鎌 倉 末 ・ 南 北 朝 期 の 法 隆 寺 と 延 年
坂井孝一
はじめに
鎌倉 末 ・南北朝期の法隆寺 と延年
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﹁延年﹂とは︑中世の寺院において︑法会などの後で余興的に行われた僧侶による各種の芸能のことである︒本来は︑貴
族の遊宴の場で︑﹁遽齢延年﹂すなわち長寿を招来し祝福するための芸能として行われたものであったが︑院政期以降︑
寺院社会にとりいれられ︑中世には僧侶によって行われる単純・素朴な歌舞劇の形式を持った芸能として定着した︒
( ‑ )
大和国多武峰寺には︑中世末の作とされる﹃多武峰延年詞章﹄が残されている︒これは﹁大風流・小風流・開口・当弁・連事﹂といった各種の延年芸能の台本である︒このうち大小の﹁風流﹂は︑劇としては単純で稚拙ではあるものの︑
﹁能﹂に通じる構成や内容を持っており︑これは延年芸能が︑観阿弥・世阿弥によって大成される以前の﹁猿楽能﹂と何
らかの交渉を持ち︑何らかの影響関係にあったことを示唆するものである︒従来の延年研究はこのため︑猿楽能の成立過
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程の解明という視角によってなされたものが多く︑延年それ自体の研究はおろそかにされる傾向が強かった︒しかし︑鎌倉期の史料は断片的なものばかりである上︑史料解釈の点でも研究者の間で統一的な見解が見い出せず︑現在こうした視
角による研究は行き詰まりを見せている︒
一方︑寺院史研究の盛行に伴い︑延年そのものを寺院社会の秩序の中に位置付けようとする動きが現れてきた︒松尾恒
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一氏による一連の研究はその代表的なものである︒氏は︑延年の詞章を分析するだけでなく︑﹁延年会﹂全体の性格を分析することの重要性を指摘され︑そうした観点から︑﹁延年会﹂が=味和合﹂﹁一味同心﹂の精神に基づく衆徒の蜂起・
集会の作法に源を持つものであったこと︑したがって決して単なる慰安的な余興のための芸能ではなく︑極めて儀礼的性
格の強い﹁祝祭﹂ともいうべき行事であったこと︑とくに院政期・鎌倉初期という寺院における延年の発生期には︑勢力
を拡大した衆徒層の寺家政所に対する政治的なデモンストレーションとしての意義を有していたこと等の点を明らかにさ
れた︒氏はまた︑鎌倉末から南北朝・室町期と時代が下るにつれ︑政所側が衆徒の祭儀を積極的に取り込むようになった
ため︑延年が元来持っていた政治行動としての有効性は失われ︑会の開催は衆徒と政所の協力態勢で行われるようになっ
たこと︑その場合︑会の目的は賓客に対する饗応と︑僧侶の任官・昇進に際しての祝賀であったこと等の点についても解
明された︒さらに︑従来︑遊芸を﹁道﹂とし猿楽座のような組織を持った存在とみなされていた﹁遊僧﹂についても︑他
の寺僧と同様寺院の膓次階梯組織に組み込まれた存在であり︑猿楽座のような芸能集団とは分けて考えるべきであると主
張された︒
氏のこうした精力的な研究は︑着眼点といい︑考察の方法といい︑極めて斬新で示唆に富むものである︒筆者自身大い
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に刺激を受け︑別稿において﹃嘉元記﹄に見える鎌倉末・南北朝期の法隆寺の延年の担い手について論じてみた︒その結果︑当該時期の法隆寺の延年を担っていたのは︑遊芸を自らの﹁道﹂とする僧侶﹁遊僧﹂ではなく︑芸能に堪能な僧侶
﹁狂僧﹂が﹁遊僧﹂に質的変化を遂げる過程の︑言わば過渡的な存在であったという結論を得た︒そして︑その歴史的背
景として︑延年及び延年会そのものの変化と︑鎌倉末期の法隆寺々内における寺僧組織や僧侶集団の変化を想定した︒本
稿はその続稿ともいうべきものである︒
さて︑当該時期の法隆寺の延年の実態を考察する上で最も重要な史料は﹃嘉元記﹄・﹃請雨奮記﹄である︒したがって︑
本稿においてもこの二つの史料を中心に論を進めることになるが︑必要に応じて﹃寺要日記﹄・﹃寺務御拝堂注文﹄・﹃寺務
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拝堂奮記﹄・﹃法隆寺別当次第﹄等の記録や編纂物等を参照することにしたい︒法隆寺の延年僧の概要
鎌倉末 ・南北朝期 の法隆寺 と延年
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延年僧の実態という問題に関して︑前稿では紙数の制約の関係上︑特徴のある人物を抽出して論じるという方法をとっ
た︒本稿では︑そこで触れ得なかった人物についても何らかの形で言及し︑出来る限りその全体像を明らかにしてみたい︒
そのためにまとめたものが次の表である︒前稿でも述べた如く︑延年僧の名前を確認できる史料には﹃嘉元記﹄及び﹃請
雨奮記﹄の(イ)延慶三年四月五日条・(ロ)正和五年九月廿九日条・(ハ)元応三年(11元亨元年)九月廿五日条がある︒
この表は︑これらの記事に登場する延年僧の寺内における地位・職務︑活動内容などの概要をまとめたものである︒
僧名内容出典
①永縁房祈雨のための龍池社への参龍衆
﹃ 請
﹄元応三 ・八 ・八
聖霊院での雨悦の延年で供奉衆(ハ)
②願識房乗弁
住吉
ノ草木會之式による下膓分弓風流で﹁王の舞﹂(イ)
聖霊院での雨悦の番論義で間者(ハ)
聖霊院での雨悦の最勝十講で転読衆
﹃ 請
﹄建武四・八 ・廿四
富河之高橋の供養で三礼貞和三 ・十一 ・六
金堂預に補任(他界した﹁有朝﹂の閾分)正平七 ・正 ・十一
僧綱三口の寄進によって権律師に補任延文二 ・十一 ・廿二
金堂内陣の高机を鵤庄年貢で新調した時の金堂預
五師年会所の評定に﹁権律師乗弁﹂と署判 正和年中に﹁中門ノヲリノ会﹂を始行 晦講の新頭の一人
康安二年中
﹃伍﹄貞治三 ・十 ・十六
﹃寺﹄正 ・一
﹃寺﹄正 ・晦
③教賢房有玄住吉ノ草木會之式による下膓分弓風流で﹁仕丁﹂
聖霊院での雨悦の延年で東仮屋猿楽衆 和泉国高石新左衛門 ・ 播磨国八木四郎左衛門に
よる鵤庄押領事件が発生した際 ︑雑掌と
して庄家に下向
五師の一人 として﹁大法師有玄﹂と署判 正和年中に﹁中門ノヲリノ会﹂を始行
晦講の新頭の一人
別当の印鐙を扱う在庁法橋良玄の代官﹁有玄教賢房﹂として
(イ)(ロ)
貞和二 ・十一 ・廿七
﹃伍﹄ 貞治三 ・十 二 ・
十八
﹃寺﹄正 ・一
﹃寺﹄正 ・晦
﹃別﹄ 良寛法印の文保二
④尭玄聖霊院での雨悦の延年で東仮屋猿楽衆
正和年中に﹁中門ノヲリノ会﹂を始行
(ロ)
﹃寺﹄正 ・一
⑤尭識房住吉ノ草木會之式による下膓分弓風流で﹁神官﹂ ・他の記事なし(イ)
⑥賢良房住吉ノ草木會之式による下膓分弓風流で乗馬の﹁巫﹂
実性院堂での如法経の供奉衆(同日 ︑ 惣社前で延年 ・
風流あり)
祈雨願課の相撲に関する評定衆
聖霊院での雨悦の延年で供奉衆 (イ)文保三 ・三 ・廿一﹃請﹄元応三 ・九
・十六
(ハ)
⑦顕禅房性憲住吉ノ草木會之式による下膓分弓風流で﹁師子﹂
弓射のため廻廊に懸けた行者講衆の的を﹁衆分
﹂として切り落とす
が ︑
逆に法喜房によ
って刃傷される(法喜房は罪科)
聖霊院での雨悦の最勝十講で転読衆
絵殿預に補任(﹁範尊五師﹂の閾分 ︑この時﹁得業﹂)
富河之高橋の供養で唄師 (イ)正和四 ・二 ・廿九﹃請﹄建武四 ・八・
廿四
貞和二 ・正月中 貞和三 ・十一・六
鎌倉末 ・南北朝期の法隆寺 と延年
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上堂正面閻問格子一間新造の施主(この時﹁律師﹂)文和三 ・四月中
他界(享年﹁七十歳﹂)文和三 ・五 ・廿七
晦講の新頭の一人﹃寺﹄正 ・晦
⑧顕了房住吉ノ草木會之式による下膓分弓風流で﹁大衆(開口)﹂(イ)
強盗事件に関する龍田での大落書に﹁開衆﹂の一人として出仕延慶三 ・七 ・十七
祈雨願課の相撲に関する評定衆﹃請﹄元応三 ・九 ・十六
聖霊院での雨悦の延年で供奉衆(ハ)
覚宗房寺主子息
春力
殿が顕了房五師の子息春藤殿を刃傷した事件暦応四・正 ・十九
⑨浄舜房長盛住吉ノ草木會乏式による下膓分弓風流で﹁中綱﹂(イ)
聖霊院での雨悦の延年で東仮屋猿楽衆として﹁開口﹂(ロ)聖霊院での雨悦の番論義で講師(ハ)
聖霊院での雨悦の延年で﹁開口﹂(ハ)
強盗事件に関する龍田での大落書に﹁開衆﹂の一人として出仕延慶三 ・七 ・十七
実性院堂での如法経の翌日に行われた十種供養の導師文保三 ・三 ・廿二
﹁東使出羽入道﹂が出した﹁鵤庄一円奉寄之状﹂の請取使の一人嘉暦四二二 ・廿七
聖霊院での雨悦の最勝十講で転読衆﹃請﹄建武四・八 ・廿四
舎利預の一膓湛舜僧都が他界した記事に関連して﹁三膓預長盛已講﹂ ・﹁舎利預﹂文和三 ・八 ・廿九/九 ・十
五/十 ・二
三教院世親講始行の施主(延文二年﹁他界七十四歳﹂の注記)貞和三 ・五 ・五
貞和五年正月十一日の所々講の請定案で﹁惣社﹂を担当﹃寺﹄正 ・十一
晦講の新頭の一人﹃寺﹄正 ・晦
聖霊院御影供始行の施主﹃寺﹄暦応三 ・三 ・廿一
⑩浄泉房有朝住吉ノ草木會之式による下膓分弓風流で﹁大衆(後見)﹂(イ)
強盗事件に関する龍田での大落書に﹁開衆﹂の一人として出仕延慶三 ・七 ・十七
祈雨のための龍池社への参籠衆﹃請﹄元応三 ・八 ・八
聖霊院での雨悦の番論義で間者(ハ)聖霊院での雨悦の最勝十講で転読衆﹃請﹄建武四・八 ・廿四
五師の一人建武五 ・十二 ・廿七
西南院五師として ︑﹁青龍寺領﹂は法隆寺の領内ではなく﹁当院家之私領﹂と主張暦応二二二 ・廿六
金堂預に補任(﹁性専律師﹂の闘分として)貞和二 ・正 ・廿一富河之高橋の供養で呪願貞和三 ・十一 ・六
他界文和元 ・正 ・十一
貞和五年正月十一日の所々講の請定案で﹁西大門﹂を担当﹃寺﹄正 ・十一
晦講の新頭の一人﹃寺﹄正 ・晦建武二年の御霊会で田楽 ・猿楽に禄物を与えた年会五師﹃寺﹄八 ・廿三
⑪浄宗房定弁住吉ノ草木會之式による下脇分弓風流で﹁キヲヒ﹂(イ)
聖霊院での雨悦の延年で西仮屋猿楽衆(ロ)
祈雨のための龍池社への参龍衆﹃請﹄元応三 ・八 ・八再び祈雨のための龍池社への参龍衆﹃請﹄建武四・七 ・晦
別当福智院憲真の時代の三教院々主康永三 ・十一 ・廿三
三教院主相伝の記事(中院定朝←彼甥浄宗房定弁←其甥宗泉房快専)文和四 ・七月中元弘二年の三教院庇妻葺替の記事の中で院主として延文元 ・十 ・廿二
正和年中に﹁中門ノヲリノ会﹂を始行﹃寺﹄正 ・一
⑫定 春房賢與住吉ノ草木會之式による下膓分弓風流で﹁大衆(作児)﹂(イ)
西室所持の多摩曼茶羅紛失の件で﹁預置人ハ賢与定春房﹂として延慶四・二 ・五
⑬定松房住吉ノ草木會之式による下膓分弓風流で﹁神主﹂(イ)
龍田の西口で中道院の下人弥三郎を刃
傷 ︑
大衆から罪科されるが=門﹂のロ入によっ延慶三 ・六 ・六
てほどなく免除
強盗事件に関する龍田での大落書で﹁定松房廿余通﹂の落書延慶三 ・七 ・十七
廻廊に懸けた行者講衆の的を顕禅房が切り落として逆に法喜房に刃傷された事件
で ︑
衆正和四・二 ・廿九