1.はじめに
初級の日本語学習者(以下、学習者)は、日本語という言語について全く知らない状態から日 本語の学習をしはじめるので、学習者にとって学習の中心道具となる「教科書」はかなり重要な ものであると思われる。これを換言すると、彼らは日本語に関する知識がゼロであるため、教科 書に書かれた内容の全てが正しいと理解し、そのまま学習者の日本語の知識として定着してしま う可能性が高い。また、韓国国内の殆どの4年制大学では教養科目(1)として「初級日本語」を開設 しているが、大学で使用する初級日本語の教科書は一種しかないため(2)、学習者は授業中に多様な 教科書に接することができず、一つの教科書から習得した知識の全てが正しいものであると思い 込んでしまう恐れがなおさら高くなると考えられる。
(1)A:あなたは何ができますか。
B:(私は焼きそばを作る)ことができます。
あなたは何ができますか。
A:(私はパスタを作る)」ことができます。
韓国国内で使用中のある教科書(3)には(1)のようなドリル(drill)問題がある。この会話文は、
文中の括弧を学習者が埋め、埋めた会話文を用いて会話練習をするために作られたものである。
(1)の波線部の文は教科書に書かれている文であり、括弧の中の文はその教科書で正解として いる文である。このドリルは学習者に「~することができる」という可能表現を学習させるため に提示された問題であるが、(1)をよく見ると、この会話文に敬語的問題が存在していること に気がつく。
まず、(1)では、聞き手を呼ぶ際に「~さん」ではなく、「あなた」という二人称代名詞を使 用しているが、このような呼び方はあたかも一般的であるかのような誤解を学習者に与えてしま う恐れがある。また、この会話文は場面が設定されていないため、どのような場面で会話が行わ れているのか分からないが、「ます」という丁寧体を用いているため、AとBは親しい関係である とは言い難い。ところが、親しくない人に対して突然、「何ができますか」と聞くのは実際の会 話においては失礼な表現にもなり得る。
李 譞珍
韓国の日本語の教科書における敬語の問題について
―初級の教科書を対象に―
(『言語の研究』6号2020年3月)
勿論、初級日本語の教科書の基本的な目標は、各課で取り上げた文型を中心に簡単な文を作っ たり話したりする練習を通して、学習者が実際の会話場面でも学習した文型を適用して使えるよ うにすることである。したがって、初級日本語の教科書では文が使われる場や人間関係、表現意 図といった場面の設定が細かくまでできないのは当然のことであると思われる。しかし、そのよ うなことができないからといって、初級日本語の教科書における様々な敬語的問題を排除し、文 型学習のみを中心にすると、上記の(1)のような例を修正できる機会を永遠と失ってしまうこ とになるだろう。
そこで、本研究では韓国国内の初級日本語の教科書における敬語の使用実態について調査し、
具体的に何が問題となっているのかを明らかにすることを目的とする。
2.先行研究
韓国国内で日本語と日本語教育を中心とする学会の学会誌を調査してみたところ、初級日本語 の教科書を対象に調査を行った研究は、趙(2006)・朴(2008)・李(2011)などがある。これら の研究は、現在韓国の4年制大学で使用中の何種類かの教科書を用いて比較分析をし、初級日本 語教科書の構成と内容においてどのような問題があるのかを考察した。
趙(2006:327)は、調査した全ての教科書の会話文が丁寧体になっていると指摘し、朴(2008:
40)でも、教科書の文体は丁寧体が中心となっているため、旅行や友達作りを目的としている学 習者のニーズを全く考慮していないと述べている。また、朴(2008:41)は、会話文でも表現意 図が明確になっていないので、自然な会話練習ができないのではないかと指摘している。
李(2011:197-199)も会話練習において場面の情報があまりないことについて問題があるとし、
要求表現(4)の指導において、殆どの初級日本語の教科書が「「お~ください」は「~てください」
より丁寧な表現」という簡単な説明しかないため、「先生、推薦状をお書きください」のような 不自然な文が生まれるとしている。
しかし、これらの研究は初級日本語の教科書における様々な問題を指摘する中の一部として上 記のような問題を取り上げており、管見の限り、初級日本語の教科書における敬語の問題に焦点 を当てて分析を行った研究はまだないようである。
したがって、本研究では先行研究を十分に踏まえた上で、初級日本語の教科書における敬語ま たは敬語表現について詳細に検討し考察を行う。
3.研究方法
本研究では、韓国国内で出版された教科書を対象として、主に4年制大学の授業で使用してい るものを基準に選び(5)調査を行う。調査した教科書は以下の〈表1〉にまとめて示す。
以上、6種(全13冊)の教科書を調査対象として、次節から初級日本語の教科書における敬語 表現の諸問題について詳しく検討していく。ただし、考察内容を述べる際は教科書名を特定せず、
A~Fというアルファベットで表記する(7)。
4.調査結果
4.1 人称代名詞の提示
日本で出版された教科書も韓国国内で出版されたものとその構成がほぼ同様であると思われる が、まず、最初は「私」「あなた」「かれ」といった人称代名詞が基本語彙として提示される。各 教科書で提示している人称代名詞の実態を把握するため、該当する人称代名詞の数を調べた。そ れを〈表2〉にまとめて示す。
調査した6種の教科書では、1人称の「わたし」、2人称の「あなた」、3人称の「かれ・かの じょ」、不定称の「だれ」が基本語彙として提示されている。その次に「ぼく」「きみ」を提示し ている教科書が多く、「わたし」の丁寧な表現である「わたくし」は2種、尊敬語の「どなた」
を提示している教科書は1種しかない。また、〈図1〉からも確認できるように、付加情報や説 明なしで人称代名詞を提示する教科書もあれば、韓国語で説明が書かれているとしても、「わたし・
ぼく・おれ」を「나・저」という日本語の「わたし・わたくし」に該当する韓国語しか書かれて いない教科書もある。そのため、学習者は、「わたし・ぼく・おれ」また、「あなた・きみ・おま え」が類義語であると理解し、そのまま自分の会話や作文の中に適用し使ってしまう恐れがある
〈表1〉初級日本語教科書のリスト(6)
教科書名 教科書の構成(巻) 出版社
두근두근 일본어(わくわく日本語) 1,2 시사일본어사 맛있는 일본어(おいしい日本語) Level 1,2,3 맛있는 북스 일본어뱅크 Open 일본어
(日本語バンクオープン日本語) 1,2 동양북스
일본어뱅크 다이스키(日本語バンクだいすき) 上,下 동양북스
타노시이 일본어(たのしい日本語) 上,下 넥서스
New 뱅크 일본어(ニューバンク日本語) Step 1,2 동양북스
〈表2〉各教科書の人称代名詞 1人称 提示してい
る教科書数 2人称 提示してい
る教科書数 3人称 提示してい
る教科書数 不定称 提示してい る教科書数
わたし 6 あなた 5 かれ 6 だれ 6
わたくし 4 きみ 4 かのじょ 6 どなた 2
ぼく 4 おまえ 2
おれ 2
ものとして考えられる。
4.2 会話文の構成
調査した全ての教科書は、学習した文型を用いて会話練習をするための会話文(dialogue)が あるが、教科書にある会話文には場面の設定や文体に問題があるとこれまでの諸研究から指摘さ れてきた。そこで本研究では、李(2011:190)を参考にし、各教科書の会話文の構成について 調べてみた。その結果を以下の〈表3〉にまとめる。
〈表3〉を見ると、場面の説明が簡単にでも書かれている教科書は調査した6種のうち、3種 であったが、これらの教科書は場面の説明というよりは、会話が行われる場所または、だれとだ れが話しているという会話する人物のみを簡略に記述している。
一方、C教科書は場面に関する記述はないが、会話中の「部長」という人物名とイラストから 会社という設定で会話が行われるのが分かる。したがって、C教科書は「普通体」ではなく「丁 寧体」のみで構成されていると思われる。また、E教科書も場面についての付加説明はないが、
〈図1〉人称代名詞の出し方
〈表3〉会話文の構成
A B C D E F
文体(8) 丁寧体 丁寧体 丁寧体 丁寧体 丁寧体・
普通体 丁寧体 登場人物に関する
説明 ある ある なし ある なし なし
登場する人物数 6 4 4 6 4 7
場面の説明 ある ある なし ある なし なし
台詞の中に登場人物に関する簡単な情報が含まれており、登場人物の関係によって「丁寧体」と
「普通体」に変換している。
他方、教科書の第1課に導入される会話文は自己紹介であるが、初対面の人と話すという場面 のことを考えると、最初の会話文が「丁寧体」となっているのは仕方ないと思われる。しかし、
C教科書以外は登場人物の殆どが韓国人(交換)留学生と日本人の大学生、または韓国以外の国 から来た留学生が中心となっているが、教科書の内容が後になるにつれ、お互いの趣味や家族の 情報などを共有したり、一緒にどこかへ遊びに行ったりする親密な関係になるにも関わらず、教 科書の最後まで「丁寧体」のみで話す。
また、国籍は異なるものの、登場人物の殆どが大学生で、年齢もおそらく同じぐらいであると 推測されるが、「丁寧体」でしか話さない。これは学習者に、年齢が同じぐらいの大学生同士で 話すときも、異なる国籍の人と日本語で話す場合は「丁寧体」を使うべきという誤解を与えてし まう要素が十分に含まれていると推察される。したがって、初級日本語の教科書における会話の 文体については引き続き検討が必要であると考えられる。
4.3 会話文における自己紹介の問題点
前節でも述べたとおり、日本語の文字(ひらがな・カタカナ)学習が終わると必ず最初に自己 紹介する内容の会話文が提示される。まず、以下の会話文を見ていただきたい。
〈会話文1〉自己紹介の例 木村 はじめまして、わたしは木村と申します。
キム はじめまして、わたしはキム・スアです。
どうぞよろしくおねがいします。
木村 こちらこそどうぞよろしく。
キム 木村さんは学生ですか。
木村 いいえ、わたしは学生ではありません。会社員です。
〈会話文2〉自己紹介の例 金 李さん、ここです。
李 ああ、金さん。こんにちは。
金 こんにちは、李さん。
こちらは日本の田中さんです。
田中 はじめまして、田中です。どうぞ、よろしく。
李 はじめまして、李です。
どうぞよろしくお願いします。
〈会話文1〉と〈会話文2〉は自己紹介をする内容の会話文である。〈会話文1〉は日本人の「木 村」と韓国人の「キム」が話しているが、最初は「木村」が「木村と申します」と謙譲語Ⅱ(9)を用 い、「キム」は「キム・スアです」と丁寧語を用いて名乗る。また、「キム」は「よろしくおねが いします」と言うのに対し、「木村」は「どうぞよろしく」と言う。また、〈会話文2〉では、「李」
と「田中」が初対面として自己紹介をする場面だが、「田中」は「どうぞ、よろしく」と言うの に対し、「李」は「どうぞよろしくお願いします」と言っている。
これらの教科書では、登場人物の年齢や社会的地位関係など、詳細な情報を提供していないに も関わらず、一貫した表現を使用していないため、学習者も教師も困難である。また、教科書に はこのような表現の違いについての具体的な記述がないので、教師が授業中に口頭で説明するし かないが、日本語の文字学習を終えたばかりの学習者を対象に、日本語の敬語に関する説明をす ることはそう簡単ではない。しかし、初対面の人と会ったときに必ず使われる表現であるため、
自己紹介に用いられる表現の指導についてさらなる工夫が必要であると考えられる。
4.4 「寿司」と「お寿司」の違い
今回の調査で用いた6種の教科書は、各課毎に新しい語彙が提示される。その語彙リストを見 ると、「お寿司」のように接頭語の「お」がつくものがあれば、「寿司」のように「お」がつかな いものもある。また、同じ教科書でも、〈図2〉のように、ある例文では「肉」で表現されたり、
他の例文では「お肉」で表現されたりして、初級レベルの学習者は「お・ご」の有無の違いにつ いて、どのように理解すれば良いのか非常に混乱を感じているようである。
したがって、本研究では初級日本語の教科書ではどのような語彙に「お・ご」がつくのかを調 べるため、6種の教科書の語彙リストから「お・ご」がつく語を取り出し、以下の〈表4〉にま とめた。
〈図2〉「肉」と「お肉」の文例
〈表4〉に拠ると、6種の教科書の語彙リストで「お・ご」がつくものは、計52語である(10)。こ れらの語を見ると、「お金」「お米」「お皿」「お茶」などのように、美化語の性質をもつ語が多く 見られる。しかし、以下の(2)~(4)を見てみると、〈表4〉の「お・ご」がつく語全てを 美化語とすることができない要素も含まれている。
(2)お仕事は何ですか。(A教科書)
(3)千秋さん、お誕生日はいつですか。(C教科書)
(4)お酒が飲めますか。(D教科書)
まず、(2)の「お仕事」は、聞き手を立てるために用いた表現として、ここでの「お」は尊 敬の意を表すものとして捉えられる。また、(3)の「お誕生日」は、聞き手である「千秋さん」
が話し手とどのような関係の人物なのかによって尊敬語にも美化語にもなり得る。(4)の「お酒」
は『敬語の指針』(2007:21)からも確認できるように、行為者や所有者を立てるための語では ないため、美化語として使われているということができるが、上記の(3)のように、聞き手が だれになるのかによって、尊敬語としても解釈する余地のある語である。
一方、「お仕事」「お誕生日」「お酒」などは、常に「お・ご」が付いた形で使われるわけでは なく、これらの語に「お・ご」をつけることによって、「仕事」「誕生日」「酒」に対比される丁 寧度の高いものとして捉えることができる。しかし、「おすすめ」「お大事に」「おにぎり」のよ うな語は「お」を取ってしますと、語の丁寧さとは関係なく、全く違う意味の語になる。
そこで、調査に用いた教科書では「お・ご」の記述がどのようになっているのかを調べてみた が、殆どの教科書には「お・ご」に関する言及はなかった。しかし、E教科書の第2巻には名詞 と形容詞の「お・ご」のつけ方や意味に関する説明があり、それを以下の〈引用1〉に記して示
(11)す
。
〈表4〉6種の教科書で「お・ご」がつく語彙
お忙しいところ おしゃべり お誕生日 おひつじ座 おやつ
おうし座 おしゃれだ お茶 お昼ご飯 お湯
お返し お正月 お手洗い お風呂 お笑い芸人
おかげ お寿司 お電話 お弁当 ご兄弟
お金 お寿司屋 お年玉 お盆 ご馳走
お客様 おすすめ お隣さん お祭り ご注文
お子さん お住まい お腹 お見合い ご飯
お米 お世話 お名前 お水 ご来館
お先 お大事に おにぎり お店
お酒 お互い お肉 お土産
お皿 お宅 お久しぶり お休み
上記の〈引用1〉を見ると、「お・ご」の基本的な意味や付け方についての説明は例とともに 分かりやすく記述されていると思われる。しかし、〈表4〉からも確認できるように、初級の教 科書には美化語としての「お・ご」が一番よく使われているのにも関わらず、美化語としての「お・
ご」と、「お年玉」「ご馳走」のように、既に一つの語彙として成り立っている「お・ご」につい ての記述は全くない。
このように、初級レベルの学習者は、「お・ご」のつけ方や意味を把握し、その概念を理解す ることはかなり難易度の高い学習項目として判断される。したがって、初級日本語の教科書にお ける一貫性のない語彙の出し方について改めて見直し、学習者の理解度を上げることができるよ うに教科書の記述においても工夫が必要であると考えられる。
4.5 「~てあげる」の提示における問題点
韓国語の授受動詞は、日本語の「あげる・くれる」のように分かれておらず、「주다[juda]」
という動詞のみである。そのため、今回調査に用いた全ての教科書では、「あげる(~てあげる)」
と「くれる(~てくれる)」の違いを理解させるための記述が中心となっており、初級の日本語
〈引用1〉教科書の「お」「ご」に関する記述
*명사의 존경어 名詞の尊敬語
①그 명사가 나타내는 인물을 높이는 경우 その名詞が表す人物を高める場合
예(例) こちら 이쪽 そちら 그쪽 どなた 어느 분, 누구 方 분
②그 명사의(넓은 의미의) 소유자를 높이는 경우 その名詞の(広い意味で)所有者を高める場合 예(例) お名前 성함 ご両親 부모님
일본 고유어의 명사에는 접두어「お」, 한자어 명사에는 접두어「ご」를 붙인다. 和語は接頭語「お」を、漢語は接頭語「ご」をつける。
お:お名前・お考え・お知らせ・お疲れ・お仕事・お宅・お元気 ご:ご記入・ご利用・ご連絡・ご家族・ご案内・ご紹介・ご苦労
예외(例外):お電話・お食事・お誕生日・ご世話・お土産・お返事・お弁当
*형용사의 존경어(形容詞の尊敬語)
い형용사와な형용사에는 접두어「お」「ご」를 붙여 존경의 뜻을 나타냄 い形容詞とな形容詞には接頭語「お」「ご」をつけて尊敬の意を表す 예(例) いつ見てもおうつくしい。언제 봐도 아름다우시다. みなさん、お元気ですか。여러분, 건강하십니까?
教科書では以下の(5)~(8)のような例が多く見られる。
(5)頭が痛いなら、薬を買ってあげましょうか。(C教科書)
(6)キム:この書類を明日までに教務課に提出しなければならないんです。
でも、漢字がよくわからないので、困ります。手伝ってもらえませんか。
清水:ええ、私が手伝ってあげましょう。(F教科書)
(7)僕はさくらのに荷物を持ってあげた。(D教科書)
(8)地下鉄で私は老人に席をゆずってあげた。(B教科書)
原田(2007:134)は、「~てあげる」の基本的な意味は、「自己(主語)の行為を行うことが、
他者の能力や事態の不足を補って役に立ち、貢献する。この事態は物理的なものでも心理的なも のでもかまわない。」であるとし、「~てあげる」を「~てあげた」という過去形で使用する場合、
押しつけがましい印象を与えてしまう恐れがあると述べている。
したがって、以上の原田(2007)の定義から考えると、(7)と(8)は「~てあげる」が過 去形で用いられているため、聞き手に押しつけがましい印象を与えてしまう可能性が高い文とし て捉えることができる。一方、(5)と(6)は「~てあげる」の文末に「~ましょうか」とい う表現が使われているので、(7)(8)ほど押しつけがましさを感じないと思われる。しかし、
これらの文が発話される場や人間関係によっては、話し手がその行動を受け取る側の人に恩恵を 与えるという解釈も可能であるため、実際の会話で話すのであれば、「薬を買って来ましょうか」
「私が手伝いましょうか」などの文を用いたほうがより自然ではないかと考えられる。
以上のように、日本語の授受表現は聞き手と話し手の恩恵や利益関係を表すため、日本語の敬 語表現とも切り離せないものである。だが、初級日本語の教科書では、原田(2007:118)の指 摘通りに、「だれがだれに」という授受の方向づけと話し手の視点による適切な授受動詞の選択 に重点をおいて教育を行っているため、敬語的な問題まで教科書で扱えないのが事実である。し たがって、初級日本語の教科書はこのようなことも含めて、その記述を書き直す必要があるもの として考えられる。
4.6 「させていただく」は単なる丁寧な表現なのか
調査した6種の教科書のうち、3種の教科書で「させていただく」が学習項目の一つとして挙 がっているが、これらの教科書では、「させていただく」について、「자신이~하다(自分が~す る)」または、「~하다, する의 겸손한 표현(~する、するの謙遜表現)」という簡単な説明しか 記述していない。また、以下の〈会話文3〉は「させていただく」が使われた会話文であるが、
会話する人物はテウ、さくら、ユイ3人で、かれらは友達同士である。
〈会話文3〉を見ると、テウが「最初に食べさせていただきます(12)」と言っているが、友達同士 で食事をする場面において、このようなことを言うのは不自然かつ適切な使い方ではない。何故 ならば、「させていただく」は聞き手を高めながら話し手自身を低めて表現する丁寧度の高い表 現であるため、割と改まった場面から発話されやすいからである。
また、テウが先に食事を始めるのはさくらが「お先にどうぞ」と言ったことを受け、それを誰 かの恩恵や許しを得たものとして解釈し「最初に食べさせていただきます」と言ったと思われる が、友達であるさくらは、テウが行う行動の許可者として高めるべき人物であるとは言い難い。
したがって、〈会話文3〉に使われた「させていただく」という表現の使い方について再検討す る必要があると考えられる。
(9)ご説明させていただきます。(B教科書)
(10)拝見させていただきます。(B教科書)
(11)ちょっと休ませてもらってから、考えさせていただきます。(D教科書)
(9)~(10)は、教科書の「させていただく」の例文である。まず、(9)は「させていただ く」ではなく「ご~させていただく」の形で用いられているが、李(2019)は謙譲語Ⅰである「さ せていただく」に尊敬の意を表す「ご」がついているこのような表現を、二重敬語に該当する例 であるとした。また、(10)も(9)と同様に、謙譲語の「拝見する」と謙譲表現である「させ ていただく」が重なっているため、二重敬語として判断することができよう。
このように、(9)(10)は、丁寧度を上げようとする話し手の過剰な認識が反映された結果、
現れたものとして捉えることができる。
〈会話文3〉「させていただく」が使われた会話文 テウ わあ、おいしそう。この生卵は。
さくら 生卵は割って、こうして解いてください。
そして肉や野菜を生卵につけて食べてください。
さあ、テウさん、お先にどうぞ。
テウ いいんですか。では遠慮しないで、最初に 食べさせていただきます。
(食事が終わって)
ユイ おいしかった。肉が柔らかくて、
やはり本場の松坂牛は味が違いますね。
さくら (店員に)すみません。
このあと何か出るんですか。
店員 デザートに果物が出ることになっています。
(11)は(9)(10)とはその性質がやや異なるものだが、この文を見ると、「ちょっと休ませ てもらってから→休んでから」、「考えさせていただきます→休みます」のように解釈ができるが、
この文での行動の許可者は存在しないことと考えられる。つまり、表現は「させていただく」を 使用し丁寧な言い方をしているかのように見えるが、実際の行動の許可者は存在しないので、聞 き手によっては「自己主張性(13)」の高い表現として捉えることができるものがあると考えられる。
以上のように、初級日本語の教科書で用いられた「させていただく」の会話文や例文は適切でな いものが散見される。それ故、学習者に「させていただく」という表現を正しく理解させるため には、より自然かつ適切な例文の記載が必要であると思われる。
5.おわりに
本研究では、韓国国内の4年制大学で使用中の初級日本語教科書6種を用いて調査した結果、
以下のことが分かった。
① 人称代名詞は韓国語の説明がなかったり、簡略にしか記されていないため、より明確に提示 する必要がある。
② 調査に用いた6種のうち、5種の教科書の会話文(dialogue)が丁寧体で書かれており、会 話の登場人物間の関係や場面についての情報も詳しく提示していないという問題点があった。
③ 自己紹介を主題としている会話文には種々の敬語表現が混在していた。そのため、学習者は これらの表現を理解するのに非常に混乱を感じることと推測される。
④ 各教科書の語彙リストには「お・ご」がついたものも含まれているが、「寿司」「お寿司」の ように付け外しができるものと「おにぎり」「お大事に」のように付け外しができないもの の区別に関する言及がないので、学習者はこのような概念の理解が難しいことと考えられる。
⑤ 授受表現の中でも特に「~てあげる」は、この表現がもつ敬語的な要素は排除し、授受の方 向づけと話し手の視点ということのみに重点をおいて記述しており、ある例文は場面によっ ては押しつけがましい印象を聞き手に与えてしまう恐れのあるようなものもあった。
⑥ 「させていただく」については「する」の代わりに使用できる丁寧な表現という説明しかな く、これに用いられた例文も適切ではないものが多かった。そのため、学習者がこの表現の 使い方について誤解をしてしまう恐れがある。
【注】
(1) 韓国の大学の教養科目の全ては卒業単位として認定される。また、歴史学科や理工学系の 学部など一部の学科では必須教養科目として運営されている大学もある。なお、大学によっ て単位数は異なるが、大体2単位か3単位である。
(2) 勿論韓国国内の各大学で使用する教科書の種類は様々である。
(3) 本稿では各用例毎の教科書の名前は特定しないこととする。ただし、本稿で考察対象となっ た教科書は次節で表として明記しておく。
(4) 李(2011)は「依頼表現」を「要求表現」としている。
(5) 李(2011:186)は、初級日本語教科書10種(全19冊)を選定し調査を行ったが、その選定 基準は4年制大学の授業で実際に使用しているものを対象にしたと述べている。したがっ て、本研究では李(2011)を参考に分析対象となる教科書を選定した。
(6) 〈表1〉の教科書名の日本語訳は発表者によるもの。
(7) A~Fは、〈表1〉の並べ順ではない。
(8) 文体はE教科書の用語を用いて、「普通体」と「丁寧体」とする。
(9) 『敬語の指針』(2007:13)の分類によるもの。
(10) ただし、本調査で用いた6種の教科書の全ては最後の課に敬語を扱っている。したがって、
敬語を学習目標としている課の語彙リストは排除し〈表4〉を作成した。
(11) 教科書から提示された日本語の例(文)以外の日本語訳は著者によるもの。
(12) 〈会話文3〉の文中の下線は著者によるもの。
(13) 李(2015)は、現在使用されている拡大用法としての「させていただく」は聞き手に「自 己主張性」を感じさせるような性質も含めているとしている。
【参考文献】
李譞 珍(2015)「「させていただく」の拡大的な用法について―日本人母語話者の意識調査から―」
『言語の研究』第1号, 首都大学東京言語研究会
―― ―(2019)「『国会会議録検索システム』に見られる「お・ご~させていただく」の使用につ いて」『日本語学研究』第60輯, 韓国日本語学会
原田 登美(2007)「日本語会話における〈授受表現〉の使用実態とポライトネス・ストラテジー
―「日本語会話データベース(上村コーパス)」に見る―」『言語と文化』, 甲南大学国際言 語文化センター
文化庁(2007)『敬語の指針』, https://www.bunka.go.jp/
趙南 星他(2006)「韓国の大学における第2外国語としての日本語教材の分析」『日語日文学研究』
第57輯, 韓国日語日文学会
이미 숙(2011)「初級日本語教材에 나타난 教授法・文法項目의 실태분석」『일본어학연구』, 한 국일본어학회
박재 환외(2008)「대학교양일본어수업의 개선 방향에 관한 연구-교재분석을 중심으로-」『일 본근대학연구』제20집, 한국일본근대학회
조남성(2008)「일본어교재의 오용분석」보고사
(い・ひょんじん 嶺南大学校)