは奴隷の娘であったという説もある。小 さいときから花が好きであった。彼女が20歳のとき夫は死んだ。南方で反乱が続いていたので,王 位についたのは彼女ではなく,なりあがり者の僧出身のトトメス3世(前1479−1425)であった。
彼女は未亡人として一生を終ろうとしていたが,34歳のとき,強引に王妃にされてしまった。この ためふたりの仲はうまくいかなかった。王妃の子どもの教師セヌストは彼女を尊敬して政党を作っ た。この党の勢力は大きくなり,彼女は王に推薦された。トトメス3世は宮殿より逃げ出してしま
った。
王妃のとき,彼女は父の葬られている「王陵の谷」に墓参をするとき,この山の麓に神殿を建て たいと思っていたので,セヌストにそれを担当させた。ふたりは設計図を検討し,工事の監督をし た。王妃は女性が集まって楽しむ神殿と花壇を作った。役人に珍しい花や木を集めさせた。ナイル から神殿まで運河の水をひき,水草を育てた。花壇に女性たちを集めて宴会をした。また,保育所 や学校や病院を建てたので,国民から尊敬されて,国が栄えた。
彼女の像は多く作られたが,夫のトトメス3世はそれを喜ばず,セヌストを暗殺させた。女王は 55歳で病死したが,大神殿には埋葬されず,「王陵の谷」の父の墳墓に埋葬された。トトメスは再 び王位につき,彼女の像や浮彫から目立たぬように彼女の首をはね,彼女の名をなきものにしよう と試みた。このため王妃の大神殿は廃虚となり放置されたままになっていたが,ごく最近に再び脚 光をあびるようになった。トトメス3世はどうしてこの女王の政治的手腕を賞賛しなかったのであ ろうか。嫉妬深さのために,トトメス3世はすぐれた女性を妻にもつ男のあり方に反面教師の役割
ゐ
を果たしたのである。なお,彼女については吉村作治「ツタンカーメンの謎」(講談社現代新書,
1984)にもみられる。女王は鉱山の開発をした。古代エジプトでは金はとれたが,銀や銅,トルコ 石は産出されなかった。トルコ石の青は神聖な色として珍重された。女王はシナイ半島の鉱山を開 発し,銀・銅・トルコ石だけではなく,孔雀石,緑色長石,藍玉などを採掘した。
一般にピラミッドは巨大なために,多くの奴隷が集められたというようにみられている。しかし,
これは誤りであるという説がある4)。耕地が水に覆われて農耕に適さなくなるナイル河の氾濫期に 王は農民をピラミッド作りの仕事に狩り出したという。これに参加したのは,農民であって,一時 的な徴用者であったというのである。エジプトでは家事用の召使を別とすれば,奴隷の数は多くは なかった。割当仕事が行われたので,奴隷は必要なかったのである。
ピラミッドを作るには専門の集団がいて,王家の谷と王妃の谷の近くの村であるディル・エル・
メディナに住んでいた。ピラミッド作りの職業をもつ夫が仕事中に留守になると,この村では女性 だけが働いていた5)。妻たちは,家庭の面倒をみていたが,特別に国から穀物を製粉する女性の奴 隷が与えられていた。この点ではピラミッド作りの夫をもつ家庭は優遇されていた。妻の仕事とし ては家族の着物を用意することも含まれていた。一日のうちの相当の部分が縫うことや織ることに 費やされた。
古代エジプトにおいてはほかの古代社会とは逆に,女性は比較的優遇されていた6)。女性を社会 生活から遠ざけるようなタブーもほとんどなかった。顔をおおわなければならないこともなかった
し家のなかで隔離されることもなかった。妻はエジプト法のもとでは夫と平等であった。彼女は相 続によって得た財産を完全に管理していた。彼女は夫婦の財産の3分の1に対して権利をもってい た。夫も妻も離婚の自由をもっていた。しかし,ある種の経済上の罰が課せられた。姦通以外のほ かの原因で離別するならば,慰謝料のようなものが一回に限って与えられた。こうした背景があっ てはじめてハトシエプスト女王が出現したのである。
しかし,彼女には異説もある。ハトシエプストは第18王朝のトトメス1世の王女であった7)8)。
彼女はトトメス2世と結婚し,2世の死後当然王権を3世にわたすべきところをわたさず,20年も 在位した。しかし,彼女としてもそれまでの王の慣例に従わざるを得なかった。たとえば,儀式の
ときには彼女は常に男装をしており,その葬祭殿においては神としての誕生の場面をあらわすとき は裸の男児として表現せざるを得なかったという。
ハトシエプストが奴隷の娘であったとすれば,父親が王陵の谷に葬られたというのには疑問があ る。トトメス1世の娘であったと考える方が妥当であろう。しかし,王権を3世に渡すべきである という見方は王権は男子世襲という男本位の慣例にもとついた考えにとらわれている。女王が20年 も権力の座についていることができたのは,歴代の王朝が対外侵略政策をとり続けていたので,国 民がそれらをきらい,女王の平和政策を支持したからではないだろうか。
女性の権力者は新しい建造物を好む傾向があるようである。大化の改革の詔の10年後,655年に帝 位についた斉明女帝は,古事記によれば657年にハヤトやエシミなどを征服して響応の場をつくるた め,須弥山という石造物を作った9)。これは先進国から伝来した宗教を象徴する石造物で元首とし ての権威を示すことを目的として作ったようである。その先年にも両槻宮の造営をしており,大規 模な建築や土木工事を好み批判されている。大化の改新という専制支配者としての意志がもっとも 露骨な形であらわれた時期という彼女の在位中の一連の工事は途中で中止され放置されたようであ
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