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著者 永澤 峻

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(1)

我と汝の対面の図像を考える(シンポジウム 文化と しての言葉 : あなたと私の世界)

著者 永澤 峻

雑誌名 東西南北

巻 1993

ページ 32‑47

発行年 1993

URL http://id.nii.ac.jp/1073/00003926/

(2)

我 と 汝 の 対 面 の 図 像 を 考 え る

32 

漂 永

峻@昔冨術学科教授

今回は﹁文化としての言葉!あなたと私の世界﹂と いう全体的なタイトルのもとで︑各発表者が人称に係 わる問題をお話することになっているわけですが︑西 洋美術史を一応の専門としている私は︑画像もまた独 自な言語であるという視点から﹁我と汝の対話﹂の問 題点を考えてみたいと思います︒残されている画像作 例の上でも︑この問題が私たちの時代まで連綿と続く ものであることを理解して頂くため︑まず

ω から ω ま での図版を挙げておきました︒これらの作品の年代を 追って見て項︿と︑古代ギリシアから現代まで約二千

五百年に渡る長期間の伝統を辿れる・ア

ζ

が理解できる

でしょうし︑現在もそのかたちを目の当たりにできる 画像資料であるため︑直接私

E

もの眼前で問題の所在 点を元の状態のままで検討し︑把握してゆ︿ことがで

きます︒そこで︑以後は図版を参照しながら︑私の訴

を辿って項きたいと思います︒

まず最初の図

ω に︑﹁あなたの国はあなたを必要とし

ている﹂という言葉とともに︑画面を見る人々に直接

指さす姿のキッチェ卿を描き出した︑アルフレッド・

l

ト作の有名な新兵募集のポスターを︑鑑者(﹁汝﹂)

一人一人に語りかけて︿る現代の画像の典型的な作例

として挙げておきました︒こうした鑑者(﹁汝﹂)に直

面し︑絶対的な﹁我﹂として語りかけてくる画像を︑

以後のお話の中で︑英語で一言うところのアイコニック

28 En

)

︑つまり向像的・聖画像的な表現と呼んで

ゆくことにしたいと思います︒

こうした表現の原点の諸相とこれらの表現が持つ普

遍的な意義を辿ってゆ︿というのが︑私の今日の話の

(3)

核になるものなわけですが︑次にリ

l

トのポスターに 直接先行する絵画の作例として︑図

ω

に︑超越的な支

配者︑すなわち神的な存花に裕上げされた剛山中

人 物

(﹁我﹂)が曲耐ぞ凡る人(﹁汝﹂)に訴りかけている新

古典主義の同家アン

ルが描いた

ナポレオンの

山 口

を挙げておきました

既に先のポスタ

の例からも分

かるように

︑こ

の絵でも︑まじろ寸

こと

なく鑑賞者の

方 を

け 凡

獄 ・

え て

座に座るナポレオンは︑非現実的な恐 るべき威光に包まれた姿で表わされています

ま た

︑ ここでは︑アングルは︑ナポレオンを特定の身振りに

よってではなく︑彼が手に持

たり︑画中に描き込ん

だりした事物によ

て︑皇帝や

や神に対する存在と みなし仰るように梢き山山しています

すなわち︑紙越

の所には︑ト

H

代ロ

l

マや凶洋

附初期

王位を象徴す る鷲や︑長衣にはフランク王同の象徴

t である鈴(こ れはナポレオンによって産業の象徴

t

して復活された

もの)︑シヤルル五世の王易︑後で問題となる聖造物と

してのシヤルルマ

1

ニュ大帝の﹁正義

の手﹂などを︑

徴制に問中に描き込んでいるのです

こうい

た 形

で ︑

幽小に捕かれた山口出陣(﹁我﹂)が絶対的な作

a t

して

図l

アルフレッド

リー卜

新兵募集のポスター」

1914年作ロンドン帝国戦争│噂物館

33  ~IWtcの対 l掘の凶{裂を47える

(4)

賞者(﹁汝﹂)に対面する画像の例が西洋近代に存在し ていたわけですが︑現在の美術史の研究ではこの絵を 描︿に際して︑アングルは丁度この時期にル

1

ヴル美 術館で公開展示されていた近代の油絵の元祖アイク兄 弟の作﹃ゲントの祭埋画﹄中のキリスト像を直接見て ナポレオンのポ

l

ズに使うとともに︑イタリアに彼が

留学していた時にその模刻を研錯したと思われるギリ シア古典期の大彫刻家フィディアス作の失われた彫刻

﹃オリンピアのゼウス﹄像を考慮に入れて制作したと

考えられています︒このことは︑図

ω ︑

川 問

︑ 山

間 の

キ リ

スト像︑それに ω

のゼウス像を見て項けば︑十分納得 できるでしょうし︑ヨーロッパの基礎を規定すると言 われる古代ギリシア世界とキリスト教世界における肖

像的・型画像的な伝統が︑﹁我﹂と﹁汝﹂の対話に係わ

る根源的な造形言語として近代に至るまで連綿と続い

ていたことが推測できるでしょう︒

そこでまず最初に︑西欧中世キリスト教美術の向像 的・聖画像的な伝統におりる﹁我﹂と﹁汝﹂の対話の 造形言語の問題から考えてゆくことにしたいと思いま す︒造形言語自体の検討に入る前に︑西欧における普

遍的な﹁公(パブリックなものどの成立と﹁我﹂と﹁汝﹂

の普遍的で︑絶対的な関係が十一世紀頃から徐々に形 成され︑それが近代ヨーロッパの独自性にとって本質 的な重要性を持っと考える最近の社会史の側からの指

摘を紹介し︑それと対応させながら︑画像作例の具体 的な分析を試みてゆ︿ことにしようと思います︒社会

史の側からの指摘が端的な形で提示されているのは︑

網野善彦氏との﹃中世の再発見﹄という対談集(平凡 選書︑一九八二年)の中の﹁公とは何か﹂という章に

おける︑阿部謹也氏の次のような発言だと思います︒

﹁ヨーロッパ史をみてみると︑贈与から売買への転換

のところで近代ヨーロッパの萌芽があらわれた︑つま り十八世紀以降の世界史の中でヨーロッパ史の独自性 は︑十一世紀のあのあたりで基本的にそろったと思え るのですが︑それを支えたのは︑やはりあのころに始 めて近代ヨーロッパのエネルギーとなる公的なものが 生まれたということで︑公的なものというのは︑キリ スト教によって贈与慣行に彼岸を媒介とする回路が設 定され︑普遍的なるものを媒介としてモノとモノの往 復という一方通行になったということなんです︒(中 略)相互の授受というか互酬の関係は︑日本でもいま だ人と人を結ぶ普遍的で日常的な関係で︑どこの世界 にもあるんだけれども︑ヨーロッパがなぜ十一世紀以

降大きな変化を示したかというと︑互酬の関係の中で︑

お返しは天国でする︑つまり死後の救済という形でそ れをいったん普遍化した上で返すという回路を作った ところに︑非常に大きな変化が生まれた原因があるの ではないかと思うのです︒しかも︑それが対教会関係

34 

(5)

だけでなく俗人の聞にら拘束力を持つようになった点 が︑他の世界

t は開決なった発展を進げた原因ではない

か t 思うのです︒山

H a

R t

い う

制 概

念 は

本人の問では極

めて掛川いと思いますが︑ヨーロッパでは民間伝爪な E

の小でも非常に大きな

.浜岡になってい

ます︒持いが彼 山における紋いに媒介されるからこそ将泌性をもちえ たのです︒そして︑公は︑そうした形の山

で新たな遂

をまとって山山てくるのではないか︒つまり︑二人の人

間関係があって︑お花いの物のやり取りぞして持らし て生きたのだけれど︑あるとき︑あなたに対するお返

しは今までの形ではなくて︑あなたの.比後の救いのた

めに︑あるいは子係のために天国に秘みます︑という

t

を誰かが

一 吉

田ったとします︒

れは︑従来の慣行の

上では

︑ある意味では大変困ったことです

︒しかし︑

そこでは絶対的なものが出され︑それを社会が最小認し

ていくのがキリスト教の受容だったわけで︑社会全体

がその方向に非常に傾斜した時期が十一世紀ごろだっ

たのではないかと思うのです︒﹂

こ う し た 考 ・ え

ー‑ M

は︑ヨ ロッパの股火の似山⁝とその

作を検討しているさまざまな分野の研究において︑

現必深められてきていると忠われるのですが︑こ

こで

の当而の課題である造形美術における﹁孜﹂

t

﹁汝

﹂ の対訊がなぜ将遍性を持って成立し得たかという点に

附しても︑先のアイク兄弟のキリスト似の究極的な原

b

となったと思われる点

H

キリスト教同家︑いわゆる

ピ.サンチン惟界でヒ行年頃に制作されたキリストの胸

像の型画像(いわゆるイコン)(岡

4)

が発見されたこ とによって︑その形成期における特性︑機能さらには

田布心的な背景が明か

さ れ

ここ

で現代に至るまで挙 げた作品務のな義もより明峨になってきています︒

図3ヤンとフーベルト・フォン・

アイク

r キリスト(多翼祭淘函

r

子掌干し蛾』の中央上部のパネル) 1432年 ゲ ン ト 毘 パ ヴ オ ン 教 会

41WlcのムJlfûのt4fH~・λる

4 rキリスト」の胸像イコン

(111画像) 700年 頃 シ ナ イ 山 置カテリーナ修道院教会 35 

(6)

イコンというものが︑汝あるいはこれを見る個々の

人々に対してもたらした特性が何であるかを︑ ω から ω

の作例へと連なってゆく問題として︑図

ω のキリス

トの胸像の板絵に則してお話しますと︑イコンの登場 によって︑画像とこれを眺める信者との関係がまず第 一に変化したと考えられます︒これ以前の六世紀前半 までの大画面の装飾においても︑もちろんキリストや 聖母を教会堂の東端の後陣(アプシス)の中央に︑使 徒︑預言者たちをこれ以外の壁画に配する形式がなか ったわけではありませんが︑これらの型像は︑信者た ちの日の位置からかなり隔たった高い場所に捕かれて おり︑全体が一つの教化的なプログラムを構成してい ました︒ところがイコノスタシス(イコンを掛けるた

めの木製または大理石製の仕切り)が完成されると︑

主として単独の聖者像を描いたイコンが︑信者たちの 目の位夜とほとん

E 同じ高きに置かれることになり︑

一人一人の信者がいわば一対一(フェイス・トゥ・フ

ェイス)で聖者と向き合うことが可能となりました︒

より親密な関係が︑画像とこれを見る人(これに祈る

﹁汝﹂としての信者)との聞に設定されることになっ

たのです︒六世紀末︑七世紀初頭を境として︑絵画︑

画像一般の役割が一つの大きな変化を遂げたと言えま しょう︒すなわち︑以前は文盲の人々の教化のための 有効な手段として︑いわば功利的な目的から教会の権

威者たちによって許容されていた絵画が︑次の時代に なると︑見る人々の魂に深い宗教的な感動を呼び起こ

すものへと変化していったのです︒

ところが︑このイコンの峰雄は︑一方では︑画像を 捕かれた当の神または聖なる人物の実体そのものと見 誤ってしまう偶像崇拝への傾斜の危険が叫ばれ︑特に この時期に︑隣に具象的な宗教画像を完全に排除する イスラ!ム教の国家が成立したため︑なおのこと画像 を拝む︑あるいはそれを神それ自体と取り違えること に対する危恨の念が東方キリスト教国家の指導者や教 会の権威者たちの聞に生じ︑画像破壊運動(いわゆる

イコノクラスム)︹七一五

1

八四二年︺が起ります︒こ

の際に多︿のイコンが破壊されたわけですが︑これに 反対し︑画像擁護を主張した人々は︑画像許容の一つ の重要な根拠として︑先にも述べた画像が人々の魂に

深い宗教的な感動的な感動を呼ぴ起︑﹄す・﹄とを強調し

たのです︒例えば︑型画像の擁護論の担強い拠点であ った首都コンスタンチノポリスのストゥディオス修道 院の院長テオドロスは︑﹁絵であろうと彫刻であろう と︑これを注意深く眺めた人の魂の中に深い印象を残 きないものはない︒ニの画像の執念は︑家に帰ってか

らも眺めた人を追いかけ︑その人の情念を興奮させ︑

ときには後悔させるだろう﹂と述べ︑また同時代の画 像擁護論派のニケフォロスは︑絵画がすでに古くから

36 

(7)

同押絵入り写本において文字と同等の役訓を来たしてき

たことを指摘した後︑聴覚全通じて伝えられる説教よ

りも視覚を媒介とした場合の方がより良︿信仰へと人 を将くと述べ︑﹁日の前に泣かれた州像は︑塊の

によ

り惣い刻印を刻み︑川県比を泌じての知党は︑魂の蚊も

効川ボ的な場所を占める﹂と結論づけています︒

東方キリスト教美術︑いわゆるピザンチン美術の

つの本質を構成しているこのような美学は︑その起源

三世紀の哲学者プ

ロテイノスの新プラトン主義の画 像論に求めることができるものです︒その美学によれ

ぱ︑対象をその放も本質的な現われにおいて犯制する

ためには︑一方から光の当た

った

︑すなわち似然的な

視覚の歪みによって促・えられた状態ではな︿︑まんべ

んなくあらゆる方向から光の当たる純粋な状態におい てが物を眺めなければならないと説かれています︒美

術の分野で︑

次元的な表税︑山港近法︑陰影法な

E

v h

寸尖を日的とした古典的な技法が次第に姿ぞ消し︑平

而的︑縦列的な輪郭線に基づく対象の求刑叫が生まれて

きたのは︑このような深い思索を背後に秘めた現象だ

ったのです︒プロテイノスの美学の本質と一致する︑

紀元

37一一一一伐とi[l:の対的lのt.x

l f

fl!をとーλる

図E タフニ修道院教会内部円軍事モザイク りてント クラトールのキリスト」 旧約聖・の予言者たち 新約 聖・路濁函 11世紀初頭

図5 r

ゼウス』

ミイラサ出土の大理石頭1lIl像 前4世 紀 ボ ス ト ン 美 術 館

(8)

外見的な写実から内而の真実の把梶への移行は︑すで

に四世紀頃から目立ち始める傾向ではありましたが︑

殊にイコン美術の興隆が起こった六世紀後半から︑七

世紀初頭にかけて決定的な形を取るに至ったのです︒

聖者の向像を描︿に際し︑斜め横向きの自然なポーズ はむしろ対象の偶然的な姿として排され︑これに代わ

って︑内なる生命の輝きに燃えた目を大き︿見聞き︑

厳密に正面を向き不動の姿勢を取り︑肉体の重みを完 全に消去した聖者の自像こそが︑その最も本質的な姿

を捉えるものと考えられるようになったのです︒

五世紀末から六世紀初頭にかけて書かれたと思われ るディオシオス・アレオパギテスに帰される神秘主義 的な諸著作が︑その後の画像擁護論者たちに改めて新 プラトン風の画像論を展開させる基礎づけを与えまし た︒偽ディオニシオスの教説によれば︑感覚世界は霊

的世界の反映に他ならず︑可視的世界に満ちた象徴︑

すなわち﹁目に見える画像を通じ︑我々は各自の能力 に応じて天の位階︑神聖な世界の位階を可能な限り遠

︿まで想起することができる﹂と考えられたのでした︒

それ故︑画像擁護論者たちは︑この教説を継承して︑

画像はその原型を想起するための手がかりであり︑時 空を越えた世界の交流を保つための通路であると考え

たのもご︿自然の成り行きであったわけで︑﹁画像に対

して払われる崇敬はその原型にまで到達するものであ

る︒画像という形を取るこの書物を心の目を持って読 み取ることにより︑我々はその似姿しか所有していな いとはいえ︑その最初の原型まで洞察することができ るのである﹂という画像擁護論者たちの議論の核心と なっていった言葉は︑この間の事怖を顕著に明かにし て︿れると思われます︒このようにして︑画像は教化 のためのものでもな︿︑また単なる個人的で一時的な 美的︑宗教的な感動のためでもなく︑神に接近するた めの一種の交流手段として重要視されることになった のです︒これは新プラトン主義特有の上昇理論と言え るでしょう︒次いで新プラトン主義風の画像論は︑も

う一つ新しい段階へと飛臨してゆきます︒すなわち︑

画像を通して神の認識に至るという一方的な上昇理論 だけではなく︑これと並んで下降理論が画像に適応さ れることになったのです︒この理論に根拠を置︿こと によって︑イコンそれ自体が客観的な存在として宇宙 の神聖な諸位階の中に位置を占めることになり︑イコ ンは神から流出する神聖な要素を分有する容器︑原型 を忠実に模倣し︑これを写し出す鏡であると考えられ

るようになりました︒つまり︑下降理論の適用により︑

物質的な素材によって成り立っているにすぎないイコ ンの中にも神の霊的な要素の一部が存在すると見なさ れるに至ったのです︒やや概括的に述べるならば︑目 に映ずる個々の画像上の﹁神﹂が見られるならば︑そ

38 

(9)

の画像を兄るそれぞれの者(

﹂ )

の側から︑次第に

本質的で唯一無二の﹁神﹂の世界︑つまりその﹁神﹂

の絶対的なイデアへと近付いてゆける世芥

t t

もに画 像(イコン)は物質にす

V

どないけれども︑凶仰の絶対的

な力(汗遍的な﹁孜﹂)を分布しており︑それがかりそ

めの靴採にいる見るお(﹁汝﹂)のもとに降りてくる附

採 t

い う

LLU

ケ ト 降 の 二 つの織り成す附持観が形成

されていったと・パ

え る

で し

ょ う

︒ す

な わ

ち ︑

﹁ 我

﹂ 対

﹁ 汝

t い

フ一人祢と 二 人林の附係で・パうならば︑松川辺的・

絶対的な作伐を納

t

して︑この人跡の関係が門像的

型倒的な州像の枇界に成なしたわけです︒

では︑東方キリスト教世界において︑この聞係が盗

品陣破咳運動(イコノクラスム)︹七 一 五 l 八四二年︺の 過酷な試練を経た後︑

E

のよ

フな同像表現主して定析

していったのでしょうか

教会堂内部に伐る典型的な 作例として挙げられるのが︑凶附のギリシア

アテネ

郊外のダフ ニ修道院教会 の天車部の一一世紀初頭のモ

ザイク表現です︒

こ こ に は

︑ 教会常の以頂部の九いド ーム部が﹁パ﹂を象徴すると凡なされ︑そこに明像破 成運動に先也つ時

代 の川のイコンとは t んど川じポー

ズのいわゆる

﹃ 今.能(パントクラト!と の キリスト ﹄

がぶわされています︒このキリスト似は︑川形の虹の

窓から︑胸までの部分までしかけ凡せずに覗いている t

いう遂を取り︑これぞ xt

地 の

悼 惜

す る

t H 凡なされるそ

の下の部分の ﹃

受胎告知

﹄ に始まるト 二 の

H m t H

A

場耐

(実際の教会堂で一年の間に行われる

HMb

重要な典礼

ー ー ̲ . . . . ♂ ー ー ‑

7 q W

女フォワ』の座像遺物函

1 1

紀(現在では

9

世紀と縫定) コンク

' J 1  

B

r!X!わしをキリスト』

アミアン大田堂西正菌室関口

1 3

也 紀 中 頃

~I(とj/,(のムtI(Uのt

A lf

色を与える 39 

(10)

に係わる福音書場面ですが︑これらの場面では︑背景 は出来事を時示する要素を最小限にと

E め︑ほとん E

全てが金地となっており︑時・空聞を超えた表現とさ れています)と比べてみますと︑計り知れないほ

E 巨

大で超越的な尺度の存在として表わされているわけで︑

ここに至って東方キリスト教会の内部の全体的なプロ

グラムは︑かつての教化的な表現とイコン的な表現と が厳密に︑しかも調和的な形で融合していったことが 推測されます︒この推測が単なる現代の私たちの印象

にと E

まるものでないことは︑首都コンスタンティノ ポリスのハギア・ソフィア大聖堂のモザイクについて プロコピウスが諮った︑次のような言葉から裏付げる

ことができます︒つまり︑プロコピウスは︑﹁聖堂は︑

これを眺める人の周囲を回転しているように感じられ る︒なぜなら︑眺めるものが無数にあるため︑これを

見る人は次から次へと廻らざるを得ないからである︒

そして︑自分自身が体を回転させているにも係わらず︑

あたかも建物の方が旋回しているような錯覚にとらわ

れてしまうのだ﹂と語っており︑﹁我﹂対﹁汝﹂に係わ

る客観と主観の問題は︑認識の問題と絶対・普遍の問 題として︑画像自体に則して人々に感じられるに至っ

た・﹄とが確認できるのです︒

このような形で︑東方キリスト教世界の﹁我﹂対﹁汝﹂

に係わる画像の問題がある程度確認できるとしたら︑

現在までの幾つかの研究を通じて(特に最近年のドイ

ツの優れた中世美術史家ハンス・ペルティングの次の

大 著 が 重 要 で す ︒ 国 ・ 回 ︒

Z

ロ 悶 ・ 回

EC

2

目 ハ

巳 ?

O

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nF

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色 ︒

回 一

‑ a o ω

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﹃ 色

角 田

ハ ロ

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ロ ロ

nF

OD

5 8

) ︑こうした東方キリスト教世界の大きな影響を受

けながらも︑独自な展開を遂げた西ヨーロッパの﹁我﹂

と﹁汝﹂の普遍的な対話の可能性を示唆する画像の問

題はどのように考えられるに至っているのでしょうか︒

ここでは︑西ヨーロッパの歴史の上で最も決定的な

時期と見なされる一 01 一一世紀に関して︑関連する

文書資料も数多く残る︑図的を挙げました︒フランス

のコンク大聖堂の宝物館所蔵の名高い﹃聖女フォワ﹄

の座像遺物函に則し︑その経緯を紹介して見たいと思

います︒問題の前提となるのは︑キリスト教の勝利に

よって︑新たに展開した事態︑つまり死者の住む町(墓

場)が生者たちの住む町の内部に設置されるようにな り︑都市の城壁内での埋葬に対する千年にも渡る宗教 的禁止の解除が︑正真正銘の歴史的変動を生じさせた

(ジャン・ギュイヨン)という点です︒この新たに都

市の内部に入ってきた死者たちの中に︑キリスト教徒 の眼から見て特別な地位を占めるに至った者がいたの です︒つまり︑殉教者たちです︒イギリスの優れた宗 教学者ピ!タ

l

・ブラウンは︑﹃聖者の崇拝﹄という見

事 な

著 書

( ︑

﹃ zn

三 件

︒ ご

Z ω

巴 ロ

F n z g m p

∞ ∞

N)

40 

(11)

中で︑仙川教者たち︑そして

一般

的には型者たちが︑型

遺物を泌じて攻作すると与えられるに.セったという点

を強調しています

先包つト

H

代ロ

!

?時代に仇帝の似 に対して付与されていた換検(メトニミ

l)

としての 役割は︑聖遺物において全面的に開花して行ったとい うのです︒例えば︑トウールにある宅マルタンの必に

刻まれた益砕銘文には︑﹁このおの魂は

M

仰の御手の中に

あ り

k

件かれながらも︑

方では︑﹁あらゆる奇跡に

より明かなご

t

くに︑全き姿にてここに現存する﹂と 古かれていたのです

︒こ

ニにおいて︑将

遍的で超越

な バ

l

ソ ン

宅 問

﹃ 的

O

コ ) ︑

まり入札仲代名川で

J‑

フ 入

札 仲

か︑人怖とか︑

ペルソ

ナ(伏絡)というキリスト教の

一採取裂な

概念が﹁実伐する﹂と

いう

FJ

λ

ぶ の 礎 ( い 図9 rローマ人の肖像』 紀元前80王手頃

大 理 石 実 物 大 パ ラ ッ ツ オトルローニ ア ロ ー マ

しず・とが︑型遺物中凶作を通じて確

立して米たわけで

この点を以も刷版に示す造形作例が︑

m H 造物曲とし

ての役訓を持つ聖火フォワの像であり︑胸のところの

十字架形の部分がえられますが︑こ

の内部に彼火の遺 什が収められている

のです︒彼次は四世紀始めに一一一

政で絢教した火性でしたが︑先にも山中しましたように︑

この像に閲しては︑これを比たり

︑持ん

だり

した

I

の人々が E

のように感じていたかを教えてくれる文計

資料も同時に盟誌に昨枕されています

す な わ ち ︑

型 次

フォワの奇跡

n h t

題された喰お伝がそれで︑とり わけそれらの小でも︑シヤルトル

烈常陀乍校

の 山

下 仰 であったアンジェ

ペルナルドスが︑

一 一

枇紀に浮い

図10

r

祖先の胸像を持つローマの遺族」

紀元前30i手頃 大理石、等身大、カピトリ ーノ美術館 ローマ

41一一一-~I<!:it.cの刈 1(liのl'A f駐を与 λる

(12)

た最初の二つの書に︑私たちにとって貴重な証言が残 されています︒コンクの像を修復した西洋中世美術史 家のジャン・タラロンは︑もともとの胴体は︑一

O 世

紀頃に︑古︿四世紀から五世紀初頭に遡る古代の頭部︑

すなわち月桂冠をつけたロ

l

マ皇帝の黄金の頭部保に

付け足されたものだったことを明かにしました︒それ 故︑聖者の遺骨を収める聖造物函が像という形を取る ということは︑決して些細な事柄ではな︿︑それ

E こ

ろか︑このことこそ︑恐らくは東方キリスト教世界で は偶像崇拝の危倶によって完全に姿を消してしまった 丸彫り彫刻が西ヨーロッパのキリスト教世界において 復興するに至ったことに︑その正当性︑あるいは口実

(アリバイ)を与えた真の原因と考えられるのです︒

聖女フォワの遺骨の一片は︑いわば安全を保証する許 可証にすまず︑それによって当時の農民たちが本当に

得たのは︑聖造物よりもむしろそれを包んでいるもの︑

すなわち殉教した子供の像︑大き︿限を見聞き︑宝石 を儀め込んだ衣をつけた人形(ひとがた)だったので す︒ニこでは詳細は省きますが︑アンジェのベルナル ドスが報告している聖女フォワの数々の奇跡談は︑信 者たちの想像力が

E

れほ

E

尋常ならざる物体によって 支配されていたかを如実に示しています︒端的に申す ならば︑中世から近代に至るまで︑像に対する異常な までの執着と同時に恐怖を示すという一般の人々の両

義的な態度がヨーロッパ全体を貫いていると言える︑で

しょう︒こうした意味で︑言語の上で﹁我﹂と﹁汝﹂

の普遍的で絶対的な対話の基礎が定着したばかりでは な︿︑画像の分野を通じて考察してみると︑極めて不

思議な事態が生じたことがお分かり項けると思います︒

そこで︑冒頭でも︑今回はいわばル!ツ探しの様な 形で御報告をさせて項くと申しましたが︑次にこの様 なヨーロッパ中世における画像や彫像からうかがえる

超・実在(シュ

i

ルプレザンス)とも言うぺきものを 通じての﹁我﹂と﹁汝﹂の﹁対話﹂の前史(プレ・ヒ

ストリー)を︑ギリシア・ロ

l

マの世界に探ってみた

いと思います︒この超・実在とも言うべきものの成立

の前提に関しましては︑私︑どもの大学の安永先生がつ

とに指摘なされていることですが︑フランスの優れた

社会学者マルセル・モ

l

スが﹃社会学と人類学

H

﹄ (

有 地亨︑山口俊夫訳︑弘文堂︑一九八五年)の中でペ

ルソナという問題に挑んだ筒所が現在極めてアクチュ

アルな意義を持つものとして再び注目を浴びるように

なってきています︒ここでの問題と直接係わるのは︑

第五部の﹁人間精神の範時・人格の概念︑︽自我︾の概

念﹂の中の﹁ラテン人のベルソナ﹂の箇所です︒その

中 ︑

て ︑

l

スは︑﹁インド人や中国人とは逆に︑ローマ

人︑さらに適切に言えば︑ラテン人こそ︑ペルソナー

│この名称はまさしくラテン語に他ならない││の概

42 

(13)

念を部分的に確立した人々である﹂と述べ︑﹁人は一つ の組織的事実以上のもの︑人物の有する名や権利や祭 儀の仮面以上のものであり︑それは法の必本

的 事

実で

ある︒﹁法においては︑人(ペルソナエ)︑物(レス)︑

行為(アクティオ

l

ふス)のみしか

G K

忙しない﹂と法

作家は述べている

の 似

削 刊

A

︐でもなお孜々の法典

μ州市を支配し

ている

だ が

れまでに到述するに は︑ロ!?における創

の発以と

いう

引夫が作する﹂

th

いています

そして︑モ

l

スは︑このペルソナと

いう

葉の原義が﹁仮而﹂に尽きるものである

こと

確かである

t

し ︑

一 ゴ

H

説中者のパンヴエニストの示唆に

基 づ き

のパンヴ

エニストの考えは︑

今回のシン ポジウムに先立つ問題提起の文章で︑杉山先生が挙げ ておられる邦訳のある若

小に

緩められております が︑彼はそれが

HHハ体的にい

つ成

L正した

のかは明パを避 けています

正しいかどうかは分かりませんが︑ト什代

及 び

附の文法中行の

ロビ

ンソンは︑人件仲代化川の念

場を後期ストア派の時

代に附い

ています││︑ラテン 人の先住民伎であるエトルリア人がギリシア訟のプロ ソポン(似商)から

仙川して

ペ楽に

米するかも

しれない t

述 べ

ロ!?市民

の { 糸 口 屈 の 正 面 玄 関 の 阿 賀

に沈かれた壁命に保作された亡き初出先のデス

マスク

r~年の肖像』 ファンユーム出土、下工ジ

E世紀メトロポリタン美術館pliit

1 1

ブト

1 2

rセブティミウスセウェルス帝とその家族』

200年頃、ベルリン国立奨術館所蔵。左側lのゲタの顔 lまダムナティオ・メモリア工(記憶抹殺)により削 除されている

~'W((の )'!lfIiの附仰を号える

43

一一

(14)

に合わせて作られた蝋製の仮面と︑ローマ市民の三種

ある名前の中で最も個人的な︑人格に近いものである

添名

( g

o g g

一コ

グノ

1メン)の聞に密接な対応関

係があったことを指摘しています︒すなわち︑このデ

ス・マスクとも言える仮面が問題となる当の個人のア

イデンティティーの一部であったという重要な指摘を

した

わけ

です

問題のデス・マスクはそれ自体が蝋で作られていた

ため二

01

O

年程の耐久性しかな︿今日まで残って

いないわりですが︑それを大理石で写し変えたと考え

られる作例を図側︑仰に挙げておきました︒具体的に

申します主︑ローマ人が家長を亡くしたときに蝋製の

デス・マスクを作り︑これを特別な廟や家屋の両翼の

壁寵の中に保管したというかなり以前からの習慣とつ

ながって︑葬儀の際にこれらの祖先像は葬列に加えら

れて運ばれたのですが︑ローマの貴族の家では帝政時

代になってもこの習慣に強︿固執したと言われていま

す︒特に図

ω

を見て項きますと︑この像は肖像主の醜

悪さをそのまま写し出すように︑敏の一つ一つまで忠

実に刻み込んでおり︑現代の私たちには︑美術作品と

いうより記録に近い彫像品であることが感じられ︑自

分たちの祖先のとアイデンティティーを強く主張しよ

うとした帝政期になりますと︑ローマ貴族たちはかつ

てのデス・マスクを彫刻家に大理石に写し変えさせ︑ 公開展示をする形で・﹄うした像を残そうと望んだと思われます︒このような貴族たちの欲求が生じたのは紀元前一世紀の初頭に至ってからのことでしたが︑おそらくこの頃になって︑彼等は自己の伝統的な指導的地位が脅かされてきたことを感じて︑自分たちの古い血統を強調するための手段として︑父祖像を永続的な形で公開展示することを望むに至ったのだ

t

考えられて

いま

す︒

44 

このようなキリスト教美術のイコンに先立つロlマ

美術におりる極めて特異な肖像の成立背景がある程度

明らかになると︑表わされた当の人物のアイデンティ

ティーを持っていると信じられたロl

マの

父祖

像か

ら︑

先に問題としましたキリスト教美術のイコンや彫像へ

の橋渡しをした古代末期から初期キリスト教時代の作

例が︑絵画の分野ではありますが浮び上がってきます︒

これらの証言としての重要性︑意義︑機能を典型的に

示す

作例

を図

側︑

ω

ω

ω

に挙げておきました︒図

仰と

ω

に挙げた作例は︑イコンに圧倒的な影響を与え

たと見なされている二世紀から四世紀にかげで制作さ

れた死者たちの板絵向像であり︑エンコ1

ステ

ィッ

(蝋画︑粉末状の顔料を溶けた蝋に混ぜ︑熱いうちに

筆とへらで描︿もの)という初期のイコンと同じ種類

の技法で捕かれています︒図側は︑上の方が三角形に

切られていますが︑これはこの絵に描かれた当の死者

(15)

の木松の蓋の顔の上の部分に絞め込むためであり

t

繋がるものであったことが理解できます

その

土︑

ニれらの死者たちの山H

像が単に来世

t

繋が

って

いただ

けでなく︑その捕かれた当の人物のアイデンティティ

の一部

t H 凡なされていたことを証

4

け し て い る の が ︑ 凶仰の作例です

これは北アフリカ(レ

プ︐ アイ ス

グナ)の

身の主稀だったために北アフリカから発

されたものですが︑このような板絵が皇帝の山

口像に係

わって六代末期のロ

マ世採で広︿制作されたものと

考えられます

︒この板絵はセ

プテイミウス

セヴエル

スという皇帝とその皇后ユリア・ドンナと

二つ

の王子

カラカラとゲタ(後︑て述べるように顔の部分は削除さ

れてしまっている)が怖かれています

皆さんに沌

して項きたいのは︑阪の部分が完令に削り取られてい るゲタという

上子は︑カラカラによ

って

附殺されてし まい︑その抗後に彼は帝位とその継崎小綿

bzM

品 称

さ れ

た 人物として︑阪の部分ぞダムナティオ

メモリアエ(記

憶抹殺)と称される磁波行為によ

て削除されてしま

ロッサノ短音.r

ピラトの裁判:イエスとパラパの選

B  世紀口ッサノ

司教座付属宝物館所感

1 3

択」

1 4

r台のよに燭台とともに置かれる皇帝の公式胸像』

Nottitia dignitatum

より、

Ms.lat. 9661、fol.53 ..パ

リ国立図・館所厳

.

J

W ! I :

の)

. t 1 M

の似

1 1

駐を苦える 4~

(16)

ったことです︒つまり︑この古代と中世の過度期に歪 つでもなお︑先のデス・マスクに由来する︑描かれた

(あるいは彫られた)画像とその当人とが同等の価値

を持っと見なすロ

l

マ的な慣習が生き続けていたこと

が確認されるのです︒

この種の画像が実際にどのように使われたかは︑図

ω

のキリストとパラパを裁︿場面を描いた初期キリス ト教時代の写本抑絵の中に見ることができます︒ロー マ帝国の裁判官ピラトが座る裁判席の両側に︑小さい ですが︑同じ様な板絵があり︑そこに皇帝の画像が置 かれており︑古い方々の良く知っておられる御神影と

同じ役割を果たすもので︑その場に皇帝自身が君臨し︑

その絶対的な権利のもとで裁判が行われたのです︒こ うした形で︑描かれたり︑彫られたりした絶対的な権 力を持つ人々の画像が表わされた当の人物と同等な価 値を持ついう考え方が︑キリスト教中世の世界に入り 込んできたのです︒こうして︑ローマの皇帝美術の発 想と図像の直接的な接触のもとに︑キリストや聖者た ちのイコン像が形成されて行きました︒また︑九世紀 以降のカロリング王朝の形成期には︑古代ロ!マ法制 の復興もまたもくろまれ︑古代ロ

l

マの法制に係わる

写本が写し直されて︑その際に図

ω

に見られるような 皇帝の画像を燭台のもとに読き︑四頭立ての馬車に乗 せ︑あたかも画像が皇帝自身であるかのように扱う儀

式も西ヨーロッパの諸帝国の制度の中に復興したので す ︒

46 

きて︑以上辿ってきたことを総合して︑古代ロ

l

と中世以降の西ヨーロッパの画像に対する態度に関し て ︑

E

のような点が異なってきたのかを考えてみます と︑繰り返しになりますが︑中世以降においては︑来 世を回路とするようになったこと︑それに死者たちが 都市の生きる者たちの中に入ってきたことにあると思

われます︒古代ロ

l

マ時代以前には︑死者たちの遺骨 と彼等の向像は︑墓場と生きる者たちと住む都市とに それぞれ別個に置かれていたわりですが︑これが混在

し︑一つに扱うことがキリスト教世界の中で定着して︑

まさに超・実在(シュ

l

ルプレザンス)とも呼べるよ

うな状況が画像のあり方において展開し︑人称︑人格︑

﹁汝﹂︑﹁我﹂といった問題の普遍化︑絶対性が非常に

大き︿浮び上がってきたのだと考えられるのです︒歴 史研究を活性化しようとしてきた︑近年のいわゆるア

l

ル派の研究において︑重要なキ

l

・ワ!ドとされ

てきた﹁マンタリテ(心性ごという概念に代わって︑

表象という概念が着目を浴びるようになり︑最近では

﹃リプレゼンテーション﹄という題名の雑誌まで刊行

されるようになってきています︒今回私どもの大学の 芸術学科が十一月末にお呼びすることになっているイ

タリアの歴史学者カルロ・ギンズプルグ氏は︑言葉︑

(17)

観念︑事物︑画像︑人称の問題等に焦点を当て︑ここ での議論とまさに重なる問題を﹃アナ

l

ル﹄誌に﹁表

象(ルプレザンタシオンごという題名のもとに書いて おられ︑これが﹃思想﹄の九月号に翻訳されています

ので(カルロ・ギンズプルグ︑﹃表象(ルプレザンタシ

オン)l│言葉・観念・事物││﹄︑藤田朋久訳︑﹃思

想﹄︑一九九二年九月号︑六二

1

八四頁}︑興味のある

方は是非お読み項きたいと存じます︒

この鏡舌な言葉と画像の世界の紹介だけでは片手落 ちになると思いますので︑西欧世界の発想を底流で規 定し続けてきたと考えられる沈黙︑あるいはユダヤ教 的な﹁汝﹂対﹁我﹂の世界について皆さんに手短に知

って頂ける著書を紹介して︑今回の発去を締め括ろう

と思います︒このような問題が生じたヨーロッパの全 体的な社会・精神的な構造については︑昨年私がギン ズプルグ氏のイメージ読解について紹介した文章(永

津峻︑﹁イメージ資料を読み解︿ギンズプルグ﹂︑﹃思 想﹄︑一九九一年一 O 月号︑三九

l

八三頁)の結論部を

読んで頂くニととして︑御紹介したいと思いますのは︑

その中で挙げました﹃シャドー・ワ

l

ク﹄な E の著者

として知られるイワン・イリッチと中世文学史家のサ

ン ダ

l

スの共著による﹃

ABC‑

民衆の知性のアルフ

ァベット化﹄(丸山県人訳︑岩波書庖︑一九九一年)と

いう本の最終章﹁沈黙とわれわれなるもの﹂です︒ヵ

パラの伝統に則しながら︑いわゆるユダヤ的な発語の 問題を含めた﹁我﹂と﹁汝﹂の問題︑つまり︑こうや

っておしゃべりをしている中で生じるのではな︿︑沈

黙裏の中で︑内面的で本質的な﹁我﹂と﹁汝﹂との対

話が E のように発現し得るのかという問題を手短で鮮

やかに扱っていますので︑是非お読み項くならば︑よ り広く深い形で﹁汝﹂対﹁我﹂の問題︑人格︑人称の 問題を考える手掛かりとなると思います︒御静聴あり

がとうございました︒

47一一一一我と汝の対面

i

の附像を考える

参照

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