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Vol.65 , No.1(2016)073吉崎 一美「三つのラサ・ネワール小説」

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三つのラサ・ネワール小説

吉 崎 一 美

はじめに 

近年のカトマンズ盆地におけるチベット仏教の進出には目を見張る 勢いがある.すでに前世紀初頭の河口慧海の時代に,ボウダ・ナートは盆地にお けるチベット仏教徒たちの拠点と化していた.前世紀末には,スヴァヤンブー・ ナート周辺の景観はチベット仏教の聖地を思わせるほどに変貌した.そして今世 紀に入ると,大規模なチベット仏教寺院がカトマンズ市旧市内にも建てられるよ うになった.ラサ・ネワールと呼ばれた者たち(およびその子孫たち)は,そうし たチベット仏教の進出を側面から支援していた.彼らの多くはチベット国内に長 期滞在したネワール商人たちであった.彼らによって盆地にもたらされたばく大 な利益は,ネワール仏教興隆の強力な推進力になった.彼らが敬虔なネワール仏 教徒であることは,チベット仏教徒との相互の信頼関係を築くのに役立ち,それ が彼らの商業活動をいっそう円滑に進めた.帰国した彼らはチベット仏教のカト マンズ盆地進出を支援し,中国のチベット進攻によってその交易の歴史が途絶え た後も,彼らの支援は次世代に引き継がれたのである1).本稿ではラサ・ネワー ルの商人(以下ではラサ商人と略す)を主人公とする三つの代表的な小説を取り上 げ,前世紀半ばの刊行から今日に至るまで,それらがネワール社会に及ぼしてい る影響について検証する.なお以下の年号表記ではネワール暦を N.S. とし,ヴィ クラム暦を V.S. とする.

『チベットからの声』 

Dharma ratna “Yami”(N.S. 1035–1097, V.S. 1972–2032)は文 学者であるとともに有能な政治家でもあり,晩年にはネパール政府森林局の副長 官を務めた.壮年期の彼はラナ専制政権下でネワール民族運動を進めた罪を問わ れ,三度にわたる獄中生活(N.S. 1061–1065)を強いられたが,それでもその合間 に本書『チベットからの声』を執筆した.初版の発行年は N.S. 1072(V.S. 2008) 年であり,本稿ではその第六版([“Yami” N.S. 1122])を使用する.この三十頁ほど の韻文作品では,若き日の彼のラサでの体験が文学的に脚色されている.彼の滞 〈参考文献〉 平井俊榮 1971a「中観論疏における涅槃経の引用――その思想的背景――」『駒澤大学仏 教学部論集』2: 35–55. ――― 1971b「吉蔵著『大般涅槃経疏』逸文の研究(上)」『南都仏教』27: 55–100. ――― 1972a「吉蔵撰『涅槃経遊意』国訳」『駒澤大学仏教学部論集』3: 119–155. ――― 1972b「吉蔵著『大般涅槃経疏』逸文の研究(下)」『南都仏教』29: 37–93. ――― 1976『中国般若思想史研究――吉蔵と三論学派――』春秋社. 河村孝照 1985a「章安の涅槃経観――とくに涅槃経玄義において――」『東洋学研究』19: 11–46. ――― 1985b「灌頂撰『涅槃経玄義』における 「有る人」 とは誰れを指すか」『印度学仏 教学研究』34 (1): 218–225. 菅野博史 1994『中国法華思想の研究』春秋社. 林瑞蘭 2014「章安灌頂と吉蔵の『涅槃経』解釈の比較について」『印度学仏教学研究』63 (1): 37–40. (本研究は,公益財団法人三菱財団の研究助成を受けたものである) 〈キーワード〉 『涅槃経遊意』,吉蔵,法朗,『大般涅槃経疏』,三論宗,無所得,灌頂,『大 般涅槃経玄義』 (創価大学教授,文博) 松森秀幸 著

唐代天台法華思想の研究

荊渓湛然における天台法華経疏の

注釈をめぐる諸問題

A5 版・532 頁・本体価格 10,000 円 法藏館・2016 年 3 月 新刊紹介

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いている5)

二人のラサ・ネワール小説 

“Yami” と “Hṛdaya” はともにペンネームであり,

その実際の姓は Tulādhar である.二人は親戚関係にあり,しばしば親族の家庭内 儀礼に同席した.さらにともに祖父以来からのラサ商人の家系に属した.ことに “Hṛdaya” は Bhāju ratna Kaṃsākār(シャムカプの異名を持つ:カリンポン・ルートの大 商人:注 1 参照)の娘を妻とした.しかしながら両者の小説では,主人公のキャラ クター設定がまったく異なる.『チベットからの声』の主人公ヤミはバンジャー (使用人)として雇われた.彼は使用人たちに対するサーフ(雇用主)の横暴・非道 を非難し,またヒロインの言葉を借りてチベットに対するネパールの搾取を糾弾 する.ヤミはまたチベット語を巧みに操り,その語学力はチベットの友人たちも 驚くほどであった.それに対して『燃え残った手紙』の主人公は,「何年もラサに いるのに,私はいまだにチベット語がよく分からない」([“Hṛdaya” N.S. 1088: 93]) と自嘲するサーフの「若旦那」であった.主人公の「私」は,使用人たちをしば しば「友人」,あるいは「仲間」と呼び,カースト上の差別はネパール国内だけで のこととする.これは “Hṛdaya” が理想とする平等主義の精神を表現すると同時 に,サーフによるバンジャーへの横暴を非難する “Yami” への間接的な反論にも なっている.またラサ商人たちがチベット女性を現地妻にする習慣については, 力を合わせて仲睦まじく商売に励むカップルの例を挙げて反論しつつ,不幸に陥っ たチベット女性たちへ同情を寄せる.一方,ネパールによる搾取への糾弾には, 「私たちネワール人は信仰に熱心である.そのためだろうか.チベット人たちは 〈ネワール人はチベット人を欺いて大きな利益を上げている〉と知っていても,怒 りを顔に出すこともなく,心を広く開け,後々までも,〈ネワール人はネパールに 帰ってから,その利益を信仰のために使っている.私たちが使っても,彼らが使っ ても,その功徳の分け前は私たちにもやって来る〉と言って喜んでいる」([“Hṛdaya” N.S. 1088: 24–25])と抗弁する.“Hṛdaya” は “Yami” の作品について何も言及しなかっ たが,『燃え残った手紙』は『チベットからの声』への婉曲的な反論を試みている と言うべきか,あるいはそのように読まれることを承知した上で書かれていると 言うべきである.

『ムナ・マダン』 

チベットに旅立ったラサ商人の夫とネパールに残された妻の エピソードは,古くからいくつものネワール民謡として受け継がれてきた6).そ れらは今も田植え歌として,単調な農作業の慰めになっている.これら民謡に取 材して,Lakṣmī prasād Devakoṭā(V.S. 1966–2016, AD 1909–1959)は『ムナ・マダン』 在は十年余におよんだ.その内容は四章から成る.第一章で主人公のヤミ2)は雇 われてチベットに向かう.新たに開拓されたカリンポン経由のルートを旅行記風 に綴りながら,第二章では自らのラサでの生活ぶりとチベット人についての観察 を述べる.第三章ではヤミとチベット娘ヒシラーとの出会い,第四章ではヤミが 流暢なチベット語で記した恋文二通のやりとり,そして二人の別離を描く.迷い ながらも最終的にヤミの求愛を拒むヒシラーの言葉こそ,まさしくネワール人に 対する〈チベットからの声〉である.それはラサ商人たちがチベット女性を現地 妻にする悪習3)への非難と,ネパールによるチベット搾取への抗議であった.作 者はラサ商人の一人でありながら,彼らの行状に批判的であった.それがヒシラー の言葉として綴られている.そのために有力なラサ商人たちはこの作品の評価に 冷淡であった.それでもその豊かな文学性から,後にこの作品はネパール国立ト リブヴァン大学ネワール語科の読本に採用され,学生向けの解説書([Śānta harṣa N.S. 1108])に続いて,最近にはネパール語訳([Durgā lāl V.S. 2068])も完成した4)

『燃え残った手紙』 

Citta dhar “Hṛdaya”(N.S. 1026–1102, V.S. 1963–2039)もまた “Yami” と同時期に同じ理由で獄中生活を送り,その間に生涯の代表作となった仏 伝叙事詩『善逝の芳香』(Sugata Saurabha)を執筆した.早くに妻を亡くして子ども を授からなかった彼は,それを自分の「息子」と呼ぶ一方で,『燃え残った手紙』 ([“Hṛdaya” N.S. 1088])を「娘」と呼んで深い愛着を示した.一百頁余におよぶこの 作品は『チベットからの声』の十六年後に初版が刊行され,今世紀になってよう やく英訳([Kesar 2002])が発表された.この散文作品は,ラサに旅立ったネワー ル商人の若者がネパールに残した新妻に宛てて記した手紙の体裁を取っている. 商売も順調な若者はやがてチベット娘ヒシラーに心惹かれる.ネパールに残され た妻は夫の裏切りを知り,しだいに出家への憧れを抱くようになる.ところがチ ベットの愛人は突然に亡くなってしまう.彼は虚ろな心のまま,一通の長い手紙 を妻に書き送る.妻はすでにテーラヴァーダ仏教の尼僧となる決意を固めていた が,それでも死ぬまでその手紙を肌身から離さなかった.その手紙が,偶然にも, 彼女の火葬の時に見つかる.これが小説のプロローグである.細部にいくつもの 伏線を張って読み物としての面白さを盛り上げながら,小説は二十世紀前半の動 乱期にあったチベットとネパールを舞台に進行する.チベットの習俗や当時のラ サの様子,また異国にあってもネパールでの生活様式を厳守しようとするラサ商 人たちの日常生活など,興味深い記述が随所に溢れている.彼自身はラサ商人で はなかったが,それらの記述は多くの身近なラサ商人たちからの聞き取りに基づ

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いている5)

二人のラサ・ネワール小説 

“Yami” と “Hṛdaya” はともにペンネームであり,

その実際の姓は Tulādhar である.二人は親戚関係にあり,しばしば親族の家庭内 儀礼に同席した.さらにともに祖父以来からのラサ商人の家系に属した.ことに “Hṛdaya” は Bhāju ratna Kaṃsākār(シャムカプの異名を持つ:カリンポン・ルートの大 商人:注 1 参照)の娘を妻とした.しかしながら両者の小説では,主人公のキャラ クター設定がまったく異なる.『チベットからの声』の主人公ヤミはバンジャー (使用人)として雇われた.彼は使用人たちに対するサーフ(雇用主)の横暴・非道 を非難し,またヒロインの言葉を借りてチベットに対するネパールの搾取を糾弾 する.ヤミはまたチベット語を巧みに操り,その語学力はチベットの友人たちも 驚くほどであった.それに対して『燃え残った手紙』の主人公は,「何年もラサに いるのに,私はいまだにチベット語がよく分からない」([“Hṛdaya” N.S. 1088: 93]) と自嘲するサーフの「若旦那」であった.主人公の「私」は,使用人たちをしば しば「友人」,あるいは「仲間」と呼び,カースト上の差別はネパール国内だけで のこととする.これは “Hṛdaya” が理想とする平等主義の精神を表現すると同時 に,サーフによるバンジャーへの横暴を非難する “Yami” への間接的な反論にも なっている.またラサ商人たちがチベット女性を現地妻にする習慣については, 力を合わせて仲睦まじく商売に励むカップルの例を挙げて反論しつつ,不幸に陥っ たチベット女性たちへ同情を寄せる.一方,ネパールによる搾取への糾弾には, 「私たちネワール人は信仰に熱心である.そのためだろうか.チベット人たちは 〈ネワール人はチベット人を欺いて大きな利益を上げている〉と知っていても,怒 りを顔に出すこともなく,心を広く開け,後々までも,〈ネワール人はネパールに 帰ってから,その利益を信仰のために使っている.私たちが使っても,彼らが使っ ても,その功徳の分け前は私たちにもやって来る〉と言って喜んでいる」([“Hṛdaya” N.S. 1088: 24–25])と抗弁する.“Hṛdaya” は “Yami” の作品について何も言及しなかっ たが,『燃え残った手紙』は『チベットからの声』への婉曲的な反論を試みている と言うべきか,あるいはそのように読まれることを承知した上で書かれていると 言うべきである.

『ムナ・マダン』 

チベットに旅立ったラサ商人の夫とネパールに残された妻の エピソードは,古くからいくつものネワール民謡として受け継がれてきた6).そ れらは今も田植え歌として,単調な農作業の慰めになっている.これら民謡に取 材して,Lakṣmī prasād Devakoṭā(V.S. 1966–2016, AD 1909–1959)は『ムナ・マダン』 在は十年余におよんだ.その内容は四章から成る.第一章で主人公のヤミ2)は雇 われてチベットに向かう.新たに開拓されたカリンポン経由のルートを旅行記風 に綴りながら,第二章では自らのラサでの生活ぶりとチベット人についての観察 を述べる.第三章ではヤミとチベット娘ヒシラーとの出会い,第四章ではヤミが 流暢なチベット語で記した恋文二通のやりとり,そして二人の別離を描く.迷い ながらも最終的にヤミの求愛を拒むヒシラーの言葉こそ,まさしくネワール人に 対する〈チベットからの声〉である.それはラサ商人たちがチベット女性を現地 妻にする悪習3)への非難と,ネパールによるチベット搾取への抗議であった.作 者はラサ商人の一人でありながら,彼らの行状に批判的であった.それがヒシラー の言葉として綴られている.そのために有力なラサ商人たちはこの作品の評価に 冷淡であった.それでもその豊かな文学性から,後にこの作品はネパール国立ト リブヴァン大学ネワール語科の読本に採用され,学生向けの解説書([Śānta harṣa N.S. 1108])に続いて,最近にはネパール語訳([Durgā lāl V.S. 2068])も完成した4)

『燃え残った手紙』 

Citta dhar “Hṛdaya”(N.S. 1026–1102, V.S. 1963–2039)もまた “Yami” と同時期に同じ理由で獄中生活を送り,その間に生涯の代表作となった仏 伝叙事詩『善逝の芳香』(Sugata Saurabha)を執筆した.早くに妻を亡くして子ども を授からなかった彼は,それを自分の「息子」と呼ぶ一方で,『燃え残った手紙』 ([“Hṛdaya” N.S. 1088])を「娘」と呼んで深い愛着を示した.一百頁余におよぶこの 作品は『チベットからの声』の十六年後に初版が刊行され,今世紀になってよう やく英訳([Kesar 2002])が発表された.この散文作品は,ラサに旅立ったネワー ル商人の若者がネパールに残した新妻に宛てて記した手紙の体裁を取っている. 商売も順調な若者はやがてチベット娘ヒシラーに心惹かれる.ネパールに残され た妻は夫の裏切りを知り,しだいに出家への憧れを抱くようになる.ところがチ ベットの愛人は突然に亡くなってしまう.彼は虚ろな心のまま,一通の長い手紙 を妻に書き送る.妻はすでにテーラヴァーダ仏教の尼僧となる決意を固めていた が,それでも死ぬまでその手紙を肌身から離さなかった.その手紙が,偶然にも, 彼女の火葬の時に見つかる.これが小説のプロローグである.細部にいくつもの 伏線を張って読み物としての面白さを盛り上げながら,小説は二十世紀前半の動 乱期にあったチベットとネパールを舞台に進行する.チベットの習俗や当時のラ サの様子,また異国にあってもネパールでの生活様式を厳守しようとするラサ商 人たちの日常生活など,興味深い記述が随所に溢れている.彼自身はラサ商人で はなかったが,それらの記述は多くの身近なラサ商人たちからの聞き取りに基づ

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終わりに 

カトマンズ盆地ではさまざまな姿の仏教僧が見られる.それぞれの 僧が説法の際に用いる言語には確固とした意図がある.ネワール仏教の僧はネワー ル語で説法をする.言葉を通して,彼らの伝統文化を守ろうとしているからであ る.テーラヴァーダ仏教の僧たちは,たとえネワール族の出身であってもネパー ル語を使う.ネワール族以外のネパール国民に語りかけるためである.それに対 してチベット仏教の僧たちは,チベット語に次いで,もっぱら英語を使って世界 の人々に向き合おうとする.チベット仏教のカトマンズ盆地進出を支援するラサ 商人の子孫たちは,チベット仏教のさらなる世界進出に新たなビジネス・チャン スをうかがいながら,それと同時に自身の文化や言語の保全にも心を砕いてい る.“Yami” はチベット人を対等な友人として扱い,その文化に敬意を払っ た.“Hṛdaya” が何よりも目指した所は,ネワール語に象徴されるネワール文化の 興隆と,その世界への発信にあった.ラサ商人の子孫たちには “Yami” と “Hṛdaya” それぞれの思いが受け継がれている.それとともに,西欧の近代思想や新興のテー ラヴァーダ仏教,欧米への布教を目指すチベット仏教といった新たな〈刺激〉を 受けて,近代のネワール仏教は新たな展開を模索することになったのである10)

1)典型的な一例として,[Hilker 2005]は〈シャムカプ〉と呼ばれた祖父 Bhāju ratna Kaṃsākār と第十六世カルマパとの親密な交流を述べ,また父や兄弟たちによる,チベッ ト仏教のみならず,ネワール仏教やテーラヴァーダ仏教への貢献を語る.〈シャムカプ〉 は「白い帽子」を意味するチベット語の音写である.旧来のラサ商人たちは赤い帽子を かぶって正装した.   2)自伝的小説であるので,作者と主人公の名が同じである. それぞれ “Yami” とヤミと表記して区別する.“Yami” には「カトマンズ市」(Yeṃ)の「人」 (mi)という意味がある.   3)ラサ商人たちがチベット女性を現地妻にする習慣に

ついては,拙稿([吉崎 2002],[吉崎 2008])において言及した.   4)2011 年 8 月 に Bhadra ratna Vajrācārya 博士は拙稿[吉崎 2005]に対して,『燃え残った手紙』の背景 を理解するには『チベットからの声』を併読する必要があると指摘された.本稿はその 助言にしたがっての考察である.博士は注 5 に述べるパンディト・クルマンの子孫であ る.また Śānta harṣa Vajrācārya 博士は上掲の学生向け解説書について,筆者に丁寧な解説 をしてくださった.記して感謝を申し上げます.   5)とりわけても有力なインフォー マントであった「シッディ・ラトナ兄」([“Hṛdaya” N.S. 1088: ii])とは Siddhi ratna Kasāḥ(Kaṃsākār, N.S. 1020–1105)を指す.彼は N.S. 1038–1042 の四年をラサで過ごし, 帰国後は詩人として活躍した.彼も “Yami” や “Hṛdaya” らと同様に獄中生活を送った一人 である.また彼は幼少期に,ビル・ライブラリーのパンディトであったクルマンから教 育の手ほどきを受けた.クルマンは河口慧海に梵語文法を教授し,彼の仏教写本収集を 公私にわたって支援したと思われる人物である([吉崎 2012]).なおチベットに長期滞在 したヴァジュラーチャールヤ司祭僧たちに関する考察([吉崎 2005]:上掲注 4 参照)は, を発表した7).彼は作家であると同時に,早すぎる晩年には教育省大臣の職責も 果たした.本書は V.S. 1992(AD 1935)年に二百部が自費出版され,同 1996(AD 1939)年に一千部が本格的に刊行された.それ以来,今日まで圧倒的な支持のも とで数年ごとに二万から五万部の増刷を続け,同 2054 年の第十四版二十三刷り ([Devakoṭā V.S. 2054])では十万部が刊行されている.本書はネパール出版界最高の ベストセラーである8).主人公の若者マダンは新妻ムナを残してチベットに旅立 つ.残された妻は夫の帰国を待ちわびていたが,彼女の美貌に迷った町の不良は, マダンが異国で客死したとだます.ムナは悲嘆のうちにこの世を去ってしまう. マダンはチベットで成功をおさめ,意気揚々と帰国の途に着く.ようやく帰国す ると,彼の前に最愛の妻の姿は見えなかった.愛する者なしには生きられないと, 彼はムナの後を追うのだった.本書はネワール民謡に取材しながら,ネワール語 ではなく,ネパール語で書かれている.また意図的にネワール文化の要素を排除 している.それによって本書はネワール族以外のネパール国民にも広く受け入れ られることになり([吉崎 2002: 118–119]),ことに海外に仕事を求めて働くネパー ル人たちに愛読されるようになった.本書の成功が,冒頭に紹介したネワール語 二作品を生み出す契機の一つになったことは想像に難くない.本書は一行十七音 節を基本とする四行詩で構成され,各二行末尾の母音が一対の韻を踏む.『チベッ トからの声』もこの形式を用いている.散文の『燃え残った手紙』は『チベット からの声』と『ムナ・マダン』の韻文二作品を受けて,前者にはサーフの立場を, 後者にはネワール文化の護持を主張している.

小説に描かれたチベット人 

意気揚々と帰国の途に着いたマダンは山中で病に 倒れ,仲間からも取り残されてしまう.そんな彼を親身に看病したのは,素朴で 善良なチベット人であった.しかしその人物像は漠然としており,何の個性も与 えられていない.それに対して『チベットからの声』には,特筆すべきキャラク ターを持った三人のチベット人が登場する.親友タシはヤミの恋が成就するよう に奔走し,ニマーラーはヒシラーの良き相談相手になった.ニマーラーの忠告を 迷いながらも受け入れて,ヒシラーは最終的にヤミの求愛を拒む決心をする.彼 ら三人の人物描写を通して,“Yami” の視線はラサ商人たちに厳しく注がれる一方 で,チベット人たちと対等に向き合う姿勢を明らかにする.それが相互の理解を 深め,信頼関係を築くことになると訴える.ところが『燃え残った手紙』には特 筆すべきキャラクターを持ったチベット人が登場しない.作者の視線はチベット に向かうことなく,ひたすらネワール文化に注がれている9)

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終わりに 

カトマンズ盆地ではさまざまな姿の仏教僧が見られる.それぞれの 僧が説法の際に用いる言語には確固とした意図がある.ネワール仏教の僧はネワー ル語で説法をする.言葉を通して,彼らの伝統文化を守ろうとしているからであ る.テーラヴァーダ仏教の僧たちは,たとえネワール族の出身であってもネパー ル語を使う.ネワール族以外のネパール国民に語りかけるためである.それに対 してチベット仏教の僧たちは,チベット語に次いで,もっぱら英語を使って世界 の人々に向き合おうとする.チベット仏教のカトマンズ盆地進出を支援するラサ 商人の子孫たちは,チベット仏教のさらなる世界進出に新たなビジネス・チャン スをうかがいながら,それと同時に自身の文化や言語の保全にも心を砕いてい る.“Yami” はチベット人を対等な友人として扱い,その文化に敬意を払っ た.“Hṛdaya” が何よりも目指した所は,ネワール語に象徴されるネワール文化の 興隆と,その世界への発信にあった.ラサ商人の子孫たちには “Yami” と “Hṛdaya” それぞれの思いが受け継がれている.それとともに,西欧の近代思想や新興のテー ラヴァーダ仏教,欧米への布教を目指すチベット仏教といった新たな〈刺激〉を 受けて,近代のネワール仏教は新たな展開を模索することになったのである10)

1)典型的な一例として,[Hilker 2005]は〈シャムカプ〉と呼ばれた祖父 Bhāju ratna Kaṃsākār と第十六世カルマパとの親密な交流を述べ,また父や兄弟たちによる,チベッ ト仏教のみならず,ネワール仏教やテーラヴァーダ仏教への貢献を語る.〈シャムカプ〉 は「白い帽子」を意味するチベット語の音写である.旧来のラサ商人たちは赤い帽子を かぶって正装した.   2)自伝的小説であるので,作者と主人公の名が同じである. それぞれ “Yami” とヤミと表記して区別する.“Yami” には「カトマンズ市」(Yeṃ)の「人」 (mi)という意味がある.   3)ラサ商人たちがチベット女性を現地妻にする習慣に

ついては,拙稿([吉崎 2002],[吉崎 2008])において言及した.   4)2011 年 8 月 に Bhadra ratna Vajrācārya 博士は拙稿[吉崎 2005]に対して,『燃え残った手紙』の背景 を理解するには『チベットからの声』を併読する必要があると指摘された.本稿はその 助言にしたがっての考察である.博士は注 5 に述べるパンディト・クルマンの子孫であ る.また Śānta harṣa Vajrācārya 博士は上掲の学生向け解説書について,筆者に丁寧な解説 をしてくださった.記して感謝を申し上げます.   5)とりわけても有力なインフォー マントであった「シッディ・ラトナ兄」([“Hṛdaya” N.S. 1088: ii])とは Siddhi ratna Kasāḥ(Kaṃsākār, N.S. 1020–1105)を指す.彼は N.S. 1038–1042 の四年をラサで過ごし, 帰国後は詩人として活躍した.彼も “Yami” や “Hṛdaya” らと同様に獄中生活を送った一人 である.また彼は幼少期に,ビル・ライブラリーのパンディトであったクルマンから教 育の手ほどきを受けた.クルマンは河口慧海に梵語文法を教授し,彼の仏教写本収集を 公私にわたって支援したと思われる人物である([吉崎 2012]).なおチベットに長期滞在 したヴァジュラーチャールヤ司祭僧たちに関する考察([吉崎 2005]:上掲注 4 参照)は, を発表した7).彼は作家であると同時に,早すぎる晩年には教育省大臣の職責も 果たした.本書は V.S. 1992(AD 1935)年に二百部が自費出版され,同 1996(AD 1939)年に一千部が本格的に刊行された.それ以来,今日まで圧倒的な支持のも とで数年ごとに二万から五万部の増刷を続け,同 2054 年の第十四版二十三刷り ([Devakoṭā V.S. 2054])では十万部が刊行されている.本書はネパール出版界最高の ベストセラーである8).主人公の若者マダンは新妻ムナを残してチベットに旅立 つ.残された妻は夫の帰国を待ちわびていたが,彼女の美貌に迷った町の不良は, マダンが異国で客死したとだます.ムナは悲嘆のうちにこの世を去ってしまう. マダンはチベットで成功をおさめ,意気揚々と帰国の途に着く.ようやく帰国す ると,彼の前に最愛の妻の姿は見えなかった.愛する者なしには生きられないと, 彼はムナの後を追うのだった.本書はネワール民謡に取材しながら,ネワール語 ではなく,ネパール語で書かれている.また意図的にネワール文化の要素を排除 している.それによって本書はネワール族以外のネパール国民にも広く受け入れ られることになり([吉崎 2002: 118–119]),ことに海外に仕事を求めて働くネパー ル人たちに愛読されるようになった.本書の成功が,冒頭に紹介したネワール語 二作品を生み出す契機の一つになったことは想像に難くない.本書は一行十七音 節を基本とする四行詩で構成され,各二行末尾の母音が一対の韻を踏む.『チベッ トからの声』もこの形式を用いている.散文の『燃え残った手紙』は『チベット からの声』と『ムナ・マダン』の韻文二作品を受けて,前者にはサーフの立場を, 後者にはネワール文化の護持を主張している.

小説に描かれたチベット人 

意気揚々と帰国の途に着いたマダンは山中で病に 倒れ,仲間からも取り残されてしまう.そんな彼を親身に看病したのは,素朴で 善良なチベット人であった.しかしその人物像は漠然としており,何の個性も与 えられていない.それに対して『チベットからの声』には,特筆すべきキャラク ターを持った三人のチベット人が登場する.親友タシはヤミの恋が成就するよう に奔走し,ニマーラーはヒシラーの良き相談相手になった.ニマーラーの忠告を 迷いながらも受け入れて,ヒシラーは最終的にヤミの求愛を拒む決心をする.彼 ら三人の人物描写を通して,“Yami” の視線はラサ商人たちに厳しく注がれる一方 で,チベット人たちと対等に向き合う姿勢を明らかにする.それが相互の理解を 深め,信頼関係を築くことになると訴える.ところが『燃え残った手紙』には特 筆すべきキャラクターを持ったチベット人が登場しない.作者の視線はチベット に向かうことなく,ひたすらネワール文化に注がれている9)

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ミラレーパの止と観について

渡 邊 温 子

1.はじめに

チベットのカギュー派の祖師の一人であるミラレーパ(Mi la ras pa bzhad pa’i rdo rje, 1040–1123)は,6 年 7 ヶ月無言の行に入るなど,仏教の実践修行を重んじた行 者であった.それは弟子のレーチュンパに,長年修行し続けたために猿の尻のよ うに硬くなった自分の尻を見せて,「これよりも深いものはない」と示したことか らもよくわかる1).本稿では,ミラレーパの伝記である『甚深伝』(rJe btsun chen po

mid la ras pa’i rnam thar zab mo)を用いながら,ミラレーパが止観をどのように修し たのかを明らかにしたい.

2.止と観の説明の欠如

チベット仏教ゲルク派の開祖であるツォンカパ(Tsong kha pa blo bzang grags pa, 1357–1419)は『菩提道次第論』(sKyes bu gsum gyi nyams su blang ba’i byang chub lam gyi

rim pa)などの著作において,止と観について順序だて仔細に説明を行っている. しかしミラレーパはというと,そもそも著作を残していないため,まず彼の弟子 たちが書き残した伝記などを参照する他ない.ミラレーパの直弟子であるゲンゾ ンレーパなど 12 人の高弟たちによって書かれた『甚深伝』を一見すると,不思議 なことに止観の説明はほとんどみられず止は 4 回,観は 3 回しか登場しない.そ れどころか,以下の金剛歌(mgur)に見られるように,むしろ止に対する否定的 な言葉が見られる.

zhi gnas kyi rtsi la ma zhen par/ /

lhag mthong gis2) me tog ’khrungs par shog/ /(『甚深伝』p. 35)

止の蜜に執着することなく 観の花が咲きますように ここでミラレーパは,止に執着することを否定している.他にも, その論拠の多くを本書に負っている.   6)代表的な民謡を[吉崎 2002: 109–116]に 和訳紹介した.   7)邦訳に[大橋・樋口・柚口 2008]がある.三人の訳者がそれぞ れに独自の和訳を提示する.   8)ちなみに『チベットからの声』第六版の発行部数 は一千,『燃え残った手紙』は原著に記載が無いために発行部数不明であるが,第二版は 刊行されておらず,初版は稀覯本の扱いを受けている.   9)彼の視線は西欧にも向 かっている.『燃え残った手紙』の執筆は,ステファン・ツヴァイクの小説『見知らぬ女 性からの手紙』(Brief einer Unbekannten, 1922)のネワール語訳原稿(Tīrtha rāj Tulādhar,

Mhamasyūmha Misāyā Pau, 1966:筆者未見)に着想を得た.彼はまた本書が西欧の諸言語

に翻訳されるよう切望した([“Hṛdaya” N.S. 1088: ii]).   10)ラサ商人たちは,カト マンズ盆地を経由地としてインドからチベットに達する国際交易の最前線に立っていた. テーラヴァーダ仏教と西欧の近代思想は,カリンポン・ルートが確立されるまで,カト マンズ盆地を経てチベットに伝えられていた.    〈参考文献〉 大橋美子・樋口妙子・柚口豈夫訳 2008『ムナーとマダン』日本ネパール協会. 吉崎一美 2002「チベットに旅立つ男とネパールに残される女――阿尼哥の結婚から『ム ナ・マダン』まで」『東洋学研究』39: 101–123. ――― 2005「パーラー(チベットのネワール商人結社)のヴァジュラーチャールヤたち ――チッタダル・“フリダヤ” の小説『燃え残った手紙』をもとにして」『密教文化』 215: (5)–(28). ――― 2008「ネパールに帰る男とチベットに残される女」『印度学仏教学研究』57 (1): (102)–(107). ――― 2012「河口慧海に梵語文法を教授したクルマン博士」『印度学仏教学研究』61 (1): (11)–(15).

Devakoṭā, Lakṣmī prasād. V.S. 2054. Munāmadan. Kāṭhamāḍauṃ: Sājhā Prakāśan.

Durgā lāl Śreṣṭha, trans. V.S. 2068. Lhāsā Bolche. Kāṭhamāḍauṃ: Mūlyāṅkana Prakāśana Gṛha. Hilker, Deb Shova Kansakar. 2005. Syamukapu: The Lhasa Newars of Kalimpong and

Kathmandu. Kathmandu: Vajra Publications.

“Hṛdaya,” Citta dhar. N.S. 1088. Miṃ Manaḥ Pau. Kāntipur: privately printed.

Kesar Lall, trans. 2002. Letter from a Lhasa Merchant to His Wife (Mim manah pau). New Delhi: Robin Books.

Śānta harṣa Vajrācārya. N.S. 1108. “Saṃdeyā Lisaḥ” (khaṇḍakāvya) yā Nhyasaḥyā Lisaḥ. Yeṃ: Sāhitya-kyabaḥ.

“Yami,” Dharma ratna. N.S. 1122 (khukvaḥgu pithanāḥ). Saṃdeyā Lisaḥ (khaṇḍakāvya). Yeṃ: Cvasā-pāsā.

〈キーワード〉 Dharma ratna “Yami”,Citta dhar “Hṛdaya”,Lakṣmī prasād Devakoṭā,ラサ・ ネワール,ネワール仏教,チベット仏教

参照

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