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女王の楽園

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エジプトの奴隷制と女性の技術 一女性と技術史教育(3)一

永 島 利 明*

(1990年9月14日受理)

Slavery and Women s Technology in Egypt:

Women and the History of Technology Education(Part 3)

Toshiaki NAGAsmMA

(Received September 14,1990)

は じ め に

日本の義務教育や技術教育のなかではあまり奴隷制生産にふれていないように思われる。リンカ 一ンによる奴隷解放は教えられているものの,アメリカだけの問題として子どもに受取られている。

技術史教材を扱った小・中の学習指導要領にはきわめて少ない。社会科では1951年版の「中学校・

高等学校学習指導要領 社会科編H 一般社会科」に「エジプトのピラミッドや中国の万里の長城 などを作った大昔の大工事は,どんな方法で,どれ位の労力や日数をかけて行われていたといわれ ているか,それぞれは,どんな目的で作られたかを調べて報告する。それでこれらの写真を集めて 展覧する」とあるのみである1)。日本国憲法は「われらは,平和を維持し,専制と隷従,圧迫と偏 狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において,名誉ある地位を占めたいと思ふ」

と宣言している。この隷従の意味することをもっと教育のなかに入れるべきであろう。

女王の楽園

人間は原始社会では共同して労働していたが,生産手段である道具を発明し,改良した。このこ とにより性別と年齢別による分業が生じた。生産用具の改善により,牧畜や狩猟から農業社会が成 立して,社会的分業が生じた。村と村や牧畜を営むものと農業を営む人との間では生産物の交換が 行われるようになった。最初,家畜の私有が行われたが,その後しだいに生産用具は私有になって いった。道具の改善により,人間は自分の生活に必要とする以上の生産物を得ることができるよう になった。私有財の拡大にともない貧富の差が生まれた。

*茨城大学技術科教育研究室.

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私有財産が増加してくると,それをますます増大させようとして,部落のあいだで争いがおこり 戦いがはじまる。負けた部落の財産は,勝った部落にうばわれ,人は捕虜となる。捕虜を労働に使 って,富を生ませる。さらに,村のなかで貧富が拡大すると,貧しい家族は子どもを奴隷に売り,

借金や借財が返せなくなると,自分自身も奴隷にならざるをえなかった。こうした奴隷制はエジプ トでは紀元前4000年代の終ごろにあらわれている。

奴隷制社会にはエジプトのように君主制をとるもの,ギリシャやローマのように共和制をとるも のがあった。エジプトの王たちは中央集権制をとり,神格化されていた。神として巨大な墓を作り,

そのため石切りや石組みの技術が発達した。坑道や墓室を石製の巨大な壇にのせることに成功して ピラミッドを完成させた。エジプトの王朝で明確なものは第1王朝(前3100〜2890)から,第30王 朝(前380〜343)まで続いている2)。第18王朝のマカラ・ハトシェプスト(1479−1458)は古代に おける世界最大の建造物ひとつといわれているものをデール・エル・ババリの崖下に残している。

それはハトシェプスト女王葬祭殿である。

この葬祭殿は山を背にしてその景観を利用して建築されている3)。すべて対称的に作られている。

2階のテラスは2つの神殿に通じている。北の神殿はアヌビス神(死者の国の神で山犬の形をし,

ミイラづくりをたすける神)をまつっている。南の神殿はハートル女神(愛と育成の神,牝牛の頭 をもつ神〉にささげられている。西の葬祭殿は岩山ふかく堀り抜かれて,三方が岸壁にかこまれて いる。2階のテラスにはオシリス神(死者をさばく神。死すべき運命をもつ者に永遠の生命を与え る。エジプト人はこの神が介入しないと腐敗すると恐れた)への供えものをささげもつ王妃ハトシ エプストの彫像の列で仕切られ,中央に列柱のある中庭,左右に小神殿,中央奥にかけてくりぬい た小神殿がある。それぞれのテラスの下は柱廊となっていて壁には王妃の伝説を浮彫している。

トトメス2世(1493−1479)と結婚したハトシェプストは奴隷の娘であったという説もある。小 さいときから花が好きであった。彼女が20歳のとき夫は死んだ。南方で反乱が続いていたので,王 位についたのは彼女ではなく,なりあがり者の僧出身のトトメス3世(前1479−1425)であった。

彼女は未亡人として一生を終ろうとしていたが,34歳のとき,強引に王妃にされてしまった。この ためふたりの仲はうまくいかなかった。王妃の子どもの教師セヌストは彼女を尊敬して政党を作っ た。この党の勢力は大きくなり,彼女は王に推薦された。トトメス3世は宮殿より逃げ出してしま

った。

王妃のとき,彼女は父の葬られている「王陵の谷」に墓参をするとき,この山の麓に神殿を建て たいと思っていたので,セヌストにそれを担当させた。ふたりは設計図を検討し,工事の監督をし た。王妃は女性が集まって楽しむ神殿と花壇を作った。役人に珍しい花や木を集めさせた。ナイル から神殿まで運河の水をひき,水草を育てた。花壇に女性たちを集めて宴会をした。また,保育所 や学校や病院を建てたので,国民から尊敬されて,国が栄えた。

彼女の像は多く作られたが,夫のトトメス3世はそれを喜ばず,セヌストを暗殺させた。女王は 55歳で病死したが,大神殿には埋葬されず,「王陵の谷」の父の墳墓に埋葬された。トトメスは再 び王位につき,彼女の像や浮彫から目立たぬように彼女の首をはね,彼女の名をなきものにしよう と試みた。このため王妃の大神殿は廃虚となり放置されたままになっていたが,ごく最近に再び脚 光をあびるようになった。トトメス3世はどうしてこの女王の政治的手腕を賞賛しなかったのであ ろうか。嫉妬深さのために,トトメス3世はすぐれた女性を妻にもつ男のあり方に反面教師の役割

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を果たしたのである。なお,彼女については吉村作治「ツタンカーメンの謎」(講談社現代新書,

1984)にもみられる。女王は鉱山の開発をした。古代エジプトでは金はとれたが,銀や銅,トルコ 石は産出されなかった。トルコ石の青は神聖な色として珍重された。女王はシナイ半島の鉱山を開 発し,銀・銅・トルコ石だけではなく,孔雀石,緑色長石,藍玉などを採掘した。

一般にピラミッドは巨大なために,多くの奴隷が集められたというようにみられている。しかし,

これは誤りであるという説がある4)。耕地が水に覆われて農耕に適さなくなるナイル河の氾濫期に 王は農民をピラミッド作りの仕事に狩り出したという。これに参加したのは,農民であって,一時 的な徴用者であったというのである。エジプトでは家事用の召使を別とすれば,奴隷の数は多くは なかった。割当仕事が行われたので,奴隷は必要なかったのである。

ピラミッドを作るには専門の集団がいて,王家の谷と王妃の谷の近くの村であるディル・エル・

メディナに住んでいた。ピラミッド作りの職業をもつ夫が仕事中に留守になると,この村では女性 だけが働いていた5)。妻たちは,家庭の面倒をみていたが,特別に国から穀物を製粉する女性の奴 隷が与えられていた。この点ではピラミッド作りの夫をもつ家庭は優遇されていた。妻の仕事とし ては家族の着物を用意することも含まれていた。一日のうちの相当の部分が縫うことや織ることに 費やされた。

古代エジプトにおいてはほかの古代社会とは逆に,女性は比較的優遇されていた6)。女性を社会 生活から遠ざけるようなタブーもほとんどなかった。顔をおおわなければならないこともなかった

し家のなかで隔離されることもなかった。妻はエジプト法のもとでは夫と平等であった。彼女は相 続によって得た財産を完全に管理していた。彼女は夫婦の財産の3分の1に対して権利をもってい た。夫も妻も離婚の自由をもっていた。しかし,ある種の経済上の罰が課せられた。姦通以外のほ かの原因で離別するならば,慰謝料のようなものが一回に限って与えられた。こうした背景があっ てはじめてハトシエプスト女王が出現したのである。

しかし,彼女には異説もある。ハトシエプストは第18王朝のトトメス1世の王女であった7)8)。

彼女はトトメス2世と結婚し,2世の死後当然王権を3世にわたすべきところをわたさず,20年も 在位した。しかし,彼女としてもそれまでの王の慣例に従わざるを得なかった。たとえば,儀式の

ときには彼女は常に男装をしており,その葬祭殿においては神としての誕生の場面をあらわすとき は裸の男児として表現せざるを得なかったという。

ハトシエプストが奴隷の娘であったとすれば,父親が王陵の谷に葬られたというのには疑問があ る。トトメス1世の娘であったと考える方が妥当であろう。しかし,王権を3世に渡すべきである という見方は王権は男子世襲という男本位の慣例にもとついた考えにとらわれている。女王が20年 も権力の座についていることができたのは,歴代の王朝が対外侵略政策をとり続けていたので,国 民がそれらをきらい,女王の平和政策を支持したからではないだろうか。

女性の権力者は新しい建造物を好む傾向があるようである。大化の改革の詔の10年後,655年に帝 位についた斉明女帝は,古事記によれば657年にハヤトやエシミなどを征服して響応の場をつくるた め,須弥山という石造物を作った9)。これは先進国から伝来した宗教を象徴する石造物で元首とし ての権威を示すことを目的として作ったようである。その先年にも両槻宮の造営をしており,大規 模な建築や土木工事を好み批判されている。大化の改新という専制支配者としての意志がもっとも 露骨な形であらわれた時期という彼女の在位中の一連の工事は途中で中止され放置されたようであ

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る。

斉明天皇は瓦ぶきの屋根を建築しようとした点には先見の明があった。従来の木ぶきの宮殿を瓦 ぶきに改めようとしたが,完成しなかった。この革新的な建物は朝鮮の支配をめざしていた新羅に 対抗するための威信をかけた事業であった。

中国では階が滅んで唐が全国を統一し,朝鮮では唐と連合した新羅が強くなった。日本は391年 に朝鮮に出兵して百済や新羅を破った以後,朝鮮の一部を支配していた。新羅は百済に侵入したの で,百済は日本に援助を求めた。日本は661年(斉明7年)に半島に出兵した。しかし,百済救済 のために作った舟が引いていく途中,ゆえもなく向きが逆になっていくとか,科野国ではえの大群 が西に向ってとび去ったという報告があった。民衆はこれによって日本の敗戦を知ったという。太 平洋戦争のとき,戦争に負けて退却したことを転進というように言い換えをしたが,すでにその原 形はここにみられた。

斉明女帝は周垣,両槻宮,瓦ぶき宮まで大工事を行った。そのたびに課された倍役労働の負担は 民衆にとってたえがたいものであった。どうして息子であった中大兄皇子(後の天智天皇)は即位 せず,彼女が帝位についたのか。皇子は蘇我氏らの大氏族の力をおさえ,進歩的な留学生の意見を いれて政治をかえようとしていた。政治の実権は皇子がにぎっており,彼女は実際はそのあやつり 人形であったようである。工事には彼女の意志で行われたものもあったが,周囲で実権をにぎって いた政治家たちが失脚を恐れて,失政の責任を彼女に負わせてしまったのが真相のようである。

酒  造  り

大規模な土木建築は普通の庶民に関係のないことである。現在の日本では大都会ではサラリーマ ンが一戸建をもつことは困難になっている。しかし,のどをうるおす酒は誰にも手に入る。前2800 年頃の初期王朝時代のシュメールではブドウ酒が飲まれていた1°)。ナツメヤシでつくる酒も人気が あった。酒屋は女性が経営している場合が多かった。ハムラビ法典のなかに女性の酒売りがその家 に隠れている犯罪人を警察にひきわたすことを拒否したとき,彼女は死刑にしてよいと規定してい た。女性の司祭は酒を飲んだだけでも,酒屋の扉をあけただけでも,火あぶりの刑にするとしてい る。シュメール時代にもっとも飲まれたものはビールであった。酒売りは料理のひとつであり,女 性が得意とすることであった。メソポタミヤでは酒造りの職人は,酒の女神ニントルカフィの保護

をうけた。

酒をつくり売ることは低い地位の女性にとっては公認された地位であった。そればかりではなく 女性たちは財産をもつこともできたし,証人としての資格もあり,職にもつくことができた。夫は 妻が子どもをもつことができない場合には,お金を一定額支払うか,持参金を返済する必要があっ た。離婚する場合,持参金が支払われるばかりではなく,財産の半分が養育費として支払われた。

このように経済的な対価が支払われるため,あまり女性は束縛されなかった。

原住民の奴隷はハムラビ法典によると,3年の問働くと,4年目に解放されたll)。それ以外の捕

虜か,あるいは異国人の奴隷は身代金を払わなければ,解放されなかった。奴隷たちは神殿や宮殿

で働らき,また,少数のものは金持の家で働いていた。神殿奴隷の最古のものはギルスのバナやナ

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ンシュの神殿で188人と180人の女性奴隷がいた12)。これらの奴隷は紡織や粉ひきをしていたようで ある。糸つむぎや織物は家の炉ばたや戸外で行われていたが,シュメール地方ではすでに前3000年 紀の末期には高度に組織化された産業となった。すでに,それは家内工業の規模をこえて,女性だ

けではなく,男性も進出していた。神殿で働く女性は月経期間中には仕事が禁じられていた。

神殿の領地で収穫され,かつ貯えられた生産物は月給として奴隷などに与えられた。穀物は女性 は男性の半分しかもらえなかった。年給は男女とも同等であった。衣服用の半毛も年給で,男は2 キロ弱,女は1.4キロ,子どもは0.5から1キロ与えられた。

エジプト人は地面に杭を打っただけの水平式の織機を使っていた13)。しかし,新王朝時代になる と堅機式で糸巻きを2つ備えた織機が使われるようになった。それとともに織工として男性が女性 にとってかわった。この織機は長方形の厚い木枠によって作られていた。男2人が並んで作業して いたのであろう。男の織工は低いイスに座って,一日中織っていた。この織機はつづれ織りをする ことができた。トトメス4世の墓からは色のあざやかな赤・青・黄の蓮とパピルス文様を交互に配 色したあざやかな模様の長衣が出土した。

ヘロドトスがエジプトを訪れたとき,彼は男が織機にとり組んでいるのに,市場に行くのは女で あったという事実に驚いていたという14>。それまでの社会常識とは逆であったからである。エジプ プトには性的役割分業が一部ではゆるみ,女たちに自由があったからである。

エジプト人も古くからビールやぶどう酒の製法を知っていた15)。第5王朝の頃(前2494〜2345 頃),サッカラから石灰岩に彩色した「ビールづくりの女」が出土している。水をいれた大きなつ ぼのなかで,小枝でつくったふるいを使って,パンをこねている。その後で発酵させてビールを醸 造した。

南米のインカ帝国にも同じ例がみられた16)。子どもと女の仕事は収穫のときに,作物をねらう鳥 を追いはらうのが仕事であった。鳥のきらいな獣の皮をかぶり,片手で投石器を使い,もう一方の 手にはがらがらと音のでる棒をもっていた。昼間は子どもが,夜は女が見張番を交代で行った。

一部の少女たちには別の運命がまっていた。数年おきに政府の巡察官が村を訪ねてきて,10歳く らいの少女の選抜をした。美しくて健康なものは,地方の中心地の尼僧院におくられた。4年間彼 女たちは作法,宗教,糸つむぎ,織物,料理および酒の作り方を教えられた。彼女たちは選ばれた 女性であった。彼女たちのなかから,神のために犠牲になるものが選ばれることがあった。それは 名誉のある誇りのあることであるとされていた。犠牲にささげられた人には彼岸における休息と幸 福が与えられると信じられていたからであった。

教育期間が過ぎると,2回目の選抜が行われた。多くの娘たちは皇帝から貴族へ第2夫人として 贈り物とされた。皇帝はもっともよいとみられたものを妻とした。他の女性は太陽の処女として処 女を守りながら,神殿で太陽に奉仕させられた。彼女たちは尼僧院に住んで僧侶の監督をうけた。

彼女たちは祭礼に使用したり,僧のきる美しい布を織り,酒をつくることが大切な仕事であった。

日本においても古代においては酒造りは女性の仕事とみられていた17)。祭りに用い,神社に集ま

る人々がくみかわす酒は女性によって作られた。このことは播摩国風土記に書かれているが,この

本は713年(和銅6)の詔により編集されたと考えられる。この年は奈良に都がおかれた710年の3

年後のことである。神としての天皇の絶対性が確立した時代である。古事記や日本書紀が天皇制の

成立を中心に書かれているのに対して,風土記は地方に残っていたいいつたえを集めたものであっ

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た。はじめての地誌として価値があるとともに,中央だけではなく地方を含めて天皇中心の国家と 結びつけようという意図があった。今日残っているのは常陸,出雲,播摩,豊後,肥前の5力国の 風土記のみである。

日本書紀には木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)が「狭田(さなだ)の稲で天甜酒(あまの たむさけ)をかもした」と書かれている18)。「甜」とは味のよいことをいう古代の言葉である。大 昔の酒は酒かすを分けないにごったものであった。この酒も発酵が進むと,かすが底に沈み,にご らない部分ができる。これを上澄というが,これをざるや袋に入れて分離すると,透明な酒,清酒 ができる。

古事記の応神天皇の条に(4世紀の終り頃),王仁が論語,千字文をたずさえて,朝鮮半島の百 済から渡来し,そのとき一芸一技に秀いでたものが同行し,朝廷につかえたことが記されている。

そのなかに酒づくりの名人,須須許理(すすこり)がいて,酒を献上したという。この記録が男の 酒造者として最も古いものである。酒造りの職人を杜氏(とうじ)というが,須須許理は杜氏の最 初の人かもしれない。杜氏の名は一家の主婦,刀自と同じ語源から出ていると考えられる。農業が 女性によってはじめられたように,酒造りも農業や調理を分業していた女性によって創造されたの であろう。

酒造りも家庭内消費から発展して売買が行われるようになった。日本霊異記は薬師寺の僧景戒に よって編集された。成立は822年(弘仁13)ころのことであった。仏教思想をもとに民間説話を集 めたものであった。この本の中巻32に酒造りを業として村人に出す家主であるという女性がいたと いう。また,同書の巻26にも讃岐国大領の妻は水増した酒をふるまったと書かれている。これまで あげてきた例は女性が酒造りをしたものであった。

しかし,10世紀になると,女性は酒造りの主人公ではなくなった。延喜式は701年(大宝元)の大 宝律令の施行細則であった。それは平安初期の空中の年中行事や制度を記録した規定であった。全 50巻が撰進されたのは927年(延長5)であった19)。この延期の式の巻40「御酒司」 (みきのつか さ)の条に空中の造酒司がつくった15種類の酒が詳細に書かれている。これは8〜10世紀における 古代の酒造りを数量的につかむことのできる唯一の資料である。酒をつくるのには精米,仕込,貯 蔵の主要な3行程があるが,女性は米をつくのが仕事で酒の原料米1石(約30キロ)を4人の女が つくことになっていた。つまり,女性は精米だけを分業するようになった。朝廷のように酒を大量 に消費するところでは,酒造の最重要点である仕込みは男性の役割となっていた。

それでもなお,中世まで酒造りを女性がしている例もみられた2°)。室町時代に絵は土佐光信(?

〜1521?。1469年宮庭の画家となる。土佐派の栄位を確立),詞は三条西実隆作と伝えられる「七 十一番職人歌合には酒造りの女性がみられた。しかし,江戸時代になり,灘のような酒造の産地が 成立すると,女性は姿を消した。西鶴は「織留」(1694)のなかでつぎのようにのべている。

「池田,伊丹の売り酒,水より改め,米の吟味,こうじを惜しまず,さわりのある女は蔵に入れ ず,男も替えぞうりをはきし,出し入れすれば,軒を並べて今の繁盛」

このように17世紀の後期には酒の社会的分業と酒造における女性不浄観が成立している。

女性が酒造づくりから姿を消したのは,エジプトでも同じであった。第5王朝の頃,女性がピー

ルやワインを作っていたことはのべたが,前1500〜1400年頃書かれたと考えられているパピルスに

はワイン作りは男だけで作られるようになづている21}。新王朝時代(前1567〜1085)頃になると,

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ワインは大量に生産されるようになり,比較的一般にまで飲まれるようになった。王だけでなく,

貴族や金持ちも広いブドウ園をもち,大量のワインを作っていたことや女性も飲んでいたことがわ かっている22)。しかし,墓に残されている壁画やパピルスには女性が登場していない。

女性は酒造りのような労働の場合,家庭内で生産を行う場合はその担い手となるが,大量生産に なると,その役割を失っている。化学工業のような装置産業では実験室では女性は活動するが,装 置を操作するまでに登場することは少ない。そのひな型が酒の醸造にみられる。

教科書にみられるハトシェプスト

一般には,奴隷は技術の発展を阻害した。安価で機械のように労働する奴隷が自由に使用できる ようになると,奴隷制社会では新しい労働手段の研究や発明に対する必要性を感じなくなった。紀 元前4千年紀には金属が発見された劉。金属を抽出する坑夫,それを鋳造して形につくる治金工な

どが生じた。車輪が発明され,2輪車がつくられた。車輪の発明は,粘土をつくる工芸にも応用さ れ陶器づくりのためのろくろが生まれた。鋤が発明されると,深く耕された土地から原始時代より 多くの生産物が作られるようになった。舟が発明され,長い航海ができるようになった。交通がさ かんになると,車道が必要になった。運河や堀の建設がはじまった。

労働のための道具は金属の発明により非常に進歩した。しかし,奴隷制社会で王たちは農具より も武器の製造のために使用した。奴隷制社会の技術は上記の新石器時代のものを応用したものが多

かった。

日本に紹介された外国の教科書ではイギリスの教科書がハトシェプストについて書いている。

「ハトシェプストの旅」と題する文章のなかでは,彼女はナイル河に引いた運河を通って,8隻の 舟をプント(おそらくソマリヤであろうといわれている)に遠征させたことが書かれている24)。遠 征隊は3300頭の牛と31本のミルラという甘い香りをはなつ樹木を持ち帰ったという。彼女はこの木

をデール・エル・バハリにある自分の葬祭殿に植えさせた。

彼女のした仕事は葬祭殿を作ったこと,プントへの遠征隊の派遣,オベリスクの建立であった。

対外的にはほかの王と比較すれば,平和的であったということである。この教科書ではプントへの 派遣と彼女の作った神殿がこわされて残念であったということが簡単に書かれている。この教科書 にはエジプトの舟につき詳細に書いて技術史を重視している。その内容はつぎの通りであるが,葬 祭殿に舟の絵がある。

「エジプトには高い樹木が乏しかった。いちばんありふれた木はアカシヤだったが,これでは短 い船材にしかならなかった。したがってエジプトの舟は船体を支える竜骨が長くなかった…。小 さい舟材を枠組みにして木釘を打ったり,しばったりしてつなぎ合わせてつくった。ちょうど現 代でもれんがを積み重ねて壁をつくるようなものである。強度を高めるためにロープを2重にし

たふとつなで船の両端をしめつけ…舟体が傾くことを防ぐことになった。…船体が波に対して弾 力性をもっていたので,速くて,海の嵐に耐える舟がつくり出された。」

ハトシエプストがプントに送った遠征隊については,イギリスの中学校の歴史の教師用指導書で

も書かれていた25)。また,アメリカで出版された世界史の教科書のうち,教科書図書館所蔵5冊の

(8)

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うち3冊に彼女が書かれている。

トリニティ大学のA.0.コーンスラー等によって書かれた「民衆と世界」には,彼女の在世中ど の古代社会より女性の地位が高かったこと,ヒクソスによって占領されたときに荒廃した寺院を復 元したこと,オベリスクなど巨大な建造物を作ったことが書かれている26)。ジューン・R・チャピ

ン等の「時代の記録」には彼女が貿易や平和を進めたこと27),葬祭殿やオベリスクを作ったと書か れている。この2冊ともトトメス3世によって彼女の業績が抹消されたとのべている。

上記のように外国の教科書にはエジプトの奴隷制社会ではハトシエプストについて書かれている ものはあるが,それ以外の女性の記述はまれである。日本の教科書にはみられない。日本の教科書 をもっと充実させるべきであろう。

国連経済社会理事会は1990年5月24日に「2000年に向けての婦人の地位向上のためのナイロビ将 来戦略の実施に関する第1回見直しと評価に伴う勧告及び結論」を発表した。勧告3においては,

「(前略)政府は国の法律や慣習に従って,性に関し偏見のある表現を除去すべく,速やかに,で きれば,1995年まで教科書の改定を完了すべきであり,また,婦人団体との連携において,マス・

メディア側の自主的政策または他の措置により,マス・メディアにおける婦人についての固定観念 を緩和させるよう手段を講ずるべきである」とのべている28)。この勧告は日本の教科書に改善をせ まっていることを感じさせるものがある。

この勧告は総理府の「婦人行政」6月号に掲載されたのみで,9月末までにほかの雑誌や新聞に はほとんどのらなかった。日本においては性差別の撤廃に必ずしも深い関心があるとはいえない。

この点に注意を喚気したい。

1)秋山愼三『歴史教育教材としての技術』 (ぎょうせい,1988),221頁。

2)M・ビアブライヤ(酒井伝六訳)『王の墓づくり』 (学生社,1989),205−209頁。

3)並河亮『地中海 石と砂の世界』 (玉川大学出版部,1977),50−53頁。ハトシエプストが奴隷の娘という のは,少数説である。

4)M・ビアブライヤ,前掲書,15−16頁。

5)同書,91−97頁。

6)セルジエ・ソメロン(鈴木まどか訳)『エジプト学』(白水社,1976),78頁。

7)杉勇編『ナイルの王墓(世界の文化史蹟第一巻)』 (講談社,1967),11頁。

8)ライオネル・カールソン(加藤一郎監訳)『古代エジプト(ライフ人間世界史14)』(タイムライフ ブ ックス,1981),54−55頁。

9)倉塚曄子『古代の女』 (平凡社,1986),160−162頁。

10)ジャケッタ・ホークス(小西まさとし等訳)『古代文明史1』 (みすず書房,1978),142−145頁。古代人 がビールを飲んでいる絵がある。

11)同書,214−216頁。

12)同書,154−266頁。

13)ジャケッタ・ホークス(小西まさとし等訳)『古代文明史2』 (みすず書房,1980),115−116頁。

14)同書,158頁。

(9)

15)川村喜一編『エジプト博物館(世界の博物館17)』 (講談社,1978),104頁。

16)泉靖一『インカ帝国』 (岩波新書,1959),167−172頁。

17)女性史総合研究会編『日本女性史第1巻 原始・古代』 (東大出版会,1982),83頁。

18)『図解生活大百科』 (講談社,1985),86−88頁。

19)柚木学『酒造りの歴史』 (雄山閣,1987),16頁。

20)柚木学『日本酒(日本の技術3)』 (第1法規,1988),18頁。

21)矢島文夫『カラー版 死者の書』 (社会思想社,1986),53−54頁。

22)吉村作治『貴族の墓のミイラたち』 (日本放送出版協会,1988),149−153頁。

23)E.マルケジアー二他著(渡辺友市他訳)『イギリス1 全訳世界の歴史教科書シリーズ16』 (帝国書院,

1981),60頁。

24)R.J.クーッ他著(今井宏他訳)『イギリス1 その人々の歴史一全訳世界の歴史教科書シリーズ』

(帝国書院,1981),40頁。

25)K.C. Evans and M。 F. Dounoghue, Ey8町yハ勉加πHα5α5ωry(Teacheゼs Handbook)3&4,(01iver

&B・yd,1972), P.76.

26)A.0.Kounslar and T. L. Smart, Pωp 8απ40麗r Wo714(Holt, Rinehart and Winston,1977), pp.51

一52.

27)June R. Chpin et a1, Cぬroπ cJε5 qプ77η18(McGraw−Hill,1983), pp.29−30.

28)総理府『婦人行政』2巻6号(1990),90−99頁。

なお,この研究は「女性と技術史教育(2)一古代社会」 (茨城大学教育実践研究9,1990),pp.177〜184の

続編である。

参照

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