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哲学的制作論(V) : ところととき

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Academic year: 2021

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(1)Title. 哲学的制作論(V) : ところととき. Author(s). 野辺地, 東洋. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 8(2): 1-10. Issue Date. 1957-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3642. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 昭和32年12月. 北海道学芸大学紀要(第一部). 第8巻 第 2号. 哲. 学. 制. 的. 作. 論 (V). ’--- ‘と こ ろ“ と ‘ ‘と き’ ---‘. 地. 辺. 野. 東. 洋. 北海道学芸大学岩見沢分校哲学教室. T6y6 NOBEcHI:. ‐ Phi l I Theory of N【 aking osophi ca . V). 流れる時間を断つこ とによって作 られた空間は、 根本空間にたいして第二次的 空間である。 根本 空間とは、 時間 およびあらゆる時間的存在をうちに含んで静止 する全体であるが、 そのなかにあっ. て、 流れる時間は一方向的に流れゆく時間である。 これにたいして行為の働きとしての断つ時間が 行われるときに、 流れは断ち切られて、 そこに第二次的空間が作られるのである。 この空間は “作 られた基間” である。 これは根本空間からみれば、 そこから切りとられた部分的空間である。 根本 空間は、 プラトンの 言葉でいうならば、 “すべて 生成するものの 受 容器 Pases genese6s hypodo‐. ’ 2 )で あ i ggne 1 tar ) で あ り 生 成 する も の が、 “そ れ に お い て 生 成 する とこ ろ の もの to en h6 khぎ’ 、 ” “ る。 そ れ は つ ね に 存 す る と こ ろ の 空 間 kh6ra で あ り、 決 し て 消 滅 す る こ と が な く、 生 成 す る と ) と こ ろ で プ ラ ト ンの kh6ra を 空 間 と 解 ころの すべ ての ものに 座 hedra を 与 え る も の で あ る。3. すべきか場所と解すべ きかに ,ついては、 異論のある ところである。 この論議に 立ちいることは、 い まのわれわれの目的ではない。 ここではやや幅をもたせて、 いずれにとってもさしつかえない態 度. で の ぞむ べ き で あ る。 な ぜ な ら ば、 ど ち らに と っ た と こ ろ で、 そ れ は 次 に 述 べ る ア リ ス トテ レ ス の ”場所 topoず と と もに、 い ず れ に L て も ひ ろ が りを もっ た 空 間 で あ る こ と に は、 違 い な い か ら で あ る。 わ れ わ れ は、 い ま の と こ ろ で は、 “ひ ろ が り” と い う 点 に .着 目 しさ え す れ ば い い の で あ る。. ‘作られた空間” であ り 作られたものと ともにあるo さて根本空間にたいして第二次的空間は ‘ 、 そ れ は ア リ ス トテ レス の い う とこ ろ の topos に 関係を もった 空間である。 彼は まず、 何ものも. は他のものなしに ありうる。 ものが 消滅 しても topoS は 消 滅 しな い、 と い うが三) こ の 規 定 の 仕 方 は プ ラ ト ンの kh6ra と変化はないように 思われ る。 ‘包含者の最奥の静止 的境界 to tou peri‐ ところが彼の より立ちいたった規定 に よ る と topos は ‘. topos な しに は あ りえ な い、 しか し topos. 、. 5 ) さ らに 境 界 は 境 界 づ け ら れ た も の と一 致 6ton” で あ る と い う の で あ る。 ekhontos akinaton pr 、. G ) このよ うなみ かたからすれば、 それはわ す る か ら、 topos は も の と 一 致 す る、 と い う の で あ る。. ” ’に接近 してくる ‘ ‘ 空間は ‘作られた茎間’ れわれの‘ 。 作られた空間 は被包含者の空間である。 この ” ” ‘ ‘ 全体としての空間から切 りとられた部分であり、 “包含する空間 に たいして 包含され る空間 で “. ある。 この 後の空間が先の空間にたいする空間的関係 がわれわれのいいたい ”場 所 で あ る。 す な わち、 全体にたいして部分 が どのよ うな位置を 占め るかというこ とをあらわすものが場所である。 ” そ れ は 作 ら れ た も の が “どこ” に あ る か を 示 す も の で ある。 プ ラ トンの 言 葉 で い う な ら ば、 座 を ” 与 え る もの” に よ つ て 与 え られ た ”座” で あ る。 ア リ ス トテ レス は、 さ きに み た よ うに、 そ の 著 目 - 1 -.

(3) . 野. 辺. 地. 東. 洋. 然学“ (Phy ka i ) において空間を論じているが (次にわれわれの扱う 時間とともに) それも以上 s 、. の ご と き topos と し て で あ っ た こ と は 注 目 す べ き で あ る が さ らに 彼 が “範 鴫 論” (Kategor i ae) 、 ” ‘ ‘ ヮ ) や ”分 析 論“(Analytika post ) の 掲 う ちに げた の 鴫 十 範 の ち う に は 空 間 (ま た 時 間 そ の . もの 、 )) と い う形 で そ れ に 相 当 す べ き もの が あ ら も) は 見 あ た ら ず、 “ど こ poす (ま た “い っ potげS 、. われていることは、 改めて論ぜられるべ き問題を含んでいるよ うに思われる 。 さて、 ひろ がりという点からい うならば 全体と しての空間はもちろんのこ と 作られた部分的 、 、 空間もまた ひろがりを有するものであり、 した が ってまた 後者が 前者に接する場所もある程度の 、 ひろがりを有 することは当然であるが、 場所とい うことに本質的な問題は位置ということである 。 場所と いう言葉には特 定のひろがりが主内容となっている場合もあるが (例えば “余地” を意味す. る場合のよ うに) 、 基間とは違ったものと してこの言葉が用 いられる場合、 この語の本質的意味内 容 はひろが りを否 定 したもの、 ひろがりを捨象 したものと しての位置でなけれ ばならない かかる意 。 味から、 われわれのい う場所はむ しろ空間点で あり地点である アリ ス トテ レスが ”範暖論” で用 。 ‘学 園で en Lykei6i” と か “市場 で en agorai” と か い う の は 9 いた例でいえ ば、‘ 、 、) 学 園 や 市 場 の. ひ ろ が りが 問 題 な の で は な く、 そ れ ら を 空 間 点 と み な した “ど こ” が 問 題 な の で あ る こ の よ う な 。 空間点と しての場所を、 われわれはわれわ れの言葉で ”と こ ろ” と 名 づ け よ う。 こ の 語 は ”一点に と ど め る” と い う こ と を あ らわ す の に 最 も ふ さ わ しく 思 わ れ る な ぜ な ら ば ”と” は “と どめ る“ 。 を、 ‘℃ ” は ”場 所” を 意 味 して い る と いわ れ る か らで あ る ( ‘ ‘ろ” は 接 尾 語) l o 。 )なお 西欧語に つ い てみるな らば、 独英語の Raum や room さ らに ゴ ← ト語 の ram な どは す べ て “空 間” な い し 、 、 ‘土地” と か ”いなか” の意味のラテ ン語の ra‐s ひろがりを あらわ す 言葉であり、 語根の ra は、‘ ] 1 ) と こ ろ が 他 方 場 所 を あ らわ す ドイ ツ 語 の ort はその古高 ドイ ツ語の 時代に と 関 連 が あ る。 は 、 ひろが りの意味はなく、 次第に今日のひろがりと しての ”場 所” の 意 味を も つ よ う に な っ た。 こ の 2 語 の 意 味 と し て は ”尖 端” と か “角” と い う こ と が 起 源 的 で あ る 1 ) 。 わ れ わ れ は こ こ で、 あ た か も “室 間” な い し ”ひ ろ が り” と ”と こ ろ“ と の 間 の 反 対 関 係 と 同 t との じも の を、 Raum と 古 い or 間 に み い だ すこ と が で き る と い う こ と は、 興 味 の あ る こ と で あ る 。. さて、 “ところ” は、 そこにおいて第一次的の根本空間から第二次空間が切 りとられた点であり、 作られたものの位置をさ し示すもの、 すなわち ”どこ poir である それは空間点であり、 古い意 。. 味での ort で あ る。 topos は. kh6ra. のうちに あって、 その点的性格にまで極端化されることに よ. っ て、 み ず か ら の 性 格 を も っ と も 明 瞭 に あ らわ す べ き も の で あ る こ こ に わ れ わ れ は “と こ ろ” と 。. しての概念をえたわけである。. 1 ) P1aton, Timaeus ,42a ,5-6 .. 2) i b i dり 50d , ,1 3) i b idり 52a . ,8-b ,5 4 l tot P ) Ari h i ka s e es --209a , ys ,208b ,35 . ,2 5) i idり 212a b , ,20. 6 ) ibidり 212a,30, 7 lyt i ka p。S ) Kategoriae t ,lb ,25; Ana , つ 83a ,22 8 ) こ こ の pote は 疑 問 詞 で は なく “い つ か“ の 意 味 で あ り、 pou に た い して 斉 合的 で な い。 しか しいま の わ れ. わ れ に と っ て は、 この こ と は 問 題 で は な い。 な お オ ック ス フ ォ ー ド版 “分 析 論” で は、 ベ ッ カ ー 版 の 疑 問 詞 ’ po口 が po u(非疑問詞 “どこか’ ) となっている。 これならば非疑問詞 pote に た い して 斉 合的 で あ る。 9 ) Kategり 2a,lu,2,. 10 ) 大槻文彦、 大言海。 11 ) K1uge t l erb , Ethym, W6r ,d , deut , Spり 8 , Auf , 1915 , 12) i b id .. - 2 -.

(4) . 哲 学 的 制 作 論 (V). ア リ ス トテ レス は 先 に も 触 れ た よ う に、 “い つ po tざ を範鴨の一つと じて掲 げている。 流れる時 ” ” 間 を 断 つ こ と に よ っ て 一 つ の と こ ろ が 作 られ る が、 こ の 断 つ “と き” は流 れ る 時 間 と は 異 な つ た と き で あ る。 こ れ は いわ ば “作 る 時 間” で あ る。 そ し て “と こ ろ”カキ切断に よ っ て 作 ら れ た 基 間 点 で あ る の と 同 様 に、 こ の 切 断 す る ”と き” は ま た 時 間 点 で あ る。 よ りよ くは 時 点 と い う べ き で あ ろ う。 ‘前 後へ の 運 動 の 数 ar i thmos kinきse6s ア リ ス ト テ レス の 場 合 で いう な ら ば、 時 間 khronos が ‘ ’ 1 kata to proteron ka ihys teroぜ で あ り、) した が つ て そ こ に は 前 後 の ひ ろ が り が 認 め ら れ な け れ ばな ら な い の に た い し て、 “と き” は 彼 の ”範鴫論” における ”いつ potざ で あ る。 彼 の 掲 げて い ) 流 れる時間の うちに ある特 id’ と か で あっ て、2 る例 で いえ ば、 “昨 日 ekhtheg’ と か ”昨年 perys ” ” ” “ 定の と き を 切 り と っ た もの で あ る。 こ の と き は ま た べ つ の 言 葉 で い え ば カイ ロ ス kairos ’ 2 ) のな か で である。 バー ゼル大学の神学者オスカー ル・クルマ ン教授はその著 ”キリ ス トと 時’ 、 i アイ オ ー ン a 6n(永 遠) と カイ ロ ス の 二 概 念 を と り あ げ て 対 比 さ せ て い る こ と は、 わ れ わ れ の 場 合. の力イ ロスの問題に 資するところが大きいと思われる。 彼は新約書の時間の観念をよくあらわす二 つ の 慨 念 と して、 こ の 二 つ を と りだ し、 ”カイ ロ ス に と っ て 特 質 的 な こ と は、 内 容 的に 規 定 さ れ た. 一つの時点. Zei tpunkt が 問 題 で あ る と い う こ と で あ る L か る に アイ オ ー ンと い う 言 葉 は、 時 間 。. 3 ) 彼 が アイ オ 継 続、 す な わ ち 有 限 な い し無 限 の 時 間 延 長 をV ・い あ ら わ す も の で あ る” と し て い る。. ト ンをもって超時間的永遠となさずに、 単に時間継続とな したことに ついては、 神学上の問題の余 地 な さか を お そ れ る が、 い ま は こ の 問 題 に 触 れ る 必 要 は な い。 彼 が カイ ロ ス に た い して 時 間 の ひ ろ が りを 拒 み、 ”時 点” を も っ て こ れ に あ て が っ た こ と は、 必 ず しも 彼 の 創 意 で は な く、 む しろ 神 学 の. 救済史観において伝統的となった新約書理解ではあろうが、 い まのわ れわれにとって甚だ興味のあ る と こ ろ で あ る。 彼 は さ らに い う。”カイ ロ ス は 世 俗 的 用 法 に よ れ ば、 ある 計 画 に と っ て 時 間 的 に 好. 都合な機会の ことである。 それはすでに以前から語られていながら、 はっきりしたときがわからな かつた時点であり、 当世の符諜を例にとれば ‘D の日の とい うような時限である。 何らかの企て を 実 行 する た めに あ る 時 点 を、 と くに 適 切 な も の と 思 わ せ る も の、 す な わ ち カイ ロ ス と す る も の は、 人間の思慮にほかならない。 ミリ クス が パ ウロ に ‘よ さ お りを え て ま た招 か ん’ と い っ た の は、 こ 5 ) こ れ は カイ ロ ス の世)俗 的用 法 で あ る が さ らに 超 俗 的 用 法 の よ う な 世 俗 的 意 味 か らな の で あ る。” 、 と し て も、 こ の 語 の用 い られ か た は 等 し い こ と を ク ル マ ンは 説 明 して い る。 “た だ こ の 場 合 は、 人. 間の思慮ではなく神の定めが、 あれこれのときをカイ ロスになすの である。 しかもそれは神 の救済 計画の遂行を目ざされてなされるのである。 それが救済史であるのは、 神の救済計画の実現が、 神. に よ っ て 選 ば れ た か か る も ろ も ろ の 時 点、 すな わ ち も ろ も ろ の カイ ロ ス に 結 びつ け られ て い る か ら. である。 狭義における救済史を構成するものは、 経過する時間の全部分ではなく、 全体と しての時 )われわれの場合は 間からと りだされ たこれらの諸点、 すなわちもろ もろのカイ ロスなのである〆G い ず れ の用 法 で あろ う と 問 題 は な い が、 い ず れ に して も カイ ロ ス は こ の よ う に、 ひ ろ が りと して の 時間をではなく ひろが りを否定 した すなわち瞬間的に流れを断つ ”と き” を 意 味 す る も の な の. 、. 、. で あ る。. ime は t t i de(潮) と 同一系統の 言葉であ 西欧語における ”時 間” に つ い て み る な ら ば、 Zei ,t. i i の も と と な っ て い る。 t i はイ ン ド語 の a り、 住 はその語根である。 これに相応 する語根たる d ‐d これは女神の名であるが、 時室的に無限なること、 無時間的なること、 などを意味する語である。 es、 さ らにイ ン ド語 で ”日” を あ らわ す また ”日” と か ”日 限” を 意 味 す る ラテ ン語 の di - 3 -. dina 、.

(5) . 野 ‘日“ を あ らわ す din ス ラヴ語 で ‘. 辺. 地. 東. 洋. i さ らに は ”市の 日 ま で の 九 日 間” を 示 す ラテ ン語 の ロund nae、. ヮ ) いずれ もそ in ins な ど も、 み な こ れ に な ら う こ と が で き る。 ゴ ー ト語 の ”毎日” を意味する s te ‐. れらは、 ひろがりをあらわす時間である。 しかるに時点を表明 する言葉と しては、 さいわい ドイ ツ Zei tpunkt という合成語をもち これはとくに ある期 間をあらわ す Ze i t raum と い う 表 現 と 、. 語は. あ い た い し て い る。. このように ひろが りを意味する空間と、 これに包 まれて流れ、 同じくひろがりを意味する時間と. にたいして、 この流れを断つことによってあらたに作られた ものの位置を あらわすわれわれの言葉 は “と こ ろ” で あ り、 そ の 機 会 を あ らわ す 言 葉 は ”と き” で あ る。 い ず れ も は ひ ろ が りを 否 定 し、 無. と しての点を あらわす言葉である。 この切断点に お いて基間と時間とは交叉 しているともいえる。 ′ことが できるが 空間はそれが不可能であるから しか し時間は線のようなものとして表象 される 、 、 交叉という表現は適当ではない。 とはいえ、 両者のある局面が一つであることは、 た しかにいえる こ と で あ る。 “ど こ” と い う こ と と、 “い っ” と い う こ と と は、 ひ ろ が りを 断 つ と こ ろ の 制 作 に 必 ず. と も な う こ と で あ り、 そ の い ず れ か が 欠 け る と い う こ と は、 あ りえな い こ と で あ る。 作 られ た も の、 す な わ ち 個 物 に と っ て、 こ の “ど こ“ と “い っ”、 い い か え れ ば “と こ ろ“ と ”と き” と は、 そ. の本質的な性格となっているものなのである。”ところ” の一点と ”とき” の一点のおの おのは決 し. て量的なものではないので あるから、 それらは無の一点において重複するのである。 空間も時間もともにひろがりである。 両者はともに “間” につきまとわれたもの である。 もとも と後者は前者に包まれてあるので あ り、 全体的静止の一断面が時間なので ある。 ライ ブ= ッッが空 ) と い っ た よ うに 個 々 の も の を neben e inander の 状 間は ”共存の秩序 un ordre decoexi stencざS 、. 態に おくひろ が りが基間であるのにたいして、そのひろ ,が りの断面をみる と き に neben einander は. ihysteron nach einander の 配 列と な る。 こ れ は また ア リ ス トテ レス の い っ た ka tato proteron ka. で ある。 これが時間であつて、 それはそれなりの--・基間のそれからみ た ら ば 抽象的 ではあるが. -. ひ ろ が り を も っ て い る。 し か る に “と こ ろ” と ”と き” と は こ れ と は 異 な っ て、 ひ ろ が り で は. ‘場のう ‘所の倫理『) のなかで、‘ ない。 まさにそれの否定である。 高山岩男氏もその興味ある論文 ‘ l o ) と 規 定 し て お られ る の は、 ま こ とに 当 ち の 個 の た め に 限 定 さ れ た 一 点 を と りだ し て 所 と い お う“. を え て い る と 思われる。 1 ) Physつ 219b , ,2. lmann 2 i i i l tus und d t ) oscar Cul e Ze s , . .2 . Auf , 1948 , Chr. 3) i b id . .33 . ,S 4) Der Grosse Brockhaus 9 44 l , Auf . ,16 ,1953 に よ れ ば、 D-Tag なるこの語は英米的用語法によるもので、1 年 6 月 6 日 の 連 合軍 に よ る ノ ルマ ン ディ ー 上 陸 の日 を い った も の で あ る と い う。 こ れを 英 語 そ の もの で は D‐day と い い、 “復 員 日” (Day o f demob l i i i t za on) の 意 味 が あ る。 5) i b i d . 6) i d b i . 7 b id ) K1uge . ,i. 8 ) Leibniz ,491 , , Gerhリ ーu s 9 ) “哲学季刊” , 第一号, 昭和21年, 秋田屋刊, そののち単行本となる。 0 1 ) 上掲書、 63頁。. 根本空間のもつ具体的な全体性のな かに、 流れる時間は含まれている。 この流れる時間を断つ働. きは、 いわ ば一つの抽象化作用である。 制作というこの原行為は、 抽象化の第一歩である。 切断の ] )に もとづ くもの で ある ひとは一 働きはウォリ ンガトの言葉でいえば ”室間の恐怖 Raumscheば’ 。. つの定着を欲 し、 みずから一つの ”と こ ろ” を 作 り だ す。 彼 は こ の こ と を 次 の よ うに い い あ らわ し.

(6) . 哲 学 的 制 作 論 (V). ているる 東洋の文化民族たちは--これはェ ジ プト人その他のことを いっているのであろうが一-- 外界の諸現象の混乱や変転に苦 しみ、 安静へ の欲求 を多分にもっていた。 彼らが芸術のうちに探求. した幸福への可能性は、 外界の事物のなかに沈潜することでは な しに、 すなわちそのなかでみずか らを味わう ことではな しに、 外界 の個々のものを その気 ままさと 見かけの偶然性とから と りだ し. て、 これを抽象的形式に即応 させることによって永遠化し、 このように して諸現象の経過のなかに 静止点をみいだすことにあった。 彼 らのもつとも強い欲求は、 外界の物体をいわば自然の諸連関の. なかから、 つまりは存在の限りなき変転のなかから、 とりだすことだったのである。 外界の物体を、 それにつきまとっている生 命依存、 いいかえれ ば懇意となっているすべてのものから、 きよめるこ とだったのである。 それを必然のもの、 不動の ものとすること、 それをそれの もつ絶対的 価値へと ) 近づけることだったので あ る。2. ウォリ ンガーに よれ ば、 このさい問題となるのは、 純粋の本能的創造である。 そ して抽象への衝 動は、 この形式 を矢=性のせわにならずに、 もともとの必然性でもって、 自分のために創 造 したとい うことである。 このように して合法剛性への素質が抽象的表現をみいだすことができるのである。 かかる抽象的合法則的形式は、 人間が世界像の混乱に直面して安静をうることのできる、 唯一最高 3 ) そこ で波は次のように立言する。 単純な線やそれが純粋に幾何学的な合法則性と の形式である。. なってさらに展開 してゆくことは、 諸現象の不明瞭さと混乱によって不安である人間にたいして、 このうえもない幸福の可能性を与えた ものでなければならない。 なぜならばここでは生命連関や生 命依存が完全に影をとどめているからである。 ここでは最高絶対の形式が、 すなわちこの うえもな ・所では有 く純粋 な抽象が、 実現 している。 ここには法則が存 し、 必然性が存する。 ところが他の場 一 ) 機 的 な る も の の 懇 意 が い た る と こ ろ に み ちみ 、ち て い る の で あ る。. 以上の点を べっの言葉で考えたのがハイ デッ ガーであるといえるであろう。 ここでいわれた空間 ‘ ・ ・ ・… に た い す る” と い にも相応 すべき彼の “無” は ”不安 Angsゼ に よ っ て 開 示 さ れ る。 そ れ は ‘ ‘きみが 悪 う こ と の な い ”不安” である。 無への不安といってもよい不安である。 不安にあっては ‘ い’ と い う こ と が 生 ず る。 し か し何 に た い し て き み が 悪 い の か、 誰 が き み 悪 い の か と い う こ と は、. われわれはいうことができない。 そのさい、 すべてのものごとやわれわれ 自 身 は、 ある種の無関. 心 へ と 沈 み こ む。 こ れ ら の も の は た だ 消 え 夫 つ て し まう の で は な く、 む しろ 退 却 そ の も の に さ い し. て、 われわれに向つて立ち帰ってくる。 全体と して在るものがこのように退却することは、 われわ. れに と つ て 圧 迫 で あ る。 わ れ わ れ は よ り ど こ ろ が “無 く“ な る。 在 る も の が 滑 り去 る さ いに、 こ の “無 い” と い う こ と が わ れ わ れに 残 さ れ て い る の で あ る わ れ わ れ は 不 安 の な か を 漂 う て い る も つ 。 。. とはっきりいうならば、 不安が全体として在るものを滑り去らせるのであ り、 われわれを漂わせる のである。 このとき全体に お い て在るものが滑 り去って無が迫ってくる。 この無に面 することに よ 5 ) 室 間 は ハイ デ ッ ガ ←に あ っ て は 全 体 と して 在 る っ て、 ”在 る” と い う 言 葉 が 沈 黙 する の で あ る。 、. もの で あ り、 そ れ が 不 安 に お い て 退 く と き に、 無 が 前 面 に あ らわ れ て く る の で ある。 ウ ォ リ ン ガ ト の “空 間 の 恐1怖’ は、 逆 に ”恐1怖’ に よ っ て 空 間 が 開 示 さ れ る と い う こ と に も な りう る で あ ろ う。. 切断によって生 じた最 初の抽象は、 芸術的制作に おいては抽象主義の根源である。 ハー バー ト・リ. ー ドは、 抽象主義は無の深淵に直面した人間の反抗であり、 有機的な原理を信頼 しないで拒否 しな ‘不安” の表現である という がら、 そう した状態にあっ て も人間の心意の創造的自由を肯定する ‘ 、 ‘ ‘ G ) 考えかたをなしてお り、 芸術に おける抽象主義の運動は、 実存主義哲学に すでに存在 している正 7 ) と い っ て い る リ ー ドの い う よ うに、 芸 術 に お け る 当 化の 理 由 づ け を 与 え ら れ な け れ ば な ら な い’ 。. 抽象主 義の解明に関する理論的先駆を ウォリ ンガーがなしたのであってみればぞ) 彼のいう “空間 - 5 -.

(7) . 野. 辺. 地. 東. 洋. の恐怖” がハイ デッ ガーの ”不 安” に つ な が る 道 を た ど る こ と も で き る の で あ ろ う。. 作られたものは抽象である。 それは形なき具体性--一見矛盾ともお もわれる表現であるが一-- と しての全体的空間の、 時間における切断である。 しかしながら、 抽象は作られたものにとっては、 根源的な形象である。 ひろいいみに おける造形の根源的なものである。 それは制作ということが時 間の流動を断ったということに応 じて、 あくまで反流動的である。 したがって形象も反流動的でな ければならない。 造形とは反流動を根本原理とすることは当然のことである。 しかしながらかくし. て作られた茎間は、 なおもそのまま流れる時間の底流に流 される。 根源的な時間流動は断つ働 きに よって完 全に断ち切 られるということはないからである。 切断は流れのきわめて表面的な部分に お いてで あるに すぎない。 とはいえ暗い時間流の表面は、 明るい空間流となって流れるのである。. 定 着 す べ き 空 間 を 求 め る 制 作 の 働 き は、“と こ ろ” を う る こ とに よ っ て、 そ の “と き” そ の “と き“. の安定を獲得する。 これは現実を創造することであり、 人間の個体性を積極的に主張することで あ る。 こ こ に いわ ば 自 由 が あ る。 ひ と は “と こ ろ” と ”と き” とに お いて は じめ て 自 由 な の で あ る。. この “ところ” の制作は効用財から芸術作品にいたる制作のすべてにおいて、 何らかのいみに お. いて永遠へと向 う性質を もって いる。 すなわち作られたものの個性は、 それに固有の ”と こ ろ“ を ‘ところ” が根本空間の方向に超 えられるのである。 またそ 超えて存在するものとして作られる。 ‘ の ものの制作から人手が離れて も、 そのものは存続する。 それは何らかのいみにおいて、 永久へと 向う性質をもっている。 すなわち ここに お いては、 “とき” が根本時間の内部へと 超え られるので ある。 これらの超越は効用財から芸術作品へと進むに したがって、 その性質を強める。 芸 術作品こ. そは、 その存在 のいみの超時間性と内 時間性とを もっとも強く主張するものと して存在する。 すな わちそれは、 完全なる永遠 性と永久性とを要求するものなのである。 ところがこのような作 られた. ‘と こ ろ” と “と き” と を 超 え る こ と の で き な い 行 為 が 他 面 考 え られ な け れ ば な も の に た い して、‘ 、 らな い。 そ れ は そ の “と こ ろ“ そ の “と こ ろ” に お いて 作 ら れ た も の、 ひ と の 断 つ 働 きが そ の “と き“ その “とき” に 行われていなければならならないものである これは効用財から芸術作品 まで. 。 の制作とは異 なった種類の制作である。”ところ” をうると同時に “とき” をえなければならない制. 作で ある。 それは最後 まで ”と こ ろ” と ”と き” と を 手 離 す こ と が で き な い。. これは人間の倫理的な行為に よる制作で ある。 原行為からみればこれは第二次的な行為とでもい. つ て さ しつ か え な い で あ ろ う が、 と もか く も “と こ ろ” と “と き” と が 超 え ら れ ず、 む しろ そ れ ら. が最後まで 決定的ないみをもつ行為、 そのいみで 歴史的行為というべ きものである。”ところ” と. ”と き” と を 超 え て 存 在 する こ と を 願 う “作 ら れ た もの“ を 作 る の で は な しに そ の と こ ろ どこ ろ 、. に、 またその ときどきに決定的意味をもつものを作る行為、 これが歴史的行為である。 ことにおい ‘と き” とに め ぐ り あ て は時間 から 送られた ”と き” の いみ が き わ め て 重 要 で あ る。 ”と こ ろ” と ‘ ‘と き” と を わ が も のに す る こ と こ れ に よ っ て 個 体 の 実 存 性 が 確 立 す る の で あ い、 “と こ ろ” と ‘ 、. る。 そ もそも流れる時間を断っ働き、 すなわちさきの原行為もかかる実存性から出ずるものなので あって、 それが ”ところ” 性と ”とき” 性とを超える方向へ向う場り合もあ り、 またそれらに徹する. 方 向 へ 向 う 場 合 も あ る の で あ る。 ”と こ ろ” と ”と き” と は、 さ き に も述 べ た よ う に、 結 局 は “流 れ る 時 間” に よ っ て 流 さ れ る も の で あ る が、 一 応 は こ れ と は 区 別 さ れ る も の で あ る。 そ れ ら は 無 と し. ての一点 に結合 されてあるのである。 かくすることに よって全体の流れのなかに作られたものの位 置づけ、 いいかえれば ”く らい ど り” を も つ こ と に な る。 つ ま り “く ら い” が 作 られ る の で あ る。. “く ら” と は ”座” な い し プ ラ ト ンの ヘ ドラを 意 味 し “い” は ”居” で あ る 9 ) した が っ て “く ら 、 。 い” と は、 与 え ら れ た 座 に い ま こ の と きに 在 る こ と、 す な わ ち “と こ ろ” と ”と き” と を え て い る - 6 -.

(8) . 哲 学 的 制 作 論 (V). ことである。 それは個体性に徹したものであるが、 それにもかかわらず全体との関連をつねに濃く あ らわ す も の で あ る。 l i 1 t 。n und Ei ung rakt nfah. ) Worringer , Auf ,20 , ,10 ,S , Abs リ ー921 2) i b d i , .21f , , S 3 S b id ) i , . , .25 4) i b id , .26 . ,S. l 5 ) Heidegger sist Metaphysik?6, Auf , ,29f , ,1951 ,S , Wa l 6 f Modern Art ) H, Read osophy o ,93 . ,p , The Phi ,1952 b id 7) i . ,102 , ,p d 8) i b i . . ,216 ,p. 9 ) 大槻文彦、 前掲書。. ‘時所位” という主題のもとに かつてのわが国のいくつかの文献が素朴なか ここでわれわれは ‘ 、. た ち で、 や は り同 じ よ う な 見 解 を 述 べ た こ と を 顧 る こ と が で き る の で あ る。 そ れ らの 著 者 た ち は 陽. 明学派に属する儒者であった。 もとよりわれわれは現在、 この学統の哲学的基礎づけを しようとい うのではないが、 ただ “時所位” の問題についての彼らの所説を回顧したいとお もうので ある。 そ ’ のなかに また熊沢蕃 山の “集義和書” や “集義外書” のなかに しば れは中江藤樹の “翁問答’ 、 、 しばみられる。 また山鹿素行の “兵法奥義講録” にもみうけられる。 これをもってみれば、 当時こ. の語が一つの成語と して ある意味をもち、 しかもそれが当時の彼 らの考えかたをあらわすのに適切 な表現と して、 好まれて用いられたことを、 知ることができる。 もちろん、 時なり所なり位なりの 文字は、 古より存在 し、 それらの発生地である大陸においては深い思想的意味とともに用いられた もの で あ る こ と は、 た と え ば “易” な どを み れ ば わ か る こ と で あ る が、 い ま は そ こ ま で遡 る こ と な しに、 わ が 国 に お け る “時 所 位“ な る 成 語 に つ い てみ 、る こ と と す る。. 中江は “翁問答“ なる対話篇で、 天君という師翁と体充なるその門人との あ いだの会話のかたち. ‘時 所 位” は そ の な かに 用 い られ て い る こ の 場 合 体 充 1 )‘ を か りて、 そ の 考え を あ らわ して い る。 。 、 “ は 法 度 に つ い て 問 う て い る。 法 度 は か ず お ぼ く き び しく、 した る が よ く 御 座 候 や。” こ れ に た い し て 師 は 次 の よ う に 答 え る。 “しを き 法 度 の 箇 条 は と こ ろ に よ り、 と き に よ りて さ だ む もの な れ ば・ お. し まきがよ さとも、 すくなきがよさとも、 さだむべ からず。 またきびしくしてよさこともあり、 緩く して よ きこ と も あ れ ば、 き び しき が よ しと も、 ゆ る さが よ しと も さだ む べ か らず。 た だ 時 と と こ ろ と、 く らゐ とに 相お う した る 道 理 に した が ひ た る が よ く 候。” さ て、 こ の 書 の 著 者 は、 さ らに 師 を. して次のように説かしめている。“それ しをき 法度は 主君の明徳を あきらかに して 根本をさだめ、. 周 礼 な どに しる しを き た ろ 聖 人 の 成 法 を か ん が へ て、 そ の 本 意 を さ と り、 ま つ り ご と の か ゞみ と し. て、 時と所と位と 三才相応の至善をよく分別して、 万古不易の中庸を おこなふを 眼 とすず じつに 仕置法度には時所位と三才相応の至善を分別すべきことを述 べている。 いう までもなく三才とは天. 地人の三を意味する言葉である。 中江は時所位と天地人とを関連させて考えていることは、 以下に よってお のずから明かであろう。 こ の 書 に は ま た ”周札などに 記したろ事は、 聖人、 天時、 地利、 人情の至善をはかりて、 さだめ ‘天時・地利・人情” も時所位 たまふ 法度のあとなり” という言葉もあるが、 ここにいわれている ‘ に対応するものとお もわれるo そうだとすれば、 時は天の時、 所は地の利、 位は人の情、 というわ け で あ る。 さ て、 そ れ で は 時 所 位 と は 具 体 的 に は どの よ う な こ と を い う の で あ る か と い う に、 こ れ. ‘時とは天の時 春夏秋冬、 について中江は耕作の例にことよせて、 次のように説いている。 まず ‘ 、 運命の否泰をいうな り” といって、 冬に田を耕 して種を蒔いても無駄で ある。 すべ て学問でも政治 - 7 -.

(9) . 野. 地 辺 ,. 東. 洋. でも運命気数の宜を知ることが第 一で ある、 という。 次に 耕作すべ き時がきても、 畠に稲を植え田 に豆 を植えては、 いかに 肥料をほどこ して丹精しても育たない。 学問や 仕置も ”水土の地利” を知 ることが肝要で ある。 最後に天時と地利とがみなかなっても、 他人の田畠に植付けるならば、 結局 み ず か ら の 用 に は た た な い う え に、 盗 人 の 谷 め を う け る こ とに な る。 こ れ は 時 も所 も か な っ て は い. るが、 わが位の分際にないことをするからである。 学問 も政 も “人位の分” を知ることの大切なる こ と を 体 認 せ よ、 と い う。 こ の よ う に 時 所 位 は 天 時、 地 利、 人 位 と して 考 え られ て い る。 さ きに は. 人情という言葉 もみえたが、 情というの も世間における人と人との関係といったいみで、 人間同士 のありかた、 つまり分 ないしは秩序ということに 解せられる。 これが 位というものに ほかならな い。. 時所位に関する論は熊沢蕃山のさきに 掲げた 書物のなかに も多くみいだされる。 そこには礼法に して も、 格法に しても、 時 所位によって種々の変容がな ければならないことが、 述 べ られている。 しか しとくにこの譜についての積極的な説明はみられない。 山鹿素行に おいて も同様である。 もは. や、 これらのひとびとの述作に停滞することは、 いまは不必要 とおもわれる。 さて、 時は天の 時と してあらわれている。 これは、 いわ ば自然の時で あ り、 この場合他の言葉に いいかえるならば春夏. 秋冬である。 しかもかかる時はまったく人の行為から離れて存するものであり、 人に課せられたも の と して あ る も の で あ る。 そ れ は い わ ば 運 命 で あ る。 中 江 も ”運命の否泰” といっている。 これは. 運命が塞がつているか通じているかという意味である。 人 はただ天の時にその いとなみを合わせれ ばよい。 天の連行に うまく合致するか否かが問題なのである。 だ から “運命気数の宜を しろが第一” といわれる。 まさ しく人事によつてはどうにもならない超越的な天の動きを、 適切な “とき” に切 断することが問題なのである。. 次に 所 は 地 の 利 と して あ らわ れ て い る。 畠に は 畠 に 植 え る べ き も の が あ り、 田 に は 田に 植 え る べ き も の が あ る。 こ れ を 逆 に して は な らな い。 お の お の の も の が “と こ ろ” を う ろ こ と が 肝 要 で あ る。 稲 は 田 に 植 え る べ き で あ る。 豆 は 畠 に 植 え る べ き で あ る。 か く して 稲 は 稲 の と こ ろ を、 豆 は 豆 の と こ ろ を う る。 こ れ を 反 対 に す れ ば、 そ れ ぞ れ は と こ ろ を う る こ と が で き な い。 よ ろ しく 田に は 稲 を、 畠に は 豆 を 植 え る べ き で あ る。 これらの場合、 人の行為は ”べ し” と い う か た ち を と る。 植 え る べ き と き に 植 え る べ き で あ り、 ‘と こ ろ” に 従 植 え る べ き と こ ろ に 植 え る べ き で あ る。 耕 作 に お け る 人 の 行 為 は、 こ の “と き” と ‘. ’ “地の利” というのがこれである 時間は 人の行為から 超越 して うことが要請される。“時の宜’ 、 。 流 れ る も の で あ る が、 人 の 行 為 の 剛 か ら い え ば、 行 う べ き “と き” と い う も の が あ る。 こ れ が 従 う べ き ”と き” で あ る。 行 う べ き “と き” に は 必 ず 行 う べ き “と こ ろ” が と も な う。 行 為 は つ ね に あ る “と き”、 あ る “と こ ろ” に お い て 行 わ れ る。 “と き” と ”と こ ろ” と へ 徹 す る こ と に お いて 成 立 す る 行 為 と は、 ま さ に か か る “と き”、 か か る ”と こ ろ” に お い て 行 う べ しと い う 要 請に 従 っ た も の で あ る。 こ の ”べ じ’ があっては じめて、 行為が歴史的行為た りうるのである。 33 頁以 下。 1 ) 藤樹先生全集、 田 岩波書店、 昭 15、1 にリ. こ の よ う に “と こ ろ” と “と き” と が 人 の 歴 史 的 行為 に お い て 一 点 に あ ら わ れ る の で あ る が、 そ. れだけでは まだ問題が残される。 それは人と人との関係という問題である。 流れる時間を断つ個体 は決 して単数ではない。 それは複数と して並存する。 それらは人と人との関係 をかたちづくる。 こ のかたちづくられたものは単なる人ではなく、 まさに人間である。 しか し、 じつは人間とは かくし - 8 -.

(10) . 哲 学 的 制 作 論 (V) て 人 に よ つ て 構 成 せ られ た も の で は な い。 む しろ そ の 逆 であ る。 人 間 を 断 つ こ とに よ っ て “ひ と“ が 作 られ る の で あ る。 あ た か も 時 間 を 断 つ こ と に ょ つ て “と こ ろ” と ”とき” とが作 られるが ごと くに。 ”ひ と“ なる語は、 “霊 (ひ) 止 (と)” すなわち “霊が止まる” の意味を あらわすといわれ 1 ) そ れ は、 “と こ ろ” の ”と” と 共 通 な る も の を も っ て い る。 す な わ ち、 止 ま る 一 点、 無 な て い る。 ” “ る と こ ろ” を 意 味 す る。 か か る 個 体 な る ”ひ と が、 人 間 か らえ ら れ る の で あ る。 そ こ で人 と 人. との 関係の 問題が無視されることができない。 さきの中江の例でいえば、 田畠には持主が定まって い る、 と い う こ と で あ る。 我 の 畠、 汝 の 畠、 彼 の 畠 と い う よ うに、 田 畠 に は 人 と 人 と の 関 係 が そ の. 背後に あって、 秩序 をかたちづくっている。 この秩序が位である。 ”ところ” はすべ て 位どりされ ている。 この人と人との関係、 すなわち人間が、 すべ ての ”と こ ろ” と “と き” とに お け る も の の. あ りか た を、 決 定 して い る の で あ る。 ‘と き” も ”と ”と き” と “と こ ろ” と は ”く ら い” に よ つ て は じめ て 秩 序 づ け られ る な ぜ な らば、‘ 。 ” ” との秩序 こ ろ“ も個体と しての ”ひ と” の “と き” で あ り、 “と こ ろ” で あ り、 “ひ と と ”ひ と ” ” ” ‘く らい” で が、 ”く ら い” だ か ら で あ る。 ”く ら い” は ”と き の ”く ら い で あ り、 “と こ ろ の ‘ ” ” も あ る が、 ま た 何 よ りも “ひ と” の ”くらい” である。 春夏秋冬は と き の 秩 序 で あ る。 田 畠 は ” “ “と こ ろ” の 秩 序 で あ る 。 しか し こ れ らが ひ と の秩 序 と して あ らわ れ る の は、 秩 序 自 体 が そ も ” ” そも人間のものだ からである。 人間が ”と き の秩 序、 “と こ ろ” の 秩 序、 “ひ と 自 体 の 秩 序 を 作. る こ と に よ る の で あ る。 “ひ と” か ら超 越 した 時 間 は、 た だ 流 れ て い る の み で あ る。 しか しこ の 時 ” “ 間 が “ひ と” の 行 為 に よ っ て 断 た れ て “と き” と して の秩 序 を も ち、 単 な る寒 暖 の 変 化 が ひ と ” ” ” “ の “と き” に 作 ら れ るの も、 単 な る 自 然 の 空 間 が 田 畠 と い う ひ と の と こ ろ に 作 られ る の も、 ” ” ” ” すべて ”く ら い” に よ っ て で あ る。 そ して こ れ ら の ”く らい は 人 間 に 包 含 さ れ る ひ と の く “ ” ” ” ” ” “ らい” な の で あ る。 ”ひ と は 我 な る ひ と で あ り、 汝 な る ひ と で あ り、 彼 な る ひ と であ しての ”ひ と” の か け が え の な い ”く ら い” な の で あ. る。 これら我 。汝・彼は、 それぞれの個体と. ” る。 そ して こ れ らの ”く ら い は、 総 じ て 人 間 の な かに 成 りた つ の で あ る。. さて、 われわれはひろが りとしての時間と室間と. さらに人間とのなかにあって、 それらに共通 ‘と こ ろ” と そ して “ひ と“ と を作っている 実存の す る ”間” を 断 つ こ とに よ っ て、 “と き” と ‘ 。 、. ” ” “ 立場からはこのよ うに限定してゆくの ではな しに、 現在、 我は ”い ま と い う と きに、 こ こ と い. う と こ ろ に、 い る の だ、 と 考 え る で あ ろ う。 しか しわ れ わ れ は 必 ず しも こ の よ う な 立 場 か ら 出 発 し. ているのではない。 これまでの線に沿うて考えるならば、 我はいま流れる時間をこの一点において 切断しているのだ、 というのである。 個体は切断に おいて真の個体としてふるまうのである。 しか. し個体の成立に おいては全体が先立たなければならない。 もともと個体は無から作られたものであ ” “ る。 創造されたものである。 創造されたとはいえ、 それは全体としての 生み の地盤に おいてで ある。 流れる時間を切 断するのも、 流れる全体において である。 切断 してえられたとこ ろのものが 実存であるならば、 実存の存立には実存を包むものが考えられな ければならない。 例外者と しての 実存を例外な く存在せしめる全体が存しな けれ ばならない。 しかしまた、 この切断する ということ. が、 自 己の実存的な働きに ほかならないともいえるが、 この循環論を打破するものは、 偶然による 自 己 の 脱 落 と い う こ と で あ る。 こ の よ う に み れ ば、 全 体 の な か に あ る自 己が 真 の 自 己に 作 られ る、. い い か え れ ば 実 存 へ と 脱 落 す る こ と が、 こ の 切 断 で あ る、 と い う こ と に な ろ う。 こ の 自 己 は 偶 然 に. ” よって “作られた自己” ではあるが、 ふたた び “作る自己 として創造の主体 であり、 また例外的 な存在者といえる もの である。 これは流れる時間を瞬間において切断することに よって、 作る働き ‘と き” と ”と こ ろ” とに お い て 実 存 す る も の で あ る。 時 間 と を い と な む も の で あ り、 そ の 行為 は ‘ - 9 -.

(11) . 野. 辺. 地. 東. 洋. い う ”ひ ろ が り” の な か の 一 点 と して の “と き” に お い て あ る も の、 ま た 空 間 と い う ”ひ ろが り” のなかの一点としての ”と こ ろ” に お い て あ る も の で あ る。 そ れ ら は も は や 時 間 で も な け れ ば 基 間. でもない。 一点ということにおいてそれらはまつたく合一 している。 時間でも空間でもない一点が. “と き” で も あ り “と こ ろ” で も あ る ” “ 、 。 そ れ が 実 存 と い う、 ひ ろ が り を も た な い 一 点 で あ る。 “と き” が 一 点 で あ り “と こ ろ” も 一 点 で あ る こ と に よ つ て “と き” も ”と こ ろ” 一 点 お い て も に 、 、. 合一 し、 その合一点が実存とも いえるものなのである。 ”いつ” “どこ” これが実存においては問題である 実存は瞬間における存在であるが この瞬 、 。 。 、 間 は “い っ o ど こ” と い う こ と が つ ね に 問 わ れ る よ う な 瞬 間 で あ る こ の よ う な 実 存 が 汝 と して 。 、. の実存、 また彼と しての実存を発見 した場合、 我は人間から脱落した “ひと” であることを自覚す るにいたる。 時間を切断することが、 同時に人間を 切断 することだったの で ある。 かく して我の. ‘ ‘い つ・ どこ” と と もに 汝 や 彼 の “い つ ・ ど こ” が 発 見 さ れ こ れ ら の ”い つ・どこ” が それ ぞれ 、 、. ”くらい” において位置づけれらていることを 知 るにいたるのである かくして 実存はふたたび全 。 体と しての人間における関連を回 復 し、 歴史的行為は倫理的な る人間連関において扱われるように な る の で あ る。. 1 ) 大槻女彦、 前掲書。. 一 10 -.

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