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経営理念
幸せの追求
従業員の幸せと生きがいが企業存続の原点である
信頼の獲得
社会の信頼が企業存続の原点である
未来への挑戦
チャレンジ精神が企業存続の原点である
ごあいさつ
平成19
年8
月、中電配電サポートはおかげさま で創業80
周年を迎えました。 新しい未来に向け決意を新たに、中電グループ の一員として企業の社会的責任を果たすととも に、良き企業市民として一層信頼される企業を目 指して参ります。 私どもの会社は、昭和2
年に株式会社志賀工業 所として産声を上げ、“昭和”から“平成”の時代ま で、中部電力様をはじめ関係各位の温かいご支援 のもと、諸先輩・従業員の知恵と努力はもとより、 多くの協力会社のお力添えによって、連綿と事業 活動を営んでまいりました。 これらの歴史の歩みを貴重な財産ととらえ「中 電配電サポート80
年史」として残したいと考えま した。何卒、ご高覧いただきたいと思います。 これまでの当社の歴史を噛みしめながら、従業 員一同、新たな時代に立ち向かい、幾多の課題に チャレンジし克服してまいる所存であります。 今後とも引き続きご指導、ご協力を賜りますよ うよろしくお願い申し上げます。 平成19
年8
月 取締役社長松田篤典
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8月 株式会社志賀工業所設立 資本金25万円 初めて利益上げる(4,460円01銭) 耐火書庫の効力を各方面から認められる 10月 本社事務所を東京丸ビルに移転 防腐剤「マレニット」の開発により防腐木材の製造 技術を完成 耐火剤の開発と木材高度乾燥法の確立により耐火 木材の製造技術を完成 1月 社名を「日本耐火防腐株式会社」と改称 耐火木材が海軍当局の規格に合格 耐火木材が日本銀行の証券保管庫用に採用される マレニット注入処理の受注増加 (東京電灯・東邦電力・逓信局等) 10月 防腐剤「マレニット」の販路一般化 1月 不良財産整理のため資本金25万円を半減し、 12万5,000円とする 創業以来、初めて配当金が出る(年3分) 3月 「第二日本耐火防腐株式会社」設立総会、 資本金7万5,000円 5月 臨時総会で「第二日本耐火防腐株式会社」の 合併吸収を決議(8月25日登記)、 合併後の資本金20万円 3月 耐火木材製造の核心技術「真空乾燥法」の特許 取得 9月 名古屋工場で防腐作業を開始 (中部・関西方面の需要に対処) 7月 臨時株主総会で資本金20万円を50万円に増資 11月 専務取締役倉田耿介が、取締役社長に就任 昭和 2 年 昭和 3 年 昭和 4 年 昭和 5 年 昭和 6 年 昭和 7 年 昭和 9 年 昭和 10 年 昭和 11 年 当社 創業初期 事業 耐火書庫 製造。 後、技術的改善・改良 重 評価 得 。 東京電灯(株)、東邦電力(株) 電力会社、 通信局 注入処理 注文 増加 、 大 活気 戦前 深川工場。3
m e m o i r s
昭和4年本社事務所 深川工場 東京駅前 丸 移転。 純国産水溶性防腐剤「 」 開発、 優秀性 認 、木柱 注入 防腐剤 王座 。 木柱 防腐剤 注入処理作業(深川工場)。4
関西・中部地方 受注 対応 名古屋市 土地 購入 、 昭和10年 稼働 始 名古屋工場。 メモワール「日本耐火防腐株式会社」に社名改称
昭和 2 年、「株式会社志賀工業所」設立。深川工場を 母体に、木材の耐火・防腐というまったく新しい分野の 事業に船出しました。耐火木材、防腐木材の PR に専 念した初年度、わずかながら黒字となり幸先良いスター トを切りました。その後、技術的改善・改良の進展によ り、事業内容にふさわしい新社名が求められ、6 年 1 月 27 日に臨時株主総会で社名変更を決議。「日本耐火防 腐株式会社」と社名を改めました。同年は、多量の注 文に工場も大いに活気づいていた時期。新開発の防腐 剤「マレニット」注入による電柱の実用成果が認められ、 電力会社や通信局からの受注が加速的に増加していま した。海軍に認められた耐火木材
耐火木材はもともと、海軍の大型艦船に使用すること で知られはじめていた技術。設立当初、海軍からの受 注を期待していましたが、数年間はゼロに等しい状態で した。しかし、社名の由来となった志賀式特許の耐火 剤から、当社独自の研究による木材用耐火剤を昭和 5 年に開発。翌 6 年、海軍に許可を申請し、当局の厳密 な試験に挑んだ結果、「特別優秀」の折り紙が付きました。 海軍の規格に全面合格したのは、当社の耐火木材だけ でした。7 年に入ると、海軍工廠、長崎の三菱造船所な どから構造材用の耐火木材の注文が多量に舞い込むよ うになりました。海軍の信用を得た耐火木材は、証券 保管書庫用の民需へも信用を広げ、日本銀行からの注 文も相当量ありました。ここから昭和 9 年まで、繁忙を 極めた時期でした。創始者・倉田耿介
(くらた こうすけ) 倉田耿介は三重県に生まれ、東京高等商船学校機関 科を卒業後、明治 37 年に日本郵船(株)に入社。大正 2 年に日本郵船を退社後、(株)高田商店、三井物産(株) に勤務、大正 10 年には辛酉商工株式会社を設立すると ともに、数社の役員も兼職しました。大正 14 年、匿 名組合志賀式耐火防腐工 業所に出資、これが当社 設立につながることにな りました。倉田は 社長 の 肩 書 き が 付 く こ と を 好まず、設立後は専務取 締役として事業に専念し ていましたが、昭和 11 年 11 月 30 日、 正 式 に 取締役社長に就任しまし た。H i s t o r y
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増設中の注薬缶および真空乾燥缶が完成(受注に 対処のため) 8月 創立10周年記念配当を実施(年1割) 耐火木材、防腐木材の受注量、著しく増加 家屋の防火壁等に耐火木材を使用することにつ き、内務・大蔵両省より研究調査の依頼を受ける 大量受注にもかかわらず木材・薬品・燃料等の入手 が困難 11月 藤井組運送店を買収、当社発送部とする 木材統制法実施により木材の入手困難 各種産業統制法により運搬能力低下、石炭不足等 により防腐作業もしばしば休止 軍需関連の耐火木材の受注増加。防腐木材について も配電会社、軍需関係の受注増加 6月 海軍大臣より海軍管理工場に指定 深川工場の耐火木材の生産フル稼働 防腐木材は原材料の入手状況と照らし合わせて 受注 3月 深川工場、戦災により全焼 6月 名古屋工場被災、損害は比較的軽微 6月 名古屋工場生産開始 臨時会社応急装置法により特別管理会社となる 耐火木材生産を全面中止、防腐木材のみ生産 7月 防腐剤「マレニット」の製造を再開 昭和 12 年 昭和 13 年 昭和 14 年 昭和 16 年 昭和 17 年 昭和 18 年 昭和 19 年 昭和 20 年 昭和 21 年 昭和 22 年 木材 切 出5
防腐加工設備
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空襲 被災 名古屋市街 復旧 名古屋工場物資不足の中での増産
昭和 12 年、耐火木 材の受注が好調に推移する中、 日中戦争が勃発。呉の海軍工廠から、「潜水艦用チーク 材に耐火性を保持した上で黒色に染色する」という作業 依頼を初めて受けました。非常に難しい作業でしたが、 潜水艦 13 隻分を仕上げることに成功。また、戦争に伴 う鋼材の使用制限により、家屋の防火壁用耐火木材に 関する研究調査の依頼も受けました。一方の防腐木材も 電柱の注文量が著しく増え、13 年 4 月期には戦前にお ける当社最高記録を樹立。しかし、長引く戦争によって 次第に物資が足りなくなり、木材や薬品、燃料などの原 料だけでなく、人手や輸送力の不足も深刻さを増すばか り。15 年には、新規注文を辞退しなければならないほ どの物資不足になっていました。軍需一色の生産活動
昭和 16 年になると、各電力会社とも配電統制管理を 受けて電柱の購入を控えはじめ、8 月には遂に配電統制 令が施行されました。薬品不足や輸送力低下による売 上減少を打開すべく、藤井組運送店を買収。これを発 送部として事態の好転を図りますが、12 月には太平洋戦 争が勃発。木材統制法が実施され、木材や薬品の入手 はさらに厳しくなりました。一方、戦局の拡大につれて 耐火木材の軍需は増加の一途。資材入手は海軍の斡旋 があるものの、燃料調達は至難に近い状態でした。し かし、現実問題として需要に応えねばならず、物資不足 と戦いながら工場設備、とくに乾燥設備の増設が急務と なりました。戦局は年ごとに悪化、軍の統制がますます 強化されていく中、19 年 6 月には当社工場も海軍大臣 より海軍管理工場に指定されました。戦災から復興へ。
昭和 20 年 3 月、東京大空襲により深川工場焼失、6 月には名古屋工場が 2 発の爆弾を被爆。一時は完全休 業の事態に追い込まれながらも壊滅的な被害を受ける ことなく、終戦を迎えました。21 年 6 月には、火災を免 れた名古屋工場の復旧工事が完成。しかし、預金は封 鎖、金融は逼迫、資材は入手不可能という厳しい戦後 経済の中での操業再開でした。翌 22 年、再出発を軌 道に乗せるべく、日本国有鉄道に働きかけた結果、2 月 に 2 万 2000 本の枕木防腐加工の発注を獲得。まさに 闇夜に光、その喜びの大きさは例えようもないものでし た。同年には焼失した深川工場も、再建資金を復旧金 融公庫から借り入れ、防腐剤「マレニット」の製造工場と して整備復興。作業を再開するに至り、ようやく当社は 片肺飛行のような状態から脱却します。1948
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昭和33年H i s t o r y
3月 企業再建整備法に従い、整備計画の許可申請書提出 11月 臨時株主総会で資本金150万円に増資 整備計画完了に伴い特別管理人を解消 4月 臨時株主総会で資本金360万円に増資 5月 深川工場第Ⅱ期復旧工事完了 8月 資産再評価実施(再評価差額400万円) 7月 「日本マレニット株式会社」設立 4月 臨時株主総会で①増資無償配付300万円②増資有償 配付150万円③資本金750万円 11月 授権資本金3,000万円 5月 新株式750万円払込完了、資本金1,000万円、中部電力 資本参加(出資比率50%) 8月 木材防腐特別措置法公布(電柱は全面的に防腐処理) 資産再評価 12月 労働組合結成 2月 深川工場を東京防腐木材に譲渡 持株変更で中部電力の出資201,824株 (出資比率67.3%) 名古屋工場用地を拡張 木材、枕木の受注増大 防腐剤「マレニットC」を開発7
需要増加 対応 製薬部門 独立 、日本 株式会社 設立。 名古屋工場 中部電力向 木柱置 場。木柱・枕木の受注好調
昭和 23 年 6 月、防腐作業が全面的に再開。復旧し た中部配電からの防腐電柱発注は、当面、注入加工の 作業に限られましたが、当社にとって干天の慈雨にも等 しい受注再開でした。一方、国鉄からの枕木発注は順 調に増え続けました。やがて注薬缶 2 基では受注に応じ きれないようになり、24 年 7 月には注薬缶 1 基を増設し て 3 基体制に強化。また、熱量不足を解消するために ランカシャーボイラー 1 基を新設。防腐作業能力は倍増 しました。翌 25 年、国鉄の枕木注入加工が競争入札 から随意契約になり、これに合わせて注薬缶保温装置、 クレオソート油貯蔵タンクなどを増設して注文の増加に 備えました。「日本マレニット株式会社」の設立
昭和 25 年頃から中部配電、関東配電、国鉄などの 電柱を対象に防腐剤注入作業が活発化。防腐剤「マ レニット」の普及に努めるとともに、26 年には深川工場 に「マレニット」の製薬工場を新設。品質改良と製品確 保を進めた結果、「マレニット」に対する注目と需要は高 まっていきました。同年には、政府が電柱や枕木など の防腐加工を義務化する木材防腐特別措置法を検討。 工業技術院では防腐薬剤や木材防腐処理の規格化が 進められ、木材防腐事業の基礎づくりに向け、当社技 術部も規格制定委員として参画しました。このような社 会の動きに応えるために、当社製薬部門の独立を決定。 7 月、自家用原料として製造していた「マレニット」を全 国防腐加工業者に製造販売する「日本マレニット株式 会社」を設立しました。中部電力株式会社の資本参加
創業当初 25 万円の資本金は、昭和 27 年には 750 万 円になっていました。28 年にはさらに 1,500 万円に増資。 これに当たり、創業期以来の主要な取引先であり、当 社発展の原動力となってきた中部電力株式会社から 750 万円の資本参加を受けることになりました。戦後、経営 基盤の安定と強化をめざした当社は、経済支援におい て強力なパートナーを獲得。以後、中部電力関連会社 として新しく出発、事業展開についても同社の大きな支 援のもとに着実な歩みを進めます。 30 年 2 月、深川工場を東京防腐木材株式会社に分 割譲渡。創業以来、当社母体として活躍した 28 年間 の歴史に幕を降ろします。一方、唯一の工場となり、設 備の拡充とフル稼働を続ける名古屋工場は、工場用地 拡張を積極的に推進。9 年の操業当時、約 3,303.90m2 だった用地を、現在の 23,336.36m2まで広げました。 日本 株式会社 主力商品 乳剤。8
空襲 打撃 受 深川工場 復旧後東京防腐木材株式会社 分割譲渡 、 用地拡張、設備 拡充 稼働 続 名古屋工場。 増資勧誘 年8% 配当 約束 優先株式券。1959
昭和34年1960
昭和35年1962
昭和37年1963
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昭和45年H i s t o r y
9月 伊勢湾台風で名古屋工場被災 古木柱の製材工場操業開始 創業者倉田耿介社長逝去、副社長飯泉甚兵衛が取締 役社長に就任 商事部を開設し、防腐剤・プラスチック・家庭用雑貨 を販売 資本金を3,000万円に倍額増資、中部電力(株)の 持株比率74.9%になる 岐阜・岡崎に製造協力工場開設 防腐木材・古木柱製材販売事業とも順調 防腐剤注入工場の建屋を建て替え 硬質ビニールパイプの販売開始 木柱点検工事の受注開始 本社所在地を東京都千代田区丸の内から名古屋市 港区中川本町に移転登記 除草工事の受注開始 保安帽を東海電気通信局に納入 中部電力から接地抵抗低減剤「アスロン」の使用と 販売の実施権を取得 防腐木柱、枕木等の売上不振で無配 建築用防腐土台(耐久土台)を開発、製造・販売開始 木柱の材料が全部当社持ちになる 軽腕金の販売開始 配電線の接地改修工事、電柱札取替工事の受注開始 復配 「アスロン」の販売快調、商事部売上高の20%を占める9
伊勢湾台風 壊滅的 被害 受 名古屋工場。 古木柱 製材工場 回収 古木柱 傷 部分 除 足場釘、看板、針金 取 除 製材 。 新品 比 安価 注文 殺到 。伊勢湾台風襲来と製材事業の隆盛
事業は順調、記録的な利益も期待された昭和 34 年 9 月、悪夢のような伊勢湾台風が襲来。一面湖と化した 名古屋工場は、工場・事務所の崩壊など壊滅的な被害 を受けました。10 月末にほぼ完全操業できるまで復旧し ますが、直接・間接を合わせ損害は甚大なものでした。 翌 35 年、省資源化を狙いにした古木柱の製材事業 に着手。これに注文が殺到、工場の一角に新設した製 材工場が製造するリサイクル木材は毎月 1,000 本以上に。 木材市場に搬入するまでもなく、工場渡しで取引ができ るほどの盛況でした。その後、販売地域、協力工場とも 拡大。40 年代まで業績に大きく貢献しましたが、49 年 のオイルショック以後から急速に低迷、50 年代には製材 工場の廃止に至りました。商事部門を新設
昭和 36 年、経営の多角化と安定化を図って商事部 門を新設。「将来性のあるものは何でも手がけてみる」と いうチャレンジの経営姿勢から生まれた事業部でした。 枕木の予備防腐剤(国鉄規格品)の製造・販売、プラ スチック樹脂製品の販売を皮切りに、40 年代に接地抵 抗低減剤「アスロン」(中部電力・山陽パルプ共同開発)の 商品化に伴い、中部電力から使用と販売の実施権を獲 得。その後、「アスロン」は商事部門の基幹商品に成長、 44 年に配電線の接地改修工事を手がける契機に。 また 42 年、代理店として軽腕金を国鉄などに販売開 始。これが商事部門躍進の原動力となり、ドライアース 棒の商品化、アルミ多重式の接地シートや鋼管柱の販 売など積極的に事業を展開、45 年度には年商 1 億円を 突破するまでになります。工事業務の開始と防腐事業の奮闘
配電線の接地改修、接地測定、支障木伐採など、当 社が携わる中部電力の多様な工事業務は、昭和 40 年 の木柱点検(地面に接する木柱部分の防腐処理)から始 まりました。この業務委託により、防腐木柱の製造から 維持管理、古木柱製材の一貫した作業体系が完成。ま た、施工管理に向けた中部電力各支店への駐在員配置 や協力業者の育成が、工事部門拡大の基礎固めとなり、 その後の発展につながります。一方、30 年代に活況だっ た防腐事業は、40 年代になると木柱や枕木自体の生産 量が低迷。これに対応するため、新しく建築用防腐土台 (耐久土台)の開発を行い 42 年から生産を開始しました。 48 年まで年間約 2 万本だった受注も、52 年には 10 万 本を達成。着実な売上増により木柱、枕木の不振をカ バーします。10
名古屋工場敷地内 浮 電柱。 商事部門飛躍 原動力 軽腕金 接地抵抗低減剤「 」 防腐注入缶 土台用材木 入 。1971
昭和46年1972
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本社事務所の一部を中部電力南営業所(現熱田営業 所)内に移転 配電線の接地測定工事、緑化工事、カラー舗装工事 等の受注を開始 飯泉社長が退任し、森昭英が取締役社長に就任 接地工事のアース棒、接地シートの販売開始 鋼管柱の販売開始 1月 建設業(とび・土工工事業、造園工事業)の許可 11月 公害防止対策として工場の排水処理装置を設置 不況の中、建築用防腐土台の売上増加 防腐部門の売上40%増加 配電線の保安伐採工事、防蛇テープ取付工事等の受 注開始 防蟻工事(白アリ駆除予防工事)の受注開始 12月 建設業(塗装工事業)の許可 工場の緑化対策を推進 11月 森社長が退任し、鵜飼祥一が取締役社長に就任 1月 初めて経営方針を制定 5月 ポリシート等を浜岡原子力発電所に納入 静岡営業所、飯田連絡所を開設 工場社宅を一部撤去し資材置場に転用 森昭英前社長逝去 3月 非常食品を販売開始 4月 塗料フィッショラックの販売開始 運河用地を一部(3,779m2)を返還 7月 隔週週休2日制を実施 工事用仮設プレハブハウスの販売開始 9月 建設業(塗装工事業、電気工事業)許可 2月 工場の社宅・寮を全撤去し資材置場に転用 9月 建設業(建具)許可 11月 名古屋工場の事務所新築落成 12月 アルミサッシ等の建具内装工事の受注開始 昭和44年 始 接地改修工事 工事部門 主力工事 。 昭和54年 非常食品 販売開始。 多様化 取扱商品 工事新規工事の開拓
配電線の接地改修と電柱札取替の両工事が始まっ た昭和 44 年以降、工事部門の業務拡大が進みました。 とくに接地改修工事は「アスロン」の販売と相まって工事 部門の主力工事となっていきました。46 年には緑化工事 開始。47 年、中部電力は関連会社として株式会社中部 環境緑化センターを設立、当社は協力会社となって業 務推進を図ることになりました。接地測定業務の開始も 46 年。東海電気工事株式会社(現株式会社トーエネッ ク)の委託によって始まり、年々業務量が増大、工事部 門の基幹業務に育っていきます。46 年 6 月には中部電 力南営業所(現熱田営業所)に営業・工事・管理各部門を 移転、熱田分室としてスタート。その後、業務多角化の 推進による要員増に伴い、正式に本社事務所として業務 を運営することになります。工事業務の多様化
新規工事分野の開拓とともに、新しい工事技術の開 発に取り組み、配電線の保安伐採工事に加え、変電所 の BN ケーブル、CV ケーブルの防蟻工事(白アリ駆除 予防工事)、カラー舗装工事、塗床工事、法面着色工 事など、業務は多様に広がります。50 年代になると、と くに配電線の保安伐採、防蟻工事が急速に増大。防蟻 工事はその後、一般住宅の需要にも応えていくことにな ります。また、50 年代半ばにめざましい結実を見る、鉄 鋼製品の防食を目的とする金属溶射工事の開発も、40 年代終わり頃から始まりました。工事部門は中部電力 (株)関係の仕事を中心に、さらに内容と実施地域の 拡大により着々と実績を上げ、52 年度売上では全体の 44%を占めるまでになります。経営基本方針の策定
52 年 11 月の臨時株主総会において森昭英社長が辞 任、新しく鵜飼祥一が社長に就任しました。53 年の年 頭、鵜飼新社長は「低成長時代を迎え、企業には従来 の路線を踏まえた堅実な経営が要求される」と言及。『誠 実をもととした堅実経営』『努力を重ねた業績向上』『明朗 な職場づくりと環境整備』の 3 点を簡略化、『堅実経営、 業績向上、環境整備』の経営基本方針を発表しました。 さらに新年ごとに「飛躍」「挑戦」などの標語を提示、年 度活動方針を象徴的に示していきました。なお、森昭英 氏は辞任直後の 53 年 1 月に逝去、社葬によってその功 績を讃えました。森昭英氏は 46 年 6 月に社長就任、「業 務の多様化」を提唱して自ら業務開拓の先陣に立ち、接 地測定や保安伐採工事を請け負い、今日の工事業務の 礎を築いた人物でした。12
鵜飼祥一社長 、新年 迎 年 活動方針 標語 提示 。 昭和56年 取扱商品 配電用軽量鋼管。1981
昭和56年1982
昭和57年1983
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2月 作業用被服の販売開始 3月 日耐工事協力会の設立総会開催 7月 「株式会社ニッタイ」に社名変更 9月 「ニッタイ同友会」を発足 12月 配電用軽量鋼管(日本アーム製)の販売開始 7月 大町営業所管内保安伐採工事で感電死亡事故 9月 建設業(建具工事業)許可 10月 中部電力は、配電線の保安伐採業務の委託方針決定 12月 送電線用鉄塔材の販売開始 2月 中部電力は、配電線の保安伐採業務の中電静岡工営・ 長野工営への移管方針決定 3月 防腐工場の運河借用地を半分返還 4月 LNG付臭剤の販売開始 9月 工事部門作業安全細則を制定 10月 商品運搬契約を柘運送と締結 2月 製材工場の建物等を撤去 4月 建物管理業務の受注開始 9月 高所作業車導入の助成制度を制定 10月 借入金を完済し無借金経営となる 1月 給与計算業務をCCSに委託 3月 工場の運河沿い借地を全部返還 4月 火力燃料タンクの防食工事の受注開始 防食工事を浜岡原子力発電所から受注 7月 配電用軽量鋼管(ヨシモト・ポール製)の販売開始 9月 建設業(内装仕上工事業)許可 6月 水力発電所用ラバーダム工事の受注開始 シルトフェンスの販売開始 8月 船舶接岸用防舷材の販売開始 11月 「委託作業安全推進会議」が発足 8月 創業60周年記念式典を開催 12月 工事請負先認定基準を制定 伐採高所作業者技能認定制度を制定 4月 送電線用ポリコン管の販売開始 10月 事務用制服の販売開始 委託先安全表彰基準を制定 11月 営業本部をテレピアビル内に移転 津・岐阜・岡崎営業所を支社に改組 1月 名古屋工場敷地の一部について佐川急便株式会社 と土地賃貸契約を締結 6月 鵜飼社長が退任し、野々垣俊介が取締役社長に就任 11月 飯泉甚兵衛元社長逝去 12月 伊藤伊株式会社より名古屋工場敷地における物流 センター建設の申し入れを受ける13
老朽化 名古屋工場 事務所社屋 新築。 昭和63年11月、新築 「 」 営業本部 移転。 昭和64年 平成元年「株式会社ニッタイ」に社名変更
商品の多角販売を展開する商事部門、業務の拡大 と多様化を推進する工事部門の躍進はめざましく、昭 和 55 年度の業務割合では、両部門を合わせて全体の 70%を占めるまでになりました。さらに 50 年代後半に突 入すると、工事部門の売上は全体の半分を占めるように なり、社内体制の整備強化と協力会社のレベルアップ が緊急を要する重要課題として浮上。このため、協力会 社の結束と充実を目的に「日耐工事協力会」(後にニッタ イ工事協力会に改称)を発足、56 年 3 月に 27 社による 設立総会を開催しました。このように業務内容が著しく 変化してくると、実態を的確に表す新社名の必要性が高 まります。そのため、「日耐」と親しまれてきた略称をカタ カナに置き換え、56 年 7 月に社名変更。「株式会社ニッ タイ」が誕生しました。保安伐採の正式受託と建物管理の開始
昭和 57 年 7 月、中部電力は配電線の保安伐採業務 について調査∼交渉∼監督∼伐採の一貫処理、および 「一支店一関係会社」の方針を決定。これに伴い、長野 支店・飯田支社は中電長野工営に、静岡支店は中電静 岡工営に業務移管を命じられ、当社は東海三県の担当 となりました。12 月には「配電線関係保安伐採業務委 託計画」が作成され、5 カ年計画により伐採区域の管理 体制を整備強化することになりました。 59 年には建物管理部門を新設。中部電力建物の清 掃、環境測定、付属設備の保守・点検などを 2 カ年計画 で行う建物管理業務を受託しました。初年度 1 億 8,800 万円だった売上は、61 年度には 4 億 5,000 万円に。3 年間で売上 3 倍と業績を伸ばしました。工場合理化と安全管理体制の整備・充実
木材防腐部門の低迷に伴い昭和 52 年に名古屋工場 運営委員会を設置、対応策や合理化策を進めていまし た。57 年には、販売不振と設備老朽化などから製材業 務を廃止。59 年、製材工場の建物設備、構内施設の 撤去と整理を行い、跡地を名古屋港管理組合に 3 段階 に分けて返還、原木置場として活用を図りました。 年々受託範囲が広がる保安伐採業務に対して、要員 の増強とともに安全管理の整備・充実を図るため、昭和 58 年に「工事部門作業安全細則」を制定。61 年に改定、 平成 7 年には「安全指針」と改め、周知の徹底を図って います。また、工事部門の安全管理は常に協力業者と 一体となって推進。工事安全の啓蒙・啓発などに努める とともに、請負先の優良工事を推進するために、諸制 度マニュアル類の発行・整備に関する継続的な改善を現 在に至るまで続けています。14
保安伐採作業 熱田神宮 創業60周年 式典 行 。 創業60周年披露 談笑 鵜飼社長。1990
平成2年1991
平成3年1992
平成4年1993
平成5年1994
平成6年1995
平成7年1996
平成8年1997
平成9年H i s t o r y
4月 伊藤伊と物流センターの賃貸基本契約を締結 6月 防腐工場および旧商品倉庫を解体、撤去 9月 物流センター建設工事を永楽開発・小原建設・日鉄 ライフJVおよびトーエネックに発注 7月 伊藤伊と物流センターの賃貸契約を締結 物流センター竣工 8月 伊藤伊から物流センターの建物管理業務を受注 1月 「効率経営」「相互信頼」「活力経営」とする経営方針を 発表 7月 本社機能をヤハギ東桜ビル6階に統合 本社に建物管理部、工事統括部を設置 東海銀行との振込業務の電送を開始 10月 創業65周年行事で伊勢湾クルージングを実施 11月 発電施設・研究施設用特殊扉・ハッチの製造・据付工 事の受注開始 12月 建設業(ガラス工事業)許可 4月 営業、経理業務をLANシステムで機械化 6月 野々垣社長が退任し、若原俊英が取締役社長に就任 7月 名古屋・三重・岐阜支社に部制を導入 静岡・長野営業所を支社に、工事所を営業所に改称 中部電力安全表彰において社長表彰受賞(岡崎支社) 10月 ニッタイ営業部安全衛生協力会発足 4月 中部電力から警備業務を初受注(三重支社) 6月 警備業務の受託と監査役任期について定款変更 9月 物流センター工事資金を完済し無借金経営となる ナゴヤドームの肩屋根工事を受注 6月 持家融資制度を制定 6月 出張所・事務所の呼称を営業所に改称 10月 医療施設の電磁波・放射線シールド工事の受注開始 11月 野々垣俊助前社長逝去 4月 磐田営業所を廃止し、掛川・浜松両営業所を新設 7月 中部電力安全表彰において社長表彰受賞(三重支社) 1月 新経営理念・経営方針の発表 3月 事業所安全表彰制度制定 7月 組織の大幅改訂 10月 本社所在地を名古屋市港区中川本町から同市東区 東桜二丁目へ移転登記 10月 ニッタイ70年史発行 11月 お客様感謝月間の実施 11月 70周年記念行事「客船 飛鳥 による船上記念式典と クルージング」の実施15
物流 建設 具体化 55年間稼働 防腐工場 撤去。 創業65周年 祝 「 号」 伊勢湾 全社員 楽 。16
平成3年7月、名古屋工場跡地 完成 物流 。 本社 LAN 導入。 中部電力関係以外 商圏拡大 目標 掲 、 名古屋 肩屋根工事 成果 。木材防腐事業からの撤退
平成の時代が始まると同時に、昭和とともに去った当 社の一つの歴史があります。それは、創業事業であった 木材防腐事業です。当社の基幹事業として激動の昭和 時代を歩み続けたものの、防腐木材の製造量は平成元 年には年間 2,000 本まで減少、営業利益は赤字を重ね るばかりに。時代の流れには抗することができず、翌 2 年 5 月、木材防腐事業は 55 年間の活動に幕を降ろすこ とになりました。工場跡地については、同年 2 月に伊藤 伊株式会社(現株式会社あらた)と「物流センター賃貸借 に関する基本契約書」を調印。時はバブル経済最盛期。 建設ラッシュの人手不足、鋼材不足の中、9 月に終えた 起工式から 10 カ月後の 3 年 7 月末、突貫工事によって 物流センターは完成。8 月 1 日から運用が始まりました。社内諸制度の近代化と新しい波
平成 4 年の本社事務所移転に伴い、5 年には社内諸 制度の近代化を次々に実施しました。1 月、それまで委 託であった給与計算をパソコン導入により社内処理化。 4 月、LAN 対応各種汎用ソフトを採用、営業∼経理の 一貫処理の機械システムを導入。12 月には、オープン ショップ制であった労働組合の充実整備を進めてきた結 果、ユニオン制の新生「ニッタイ労働組合」が誕生。第 一歩となる第 1 回臨時大会を開催しました。 一方事業では、昭和 59 年に技術部を統合した営業 部の躍進がめざましく、52 年度 1 億 8 千万円だった売 上が 61 年度に 18 億 9 千万円に、平成 6 年度には 36 億 4 千万円と急速に伸びてきました。また、同年には中 部電力三重支店の警備業務の一部受注を開始。これに 伴い、全面受注への態勢も整備しました。バブル後の着実な業績向上
平成 4 年にバブル経済崩壊、日本全体の企業業績 が低迷する中、当社の売上高・経常利益はともに 4 年 連続で過去最高額を更新しました。7 年度の全体売上 は 98 億 8 千万円。当面の目標を 100 億円に据え、中 部電力関係以外の新商圏開拓にも力を注ぎ、ナゴヤ ドームの肩屋根工事や三重県立看護大学のサッシ工事 などを獲得していきました。同時に、100 億円企業に ふさわしい経営基盤の整備に取り組み、平成 9 年、創 業 70 周年を迎える機に<幸せの追求><信頼の獲得 ><未来への挑戦>の 3 つの新たな経 営理念および 経営方針を発表。同年にはその後「安全表彰制度」の 制定、「就業規則の改定」の施行、組織の改定など次々 と組織整備の実を上げるとともに、「ニッタイ 70 年史」 の発行や記念行事など 70 周年を祝いました。1998
平成10年1999
平成11年2000
平成12年2001
平成13年H i s t o r y
4月 平成9年度売上高100億円突破 5月 粉砕機搭載処理車による伐採木チップ化処理試験 を実施 6月 中部電力から独身寮の総合管理を初受注(三重支社) 7月 建設業(土木工事業、建設工事業、大工工事業、石工 工事業、屋根工事業、タイル・レンガ・ブロック工事 業、鋼構造物工事業、舗装工事業)許可 中部電力安全大会において支店長表彰受賞 (名古屋支社) 9月 台風7号災害を不眠不休で早期復旧 10月 資格試験合格者にお祝い金制度初適用 1月 33kV配電線の保安伐採工事を実施(半田市) 4月 中部電力から保養施設の運営管理を初受注 (岐阜支社) 6月 若原社長が退任し、舘内俊治が取締役社長に就任 定款を一部変更 焼津営業所の廃止、藤枝営業所の新設 7月 固定式、車両式2方式の伐採木チップ化実証試験を 開始 中部電力安全表彰において社長表彰受賞(岐阜支社) 本社工事統括部、名古屋支社工事部において組織変更 加茂営業部を支社直結事業部化し金山営業所を統括 9月 保健師による健康相談・指導を開始 1月 初の全社経理会議を開催 2月 営業部組織を改定 3月 伐採木のチップ化実証試験の結果報告 生ゴミ処理機の試作機完成、実証試験を開始 6月 定款を一部変更 7月 中部電力安全表彰において支店長表彰受賞 (名古屋、三重、静岡支社) 8月 工事管理システムの再構築を決定 9月 集中豪雨により、関係会社の日本マレニット(株) 名古屋支社が床上浸水 11月 全業種において特定建設業許可を取得 1月 大雪による雪害復旧作業応援を実施 2月 伐採木のチップ化本格導入 3月 自己申告制度新設、チャレンジシート実施 4月 新工事管理システム、供用を開始 5月 初の全社支社長会議開催 6月 若原相談役退任 名古屋支社移転 10月 初の従業員意見交換会開催17
工事部門改善提案発表会 29社77名 参加 開催 。 第4回中部電力関連会社親善綱引 大会 参加18
伐採作業 安全 技術向上 目的 実技研修 実施。 平成11年、1級建築施工管理技士資格 取得 表彰 受 石崎氏売上高100億円突破
平成 10 年 4 月、計画より1 年前倒しで売上高 100 億 円を達成。工事、建物管理、商品、不動産賃貸の 4 部門ともに前年度売上を上回った結果、合計 101 億 2 千万円となりました。しかし、これをピークに当社も平成 大不況の波や、中部電力グループの再編成の動きに翻弄 され、その後、売上高 100 億円の目標には至っていない。 一方、経営基盤の一層の強化や効率化の努力はたゆ みなく続けています。11 年、事業活動拡充のために焼 津営業所を廃止し藤枝営業所を新設、業務効率化のた めに本社工事統括部、名古屋支社工事部の 2 グループ 化など組織を変更。12 年、環境部と管理担当を営業 部に新設、併せて開発グループを建材グループに統合。 13 年には新工事管理システムの供用を開始し、全社 IT ネットワーク化が一気に加速しました。リサイクル事業へのチャレンジ
伐採業務によって発生する伐採木について、資源の 再利用の観点から肥料などに有効利用するリサイクル などの検討を続けていましたが、平成 10 年 5 月、それ まで持ち帰っていた伐採木をその場でチップ化処理す る試験を開始。翌 11 年、チップ化した伐採木のリサ イクル業者回収という処理方策を視野に、固定式、車 両式 2 方式のチップ化装置による実証試験を開始。12 年に中部電力に試験 結果報告を行いました。また 11 年、微生物分 解による完全消滅型ゴミ処理機の製造 販売権を取得。プロジェクトチームによる性能試験に 取り組み、12 年には試作機による実証試験を開始しま した。より小型化(日処理量 1,350kg → 50kg)した試 作機は、普及タイプとして商品化が期待されています。環境の世紀に向かって
地球温暖化やエネルギー、資源など 21 世紀は地球 規模で環境問題の解決を図る「環境の世紀」と呼ばれて います。企業の環境問題への取り組みが社会的な要請 となる中、中部電力では取引先決定に当たり、平成 15 年度から取引先企業の環境対策への姿勢および商品の 環境負荷を評価して発注する「グリーン調達」を実施す ることになりました。当社は中部電力グループの一員とし て、また企業市民として環境問題への取り組み姿勢を 明確にするため、14 年 12 月に「環境方針」を制定。安 全とともに環境を当社の最重要課題の一つと位置づけ、 環境にやさしい製品やサービスの提供をめざすとともに、 全従業員が環境を意識してそれぞれの業務を遂行するよ う啓発に努めています。 創立70周年 祝 「名古屋─神戸 ・ 」。船上 記念式典 行 。H i s t o r y
1月 豪雪による復旧作業応援のため正月返上 2月 鵜飼祥一元社長逝去 4月 街路灯柱の模擬用ポールの販売開始 6月 定款を一部変更 中部電力との連結決算開始 10月 名古屋工場跡地の一部について株式会社三河屋と 事業用定期借地権設定契約を締結 中部電力が推進する中電長野・静岡工営の吸収分 割について同意・承認 12月 環境方針の制定、グリーン調達実施決定 4月 チャレンジシートへの社長回答はじまる 8月 統合へ向け、中電長野・静岡工営と配電線の保安伐 採業務現場研修を実施 10月 中電長野・静岡工営の配電線の保安伐採部門を吸収 分割方式により承継 「コンプライアンス推進委員」および「相談窓口」を設置 12月 三河屋に借地権設定した工場跡地に食品スーパー開店 2月 中部電力が当社全株式を買取、完全子会社に再編 4月 作業服がリニューアル 6月 舘内社長が退任し、松田篤典が取締役社長に就任 7月 中部電力安全表彰において支店長表彰受賞(名古屋支社) 10月 建物管理部門を吸収分割方式により (株)永楽開発へ移管 配電線の定期巡視業務の受注開始 12月 豊川営業所を新城営業所に統合 1月 東京電力から配電線の保安伐採工事を初受注(静岡支社) 4月 「個人情報保護基本方針」「個人情報保護規程」を 制定 6月 舘内相談役退任 7月 組織変更により飯田支社を長野支社に統合 10月 決裁規程を改正 12月 中部電力が推進する、(株)永楽開発からの配電用地 部門移管について同意・承認 3月 システム建築工事の受注開始 7月 配電線の定期巡視業務本格稼働 9月 事業所社長督励全日程終了(2005年12月∼) 中部電力から上越火力線支障木伐採工事を初受注 10月 (株)ニッタイから中電配電サポート(株)へ社名変更 配電用地業務承継に伴い組織改定 豊橋営業所を開設 伊勢営業所を移転 12月 配電線の定型設計業務の受注開始 内部統制機能強化に向けた規程整備を推進 ITソリューション化整備を推進19
2002
平成14年2003
平成15年2004
平成16年2005
平成17年2006
平成18年 岐阜県美濃・飛騨地方 中心 豪雪 、 倒木 電力設備 被害 発生。 中部電力 応援要請 応 復旧応援 従事 。 台風21号 記録的 豪雨 三重県南部 中心 災害 発生。 三重支社事務所周辺 道路 冠水 一時孤立状態 。 歩道幅 狭 場所 無電柱化 変圧器等 設備 設置 街路灯柱 納入20
当社 社有地 建設 進 食品 「 店」 。 東京電力 配電線保安伐採工事 初受注。 下村水力発電所 設置工事 第1期工事 無事終了。 舘内社長 北川常務 現地 視察 訪 。新生ニッタイ発進
平成 14 年、中部電力は「グループ経営強化」の施策 のもと、電気事業の補完業務に関するグループ全体で の効率的業務態勢を構築すると発表。類似関連業務 再編の方針に基づき、静岡と長野の両工営を会社分割 および合併方式により、当社、シーテック、中部防災、 永楽開発の 4 社に統廃合することを決定しました。こ れを受けて 15 年 10 月、中電静岡工営と中電長野工営 から配電線の保安伐採部門を吸収分割方式により継承。 両工営から 57 名の転入者を迎え、ここに新生ニッタイ が誕生しました。さらに翌 16 年 2 月、中部電力がかね てより進めてきた一般株主からの当社株式買い取りが完 了。当社は中部電力 100%出資による完全子会社となり、 グループの一員として電力事業の発展に努めることにな りました。持続的発展可能な社会のために
環境問題の高まりとともに、持続的発展が可能な社 会づくりに向けて企業経営にも CSR(企業の社会的責 任)が重要となりました。平成 14 年に中部電力の指導 のもと「コンプライアンス宣言」を行い、続く15 年 4 月 には、「中電グループコンプライアンス推進協議会」に発 足とともに加盟。同年 10 月、社内に「ニッタイコンプ ライアンス推進委員会」およびコンプライアンスに関す る「相談窓口(ヘルプライン)」を設置し、14 年に制定し た「従業員の行動指針」と合わせ、さらに法律やルール の順守体制を強化しました。17 年には「個人情報保護 基本方針」および「個人情報保護規程」を制定。当社も 「個人情報取扱事業者」であるため、個人情報の取り扱 いについてきめ細かく取り決めを行い、遵守の徹底を図 りました。中電配電サポート
(株)へ社名変更
平成 18 年、中部電力の「グループ経営強化」施策進 展に伴い、永楽開発の配電用地部門の当社への移管が 決定された。10 月、206 名の転入者を迎えて人員が倍 増した中、「ニッタイ」から「中電配電サポート」へと社名 を改め、名実ともに中部電力の配電業務を補完する会 社になり、一層大きな責任を担う立場となりました。12 月、会社法(5 月施行)に対応する内部統制機能強化と して組織管理規程、危機管理規程などの整備を推進す る一方、配電用地部門の受け入れに伴い通信回線を増 強しました。また、内部統制強化の一環として営業経理 一貫管理システムの導入も同時に計画。19 年 3 月、業 務の効率化を図った勤務管理システムなどとともに稼働 を開始しました。21
中部電力 歴史 子会社 、統廃合 嵐 中 存続 。 私 課 最大 責務、 秘 思 抱 。 、 平成不況 中、存続価値 会社 、他 会社 質 良 仕事 行 体 質 持 必要 。具体的 、少数精鋭・高 賃金 、勤勉 責任感 社員 仕事 常態化 最重要 考 。幸 、 松田社長、菅原常務 優秀 方々 力 、実質的 会社 存続 、良 社風 継承 80年 命脈 保 本当 嬉 思 。 80周年 目前 社名 新 。「 」時代 、会社 名 由来 「日々耐 」 略 冗談 言 、「中電配電 」 名 良 名 思 。略称 「CHS」 、私 、 客様 親 込 「中配 」 呼 、絶大 信用 社会 誰 愛 会社 願 。 90年、100年 目指 、 、一番問題 感 「対話」 絶対的不足 。 中部電力 内 、現代 日本社 70周年 迎 際 、私 単 記念行事 開 催 、何 戦略的 意義 節目 考 。 経営理念 見直 、会社 方向 誰 理解 分 変 。 幸 、現在 受 継 3 理念 。当時「 追求」 第 一 掲 注目 。企業 以上 売 上 伸 利益 上 当然 、 以上 優先 「企業 人 」 言 従 業員 会社 原点 返 、従業員 会社 発展 。 考 、理 念 一番目 持 。 在任時 一番 思 出 、売上100億円 達成 。 本当 感動 。平成5年社長 就任 、私 「100億円 、夢 夢 高 目標 掲 、魅力 会社、働 職場 。」 呼 、 呼 見事 応 。共通 目標 向 一 丸 頑張 。 総力 結集 夢 実現 。 時 、 力 結集 対 頭 下 思みなさんの頑張りに頭が下がった100億円達成。
若原 俊英
元社長 (在任期間:1993年6月∼1999年6月) 。 、 当時 感動 呼 起 、喜 浸 感謝 。 80年間、 会社 紆余曲折 。 、先輩 幾多 課題 挑戦 、克服 積 重 中 現在 多角化 実現 。「 」 名 、少 寂 覚 、昭和 激動 荒波 乗 越 、 誇 会社 生 続 。先人 努 力 軌跡 歴史 何 失 今日、名 変 、歴史 重 、知恵 工夫 伝統 受 継 、今後 発展 続 願 。「対話」
のもとに、
ますますの発展をめざしてください。
舘内 俊治
前社長 (在任期間:1999年6月∼2004年6月) 会全体 問題 。 普及 一 方的 情報伝達 普通 、経営者、管理者、社員 立場 問 、対話 不足 不祥事 続出 。私 「論 語」 好 、論語 言 換 対話集 、 互 自由 意見 交 討論 行 自己研鑽 。最後 、 論語 一句 謹呈 、80周年 今後 発展 思 。 「子曰 、君子 言 以 人 挙 、人 以 言 廃 」(君子 言 人 抜擢 、 、位 低 、 人 言葉 捨 )言 言 言論 自由 孔子 大切 。80周年史発刊に寄せて
D a t a
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0 63.03 75.90 76.25 82.53 98.81 98.86 101.28 85.02 92.41 87.85 75.02 65.68 72.28 61.62 H3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 年度 20 40 60 80 100 120 億円 55.3 74.59 資産管理部門 建物管理部門 営業部門 工事部門 用地部門売上高の推移
経常利益の推移
2.14 4.20 H3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 年度 0 1 2 3 4 5 6 7 億円 5.49 6.08 6.10 6.15 6.11 4.74 4.05 3.28 2.32 3.24 3.50 3.40 4.14 4.36従業員数の推移
153 163 174 180 181 H3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 年度 0 100 200 300 400 500 名 193 192 200 211 216 203 198 234 210 232 445本社 〒 461-0005 名古屋市東区東桜 2-10-1 ヤハギ東桜ビル 6F 総務部/経理部/業務管理グループ TEL 052-933-7650 FAX 052-933-7656 営業部 TEL 052-933-7654 FAX 052-933-7657